2018年05月03日

トイレの燕の巣を掃除した人 (駅はみんながかかわる場)


トイレの燕の巣を掃除した人

(駅はみんながかかわる場)


近くの人がトイレの燕の巣を掃除していた,あそこは市で建てたものであり障害者団体の人達が毎日掃除しているのである。
でも今回は近くの人が掃除していた、去年は駅舎の中に巣を作って汚れた
その時原町から来た駅員が苦労していたのである。
やはり今頃になると必ず燕の巣の問題が起きるのだと思った

駅は地区の人も相当かかわっている,花壇の手入れなどしているし前の自転車屋ではプラタンの花に水やりをしている,駅内の掃除はJRに頼まれた商工会の観光部の婦人がしている,このようにすでにいろいろな人達がかかわっているのである
駅は公共的空間であり人が交わる場所だからそうなっている

駅の特徴は外部の人がくるから外部の人とも交わる場所なのである。
それが駅の特徴である。外部の人を招く場ともなっている
つまりはじめてくる人だと駅に第一印象をもつ場だとなる
ただ外部でも意外と鹿島出身の人達もくる
外に出た人達である。だから親戚がいて来るのである。
そういう人達はまた違っている

今日駅であったのは自転車で知り合った変な人である,知的障害者なのかしらんがニートであり仕事をしていない,そういう人も今はどこにでもいる
ただあれはこの辺では目立つ人である。
その一人は兄であり後から弟が来た
その兄もなにか弟とにた感じである。
なんでも鮎川まで牡蠣の仕事で行った,それで交通費をとられて金にならないと騒いでいた
電車で仙台まで行きそれから石巻で行きそこから鮎川までバスで行くという
三時間以上かかってしまう距離である。鮎川までも遠いのである。

なぜそんなところまで働きに行っているのか
この辺には仕事ないんだよなという
でもそんなところまで仕事に行くだろうか?
その人はやはりまずコンビニなどで働けない人である。人と接してはとても働けないのである。そういう人は東京に出て建築の仕事をしている人もそうである。
あの人も仕事がないと東京に行ったのである。
何か仕事がこの辺ではなくなってきているのだろうか?そうなっているのだろう
もともといい仕事はなかった所である

一番いいのは東電の仕事だったのである。
あれはほとんど仕事しなくても金になる
まず現場に行ったら放射能が危険なので5分も仕事できない,すぐに交代であり休む時間の方が多いのである。それで休んで寝てばかりいたとか言う人がいた
意外ときついようで楽なのである,それで金は二倍とか三倍になる
だからこの辺では東電で働いた経験のある人が実に多いのである
それだけ金になる仕事だったのである。
そうして東電の影響が大きかったのである。
田舎の問題はまともな仕事が少ないということである。
農業とか漁業では金にならないということで漁業者は漁業権を売り渡して補償金で暮らしていたことが事故後にわかったのである。
それも結局金になる仕事がなければそうなってしまうのである。
そこに危険でも原発が建てられた事情があったのである。
いくら農業がどうだと言っても現実問題としては金が欲しいからそうなったのである。
原発はそれだけ金になる場だったのである。

あの人たちは参考にできない,スマホを弟が使っているし知的障害者とも違う,ただ知的障害者でも器用にゲームをしたりスマホを使いこなしている人がいる
だからどうなっているのかわからない,あの人達はなんらか問題があり福祉の対象になっていて金はもらっているのだろう。
ただそんなところまで仕事に行ったのは父親が死んだとかなり行かされたのである。

とえく駅はみんながかかわる場所だから意外とその街のことも情報も集まる場である。
みんながかかわるということはみんなの駅となりみんなが良くしようとすることで街も良くなる,何かそうした場が今は街でもない
やはりみんなが街を良くしようとすると街は良くなる
そういう意識が大事なのである。そういう意識がまずないと街は良くならない
ただ何かするにも人間は動機が大事である。
自分は鉄道の旅が長いから鉄道がマニアではないにしろ好きなのである。
それで鉄道会社に世話になってるから恩返しだともなる
そういう動機があってしているのである。
まずボランティアになると金もらえないのだから何か動機がないとできないとなる

ただ正直高速のセディティは警備員が十人もいる,この差は本当に大きい
それだけあそこは人の出入りがあるということなのだ
だから商売にもなる,駅はそれで無人駅になる
でも何か駅は人間的な場所でありかえって人が少ないから案内したり何か人間的交流できる場だなと思った
駅でも大きな駅だとできない,すでに原町のような駅は専門に掃除する人もいる
だからあういう場所ではなかなか人間的交流はできない
ただ人が通りすぎるとういだけになりやすいのである。

タグ:駅の役割

summer mountain and sunny beam


summer mountain and sunny beam

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It looks like a net and fish


抽象画は必ず具象画と結びついている,なにかわからないものでもこれは山に見えたり川に見えたりしている,そう見ることで抽象画でも納得するのである。
人間は何かわからないと不安になる,これが山であり川であり花であるというとき安心するのである。
抽象画は本当に何なのかわからないものがある,するとこれは何なのだとなる
森の抽象画を大量に作ったがそれはあくまでも森として見る
しかし全く抽象画だと何を示しているのかわからないものがある
でも価値が高く認められているものがある
その判断をどうしてしているのだろうともなる

今回のは山に見えるし夏の暑い日差しにも見える,赤がそうさせているのである。
これもただ変形させたものなのである。
ゼロから無から作り出したものではない,インターネット上にあるものを変形させただけなのである。


Abstract paintings are always associated with concrete paintings, even if they do not understand, this is visible in the mountains or in the river, so it is convincing even in abstract painting by seeing that.
People feel uneasy if they do not understand something, they feel secure when this is a mountain, a river and a flower.
There is something the abstract painting does not know really, so what is this

I made a large amount of abstract paintings of the forest but it seems as a forest only
But there is something that I do not know what it shows as abstract painting at all
But there are things that are highly valued
I wonder how they are doing that judgment

This time it looks like a mountain and it looks like hot summer sunlight, red is doing it.
This is also just deformed.
It just transformed what is on the Internet, not from zero to none.

時代の変化についていけない (人間は急激に変化することに弱いー ただ変化に対応するものだけが生き残る)


時代の変化についていけない

(人間は急激に変化することに弱いー
ただ変化に対応するものだけが生き残る)

ここ十年の変化は一身上でもあまりにも激しかった,人間は突然来ることに弱いのである一身上では家族が認知症になったときあまりのショックだった
それは徐々になったのではないからである。
突然暴力になって発狂したような状態になったからである。
この時の衝撃はあまりにも大きかった
それから介護になり二人の介護で看取るまで四苦八苦してきた
そのことをプログに書いてきた

その間に津浪があり原発事故がありまわりでも信じられない大変化に見舞われたのである自分は津浪の被害もないし原発事故で避難することもなかった
でもそのまわりい変化も信じられないことだったのである。
人間は激変するとそれにもう対応できない,ただ茫然としているだけになる
津浪でも逃げられずに死んだのは急激なことに人間は弱いからである。

●家族が認知症になる
●犯罪にあう
●親戚が借金して責められる
●自分の病気で二回入院

こういうふうに四苦八苦してきた,同情は一切なかった,ただ金を欲しいという人だけであり大金も失った
こういうことは予期せぬことであり対応できなかった,それも自分のカルマだった
しかしなんとか乗り越えて今になると楽になった
でも最近の失敗は銀行で投資したことだった
よゆうの金でしていてもこの失敗も大きかった

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地銀を信用していたのである。銀行というのが堅実な信用できるものだと思ったいたのである。
ところが銀行はマイナス金利とかいろいろ岐路にたたされて苦しんでいた
だからもうなりふりかまわなくなる,自分を苦しめた人も金で苦しんでいるからなりふりかまわなくなる,かえって相手が弱っているとき好都合になるのである。
それでその弱みにつけこまれて脅迫されるうよな状態になったのである。

明治以降の社会の変化は江戸時代と比べるとあまりにも大きかった
江戸時代だと代々家業を継ぐのが多い,職人ですら十代以上つづいているとかある
そういう社会は変化しないのである。だから精神的に安定しているのである。
そこで飢饉とかありやはり人間社会には何か激変がある
ただ江戸時代は戦国時代が終わりそうした激変はそれほどなかったとみる
もちろん災害はあったが暮らしの基本が変わらないから変化が少なかった時代である。

明治以降の変化は激しかった,そして変化は急激に来る,例えば戦争がはじまると赤紙一枚で招集されて戦地に送られた,これもショックである。
考える暇もなく戦地に送られたのである。これも突然のことなのである。
突然に運命的なことが起きる,ベフートベンの運命である
悪いことは突然に起きてくるのである。
その変化に対応できないのである。

銀行でも営業の人がきてFXのような為替の売買をした,これもいちいち買うと手数料がとられる,売り買いするにも書類を書くからめんどうなのである。
ただ奇妙なのだけどこれはもうけは少ないにしろもうかったのである。
この為替差益でもうけるのはわかりやすいのである。
投資信託の仕組みは素人にはわからないから銀行などの言いなりになるだけである
人間はわからないものには手を出すなというのは心得として知るべきだったとなる
投資について銀行はプロでもなんでもない,銀行は素人と変わりないのである。
だからリーマンショックのときからもっていた株を上がったのに売り投資信託に回したのである。

なぜそうしたか?

銀行にとっては投資信託が手数料で稼げるからである。それが営業のノルマになっているからそうなった,銀行の利益と営業員の利益になるからそうしたのである。
顧客の利益は二の次三の次なのである。
ただそれを知ったのも遅かったとなる,これも銀行が変わったということに対応できなかったのである。

ここに出したように別に銀行に頼まなくてもFXでもうける仕組みがある,それはAIが判断するのである。いちいち営業の銀行員が書類を書いては手数料とられることもない,AIが自動化して判断して売買するのである。
この方が確実にもうかるとなる,つまり銀行とか証券はAI化しやすい分野だったのである人間の判断だったら銀行では手数料が確実にとれる投資信託をすすめる
でもAIの判断の方が銀行より優れているのである。

すると今求められているのはITの技術者だとなり一億円でも払うからと人材獲得に躍起となっているのである。
つまり時代によって求められる人材も能力も違ったものになる
だから今いいとしても技術が進歩して変化すると役に立たなくなるのである。
そういうことは常に起きてくる

AI化で人間の知的仕事もなくなる,失業者が増えるというときもそうである。
静岡の大井川の川越の人足が鉄道ができて失業したときお茶作りをはじめて転職に成功したとかそういうことは常にあったからめずらしくないのである。
でも現代の変化の速度は早すぎるのである。
例えば退職者が高齢化で何もすることがない,居場所がないというときもそうである。
会社一筋に働くことしかしていないとそうなる
でも退職したからと地域にとけこむとか簡単にボランティアすらできない
ボランティアにもやはり何かしらの適格性が必要になる
そういうものを見つけることは容易ではないのである。
遊ぶにしても人間は日頃そうしたものをしていないとできないのである。
要するにここでも急激に変化したことに対応できないから問題になるのである。

だから強いものではなく変化に対応できるのものが生き残るというダーウィンの言葉が活きることになる
若い人が有利なのは最先端のものにふれてそれに適合できるからである。
その変化のスピードが速いときすぐにまた古くさいものとなってしまい取り残されるのである。
まず誰でも百歳まで生きる人生など想定できない,すると金銭的にも困る人々がでてくるもうそれだけ生きる金はがないとなる,政府でもないとなるからだ
こういう変化が常に世の中にはありそれで対応できないのである。
津浪ではそのために死んだ人が多数いたということである。
こんな津浪にとても対応できないということで死んだのである。
変化に対応できないことは死にもいたることになる

必死で変化に対応しなければ銀行でももうつぶれるのである。
そういうことは別に今だけでなく常に言われてきたのである。
「世の中は三日見ぬまの桜かな」である,三日でも大きな変化がある
この辺ではそうだった,新しい家が何百軒も建ちまるで変わってしまったのである。
こんなに変化することが想像もできなかったのである。
海岸の松原はなくなりソーラーパネル風力発電になったのである。
風景自体がこんなに変わることが信じられないとなるのである。


タグ:時代の変化
posted by 老鶯 at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題