2018年05月28日

欲を減らせ,欲をおさえよ! (災いは人間の欲から起きる)


欲を減らせ,欲をおさえよ!

(災いは人間の欲から起きる)



欲を減らせ,欲をおさえよ!

(災いは人間の欲から起きる)

 「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」箴言15章17節

これは自分の経験から感じた,人間は欲によって誤る,欲が危険なのである。
それが宗教の基である,だから欲望があるのがいいとか欲望があるから資本主義が発達したとかいう人がいる
それは危険な思想である。つまり常に資本主義では欲望を喚起する,宣伝で喚起する,刺激する,そして企業は売り込むためにそうしている
だから本当は必要ないものまで買っているのである。
欲望を刺激して拡大して経済成長させるというのは資本主義社会では悪いことではない
むしろ奨励されているのである。経済成長第一主義だからそうなる
景気が悪くなることが一番悪いことだからそうなる

ただ本当に欲というのは限りないのである。100もらっても次は200欲しい,そして一旦100を確保したらその100を減らしたくないのである。
それは別に強欲だからでもない人間の心理なのである。
だから金持ちは財産を減らしたくないのである。

人間の欲はきりがなくなる,あれも欲しいこれも欲しいとなるし制限がないのである。
そういうことから何が起きてくるのか?災いが起きてくる
原発なども実は人間の欲と深く結びついていた
莫大な利権でありそのために地元でも金にまどわされて原発を積極的に受け入れたのである。まずは金だとして受け入れたのである。
実際に大熊町だったか先に原発を受け入れて金回りが良くなったから今度は隣町の双葉町とかが原発をこっちももってこいとかなっていたのである。

原発利権は想像を絶する莫大な利権をもたらすのである。
事故後でも何兆円とかの補償金を支払われることに驚いたからである。
そんなに金を出せるのかと自分は知らないから驚いたのである。
それだけの利権が原発にはあった,その利権の故にあらゆるものが結託して
原発にかかわっていたのである。
マスコミにも800億円が宣伝費として支払われていたとかなっていた
中国にマスコミの幹部が招待ささていたとき事故が起きた
そこには朝日新聞社の人もいたのである。

ただ人間の欲をすべて否定はできない,山尾三省のようにパンが贅沢などという人とはもう誰もつきあえないのである。
そうではなくて欲はきりないからあるところで減らせということなのである。
全部を減らすのではないあるところで限界をもうけて減らせとなる
100で満足すべきことをさらに200欲しいとなることが危険なのである。
欲をへらせないとどうなるのか?

ある人は事業して失敗したけどその人は自分は成功しているとまだ外部に示している
借金もしているが成功したとしている,だからわからない人もいるだろう
そして怖いのは「俺は成功者だ」そう見せるために借金したり今度は親戚に借金を求めてくる,それはもう手段を選ばないのである。
見栄があり成功者だということ優秀だということを示したいからそうなっている
そういう人は相手を犠牲にしてもまでその体面を保とうとする
そういう人は前と同じような贅沢をしたい,だから生活の質は落さないのである。
減らす生活をしないのである。その穴埋めが借金でありそれを求めらる方にしたら
勝手だとなってもその人は欲を減らせないからそうなっているのである。

欲を減らせないことは犯罪にもなる,貧乏で犯罪するのではない,贅沢したいために犯罪にもなる,今日本人一旦高度成長で贅沢の味を覚えてしまった
だから生活の質を落せない,うまいものを食べたいし何でも贅沢したい
それで金がたりないとなると借金してまで贅沢をするとなる
もう犯罪をしても贅沢をしたい減らせないのである。
それが怖いのはもうそこから犯罪に結びつく,極端になると人から奪っても贅沢でもしたいとなる

現実にそういう目に自分はあった,でも自分にしてもそういうことにこだわるのも怖いと思った、確かに犯罪にあっても金で恨んでもそれがまた復讐となればまた犯罪になる
そこであきらめればそうはならない,つまりそれも欲と関係していたのである。
いくら金あってもたりないと思う金持ちもいる
するとわずかの金だってこだわる人はいるかもしれないからだ
そういうふうに人間の欲がきりない,欲はそもそも抑えられないものであるからだ
だから人間の欲を全部なくすなどできない,ただなんとか減らすことをする
それをしないと危険なことになり犯罪になり身を滅ぼすことになる
今日本人は貧乏になるというとき今までの考え方どこまでも欲を追及して拡大して経済を成長させるという思想は危険である。
もう成長はできない,成長させようとすれば無理が生まれる

欲を減らせ,欲をおさえろ

これからの指針は今までとは違ったものとなる,生活は減らす生活,質素な生活を目指してなるべく浪費しないことである。
そんなことしたら景気が悪くなるというがそういう時代ではなくなったのだ
その象徴が原発事故でもあった,それは基本的に人間の欲から起きた事故だったのである何か犯罪でも基本的には人間の欲から起きているのだ
ただ皮肉なのは金があればかえって余裕があり質素な生活を説くということはあるのも現代である。
汲々して生活している人に質素を説いても無駄だとなるからだ
ただ金持ちでも減らすという生活を質素な生活をすることが求められる
ある意味で江戸時代にもどるともなる,江戸時代は侍でも今の人より質素な生活をしていたからである。物でも何一つ無駄をしていない,リサイクルの生活だったからである。

なぜこう思ったがというと人間は欲から殺したり殺されたりするということを実感したからである。
それで恐怖を感じた,自分が欲のために人を殺す,そしてまた殺されるとういことを実感したからである。それよりは欲を減らして平和に暮らせる方がいいと思ったからである。人間は欲をなくすことはできない,欲を減らすことができるだけなのである。
100あるのにそれを全部いらないとはできない,20くらい減ってもいいかとはなる
それも100ない人もし50しかなかったら10減らすとなると苦しいとなる
だから減らすというとき人によって違ったものになる
奇妙なのはもっている人は減らすことができるがもっていないもの減らすこともできないとなる

ただ欲といってもいろいろある,欲はきりないのである。
だからどこかで減らす抑えることをしないと社会はもうもたない,資本主義はグローバルに欲を追及して拡大しすぎたのである。
欲というとき中国人の帝王がその見本である。地下にまで現世の欲を追及した,死んでまで欲を追及したのが中国人である,地下宮殿まで作って死後もそこで生きようとしたからである。中国人の欲望は大きいのである。日本人は淡白だとなるが中国人の欲は強大なのである。
中国人はあくまでも現世にこだわる,現世で欲を追及して達成しようとしている
巨大な富を得て巨大な富が消尽されるのである。
そうしても結局は人間は永遠には生きられない,その地下宮殿にはミイラ化した王が眠るだけだとなっていたのである。
その地下宮殿を作るにも民の犠牲があったのである。

結局人間はいくらこういっても欲が減らせない抑えられないからこそ聖書では欲で滅びるとなったのである。社会的にみれば利権であり利権社会はなくならないし中国だと賄賂社会になる,個人的にも様々な欲があり減らせない抑えられない
利権社会になっているとしてもそういう社会にしているのは個人的な欲望があるから利権社会になる,それがこの世の変わらない有り様なのである。
確かに社会が悪いというのもわかる,その前に個人の欲が悪いから社会が悪いとなる
宗教の場合はまず個人の欲が悪いとしている,だからこそ社会が悪いとなり世の中は変わらないとなっているのだ。
それは科学技術が発達しようが原発事故のようにそれが人間の欲と深く結びつくから危険なことになるのである。
現代の科学技術はサイエンスではない,サイエンスは何か哲学的な意味があった
今は技術でテクノロジーが全面に出ている,そしてそれは常に欲と深く結びついているのである。だから危険になるのである

肥えた牛というのはこうした便利な科学技術も現代的に解釈すれば入ってくる
また肉食の否定なのかともなる,肥えた牛は何か人間の欲望にとって争いの種となるものなのだ,一方で野菜を食べるということは貧しいが共に平和に過ごせるともなる
宗教はもともと聖賢の教えでも欲をおさえろ減らせと警告してきたのである。
それは確かに今の資本主義の論理とは合わないのである。

それは別にしても個人的にも本当に野菜で満足しないで肥えた牛を食べようとするときそこに争いが生まれる,だからこの言葉が生まれたのでありそれは現代は複雑な社会であり科学技術社会でも同じなのである。
つまり原発より肥えた牛より野菜で満足した方がいいとしたのである。
現実に原発事故になったとき避難した人達は家族がばらばらになった
それで蝋燭でもいいから家族一緒に暮らしたいと極端なことになったのである。
それはやはりそれだけひどいことになったから極端になったのである。
自分でも何か殺す殺されるとかいうことに直面したからそうなった
そういうことがないかぎり人間はまた悟らないのである。
人間は宗教とか哲学から知識だけでは学べない,現実問題の中で知識でも身につくのである。
でも現実で過ちを犯して悟ってからは遅いとなっているのである。

タグ:欲の危険

2018年05月29日

真野川で鮎の稚魚を放流(2018-5-28) (放射能の心配はあるが・・・)


真野川で鮎の稚魚を放流(2018-5-28)

(放射能の心配はあるが・・・)


「アユ釣り完全復活へ稚魚放流」 (NHK福島 2015/6/2)


アユは華奢で骨が細く柔らかく、丸ごと食べるのが普通ですが、骨にストロンチウム90が
蓄積されている可能性もあり危険です。

広大な太平洋で獲れたベニザケでさえ、無視できない量のストロンチウムが蓄積、検出されているのです。

ある福島県庁職員がこういったとも伝えられています。
「阿武隈川の底は原子炉なみで、とても公表できません」 
(原発問題 2013/2/17)


昨日南相馬市鹿島区の真野川で郡山から来た人が鮎を放流していた,稚魚といっても大きかった,若鮎という感じである。
真野川ではしょっちゅう水質検査していた,でもその数字は教えない
何か放射線量とか原発事故前から公表されないのである
したとしてもマスコミが福島民報などでも大きく報道しない,それは福島民報が県の出資が50パーセントだから原発の不利な情報は報道しないのである。
それがいろいろ問題を引き起こしたのである。

危険が知らされない→危険が現実になる

津浪でも東電は10メートルの津浪が来ると試算していた,それを知っている人がとれだけいたのか?
危険が報道されないしわからなかったのである。
それで報道の役割を果たしていなかったと気づいたのである。
報道するにもまず権力がないとできないのである。
マスコミは巨大な権力である,だからこそ権力をもっているからこそ東電からでも莫大な宣伝費が流れていたのである。
世の中は銀行でもそうだがそれも権力を持っている,ただ金を右から左に流すだけの仕事ではないか,そんなことで利益を得るなら楽だとはいう見方もある
そういう権力がある所には金が自ずと回ってくるのがこの世である。

鮎は子供のとき父親がとってきて食べていた,その時鮎は大きかったのである。
父親は鰻釣りと鮎釣りとかしていた,それがいいオカズとなっていたのである。
その頃貧乏だからそうなっていた,その後鮎は何か小さくなった
鮎釣りをしていてもその鮎は食べてもうまくない,実がほとんどない感じである
久慈川の鮎を買ってきて食べたがこれもうまいものではなかった
冷凍したものだったのだろう
鮎でうまかったのは新潟県の小出の魚野川の塩焼きだった
その川の前に食堂がありとれたばかりの鮎を出していたのだ
別にそれは高いものではない,魚野川に鮎がいくらでも泳いでいるからだ

真野川とか原発事故周辺の川の放射能汚染はどうなっているのか実際わからない
ただ阿武隈川河口で泥としてたまっていた放射線量が相当に高かった
泥についてセシウムなどが流れたからそうなった
今は溜池の除染をしている,これもやっかいでありどこまで効果があるのかわからない
回りから泥はいくらでも流れてくるから焼け石に水だとなってしまうからだ

時間がたてば放射線量が減ってくるのか?それもわからない
部屋のなかは0・2で今も減っていない,だから放射線量というのは減らないともなる
鮎はこれまでも食べれるようなものではなかった
今釣りは食べるというより釣りそのものを楽しむようになっている
釣ってもまた放している,海の方ではまだ釣った魚は食べていた
右田の松原のあるところではいつも釣りする人がいた
でもやはり釣りをしている人はいる,川ではいなくなった

放射線の問題はなかなか真実が素人にはわからないことである。
わからないから危険を言う人は極端になるし安全だよという人も何か目安かあっていっているわけではない,そして放射線の問題はそうして隠されやすいのである。
どこまで危険なのか見極められないから困るのである。
そして過剰に反応する人はするししない人はしないのである。
別に老人だとそんなもの関係ないと飯館村では山菜まで食べていたのである。
老人の場合は奉仕斜線はほとんど関係ないのである。

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野馬追いの旗とスコットランドのキルト


野馬追いの旗とスコットランドのキルト


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決して「タータン・チェック」と言ってはいけません。。タータンは布地の柄というよりも、 氏族ごとに定められた家紋に相当する模様の総称なのです。


日本の歴史とヨーロッパの歴史は違っているようで似ている,それが城が多いことである日本でも城が多いから共通性がある。
それは封建制ということで共通している
土地が一番の財産であり土地に依存した社会である。
それは農業や牧畜などが基礎としてある農業社会だったのである。

だから野馬追いと同じような騎馬隊が独自の旗をもって行進する祭りがある。
それは地域地域の旗なのである。
イギリスのスコットランドのキルトは有名である。
それぞれの土地にキルトの紋様が伝えられている
スコットランドはイングランドに抵抗したが部族の集合体だから部族ごとのキルトが伝えられている

では野馬追いの旗と共通性があるのかというとき野馬追いの旗はそうした部族ごとの旗ではないし必ずしも地域の旗ではない
相馬氏がこの地に来て支配するようになったから相馬氏一族の旗である
でもなぜこんなに種類が多いのか?
それは部族ごととか地域ごとの村ごとの旗ではない,家の旗を基本としているからである家というとき無数に家があるし家紋もある,だから種類が多いとなる
それは鎌倉時代からはじまりその元をたどるとさらに平安時代とかにまでさかのぼる
それだけ古いのである。それでその旗の由来がわかりにくいのである。

文化というとき地域性の探求になる,文明となると地域性を無視して画一化することになる,地域性というとき相馬藩とか福島県とか単位的にみる
でも相馬藩内でも地域性がある,地域性とは地形とか風土が違うということなのである。それが文化の基である,だから標準語が文明語だが方言は文化語なのである。
数式化するのが統計化したりするのが文明となるが文化はそうして一様化されない
そこに文化の魅力がある
工業製品というとき文明化であり同じ規格のものが大量生産される
文化は地域の特質を活かした物産でありそこから生まれた独自のものがあるから文化なのである。

野馬追いの旗は一見そうした地域性が関係しているように見えるがそうではない
氏族系統とか家の系統としての旗印である。
・・・村の旗ではない,部族の旗でもない,相馬氏のそれぞれの家がこの土地に分布したものである。だから土地に由来した旗とはなっていないのである。
もし土地に由来した旗となっていればA村のB村のC村の代表となるからわかりやすいのである。
野馬追いの旗行列でもそういうふうには見れないのである。
それで旗の由来をたどることがむずかしいのである。
南北朝の戦いで霊山城から逃れた人達がいてその人たちの旗はわかりやすい
それが只野氏の杉の紋様の旗だった,それは郡山の多田野村から出ていたのである。
他にもその系統はたどれる,それは一団のものとしてたどれる
山王という旗印もそうである。山王信仰が霊山から逃れた人達によってもたらされたからである。

いづれにしろ文化は地域性の探求である。地形風土の探求である。
福島県内でも多様であり相馬藩内でも多様なのである。
だから文化は土地を離れてありえないのだ,それで東京とかにはもう文化はないのである文化はまたこれからも生まれないのである。
そこに方言がないということでもわかる,方言はその土地から生まれたものだからであるただ方言も伝播しているから文化の伝播はある

つまり文明化すると多様な土地に根づいた文化は喪失する,標準語化するのである。
そうなると同じ規格の大量生産の品物と同じになるのである。
文化の多様性が喪失する,限界集落とか言われるけどそういうものもなくなる
その時土地の多様性がなくなり地域の文化も喪失するのである。
ワインでも歴史が古いから土地ごとの名前をつけられていたワインがある
そのワインはその土地と密接結びついて生まれていたのである。
そういうものは各地にある,日本では酒がそうである。
多様な酒があり味が違うから酒とか食品でも文化的食品とただ画一的に同じ味として作られたものがある

これからは大量規格生産ではない,地域に土地土地に根ざしたものが価値を帯びる
それはGDPとかで計れない価値なのである。
グローバル経済というとき画一化でありその土地土地に根付いたものではない
世界は土地土地の地形とか風土とかによって文化が生まれはぐくまれる
それを無視した物差しで価値を計る時代は終わったのである。
これからは地域地域に根ざした文化的価値の追及の時代になる
その土地土地に生きる価値を新たに発見する,それは物質的にもそうである。
精神的にもそうである。
日本ではものというときただものではない,ものは心としてとらえていたから西洋的価値観と違っていたのである。ものと心は一体だったのである。
土地と人間は一体としてとらえられるのである。

それで今度読んで「グローバルリズムの終焉-経済学的文明から地理学的文明へ-  」は自分の思想と一致していた
その著者は住むとういことを第一にして社会をみる,移動輸送の文明社会ではなくその土地に住むことこそ第一としてみる
人間は移動社会になりすぎた,結果として原発事故でかくも簡単に土地から離れて人は移住したのかとも自分は問うてきたのである。
その土地に住むことの価値の追及なのである。それは多様であり統計化数値化できないのである。

野馬追いの旗は地域の旗とは違うがやはり多様性を示しているから文化なのである。
また地域に土着することによって村を代表するものともなった
やはりどこどこの村から出陣したとして見るからである。
ただキルトのようにその村独自のものとして旗があればより土地に根付いた文化の祭りとはなっていた
どうしても相馬藩だと相馬氏一族の祭りだとなってしまうこともある
各地にある祭りはもともと地域性があり神楽とかあるがそれも村ごとに違っていたのである。独自のものとして工夫して発展させていたのである。
どこの村の神楽の舞いだとかあった,今は村ごとに何か特徴あるものが喪失したのであるただ地形とか風土とかは時代が変わっても変わらないからそこから新たな文化がまた生まれるのである。

インターネットは多様性であるのもやはりマスコミという中央主権的情報社会からの変化である。
多様な地域性が報道されるとういことが今までと違っている
福島民報でもそれはマスコミであり大きいのである。
だから相馬藩内のことは詳しくは報道されないしそもそも福島県だけでも広いから報道しきれないのである。
だからインターネットが生まれということは地域性も生まれる時代とマッチしたものともなる
ただそこでマスコミのように視聴率を稼ぐことはできない,その性質を異にしているからである。
一地域の地域に興味があるとしても他の人はないともなるからだ
だから二つの情報があるとして中央主権的報道も必要でありまた地域地域の報道と探求も必要なのである。



posted by 老鶯 at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年05月30日

南相馬市の鹿島区の不満 (高速と医療費は無料にすべきだった)


南相馬市の鹿島区の不満

(高速と医療費は無料にすべきだった)

なぜ鹿島区が同じ南相馬市なのに差別されたのか?
それは30キロ圏内と外で区別されて補償金ももらったが少なかった
30キロ内だけは手厚く補償されたのである。
それは政府でそうしたのだからしかたがないということはあった

でもなぜ医療費とか高速とかが無料にしなかったのか?
その面だけでも南相馬市として平等にすれば良かったのである。
医療費でも一年以内とか早い時期に鹿島区は打ち切られた
ところが原町区では高速でも医療費でも無料化していたのである。

それで最近市長が変わり秋から高速が鹿島区でも無料になるという
それも遅かったなとなる
この資金も実は市の財政から出るから市の支出になるので問題なのである。
なぜなら一時鹿島にも補償しようとしたときネットで鹿島には市の財政から金を出すなと言っていた人がいるからだ
その時一時的に市の予算から100億円を仮払い金として出すことに桜井市長が決めたからである。
それは市の財政から出るから反対していたからである。
今回だって市の予算から高速無料の金が出れば不満な人が出てくる

なにかこうして合併したのはいいものの小高,原町,鹿島でうまくいかなくなったのである。
鹿島では小高への反発は大きい,小高でも鹿島への反発は大きいのである。
つまりどこに金を出すか,福祉関係でもその他でもそうである。
そこでもめたのである。一番得したのは原町に予算が集中するから得だったとなる
今度は小高にしても病院でも金を使っていいのかともなる
その負担がまた大きくなるからである。
帰っている人は30パーセントくらいだから維持することインフラでもなんでも予算が使われるからである。
前のようであればいいが限界集落のようになっているからだ
そこに金をつぎこむと南相馬市全体の予算がへり影響するからである。
これは全国的にみても限界集落などに金使うなとジジババしかいない津浪の被害地に金をつぎこんでも無駄だ官僚が本音を言ったことと同じである。


30キロで国が区切ったのはそんなに補償できないからそうした
別に放射線量の問題ではない,30キロの内と外で別に変わりないからである。
政府の都合でそうなっただけなのである。
それでその境目に住んでいる人は女性が泣いて訴えていた
子供も喧嘩しているとかなっていた

これも今頃そうしたのはおかしいのである。
最初から医療費と高速無料とかは平等にすべきだったのである。
補償金にしてもやはり区別してその差が大きかったのである。
原町区は30キロ内だから手厚くされたのである。
それより相馬市の人も絶えず不満を言っていた
相馬市では一人6万とかもらって終わったからである。

いづれにしろこの辺は合併したのはいいにしても小高と原町はいいとしても鹿島は除外されて不満になり協力できないような状態にしたのである。
その責任は誰あるのか?市政にあるのか?
鹿島の議員にしても仮設に入った小高の人を応援していたのである。
これもやはり南相馬市の議員だったら小高の人も同じ一票だからそうなったのである
それが合併したことで変わったことなのである。
タグ:原発補償金
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家(いえ)とハウスは違う (イエは強固な共同体の一つ)


家(いえ)とハウスは違う

(イエは強固な共同体の一つ)

日本人が家というとき何か英語で言うハウスとは全然違っている
英語だとホームである,ホームタウンが故郷である。
ホームというとき何か還るべき場所としてある
ハウスとホームはまるで違っている
ハウスは寝起きする箱としてしか見ていない
だからアメタリか移動社会だというとき一時的に家というハウスがありその土地から離れて移動する遊牧民的生活になる
そもそも移民の国だから土地に対して愛着がないのである。

日本人が家(イエ)というときはイエは単なる寝起きする場所ではない
家にはまた歴史が深くかかわっている,祖父母までが深く家にかかわっている
家には先祖が住むという時そうである。
古い家だったら特にそうなる
イエはだから単なる建物ではないハウスではない
精神的紐帯なのである。
だから原発避難者でも家に固執するのは老人なのである。
その家は家族がともに過ごした記憶となる場だからである。

家は一つの共同体であるから何か夫婦だけではそうならない,夫婦が子供をもつとき家になるのかもしれない,そこで家族が形成されるからである。
そこで一つの共同体となる
家は明らかに最も基底をなす人間の共同体なのである。
確かに血縁を基にしても養子なども入るから共同体なのである。
だからこそその家の延長が平氏でも源氏でも外国でもハウスブルク家とか国家にまでなったのである。

家が共同体となるとき運命共同体にもなる,最も基本的な共同体なのである。
それは時代が変わっても変わらないものがある
家が今やホテルだとかなっても最後のよりどころとして家がある
他にそんな共同体があるのかとなるからだ

ただ確かに家というとき家をそうして基本にすれば家の外に対しては排他的になる
そういことはあるが実は家自体が血縁というのではなく共同するもの共同体としての核を形成してきたことは人間として変わらなかったのである。
家という人間の基礎を作る共同体すらなくなるとどうなるのか?
もう安心する場がなくなる,すべて回りが敵となる
家族がなくなったら身寄りがなくなったらそうなるのである。
それは野獣の群れに放り出されると同じになる

ただ一方で家は宗教でも家が否定されてきたのか?
それは宗教ではキリスト教でも仏教でもそうである。
血縁で結ばれる家を否定してきたのである。
それは家が血縁という狭い範囲での共同体でありより大きな共同体を形成できないからである。
日本では村が強固の共同体であり日本人の姓が必ずどこかの村が起源になっていることでもわかる
血縁より地縁になったのが人間の歴史でもある
血縁より地縁が大きな共同体となりうるしそうしないと社会は維持できないからである。

人間は動物と違うのはそうして共同体を社会を作ることである。
それは血縁だけではない地縁であれ国家であり共同体を作ることにある
その共同体は家より家族より強固なものとなるから戦争で日本人が3百万人も死んだともなる,犠牲になったともなる
家というときも最初の共同体でも何かそこに複雑だが犠牲が強いられことがある
共同体とは人は別個にあっても犠牲がないと維持できないことがある
城を作るのに人柱を要求されたのもそれは共同体を保つためだったからである。
城も家という強固な共同体だったからである。
だから会津では城が燃えたとき白虎隊の悲劇が生まれた
城は単なる建物ではない,生活でもあらゆるものが一体化した象徴としてあった家なのである。

現代にはもうそうした強固な家(いえ)なくなった,ただ会社がその代わりのようにはなった,なぜなら会社で働くことが長いからそうなる,時間を会社に費やすとすればそれが人生だったともなるからである。
ともかく人間は共同体を必要とする,それが経済人間化したとき村がなくなったりして
その紐帯は壊れた,その時どうなったのか?
原発事故で町や村が簡単に捨てられて廃墟化したりする
そこにはもう村や町を維持しようとする紐帯も共同体も実は形だけになっていたともなる
なぜなら犠牲になっても共同体を維持しようとするのが人間だからである。
戦争のときを見ればわかる,その是非はともかく300百万人が死んだ犠牲になったとなるからだ,そんなこと今の時代にできるか?
ただすべてが利を求める時代である。利がまず優先される社会である。
利にならないことはしない,それはカルト宗教でも利の宗教だからである。

そういう社会は意外ともろい,分離解体しやすい,みんな利だけを求めるのだから便利さだけを求める社会だからそれだけを求める社会だとしたら何か困難があって犠牲になることがあったりしたすぐに原発避難民のように離散してゆく
もちろん放射能被害とかありまたそれだけはないにしてもそうなりやすい社会ではないか家族は家(イエ)は必ずしも利だけではないものによって結ばれている
家族愛もありその他に代々受け継がれた歴史もある
だから家の歴史がありそれによっても結ばれているのが家族なのである。
だから核家族となると結びつきが弱いのである。
それは資本主義社会の工業社会の生産的単位として戦後に作られたものであり農村社会だった地方ではそうはなっていなかったからである。
やはり長男があって家が維持されてきたからである。

グローバル経済ではそうした共同体とか共同性を作らないのである。
物だけのやりとり便利さだけの追及となり豊かになっても世界が共同するということ犠牲になってまで共同するということはない,むしろ利がなくなると利で対立することになるそれが貿易戦争になる,それはただ利を求めることだけだからそうなる
人間は国家というとき大きな共同体を作ったが世界となるとできなかった
そこで戦争になって犠牲を強いられたのである。

例えば日本では明治維新の時家中心にして日本国家共同体を形成しようとした
親が天皇であり子が国民としたのである。
明治以降に家族墓ができたのであり江戸時代には個人墓だったことでもわかる
これは意外なのだけど侍の墓でも個人墓なのである。一家の墓ではないのだ
庶民でも幕末には豊かになった農民が個人墓を作っていたのである。
それまではホトケッポとか共同墓地に埋葬して家族墓も個人墓もないのである。

そして大東亜戦争でも

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです

ここでも家が共同体の基本としてある,世界が家のように家族のようになるという思想なのである。
おそらく日本は江戸時代でも武家の支配だが御家中と所属する藩を呼んでいた
野馬追いの旗にも御家中とあり日本の共同体は村の地縁があり家(イエ)が基本にありそれが拡大解釈されたのである。
ただその思想には限界があった,そういう思想ではとても世界を統一する思想とはなりえないからである。

宗教はキリスト教でもイスラム教でもそうした家とか血縁を超えた思想があるから共同体が生まれた,ユダヤ教は以前として血縁主義民族主義だから世界的に普及しなかったのである。
ユダヤ人でなければ救われないとなれば排他的になるからである。
つまり家からまた民族が生まれた,血縁として血統として民族が生まれた
すると民族同士が争うことになる,民族は他の民族に対して排他的になるからだ
だから世界が一つの家になることは不可能だとなるのである。

いづれにしろ現代ではすべて経済人であり経済の価値の中でしか生きていない
だからそこで便利な豊かな生活を遅れないとなるとそれ以外の価値を認めないとすると
簡単に町でも村でも見捨てて外に出る,また外に出て暮らしやすいからである。
原発事故が起こらなくても一億円もらったらこんな田舎出て行きたいという若者は普通にいたからである。
つまり故郷に田舎に求める価値は経済的なものだげであるという人が多い社会だったのである。
だから現実に一億円補償金もらったらさっさと親でも捨てて外に出て家を建てて帰らないとなったのである。
経済的価値しか認めないからこそそうなったのである。

家族共同体ならなんらか犠牲が強いられることはある,でもそれもしたくない,便利な豊かな生活をできればいい,そういう価値観しかないから簡単に町でも村でも崩壊したとなる,それは原発事故だけの原因ではない,そういう社会になっていたから原発事故を契機にして現実化したとも自分は見たのである。
自分はすべてが原発事故のせいでそうなったというのに疑問をもっていたからである。
あらゆることが原発事故のせいだとできるのかという疑問である。
そうでない原因もすでに社会自体にあったのではないかという疑問なのである。

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野馬追いで天皇旗印があり御家とあるのも日本は家としての共同体の歴史だったともなる


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2018年05月31日

海底トンネル地底トンネル (Submarine tunnel underground tunnel)


海底トンネル地底トンネル

(Submarine tunnel underground tunnel)

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電車が海底を行く,それを絵画的に表現する,前に自分は鉄道模型で遊んでいた
その時電車にライトが光ったとき一番感動した
暗闇で走らせたとき一番感動した
それが影が映ったときが一番魅了されたのである。
それで海底トンネルのようなものを作って走らせたのである。

私は鉄道が好きだったから日本の鉄道はすべて乗った
ヨーロッパも乗ったしアメリカのアムトラックも乗った
遂に想像で海底トンネルを森の中を地底とンネル行くようになったともなる

たまたまインターネットの膨大な写真や絵を変形して創造したらそこに海底トンネルとか地底トンネルができたのである。
絵は全く描けないが絵のようにできたことで作り続けることになったのである。

Submarine tunnel underground tunnel


The train goes the ocean floor, expressing it pictorially, before I was playing with a railroad model
It was the most impressed when the light shone on the train then.
It was the most impressed when I ran in the dark
It was most fascinating when it was shadowed.
So I made something like a submarine tunnel and ran.

Because I liked railroads, I got all the railroads in Japan
I also rode in Europe and also got Amtrak in America
I finally came to go to the bottom with the underwater tunnel in the forest with my imagination

By deforming and creating a huge number of pictures and pictures of the Internet by chance, there were undersea tunnels and underground tunnels there.
Although I can not draw a picture at all, I decided to keep making it because I could do it like a picture.