2018年05月05日

特別列車が止まる (セディティは連休で最高のにぎわい)


 特別列車が止まる

(セディティは連休で最高のにぎわい)

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 団体用の特別列車が止まった,ただ二両だった
記念に写真をとった, これも連休で出たのである。

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それにしても今日も夕暮れに常磐高速のサービスエリアは連休最後になるし天気もいいから本当に混んでいた
あそこだけはにぎわい都会並になっている,あんなに人が出入りしているのが不思議になる,そういう光景はこの辺で見ないからである。
たこ焼きを売っている人を知っているけどあれだけ人が来れば売れる
人の流れがあるからだ,それは人の流れというより車の流れなのである。
車時代だから車の流れが人の流れを作っている

警備員が十人もいることに驚く,それだけ人の流れがある
駅と比べるとあまりにも違いすぎるのである。
百倍とか千倍も人の流れが違うようにも思える,現代は車を離れてありえていことをここで実感する,あれだけ人の出入りがあれば商売になる
でも難点はまずサービスエリアから鹿島の街の方へ来る車はほとんど見かけないのであるつまりここで休息して去って行く人が多いのである。
だから街とは関係なくここだけが休息所としてにぎわっているだけだとなる
ここにくるとここだけが都会なのである。 

2018年05月06日

歴史は必ず教訓を残す (反逆者 北京占領 〜李自成の乱からドルゴンへ〜|中国王朝 英雄たちの伝説)


歴史は必ず教訓を残す

(反逆者 北京占領 〜李自成の乱からドルゴンへ〜|中国王朝 英雄たちの伝説)


明・清の時代3 清の中国侵入


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万里長城は満州族などから侵入を防ぐものだった
モンゴルだけではない,モンゴルと満州族は騎馬民族系統である。
遊牧民だった,だから中国は今の中国では歴史的になかったのである。
明の時代は秀吉を明へ侵攻しようとして朝鮮出兵したのである。
それも明の滅亡に通じていたというのも日本もかかわっていた歴史なのである


中国の歴史は三国志以来同じようなことをつづけている,それは国のカルマだとなる
人民が多いこと国が広大なこと異民族が混じり合うことなどで同じことを繰り返しているのである。
興味深かったのは王が贅を尽くして作った地下宮殿が発見されたことである。
中国の王は始皇帝でもそうだが地下まで来世でも栄華を究めようとしていたのである。
中国では強欲な者はその限りを尽くす,酒地肉林にもなる,そのスケールもまた大きいのである。西安の兵馬様の発見もそうだった

日本の天皇と比べると全然違ったものなのである。日本の天皇はそんな贅沢をしていないからである。日本の支配者は武士社会になってもそんなに贅沢はしていないのである。
それだけの財力を蓄積できない国だったともなる
江戸時代でも侍と庶民の暮らしでも食べ物にそれほど差がないのである。
それはヨーロッパの貴族も贅沢で階級を作っていたからその差ははっきりしている

李自成は黄土高原のヤオトンで生まれ育った貧農の出だった,その住んだ跡が発見されたというが土砂崩れでなくなったという,黄土高原で暮らすこと自体容易でない
それに税を高くされた,飢饉になってもそうである。
飢饉になって木の皮を食べて土まで食べた,土を食べて死んでも食べたという
そのことがパールバックの「大地」に書かれていたがそれは事実を基にしていたのであるそしてそういう人達が必ず流民化するのが中国である。
その数が多いからやがてそういう人達は反乱を起こして時の支配者に歯向かうようになる現代でも一時都会へ出稼ぎ者が流民化していた,鉄道の車両に家畜のように詰め込まれて都会へ大量に移動したのである。
とにかく人口が多いからそうして大量に人間が移動する,そのことが引き金になり反乱にもなる

官僚を厚遇して土地を買って大地主になった福王という大邸宅に住んでいた者がこの李自成の反乱軍に殺された,そして肉にされて鍋でにられて食べられたのである。
中国には人肉の習慣があったのである。中国では大陸では異民族間の闘争は激しくなり残酷になる,みな殺しにもする,日本ではそこまではしない,戦国時代にあったとしても敵味方塚とかを作り戦争が終わった跡はあまり恨んだりしないのである。
中国では敵は墓を掘り出しても刑罰を与える徹底したものなのである。
中国では争いは容赦のない過酷なものになる

李自成の失敗は何だったのか?
「均田免賦」とか徹底した平等を目指した,それは共産主義思想ににている
それが北京の紫禁城を占拠して王になったときその統治に失敗したのか?
それがあまりにも徹底していたためである。

李自成は「追賍助餉」というスローガンの対象を有力な官僚や軍人にも広げ、大量の金銀の提供を命じました。ところが、これに多くの有力者が反発。李自成は応じない人々を処罰。呉三桂の父親も含まれていました。このことが呉三桂が寝返る原因の一つとなったのです。

呉三桂の恨みをかって失敗したとなる,つまり徹底した平等を目指すときそれを簡単にはできない,失敗する,カンボジアの徹底した共産主義も失敗した
一見理想主義でありいいように見えても失敗した
その原因は何なのか?
そもそも人間の歴史を見ればわかる,なぜ人間には金持ちと貧乏人がいてなくならないのか?
この理由は何なのか?
それは何か不正をしているために富をもつものと貧乏になるのか?
そういう一面はあるし福王などは極端だからそうなったことは確かである。
でもすべての富者がそうなのか?それは不正のために富者になったのか?

それだけではない,例えは浪江で畑を作り平に今のいわきに野菜を売って財を成した人は篤農家であり農業技術に優れていたから三人もの娘を大学に出すことができた
そうして富者になったのはその人が優れた人であり努力したからだとなる
同じ農業をしていても全くだめな人もいて失敗している
それは事業でもそうである。失敗する人と成功する人の差がある
別に不正していみんなもうけているわけではないのである。
不正して富者になっているとは限らないのである。
もしそういう人達を否定したら徹底に何をしようと平等にしたらかえって不平等になるのである。
それでソビエト連邦は崩壊したのである。カンボジアでも共産主義は徹底して二百万人が死んだとか大失敗に終わり疲弊したのである。

このポル・ポト政権による強制労働、飢餓、大虐殺による死者は200万人以上とも言われています。1970年代の総人口が約700万人と言われているので、約3割がそれにあたります。そして、ポル・ポト政権崩壊後の国民の85%が14歳以下でした。それだけ大人が殺されたということです。

ここでは悲劇の象徴として骸骨が積み上げられている記念館のキリングフィールドがある
これも徹底した平等を目指すとかえって危険なことになる
今まで積み上げてきたものをみんな否定してしまうからである。

人間は不平等になると飢饉とか苦しくなれば反乱を起すようになる,そして盗賊が王になったというのも中国にはある,盗賊が王になるということはその心情が理解できる
なんであいつは金持ちなのにこっちは貧乏なのだ,金持ちから金を盗んでもかまわない,それは悪いことではない,泥棒にも三部の理があるとなる
そういう人間の気持ちは変わらない,だからそれが大規模になると盗賊が王になっても不思議ではないのである。中国ではその格差が大きいからそうなりやすいのである。
権力をもつとものすごき富が集中して酒地肉林になり豪華な地下宮殿に墓に膨大な人民の税が使われるのである

それが現代の共産主義でも継続されているのである。兆の金が官僚が手にする,共産主義なのに平等をめざしているのにとんでもない格差社会になっているのだ
だからまた反乱が起きてくるとかなるし興味深いのは満州族の住んでいる瀋陽軍区が北朝鮮と一体であり北京に向かい反乱するという観測である
なぜ北朝鮮とか朝鮮がこれまで中国に統一されず生き残っているのか?
それは満州族と一体でありそれでつぶせないということもあるとなる
なぜなら満州族の金という国を起こしてその属国になっていたからである。
つまり歴史的継続からみると満州と朝鮮は一体なのである。
だから北朝鮮の核兵器の標的は北京にも向いているのである
満州族は文字がなくモンゴルの文字を採用していたのである。

いづれにしろ歴史は必ず教訓を残す,人間の個々人でも必ず教訓を残す,だから歴史に学べというとき人間はやはり同じようなカルマを繰り返すものだからである。
国にもカルマがあり個々人にも家族にもカルマがあるからである。
中国ではワイロの国だという時も今でもそうだからである。
ワイロによって外国の企業から官僚に金が入る、するとそこには資本主義の公平さがなくなるのである。それはやがて国がまた格差社会となり反乱が起きるということである。
中国はその歴史,カルマの繰り返しだったとなる



posted by 老鶯 at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

常磐高速のセディティに市がたつ (苔の展示の店がまた出た-市は人の出会いを演出する)


常磐高速のセディティに市がたつ

(苔の展示の店がまた出た-市は人の出会いを演出する)

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苔の店と陶器の店

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隣の陶器の店で売っていたもの

海の底のような感じでいい,日常的に使うのはどうか?飾ってゆくのにはいいかも


高速のサービスエリアは連休でにくぎわっていた,店がいくつか出ていた
カレーとナンを売っているのはインド人である。
これはこの辺では売っていない,福島市と仙台市ではナンを出しているレストランで食べたことがあった
だからこの辺ではナンは食べられない,炭火で焼くナンである
他にたこ焼き屋とかも店を出していた,その店の人は知っているおくさんは中国のハルピンから来た人である。これでちょっと国際的になっていることがわかる

山の頂上をイメージしたものを枯木と苔で作った創作品を出していた,この人とは前にあいやはり苔に枯木をあしらったものを買った
今回の出したのはもっといいものである。山の頂上の感じを出した逸品である
その他「やましゃく」とかもだしていた,ヤマサトと聞こえたが山芍薬のことである。

「こんなもの山に咲いているですか」
「咲いていますよ」
「この辺では見ないでしょう」
「これは山形でとってきたものです」
「こいうものは山に入ってもめったに見れないでしょう」
「これは高いですよ,5000円くらい軽くしますよ」
「これは山で見ることはめったにないでしょう」

このヤマシャクヤクははじめて知った
ヤマシャクヤクは山に咲く芍薬でありヤマアジサイとなると山に咲くアジサイとなる
ヤマジサというのもありヤマのジサの木のことであるらしい。橲原(じさばら)という村の名前もある、ヤマシャクはこれはめったに見れない,これは四日くらい咲いて散るとなれば余計に見れない,神秘的な花だとなる

それからこの野草などを売る店の主人は植物に詳しい,前も道の駅で枯木に苔をあしらったものを買ったことがある,今回の作品は前より山の頂上の感じを出しているので傑作である。ただまだ苔が成長していないので残念である,これから成長するという
その人は苔に関心がある,苔にもいろいろ種類があるという,苔は三種類からは知っているけど実際苔の種類は多いのである。

コケ(蘚苔類)の種類は、世界で約二万種ほどありますが、そのうちの1/10、約1800種のコケが日本国内に生育しております。こんな小さな島国に、1800種ものコケ!
日本は、自然豊かなコケ大国なのです。

苔(コケ)は、意外に寒さには強いようです。
しかし、乾燥した冷たい風にさらされると
茶色っぽっく変色して枯れたようになります。
でも枯れてしまったわけではありません。
春になればまた緑色に回復します。
気温の下がる冬、屋外の苔は休眠します。
あたたかい室内に置いた苔は
休眠せず成長を続けます。
冬でも苔の緑を楽しむには
あたたかい室内に置くことです。

苔も不思議である。その人は地球の最初の植物は苔だったという,苔は冬にも強いというとき北欧ではトナカイは雪に埋まっても苔をほじくりだして食べていたテレビを見たことがある,苔がその時貴重な食料となって冬を生き延びていたのである。
苔があるからトナカイも冬を生き延びることができていたのである。
冬は乾いて乾燥して死んだように色もあせるが死んではいない,休眠しているだけでありまた緑の色にもどる,イワヒバも死んだように色が変わりまるまるが死んでいないのである。そうして休眠することができるからこそ冬を生き延びることができるのとなる
植物も冬眠するのかとなる

南方 熊楠(みなかた くまぐす)

生物学(特に菌類学)
民俗学
研究機関大英博物館
主な業績粘菌の研究

この人は外国まで言って苔を研究していたのである。熊野の森は深いから研究には適地だった

 タブノキ(クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種と認められた。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの

ただこの辺の植物は生きるのに結構過酷だという,冬は風が吹くし乾燥しているし浜通りは意外と季節的に厳しいと言っていた,なぜそういうかというとその人は植物を苔でも他の花とかでも育てているからそう言っているのである。
かえって雪国は雪が温度が一定して保温してくれるから植物にはいいと言っていたのも意外だった
その人は朽木に興味がありそれに苔をあしらうのに苦労していたのである。

その名も「雪の下大根」は、甘くみずみずしく、食感はまるで梨のよう!!

越冬野菜にとっての最適な条件は、温度が常に0℃にであること、そして、適度な水分が保たれることです。0℃という条件だけでは野菜がパサパサになってしまいますが、雪の下に埋めることで雪がほどよく解けて水分が保たれるので、みずみずしさが増すのです。

雪国を見ると雪に埋もれて何もないようでもこうして恵みを与えるのもつくづく自然だと思った,恵みはどんなところでもある,かえって浜通りが気候的に厳しいというのは意外だったのである。
その人はとにかく苔を成長させたり植物をいかに成長させるか取り扱うかに苦労しているからである,それは野菜を作るとかとにているのである。
その人は山から何か植物を花でも採集するのだがそれもかなり苦労している、うまつやらないと植物がそこなわれるからである。

そして面白い話として虫に食われて茎がだめにして花もだめになるが山の自然の植物はその虫に一部食われても根が他にも伸びてまたそこから茎が伸びて花を咲かせるとか言っていた,植物でも野菜でも虫も大敵なのである。だから薬を使うのである。

一人の客が来た,その人はまた私はクリスマスローズをやっているんですとクリスマスローズの原種をもっているという,それの花は小さいという,花を大きくしたのは品種改良したからである。チューリップの原産はトルコにありその花は小さいのである
でもオランダで品種改良して大きくして種類も増やしたのである。
その人はクリスマスローズを専門にしているから店を出した人もその話を聞いて感心していたのである。
とにかく植物の話になるときりがないのである。肥料がどうだとなるとその人はクリスマスローズいかに扱うかを知っている,しそれを試行錯誤している,つまり花一つにとってもその扱い方が変わるからそうした話はきりがないのでありあらゆるものを成長させることを知っている人はありえないのである。
それだけ広い分野になる,農業とにているのである。
自分は花の美しさを主に見ているがそれを育てるとなるとその知識も膨大でありそれも試してみないとわからないから詳しくなることは至難だとなる
そこで売っている人もあらゆくことには通じていないけど苔とか山の植物を扱っているからその苦労を語るのである。

要するにクリスマスローズに詳しい人はは南相馬市内に住んでいる人である。
その人は互いに親しくなりたいようだったが売る方の人はちょっと変わっているから警戒していて家まで来るのは困るとと断っていた
その人は相馬市の人であった,その人は歴史好きでもあり住んでいる場所のことをしきりに語っていた,姓は伊達である,伊達と相馬の境に住んでいるという,だからそういう歴史に興味をもっている,新地は伊達領だったからである。
海に近いから何か港があったのではないかとも言っていた,塚部という所に住んでいる
それでしきりにそのことを言うからおそらく田んぼの前は塚がありその塚があったから塚部(かつのべ)となったと自分は推測して言った,ただその土地についてはわからない
地名の方が先にあるからそうだと思った,何かその辺で争いがあり墓があって塚となっていたのかともその人は言ったからだ,でも塚というときもしかしたら古墳があるところとなると相当に古いとなるのである。地名は相当に古いからである

その人は歴史にも興味があるといっていた,それでいろいろ話もした,相馬市は実際良くわからないことがある,それは次に書いてみよう。
郷土史というとき実は範囲が広いのである。土地の気候とかどういう植物が生えているとかもそうである。だから今回浜通りが植物の野菜などの生育には雪が降らないのに厳しいというのが意外だったのである。
その地域にはこうしてその土地土地の風土がありそれを基本的に体感しないとその土地のことはわからないのである。
だからそういうことは農家の人が詳しいとなる,ただ花栽培となると野菜作りともにているのである。肥料とか水はけとか植え替えとかなんとかきりなくその扱う方法があるからである。

隣は前も陶器を売っていた,ただここの場所代一日でも7000円とられるという
それで二人で払っているという,7000円は高いとしきりに言う,自分もそう思った
なぜなら半日くらいそこにいたが食べ物と違い売れないからである。
その人は趣味でやっているからいいのかもしれないが場所代も稼げないとなるからであるその場所代は県の方に払われるらしい,というのは道路は県で管理しているからである。セディティは本当に人の出入りが多い,それで警備員が十人もいるのである。
車の誘導などをしているからだ

ただ出店とかは今はあまり見かけない,なんでも日頃売っているからそうなる
昔だったら市場は日を決めて月に何回かしかない,それで二日市とか四日市とか五日市七日市八日市一〇日市廿日市とか地名化しているのである。
今回はその市が小規模だが復活したとなる,その時ここはただ物を売り買いするだけでなく情報をやりとりする場にもなる
それでしきりにクリスマスローズに詳しい人がその人と親しくなりたくなっていたのである。同じ趣味で親しくなりたくなっていたのである。
遊牧民とかなるとまず離れて暮らしているからめったに会わない,すると市がたつとき会うからそこでいろいろな生の情報に接するのである。
だから嫁探しに来るという人もいたのである。

つまり市とはただ物を売る場ではないのである。人間的な場なのである。
そういう機能もあったのだが現代はただ物を売る場でしかなくなって市が消えてたのである
市が立つということは祭りだったのである。祭りの日に出店が並ぶからである。
今回はその市がたった頃のことが復元したとはなる
とにかくあそこだけが人が集まる都会なのである。あれだけの人の出入りがある所はこの辺でないのである。それも遠くから来る人が多いからである。
連休では特にそうだった,ただ別に遠くに来たからといって自分は話はしないしできない駅と違ってここではできない,だからどういう人が来ているのかわからないのである。
ただ野草を売っている人がいてそういう植物に詳しい人が互いに情報交換するということがあった,それが市のもつ機能だったのであり人間の出会いの場を提供していたのである

ともかく連休も終わった,みんなどんな思い出を作ったのか?
自分は今は遠く行かない,近くでも究めるものがあり意外と人間は灯台もと暗しであり知らないことがある,見逃されているのである。
どんな人が住んでいるかも知らないのである。郷土史となるとやはりそこに住んでいる人も対象になる、あの人はあまり話しないが今回はずんぶん話した
家のことも話したのである。だから次にそれを書いてみよう
ただ歴史に興味があるとしても基本的なことは知らない,それが学者と違う
でもあの人から家でも歴史がたどれるのである。
なぜなら伊達という姓自体がそれを物語っていたからである。

最後に苔というとき自分は金閣寺で苔に落ちていた真っ赤な椿を見た
それを今になって思い出した,それはすでに三〇年もすぎているかもしれない
なぜそれだけを思い出したのか,やはりそれが鮮烈だったからかもしれない
それで俳句を作った

椿散る苔に赤しや金閣寺

何かこれが京都らしいとなる,苔寺などもあるのが京都の庭だからである。
つまり椿の赤さと苔の緑と金閣寺の金色が映えているのだ
その対象が鮮烈なものとなっているからだ
苔寺に散る椿の写真がインターネットにある

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夏の季語として苔の花もある,微小な花である

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霊山の苔清水



霊山の岩黒々と苔清水

苔清水修行の僧の霊山に

苔清水というと夏の季語だが自分が行ったのは春だった,でもあの清水はまさに苔清水だったのである。霊山は南朝の城がある前に天台宗の修行の僧が住んでいたのである。
ともかく歴史的に生物学的に地質学的に美的に文学的に宗教的にとか郷土史の範囲は広いのである。
だからとても一人では郷土史は研究できないしそれだけの能力も自分にはない

だから今日花を咲かせるのに植物を扱うのにいかにその実践的知識が必要なのか
一つの花を究めるだけでも大変なのである。すると花の種類も多いからそれにあった扱いが必要となるときそれだけの知識を得ることは不可能だとなる
そのことでもいかに郷土史の範囲が狭いようで広いことがわかるのである。

2018年05月07日

金とカルマ (金は責任でありカルマとなる)

金とカルマ

(金は責任でありカルマとなる)

金にまつわる話は一番多い,それだけ金無しでは生きていけない時代だからである
金の怖いのはなんでも金が入ればいい,得ればいいとなっていることである。
その金がどうして得られたのか?そこでカルマになっているのだ
これも奇妙なんだけどある人が三百万円で墓を頼むといって死んだ
それを頼まれた人は責任が生じていたのである。
自分も関係していたが金はもらっていない,でも金で頼まれた人は墓を守っていかねばならない,それも結構めんどうなのである。
別に墓を捨ててもいいがそれも何か後味悪くなるだろう

その原因は金をもらって責任が生じていたためなのである。
もし自分と折半していれば責任は半分になっていたから楽だとなっていたかしれない
ただその人は子供がいるからその子供が墓を守るということで三〇〇百万円もらった
でももう孫の世代になると祖父母に直接あったり知らないとなりいづれ墓も捨てられるかもしれない
だからそもそも三〇〇百万円で墓は維持できない
それより金で墓は維持できないものなのだろう。何か家系の継続がないと維持できない
そして今代々つづく家は減っているから余計にできないのである。
ただ金はこのうよに常に責任が付属してカルマとなっているのである。

金はみんななんでもいいからもらえばいいと多くもらえばいいと思っているのだ
だから別に不正しても盗んでも得ようとする,盗むにしても金持ちから金を盗んでいいのだという泥棒にも三部の理が働いているから罪の意識などもないとなる
でも何かもらってはいけない金というのがあり怖いものが金にはなる
ある人が不孝で死んで入ってきた金を権利もないのにもらうことは一見いいようでも後でカルマとなり災いとなる
弁護士に不孝があり相談してそれだけで百万も要求されて払った
でも別に払う必要もなかったのである。
そんな法律がそもそもないし相談しただけでそんな金をとるとしたらその弁護士は悪徳弁護士だったとなる,その金は何か悪いものとしてその弁護士に将来左右するかもしれないすでに何十年も過ぎたから実際にしているかもしれないのだ

ともかくみんな金になればいい,金になることならなんでもいいとなる
それだけ金が必要な時代だからそれを否定できない,実はそういうふうに金がなくてもいいやというのはある程度金を持っている人なのである。
余裕があるから金があるからなくてもいいやとなっているのである。
そうでないと金に余裕ない人はどんな由来の金でもほしがるのである。

この辺でも原発の補償金でもめたけどこれもみんなただ高くもらえばいいとしか考えない絶対にこれでいいなど満足しない,もっと欲しいもらって当然の権利だなって要求する
でもその権利があるにしてもそれを要求できるのは避難者になった人達だけであり他の人はほとんどもらえなかったのである。
原発がある市町村は前々から何かと補償があり財政的にも潤っていた
お前らは前から優遇されていた金をもらっていたとなる
実はそれは責任でありカルマとなっていたのである。
そういうことを金をもらっているときは考えなかったのである。
その金は責任がありカルマとなり今それが現れているのである。
だから外部からはあいつらは原発あるときも金になり原発事故後も金になる勝ち組なんだと見られているのである。

金というときみんな金持ちはいいとおもっている,誰も金が欲しい,金があればと常に思っている,ではその金には責任がありカルマとなる
貧乏だけがカルマではない,金持ちに責任がありカルマがある
なぜなら中国のようにまわりが飢えて死んでいるとき贅沢していた福王は殺されて鍋でにられて食べられたからである。
その金をまわりの納得いくように使えないそうなる
巨額な金をもっていてもそれをためておくだけならその金は奪われる,強盗などが入ってきて奪われ殺されることも普通にある
だから金をもつときそれを有効に使い活かされないものは巨額の金をもつ責任が果たせないのだからもつべきではないとなる,ただ小金もちとかは別である。

金にはなんらかの責任が必ず生じている,そこで陶器を市で売っていた人は言う
金もらうと文句が来るから嫌だとでも文句が言われてこそそれを参考にしていいものを作ればいいとも言っていた
ボランティアだったら金をもらわないから責任もないのである。
だから適当であり時間を守らなくても休んでもいいとなると誰もそういう人に責任ある仕事はまかせられないのである。
ただ補助的な仕事をやらせるとなるだけである。でも金をもらえれば少額でも責任が生まれるのである。金を払う方から何かと注文と文句を言われる
でもボランティアだったらそんな文句も何も言われないのである。
その辺の兼ね合いがむずかしいのである。

金は金でありどんな経過を経て得ても金は金だという人もいる
でももしその金が不正で得たものや盗難された金だとか事故などで死んだ人の金を勝手に使ったりしたら何か災いが生まれる,現実に生まれている
金にはそうした責任とかカルマがある,どんな金も金だとはならないのである。
ただそれがわからないこともある,でも結果として何か金を不正にためて強盗か入って殺されたという金持ちもいるかもしれない
それはただの偶然ではなくそういうカルマを背負っていたがそれを自覚できないで金をもっていためかもしれない,そういうことはありうる
そこに金の怖さがある、金には責任とカルマがつきまとっているのだ

金は金だ,悪い金も良い金もない,同じ金だという思想は間違っている
ただ何か現代の資本主義は金の流れは明確ではない,誰かが操作して莫大な金が吸い上げられている,それが株式市場だとなるのはあまりにも規模が大きいからそうなっいる
それは何か悪魔的なのである。
数パーセントの人に金が流れているとかなるともうこうした金融資本主義は成り立たなくなる,その金は悪魔的となり自ずから崩壊してゆくとなる

金を人間がもっているモラルも通用しなくなりただ悪魔的に金が世界を支配する
そこで陰謀論が生まれてくる,誰かが金を操作して世界の金を吸いあげている
それがユダヤ人だとかイルミナティだとか陰謀論になる
そういうことを言われること自体もう資本主義は限界にきているとなる
やはりモラルが通用しなくなると誰も信用しなくなるからだ
だから今度はそのシステム自体が崩壊することになる
それはいかさま博打とにているのだ、サイコロの目に細工して不正にギャンブルでもうけているとなり誰ももうそのギャンブルに賭けたりしなくなるのである。
posted by 老鶯 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年05月08日

キジとタンポポ(矛盾している自然と人間の生活)


キジとタンポポ(矛盾している自然と人間の生活)

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タンポポの雉子に満ち咲き映えにけり

たんぽぽや復興団地にあまたかな

老木に都忘れのあわれかな


タンポポが一面に咲きキジがいる,キジはこのタンポポに飾られている,自然とキジは調和して美しいとなる
でもこのキジは畑を荒らすやっかいなものなのである。
そのことで小さな畑で野菜を作る女性が常にそのことを言う,キジに食われるのである。キジは大きいから畑のものを食べるにしても雀のようなものとは違う
これは畑を作るものにとって害鳥になるのだ
それでネットを張って防ごうとするがその人には金がないからまた金を出してくれとなる何かそういうことが畑でつづいている,種が高いとか肥料が買うのに大変だとか延々とそうなる,まずそれで収穫するのはほんのわずかなのである。
買った方がそんな金がかからないからいいとなる
ただ荒地にしておくのは良くないからしているが金がかかるのである。

もしこの畑で野菜を作っている人とかかわらなかったらこうは見ていない,ただ自然は美しいな調和しているなと見ているだけだったのである。
今まではそういう人とつきあっていないからそうだった,ただ自然の美だけを見ていたのである。
これもまた矛盾であった,これまで述べたように野菜作り花作りはにているのである
肥料とか水はけとか植え替えだとか美しい花を見るにはそうして苦労しないと見れない
それは野菜と同じなのである。
ただ自然に放っておいては見れないのである。

つくづく人間は矛盾している,こういう矛盾はいくらでもある、自分も矛盾している
花の美だけを見ているが花を育てるにはやはり野菜を作るように土とか肥料でも虫にもやられるから薬を使うとかなる
美しい花だけを見るというだけにはいかないのである。

ただキジをタンポポの原の中で見たときは本当に調和していた,キジはタンポポに飾られていた,その時人間にはないもの自然の中でタンポポに飾られていた
その美は人間が作り出した美とは違う,自然が作り出したものである。
それは最も美しいものである。人間は何かこうした美が作り出せない
人間が作ったものでこうした美は生まれないのである。

本当に着飾った女性が美しいのか?そこにこのように自然の美が生まれるのとは違う
第一その衣装を作るのには手間もかかり労苦から産み出される
でも自然のものはそういう衣装がなくてもキジでもキジ自体が美しいのである。
別に着物を着なくてもそれ自体が飾られている
何の労苦もなく飾られている

生命は糧(かて)にまさり、體は衣に勝るならずや。 
空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。
汝らは之よりも遙(はるか)に優るる者ならずや。 
汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長(たけ)一尺を加へ得んや。

野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。 
されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及(し)かざりき。

聖書だとキリストはこう言っている,キジを見ればわかる,キジの体は衣がなくても美しいのであり飾られている

野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。

労せずして紡ぐとは働かないで自然のものは美しいのである。
人間はなぜこれほど労して働いているのに美しいものを作り出せないのか?
それは自然を見ていれば言えるのである。

ただここでも矛盾しているのである。人間は畑で働いて実りを作り出す,そこにキジが来て食い荒らす,キジはその時人間にとって害鳥になるのである。

だからキジは人間がとらえて前は銃で打って殺していた,食料にしていた
食料として人間の役にたてとなるのである。
人間から見ると動物はそういうものにもなる、ただもし人間がいなければキジはそういうことはない,自然の中で調和して生きていたとなる
別に人間が作った畑が無くても自然界には餌となるものがあるからだ
こうした矛盾は人間が自然の中でいきはじめたときからあったのである。

あの老木は不思議である。本当に生きている?あれでも生きているのかとなる
そこに都忘れが咲いているというのもあっている
まさにそれは自分を象徴している,京都に都に行った日は遠くなり忘れたともなるからだ


2018年05月09日

人生百年を生きるヒント (クリスマスローズ博士のようになるのがいい)


人生百年を生きるヒント

(クリスマスローズ博士のようになるのがいい)


人生百年となると経済的にも備えられない,年金でも国民年金ではもともとたりないからそれだけの用意している人は相当に恵まれている
人生百年となると会社一筋に生きることがすべてではなくなる
会社を退職するとたちまち役割もなくなり社会的にも無用化される
でも会社に勤めてまた趣味をもつということも時間的にむずかしい
ただ会社勤めで得るものはある,それも経験なのである。
人間は何事経験なのである。

この辺で有名な裁縫会社で働いている人がいたが機械の操作がありそれがうまくできなかったという,裁縫の仕事は自分はわからないがそういう体験を勤めれば誰でもする
それで同じものを大量生産する時代が終わり個々人のオーダーメイドとなる
その時AI化するが裁縫する技術をもっている人は失業しないという
裁縫には人間の手が必要だとなる

人間は何か経験を積まない人はいないのである。それはどこかで役にたつ
ただ人間はあらゆる経験ができないのである。
自分は株の投資の経験がないから失敗した,これも経験していればそうはならなかった
銀行の営業の人がプロだと思ったが銀行自体が素人なんら変わりなかったのである。
それも時代が急速に変わり失敗したのである。

自分は会社勤めしていないし会社で働いた経験もない,だからそこで社会性がなく親の介護で苦しんだりした,人間はあらゆることが自分の経験を基にして判断しているのであるそれは本を読んだりしてもわからないことが多いのである
まず外国で生活した人としない人の差が大きいことでもわかる
旅行したくらいでは外国のことがわからないからである。
それも経験の差として現れるのである。

では退職したとき今度はどうそうした経験が活かされるのか?
活かされない場合どうなるのか?それが人生百年では問われる
そのヒントは何か一つのものテーマにして追及すること探求ことがある
常磐高速のセディティで「私はクリスマスローズをやっているんです」というとき
クリスマスローズにはいろいろ種類があったり原種をもっていたり花を咲かせる苦労があるそのことを語る時,その人はクリスマスローズ博士なんだなとも思った
クリスマスローズの専門家であり博士なのである。

それは野草とか花に興味ある仲間がいれば一目置かれるのである。
つまり一芸に秀でることである。それが人生百年では求められているのだ
ただ天才とかになることはできない,自分も凡才であり天才は例外でありまねできないのである。
でも何か普通の人でもあることに詳しくなれるし一芸に秀でることはできる
素人的専門家とかである,それは地域とか郷土史とかの分野でもそうである。
地域といっても広いから何か一つをテーマにして探求すれば詳しくなれるのである。
何かそういう探求するものがテーマとしてもつといいとなる

ただそういことでも定年なる前から少しでもしていれば延長としてできるのである
自分がパソコンのソフトで抽象画ができたのは偶然だったのである。
全く絵を描く才能がないのに絵を描いているというのも不思議である。
第二次作品でも創作している感じになるし外国の人がアメリカの人が十数名定期的に見ている,だから単なる模造品ではなく創作品として認められているともなる

人間はすべて生まれつきの才能でもないことがこのことでもわかる
才能とは開発しないかぎりないともいえる
開発するということが人間にとっては大事なのである。
それは本当は勉強でもそうである。何か暗記ではないもの,開発してゆく創意工夫して学ぶことが大事になる,そうすれば勉強に興味をもつ
自分にはそういうことが全くなかったから勉強に興味がもてなかった
ただ大学でも卒業して旅ばかりして地名とかに興味をもって歴史に興味をもつようになったとかなる
要するに地名でも興味をもてばそこからいろいろ他のことにも興味をもつのである。

ともかく暇な老人が本当に増えているしこれもふえつづける,何かうろうろしている人が増える,図書館で暇つぶししている老人もいる
パークゴルフ場では暇な老人で盛況である。
それだけ暇な老人が問題になもなっているのだ
その人たちが社会で有益なことができない,無用化しているのである。

苔に興味をもって朽木にあしらうことに工夫している人もいる
それは金にならないにしてもそれもその人だけにできることであり創意工夫しているから一目置かれる,陶芸の方は本当の専門家だから簡単にはできないが何か素人でもできるものがある
この社会でも自然でも多様だからこそ何かテーマにして専門家になれるのである。
ただそれを退職してからはじめるとなるとかなりのハンディキャップになるのである。
それが大きな人生百年の問題なのである。
ただスクールが暇が語源なときまさに退職後にまたスクールに学ぶ時代が来たともなる
それは今までのスクールではありえない,何か創意工夫を学ぶスクールになる

郷土史じも自分の家のことには興味があるからその歴史をたどりそこから郷土史に興味をもつとういことがある
苔に興味かある人は塚部(かのべ)に住んでていそのことをしきり言っていた
相馬と伊達の境の地域でありそこから郷土史を見ることができる
でもそこに住んでいないとわからないのである。
地理的なことが近くでもわかりにくいからだ
いづれにしろその住んでいる地域の専門家にはなれるとなる
そこに一番の強みがあるからだ,そこに住んでいる人がやはり一番地理でもわかるからである
だからそこに住んでいる人から話を聞けば郷土史の発掘になるのである。
人間は灯台下暮らしであり身近なことが意外とわからないのである。
身近なことに興味をもたないのである。だから人間は常に自ら開発しないかぎり発見もできないのである。
そういうことで人生百年は様々なことが発見されるそれぞれが一つのことについてテーマで博士になることが望まれるともなる

タグ:人生百年

2018年05月10日

地形の変形 (これも新しい芸術か?)


地形の変形

(これも新しい芸術か?)

Deformation of the landform

(Is this also a new art?)

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depth of the sea

相馬市に住む陶芸家によって作られた皿

Feeling like the bottom of the ocean

Plates made by ceramists living in Soma City, Fukushima Prefecture


これも何か一つの芸術的なものとなるのか?
無数の写真がありそれをパソコンのソフトで変形するとなる
ただこれもあまりににていると著作権違反になるかもしれない
ただ何か地形がダイナミックに変化している
だからそもそもこうして私がオリジナルなものを変形していること自体が
今までありえないことだったのである。
それはパソコンが生まれソフトを操作してできたものたからそうなる
ただ著作権違反になるかもしれない
でも単なるコピーではなく創作にもなっているのも確かである。

Is this also something artistic?
There are countless pictures and it will become deformed by the software of the personal computer
However if it is too much it may be a copyright violation
Just something terrain is changing dynamically
That is why I am deforming the original one
It was impossible until now.
That is because it was created by PCs born and operated software

It may just be a copyright violation, I do not know because it has not been pointed out
It is certain that there is a creation that is not a completely copied work.

四年間の投資成績 (銀行にまかせきりの人は投資はするな)


四年間の投資成績

(銀行にまかせきりの人は投資はするな)


銀行員が勧める金融商品の9割がダメな理由

この通りだった,銀行員は

四年間もすでに投資していた,その成績は損していないが実際は手数料がとられているので損しているかもしれない,銀行は信用できないということもある
ただ損はしなかったのは確かだろう
でも四年間かなりの額を投資したのだからそれもカナダの国債,USリートとあとでJリートを買った,その成績表はトータルでは確かに損していないがもうけてもいないと思う
とんとんで終わったとなる

一番の失敗はリーマンショック以来の株をもっていた,今日それがいくらになったか見たら五〇万とか増えている,もしこれをもっていたらどうなるのか?
その時点の株は確か16000円くらいだったのだ
それが今でも23000円とかなるとそこから7000円もあがっている
リーマンショクで半分になりそれが回復して7000円もあがったのである。
16000円の時に投資信託に回してそれが損したのである。

それをしたのは営業の独断だった,営業の人は別に銀行の上司に聞いて決めているのではない,営業の人が直接独断で決めていたのである。
なぜならそうすれば投資信託に回せばノルマを果たせるし成績を上げることができるからだ,もし銀行の上司が決めていたならまた別である。
つまり投資の出来不出来は実は営業の人にかかっていたのである。
もし営業の人が優秀だったら客をもうけさせることもできた
ただ銀行側としてはノルマを果たせることを第一にする
投資信託を銀行ではすすめたいのである。それは何か手数料が入る,配当があっても定期的に手数料がはいるとか銀行側にとっていいものなのである。
だからこそ営業の人も銀行の利益を考えるなら投資信託に回したのである。

銀行等は投資信託を販売することによって利益を得ています。そのため購入者が儲かる投信よりも銀行側が儲かる手数料の高い商品や上司から販促に力を入れるように言われた商品が勧められやすいわけです。

投資信託が危険だ、詐欺だと言われる3つの理由

もし金持ちに個人的に雇われた人ならそうはしない

なぜなら自分も損する,首になる

クライアントに客に頼まれて投資をまかせられるけどもし損させたら首になるからリスクを負うから自分のようにはならない,株が上がってきていたらそのまま様子を見ているだろう,別な投資信託に回すようになことはしない
自分もその時は自分の判断をするべきだった
それは素人でもこれだけ上がっているのだから売る必要もないと思っていたのである。

だから銀行に頼むにしても自分で判断できるものをやるべきである。
株は自分で判断できるのである。日経平均を見ていればいいのである。
安く買って高くなったとき売ればいいだけだからである
それは自分で判断すればいい,それで失敗しても責任は客にある
でももし銀行の営業でも金持ちに頼まれた投資家でも失敗すればリスクを負うから簡単には決められない,真剣になるのである。

つまり銀行側に営業者に判断をまかせてはならない,そしたら判断をまかせる
でもその判断の責任は銀行でも営業者でもとらない
銀行はそもそも株でも投資信託でも責任は一切とらない
責任をとらされるのは客なのである。
「もうけさせますからまかせてください」と言っても失敗したら一切責任はとらないのである。
もし自分で素人なりわかって判断するならそれで失敗しても責任は客がとる
そういう商品ならしてもいいとなる,別に銀行側に責任はないとなるからだ

いづれにしろ投資をふりかえって損はしないにしろ失敗だったと思う
まずこれだけ投資をしてももうけたとは言えないからだ
むしろ株をそのままに放置していたらかえって大きな利益があった
そのことが一番悔いているのである。
だから自分はもう株とか投資信託はやる気がなくなった
まず銀行とか証券会社を通して投資しているのでは普通はもうからないものなのだろう
証券会社が銀行の意向が働いているからである。
証券会社や銀行の利益が優先するからである。
そのことによって判断も誤るのである。

商売も損して得をとれというとき投資にもあっているかもしれない
銀行でももうけようとしたら客にもうけさせる,銀行側だけがもうけて客に損させる
そういう商売は一時はいいにしても長くはつづかない
そして今銀行は追い詰められているからかかわると危険だとも思う
余裕がないと客に対しても余裕がない,銀行側が営業者がノルマを果たしたいと余裕がないから客のことなど考えられなくなるからだ

借金している人が自分が苦しい時にきてひどいめにあった
そういう人はとても人を助ける余裕などないのである。
今地銀はそういう立場にある,銀行は今は窮地にたたされている
こういうのとかかわると危険になる
投資は別に詐欺でもない,素人でももうけはだせる,ただそれはなかなか知り得ようがないから失敗するのである。
投資信託は特に仕組みが複雑でわかりえようがないから失敗する
そして失敗しても誰も責任はとらないのである。
だから自分でわかり判断できるものはして自分の責任でもしょうがないとするべきであるそうして割り切ってやるのならいいが後で文句を言うようになるならやるなとなる

タグ:投資の失敗
posted by 老鶯 at 16:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

無人化した駅の問題 (市役所の人,JRの下請,地区の人・・が来る)


無人化した駅の問題

(市役所の人,JRの下請,地区の人・・が来る)


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つばめの巣のことでアサガオの人が文句言う

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自転車置き場の拡張工事のための調査

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JRの下請の人がホームの長さを計る



障害者のアサガオで毎日トイレ掃除している,そのトイレは市で作り運営している
だから市で金をだして掃除させている
駅舎内でホームの掃除はJRに頼んだ業者と商工会の観光部の婦人がしている
それはJRが頼んで金を払っている

今日は自転車置き場を広げる工事のために市の人が来ていた
それからJRの下請の人がホームの長さを計っていた

市で運営するトイレは燕の巣で汚れた,それを掃除するのを嫌がっていた
掃除しにくいからである。
去年は駅舎の中に燕の巣を作られてそれをJRの人が掃除していた
燕は何度もいい場所を見つけると巣を作ろうとする
それでネットをと張ったりして防いだ
トイレでも何回も燕は巣を作るため入ってくるのである。

とにかく駅にはこうして業者の出入りがある
今は駐車場の隅に電気関係なのかJRの鉄道運行のための小さい施設をつくっている
要するに駅はこれだけ手がかかっているのである。
それはJRだけではない,市でも商工会でも地区の人もかかわっている

駅は無人化したがそれでもこれだけの人がかかわっている
そして無人化することは何か管理するものがいなくなるからそこが無法地帯にもなる
なぜなら自由にホームにも出入りできるからである。
JRの人が除草していたがホームに入って何しているのか聞いたらここに入るなと言った
これもまた無人化しているから勝手に出入り自由になっているからそうなる

つまり施設でも人がいない施設は誰が管理するのか守るのかということもある
空家が増えているがそこを所有している人はいても出入り自由になり犯罪者の住処にもなるし何かそこで問題が起きることもある
それは管理する人がいないからである。
原発事故の避難地域ではそうなった,街に人がいなくなり無法地帯になったのである。

だから無人化することは経費の節約だがそこに問題がある
確かにJRで人を置かなくても管理はしている,でも無人化していることは勝手にされるということもある、駅に何かを勝手に置くなというが人がいないからそうなる
それが駅にとって地域にとっていいことでもそうである。
だから無人化した駅はJRだけでは管理できないのだから勝手にされてもしかたがないということもある
確かにJRで権利があるのだが一部なくなるということもある

要するにもうJRだけは管理できないから市でも地区でも管理してくれとなっているのだ
だからJRだけが何か権利があるのではない,市とか地区とかも権利があるともなる
無人化するとはこうして権利を失うことにもなる
人がいないということはそういうことである。
それは原発事故の避難区域で人がいなくなったことともにているのである。
タグ:駅の運営

銀行,証券会社はブラック会社 (社員はノルマの奴隷-インターネットから引用)


銀行,証券会社はブラック会社

(社員はノルマの奴隷-インターネットから引用)

「おい。お前、今月数字できてないだろ。お前の給料分以上の働きはしろよ。それとも俺に何か恨みでもあるのか? 今、ここで言え。『今週中に必ず100万円の数字をつくります』と……」

ノルマのためなら、顧客なんてどうでもよい

ニュースサイトで読む: http://biz-journal.jp/2012/08/post_485_3.html
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「投信を購入する人は、たいてい人気が高くてすでに値上がりしているファンドを買いたがるため、基準価格がピークに近いときに買ってしまう人がとても多い。ところが、一般的にはピークの期間はそう長くは続かず、それを過ぎるとマーケットが調整局面入りして基準価格も値下がりしていく。人気の高い投信を買って儲かったという人は意外に少ないんです」(前出・神戸氏)


正直、オススメのファンドは派手な宣伝もなく、資金もそれほどたくさん集まっていません。金融商品では保険などでもそうですが、良い商品は概して日の当たらない場所にあるものです。

投資信託はあなたから手数料を吸収するのとは別に、もう一つの役割があるのです。

何だと思います?

それは自社の投資部門で赤字になった証券をあなたの買った投資信託の中にこっそり混ぜて運用して、顧客に損失を被って貰う為にあるのです。

つまり証券会社が上手く儲ける為のシステムでしかないのですよ。

ちなみに証券会社内の隠語で投資信託は「ゴミ箱」と言われています。


投資信託を買おうと思われている人は、「素人の選択眼で株や債券を買うよりは、多少のコストを支払ってでもプロの運用に任せるほうが、リターンは少なくても確実なような気がする」って人が多いのではないかと思います。

しかし、まず大きな間違いなのは、投資信託を運用している人は、プロと言うか殆どの人がただのサラリーマンって感じです。

投資信託(ファンド)って聞くと、「ちゃんとした会社の、ちゃんとした金融商品」みたいな印象を受けるかもしれませんが、調べれば調べるほど「証券会社や銀行がいかに上手く手数料を稼げるか考えた商品」って感じですね。


こういうことだったの?それは自分が経験したから理解できた,もし経験しなければまた理解しにくいことがあるだろう
何か楽天的に考えるのが人間だからである。
人間はつくづく経験でしか本当に理解しないのである。
投資は海千山千のものである
ところがなぜ失敗したのか?

銀行員が来たということである

自分は銀行は地銀などは硬い職業だというものと思っていた
その銀行員が直接来たからまかせたのである。
でもマイナス金利とかで銀行が窮地にたたされて証券売買も自由になったとき銀行は変質していたのだ
それを知るのも遅かったとなる

結局自分の経験で一番わかりやすかったのは

なぜリーマンショク前に買っていた株を投資信託に回したのか?

それはここに書いてあるように銀行側の利益を優先しているからである。
証券会社や銀行員は今やノルマの奴隷なのである。
証券会社はもともとそういうことがあったが銀行員も今やそうしたブラック会社になっていたのである。
銀行員のイメージは堅実で地域でも有力な就職先であり銀行に就職したとなると信頼されるものだったのである。
それが社会が変わり銀行は投資先もなくもうけることもできないから証券会社化したのである。
現実に証券会社の人が銀行で仕事しているのである。
証券会社と一体化しているのが今の銀行なのである。

この世にはブラック会社も多い,それが銀行にもなっていたのである。
銀行は意外と文系でも就職しやすい場である。
でも銀行が体育系なのかというのも驚きである。
銀行は知的なエリートが入る会社だと思っていたからである。
営業に来た人は押しが強いから体育系の人である

でもそういう人が営業に向いているとも限らないと思った
そういう人は強引であり相手のことを知り聞いたりしないからである。
たから自分がこれまでもっていた株をなぜ売るのかと疑問に思って聞こうとしたが一方的に投資信託に回したのである。
そのことを一番自分でも悔いている
確かにその時の情勢があるからいちがいには批判できない
でも分散投資をするなら株であり国債であり投資信託にするとなる
なにも投資信託にすべて回す必要はなかったのである。

そのことを言っていたのでそうしたのである。
それも結局銀行側の一方的にもうけるものとして投資信託が設定されていたのである。
投資信託の仕組みは素人には理解できない,理解できないということはだましやすいことである。法律でも普通理解できないからまた弁護士にとってだましやすいということにもなる

株だと単純なのである。日経平均を見て下がった時に買い上がった時に売ればいいだけなのである。
株が上がってきたから普通だとチャートを見て上昇する株はすぐに売らないのである。
その判断はむずかしいにしろ素人でも判断できるのである。
まず投資信託は絶対に仕組みでも理解できないようになっている

それは証券会社が銀行がだますものとして作られた商品だ

そうまで言えるかもしれない,そういう商品だったということである。

posted by 老鶯 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題