時間は何かをなし遂げるためにある?
(時間は年齢と反比例して貴重になる)
自分の銭(カネ)を分けてやりたがる者は見当たらないが、
生活(時間)となると誰も彼もが、なんと多くの人々に分け与えていることか。
財産(カネ)を守ることは吝嗇(けち)であっても、
時間を投げ捨てる段になると、貪欲であることが唯一の美徳である場合なのに、
たちまちにして、最大の浪費家と変わる。
セネカ
人間にとって時間とは何か?それは謎である。人間は時間と空間の中に生きていることは確かである。
人間はそれぞれの地域で生きる,その地域の空間はみんな違っているのである。
例えば海側に住む人間と山側に住む人間の空間は違っているのである。
福島県だとハマ、ナカ、アイヅになる
この空間は相当に違っている,なぜならハマは浜通りは冬はほとんど雪がふらない
でも会津は冬は雪に閉ざされてしまうからである。この差は大きいのである。
そこに培われる感覚は相当に違ったものになる
海は人間を解放的にするが山は閉ざされた感覚になるからである。
そういう空間感覚のアイディンティティは地球が広いからどこでもある
そしてその空間でもその空間をアイディンティティ化することは時間がかかるのである。まずその土地のことを深く知るには絶えず耕すことが必要になる
それは現実の生活で農業などするとその土地を耕すことが必要になる
その土地のまさに土や気候のことを知らないと農業にならないのである。
それはもう一代だけではできない,だから農家だと三代ではじめて農家となり仲間となるというときそれだけその土地のことを知るのがむずかしいからである。
農業は工業とは違うからそうなっている
これを何か芸術にしてもそうである。だからこそcultureはcultivateになる
その土地を深く耕していかないといいものはできない,そのためには時間がかかる
その土地を知るには例えば老木のようにならないとわからないことがある
それだけ時間がかかるのである。
相馬地域でも狭いにしろ複雑な地形なのでありそこに魅力がある
自分はそうしてその地形から詩とか書いてきた
だから自分が一番興味をもっているのは地形なのである。地理なのである。
それは世界まで自由に旅したことによっても地理に一番興味をもっているのである。
では不思議なのは時間というのは別に地理のようにそれぞれの特徴があるわけではない
数学的には世界中一時間は一時間の長さなのである。
でも時代的に時間の感覚は相当に違っている,現代文明の時間は一秒単位で時計に刻まれる時間なのである。だから心臓に悪く感じる,何か時間に切迫されるのである。
現代に生きていればそういう時間感覚から誰も逃れられないのである。
その時間感覚から逃れるのにはタイムマシンで江戸時代とかにもどるほかないのである。その時時間の区分はおおざっぱであり時間の感覚はまるで違ったものとなるからだ
時間とは何なのか?人間の時間とは何なのか?それはいろいろある
人間はまず時間によってしか何かを理解したり深く物事を考えることができないのである何かを深く知るには時間が必要になる,そもそも人生そのものが時間によって理解が深まるからだ,若い人はどうしても経験がないから浅薄な考えしかない,深い思想をもてないのである。爆発的行動力があっても深い思想によって行動することはできないのである。ただ若者は若者の成すべきことがあり時間が与えられているのである。
時間というのはただ過ぎてゆく時間としてとらえると何の意味もないだろう
時間とは何かを理解する会得する何かを成すために与えられているのである。
そして時間は限られているのである。
そして若いときの時間があり壮年の時間があり老年の時間がある
それはその時々に成す時間が与えられている,そして若いときすべきことをしないともう二度とできない,激しい運動とかきついことはもう年になるとできないのである。
老人になって何かを新しく学ぶこともできないのである。
時間とは何なのか?それは何かを理解して何かを成すべきものとして与えられている
その時間はそれぞさ限られている,例えば語学を習得する時間,楽器を習得する時間,
旅をして見聞を広める時間,登山して自然を体得する時間,思想を深める読書する時間,芸術を鑑賞する時間,農業を習得する時間,・・・・このように何かを会得して理解して習得する時間として与えられている
その中には時間は浪費される,人間にはいろいろな欲望がありさまたげられ時間は浪費されるのが常である。その時若いときもっと勉強していればなとみんな後悔しているのである。
そしてこれだけ本でも情報がある時代にはもうそうしたくだらないものに時間を費やしていると貴重な時間を失うのである。
次から次へと人は自分を売り込む時代である。くだらない小説など読んでいたらそれだけで何も残らない
しかし商業主義社会ではそうしたくだらないもの金のためにうりこむ,出版社でもそうである。
そういうものにみんな貴重な時間が奪い取られているのである。
それで老人になり後悔するが時すでに遅しとなるのである。
この世にはそうしてくだらないものが多すぎるからそれに紛れ貴重な時間を失うのである。
人間は時間によってしか理解できないものだと老人になるとつくづく思った
それは自然でも人間でもそうである。自然のものは気長であり悠長である
木が育つにも50年とかかかる,するともうその木の成長を見るのは一代ではできないのである。そういうふうに自然とともに生活していたときは人間は江戸時代あたりは時間の感覚が違っていたのである。
だから自分が石とか木をテーマにするときそうである。その土地のことでも長く住んでいないとわからないのである。時間によってしか会得できないのである。
人間は普通凡人ならまず年取らない限り賢明な聡明な人間になれない,
自分はもともと凡人だったから特にそうだった,何か聡明になれない,賢くなれなかったでもやはり年になれば物事でも人間でも理解が深まる
それを我ながら最近は自覚しているのも不思議である。
凡人でも老人になると賢者のようになるというとき何かあきらめとかついてそうなる
欲望にふりまわされていたがそれがなくなると自ずと聡明になるということもある
ただ老人でも時間を無駄にした人は何も身についていないのである。
何かをするために会得するために時間があるというとき楽器でも会得するに相当な時間が必要なのである。語学でもそうである。そうして有益なことに時間を使っていないとたちまち時間は飛んでゆき,「少年老いやすく学なりがたし」となっているのである。
時間はまた年齢に反比例して貴重になる,子供のとき時間が無限に長く感じられる,そこでは死ぬということは考えないのである。
若いときも退屈をもてあますのである。ただ何かを好きになり夢中になればそういうことはない,要するに何をしても何をしなくても時間はすぎてゆくのである。
人生はだから何に時間を費やしたかで決まる,ゲームに没頭した人はゲームが意味あるないにしろゲーム人生だったしギャンブルに費やしたものはギャンブル人生だったとなるのである。
そして遂に最後の時間がくる,その時一番時間が貴重になる
ぞうだろう,これが最後の一時間だとなればもうその時間は何十億円より貴重なものになる,いくら金があっても金はその時無用となり,何の役にも立たない
なぜなら死ねば時間がなくなるからである。その時時間の貴重さが一番現れるのである。
時間は二十代までは長く感じられるしこの時の時間が人間の基礎を作るから大事であった特に求道というとき最も命が盛んなときしかできない,老人になってからはできない
個々にも相当な誤算があることがわかる
求道などいつでもできると思っているができない,一番生命が盛んなときしかできないのである。だから若き時神を覚えろとなる,なぜなら若いときに人生の基礎を作るからである。若いとき曲がった方向に行くと一生曲がった方向に行くことになるかもしれない
それは簡単に是正できないから怖いのである
若いときは過ちをを必ず犯すけどそれも是正できない,それで後で後悔してもどうにもならない怖さがある,つまりその時そんなことたいしたことではないとみんな思っているし自分も思っていた,でもそれが後で後悔しても時間がもどらないから怖いことになるのである。その罪は払拭できない,刑罰になるならないではない心に刻まれるから怖いのである。
まずカルト教団などに入っていてそのまま人生送ったら人生を棒にふることになる
ただそういう人はありふれている
人生を棒にふる
そういう人であふれているのも現実である。その時はわからないのである。
人生をふりかえりわかるのである。でもその時はもう手遅れであり遅いのである
そこに人生の厳粛さがある,一回失敗したからまたやればいいとはならないのである。
それよりできないのてある。老人になって後悔してももう一度やり直すことができないのである。ここが人間の最大の盲点だったのである。
だから青春時代に30前までに人間の基礎ができて固まってその延長が人生だともなってしまう,自分の場合はそうだった,30代以降は遊びだったのである。
これも問題であり失敗だったともなる,何か社会性が欠如して60歳で親の介護になり四苦八苦したことを書いてきたが社会性かないためにそうなったのである。
ただ人間はどんな人でもあらゆることに通じることはできない,何か欠けているのである社会経験でも多様でありとても一人ではいろいろなことは経験できないからである。
ともかく若いときは時間の貴重さがわからないのである。時間など無限になると思ってしまうのである。ただ高齢化は長生きだからそれで何かを成すには理解を深めるにはいい時代なのである。それだけ時間が伸びることは人生百年ともなれば二回も人生があるとういことにもなるし何か才能がなくても積み重ねればそれなりの専門性を身につけうるし一角の人物になりうる時代でもある
第一50歳で何か成功する,文学の分野で成功するとかしなくてもいい,もう70からでもいいともなる,その時成熟したものが創作しうるのである。
老人になると人間はやはり賢明になり聡明に凡人でもなるからである。