2018年04月29日

満月や蛙の鳴いてや田水張る (蛙も同じ命であり復興の象徴になった)


満月や蛙の鳴いてや田水張る

(蛙も同じ命であり復興の象徴になった)


復興団地にタンポポあまり映えにけり

街中の空地にタンポポ咲きまぶし

芸人のボールの高く春の空

自転車に燕飛ぶ影よぎるかな

我が庭のボタン見ぬまに散りにけり

受け継ぎぬ栄華の牡丹我が家かな

満月や蛙の鳴いてや田水張る


受け継ぎぬ栄華の牡丹我が家かな


この辺はまだ復興の途中だということがある,でも蛙の鳴き声もひびくから前のうよな状態にもどっている,今日満月でありすでに夏の月である。
今日も暑かったからである。
それで田水張る田に満月が写り光る,これも人間の営みと自然が調和した姿なのである。その時人間の世界と自然が融和するから美が生まれるのである。

俳句は季語などはこうした稲作とか深く関係して生まれている
だから本当は農業しないと実感が生まれないともなる
なにか田水張る田に満月がふさわしい
復興したなと感じる,そういう光景がなくなっていたからだ
だからこの辺はまだ復興ということを感じないことがあった

やはりこれだけの災害だと復興といっても十年はかかる,もうその時一昔前になる
神戸でも10年たっても以前として復興がすべてにわたってできたわけではなかった
それだけここも甚大な被害だったのである。

ともかく避難区域になった小高とか浪江とかはこうした田んぼがないから復興を感じない自分が復興を感じたのは田が前のように作られて蛙がもどって鳴いた時だったのである。田んぼはやはり復興の象徴だったのである。
田舎では田んぼがないとしたら田舎なのかとなるからだ

ソーラーパネルとか風車とかできてもそれが復興とは感じないのである。
なぜなら蛙は同じ命であり人間と通じ合うからである
人間は機械を利用してもロボットでも同じ命だとは感じないのである。
そこが根本的に違うのである。
蛙は同じ命をもつ仲間だという感じになる
それは理屈ではない,本能的なものである

だから仏教では法華経では草木成仏とか動物も人間と同類としてあわれみをかけたりしていた
それはインドでは今もそうである。動物には人間の情が通じるからである。
それでペットブームになっているのもわかる
ペットは人間の仲間となりうるからである。

機械となるとこれは別なものであり命ではない,そこで人間とは断絶したものであり機械に頼りすぎると非人間的になる,現代はあまりにも機械化して機械に頼りすぎているから人間も非情になっていることはある
牛馬とともに生活していたときは牛馬も人間と情が通じ合うから機械とは違うのである。それで女性でも馬と結婚したとかの伝説が生まれたののである。

避難区域になったところでもやはり田んぼがまた作られて蛙が鳴いたら復興したという感じをもつ,それが田舎の復興なのである
そこにドローンとかロボットの工場ができてもそれが果して復興なのかということもある逆に田畑など金にならないから復興にならないとか言う人もいる
ただ田畑はやはり金になる金にならないの問題ではない
自然の中にあるものであり自然と共生するものとしてある
だからそれを金になるとか金にならないとか経済的効率ばかりから見れないのである。

そうすると今回のように東電によってすべてを支配され,一旦事故になったらすべてを失うのである。町も村も廃墟化して人は住めなくなり老人だけがそこに住んでうば捨て山のようになってしまうのである。
ただ以前として金が大事でありそればかりになるのが現実でもある
でも何が大事なものだったのか原発事故以後見直すべきなのである。

牡丹は庭に今年も咲いた見ぬ間に散っていた,これだけ身近に咲いていてもその花を見ないこともある
この時期はそれだけ変化が激しい,花もいろいろ咲きはじめる
でも何か見逃したなとなる,自分の家も一つの栄華だった,その栄華にふさわしいのが牡丹なのである。
この家にもあとどのくらい住んでいられるのか,この栄華を味わって住んだ人は死んだ
その後に自分がこの栄華の家に住んで終わりだとなる


「農本主義が未来を耕す」宇根豊著を読んで・・・・
(原発事故で問われた農の大切さ、でも農民も金が第一だった)

棚田に移る満月の写真



コバケンの料理はそれほどでなかった (煮魚定食は貧弱だった)


コバケンの料理はそれほどでなかった

(煮魚定食は貧弱だった)

この前の焼き魚のブリの鎌焼きは良かった,大きいから満足だった
今回の煮魚定食は貧弱だった,スーバーで売っているような安い鰈だった
ほとんど食べる所がない,タレはうまいにしても肉がほとんどないものだった
これも1000円だったが焼き魚と比べるとあまりに貧弱だった
ただそもそも魚料理を出している所は少ない
でもあれで魚を買った方が良かった

それから天ぷら定食もそれほどのものではない中くらいのものだろう。
ただ近くでやっているから食べに来ることがあるかもしれない
焼き魚はいいが後は本当のところ,料理がいいのかどうかはわからない
料理はその店でいいものとそうでないものがある
あそこで焼き魚とサシミ定食などがいいかもしれない
ただ1000円だと今ではそんないいものは食べられないから文句は言えないともなる

何か自分は一人暮らしになり食べ物にこだわるようになった
外食すると料理したくないからいいのである。
まず料理はいろいろとめんどうなのである。これに労力を使っていると他のことができなくなる
そして毎日のことであり買い物でも手間なのである。
だから料理することではない何を買うかが一番の問題だったのである。
外食でもそうである。何か買うのと同じである。
できた料理を買うことになるからだ,最初が当たったというか良かったので評価が良くなったが三種類食べて最初が良かっただけなのかともなる
ただ1000円では今はそんなものだとなってしまう

要するに食堂が多ければ自分にあったいいものを選び外食できる
でもこれまではできなかった,ある程度できるようになったのでそうする
料理はこんなに手間になると思わなかった
例えば盛りつけだってめんどうになるだろう。
やることが細かいことでもいろいろある
すると料理するだけで時間がとられるのである。
人間はいろいろなことに集中できないのである。

その手間を省くためになんとかしようとしたができない
雇っている人は今では三日に一回皿洗うとしてもそれも数枚であり何もしない
だから雇う必要もないのだが相手に事情があり雇っている
実際その人は金をもらいに来るだけなのである。
自分は介護になってからそうしてみんな自分一人でやるほかなくなったのである。
金でなんでもできるわけではない,金あってもまわりにいい食堂がなければ
やはり自分で魚など用意しなければならないからだ
もし大金持ちだったら原町でも食べに行くとかなるし
仙台辺りだったら外食でほとんどすますことができる
ただ安い料理だと材料もいいもの使わないし仙台でも貧弱だったのである。

食堂とか料理店の評価は分かれる,ある人はいいとしても他の人はそうでなかったりする
だからあてにならないこともある,実際自分も三種類しか食べていないからだ
好みがあるから当てにならないこともある
ただ今の時代はプログとかスマホで何でも評価しやすいのである。
まあ,何回か実際に行って食べて見れば一番いいとなる
でも最初はいいとしてもし客が入りつづけるならそこはいい店となるだろう

なぜある店が混んでいるのか?
そこには何か理由があるのだろうとなるからだ
プログでもyoutubeでもそんなにアクセスがあり見られるのだろうともなる
するとアクセス数が多いものを見る
でもつまらない場合もインターネットの場合はある
なぜならそれは料理とは違うからである。
つまらない大衆受けするものがアクセスがあるからだ
だからインターネットでは必ずしもアクセス数が基準にならないのである。
むずかしい本を普通は読まないし売れないと同じなのである。

posted by 老鶯 at 15:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

障害者などや病人などをもつのは誰の責任なのか?


障害者などや病人などをもつのは誰の責任なのか?

(すべて政治が悪いではないカルマを背負っているため)


ある人は結婚したらすぐに夫が重篤な病気になり障害世話せざるをえなかった,
その前も貧乏で苦しんでいた,その夫は障害者として一生生きるほかなかった
世話したのは妻だったとなる
ではこれは一体誰のせいになるのか?
この人にはなんらかカルマがあったと自分が苦しめられたので推測した
自分が弱者になった時いじめられたからである。
確かに助けたこともあるが何か家が事業に失敗して借金しているから自分が苦しいとき脅迫するようにもなったのである。
それでこの人がなぜこんなに苦しん一生だったのか?
その原因は何か?

かつて前世であり人を虐待していた?

これはわからないにしろ何かそうも感じたのである。弱者を虐待したから今世で弱者をかかえて苦しんだ,カルマがあったとなる
カルマとは業でありどこかで支払わされるからである
誰でも生まれてきたら業(カルマ)をかかえて生まれてくる
つまり生まれること自体すでにカルマなのである。
そのカルマは一生の内でいつか支払わされ区,苦しみとなって現れるのである。

そもそもなぜ障害者をかかえて苦労する人がいるのか?
知っている人もそうである。今障害者の父親が入院して障害者が病院に通い世話している障害者でもできるのか?その人はなにかいろいろわかっていて軽いのである。
だからなんとか世話しようとしているのである。
でも苦しいから母親がいつも見に行っている
結局その母親も不満であり常にそのことを言う
その病院に入院した人は前の夫であり離婚したのである。

この二人ともその不満をどこにぶつけているのか?

一人は創価に入っていたとかをる,もう一人は共産党に入っているとかある
それほどそこで運動していることはない
でも常にそういう人は政治に不満なのである。
必ず自民党が悪いといい,その障害者をもっていることを政治のせいにしているのである障害者をちゃんとめんどうみないとか不満が大きいのである。
つまり何かこうして別に障害者をもつのはそうしたカルマのせいだとしたら政治のせいではないのである。

でもすべてが

アベ首相が悪い

こうなるのである。不満のぶつけようがなくてそうなっているのである。

そもそもどうして障害者をもつようになったのか?
そのこと自体政治とは関係ないのである。
ただ障害者をもつリスクはみんなもっている,身内で認知症になった人を介護したから自分も障害者をもったのである。
そしてこれから800百万人が認知症になるといわれる,つまり精神障害者になるかリスクが普通の人もこれだけある時代になったのである。

確かにそういう人達を受け入れて何か相談にのる人はいない,何かと世間の冷たい視線にさらされる,それは認知症の家族をもっている人もそうである。
あいつは馬鹿になったとか,何か隣近所でも火に気をつけろとか冷たいのである。
差別もされるのである。だから障害者をもった家族と同じ境遇に置かれるのである。

だから障害者の問題は今や特殊な問題ではない,自分が認知症の家族をもったときそれを政治のせいとかにはしない,自分のカルマだと明確に認識した
ただこれは生まれつき障害者をもつのとは違う,自分は何回も言うように特別世話になったからその恩返しでありこうなってもしょうがいなという自覚があった
そして認知症になっても生まれつきの障害者とは違う
時々正気にもどるのが認知症なのである。まず死ぬころになると正気にもどる
これも不思議な現象であるが二人とも認知症になったがそうだった
そうなるとおろそかにできない,冷たくするとそのことを覚えて恨んで死ぬことにもなる自分はそうならずわかってくれて感謝して死んでくれたからよかったのである。
そうでない人も結構多いからである。
そうなると死んでから後味悪いものとなるからだ

ともかくその苦しみはわかるが全部が政治のせいにはできない,自民党のことを批判するけどそれがすべてではない,創価でも共産党でもでは障害者をのことを一切めんどうみるかとなったらしない,ただ票になるし票としてとりこむために会員として獲得するために政治勢力化するために一応会員にはする
でもなんでもめんどうみるかとなるとしないのである。
まずできないのである。現実にめんどうみるのは病院では医者であり看護師であり介護士とかであり家族ではできない,あと生活保護とか福祉関係でありそこで口利きするにしても別に創価とか共産党とかで全部なんでもできるわけではないのである。

自分もその人には金銭的な面で相当な援助をした,何かにと金を要求してくるからだ
余裕があってので援助してきた,その額も大きいのである。
もう一人の妻が死んだ80歳の男性も援助している
その障害者と直接つきあってなぐさめてもいる
金も援助している,だからその人はここ数年はこうして二人の男性に援助されているのである。
その人は不細工なんだけどまずコミニケーション能力が高いことに驚く
いちいち頼むとき納得させける頼み方をするのである。
だから金を払うとなる,ただ必ず政治の不満,政治家の不満を言うのである。
もともと障害者をかかえたのは政治のていではない
では誰のせいなのか?それは不可解であるがその人の負った業(カルマ)だとしか考えようがないのである。

そして誰でもこのカルマを背負っているしいつか支払わされるのである
苦しみとなって現れ支払わされる,それが人間なのである。
ただ創価とか共産党でも他の野党でもそうした人達を票になるから利用して政治勢力として権力を得ようとしている,でもそれがカルマの解決になるかとなるとならないのである別に他の人でもそれ相応に援助している人はいるし負担を強いられて直接世話しているのは別に創価の人とか共産党とか野党の人でもないのである。
その人たちはただ口利きしているだけなのである
だから障害者問題をふべて政治のせいにはできない,すべてアベが悪いでかたずけられないのである。