2018年04月08日

駅前の花壇の詩


駅前の花壇の詩

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駅前の花壇に二色のパンジー
黄色は外来者の来て
紫は内にいてその色濃くも待つ
出会い見送りて
120年の歴史を刻む駅舎かな
八重桜のなきしは淋しも

鹿島駅の歌壇は二つ整備された,黄色のパンジーは外部から遠くから来る人を象徴している,明るい花である。
一方で紫の花は内部にいて待つ花なのである。
それが対象的であり駅というのが外部のものと内部の者が交わる場になっているのである
こういうことは駅だからありえる,でも案内したのはセディティであり鹿島で一番にぎわっている常磐高速のSAである
そこにおみやげを一杯売っていると案内したのである。
その女性は車に乗せられてそこに行ったのである。
駅前ではおみやげは買いないからである。

鹿島駅の花壇は大きいしそれなりに映える,二カ所花壇ができたのもいい
それだけで何か駅でも明るくなる
ただ八重桜がみんな切られてないこきとは淋しいとなる
駅は何かわかったことは人が交われる場所なのである。
一時でもそうである。そういう場所は今はあまりないのである。
第一大きい駅になると人が交わる場所ではない,ただ通りすぎて行く場所だからである。だから小さい駅が人間的になる,つまり小さいということは何でも人間的なものにするのである。

現代の社会が何でもあまりにも大きすぎるのである。大きくなれば人間は群集と化して
数だけになる,でも田舎駅だと一人一人の人間になるということもある
ともかく自分は毎日一時であれ駅に寄っているのである。

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物神化はグローバル経済で極端化した (物と心は分離して人間的モラルは通じない)


物神化はグローバル経済で極端化した

(物と心は分離して人間的モラルは通じない)

価格と質が納得できるものであればその生産過程は基本的に問わないという態度に徹することが、この社会では最も効率的なのです。多くの人がそのように振舞う結果、商品が人と人とのどのようなかかわりを通じて生まれてきたものかは、人々の目には映りにくくなり・・・・・・・

物件化とは労働の疎外過程である。疎外とはよそよそしくなることであり,労働の疎外とは労働者が労働過程そのものから疎遠になることである

これはわかりやすい例ですね。お歳暮を贈るというのは、「お世話になっています」という気持ちの現われであり、「気持ちそれ自体」は目に見えません。贈られた物を、贈られた人が「これからもよろしくお願いします」という気持ちを物から読み取るものだと思います。気持ちが物として現れている、つまりこれは物象化だといえます。人間関係は目に見えませんが、それが物と物との関係になると、目に見えるのです

何か物神化などというとむずかしくなる,専門用語になるし法律でも同じである。
自分が追及している経済と社会学はそういうものではない
人間社会を解きあかすものとして学問を利用する,でもその学問がすべてを解決するわけではない,一手段なのである。
第一経済学ですべての社会を解明することなどできないからである。
マルクスでマルキシズムが宗教のようにドグマとなりイデオロギーになったことがその大きな間違いになったことを歴史が証明した
どんな学問でもそれは社会を見る一手段にすぎないのである。
マルキシズムが社会の矛盾とか不公正を解決するものとはなさなかったのは共産主義が中国のように最も格差社会になったことでも証明しているのである。
ただマルクスの見方はやはり現代社会を分析するとか何かそれが見事にあてはまるということでそれに心酔して宗教のようになったのである。

何か現実の資本主義社会でもグローバル化社会を見るときもマルクスの見方があてはまり見直されるのである。
べつにこうしたむずかしい専門的な学問でも卑近なものから読み解くこともできる
本来の人間と人間の関係が物と物との関係になり物を通してしか人間は交われない,
その間に貨幣が媒介するものとしてあり貨幣が神のようになってしまう
そこで人間そのものが疎外されるということは誰でも日頃の生活で感じているからだ
むずかしいことはわからないにしろそういう生活を日々しているから実感として社会は金で動いているとなる

物が商品があるとしてその物は人間が労働して生産するものでありその生産過程を知ることが無くただ物だけが現れ物を通してしか関係を築けないとなる
その物が一つのリンゴでもどういう過程で作られてきたのかはわからない
ただ商品の質だけを見ているというのは本当である。あとは値段である。
そこで消費者は厳格に見ている,でもそれがどうして作られてきたのかなどはには関心がないしまた知り得ようがないのである。

近くで小さな畑で野菜を作っている人はその生産する過程を苦労ばかりを言う
それはまさにスーパーとかの商品を売るのとは逆なものになっている
最近は道具を盗まれたとか毎日草むしりだとか鳥に食われたとか肥料代がかかるとかあるがそういうことは一切買う人は知らない
買う人は商品の品質と値段だけ見ているのである

「お世話になっています」という気持ちの現われであり、「気持ちそれ自体」は目に見えません

物には実は心も入っている,物と心を分離するのが西欧的である,東洋では日本では物とは日本語でモノとはモノが憑(つ)くとか物に心がつくのである。
物は単なる商品ではなく数値でもなく心がついたものとして流通していたともなる
それは狭い範囲での生活だったらそうなる,その物がどうして作られて得られるか目に見えるようにわかるからである。
近くの畑でとれたものを買ったりもらったりしたらそうである。
もともとそういう村とか狭い範囲で生活していれば物とは単なる物ではなくそれ提供する人のことを見えているから物と心の分離は起こらないのである。

江戸時代ならまだ狭い範囲だから物と心の分離は起こらない,でもそれが広域化する,日本全体でもさらにグローバル化すればもう物と心は分離して物だけが商品だけが入りそこで貨幣の力が増大するのである。
そもそも貨幣とはなぜ生まれたのか?
それは外部のものを買うために輸入するために貨幣が生まれというときそうである。
贅沢品を手にいれるとき貨幣が必要になり貨幣の力が増大する
だから一時日本でも宋銭が出回っていた時外国の物が輸入されてそれと同時に宋銭が日本に出回ったのである。どうしても外国の物を買うのには銭が必要になったということである。それまではそんなに貨幣は出回らないのである。
江戸時代辺りになると経済も広域化すると貨幣の力が大きくなってゆく

ともかく現代のグローバル経済ではもう心と物は分離している,だからモラルもなにもなくなる,貨幣のみが神のようになるというのはみんな日々の生活で実感している
すると遂に人間そのものも商品であり金として見るのである。
自分に接した人もそれしかない,こいつとつきあえばいくら金になるのだとかこいつが死ねば金が入るなとかこいつはいくら金を残すのかとかしか関心がないのである。
それは親子関係でもそうである。親子の関係すら金なしではありえないのである。

人を見る場合もいくら給料がもらえるのかとか金しかから見ないのである。
どんなふしだらな人間でも金のある者が消費者が王様になる社会である。
そしてグローバル化することは金をそれだけ価値あるものとするとき都合がいいのであるそれまでの価値は江戸時代だと社会的身分であり土地や山を所有するとかに価値があった貨幣がこれほどまでに価値あるものとはなっていなかったのである。
貨幣とは今では金貨でも鉱物でも作られていない,ただの紙なのである。
紙だから本当に紙屑になることもある,今はさらに紙すらなく金は数字になり数字として銀行に記録されているだけだとなる
そしてあらゆるものが債権化される,債権化することによりグローバルに売買することが容易になり世界が株式市場になった

でもそこには人間の心は通じない世界である。非情化された人間と人間のやりとりがないのである。金を貸すにしても直接金を貸せば相手のことをいろいろ考慮する
グローバル経済ではもうそこにはそうした人間の事情などいちいち見ていない
ただ非情な世界で莫大な金が債権が売買されているだけだとなる
だから数バーセントの人達がそのグローバル経済では富を独占するというのもそうである例えば小さな村とか狭い範囲で売買していたらそんな法外な利益をあげることはできないし富を得ることはできない,なぜなら富はとても一人の人間では作れないからである。
するとそんな富をもっているものは回りから責められる
それは田舎だと平等を追及されるからとてもそんな人は住むこともできないのである。
日本ではもともと村社会だからそうした桁外れの金持ちはいないし住めないのである。

グローバル経済はまず地域を破壊して国を破壊する,それでトランプとかはアメリカの富はアメリカ人にもどすべきだとなる,イギリスでもEUから離脱する
国はもう泣く泣く多国籍企業が世界を支配しているしてもう国はいならないとなる
そういう社会が成り立つのか?グローバル経済にもいい点はあるし否定はできないものがある,世界的競争で品質は向上する,鉄鋼でもそうである。
アメリカで鉄鋼輸入しないと粗悪な国内産のものを使うといいものはできないからであるそういうことはあってもグローバル経済は限界に来ている
なぜなら国内に住む人がグローバル経済で貧乏になってゆく,失業してゆくとなると国が衰退して成り立たなくなるからである。
経済とは苛烈な競争でありその競争に負ければ経済戦争に負ければ国は戦争に負けると同じになる、そうなるとアメリカは中国と経済戦争になりその後は本当に戦争になり勝敗を決めるとなる,最後の手段は軍隊であり軍事力で国の勝敗が決まるともなる

日本でも石油の輸入をアメリカにとめられたから戦争になったように北朝鮮でもそうであり経済戦争が先にありその後に本格的な人と人が殺し合う戦争になる
それだたけグローバル経済では経済戦争が戦争の引き金になる
そうなると戦争を未然に防ぐには経済戦争をしないことだともなる
つまりグローバル経済のいい点はあっても何らかのそこに制御するとか戦争にならないようなルールとかが必要になる
そんなことができないとなるとグローバル経済は限定したものとしてやめるべきだとなる世界的株式市場もやめるべきだともなる
なぜならいくら貿易は自由でグローバル経済がいいとしても戦争になるとなればもともこうもないからである。

いづれにしろ人間的なものを回復するには小地域経済とかを見直すべきだとなる
小国家の方がそうしやすいということもわかる,中国とかアメリカは巨大すぎるからである。それは恐竜のようになり最後は苛烈な経済戦争になり本当の戦争になりそれに世界もまきこまれてしまうから怖いのである。
要するに経済一点張りよりそれ意外のものの価値を見直すことだともなる
そんなに世界から輸入しなくても国内産でも満たされるとかの考え方である。
その小地域で血の通った見通しのきく情の通じる,心の通じる社会を目指すというのも選択なのである。
グローバル経済はそうして物と心が分離してモラルがなくなるのは当然なのである。
それはあまりにももう人間の手を離れた怪物的なものになっているのである。
だから恐慌というとき転変地異のように見る,でもそれはあくまでも人間が作り出した物であるから人間によって制御できるものなのだがもうできない
突然クラッシュが起こり経済でも壊滅状態になる,それが資本主義だとバブルとなるがグローバル経済ではあまりにも大きすぎるからそれが起きる
原発のように一旦そうなると制御できない,壊滅状態になる恐怖なのである。

今の社会はただマルクスの思想だけでは解明できない,それは文明的問題であり世界的に共通しているからである。
なぜ日本では孤独死とか無縁社会とか失踪社会とかなるのか,それも文明が発達した結果そうなる
人間との絆が震災で象徴されたがその絆もこの辺では補償金で分断されて金のためにそうなった
人間はもう番号であり株であり人間として見られていない,人間も無数の物として金として計算されるだけだとなる
民主主義などといっても現実は膨大な数で決まりそんなところで人間の一票によって何か存在感を示せないのである。
カルト教団でも人間を人間とみていない,ただ一票として見ているだけだから選挙の一票の頭数としてか見ていない
数を集めることにしか関心がないのである。
それは文明の問題ともなりマルクスの思想ではそれを経済の観点がわかりやすいように説いたから宗教のようになったのである。でもこうした文明の問題になるととてもマルクスの思想だけでは解決などできないのである。

人間は砂粒である
人間は数字である
人間は番号である。
人間が消えた後に
何も残らない
砂粒だけの砂漠だった
文明の都市は蜃気楼のように
砂漠に消えた
残ったのは何もない
砂粒の砂漠だけだった




posted by 老鶯 at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題