2018年04月07日

働くことは人助け-端(はた)を楽にすること (金だけが働く目的と化して荒廃した)


働くことは人助け-端(はた)を楽にすること

(金だけが働く目的と化して荒廃した)


働くとは端を楽にすることから生まれた言葉である。それは狭い範囲の生活,家族とかの範囲で生まれた言葉である。
一生懸命休みなく働いている家族がいれば楽にしたいということが自然な感情として沸き上がるからである。
人間は働くということはどういうことなのか?
それには様々な要因があるにしろ大きなものとして人助けがある
人を助けるために働くことが働くことの基本にある
資本主義が神に奉仕する修道院から人助けとしてはじまったことでもわかる
働くことは日本でもそうだが人を助ける為に働くことだったのである。

それがなぜただ金のために働くようになったのか?
働くことだけではないすべてが価値が金に換算される
自分が苦しいときこいつは弱っている金があるから金をこの時奪いばいいとしかなかいことを経験した,一見最初は人助けとかあったが後はなにもない
その理由は自分に来た人達はみんな金に困り追い詰められていたから人助けどころではない,金で窮しているから金をとることしか考えていなかった
最初から金をくれと来て本当にそうした人もいた

まず荷物をもつのでも何ももともとしたくないのである。
ただ金が欲しいとなる,その時軽い荷物でももってやるのにも相当な金を要求する
車をのせるにもなにするにもそうである。
自分が困っていても全く考慮しない,その余裕がないのである。
だからこういう人に助けてもらったら法外な金を要求される
車にのせてもらうにも何十万ともなることだってありうる
つまりただより高いものはないということを実感した
誰もただでもは無料では軽い荷物一つももってくれないのである。

現代社会はまさに働くことはすべてに金に換算して金にならなければ働かない社会である例えばここで病気で倒れている人がいるとしたらまず助けることが第一のはずである。
でもこの人が金をくれるとかなんとか考えていたら助けることはできないのである。
その後にお礼があったりするがまず最初はとにかく人を助けなければならないのである。そうしないと手遅れになるからである。

でも現実に弱者化したらその弱みにつけこんで金をとるチャンスとなっただけである。
ある人は「金をくれ」と言って家捜しして本当にそうした
ある人は「金でめんどうみろ」と言って狂気のようにして去った
ある人は「金をよこせ」と弱みにつけこんで要求した
借金しているからもう相手のことなど考えない,とにかくこの際チャンスだとなっただけである。

自分が体験したように今の社会は金によってモラルが崩壊したのである。
それが如実に現れたのは原発事故で避難区域になった所に住んだ人達である。
多額の補償金をもらった結果,それでもう故郷は捨てて他に家を建てたりあとはギャンブルで使っているだけだった
子供は親を捨てて残っているのは老人だけである。
子供は外では働いているが肝心の親がいる場所では働かないのである。
つまり親子の間でさえ金の方が優先されて人助けは放棄されたのである。

それは働くことが人助けだということを自覚していなかったからである。
ただ金をもうけることが金の為に働いているとなっていたからである。
現実に避難区域では誰かが働くことは人助けであるが働く人はいないのである。
若い人はみんな去ってしまって残されたのは働くことができないたすけてもちいたい老人がほとんどだとなってしまったのである。

人間が働くことが人助けだということを感じない社会がそうしたのかともなる
なぜなら原発避難民は仮設に住んでいても金があれば生活できる
その移り住んだ場所で助けてもらっているなど微塵も考えないからである。
むしろ地元の人達を金を使ってたすけてやっているんだと言っていたからである。
現実にそうであり金さえあればどこでも暮らせるし物も外部から入ってくるから
そうなる,そして補償金をもらえるから別に困ることはなかったのである。
もし移り住んだ所で食べ物がないからゆずってもらえませんかとかなったら別だったが今の社会は金さえあればどこでも暮らせるからそう感じないのである。
結果的には補償金をもらったら他で暮らす方がいいなり故郷に残されたのは老人だけだとなる

何かこの辺の問題は現代社会の矛盾とか荒廃がなんでも極端に現れた場所なのである。
自分に対してもそうだった,金をとればいい,金さえあればいい,人が弱っていれば金をとるチャンスだとしかなっていないのである。
弱肉強食の世界が資本主義社会でありそれが一番弱者にしわよせがきて過酷になる社会である。弱者は金のないものは資本主義社会では苦しめられるとすると人助けからはじまった修道院からはじまった資本主義とはまるで違ったものとなったのである。

では金がある者でももし弱者化して困ったとしても金だけを要求する社会である。
すると金があっても金を要求するだけだとしてたらとても人助けなどしないだろう
まず端(はた)を楽にさせてやりたいとかの動機がないからである。
金持ちなら金をとればいい,それ手っとり早くするには盗めばいいしかないから自分の場合はそうされたのである。
でももし働くことが人助けとしてあったなら後で感謝として金でも与えることになる
でもその前に金をとることしかないのである。
そういう社会に生きることは本当に索漠としている凍りつくような人間関係の中で生きているとうことにもなる

こういう社会に生きていればそんなあまちょろいことで生きていけるか,食うか食われるかの厳しい社会なのだ,人間社会はもともとそういうものだった,戦国時代もあり殺すか殺されるかの社会でもあった,そんな聖人のようなものを期待していては生きていけない働くことが人助けだと笑わせるなとかなる
それが一般的現実だともなっているし人間社会はそうだったともなる

でも一方ででは人助けが働くこととしてそれが本当に馬鹿げた損なことばかりなのか?
そうでもない,ビジネスでも実際は人助けから成り立っているのが多いのである。
人の為にならないことがどうして社会から受け入れられのかともなる
もし自分も弱った時,困ったとき助けてくれたら感謝するし金も与えていたのである。
その時はまず助けてもらうことであり金はあとで払うとなる
ところがます先に金をよこせ,金をもらおうというのが今の社会なのである。
金をももらってからしか何もしないのである。

現代社会資本主義社会の荒廃はこうして何かすべてがまず金であり人助けがビジネスの基本だということがなくなった,なぜ事業を起こした人が成功しなかったのか?
その原因はいろいろあるにしろその人にはまず人を助けるというかそういう気持ちが全くなかったのである。
金持ちから金をとればいいということではじめたのである。
その頭の中は金しかない,何か社会に貢献するという気持ちもなかったのである。
だから自分が弱り困ってたときでも金をとればいいしかないのである。
借金においつめられたからでもあるがもともと事業起すにもそういう考えしかなかったのである。
事業も弱者を食い物にするとか自分がもうければいいとか相手を犠牲にしてももうければいいとかで成り立つのか?
銀行でもそうである。銀行がもうかる投資信託を売りつけて客のことは二の次三の次である
それが一見いいようでも結果的に悪いものとしてはねかえってくることもある
別に投資でも客にもうけさせてくれれば悪いということもないのである。
ただ銀行が得することだけをすすめて客のことなど考えないから問題なのである。

いづれにしろ働くこととの荒廃がグローバルにも起きてきているから働くことの動機も荒廃しているからもう資本主義は弱肉強食の世界となり崩壊する
その一つの大きな要因として今や広域化したグローバル化した社会では誰のために働いてイいるかなどわからないからである。
地球の裏側から物が入りそんな人のために働いているのかとなる
つまり働くとは端を楽にすることでありそれは家族的なもの狭い範囲でこそ成り立っていた労働観だった,それがグローバル化したときもうとても人間的にはとらえられない経済株式資本主義となりそうなったともいえる
そこにはもう人間的なものを越えたなかでの取引でありそうしてその金がわずか数パーセントの人達に吸い上げられている社会である。
そういう社会はもう悪魔的なものでありとても人間的モラルなど通じなくなっていたのである。

posted by 老鶯 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題