2018年04月26日

駅で会う暇な老人 (人生百年時代をとう過ごすのかも問題)


駅で会う暇な老人

(人生百年時代をとう過ごすのかも問題)


今日案内した人は鹿島の寺に墓参りに来た人だった,そこは桜で有名な所でありでも桜は散っていた帰って行った
年配の女性二人であり何か観光にも来ていた,それで多少鹿島を案内した
その人もタクシーの番号のある場がわからなかったので教えた,タクシーの番号を聞かれるのは駅内に表示していないからである。
駅から出た所ではわかりにくいからである。
それで前の自転車屋に聞きに行ったのである。
その人はいろいろバスの交通とかを聞いていた,鹿島からも原町回り飯館により福島市に行くバスがあると教えた

それを駅内に勝手にはっていたが駅に許可なしでは置けないとして撤去された
その案内があれば説明しやすいことはあった
だからそんなにルールにこだわることもわからないことだったのである。
ただなんらかのクレームがJRに来るのを嫌がっていたのである。
その年配の女性も暇な人達であり何かいろいろ聞いた
何かを鹿島町とかこの辺のことを知りたいからである。
年配の女性が60以上だからこの人たちも暇な人が多いのである
それだ白河の城でもそういう歴女にあったことがある
その女性は大阪の人だったのである。

駅で良く会うのが暇な老人である。その人は大崎市の温泉に行っているという
前も見かけた人である。ただ大崎市はどこというときわからなくなっていた
鳴子のことであったが大崎市は古川市でも合併しているからわからなくなったのである。このことからやはり原町市が合併したとき南相馬市というのは良かったともなる
なぜなら相馬というのは知られているから相馬といえば場所がわかるからである。
ただ相馬市と南相馬市は同じに見られてしまうのが問題になった
やはり大崎市はどこなのとなる,鳴子とか古川だったらなじみがあるから場所がわかるからいいのである。

今日は前にも会った老人と話した,この人たちも実は暇なのである。どうも毎日相馬市とか山下の方に通っているみたいだ,ある人は原町の図書館に電車で通っている
そこで暇つぶししているのである。だから図書館に老人が集まっていることは確かである一番集まっているのは川子のパークゴルフ場である。
そこでは昼間は食事もできるようになったからである。

ともかく日本全国でどれだけ暇な老人が増えたのか?それはもはや全国的な老人の問題である。高齢化の問題はいろいろあるが暇をもてあます老人もまた問題なのである。
なにもするたことがなく妻の後についてゆくというのもなんか淋しい
その人はプロ野球のことを延々と話した,ある人は相撲のことを延々と話した
それは若いときから子供の時からテレビで見ているから今も見ている
まず60すぎても若いときしたことをしたいのである。
だからバイクもするしスキーもするし登山もしている
そういう快感が忘れられないからするのである。

人間は継続的に生きているのであり若いときと断絶するわけではないのである。
若いときしたことをまた80すぎてもしたいしするのである。
人生はそうして老人になったからといって変わるわけでないのである。
今は盆栽いじりなど老人でする人はかえってまれである。
若いとしたことをまたしたいのである。
自分の場合は自転車旅行をまたしたいとなるのである。

ともかく趣味でも若いときからしていないものは老人になってもできない
若いときから継続していたものができる
ただ自分がしているパソコンでの抽象画は最近しているものである。
だから60の手習いというのはある,でもパソコンを継続しているからその延長として抽象画もあったとなる

つまり人生百年時代は金銭面もあるがいかに残りの人生を有益に過ごすかというのも大きな課題なのである。これも若いときからそうした趣味でも遊びでもしていなとできないのである。
とにかく人生百年時代はライフワークが必要になる
何かを素人でも学者のように探求することが必要である。一つのテーマをもってすることが必要になる,そうでないと退職してから暇をもてあますようになる
人生の時間が百歳となればもう一回人生があるともなる
これも経験していないことなのである。
自分の場合は作品の完成をライフワークがある
それは若いときからしてきたことである。会社に勤めていなくてもそういう仕事はある
ただ金にはならない,でも作品化する集大成する仕事がある

でもそういう仕事がもてない人は相当に暇になる,どうしたら暇つぶししたらいいのかとなる,そういう人はただ普通に会社員とかで働いた人だからである。
そうして趣味もない人が多いのである。
すると暇をもてあまし生きがいもない老後になってしまうのである。
老人は何か家にいても一人暮らしが多くなっている,そこで家に一人いるのも嫌だとなる何かそこに一人暮らしの問題がある
ただ集団生活となるとまた簡単にはできない,何かしら人間関係でも問題が起きるからである。
駅でちょっと話すくらいはいいとして駅に行って案内したり話したりしているのである。

タグ:暇な老人

2018年04月27日

原発事故で荒地化したことの問題 (占有権から考える)


 原発事故で荒地化したことの問題

 (占有権から考える)


賃貸マンションについて所有権があるのは大家さんで、占有権があるのは賃貸契約をしてそこに暮らしている住民といったイメージです。


住宅の所有権が自分にあることに気づかないまま、Aさんが20年間(※)、所有の意思をもって、平穏かつ公然とその住宅を占有した場合、Aさんはその住宅の所有権を取得することができます

占有権【せんゆうけん】

自分が利益を受ける意思で、物を現実に支配している事実状態を占有といい、占有に基づく権利のことを占有権といいます。
例えば、実際は他人の土地なのに、先祖代々自分の土地だと思い込んでいる人が、その土地に家を建てている場合、その人は土地を占有していることになります。また、自分の土地に家を建てている人も、占有者です。このように、法律上の所有権の有無にかかわらず、物を事実上支配している状態そのものを保護しようとする権利が占有権です。

@の段階においては、物を貸しているだけなので所有権は山田から変わりません。しかし、Aの段階で正式な手続きを踏んで物をお店に売った場合、物の所有権が店に移ることになり、こうなると山田はゲームを取り返すのが難しくなってきます(第192条:即時取得)


法律となるとめんばどうであるが「占有権」というのは意外と生活の中で生じる問題かもしれない,ここで一番わかりやすいのが借りた本を古本屋に売ったとしらもうとりかえせないということである。
つまり借りた人に権利が移っているのである。
これが理屈的に変だ納得しないとしてそういうものしとて法律が作られてきたのである。だから貸しても返さない人には貸すなとここではしている

占有権は例えば誰だかわからない土地を耕して野菜を作ったとする,それを土地をもっている人が何も言わないとしたらその土地は20年とかたつとその土地を勝手に耕した人のものになる
だから荒地がありそのままにしているとそこの土地の所有権もなくなるということがあるつまりその土地を利用した人に価値があり権利があるとなる
それで地主よりそこで耕作している小作に権利があるとなったのが戦後で土地は小作のものになったのである。

なぜこんなことを考えるかというとこの辺では荒地が多くなったからである。
それより町自体が住めなくなり荒地化したのである。
でもそういうふうにして人が住まなくなるとその土地は管理するものもなくなる
荒れ放題になる,とすると誰かが勝手にその土地に住んで耕作した場合どうなるのか?
所有者がまだいるから勝手に耕作するなと言う,でも荒れ放題でありそこを耕作する人の方が価値あるとなる,第一そんな荒地をもっていても何の価値も意味もないからである。ただ土地をもっている人はそれで金にしようとしている
放射性物質の廃棄物処理場にするとか何かそうした金になることがあると思って所有している、だから自分の土地を勝手にはさせないとなる
でも利用されなければ荒地のままであり何の役にもたたないのである。
そういう問題がこの辺では生じている,荒地がいたるところでふえたからである。

「まわりがこんな葦原ではうっとしいでしょう
この葦原をどうにかならないものですかね」
「この田んぼをつくりつづける以外のことが私にできようか」
日本の国家にとって日本本の国民にとって数枚の田んぼにどんな価値があるでしょうか
だからこそその周囲の田んぼは放棄され荒れた「耕作放棄地」と化しているのです
日本国家その荒廃を防ぐこともできませんでした
(農本主義が未来を耕す-宇根豊)

この本ではこう語り農の大事さを説いている、ここでは荒地化しているなら隣の国の人が来て耕すことも歓迎されるとも言っている
これをとりあげたのはまさに原発事故でこの辺が田んぼでも畑でも荒地化したからであるもう土地を所有しても何の価値も意味もないのである。
だから誰かがここに入ってきて田んぼでも畑でも耕作地にすることが土地を活かすことになる
ただ土地をもっていた人は土地をもっている意味も理由もなくなっているのである。
土地をもっている人はすでに多額の補償金をもらった,でもそれで土地を活かすことではない,放棄して別な土地に移り帰ってこないのである。
だからそもそもが町自体に住む権利もなくなったのかもしれないのだ
ただ町に住んだそれで被害にあった、だから永遠に補償しろとまでなっているのは変なのである。

だから復興というときそうして他に移り住んだ人にはその土地や町に住んだ権利を放棄したともなる,だから外からでもいいからそこでその土地を利用して活用する人が権利があるともなる,それは本を借りた人がその本を売っても占有権で罰せられないと同じなのである。何か理不尽に見えても占有権の思想はそういうものなのである。

つまり復興というとき現実問題としてそこに住んでいた人達でも帰らない人が多数なのである。ではその後ををとするのか?
還ることを待てっていても帰らないのである。ではその町とか土地の権利があるのかとなる,もう所有権も放棄したのである。
だから誰かが勝手にその土地を利用しても文句は言えないとなる
むしろ歓迎すべきだともなる,ただ時々自分の土地を見まわりしている人はいる
浪江でも近くに住むとそうしている,だから全く放棄したわけではないのである。
でもその土地を所有してもそれを活用できないものには権利がなくなるのである。
いつまでも荒地化している所があるがその土地を活かせないならその土地をもっている所有権も消失する,でも避難区域にならなかったところでは原町でも鹿島でも相馬市でも新地でも他でも土地をもっていれば住宅地とかなり売れるから手放さないとなる
ただ荒地が以前として多いから困るのである。

要するにもともとだからこそその周囲の田んぼは放棄され荒れた「耕作放棄地」と化しているのです
日本の国家にとって日本本の国民にとって数枚の田んぼにどんな価値があるでしょうか
だからこそその周囲の田んぼは放棄され荒れた「耕作放棄地」と化しているのです

それは日本の国家でもない国民でもない,その土地に住んでその土地をもっている人がそういう考えになっていたのである。
だからこそ東電に漁業権がある漁師は海を売り渡し補償金をもらい,東電で働いた方が金になるとして歓迎したのである。
農業だけはするなと親に子供が殴られたというのもそのためである。
親が全く農業の価値など認めていないからである。
それだけ農業だけで生活することは豊かになるとむずかしくなっていたからである。
でもそういうことが仇(あだ)となり全く町自体が荒地化したのである。
それはまさに農業を軽視した結果としてそうなっているのかもしれない
そこに住んでいる人達が農業が常に金にならないから跡継ぎもいないとかなっていたからである。
そういう人々の心の反映が現実化したともなるのかもしれない。
農業と電気を比べるとその差があまりにも大きいからである。
まず収入の多いのは電気とかガスとかのエネルギーか関係で働いている人達だからである農業関係では金にならないからである。

ともかく復興を考えるとこの荒地化した問題がある,それは避難区域になったところだけでない,荒地になっているのが多いのである。
それより全国で農業は継ぐ人もいなくなり過疎化して限界集落化して日本全国が荒地化することが多くなるのである。
そして少子高齢化で空家が膨大に増えてゆくし土地は荒地化してゆくのである。
この辺ではそうした未来を先取りして極端なものとして現実化した場所なのである。

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一番高いのがエネルギー関係でありそれから通信関係であり金融業とかなっている
その他は低いのである。だから当然東電社員の給料は高い,事故後も高いのである。
でも金融業とか高いのはおかしいかもしれん、株とかで大儲けしているのは何か理にあわないのである。そのことで格差社会になり社会をゆがめているのである。
いづれにしろこの辺の状況は何か現代の問題を極端化して反映した場所なのである。



posted by 老鶯 at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

森の抽象画 Abstract painting of the forest


森の抽象画

Abstract painting of the forest

森の中の湖(詩)

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forest in the evening


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night forest

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a lake in the forest(poem)


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知られざる
森につつまれ
深い青い湖
やさしく風のそよぎ
広がる波紋
その岸に人の跡もなし
隠されて静まる湖
かしこ奥深く
乱されずあれ
その底に神のすみぬ
時に水面に浮かび
また深く沈みぬ
神秘の花を秘めて
神は眠りぬ
その顔を見し人はなし
湖は青々と静まりぬ
時にまた一片の白雲の
ゆくりなく流れて写り
いづこかへと去りぬ

an unknown place
Hidden in the forest
Deep blue lake
Gentle wind breezes
Spreading ripples
There are no signs of people 
on the bank deep inside
Do not be disturbed
God lurks at the bottom of it
Sometimes floating on the surface of the water
It will sink deep
with a secret mysterious flower
God is asleep in the depth of the lake
There is no one who saw that God's face
The lake quietly gets quiet
with deep blue one
Sometimes another piece of cloud
drafting through
it has leaved anywhere

写真とか絵でもそこからイメージして詩が作られる,逆に詩からイメージして写真とか絵も作られる,そこには芸術だからすべて相互作用がある
芸術の範囲は森羅万象になるからだ,ただそれを表現する手段が違うということである。詩だと言葉になるし目で見るには写真とか絵になるし立体化すると建築とか彫刻になるとかである

ただ言葉は世界的には違うので一番詩は理解しにくいのである。
だから絵とか写真とか音楽でもグローバル化しやすいのである。
抽象画もそうである,これは何かパソコンと相性がいいのである。
パソコンから生まれた芸術になっているからである。
その色もパソコンで見るものだからである。
そしてインターネットのビッグデーターを変形して生まれた芸術なのである。

Pictures and photographs are also imaged from there to make poetry, and from the poems, images and pictures are also made, and photographs and pictures are also made, there is interaction all there because it is art
The range of art will be a whole thing, it means that the means to express it isdifferent. When it is a poem, it becomes a word, it becomes a picture to see with the eyes, and it becomes a construction or a sculpture when it becomes three-dimensional

Just because words are different worldwide, poetry is hard to understand.
So it is easy to globalize pictures, photos and music.
Abstract painting is also so, this is compatible with some kind of personal computer.
It is because it is an art born from a personal computer.
It is because that color is also seen on a personal computer.
And it is an art born of transforming the big data of the Internet.

2018年04月28日

ヤマハ PAS ビエンタ 2018モデル (欠陥か,チエーンがはずれ部品交換に)


 ヤマハ PAS ビエンタ 2018モデル

 (欠陥か,チエーンがはずれ部品交換に)

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ギアが一つしかなくこれがはずれた,これは2016年型だが作りは同じだろう
ただ脇の作りは違っている
こんなふうではない,そこで傷ついて壊れた


 街中を走り短い坂を上った,上りながら曲がったことはあった
 その時チェーンがはずれた,これはチェーンのギアが一つしかない
 普通はギアがいくつかついて変速できる
 これは一つしかない,それがはずれたとき衝撃ではずれた部分が傷んで
 部品が壊れた

 これは買ったばかりでありこんな簡単にはずれるのか?
 これは自分には落ち度がないと思う
 何か無理やりしたことではずれたわけではない
 今まではギアがいくつかついていてはずれても自分で直していた
 これはギワを直すことができなかった

 このビエンタは古くから売っているものである
 ただ2018年型は出たばかりなのである。
 その出たばかりなのは故障しやすいということがある
 どこかに不具合がありそれを修正して故障しないようにしているからである。
 この前のモデルだったらこんなことはなかったろう。
 なぜならすでに修正しているからである。

 ともかくこの自転車はもしかしたら欠陥商品なのかもしれない
 こんな簡単にチェーンがはずれのでは遠くに行ったら直しようがないからだ
 前のはチェーンがはずれても直していたからである。
 こういうことは今まで経験していない
 これも14万とかしたし高いから簡単に壊れては困る

 これは部品を交換してもチェーンがはずれやすいとなると遠くに行くのは危険になる
 簡単にはずれるでも直しようがないからだ
 自転車で買い物に失敗したことはほとんどない
 自転車はやはり作りがそれほど複雑でないからだろう
 今回でもチェーンがはずれてその衝撃でその付着していた部品が傷ついたということは  素人でもわかったからである。

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常磐高速の鹿島のセディティの芸人


常磐高速の鹿島のセディティの芸人

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この人は福島市から来た芸人だった,連休で来ていた
仮設の食堂に行ったらここでたこ焼きしていると張り紙があって休みなので行ってみた
あそこは本当に人が来る,鹿島では一番にぎわっている
あれだけ人が来ると商売になるから芸人も来る
あそこは鹿島で一番活気がある所なのである。

セディティとは英語だと思っていた,そんなむずかしい英語ではなかった
でもなんか英語にしてもあっていた,休む場所だからである。
セディティは連れて行ってというこの辺の方言だったのである。
この方言自分も子供のとき使っていたし聞いていたが忘れていたのである。
方言は最近聞かないし忘れているのがある
年配の人はこの辺では知っていたのである。

とにかくこのセディティから駅に来るとその差が余りにも大きい
でも何人か乗り降りしている,バイクで来た若者がいて桜平山に行くとか案内した
それからやはり時刻を見に来る人がいた
新聞の折り込みで最近時刻表を鹿島でも出したらしい,それは意外だった

連休だけど自分は出かけられないかもしれない
新しい自転車の部品交換は月曜日に注文だ時間がかかる
別に自転車はあるから行けるけど無理だろう

復興住宅の浪江の人に聞いたら75歳の車のない人が自転車で浪江まで行っている
浪江まで遠い,その年で良く行けるなと思う
ただ車がないと自転車で行くほかないのである。
シシドスーパーの隣の復興住宅は浪江の人達だが抽選なので地域的にはばらばらなのである。

あの芸人は連休中ここで芸をするらしい,金をもらうが数人しかやっていない
あれでは商売になりにくい,それだけの芸をしているとも見えない
ただ福島市からきてあんなことしているというのもこの辺ではめずらしい
自分は百円帽子に入れた,でも金にはならない
今出店もでているからあそこはにぎわっている

タグ:セディティ
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2018年04月29日

障害者などや病人などをもつのは誰の責任なのか?


障害者などや病人などをもつのは誰の責任なのか?

(すべて政治が悪いではないカルマを背負っているため)


ある人は結婚したらすぐに夫が重篤な病気になり障害世話せざるをえなかった,
その前も貧乏で苦しんでいた,その夫は障害者として一生生きるほかなかった
世話したのは妻だったとなる
ではこれは一体誰のせいになるのか?
この人にはなんらかカルマがあったと自分が苦しめられたので推測した
自分が弱者になった時いじめられたからである。
確かに助けたこともあるが何か家が事業に失敗して借金しているから自分が苦しいとき脅迫するようにもなったのである。
それでこの人がなぜこんなに苦しん一生だったのか?
その原因は何か?

かつて前世であり人を虐待していた?

これはわからないにしろ何かそうも感じたのである。弱者を虐待したから今世で弱者をかかえて苦しんだ,カルマがあったとなる
カルマとは業でありどこかで支払わされるからである
誰でも生まれてきたら業(カルマ)をかかえて生まれてくる
つまり生まれること自体すでにカルマなのである。
そのカルマは一生の内でいつか支払わされ区,苦しみとなって現れるのである。

そもそもなぜ障害者をかかえて苦労する人がいるのか?
知っている人もそうである。今障害者の父親が入院して障害者が病院に通い世話している障害者でもできるのか?その人はなにかいろいろわかっていて軽いのである。
だからなんとか世話しようとしているのである。
でも苦しいから母親がいつも見に行っている
結局その母親も不満であり常にそのことを言う
その病院に入院した人は前の夫であり離婚したのである。

この二人ともその不満をどこにぶつけているのか?

一人は創価に入っていたとかをる,もう一人は共産党に入っているとかある
それほどそこで運動していることはない
でも常にそういう人は政治に不満なのである。
必ず自民党が悪いといい,その障害者をもっていることを政治のせいにしているのである障害者をちゃんとめんどうみないとか不満が大きいのである。
つまり何かこうして別に障害者をもつのはそうしたカルマのせいだとしたら政治のせいではないのである。

でもすべてが

アベ首相が悪い

こうなるのである。不満のぶつけようがなくてそうなっているのである。

そもそもどうして障害者をもつようになったのか?
そのこと自体政治とは関係ないのである。
ただ障害者をもつリスクはみんなもっている,身内で認知症になった人を介護したから自分も障害者をもったのである。
そしてこれから800百万人が認知症になるといわれる,つまり精神障害者になるかリスクが普通の人もこれだけある時代になったのである。

確かにそういう人達を受け入れて何か相談にのる人はいない,何かと世間の冷たい視線にさらされる,それは認知症の家族をもっている人もそうである。
あいつは馬鹿になったとか,何か隣近所でも火に気をつけろとか冷たいのである。
差別もされるのである。だから障害者をもった家族と同じ境遇に置かれるのである。

だから障害者の問題は今や特殊な問題ではない,自分が認知症の家族をもったときそれを政治のせいとかにはしない,自分のカルマだと明確に認識した
ただこれは生まれつき障害者をもつのとは違う,自分は何回も言うように特別世話になったからその恩返しでありこうなってもしょうがいなという自覚があった
そして認知症になっても生まれつきの障害者とは違う
時々正気にもどるのが認知症なのである。まず死ぬころになると正気にもどる
これも不思議な現象であるが二人とも認知症になったがそうだった
そうなるとおろそかにできない,冷たくするとそのことを覚えて恨んで死ぬことにもなる自分はそうならずわかってくれて感謝して死んでくれたからよかったのである。
そうでない人も結構多いからである。
そうなると死んでから後味悪いものとなるからだ

ともかくその苦しみはわかるが全部が政治のせいにはできない,自民党のことを批判するけどそれがすべてではない,創価でも共産党でもでは障害者をのことを一切めんどうみるかとなったらしない,ただ票になるし票としてとりこむために会員として獲得するために政治勢力化するために一応会員にはする
でもなんでもめんどうみるかとなるとしないのである。
まずできないのである。現実にめんどうみるのは病院では医者であり看護師であり介護士とかであり家族ではできない,あと生活保護とか福祉関係でありそこで口利きするにしても別に創価とか共産党とかで全部なんでもできるわけではないのである。

自分もその人には金銭的な面で相当な援助をした,何かにと金を要求してくるからだ
余裕があってので援助してきた,その額も大きいのである。
もう一人の妻が死んだ80歳の男性も援助している
その障害者と直接つきあってなぐさめてもいる
金も援助している,だからその人はここ数年はこうして二人の男性に援助されているのである。
その人は不細工なんだけどまずコミニケーション能力が高いことに驚く
いちいち頼むとき納得させける頼み方をするのである。
だから金を払うとなる,ただ必ず政治の不満,政治家の不満を言うのである。
もともと障害者をかかえたのは政治のていではない
では誰のせいなのか?それは不可解であるがその人の負った業(カルマ)だとしか考えようがないのである。

そして誰でもこのカルマを背負っているしいつか支払わされるのである
苦しみとなって現れ支払わされる,それが人間なのである。
ただ創価とか共産党でも他の野党でもそうした人達を票になるから利用して政治勢力として権力を得ようとしている,でもそれがカルマの解決になるかとなるとならないのである別に他の人でもそれ相応に援助している人はいるし負担を強いられて直接世話しているのは別に創価の人とか共産党とか野党の人でもないのである。
その人たちはただ口利きしているだけなのである
だから障害者問題をふべて政治のせいにはできない,すべてアベが悪いでかたずけられないのである。

コバケンの料理はそれほどでなかった (煮魚定食は貧弱だった)


コバケンの料理はそれほどでなかった

(煮魚定食は貧弱だった)

この前の焼き魚のブリの鎌焼きは良かった,大きいから満足だった
今回の煮魚定食は貧弱だった,スーバーで売っているような安い鰈だった
ほとんど食べる所がない,タレはうまいにしても肉がほとんどないものだった
これも1000円だったが焼き魚と比べるとあまりに貧弱だった
ただそもそも魚料理を出している所は少ない
でもあれで魚を買った方が良かった

それから天ぷら定食もそれほどのものではない中くらいのものだろう。
ただ近くでやっているから食べに来ることがあるかもしれない
焼き魚はいいが後は本当のところ,料理がいいのかどうかはわからない
料理はその店でいいものとそうでないものがある
あそこで焼き魚とサシミ定食などがいいかもしれない
ただ1000円だと今ではそんないいものは食べられないから文句は言えないともなる

何か自分は一人暮らしになり食べ物にこだわるようになった
外食すると料理したくないからいいのである。
まず料理はいろいろとめんどうなのである。これに労力を使っていると他のことができなくなる
そして毎日のことであり買い物でも手間なのである。
だから料理することではない何を買うかが一番の問題だったのである。
外食でもそうである。何か買うのと同じである。
できた料理を買うことになるからだ,最初が当たったというか良かったので評価が良くなったが三種類食べて最初が良かっただけなのかともなる
ただ1000円では今はそんなものだとなってしまう

要するに食堂が多ければ自分にあったいいものを選び外食できる
でもこれまではできなかった,ある程度できるようになったのでそうする
料理はこんなに手間になると思わなかった
例えば盛りつけだってめんどうになるだろう。
やることが細かいことでもいろいろある
すると料理するだけで時間がとられるのである。
人間はいろいろなことに集中できないのである。

その手間を省くためになんとかしようとしたができない
雇っている人は今では三日に一回皿洗うとしてもそれも数枚であり何もしない
だから雇う必要もないのだが相手に事情があり雇っている
実際その人は金をもらいに来るだけなのである。
自分は介護になってからそうしてみんな自分一人でやるほかなくなったのである。
金でなんでもできるわけではない,金あってもまわりにいい食堂がなければ
やはり自分で魚など用意しなければならないからだ
もし大金持ちだったら原町でも食べに行くとかなるし
仙台辺りだったら外食でほとんどすますことができる
ただ安い料理だと材料もいいもの使わないし仙台でも貧弱だったのである。

食堂とか料理店の評価は分かれる,ある人はいいとしても他の人はそうでなかったりする
だからあてにならないこともある,実際自分も三種類しか食べていないからだ
好みがあるから当てにならないこともある
ただ今の時代はプログとかスマホで何でも評価しやすいのである。
まあ,何回か実際に行って食べて見れば一番いいとなる
でも最初はいいとしてもし客が入りつづけるならそこはいい店となるだろう

なぜある店が混んでいるのか?
そこには何か理由があるのだろうとなるからだ
プログでもyoutubeでもそんなにアクセスがあり見られるのだろうともなる
するとアクセス数が多いものを見る
でもつまらない場合もインターネットの場合はある
なぜならそれは料理とは違うからである。
つまらない大衆受けするものがアクセスがあるからだ
だからインターネットでは必ずしもアクセス数が基準にならないのである。
むずかしい本を普通は読まないし売れないと同じなのである。

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満月や蛙の鳴いてや田水張る (蛙も同じ命であり復興の象徴になった)


満月や蛙の鳴いてや田水張る

(蛙も同じ命であり復興の象徴になった)


復興団地にタンポポあまり映えにけり

街中の空地にタンポポ咲きまぶし

芸人のボールの高く春の空

自転車に燕飛ぶ影よぎるかな

我が庭のボタン見ぬまに散りにけり

受け継ぎぬ栄華の牡丹我が家かな

満月や蛙の鳴いてや田水張る


受け継ぎぬ栄華の牡丹我が家かな


この辺はまだ復興の途中だということがある,でも蛙の鳴き声もひびくから前のうよな状態にもどっている,今日満月でありすでに夏の月である。
今日も暑かったからである。
それで田水張る田に満月が写り光る,これも人間の営みと自然が調和した姿なのである。その時人間の世界と自然が融和するから美が生まれるのである。

俳句は季語などはこうした稲作とか深く関係して生まれている
だから本当は農業しないと実感が生まれないともなる
なにか田水張る田に満月がふさわしい
復興したなと感じる,そういう光景がなくなっていたからだ
だからこの辺はまだ復興ということを感じないことがあった

やはりこれだけの災害だと復興といっても十年はかかる,もうその時一昔前になる
神戸でも10年たっても以前として復興がすべてにわたってできたわけではなかった
それだけここも甚大な被害だったのである。

ともかく避難区域になった小高とか浪江とかはこうした田んぼがないから復興を感じない自分が復興を感じたのは田が前のように作られて蛙がもどって鳴いた時だったのである。田んぼはやはり復興の象徴だったのである。
田舎では田んぼがないとしたら田舎なのかとなるからだ

ソーラーパネルとか風車とかできてもそれが復興とは感じないのである。
なぜなら蛙は同じ命であり人間と通じ合うからである
人間は機械を利用してもロボットでも同じ命だとは感じないのである。
そこが根本的に違うのである。
蛙は同じ命をもつ仲間だという感じになる
それは理屈ではない,本能的なものである

だから仏教では法華経では草木成仏とか動物も人間と同類としてあわれみをかけたりしていた
それはインドでは今もそうである。動物には人間の情が通じるからである。
それでペットブームになっているのもわかる
ペットは人間の仲間となりうるからである。

機械となるとこれは別なものであり命ではない,そこで人間とは断絶したものであり機械に頼りすぎると非人間的になる,現代はあまりにも機械化して機械に頼りすぎているから人間も非情になっていることはある
牛馬とともに生活していたときは牛馬も人間と情が通じ合うから機械とは違うのである。それで女性でも馬と結婚したとかの伝説が生まれたののである。

避難区域になったところでもやはり田んぼがまた作られて蛙が鳴いたら復興したという感じをもつ,それが田舎の復興なのである
そこにドローンとかロボットの工場ができてもそれが果して復興なのかということもある逆に田畑など金にならないから復興にならないとか言う人もいる
ただ田畑はやはり金になる金にならないの問題ではない
自然の中にあるものであり自然と共生するものとしてある
だからそれを金になるとか金にならないとか経済的効率ばかりから見れないのである。

そうすると今回のように東電によってすべてを支配され,一旦事故になったらすべてを失うのである。町も村も廃墟化して人は住めなくなり老人だけがそこに住んでうば捨て山のようになってしまうのである。
ただ以前として金が大事でありそればかりになるのが現実でもある
でも何が大事なものだったのか原発事故以後見直すべきなのである。

牡丹は庭に今年も咲いた見ぬ間に散っていた,これだけ身近に咲いていてもその花を見ないこともある
この時期はそれだけ変化が激しい,花もいろいろ咲きはじめる
でも何か見逃したなとなる,自分の家も一つの栄華だった,その栄華にふさわしいのが牡丹なのである。
この家にもあとどのくらい住んでいられるのか,この栄華を味わって住んだ人は死んだ
その後に自分がこの栄華の家に住んで終わりだとなる


「農本主義が未来を耕す」宇根豊著を読んで・・・・
(原発事故で問われた農の大切さ、でも農民も金が第一だった)

棚田に移る満月の写真



2018年04月30日

鹿島駅の六号線側の空地を手入れしていた人 (復興のために援助された金は使われなかった)


鹿島駅の六号線側の空地を手入れしていた人

(復興のために援助された金は使われなかった)

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ここは細長い土地であり何かに利用できる



駅の向かい側で何しているのか?あそこはどこの土地かと思った
それで向こう側に行き聞いてみた
そこはJRの土地ではない,エネオスとかのガソンリスタンドの土地だった
細長くありそれなりの土地である。

そこで草など刈っていた人は相馬市の駅のことをしきり言っていた
東側を駐車場にすればいいと思うけどしていないとか言っていた
東側は開発されていない,原町駅では東側は駐車場になっている
街が開発されている,エレベーターもある
相馬市のと駅にエレベーターがないのである。

でも相馬市では市で開発に金をかけてやったとか言っている
南相馬市では前にも書いたが鹿島区では百億円とか補償金をもらったが個々人に配られて何か形としては残っていない
それで山梨から来た事業に失敗した人はしきりに駅前の開発をすすめていた
その人が事業した人だけにいろいろ知っていたのである。

鹿島駅の六号線側に駐車場ができるといいとも思った
今鹿島駅の一番の問題が駐車場がないことだからである。
六号線側だと車の行き来もあり入りやすいとなる

何か南相馬市では本当に30キロ内の人達は多額の補償金をもらったがそれは何か街全体として形として復興するものを残さなかった,ただ個々人に配られて消えたのである。
除染費用なども莫大だったがその金はゼネコンに流れて街の復興にはならなかった
だから山梨の人の言うことはなるほどなと思った

相馬市が市政にそれなり補償金などがおりことき使った,街作りに使った
南相馬市は個々人に補償金をばらまいて消えた
かえってその金で若い世代は小高などから流出して帰らないのである。
街の復興のために使われなかったのである。
ただ個々人に配られて消えた,そして街には老人だけが取り残されたのである。

もしもっと街の復興に役立つように金を使えば街も復興しているから帰るかとなったかもしれない,それが個々人に配られたし多額な人もいるから街から人が流出することになっ補償金はかえって有効に街の復興のためには使われなかったのである。
個々人の復興にはなったかもしれないが街全体の復興には使われなかったのである。
それは市政が悪かったのか?市長が悪かったのか?市民が悪かったのか?
誰に責任があるのかわからない
ただみんな補償金ばかりに目が向いてそれを街の復興のために使うということがなかったのである。

ともかくあそこが空地でありそのことに気づいていなかった
こうして不思議なのは毎日駅に来ていたのに気づかなかった
あそこが空地であり利用できるということである。
花を植えてもいい,つつじなどにあうかもしれない,土地としては狭いがまた細長く広くも感じたのである。
ただ六号線とつながらない,前が窪地となっている
でも開発すれば平坦な土地となりつながり利用できるのである

人間はつくつぐ身近なところを良くみていないのだ,ただ自分は駅でボランティアのまねごとして毎日見ていたから気づいた,他の人もあそこの土地について無関心だったろう
ただ向こう側に柿の木があったり合歓の花が咲いていたことは見ていた
それはなごむ風景でもあった
ただあそこが空地で隣のガソリンスタンドの土地だとは気づかなかったのである。
こうして身近でも知らないことがあるものだと思った
駅でも常磐高速のセディティのようにあれだけ人の出入りがあれば何か開発を考える人はでてくる,その差があまりにも大すぎるのである。
ただ駅には人を集める工夫があり開発の余地があることは確かである。


タグ:駅前の空地

いつか家族は崩壊して消える (介護などでそれは誰にでも起こる)


いつか家族は崩壊して消える

(介護などでそれは誰にでも起こる)

家族は人間にとって一番の絆である,しかしそれも無常にもいつか崩壊して消える
子供たちが育ち老夫婦となりやがて夫妻でもどっちか一方が介護状態になったり死ぬと一人になる,現代はこうして一人暮らしになるリスクが大きい
一番の絆がたたれるショックがあまりにも大きい
妻に死なれた夫は愕然とする,老後は一人なのである。大きな家に一人なのである。
そのことを嫌がっているがどうにもならない,自分もそうである。
そういう人が老後に増えてくるのである。

何かある時家族が崩壊する,それは自分の家族も崩壊したからショックだった
家族すら無常なんだなとつくづく思った,そのことは予想されていたが予想以上のショックだった,この世にただ一人となった感じになった
そうして過酷な世間に放り出された,そして食い物にされた
今頃そんなことで世間の冷たさを知ったのは遅かったとなる
他の人はそういう世界で生きていたからである。

障害者で父親が入院している家族も崩壊の危機にあるのかもしれない,父親は年金をそれなりにもらっているし障害者だから金はもらっている,だから金には困らないように見える
ただ精神障害者が父親の世話するということで苦しんでいる
それで母親が心配して援助しているがこの母親も金銭的援助は全くできない
人から金をせびりなんとか食いつないでいるだけなのである。
体も悪いし病院通いなのである。

ともかくこうしてある時家族が崩壊の危機に瀕する,障害者は福祉施設に入れとすすめられているが嫌だという,でももう父親をのめんどう見ることが苦しいとしている
ただ症状は軽いのでいろいろわかってやっているのである。
外から見てどこが悪いのかわからない人なのである。

こういう人だけではない何か介護によって家族が崩壊してゆくことが現代では多い
その時もう家族だけでも支えきれなくなる,在宅で介護できるのは極少数なのである。
すると家族だけではもう耐えられなくなり家族自体が崩壊の危機に晒される
それを自分は一人で介護したので実感している

人間は家族も無常のなかにある,家族も死別すればもういなくなる,すると家族のない人になる,障害者は施設に入れるというとき家族でめんどうみれないからそうなる
母親がいてもその母親もめんどうみれないのである。
経済的にぎりぎりでしているからである。
ただ父親は年金をそれなりにもらっているから困らないとういことはある
でも障害者が病院に入っているにしろめんどうみれるのかとなる

他でも家族が崩壊するのは介護になったりするとき多い
だから今は核家族だから余計にそうなりやすい,大家族だと誰か一人が余裕があって病人のめんどうみるとういことがある
だから家族でも今は一人がそうした介護状態になると人手がたりなくなるのだ
自分も一人で二人を介護しなければならなる恐怖を味わった
一人はひとぽ認知症になって一緒に住めなくなったからだ
その時家族は崩壊して自分一人で奮闘していたのである。
誰も助けない,ただそこで犯罪にあったり借金している人に脅迫されたりしたりひどいめにあっただけである。
よわいことにつけこんで責めてきたのである。
介護とか障害者をもつと世間は非情でありそうされやすいのである。
そんな弱みにつけこんでカルト教団なども一票とるために回って歩くのである。

老後の資金でも投資するのも分散投資するという考え方は間違っていない
家族でも本当は三つ四つが家族になっていれば一つの家族がだめになってももう一つ家族があるとか他にも家族があるとなれば介護でも心強いとなる
でも家族が核家族しているとき個々の家族では介護になったら耐えられなくなり家族崩壊するのである。
でも三つも四つも家族になりえない,一つの家族でも精一杯だとなる
でもそれでは介護になったら家族が崩壊するのである。
家族でもそれは他者を排斥する内輪のものである,家族以外は人でもない,ただ金をとる対象にすぎないという時代でもある
だから家族だけに頼るが介護になるとそれができなくなる
在宅で介護しろといっても核家族で家族に余裕ある人はいない,人手がないのである。
そうなると家族崩壊になるのだ

いづれにしろ家族が崩壊するということは老後に普通に起こる
それで老人ホームに入っている人が家に帰りたいというときその家は実はないのである。家族はすでにないのである。ただ家族があったときの時代に帰りたいということなのである。
それで家に帰りたい,帰りたいと言っているが実際はもう家はないのである。
こんなふうに最後はみんななりやすいのである。
自分の場合は特殊でも参考にしにくいにしてもそうなった
だから何か自分は楽な生活に甘んじていてこうなったとも思う
これもカルマだったのである。もっと苦労していればそれなりに助ける人もいたかもしれないからだ

ただ家族すらいづれは崩壊する消えるというのがこの世だと思った
つまり無常でないものがこの世にはないのである。
家族すらこの世で一時的なものとしてあるだけであり仮象だともなってしまう
この世とはそういう場所だともなる,永遠の都は天国にしかないのである。
家族にしてもそうである。肉でつながる家族は本当の家族ではないともなる
だから宗教では家族は否定したのである。

本当の愛ある家族は天国にしかないのである。
そこでは家族は崩壊することはない,それは肉でつながれた家族ではないからである。
ただ家族には天国のひな型としてあるのであり本当の家族ではないともなる
結局家族すら一時期のものして消えるからである。
いくら家に帰りたいと言ってもその家もなくなっているのだ
そしたら帰りようがないのである。
自分も家があっても帰る家族はなくなったからである
今までは家族が待っていたが今は待っている人は誰もいないからである。


老後になると妻に死なれた人も家族がなくなっている、一人暮らしである,普通の家族でもそうなりやすいのである。家族がなくなるということはいろんなことで困る
家族のような絆をもてないからである,他者は弱みにつけんこんで金をとりにくるような人しかいないからである。そうなるもうまわりが野獣に囲まれていると同じになるのである。
だからこの世とは恐ろしところだとなる,それを今までは矛盾していても愛し合う家族でないにしろ楽していたので感じなかったのである。
だから家族が崩壊することはショックだったのである。
ただ自分の場合それもカルマだったとなる