2018年03月25日

地元の銀行の歴史をふりかえる (養蚕から絹織物産業から銀行が生まれた)


地元の銀行の歴史をふりかえる

(養蚕から絹織物産業から銀行が生まれた)

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政経東北3月号

明治に入ってから、蚕の卵(蚕種)は特に有名で、質の高い蚕種を全国に出荷しました。また、外国からの需要が多くなったため、福島町の問屋は生糸・絹織物を買い集め横浜の貿易会社から海外に輸出していました。明治20(1887)年の東京・福島間の鉄道開通も有効に働き、やがて、福島町は東北全体の生糸の中心地となり、生糸も福島町の絹問屋を通して販売するようになりました。生糸は当時取引額の最も多い商品で、明治32(1899)年6月に日本銀行福島出張所が東北で最初に福島に造られました。

中小の商工業者や養蚕農民の力を結集した協同組合方式で、地元の資金を地元で活用する方法でした。大正3年(1914)6月に設立された高崎信用組合(現高崎信用金庫)がそうでした。高崎信用組合は、二宮尊徳の「報徳思想」を基盤に、商工業者や農民の相互扶助の精神が、金融方面に結実して設立されたものでした。

銀行というのがなぜ生まれたのか?それはいろいろある,ここでは日本の場合,養蚕業,絹織物業から銀行が生まれた,なぜならその時一大産業が養蚕であり絹織物だからであるそこに資金が集まり貯えられたからである。

こうしして新しい産業が生まれるときそれと平行して交通も発達する
外国との貿易がはじまり横浜がその窓口となった
それで大正生まれの自分の母親が原町紡績(原紡)で働いていたのである。
そして原町紡績に門がありそこに引き込み線があった
直接そこから絹織物でも運んでいたとなる
自分の母親はそこで十年間働いていたのである。
そこでの苦労はそれほど語らない,女工哀史でもない,月給もらったから良かったとか言っていた,その頃の女性の働き口はほとんど農民だとすると農家では養蚕であり街では絹織物工場で働くのと後は女中が仕事だったのである。

銀行を考えるとき養蚕とか絹織物と深く結びついて生まれていたのである。
信用金庫でもそうである。「報徳思想」の相互扶助の団体として信用組合が生まれたというときもそうである。それは養蚕と絹織物工場を主体にした資金を出し合う組合だったのである。

銀行の起源は何なのか?それは養蚕とか絹織物工場の増加で資金が作られそこに資金が集まり銀行が派生して生まれたのである。
金持ちは自ずと金貸しとかになりやすい,それは資金が集まり貯えられるからである。
それで銀行の前進ともなる,その金をいかに有効に活かすかが実は金持ちに託されているのである。その金を元手で産業の振興を託されているのが金持ちである。
だから金持ちだからといってそれを自分の贅沢だけに使うのは本当は許されないのである金持ちには金持ちの役割があるというときそのことだともなる
その他にも金持ちには文化的なものを追及するとかただ無駄に使うということは許されない,もしそうだとするとあの人は金を持っていても金持ちの資格がないと見られるのである。ただその金でもたいした金でないとしたらそうはならない
それは相当な金をもったときそうなるのである。

ただ銀行がつぶれないかというと大正時代もつぶれているし戦争のときもつぶれている
銀行はつぶれないものではない,つぶれるのである。
その時代の経済に大きく左右されるのが銀行なのである。
今時代が変わるというとき銀行が苦境にたたされ合併とかつぶれるとかなる
自分も銀行から投資信託をすすめられて損したから銀行のことを真剣に考えるようになった,なんで銀行のために損しなければならなかったのかと考えるようになったからである人間はみんな金に対してはそれだけ真剣になる,金に笑い金に泣いているのが現実だからである。

大東銀行と福島銀行が合併するというのもそういう時代だからである。
ただ最低ランクの銀行だから合併してもメリットがないということは指摘される
インターネットなどの新しい手法を用いることもできないからである。
銀行とは何かというとき銀行に金をあづけるのは貸し金庫に金を保管するのとは違う
銀行にとっての債務だという,あづけられた預金は借りた金と同じだから本来は利子を払わなければならないものなのである。
その金を活かすことを活かして利子をつけることを要求されている
でもそれを今銀行ができないから苦境にたたされる
つまり金持ちが金がいくらあってもそれを活かせないとその金持ちはみんなからそんなに金をもっていてどうするんだ,お前には金をもつ資格がないとされるのと同じなのである金は貯えるためにあるのではなく社会で活かすものとしてある
それで金は天下の回りものと言われていた,金が回らないとただ蓄蔵されただけでは社会は繁栄しないからである。

いづれにしろ銀行とは資本主義社会と深くかかわるものである。
そのシステムの中核に銀行があった,それが今消失の危機にある、もうその資金を活かせないということは資本主義が機能しなくなったのかとまでなる
資本主義の限界説が生まれる,資金が世界的にだぶついて行き場がない
それでどこにその資金が流れるかとなると今だとビットコインになりオランダでは貿易でもうけた金がチューリップに投資されたり高度成長時期は土地とか絵画にも法外な値段で買われたのである。そういうバブルになるのも資本主義の行き着く先でありそこから崩壊現象が起きてくる

これは郷土史でもあった,銀行も郷土の歴史としてふりかえる,それは江戸時代になると頼母子講になっていたから金融でも歴史がある
まずこの辺ではどういうわけか原町に銀行があったのはわかるがなぜ双葉の新山に銀行があったのか?
そこには自分の父親が酒屋で丁稚として働いていたことは書いた
新山村と長塚村があり双葉郡とは明治移行にできた,そして長塚駅が開業した
新山に銀行があったというのはなぜなのだろうか?
原町なら大きいが新山は小さいからである。酒屋があったとしてもそれで養蚕や絹織物のように富を産むとは思えない,ただその時酒も大きな以前として大きな産業だった
ただこの辺の歴史は調べないとわからないのである。

姉が良く新山の銀行で遊んでいたというのを聞いているからである。
自分の父親は暖簾分けして鹿島に移った,その後勤めた酒屋は倒産したのである。
その当時の産業として一番大きいのが養蚕と絹織物工場である。
いかに兜型の屋根が残されているか,三分の一くらいはその二階を利用して養蚕していたのである。だから桑畑も自分の家の裏にあった
そして絹織物工場というとき自分の母方の実家の父親は祖父は機織工場を経営して失敗して破産してその後家族が離散したのである。
これをみてもいかに当時はみんな養蚕とか機織り工場にかかわって暮らしていたかわかるのである。
郷土史はそれぞれの家の歴史が基本にある。そこに一番興味をもつからである。

郷土史というときいろいろな側面から考察できる,明治以降はまだまだ生々しいものとしてある,なぜなら自分の父親は明治生まれだったし母親は大正生まれだからである。
ただ父方の祖父は何をしていたのかわからない,それだけ自分の家は歴史が浅いともなるただ自分の家についてはみんな興味をもくその祖先を調べる,ルーツを調べるのはわかるただ他の人にとってはそういうことは必ずしも関心をもたないことがある
ただ銀行にしても歴史がありそれをたどることは今を考えることでも大事である。
なぜなら銀行はつぶれないものではない,大正時代とか恐慌とかありつぶれているのだ
戦争のときもつぶれているからである。
とりつけ騒ぎもあったから同じようなことでも起きる,つまり何でも歴史はくりかえすということである。

posted by 老鶯 at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

みんながアーティストの時代になるのか? (AI化で働くなくてもいい社会になる?)


みんながアーティストの時代になるのか?

(AI化で働くなくてもいい社会になる?)

働かなくては人間は存在し得ない時代がこれまでつづいた,それより働かざるもの食うべからずであり働かないものは犯罪者と同じである。
それは働かねば食料も得られないのだから当然だとなる
働かないものは食うべからずであり餓死して死ぬべきであり現実社会ではそうなっていただからこんなことを言っていることが信じられないベーシックインカムも信じられないことである。
だからそんなもの実際は夢物語だというのもわかる
そんな社会などありえないということである。
ニートがヤクザより役に立たないとか言う人もいるからどれだけ嫌われているかである
もちろん自分はこの辺では働かないことで病院とか介護関係で困っている許されないという状態にある,でもそういう人は別にこの辺でも同じようにいる

そもそも人間は無駄飯食わせるということを相当に抵抗感じるだろう
親でもニートを嫌うのはなぜただ食って寝ているだけの人間を世話し続けなければならないのかということである。
だから親さえもういいかげんにしてくれとなっている,殺人事件も起きる
社会的にも何の価値も認められないし片身が狭い
ただなぜそんな人が増えたのかというと親に経済的余裕が生まれたからできているのである。

団塊の世代が生まれたのは貧乏な時代であるから物質的に何かを得たいという欲望が強い時代だった,それでみんな企業戦士となったのである
会社で働けばその欲望を達成できるからである
電化製品から次には車からマイホームと欲しいものがありそのためにがむしゃらに働いた働けばそれだけ給料も鰻上りに上がる時代だったし利子でも7パーセントだったから信じられないとなる
今はマイナス金利である,なぜなら物価があがれば金は目減りするからである。
貯金しても実際は割引でみる,それでたりないと株とか投資で増やすとかなり失敗する
高度成長時代は一千万を銀行にあづければ十数年で倍になっていたのである。
その差も大きいと思った,そして今銀行自体がつぶれるという時代になったのである。
そういうふうに時代が変わることで追いついていけないのである。

みんながアーティストになる時代というけどアーティストとして歌ばかり歌っているとか何かそんなことで人が認めるのか,それはあくまでも素人の遊びでしかないとなるだろうそこにプロ級のアーティストが生まれることはまれなのである。
そもそもアーティストという時何かプロをイメージするのであり素人はイメージしていない,俳句でも芭蕉とか一茶とか正岡子規とか特別な人をアーティストとしている
絵画の分野でも音楽の分野でもいろいろな分野でぬきんでた人でありそれは極々まれなのである。確かに俳句などいくらでも作る人がいてもそれらはディレタントでありそれで日本人がみんな芸術家でありアーティストだとはならない
アーティストは極々まれな存在なのである。誰でもなれるものではない
相当な訓練と天分もそうだが訓練期間も必要になる,ピアノを例にしてもそうである。
楽器一つを習得するにしても長い訓練期間が必要なのである。
自分も時間があったか楽器を習得しようとしたが挫折した
それは子供のときから習いごととしてやっていないとできない
それでもピアノを習ってもものになるのは極わずかなのである。

人間は何か飯を食わせるにしても金を出す方になると親でも子供が何の社会に役にたたない,無駄飯食らいを養うことができるのか?ニートがどれだけ社会に嫌われているか?
それは社会的に存在価値がないものとして見られているからである。
そのために俺たちは働かせられていることでそうなっている
人間はもしAI化でも機械化でもロボット化でもいい,働かなくてもいい時代がきたとしても人間は必ずその存在価値が問われる
これまでは何でもいい働いて稼いで食べている人はその労働がなんであれ価値あるものとして社会的に認められている
ではそんなにみんなが働かなくなってもいいとなったらその存在価値は何なのだと逆に問われる
誰も無駄飯食らいに金を払うのかとなる

例えば僧侶というのが世界中に存在した,その人たちは働かなくても存在が認められていた,かえって社会で価値あるものとして認められていた
それも今になると僧侶は価値が認められなくなる,それで檀家をやめる人も増えてくる
ただ金をとられるだけでありがたみもないということでやめる
実際僧侶は信長の時代でもそういうことがあった
それは武士でも働かないから農民から米を税としてとりあげている搾取者だという思想家もでている,つまり働かないということはそういうふうに常に批判の的になるのである。それは貧乏な時代なら余計にそうなっていた

自分の場合は特殊な過程環境で働く無くてもいいようになっていた
でも一時は働くことを強制されて苦しんだ,自分は学校でもそうであり会社勤めもできない性格だった,団体生活できないのである。
わがままといえばそうなるがそれで特殊な過程環境で働かないまま遂に老人になったのである。
実際自分は60までも旅していた,これも今になると異常だったなとなる
ぶらぶら旅している人はいる,でも60までしている人はいない
退職して旅しているのとは違うからである。
こうなったのは自分の性格と特殊な過程環境のためにそうなれたとなり普通はなれない
なぜそうなったのか?それはたまたまそういう特殊な環境がありなっていたとなる

そもそもアーティストというとき悲惨な天才的芸術家をイメージする
その人たちは天才であるからそうなった,なみはずれたものを生来備わった人達である。それは社会では極々まれなのである。
だからみんなそんなアーティストになどなれないのである。
そういう人達はアウトサイダーであり社会からはずれた人達であったがその価値は認められている,ただ生前は悲劇的に認められず終わったのである。
ゴッホは一枚の絵も売れなかったのである。

ただAI化とか機械化とかロボット化時代になるとき人間的なものは何かとなるとどうも感情的なもの感性的なもの情感とか宗教的なもの愛とかそういう方面がAI化とか機械化できないものとして見るようになることらしい
なぜならそういうものはAI化できないし機械化できないからである。
するとそういう面での価値が高くなる,それは医者とか看護師とか介護士とか人と直接接する仕事である。そこにはどうしても感情が働くからそうなる
感性という面でもとてもAIとか機械には芸術の鑑賞もできないだろう。創作もできない。だからこそみんながアーティストになるとかなる

いづれにしろベーシックインカムが絵空事ではなく真面目に議論されること自体考えられないし銀行がなくなるというのもイメージできなかった
つまり社会の変わり目には価値観が大きく変わる
江戸時代の身分社会から明治に変わるときもそうだった
だからこそそんなことありうるのという驚きになる
自分の一生は旅と遊びだったけどそれも社会に認められなかったけど今になってそういう人生がすすめられること自体これはなんなのだとなる
蟻とキリギリスの例えがあるが蟻はもう認められない,キリギリスの一生を送れとなるのも時代のの大きな変化である。
ただそうなってもキリギリスでも下手な歌手ではその存在意義は認められないだろう。
そんな人のために飯を食わせておくのかともなる
ただ働きづめの蟻のような人は逆に社会的に批判の的ともなる
そういう人を身内で知っているから自分の親は異常だったと書いてきた
働くことしかしないし価値を認めないから異常だった
でももし芸術でも絵でもなんでも金になれば認めていたのである。

蟻はいらない,キリギリスにみんななれ

こういう社会は何なのだろうととまどう,そんなに簡単に価値転換はできないだろう。
働かなくてもいいからいい社会だとなるのか?
でも以前として人間はその存在価値を問われる
こんな下手な歌い手を養う必要はないとかなる,そうなるとまたそういう人達は社会的価値を認められないから苦しいともなるのである。
猫でも犬でもなぜ養っているのか?それは癒しとなるからである。ネズミをとるとか猟犬とか番犬ではない癒しとなるから飼っている,それも価値観が変わったからである。女性は男性にとって癒しとなるからそういう面での価値は変わらない
別に家事は機械でできるしオカズは買えばいいともなる,現実に自分は全部家事をしているしそこで女性の役割はない
ただ一人だと淋しいとなり癒しが必要になる,そこで女性は必要なのである。
つまり今までの女性の働きは家事だったがそうでなくなったときどうなるのか?
女性も家事だけできても価値ないとなる,生け花をしたりピアノをひいてなぐさめるとか何かそこにも芸術的なものが求められる
それはAIで機械でできないからその価値が逆に高まり家事ができるというたげではいい嫁にはならないとなる
そういうふうに常に価値が変わるから今までの価値観を変えねばならない時人は困惑する
そこで教育の仕方もかえねばならないとかあらゆるものを見直すようになる
そうならざるをえないのである。

posted by 老鶯 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題