2018年03月24日

日本製品は品質がいいが発明発見がない (ものまねだけでは世界から遅れをとった)


日本製品は品質がいいが発明発見がない

(ものまねだけでは世界から遅れをとった)

「追及して磨きをかける」ことで偉業を成し遂げる日本人

DERKNRESで言うのもわかる,日本人はこういうところは歴史的にそうだったのだろう。
職人気質でありもの作りをとことん追及してゆく
それはまさに精進であり神に潔斎してまで追及してゆく
日本刀などを作るにもそうだろう。

ところがそれは日本人のいい点としてあるのだがまたそうでないマイナスの面もある
つまりもの作りにしても発明したものは電器製品でもほとんど欧米のものなのである。
その発明された製品を改良して壊れないものを追及してゆく

でも日本人は猿まねだというとき何か日本人自身で発明したものがない
改良したものはある,そこが日本人としての弱点である。
なぜ発明できないのか?そこに日本人の弱点がある

欧米にはなぜ天才が多いのかということもそうである
ヨーロッパには歴史的にも天才がなぜあのように多く輩出しているのか?
それは単に一人二人だけ突出して出ているのではない
科学の分野でも何の分野でも天才が多いのである。
すると天才が突然生まれるのではなく天才を産む土壌があって生まれてくる
何か発見したのは科学をとってもヨーロッパの天才達であった

日本人はそうして発明されたものを磨き追及するのは得意である。
では全く新しいものを発明するとなると不得意なのである。
それはなぜなのか?
そういう土壌があるからだとなる
その土壌となっているものはいろいろあるから一概には言えない
でも確実に日本人には新しいものを発明する能力には欠けている

そして現代では必要なもの,日本人に必要なものはそうした発明されてできあがったものを改良したり磨きをかけることより何か新しい技術をでも科学の分野でも発明することなのである。
だからITとかで遅れをとった,これも発明したのはアメリカだったのである。
日本でも一時トロンとかでパソコンを発明できる素地があったのだができなかった
そういう能力がないというのではなくなにか日本ではできない環境にあったのかとなる

何でも個人でも国単位でもいい面と悪い面がある,でも日本人の弱点はこうして発明とか発見ができないことで世界に遅れをとる,世界をリードできないのである。
日本にはそういう環境がないと外国に出る人も多いことでわかる
能力があってもそういう環境がない,それで研究者も不満になったり研究とか開発もすすまない,そういう面に力をそそがないしまた出る杭は打たれるのが日本なのである。

武田邦彦氏も言っているが日本では特別金持ちになる人を嫌う,アメリカなどでは特別な法外な金持ちがいてもその金持ちたたくよりみんなそうして金持ちになることを望む
特別の金持ちをたたいてもみんなが金持ちにならないからそうするという。
そういう気質がある,日本では特別な変わった人を養成しない,そういう人は叩かれる
ただ欧米で発明されたものを磨き改良するのは得意なのである。

それは明治維新から西欧化するということ西欧に追いつくということでは良かった
でもそれが成されたときでは次はどうなるのか?
日本人自身が発明しないと世界はリードできない,そこでITでも先を越された
ソフトでもアメリカのが優れていて日本はいいものがでない
それははり発明能力が欠けているということにある

日本人はもともと外国のまねは得意でも自ら開発して発明することが遅れている
それはすでに歴史的にヨーロッパではなぜあれほど天才が生まれたのかということであるそういう土壌があって生まれたのであり何か一人の人間の特別な才能の結果でもない
その生まれた背景がある,それは何なのかというのもテーマになる

なぜなら日本は世界から遅れをとり貧困化するとか三流国になる後進国に追いつかれるというときまさに現実にそうなっているからである。
その原因は日本人はヨーロッパに追いついたとしてもその上をいくことができなかった
ただまねして追いついたがではその上にゆく開発とか発明ができなかったのである。
日本製品がいいというのはわかる
ただそれだけでは世界をリードできない,日本の行き詰まりがそこにある

つまり天才をはぐくむ土壌がないのである。天才とは別に生まれつきのものとは限らない確かにそういうのが天才だけどではそれがその時代とか国とか背景があって生まれる
音楽の天才でもそこにヨーロッパの音楽の作られた歴史があり生まれてくるからだ
例えば日本の音楽というときそれが発展しないのは発明がないからだともなる
伝統は同じものでありそこから革新的なものが生まれないのである。

ともかく天才を作るには生まれつきだけではできない,そういう土壌があり発明をすることを子供のときから訓練する,ただ暗記だけではない,ものを考えるとか工夫するとかを訓練するのである,それが受験戦争とかではできない
要するに発明発見が常にどこでもありその能力を高める訓練することである。
教育でもいつも型にはまったように教師から学ぶ時代は終わる
ITとかAI化とかで自主的に開発してゆく能力が必要になる
ただ一方的に先生から教えられるような時代ではなくなっている

インターネットだとこうして人の意見でもマスコミでも週刊誌でも雑誌でも引用して対話して考えることができる
自分は対話していないがこうしてダークネスとか武田邦彦氏とか前は「心の青雲」の都築詠一氏とかとは対話して書いた,やはりそこには一貫した主張があり反発もあるが読むべきものがあるからだ
確かに日本人のいい点として改良して磨きをかけることはあってもそこにたりないものもある
その足りないものこそ日本では今必要とされているのである。

ただそうなると簡単にいかない,なぜならその土壌は歴史的にも作られているとしたら即席に作れるものではないとなるからだ
ただ日本人に必要とされているのはそうした開発とか発明とか新しいシステム作りとかである,そういう改革できないのでヨーロッパに追いついても世界をリードする国とは成らず後進国にもの作りではおいつかれて日本自身が三流国に転落しつつある
貧困化してしているのである。欧米で発明されものを磨き改良したのはいいがその先をいくことができなかった,そこに行き詰まりの原因がある
原発事故などでも「安全神話」を作ってももともとアメリカより技術や安全については遅れていたのである。
日本人は技術的に優秀だというのもうぬぼれだったのである。
だから日本人を自画自賛しすぎるのも問題と思う,いい点は認めるとして一方でそれでたりないものがありそこが今問題になっているからである。

posted by 老鶯 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

スマホばかり見ていると人間の五感が衰える (駅でもスマホばかり見ているのは異様)


スマホばかり見ていると人間の五感が衰える

(駅でもスマホばかり見ているのは異様)

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週刊朝日3月30日号

駅でまずスマホを見ていると会話ができない,スマホを見ているのに話しかけることができない
スマホを見ている人は他者とのコミニケーションを拒否しているのである。
駅で気づいたことは外部から来た人とか5分でも待っているから話しやすいのである。
だけどみんなスマホを見ていて互いに話あわないというのも何か異様に感じる
ひたすらスマホを見ている,無人駅でスマホだけを見ている光景は異様にも感じる
ただスマホで即座にわかりにくいのがタクシーの番号などである。
タクシーの案内は駅舎を出たところに表示してある,でもそれがわかりにくいからスマホで調べる,でも即座に検索ではでてこないのである。
意外とインターネットは即座に出てこないものがある
家で調べると時間があるから検索を時間をかけてやれるからあったものが出てくる

駅でも無人化するとそこには人がいない,乗客同士も会話もしない
ただひたすらスマホを見ている,何かそれが異様なのである。
ただではなぜタクシーの番号がわからないのか?
もしロボットをそこにおいてタクシーといえば番号を教えるしタブレットを置いてタッチしたりしても案内はできる
でもインターホンがあるのだがそれに気づかない人もいるのである。
地元の人は慣れているからわかるがはじめての人はわかりにくいのである。
そこに無人駅の盲点があった

駅で一番感じたことは必ず待つ時間がある

その待つ時間が人間的なものを作り出していたのである。
電車が来るのを待つ,そこで5分でも必ず待つからちょっとした会話をする
今日も仕事できた人が香川に行くとか行ったので自分も行ったことがあるので
話する,それはほんのわずかだけど直接話する
うどんばかり食べるなというのもわかる,全国を飛び回ると地元の名物の食べ物は食べられるなとか話する

その人はその時駅舎から出た喫煙場になっているところで二人で話していたからその話を聞いて語りかけたのである。たわいのないことだがそんなふうにちょっと話して見送る
そういうことはつづいている,自動化しているから何か教えることがなくても待つ時間に語りかけるのである。

確かに手紙でも手紙を出す返事を待つ間に今までは時間があった,二三日とかで届く
それまで待っている時間がわくわくするとかどんな返事がくるのかとかあった
今は手紙も出さない時代である。電子空間で即座に返事がくる
待っている時間がないのである。
常磐高速の鹿島のセディティは間違って解釈していた,この辺の方言連れて行ってという意味だった,方言を使っていないから忘れて英語だと思っていたのである。

それは別として車だと待つ時間がない,車は着いたら用事をたしてあとはまた車に乗ればいい,そこで休んでいても待つ時間がないのである。
電車には必ず待つ時間がある,そこで人間的な時間が生まれる
現代はなんでもそうした無駄な時間が効率化して省かれるのである。

週刊朝日でスマホばかりしているとかえって知能が劣るとか高齢者は認知症になるとか警告しているのもわかる,第一インターネット空間で旅などできない,実際に旅した後にインターネットでその旅をたどるのはいいがインターネットの仮想空間では旅の体験はできない,旅は五感でするものでありそこで記憶される
そうして自分は旅をふりかえり短歌とか俳句とか詩にしている
それは実際にそこに行ったことを五感で記憶していたからである。
それで記憶が蘇り記憶しての旅ができたのである。

確かに老人になって孫をあやすときスマホを見ていたりしたらできない,幼児には絶えず顔の表情とか見たり一対一の対応が求められるからである。そこにスマホばかり見ていたらそれができなくなる
それは駅でもスマホばかり見ている人には話しかけることもできないからである。
もちろん会話など駅でしたくないさける人もある
そんな場でないという人もいる,でも駅は待つ時間がありそれでちょっとでも会話する
そういう人間的な場所を演出するものとしてあった
無人駅でも待つ時間がありそこで話しかけることはありえたのである。

とにかくこれだけスマホの時代になるといろいろ影響する,脳が変化するというのもありうる,スマホはまた自宅でインターネットしているのとも違う
それは外の空間で絶えず使っていることは外の認識力が衰えることにも通じる
その場の雰囲気などがありスマホではわからないことが新しい所に行ったから感じる
でもスマホばかり見ていたらそうした五感で感じるものも感じられなくなる
スマホばかり見ていたらそこで一句でも俳句を作るとかできなくなる
その場の雰囲気とかを感じなくなるからである。

その駅でも田舎でも何か見るものがあるが見ない,合歓の花が咲いていたり柿がなったりしている,外の風景もある,電車のなかでも外の景色を見ずにスマホばかり見ていてもそうである。
何か五感で感じるものがかえってそうした文明の利器で衰えてくるというのも逆説であるそういうことは前にも書いてきた
ただ自分はスマホしていないから実際のことがわからない
ただインターネットは自宅で絶えずしている,今回の朝日新聞の記事でも今はインターネットで詠んでいる、それでその記事に答えるというのもインターネットなのである。
何かそうした今までのマスコミに個人が答えて書くということはできなかった
今だと気軽にできる,ただ読む人の数が格段に少ないというだけである
週刊誌だったらやはり読む人の数が今でも多いのである。
でも最近週刊誌はつまらなくなったと本当に思う
書く人が決まっているしつまならい芸能人などに書かせているからである。
むしろ無数のプログの記事に面白いものがあるがそれがなかなか出会いないのが難点なのである。

いづれにしろ情報化社会ではスマホを否定しても紙幣とかがなくなりスマホで決済するようになると必需品になる,だからスマホにも問題があるのだがそれを否定はできない
ただ人間的なものが失われ人間の五感が衰えるというのも文明の逆説である。
江戸時代の旅なら濃密な旅をしていた,それは人間との出会いでもそうである。
旅は道連れとなっていた,それは交通が不便だから一回会って分かれたら二度と会えないからである。そこで出会うということは人生の貴重な時間だったのである。

現代は便利すぎて何か人間と人間がすれちがいただ去ってゆく,そこに必ず情が失われている,文明がすすめばすすむほど反比例で情が失われる
その情が失われることで殺伐とした社会が生まれる
インターネットとかの人間でも出会うとそこに危険があり信じられない殺人が起きたこともそうである。面と面で向かって接していればそうはならなかった
それがインターネットの負の面だったともなる
ただ車でもそうだし原発でもそうだったが技術は負の面をもたらすのである。
それを否定すると技術は進歩しないのである。
自動運転でもそうである。歩行者をひいて死なせたというのもそうである。
新しい技術は必ずそうして負の面をもたらすのである。

スマホをもつな、するなとはもう言えない,でもすべてスマホに頼ることはそうしてまた人間的なものを失うのでスマホばかりに頼らないで人間的五感を働かせることに注意を向けることも大事だとなる
スマホですべて何でもわかるわけでないのである。知らない土地に行ったらその雰囲気とかを五感で感じる,そして記憶にとどめる,それは旅でも結局すでに車だと風も光り感じない、運転に集中しているとできないのである。景色もゆっくり見れないのである。
それと同じだからスマホだけを批判するのは間違っているともなる
そういうことはすでに弁明の利器を使うときどこでも起きていたことだからである。

老人は消費能力が減退する (景気が良くならないのはそのためもある)


老人は消費能力が減退する

(景気が良くならないのはそのためもある)


何かこれまで消費してきたしてきたことの延長として老人もある
これまでしてきたことを継続してする
新しいことをはじめるのはむずかしい
それで登山したなとリュックを通販で買った,ところが登山する力がなくなった
自転車でまた遠く行こうかと思いいい長距離用の電動自転車を買おうかと思ったが
それも体力的に無理になったとか,旅行するからスマホとタブレットをもってプログで報告しようとか考えた
だけどそれもめんどうになった,金銭的問題ではない,手間だなと思うようになった
旅行するのもめんどうになった,なんか外人が多くて落ち着かないなホテルはとれるのかなとかなる
それはすでに介護十年で旅はしていないこともあった,何か気力が失われた

これをしてきたから何かしようとして買おうとしてもそれが消費できない,何か活用できないのである。それは金の問題ではない,消費するというとただ金を無駄にするというのではなく何か買っても金を使うにしても活用できないのである。
何かそれが年取ることなのかと思った
それで今度買ったのが近間を回る電動自転車だった
今の大きいのと重いからである。現実に自分は近間を回っているだけだからである。

それで昨日いいロードに乗っている若い女性をコンビニでみかけた
それはアメリカ製でspecilaizedという会社であり相当にいいものだった
カーボン制だから軽い,カーボンになると相当に高くなる,8キロだという
自転車は軽いのがいいのである。
その人は靴もペダルから離れない競走用のものを使っていた
目を防備するために眼鏡をかけていた,それは目が悪いからではない
だから本格的なのである。
そして坂がきついから自分は電動自転車にしたというと

私は坂を上るのが好きなんです

本当にロードに乗る人はそういうことで乗っている,若い人ならそうである。
その女性は二十代である、その人は近くに住んでいる女性だった
ただここに前から住んでいる人には見えない,なぜならこの辺は外から入って来た人が多くなっているからだ
ただ前にも相馬市の人がフランス製のロードに乗っていた,そんな外国製の自転車を買えるのかと思った,ここでの一軒の自転車屋では外国製は買えないからだ

この女性を見ればわかるようにろうしたいい自転車にのり坂でも上ることをかえって自転車に乗る醍醐味にしている
一方自分は若いときでも40代から自転車をはじめたが坂が嫌で嫌でしょうがなかった
だから歩いて上っていたのである。
つまり消費する活用するというとき物を買ってもできないなと思うようになった
なにかレジャーでもそれは一見遊びのようでも消費する活用するエネルギーがないとできないのである。
それで老人は消費能力がないことに気づいたのである
消費するというとき知っている人はしっょちゅう病院通いでありそういうことに一番消費されているのである。医療関係とか介護関係に老人は消費している
ではレジャーとかに暇と時間があればしているのかとなるとしている人もいるが老人が消費するのはどっちかというと定着的であり動的なものには消費しない傾向がある

意外と老人は食にはこだわる,自分は今まで食にはこだわらない,腹を満たせばいいとかなっていた,それより三色用意されていたから何を食べるかなど考えたことはない
一人でなんでもするようになって何を食べるか選択するようになり考えるようになった
でも簡単にすませるのがいいと最近は野菜でも多くて時間がたち腐らすので冷凍食品がいいと今になり気づいた,要するに一人は何を料理するのかではない,何を買うかがいろいろありわからないのである。
冷凍食品は簡単にするには便利だと今になってきづいたのである。

老人はいろいろでも比較的あまり動かない,家にいる時間が長くなる
すると家が住みやすいように環境を整えるということになる
内装とかにこる人もいるだろう
庭作りとか近くで畑で野菜を作るとかに励むのが向いている
家庭菜園などもそうである。そういう方面でも老人の消費するものは変わるなと思った
あとはテレビでも時代劇が面白いなと良く見ている
BSで今度は桃太郎とか毎日やっている,この前は暖簾分けとかいろいろ江戸時代のことを放送している,江戸時代のことをもっと知りたいと自分は思っている
長屋があるとしてそこではプライバシーがないのだが家族のようにもなっていた
部屋を空けるにしても他の人が見ているから心配ないのである。
長屋が家族のようになっていた,それは仮設暮らしがみんなひどいと思う人がいたがそこでは長屋のようになって毎日顔合わせて親しくなって女性の人は楽しいと言っていたのである。補償金ももらえるし悪いものではなかったのである。
手に入らない大金を手にした人も多いのである。

思うに現代と江戸時代を対比するとき,江戸時代にも隠居文化みたいのが盛んになった
盆栽とか花を楽しむとかあった,それは共通している,これだけ高齢化社会になると新しい隠居文化が生まれるかもしれない,パークゴルフなどはそうである。
ただ江戸時代と現代は違うからでは隠居文化とはなにになるのか?
プログでその人の人生経験を語るとかもそうかもしれない,老人は今何か語る場がないからである。会社人間から地域人間になりえないというより地域のコミニュティなど存在しなくなったからである。

何か自分と書くことは得意である。だから対話もなく延々と自分の興味あること経験したことを書いているのである。
もう一つは抽象画が新しく開発した分野である,これも本当に不思議だなと思う
これはまさに新しい芸術だなと我ながら思う,なぜなら膨大な写真とか絵がインターネット上に無限にある,するとそれを変化させることも無限にある
その写真や絵があるからこそ変化させるのも無限だとなる不思議である。
現代はとにかく写真の時代でありデジタル化して膨大な写真が簡単に見れるようになり撮れるようになった時代である。それはやはり一つの時代を象徴している
写真や絵が言葉以上に情報化した時代だとなる

とにかく何かを売ろうとするとき老人向きなものが売れることはある
電動自転車が売れているのは老人向きということもある
時代劇をもともと好む人がいたが老人向きでもある,それより江戸時代は隠居文化があったように江戸時代を知ることは何か心を豊かにするのである。
だから長屋で暮らしていたとかその当時の暮らしを知りたいとなる
それもそんなところでどうして暮らしていたのかと不思議になる
人生百年を生きるとしたら何かそういうふうに老人の消費というものがどうなるか知らなければ売れないともなる
若者向きだった消費でも老人向きの消費となると会社でもあまり考えていないからである。


隠居のつとめ 

隠居文化というとき武家の文化人のことだとここでは書いている
そういう人達はもともとそういう素養がありだからこそ隠居文化を自然と作り上げた
町人とかでも農民でも急に文化人にはなれない,武家でもそういう人達は屋敷で使用人を雇っていたのである。
だから隠居文化もそうして金銭的にも余裕がないとできない
ただ現代は老人も貧困者が多いが恵まれている人もいる
そういう中から何か隠居文化のようなものが生まれる可能性はある
ただ浪費されるういこともある,何か文化の時代になっていることは確かなのである。
物質的繁栄の後には文化の時代になる
そもそも情報化時代とは文化の時代であり物質だけを追及するものではないからである