2018年03月22日

詐欺まがいの投資信託を売る銀行 (士気があがらなくなり客も働く人もやめてゆく・・)


詐欺まがいの投資信託を売る銀行

(士気があがらなくなり客も働く人もやめてゆく・・)


特に外資などの場合、成績を上げなければ明日にでもクビになってしまうのでその売らなければいけないプレッシャーやストレスたるや物凄いものがあります。なぜなら、お客様が儲かろうと損しようと関係なく手数料収入をとって利益を上げなければ、金融マン自身の給料すらも貰えなくなる可能性があるからです。

当然だれもがお客様の大切なお金を減らしてやろうなどとは最初から思っていないと思います。ただ、大きな商業系の銀行で営業マンとして採用されている立場の場合、新しい投信のキャンペーンなどがあるとどうしても一定数以上を見込み客に売らなければならないというノルマを課されます。

銀行は信用するなというときこれだった,まず銀行では顧客のためにすすめるのではない必ずすすめるのが今はやりのものである。
AIとかロボット関係などを今度はすすめてきた
でもこれもチャートでは上昇曲線でもその上昇曲線になっているときはすでに下がる兆候なのである。そこに投資が集中していることもある
つまり銀行員や証券会社の人達がすすめるときはすでに旬が過ぎているのである。
もうけるにはずっと前に投資して上がったとき売らなければならない
だから銀行とか証券会社がすすめるのはほとんど旬が過ぎたものであり下降線になるときのものなのである。
だから投資は上昇するものを早くから見込んで投資すれば上昇すれば利益を得られる
見通しが大事だとなる,銀行とか証券会社は常に今はやりでみんなが投資しているものをすすめる,その時は遅いのである。

投資信託は本当に詐欺的商品である。その仕組みなど複雑でわからない,そのわからないことにつてこんですすめている
そしてまず手数料が確実に入るものであり銀行には何のリスクもないのである。
銀行自体で投資すればリスクがあるが投資信託のリスクは全部客がかぶることになるからだ,これほどいい商売はないのである。
それは銀行自体で知っているのである。投資信託は銀行にとってもうかるものであり顧客にとってもうかるものではない,そのことは知っている
営業に来る人はノルマを課せられているからそんなことを言っていられないのである。

現実になぜリーマンショックでもっていた株が上がってきたのにそれを投資信託に回したのかとなる,その時の状況があってもそこで自分は言いたいことがあったが勝手に強引に投資信託に株を売って回したのである。
分散投資するなら株と投資信託とリートと国債ともっていれば確かにもうかることもないが損することもなかったのである。
USリートは良かったが後は全滅になったのである。

ただ正直こうして何も知らないで銀行をプロの人だと思いまかした自分にも責任があり自己責任だといわれればそうである。
しきりにプロですからまかせてくださいというが実際のプロは別にいた
それは本当の富裕層であり株を知っている人なのである。
そういう人達は金を増やす術を知っているのである
まず証券会社とか銀行に頼む人は株のことや投資のことは知らないのである。
自分も全然知らずに金融のプロだと思いまかせたのである。
その時はこの人は金融のプロだと思っていたからである。
証券会社や銀行はプロとはいえない,会社のための利益を優先する人達であり顧客は二の次三の次である。
だからこそ投資信託をすすめる,それは証券会社や銀行にとって利益があがるものであり客にとってあがるものではないのである。

そして投資するならわかるものをやれとなる,株だったら別に安いとき買って高いとき売ればいいだけでありそれは自分で決めるべきなのである。
銀行でもそれがプロだとしてまかせたら銀行員は自分のノルマを果たすことと銀行のために利益になることしか眼中にないのである。
そこで逆に判断を誤ると思った,つまり株が上がってきたのにそのままにしておけばいいのに自分のノルマを果たす利益をあげるために投資信託をすすめたのである。
そういう商売をしていたら一時的にはいいとしても銀行自体の信頼が喪失する
もう喪失している,なんだ銀行はそんなものだったのか,詐欺的なものでも堂々とすすめる,ただ別に投資をすすめても悪いことはないのである。
それは顧客の利益をまず考えることである
株が上がっているのになぜ投資信託に回したのか?
それは自分のノルマと銀行の利益を優先するからそうなった

自分にしてもあくまでもわかるものを自分の責任で決めるべきだったとなる
別に株などは安いとき買ってあがった時売ればいいのである。
だから自分で決断できるのである。その責任は自分にあるから銀行にあるとはならない
でも金融のプロだと思いまかせた,それは自分で決断すべきものだった
投資信託は複雑でわからないから自分で決断もできないのである。
だからわからない人はやるべきでとないというのは本当だった
これも結局後の祭りだったとなる

ただ「銀行よ,お前もか」という暗殺されたシーザーの最後の言葉を理解した
シーザーが信頼していた部下にすべて裏切られてその言葉を残して死んだとなる

ブルータス お前もか 銀行よ,お前もか

なんか盗まれたとか事業に失敗して借金を迫られるとかその他人間社会の非情を経験した銀行にはそういうイメージはなかったが銀行自体が苦境においこまれているからそうなった,追い詰められた人はモラルを喪失するから危険である。
自分に来た人はそういう人達だったからである。
銀行員も投資信託を売らなければもうけにならない食べていけないとなり必死になっている,そこでモラルが喪失するのである。
そこに人間社会の暗黒が生まれる,とにかく窮地に追い込まれた人間がいかに危険なものになるか?
そこで犯罪が起こる,銀行自体がそうして追い詰められているからこそモラルが喪失したのである。

でも本当はそうして働く人も嫌だとなる,銀行がブラックになっていたらそこで働く人の士気もあがらない,一見ノルマを果たしたから自分のために銀行のためになっていても
それが顧客のためになっていないとすると士気があがらない
駅で道案内しているだけでありがとうと言われる,そうなると教える方も気持ちがいい
それは金にならないにしてもそうである。
でも金をもらってもそうしてありがとうと言われるものにならないならその士気はあがらない,やがてその仕事にも嫌気がさしてくる

この仕事はなんなのだろと疑問に思うのが人間であれば普通である。
銀行がモラルが喪失したとするともう一時的に利益をあげたとしても何かやる気がなくなってくる
やはり例えば戦争でもいろいろあるが死ぬとなると何らかの動機がモラルが必要になる
そうでなければ士気があがらないのである。
会社というのは利益をあげればいいとなるがではそれだけで士気があがるかとなると上がらないのである。
働く気力もなくなってくる,そうなるといくらもうけをだしてもそれで満足させられない働く人もやがて離れてゆく,現実に銀行をやめさせられる人や自らやめる人がでてくるのも当然だとなる

posted by 老鶯 at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

自転車屋を考える (商売となると接客がありそこがむずかしい)


自転車屋を考える

(商売となると接客がありそこがむずかしい)



個人店でアホな事してるクセに、本人がそれに気付かず、何でも文句言えば言いなりになる「大手が良い」って思い込む典型的な人。 
地域が育てる商店だよ? 
街の自転車屋は(笑)

個人店?殆どが駄目だね。 
学校前のスポーツ店と同じ。今まで「あそこで買わないと気まずいから」で生きてきたツケ。 

昭和の時代、チイキに甘やかされてきた既得権。 

裸一貫やり直せ。 
これは君たちの為を思って言ってやっている。

一般に 起業というのは 大半が失敗する。 
自転車屋が 生き延びてるのは 修理のおかげ。 
物品販売業というより サービス業に近い。 
理髪店みたいに。 
別に 愛想悪くても いいんじゃないか?(笑) 
腕が確かならね。職人なんだから。 
確かに 金儲けは ヘタかも知れないね 
好きでやってる仕事だしな

自転車のみの店はさらに厳しくなるだろうな 
女性が入りやすい店 
今の自転車屋は油まみれの怖いオヤジがいる感じだもんな

自転車屋に行ったら、店舗で購入したもの以外受け付けない、帰ってくれ!と追い返されたと友人が泣きついてきたので、俺は優しく正規の1.4倍の料金で電動コンポを付けてあげました 

それにしても買ったもの以外受け付けないとか酷い自転車屋もあるもんですね、許せないです

いまはほんとに自転車に金使わないからなー 
都内で車が必要でない地域でさえ一人あたり年平均8000円〜使えば良いほうじゃない? 
儲からないと言われてる美容院より更に少ないんだぜ笑っちゃうよ

街の自転車屋さんは営業センスゼロだからな


もう個人商店の時代じゃないんだよね

車を購入維持できない層の増加分<少子高齢化で減った人口なんかな

自転車屋さんで、笑顔で愛想よく迎えてくれる店主に会ったことがないんだよね。 
ママチャリの時はパンク修理ぐらいしか用がないから気にならなかったけど、 
ロードバイクだといろんな用件ができて、行く回数や滞在時間が増えて気になるように 
なった。 

特殊技術で、基本的に競争がなくて、いやなら来なくていいよと言える 
お仕事だからなのかな。

なるほど。自転車屋さんは、場所代かからないからそんなに売上する必要がないのですか。 
なんとなく無愛想の謎が解けました。確かに家族が食える分稼げれば、それ以上は 
客こなくても生きていけますね。 

同時に、元々人と関わるの苦手な人が多くないですか? 
物と接しているほうが好きなような。 


自転車屋は自分の町で一軒しかなくなった,その人も後継者がいないから病気になったとか聞いているしいつまでつづくのかとなる
そこが終わると一軒も自転車屋がなくなる
原町が近いから今でも行っている人がいる,でも修理とかなると買った店でしろといわれる

自分は高い電動を原町で買ったけどその自転車屋はお前は鹿島で買ったからその自転車屋に行けと断った,聞きたいことがあるだけだったが「お前は来るな」と面と向かって言われたことには驚いた
何か自分の店で買わないものは客でもないという意識が強い
それは歯医者とか医院とかでもそういうことがあった
自分で客を占有したいのである。だから他にも行くと面白くないとなる
ただその言い方が露骨なのである。
それは東北人らしいといえばそうなる

自転車屋は何十年前とかなるがその時は一万くらいの町でも4軒くらいかわからないがあった,少なくても三軒はあったろう。
つまりそれだけの需要があったからでてある。
でも自転車は子供のとき乗ったとしてもそれは今の自転車とは全然違って子供用の自転車などなかった,なにかごつい自転車だった
そして自転車は一回買ったらめったに買い換えないのである。
それだけ自転車は高級品だったとなる
まず10万の電動自転車など買わないのである。一回買った自転車をていねんにみがいて修理して使っていた,その頃は物を大事にしていたから機械でも修理して使うことが多かった,電器製品でもそうでありまたその時は街の電器店でも直すことができたのである。
それほど機械が複雑ではなかったのである。
それで街の電器屋が繁盛していたし何でも個人商店でも繁盛していた
それで街に活気があったとなる

そうした店が高度成長時代だったのである。小さな個人商店がどこでも繁盛したし中小企業も繁盛したのである。だからさほど資本が無くても個人で店でも会社でもはじめられたのである。そういう時代は今では良かったなと一面思う。
商売を考えるとどうしても接客がありそれがむずかしいのである。

元々人と関わるの苦手な人が多くないですか? 
物と接しているほうが好きなような。 

自転車屋も技術者であり職人気質なのである。そういう人は物作りは得意でも接客は不得意になる,愛想笑いなどしない,それは物を売るにしてもそうである。
それで東北人は農民気質であり職人気質であるから向いていない
何かそうした商売というのも伝統があり関西とかでは商人の街だからそうした気質が養われたのである。
言葉使いからして商売用になっているからである。
何かその土地の性格でも歴史的に培われ作られてきたのである。

ただでは今東北人がみんなそうして商売に向いていないというかとそうでもない
ここの自転車屋は接客がいいし感心する,前の小高の一人親方の大工さんも本当に接客がうまいのである。一人親方となるとただ職人として大工だけするのとは違う
そこで接客が営業が必要になるからだ
物を作ることから物を売る段階になるとどうしても売るということは人と接することなのである。
ヤクルトでもそうである。会社で物を作っても売るとなるとまた別な問題が生じる
直接一軒一軒回ってお客さんと接して手渡しにする,それで売れているのである。
そういう商売の仕方で成功しているのだからヤクルトという物だけの価値で売れているのではないのである。

つまり商売にはそうした接客が欠かせない,それは別に必ずしも媚びを売るとかではない人に直接接するということは相手のことを思いやるとかが関係してくるのである。
それはなんでもそうである。営業に来るひとはそうである。
銀行でもそうである。何か相手に対してのおもいやりがなく売ってもうければいいというのでは果たして一時的に会社でもうけがだせる,でも長続きしないのではないか?
なんでほとんどもうからない投資信託を一軒一軒回って売りつけているのか?
そのこと自体がもうすでに客のことへの思いやりがない
ただ会社にとって手数料とれるものを売ればいいとしかないのである。
それは銀行だけが悪いのではないがその商売の仕方がボリシーがいいものではない
でもまず利益を出せということでそうしている

もちろん自分に商売を語る資格がないといえばそうである。
ビジネスにかかわったことなどないし会社に勤めたことがないからである。
ただ商売というのは何も悪いものではない,客にとっていいものを与えるという行為であれば何も悪いことはないのである。
仙台から来たユニットバスを百万で作ってくれた人は何も悪いことはない
むしろ安くていいものを作ってくれたと感謝しているのである。
そういう会社はいくらすすめても営業してもごまかすことなどないのである。
何か営業というと悪い感じをいだく人がいるがすべてがそうではないのである。
安くていい仕事してくれれば客も得したとなり感謝するのである。

医者でも接客がある,人間の体を直接ふれて診ることでただ物を売るというより人への気遣いが必要になる,人のことをロボットのように機械のように診れないのである。
機械を修理するように診れないのである
そこに優しさとか愛とか同情心とかがかかわってくる
ただそうはいっても医者にもいろいろいる,近くにいた医者は口が悪いことで有名だったでも見立てがいいということで繁盛していたのである。
医者にそういう人はいる,そんな愛とか優しさなどどうでもいい伎倆が問題だとなる
手術とかになるとその伎倆が問われるからだ

ただいくらAI化しても人間的なものが必要になる,AI化するとかえってそうした人間にしかできないことの価値が高まる
原町の福寿園でロボットを導入した,それはただ物を運び人を案内するロボットである
それによって施設で労働力を人間だけができるものに集中させる
ではその人間だけにできるものとは介護となると直接人に接することでありそこには愛とか同情心とかやさしさとかが必要になる
ただ現実はそういう仕事はみんな嫌っている,だからいちがいにそういう仕事がいいとはならない
でもなんても機械がしてAIがするとなると人間は何をするんだとなる社会が来る
すると人間だけしかできないことの価値が高まるのである
経営者はコスト削減することに勤めるから効率化するからなるべく人件費がかからない
ようにするため機械化AI化するからである。
でもどうしても機械化AI化できないものがある

それを自分は無人駅でしてきたのである。確かに無人化しても困らないようにできているそれでもたりないものがあった,それはそこでの人との接客サービスであった
足の悪い人が来たら話しかけてどうですかとか聞いたり盲人を案内したり
困った人がいたらわからないことがあったら道案内したり何かあった
つまり無人化で事はすむのだがやはりそこに人間がいて温情ある駅になる
ただJRでは時刻通りに運ぶことだけに勤めている,人間へのサービスはない
だから半分も無人駅化しているのである。駅にはもう人はいらないとしている
コスト削減するためにもそうなる,それはやはり乗客が減ったためでもある
そういう人へのサービスまでできないからこそ無人化しているのである。
そういう社会は何か索漠としたものとなる,現実になっているのでありますますそれが加速されてゆくのである。

現代は情のない社会として作られてきた,それは情というのがあいまいなものであり何か具体的に金にならないものだからである。具体的に見えるものとして利益をあげないとういことがあるからだろう。
物を売りいくらだとして金になる,そこに愛情こめて売るとか言ってもその愛情とは何なのだとなると具体的に現れないからである。
ただ病院とか介護ではそういうものを要求する場だということである
何か物を売れば終わりだとなるが物を売ることでも人間の関係があり継続する
だからカスタマーというのが習慣的に来る人が客だとなる
そのカスタマーにこだわるから一元さんはお断りとかなる
それは自転車屋でも言えたし開業医でもそのことにこだわっていたのである。
カスタマーになれば情をかけてもろるとなる
一元さんとかいつも来る客でなかったらそうはならないというのもわかる
ともかく物作りから物を売るという段階になると人間的なものが加味されることは確かである。






posted by 老鶯 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

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