2018年03月19日

盛岡短歌十首(秋から冬) (盛岡は芸術都市:詩人の街(続2)


盛岡短歌十首(秋から冬)

(盛岡は芸術都市:詩人の街(続2)

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中津川の瀬音を聞きつ岸歩む秋の日の石にさして休みぬ

長々と柳しだれて白壁の商家も古りて秋の日暮れぬ

上の橋わたりてあわれ芒かな晩菊映えて夕暮れにけり

擬宝珠の古きやあわれ芒かなその色錆つ秋の夕暮

上の橋わたりてあわれ夕ぐれや盛岡の街の青きともしび

啄木に賢治歩むや盛岡のともしびあわれ秋の夕暮

盛岡の銀行古りて秋の薔薇咲きつつあわれ心にしみぬ

盛岡に三色の秋の薔薇咲くや煉瓦の銀行古りて残りぬ

盛岡の城跡歩みて紅葉映え散りて美し流れの音聞く

盛岡の川の岸辺にコスモスのゆれて歩むも街のにぎわい

長々と柳しだれて白壁の商家の古りて秋の日さし暮る


盛岡は詩の街であり浮世絵のような版画のような絵になりやすい街である。
二つの川が流れていて中津川は浅い川であり瀬音がする、一方北上川になると
流れが速く深いからまた別である。
一番情緒があるの東北では盛岡市である。あとは東北で盛岡市のように感じる街がない,全体的にみて乱雑ではないし一応自然が街の中にあるたかもしれない
街が仙台のように拡大化すると情緒が失われるのである。

古い煉瓦の銀行が未だに残っているのもいい,あの銀行は貫祿がある
銀行というのはそれだけ文明の象徴だったともなる
何かそこでは質実な感じになるし銀行は今とは違っていた

ともかく盛岡市は啄木が住んでいたり賢治が来たりしていた街である
東北では仙台と並んで都会だったのである。
相馬市となるとそういう都会になっていない,仙台市は大きすぎるが盛岡はちょうど30万とかで大きいしまたそれほど大きくないということで情緒がある
岩手山とかもまじかに見えるし川が二つあるしそれがいいのである。
散歩するにもいいのである。

そして今は自分は介護を十年するようになってから遠くへ出かけない
ついに去年から春まで一回仙台に行ったきりで行っていない
ほとんど近間を回っているだけなのである。
ただこうして思い出す旅をしているのも不思議だとなる
盛岡はもう新幹線で50分でありここから仙台へゆくより近い
だからいつでも行けるのだけど回想の旅をしているのである。
ただ春の桜は盛岡では見ていないのである。

道徳を離れて経済もありえない (人へのサービスにば愛とか同情心とかが必要になる)


道徳を離れて経済もありえない

(人へのサービスにば愛とか同情心とかが必要になる)

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社会を構成するものはなにか?
社会を大きく分類すると分解すると物作り,商品作り、製品化があり次にそれらを売るということがある、製品は消費者に利用してもらわなければ意味がないし価値もないし金にもならないからだ
製品をいくら作っても消費者に利用されない消費されないとするとそもそもその製品はなくてもよいものだったとなる
そして物作りとかなるとそこは人へのサービスはない,人へのサービスがあったとしてもそれを作り出す人には人とは直接かかわらないのである。
物作りというときそれを開発するのは研究部門でありそこでいい製品を利用者になるためのものを作り出そうとしている,それは主に理系の仕事だとなる

例えば自転車屋から考えると自転車を作る人がいる,自転車でもそこには様々な技術が駆使されている,今電動自転車時代だから電気系統もかかわるから複雑なのである。
そしてそこでの技術の開発は車でも飛行機でも電車でもにたものがある
軽量化でありパッテリーを長持ちかするとかいい素材の追及である。
鉄よりアルミニウムが軽くなりさらにカーボンだとさらに軽くなる
それは共通していたのである。
そういうふうに絶えず研究して新しい製品を作り出さないと売れない
それはまさにイノベーションなのである。
そのために投資する,それが資本主義だとなる
技術開発が常に必要なのが資本主義である。
それはあらゆる分野でそうなのである。薬の分野でもそうである。
病気との戦いは歴史的に継続されている,だから効果的な薬を産み出せば大きな利益となる,今は癌とか長寿にする細胞を若返らせる研究をしているうあるそれも発見があり実現してくる、人類はいい面と悪い面があるにしろさらに長寿化してゆくのは技術的に間違いないのである。
常に技術は進化して追及されているからである。

でも社会はこうして技術を追及する,ではその技術だけで事足りるかというとそうはならない,今AI化とかロボット化を追及している,すると鉄道でも無人駅にするしコンビニでもスーパーでもレジがいらないとか極力無人化する
病院でもAI化してロボット化がすすめられる,ロボットの方が正確に手術できるともなるそういうことは確実にすすめられてゆく、ではそれで人間社会は成り立つのか?
そうはいかない,どうしても人間がいなければならないものがある
機械ではロボットではAIではできないものがある

それがなにかというと人へのサービスなのである。製品を作る人は人とは直接かかわらない、でも薬でも売る人は人と直接かかわる,薬屋でも医者でもかかわる
この薬はききますよというのはわかる,では人間はその薬だけでたりるのか?
薬がすべて人間が直せるのか?そうはならない
その薬を与えるにしても医者であれ看護師であれその人に対して愛とか同情心とかをもって薬をわたすのと医者でも看護師でもただ病人をロボットがするように扱ないのである。もちろんロボットの役割はある,人が重いのでもちあげるとかはロボットがするがでは介護とかなるとどうしても愛情が必要になる,同情心とかも必要になる
それはロボットにはできないのである。機械にはできないのである。
だからいくらAI化してもロボット化しても機械化しても人間にしかできないことがある

この人とと直接かかわることが常にある,物を売るでも例えばヤクルトなどが成功したのはヤクルトを売る人に重きを置いて成功した
女性が一軒一軒回り配ることをして成功した,ヤクルト自体の製品だけの力ではないのである。サービスする人に重点を置いたのである。
そしてヤクルト配るにしても人から直接渡されるからそこに愛がこもるというか人間の心が加味されるのである。
そういうことはロボットとか機械とかAIではできないことなのである。
だから人間的なものは何なのだろうとなるとそうしたロボットとかAIにできないものである。
愛とか同情心とか優しさとかなにかそうしたものが人間的なものだとなる

そして一見ビジネスという何かそうした愛など同情心など全く関係ない非情な世界のように見える,でも人間はまず自己の利益を考えて生きている
これを否定はできない,そして会社に入ると会社の利益を考える,でも会社だけの利益を追及してそれが社会的に有益なのもの公益性がなっかたら会社が繁栄するだろうか?
自己の利益→会社の利益→社会の利益になればいい
そうならなければ会社でも社会にとって害悪となったりしたら存続できるだろうか?
銀行でも投資信託など自分の会社の利益になるだけのものを押し売りしてもうけていたら社会にとって利用者にとって必要なものなのか?
だから一見自己の利益になる,会社の利益になることはいいことおように見える
でも結果的に社会にためにならない,利用者のためにならないとしたらそういう会社が繁栄したりするものだろうか?
何かそういうことを会社が考えない経営者が考えないというのもおかしいとなる

経済とは何か?経世済民とかから経済がある、それはモラルのこと道徳のことである。
道徳を離れて経済はありえいなのである。では利益をあげることが不道徳なことかというとそうはならない,例えば駅で必要とされているものが大きな時刻表である。
それを自分は無料で置いた,なぜなら必ず時刻表を見に来る人がいたからである。
確かにJRでは小さな時刻表を置いているが小さすぎるのである。
字も小さすぎるからみにくいのである。
大きな時刻表を家にはっておけばいちいち駅に見に来る必要もない
それは原町と相馬市では商工会で大きな時刻表を出している
それをビジネスにして売って利益をあげても別に悪いことではないのである。
もうけることがみんな悪いことではない
そんなことしていたらこの社会は成り立たなくなる
ポーターのようなものでも金をもらって運んだら金をもらうことが悪いことではない
本人がそうしてもらいたいのであり金を払ってもそうしてもらいたい助けてもらいたいとなればビジネスになり金をもらうのも当然だとなる

とにかく社会にかかわり感じたことは経済は決して道徳と離れてありえないことである。道徳など愛とか同情心とかいたわりとか関係ない世界だと今は思っている
でもウェバーが資本主義は修道院からはじまったというとき神への奉仕であり他者への隣人愛としてはじまったことに由来しているというときそこに経済は道徳から離れてありえないからそうなったのである。
他者を搾取してむさぼるというのが経済ではないのである。
そういう会社が成功することはありえないのである。
そうなったらこの世は暗黒であり生きていることすらできなくなる


「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳)

常識とは、道徳であり、仁義であり、公共の利益であり、私の利益です

信用金庫の人がこう言っている、投資信託をすすめるような銀行にはそれがない
銀行員はノルマを課せられて自己の利益を目指す,銀行は銀行だけの利益を目指す
それも結局時代が変わり利益をあげられないからそうなったことはわかる
要するに常に時代が変化してゆく,それに対応できないものは滅びるのがこの社会だともなる
自分自身は社会から離れた人間であり社会性がなかった
ただ介護十年したとかその後今度はたいしたことではなくても無人駅などでボランティアして社会とかかわった,これは誰も認められないしJRからかえって煙たいものとして扱われ無視された,地域でもなんら認められなかった
ただ道を教えただけでありがとうと言われた,自分は何かそういうことを言われたことはない,そのことで自分も他者のために何かしているのかという意識をもったのである。
自分は他者に対してありがとうと言わなかった,だからそんなことでしありがとうというのが意外だったのである。それだけ自分には社会性がなかったのである。
都築詠一氏などがベートベンとか天才芸術家が社会性がないということを批判していた

何かそういう人は社会からはずれていてもいいということが言う人もいる
ただそれにも問題があり社会に生きることはどういうことなのか?
宗教でも社会にとって必要なのはなぜなのか?それが社会と全く離れてありえないだろう
また逆に社会にどっぷりつかって俗化してもありえないのである。
だから僧院とか寺とかに籠もり社会から離れた生活では何か説教することもできない
そういう人は社会から離れていて社会のことがわからないからである
ただ社会がすべてではない,社会は世の中はどうしても汚れたものでありどんなことしても改革できない,だからこそ世から離れた世界を追及するのも宗教だったとなる

宗教と経済は不可分に関係している,ただカルト宗教団体となると別物である。
資本主義が崩壊の危機にあるというときそれはモラル的な面にもある
一握りの人が世界の富を独り占めするようなことはモラルに反するからそうなる
そういう社会はグローバル経済でも世界の公益性に反するから資本主義は修道院から始まったものとはまるで違ったものとなり
崩壊してゆく,グローバル経済にはモラルがないからである。
道徳を離れて経済もありえないからである。


タグ:経済と道徳
posted by 老鶯 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題