2018年03月17日

北海道夏の旅短歌十首と詩(宗谷本線の咲来(サックル)


北海道夏の旅短歌十首と詩(宗谷本線の咲来(サックル)

北海道の大地にリフレッシュせよ(詩)

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テレビで放送したものだけど開拓村の感じである。
煙突があるからやはり冬は厳しいものがあり北海道を感じる

宗谷本線・咲来駅に行ってきました。

ここに咲来(サックル)のことが写真付きででている



なかなかに電車の来ぬやその鉄路雨ぬれつづき夏草茂る

咲来(さっくる)に夏の日一人おりたぬ何をか見むや数軒の家あり

一軒のライダーハウスありにしと咲来(さっくる)あわれ夏の夕暮

人気なく流れに泳ぐ鮎なりき勢いよしはそれのみなりしも

人来たり驚きぬかなひそむ魚流れに群れの素早く泳ぐ

電車来ず鉄路に眠るでで虫や木立の影の鉄路をおおふ

砂浜に流木の山夏の日や荒き波音人一人来ぬ

海岸の果てなくつづく砂浜や何かとどめむアイヌの地名

波荒くうちよせ荒れぬ利尻かな鴎飛びつつ旅人行きぬ

礼文島遠き島かな夕暮れにレブンウスユキソウ咲きみちにけり

霧かかり磐(いわ)一枚ここに眠りて遠き島や夏の日暮れぬ

飛び交いぬ燕やかなたの宿遠し旅人交わり夏の日去りぬ

我が走る北海道や燕飛びまたはるかにもかなたへと去る

はるかなる大地つづきて雲雀鳴きいづこへ行かむ旅の空かな

今思い出すと不思議である。咲来(さっくる)という駅で一両の電車を来るのを待っていたそれはなかなか来ない,ふりかえるとなぜあの線が残っているのかと思う
採算は全くとれないし本当に乗る人もわずかである。
ただ観光路線として残しているのか?
鉄路があり雨にぬれて夏草にうもれる,テレビで見ていてその辺のことを行ったことがあるのでなつかしいとなる

自分は咲来(サックル)駅を下りて辺りを歩いていた,川がありその川でも辺りに家がわずかであり電車にしても一両でありなかなか来ない,ただ稚内まで急行は走っているが
あの辺りは本当に人家もまれな地帯である。
あういうところで自由に気ままにぶらついていたのが自分だったのである。
それは恵まれた時だった,北海道には十回も行っているから第二の故郷である

北海道は東北とあっても他に大きな区分けがあるが一つとはならない
北海道は一つの国のようになっている、そこで気候も相当に本州とは違ってくる
海に囲まれた島にもなっているから一つの別な国として意識させられる
沖縄ともにている,沖縄もまた別個の島であり国になっているからである。
福島県でも広いがそれが一つの県としての意識がもてない
北海道はあれだけ広くても一つの県として国としての意識がもてる
そこで北海道全体を一つのテーマとして詩でも作れるのである。
そこに多様性があっても一つの国として世界として構成できる
]だからこそ蝦夷共和国の発想が明治維新の時生まれていたのである。

北海道は日本では外国である、北欧とかににているのだろう。
だから宗教でもプロテスタントとかゲルマンのゴシック建築とかにあうとなる
樹だと針葉樹の世界でありトドマツでも太いからである。
それが北の風土ににあっているのである。

北海道は詩にしても一つの国として意識して作る,他にも一つの国として機能する世界を作りやすいのである。本州になるとそうした感覚はなくなる
山が多いせいで統一感を感じないこともある
山にはばまれて統一感を感じない,福島県でもそうである。
阿武隈高原によってさえぎられ福島市とか中通りは地理的一体感を感じにくいのである
平原があればそれはかえって一つの統一国家になりやすいことはあった
山にさえぎられればそこで地理的一体感は断たれるからである。
山は障壁となり壁となり人の出入りも防ぐ天然の要塞となるからである。
おそらく北海道には平原的な風景がある唯一の場所だから本州と違って統一感をもつのである。

それにしても何でも人間は最後は過去を回想する,どんな人生であれ語る,会社に勤めていたらやはり会社が人生だったからそのことを語る
それはつまらないものでもそうである。その人にとってはつまらないとしてもそれが人生だったのである。そこに人生の重みが生まれる
だって人生は一回限りであり一回しか経験できないからだ
誰でもその一生が意義あるものとしてあることを願うだろう
とにかく自分はこう生きたのだと語る,自分は旅を生きたから旅を今語るのである。
そんなの遊びじゃないかとなればそうである。
でもそれもやはり自分の人生だったとなる
つまり今も心は北海道にあるともなる


北海道の大地にリフレッシュせよ

北海道心身ともに健やかにす
北海道の大気を吸いこみ
その心は澄み大地から
力が沸き上がる
黒々と大地は耕され
原始の巌がそそりたつ
雲雀が一日とがめられることなく鳴いていた
その声はどこまでも広がる大地にひびきわたる
つばめは縦横に飛び交い
旅人もその果てし無き大地をめぐる
悠々として大地は実りをはぐくむ
夏の日、若き日よ、旅人は交わり去りぬ
ああ、その日よ,我が身も心も放たれぬ
その広々とした大地に空に
その森厳なる針葉樹よトドマツよ
風雪を帯び北の聖堂の列柱のようにたつ
しかし過酷なる北の大地よ
そこに成らず敗れし者も多し
摩周湖の水は底まで澄み神秘をたたえる
その透明の水に映るのは神の顔
北海道を囲む海よ,そそる岩壁に波はうちひびく
海岸に流木の延々と積まれて
広々として湿原に花々は咲き満ちる
池塘には花がうっとり我が身を写している
激しく鳥が全身で鳴く声が日がなひびきわたる
利尻島は厳しく極のように聳え立つ
群青の海の色は深く北の清冽な自然に打たれよ
ポプラは風にそよぎゆれその大空よ大地よ
深々と北海道の大気を吸い生気にふれよ
そこになお原始の日が息づいている
人はその厳しい自然に鍛えられ人格を形成する
北欧のような北の文化を形成する

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posted by 老鶯 at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

自転車屋も人へのサービスが欠けていては駄目 (昔風の自転車屋はつぶれている?)


自転車屋も人へのサービスが欠けていては駄目

(昔風の自転車屋はつぶれている?)

もう一つの理由に、昔ながらのまちの自転車屋の入りづらい雰囲気がお客を遠ざけている事もあります。
昔ながらのまちの自転車屋というと職人気質で「サービス」という概念がない店が多いのです。
例えば、店主が店内でテレビを見ていて声をかけていいのか分からない店や、
店内が工具やバラした自転車部品で占領されて人が居るのか居ないのか分からない店などです。
そういった店は女性にはなかなか入りづらく、料金表もないために修理が頼みづらく
結局は、まちの自転車屋から遠ざかってしまうという悪循環です。


1.自社ブランド自転車開発で量販店に対抗
2.女性にも入りやすい店舗デザインと店作り
3.分かりやすくい料金表示
4.気軽に利用してもらえる接客サービス(空気入れ無料・ピカピカ洗車等)
5.他店購入の自転車も修理・点検OK!

接客に力を入れていれば、お客さんはついてくると思います。
技術は、後からでもどうにでもなります。
わからないことは、他のFC店や本社にも聞けますからね。

開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。
お客さんとは親しくなるのはいいことですが、
なぁなぁの関係になるのは良くないし、
技術的なことが分からないお客さんに上から目線で接客するのは論外です。
いつでも、丁寧を心がけて接客してほしいと思います。

まちの自転車店リコ


今生き残っている個人経営(街の自転車屋)の殆どは取引先が官公庁がらみのお店です。
市区町村役場、郵便局、警察・・・こいつらが税金で一流ブランドのママチャリや災害用名目で大量のマウンテンバイクを「定価」で購入し店側も「保守」という年間整備費を請求します。

苦戦しているのは旧態依然としたお店です。
古い「昭和的思考」から脱却出来ないお年寄りの経営するお店がそうです。

少なくとも真面目な自転車屋は、自分の整備不良がお客さんの命を奪ってしまうかもしれないといった責任を持って仕事をしています。
そこに通販で購入した安い粗悪品の自転車やろくに整備をしていない自転車を持ちこまれて、本心では「この自転車は危険なので買い換えてください」と言いたくても、なかなか言えるものでもありません。



自転車は好きであり自転車旅行は何度も一カ月とかでもしている,だから自転車には興味あるのだが自分はメカに弱い,だから自転車のパンク修理もできない
器用さがない,それで自転車の種類でもロードを知ったのは最近だというのでもわかる
まず自転車乗りでロードを知らない人はいないからである。
ロードの醍醐味を知らない人は自転車のことを知らないとなる
自分の場合はただ乗って自然を楽しみ遠くに行けばいいという考えしかなかった

自転車は種類が多い,そして一台一台乗り心地が違う,それもまた乗ってみないとわからないのである。だからみんな同じようで同じではない
普通通学とか一万二万の自転車なら同じだろうが今は電動自転車などで種類が増えたのである。

それで自転車を買おうとした,それはミヤタの30万もする電動自転車だった,それは長距離用でいいものだった,だがその販売店がこの辺にはなかった
それで原町の自転車屋に行って聞いてみた,そこは外国の自転車も扱っていたから扱っているのかと思ったからである。
そこではパナソニックの電動自転車を買っているし一回パンクしてそこで修理してもらった
だから全くはじめてではないのである。

でもミヤタは扱っていません,あなたは地元のH自転車屋で世話になればいいとか対応が冷たいのである。
ただ聞きに行ったのだからミヤタはあつかっていませんでもいい,話だけでも聞いてもいいはずである。それもしない,あなたはHさんに頼めばいい,ここに来る必要はないという感じである。あなたはここにはもう来るなという感じである

なぜそういう対応になったのか?
それで自転車屋のことを調べたらなるほどなと思った

少なくとも真面目な自転車屋は、自分の整備不良がお客さんの命を奪ってしまうかもしれないといった責任を持って仕事をしています。
そこに通販で購入した安い粗悪品の自転車やろくに整備をしていない自転車を持ちこまれて、本心では「この自転車は危険なので買い換えてください」と言いたくても、なかなか言えるものでもありません。

こういうことがあったのかということもある,実際に一回は28インチのタイヤで近くで事故を起し頭をぶつけて歯を三本折った,それは打ち所が悪いと死ぬこともあった
自転車は意外と危険であり整備も必要になる

自転車屋は職人である,でも一方で常に売ることもしているので接客サービスが要求される

それで開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。

接客に欠けるというのがある,その店は70近い人がしている店である
それも影響しているかもしれない,職人気質だと人のサービスより自転車の職人となり人へのサービスはないがしろにされる
これは鉄道でも同じだった,JRでは人へのサービスは欠けている
電車を作る安全に走らせる職人集団なのである。
人への接客とかサービスは関係ない,考慮していないからこそ駅の無人化をしようとしているのである。人はそこに必要ではない,ただ職人として電車を作り鉄道の保守管理をして時間通りに正確に走らせるということに力をそそいでいるのである。

自分の町にはもう一軒しか自転車屋がない,別に隣の町のスーバーとかにもあるけどここではない、その一軒がなくなればゼロになる
これも困ったことになる,自転車屋は後から世話になることが多いからだ,近くにないと困るのである。
何か自転車は町の顔のようにも思える,駅前に自転車屋がなくなったら相当に淋しくなる自転車屋には人の出入りがある
そしてその一軒の自転車屋は人の対応がいいのである。
それに感心する,田舎ではそもそも商売上手な人がまれかもしれない,接客が下手であるそもそも東北人は職人には向いている,でも接客の商売には向いていない
自分もそうでありこつこつ何か人とかかわからないでしているのが向いている
自転車屋は職人であるとともにそれを直接人に売るから接客が大事になる
それができているからあそこは田舎ではめずらしいとかなるのかもしれない
ただひどく嫌っている人もいるから評価は必ず分かれる
ただその人は異常なクレーマーなのである。それは田舎で最底辺で生きてきたために不満が多いからそうなる


リコジャパンとかチェ-ン店の自転車ができているということはやはり時代に適応できないからである。
品物の量も増えているしそれにも対応できない,サービスでも対応できない
昔風の職人気質の店では入りにくいこともある
ただここでは一軒しかないのだから嫌でも頼むほかない
それでも隣の街まで行って頼んでいる人もいる
いづれにしろ商売でも何でもむずかしい,接客があるとそれに向いている人といない人がいるし職人気質だと向いていないとかなる
その両方をかねそなえるとなるとなかなかできないのである。
だから地元の自転車屋はそれを兼ね備えているからめずらしいのかともなる
このことは医者でもそうだし何でも商売にかかわることに通じている
自転車屋だけの問題ではないのである。仕事全般に通じていることなのである。
だから自転車屋の仕事だけでもそこから社会が見えることはある
そこでは様々なことに社会全般にかかわるものとしてあるからだ
自転車というのも車とにているからである。車社会になったようにやはり自転車もそういう側面があるから社会を見ることがそこからできるのである。


何か仕事についてわからない,自転車屋でもこうしてインターネットだと内情がわかる
これもつくづくなるほどなと納得したのである。


posted by 老鶯 at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題