2018年03月08日

価値観が変わるということはどういうことなのか? (食べることより場の雰囲気を楽しむ)


価値観が変わるということはどういうことなのか?

(食べることより場の雰囲気を楽しむ)


人間は豊かになれば食べることより何かその場の雰囲気とか部屋の装飾とか何か別なものを求める,都会で釣り堀のついたカフェができたり何か装飾品を作る場を提供したりと
ただコーヒーを飲むだけではない,付加価値を求める
食べるものは何かあきる,自分は一人だから外食するがどこでも定番は決まっていて同じになる,すると食べることに飽きるのである。

ただ場所を変えて食べたりすることが気分転換になる,だから深野のユッサに行ったり前は小池のコモドインのレストランに行ったり最近では常磐高速のセディティに行った
最近できたバンドミミという磯部のパン屋にも行った,そこには休む場所が外にもうけられていてそこは民家だった
海も見えたから場所てきにいい場所だった
パンも食べるにしてもその場の雰囲気によって気持ちが変わるのである。
勉強するとき場所を変えて本を読んだりすると何かインスピレコーションが湧いたりする
人間が求める価値は必ずしも食べるというだけではないのである。
その雰囲気とか場がありそれで気分転換になったりする
人間が旅行するというとき食べる楽しみだけではない,雰囲気がまるで変わってしまうからである。
近くでも場所を変えると雰囲気が変わる,飯館村は森につつまれた村である
だから雰囲気的に一番気持ちが変わるのである。
それがあんなふうになったのは本当に残念だった

相馬地方でも浪江とかも高瀬川とかあり海もあり港もあり川が二つ流れているとか風景的にも良かった,相馬市は城下町としてありまた違っていた,新地は海に山が迫っていてやはり地形的に違っていて長い手を伸ばして貝を食べていたという手長の巨人がいたというのも地形から現実にそうだったのである。貝塚が高台にあったからである。
つまり今回津浪にあって消失した海側の村には人は住んでいなかったのである。

人間の価値観は様々である。食べるものだけに価値を置くの貧乏なときである。
今でも食べることは楽しみでもそれよりその場の雰囲気とかに価値を求めたり
その土地の人情に価値を求めたりといろいろ多様になるのである。
物というのも飽和状態になると何か人間的なもの人間の交流をもとめたりする
中国人は最初は爆買いだったが次は事を求めて旅にくる
日本の文化を知りたいともなる

自分はもともと喫茶店が好きだった,ある場所に旅してそこで喫茶店で休み何かイメージして短歌とか俳句を作る,それでそういう休む場所が必要になっていた
ただ今は喫茶店だけではやっていけないから少なくなった
喫茶店がどこにでもある時代でなくなった
喫茶店とかレストランでも場所が関係してくる,なにかごみごみした街中より見晴らしのいい所がいい,多少食べ物は劣っていてもそういう場所だと気持ちいいとなる

ともかく人間の求める価値観は変わってくるのである。
豊かになれば余計にそれぞれの求めるものが違ってくるから価値観も変わってくる
自分だと橲原(じさばら)とかにも喫茶店などあればいいなと思う
あそこは安らげる場所だからである。大原などもそうであり他にもある
ただ今は喫茶店だけでは成り立たなくなる
旅館でもいい庭がある所に泊まってみたいと今では思う
ビジネスホテルなどの安宿ばかり泊まってきたからである。
ただ正直今は何か外国人が多いとか旅行しにくいししたくなった

駅も自動化したがそこにたりないものがある,それは人間的情とか何か機械ではAI化ではできないものである。それをシリーズで伝えてきた
今求めているのは機械化AI化できるものはする,でもそれでたりないものは人間的なものとしとて残りその価値が高くなる時代である。
ロボットに感情は持てないからである。感情的なものは人間たる所以だったのかともなるその人間的なものをみんな求めるようになる
ただ物を作ったり売ったりするのはAI化したロボットがするようになる

でもAI化とか機械化とかでは絶対にできないものがある
それはその場の雰囲気であり風景であり自然なのである。
そういう雰囲気を楽しむことを人間はできるがAI化したロボットにはできない
地理は複雑な要素がありそれをAI化で読み解くことができないのである。

確かにAI化とか機械化の時代が現代を象徴している
そしてしきりに人間の脳とは人間の人間たる所以(ゆえん)は何なのだろうと
AIの開発者が自問自答しているのもわかる
機械化AI化をどこまでもすすめていってもどうしても機械化AI化できなものがある
それは人間にしかできないから最も人間的なものが残りそれが仕事になる
それは感情なのかもしれない,うれしいとか悲しいとか笑うとか感情をロボットはもつことはできない,知性的な部分はAI化できても感情はできない
それでキリストは「悲しむものは幸いである」ということを言った
これも何なのか?悲しむということは人間しかできないのである。
悲しみ涙を流すことは人間にしかできないのである。そこに人間たる所以があるとしたともとれる、ここに何か深い意味がありこれがわかることは容易ではない

いづれにしろこれからはAI化機械化はすすめられる,コンビニでも駅でもどこでも自動化して人件費をはぶきコストを抑える,それが人間にとっていい社会なのか?
でも資本の論理でコストを抑え効率的に運営するにはそうなるのである。
そういう社会で何が重要になるのか?
かえって人間的なもの感情であり情が見直されるとういこともある
ロボットには情はもてないからである。
江戸時代は貧乏であり医療でも発達しないから病気を直すことができなかった
でも情に厚い時代だった,人情の時代だったのである。
文明は知、情,意が人間にあるとして知の部分が肥大化しすぎたのである。
その知の部分はAI化しやすいのである。

要するにAI化とか機械化をすすめると価値観が変わる,物が豊富になれば物の価値は低下する,高度成長時代まで物がないのだから物があればいいという時代だった
自分の家で店をしていたが物を置けば売れる時代だったのである。
何も物がない時代はそうなっていたのである。
今は物があふれているし物だけでは満足しない時代になった
そういう時代の価値観は変わるのである。
腹を満たして終わりとはならないのである。



posted by 老鶯 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題