2018年03月03日

最近の故郷の風景(春は来たが) (風車もなじむ景色となる?-磯部のパン屋)


最近の故郷の風景(春は来たが)

(風車もなじむ景色となる?-磯部のパン屋)

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風車が回っていない
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磯部のパン屋
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相馬市の道の駅のすぐ近くで二人の若い女性が事故死する

ここで雪の日に二人の若い女性が死んだ
歩道が雪で凍って歩けない,それで車道を通ったのだが白線の内側も凍っていた
すると車の通る車道を歩いていた
そしてトラックにはねられたのである。
これは思わぬ雪と真夜中の三時という時間が影響して事故になった
まず夜は自転車でも危険になる,いくら慣れていても危険になる
第一あそこをなぜ真夜中の三時に歩いていたのかとなる
自転車でも歩道が凍って通れないと車道になるがそこは白線の外に出れば自転車も危険になる
悪い条件が重なって事故死したのである。


風やみて風車回らず冬芒

石十個常連客あれ冬の暮

蠟梅や猫一匹いつき我待つ


この道に若き女性の二人死ぬいたましきかなうらめしきかな

梅咲くもかなたの山は雪なりや厚くも雲の覆いけるかも

春なれば峠を越えて飯館へ我が行かむや雪雲閉ざしぬ

面影のなおも浮かぶや我が家に待つ人なしや春となりしも


磯部のパン屋は場所が自転車でも行ける,相馬市までだとなかなか行けない
ただパンはそんなに種類がないし素人の家族で焼いているという小規模のものだった
機一昨日,強風のとき行って失敗した,風がやみ雨もやんだと思い行った
それから急に風がふいた,そして吹き飛ばされて転んだ
その時自転車の予備の電池をなくした,あれは高いし損した
ロードは軽いけど自転車としては危険だなと乗ってみてわかった
だからへたすると大怪我する危険を感じる
早いから急ブレーキにしてもぶつかる度合いが大きくなるからだ

あそこにあんな民家があったとは思わなかった,東京の方からあそこに移ってきた
その人がパン屋をはじめた,パンはたいしたものではなかったがあそこの場所はいい
自分は何か場所にこだわる,そこがどういう場所なのか,景色がどうかとかまずみる
この辺でも場所が違うと雰囲気でも何でも違っている
狭い場所だからどこでも同じではないかというとそうではない
あそこは海が遠くに広く見えた,それが違っていた
あそこには広い高台があった,あそこには行ったことがなかった
そういう場所に休む場所があるといいのである。

だから限界集落とかなりそうした地域地域が失われることは住んでていて面白くないというか変化がなくなる,場所の雰囲気を変化を楽しむことができなくなる
田舎は多様な場所に住んでいるからである
ともかくあのように今は意外と他から移り住んでいた人達がいた
でも放射能騒ぎとか津浪もあり帰った人も多い
その人も実際はパン屋をするわけではなかったこの辺の特殊な事情ですることになった
商売は常連客があるとリピーターがないと成り立たないだろう
この辺は工事とかで今も外からの人が来ている,それで成り立っている食堂とかある
でも前のようには来ないので地元の人に来てもらわないと成り立たないということがある自分は朝はパンだからうまいバンを食べたいのである。

鹿島区は海岸が風車の風景になった,今日はめずらしく風が吹かないので風車が回っていない,そして冬芒の風景になっている
これもこの辺の風景としてなじんでくるのかとなる
家で待っている人はいない,待っていたのは猫だった
この猫も何か不思議なのである。猫は家にいつくというが本当である。
家の住人のようになるから不思議なのである。

死んだ人もだんだん忘れさられてゆく,去る人は日々に疎しになるがなおやはり面影が浮かんでくる
春といってもまだ春とは感じられない,今年は寒かったからだ
ただ梅は咲き始めたから春にはなっている,鶯の初音も聞いた,雲雀も鳴いたのである。ただ本格的に鳴きはじめるのはまだである。
飯館の方は雪であり雲におおわれて雪がこっちにも吹きかけてくるのがこの浜通りの気候である。







タグ:風車 磯部 冬芒

グローバリストとナショナリスト(ローカリスト) (国や地域の文化を重視するのがナショナリスト)

グローバリストとナショナリスト(ローカリスト)

(国や地域の文化を重視するのがナショナリスト)


グローバリストとは何なのか?グローバルとはglobeのこと地球のことである。
そこには国はない,地球という神が創造した自然のことである。
だから何かここで言葉でも受け取り方が違っている
グローバリストとはその地球とは関係ない,経済的に貿易で国境をなくす
経済優先の人達なのである。
グローバルに経済を展開して利益を得る,多国籍企業がそうである。
一方でナショナリストは国内経済を主要なものとしてまずあるべきだという人達である。だからトランプ大統領が中国などに鉄鋼で関税をかけるというのは国内の鉄鋼産業が衰退すると労働者も困るし国内産業も育成できない,労働者も失業するということで主張している

自分の考えではグローバルとはあくまで地球なのである。地球というとき海があり大地があり川があり森があり山がありという地球のことである。
そこで経済だけでありえない人間の生を考える,何かの物を生産する,売買する,もうかる,損するというかの問題ではないものとしてグローブ(地球)を考える
たから自分が言うグローバリストとかナショナリストの意味は違ってくる
グローバリストは地球主義なのである。それは経済原理の地球主義ではない
国々の風土があり文化あり歴史かありその中で培うものが地球主義でありグローバリストなのである。だからグローバリストというときeconomical globalistになる

グローバリストとナショナリストを考えるとこれは世界的にだけあるものではない,
東京とかに住む人はみんなグローバリストなのである。
なぜなら彼らの思考は完全に自然から乖離しているからである
回りに自然がない,食料はどこから入ってくるのか?
子供ならスーパーにいくらでもあるじゃない,金さえあればいいとなる
田んぼとか畑がなければ食料がどういうふうに育つのかもわからないのである。

都会と特に東京と田舎,地方との対立はグローバリストとナショナリストの対立とにているのである。ナショナリストという大きな範囲になるがローカリストとの対立だとうのもわかる
ナショナリストはローカリストはやはりその土地土地の風土に養われて思考している
東京に住んでいるような人達はそうした自然を思考しないですべて語る
経済でもそうだし科学でもそうだしなんでもそうなのである。
そこに自然がぬけている,自然の思考がないのである。

自分は地域地域を一つのコスモスとして見る,でもグローバリストはただ世界を経済の道具とみている,多国籍企業などでもそうである。
車を売るために薬でも売るための市場としてのみ見ているのである。
だからグローバル経済は非人間的である。
そもそも世界は地球は市場とだけ見ることが間違っている
その国々を地域をただ市場として見ていることそして経済的に支配するものとして見ているのは悪魔的だともなる
石油の値段が下がってベネゼエラが破産状態になった,国民が10キロやせたのである。
食料が入らなくなったのである。そういうことがグローバル経済では起きる
日本は車だけ作っていろ,牛肉をアメリカから買いと常に要求される
そして東京に住んでいる人は田舎人とナショナリストと対立するのはにている
食料など農民などは国の援助で成り立っている,俺たちの税金が農民に使われている
そういう不満が田舎の人達に農民に対してある
だから外国から食料を輸入した方がいいと本気で思っているのである。
彼らに日本の国土への思考がないのである。
まさに東京とかなるみんなグローバリストが住んでいる所なのである。

自分がグローバル経済を否定するのはそれは文化的側面からなのである。
グローバル経済は国々の国境をとりはらい自由に物でも人でも流通させるということになるがそこに国々の歴史があり文化があるがそれも無視するのである。
その国々は国内でも風土があって自然があって歴史があって作られてきたのである。
その地域地域であれそこで血の通った人間的経済にすることで本来の人間性が回復する
一つの世界観が形成される,アイディンティティが形成される
そういうことを自分は詩とかで追及してきたのである。

自分は経済的な面だけからではなくナショナリストではない,地域地域の風土自然があってそこで世界観をアイディンティティを築く,経済より文化を重んじて言っている
経済がグローバル経済になったらもう文化もなにもない,ただ経済的原理だけで動く
それが今のグローバル経済である,そこには弊害が起きてくる
だから自分が言っているグローバリストとナショナリストの意味は違っている

アメリカだとクリントンはグローバリストでありトランプはナショナリストというとき経済的側面だけでそうなっている,アメリカの中でも対立していることがわかる
ナショナリストとなる国を第一にするからどうしても歴史でも文化でも重んじることになる,グローバリストは経済的に世界を支配しようとすることである。その支配の方法は金融なのである。それがユダヤ人とだけは言えないだろう別にキリスト教者のネオコンなどもそうだからである。

アメリカでも白人がアメリカを作ってきた,それなのに移民がアメリカを支配するようになるとかナショナリストが反発したのである。
人間は経済的原理のみでありえない,それはグローバル経済でもそうである。
そこに金融資本主義になり格差社会になり国々の文化や歴史を無視する横暴があった
人間はそもそも経済人間だけとなるものではない,様々な要素がありそれで人間的に生きられるとなるからだ

自分の考えでは東北ブロックとか道州制とかにしてそこでそれぞれの世界観を形成してゆく,金融でもそういう中で機能してゆく世界である。東北ブロックがあればその中にまた地域地域のブロックが自然でも歴史でもある
金融でも地域の会社を育てる地域に貢献するものとしてあるのが地銀だとなっている
だからグローバル経済の株をすすめたり投資信託をすすめるのは合わないのである。
会津とか考えるとそこはもともと万葉集から一つの大きな国として意識されていた
そういう自然があり歴史が育まれてきた,ただ経済的原理だけで働くとか世界を見るというのが合わなくなった,そもそも人間が経済人としてだけあるのではない

グローバリストとは人間が世界でもみんな経済人としてみている
あらるものを経済の単位としてみている,海であれ山であれ森であれ美しい景観の中に住んでそこで文化を育むという思考がないのである。
ナショナリストに回帰するというときそれは経済だけの問題ではない
その国の風土と歴史によって育まれたものを再アイディンティティ化することなのである
グローバルというとき地球を今やグローバルに探求している,無数の写真や絵がインターネットにでている,そこでソフトで抽象画を作ったというのは不思議な体験だった
そういう芸術でもグローバル化する,それは経済とは違ってまさにグローブ(globe)
地球の景観が多様に写真などで見せられる時代である。
そういう文化的なもののグローバルは経済摩擦など起きないのである。
グローバル経済になるとどうしても摩擦が起きてそれが深刻になると戦争にもなる
いくらそれがいい面があるとしても日本から車を買っているんだから牛肉を買いとか
オレンジを買いとかなるのは当然なのである。
そこで必ず貿易摩擦が生まれ深刻になると戦争になる
経済の原理だけのグローバル化はそもそも無理なのである。
貿易とかは必要でも現代のグローバル経済は限界を越えたものとなりそれに人間はもう耐えられないのである。人間はみんな経済人として生きるものじゃないからである。


posted by 老鶯 at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題