2018年03月17日

自転車屋も人へのサービスが欠けていては駄目 (昔風の自転車屋はつぶれている?)


自転車屋も人へのサービスが欠けていては駄目

(昔風の自転車屋はつぶれている?)

もう一つの理由に、昔ながらのまちの自転車屋の入りづらい雰囲気がお客を遠ざけている事もあります。
昔ながらのまちの自転車屋というと職人気質で「サービス」という概念がない店が多いのです。
例えば、店主が店内でテレビを見ていて声をかけていいのか分からない店や、
店内が工具やバラした自転車部品で占領されて人が居るのか居ないのか分からない店などです。
そういった店は女性にはなかなか入りづらく、料金表もないために修理が頼みづらく
結局は、まちの自転車屋から遠ざかってしまうという悪循環です。


1.自社ブランド自転車開発で量販店に対抗
2.女性にも入りやすい店舗デザインと店作り
3.分かりやすくい料金表示
4.気軽に利用してもらえる接客サービス(空気入れ無料・ピカピカ洗車等)
5.他店購入の自転車も修理・点検OK!

接客に力を入れていれば、お客さんはついてくると思います。
技術は、後からでもどうにでもなります。
わからないことは、他のFC店や本社にも聞けますからね。

開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。
お客さんとは親しくなるのはいいことですが、
なぁなぁの関係になるのは良くないし、
技術的なことが分からないお客さんに上から目線で接客するのは論外です。
いつでも、丁寧を心がけて接客してほしいと思います。

まちの自転車店リコ


今生き残っている個人経営(街の自転車屋)の殆どは取引先が官公庁がらみのお店です。
市区町村役場、郵便局、警察・・・こいつらが税金で一流ブランドのママチャリや災害用名目で大量のマウンテンバイクを「定価」で購入し店側も「保守」という年間整備費を請求します。

苦戦しているのは旧態依然としたお店です。
古い「昭和的思考」から脱却出来ないお年寄りの経営するお店がそうです。

少なくとも真面目な自転車屋は、自分の整備不良がお客さんの命を奪ってしまうかもしれないといった責任を持って仕事をしています。
そこに通販で購入した安い粗悪品の自転車やろくに整備をしていない自転車を持ちこまれて、本心では「この自転車は危険なので買い換えてください」と言いたくても、なかなか言えるものでもありません。



自転車は好きであり自転車旅行は何度も一カ月とかでもしている,だから自転車には興味あるのだが自分はメカに弱い,だから自転車のパンク修理もできない
器用さがない,それで自転車の種類でもロードを知ったのは最近だというのでもわかる
まず自転車乗りでロードを知らない人はいないからである。
ロードの醍醐味を知らない人は自転車のことを知らないとなる
自分の場合はただ乗って自然を楽しみ遠くに行けばいいという考えしかなかった

自転車は種類が多い,そして一台一台乗り心地が違う,それもまた乗ってみないとわからないのである。だからみんな同じようで同じではない
普通通学とか一万二万の自転車なら同じだろうが今は電動自転車などで種類が増えたのである。

それで自転車を買おうとした,それはミヤタの30万もする電動自転車だった,それは長距離用でいいものだった,だがその販売店がこの辺にはなかった
それで原町の自転車屋に行って聞いてみた,そこは外国の自転車も扱っていたから扱っているのかと思ったからである。
そこではパナソニックの電動自転車を買っているし一回パンクしてそこで修理してもらった
だから全くはじめてではないのである。

でもミヤタは扱っていません,あなたは地元のH自転車屋で世話になればいいとか対応が冷たいのである。
ただ聞きに行ったのだからミヤタはあつかっていませんでもいい,話だけでも聞いてもいいはずである。それもしない,あなたはHさんに頼めばいい,ここに来る必要はないという感じである。あなたはここにはもう来るなという感じである

なぜそういう対応になったのか?
それで自転車屋のことを調べたらなるほどなと思った

少なくとも真面目な自転車屋は、自分の整備不良がお客さんの命を奪ってしまうかもしれないといった責任を持って仕事をしています。
そこに通販で購入した安い粗悪品の自転車やろくに整備をしていない自転車を持ちこまれて、本心では「この自転車は危険なので買い換えてください」と言いたくても、なかなか言えるものでもありません。

こういうことがあったのかということもある,実際に一回は28インチのタイヤで近くで事故を起し頭をぶつけて歯を三本折った,それは打ち所が悪いと死ぬこともあった
自転車は意外と危険であり整備も必要になる

自転車屋は職人である,でも一方で常に売ることもしているので接客サービスが要求される

それで開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。

接客に欠けるというのがある,その店は70近い人がしている店である
それも影響しているかもしれない,職人気質だと人のサービスより自転車の職人となり人へのサービスはないがしろにされる
これは鉄道でも同じだった,JRでは人へのサービスは欠けている
電車を作る安全に走らせる職人集団なのである。
人への接客とかサービスは関係ない,考慮していないからこそ駅の無人化をしようとしているのである。人はそこに必要ではない,ただ職人として電車を作り鉄道の保守管理をして時間通りに正確に走らせるということに力をそそいでいるのである。

自分の町にはもう一軒しか自転車屋がない,別に隣の町のスーバーとかにもあるけどここではない、その一軒がなくなればゼロになる
これも困ったことになる,自転車屋は後から世話になることが多いからだ,近くにないと困るのである。
何か自転車は町の顔のようにも思える,駅前に自転車屋がなくなったら相当に淋しくなる自転車屋には人の出入りがある
そしてその一軒の自転車屋は人の対応がいいのである。
それに感心する,田舎ではそもそも商売上手な人がまれかもしれない,接客が下手であるそもそも東北人は職人には向いている,でも接客の商売には向いていない
自分もそうでありこつこつ何か人とかかわからないでしているのが向いている
自転車屋は職人であるとともにそれを直接人に売るから接客が大事になる
それができているからあそこは田舎ではめずらしいとかなるのかもしれない
ただひどく嫌っている人もいるから評価は必ず分かれる
ただその人は異常なクレーマーなのである。それは田舎で最底辺で生きてきたために不満が多いからそうなる


リコジャパンとかチェ-ン店の自転車ができているということはやはり時代に適応できないからである。
品物の量も増えているしそれにも対応できない,サービスでも対応できない
昔風の職人気質の店では入りにくいこともある
ただここでは一軒しかないのだから嫌でも頼むほかない
それでも隣の街まで行って頼んでいる人もいる
いづれにしろ商売でも何でもむずかしい,接客があるとそれに向いている人といない人がいるし職人気質だと向いていないとかなる
その両方をかねそなえるとなるとなかなかできないのである。
だから地元の自転車屋はそれを兼ね備えているからめずらしいのかともなる
このことは医者でもそうだし何でも商売にかかわることに通じている
自転車屋だけの問題ではないのである。仕事全般に通じていることなのである。
だから自転車屋の仕事だけでもそこから社会が見えることはある
そこでは様々なことに社会全般にかかわるものとしてあるからだ
自転車というのも車とにているからである。車社会になったようにやはり自転車もそういう側面があるから社会を見ることがそこからできるのである。


何か仕事についてわからない,自転車屋でもこうしてインターネットだと内情がわかる
これもつくづくなるほどなと納得したのである。


posted by 老鶯 at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

北海道夏の旅短歌十首と詩(宗谷本線の咲来(サックル)


北海道夏の旅短歌十首と詩(宗谷本線の咲来(サックル)

北海道の大地にリフレッシュせよ(詩)

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テレビで放送したものだけど開拓村の感じである。
煙突があるからやはり冬は厳しいものがあり北海道を感じる

宗谷本線・咲来駅に行ってきました。

ここに咲来(サックル)のことが写真付きででている



なかなかに電車の来ぬやその鉄路雨ぬれつづき夏草茂る

咲来(さっくる)に夏の日一人おりたぬ何をか見むや数軒の家あり

一軒のライダーハウスありにしと咲来(さっくる)あわれ夏の夕暮

人気なく流れに泳ぐ鮎なりき勢いよしはそれのみなりしも

人来たり驚きぬかなひそむ魚流れに群れの素早く泳ぐ

電車来ず鉄路に眠るでで虫や木立の影の鉄路をおおふ

砂浜に流木の山夏の日や荒き波音人一人来ぬ

海岸の果てなくつづく砂浜や何かとどめむアイヌの地名

波荒くうちよせ荒れぬ利尻かな鴎飛びつつ旅人行きぬ

礼文島遠き島かな夕暮れにレブンウスユキソウ咲きみちにけり

霧かかり磐(いわ)一枚ここに眠りて遠き島や夏の日暮れぬ

飛び交いぬ燕やかなたの宿遠し旅人交わり夏の日去りぬ

我が走る北海道や燕飛びまたはるかにもかなたへと去る

はるかなる大地つづきて雲雀鳴きいづこへ行かむ旅の空かな

今思い出すと不思議である。咲来(さっくる)という駅で一両の電車を来るのを待っていたそれはなかなか来ない,ふりかえるとなぜあの線が残っているのかと思う
採算は全くとれないし本当に乗る人もわずかである。
ただ観光路線として残しているのか?
鉄路があり雨にぬれて夏草にうもれる,テレビで見ていてその辺のことを行ったことがあるのでなつかしいとなる

自分は咲来(サックル)駅を下りて辺りを歩いていた,川がありその川でも辺りに家がわずかであり電車にしても一両でありなかなか来ない,ただ稚内まで急行は走っているが
あの辺りは本当に人家もまれな地帯である。
あういうところで自由に気ままにぶらついていたのが自分だったのである。
それは恵まれた時だった,北海道には十回も行っているから第二の故郷である

北海道は東北とあっても他に大きな区分けがあるが一つとはならない
北海道は一つの国のようになっている、そこで気候も相当に本州とは違ってくる
海に囲まれた島にもなっているから一つの別な国として意識させられる
沖縄ともにている,沖縄もまた別個の島であり国になっているからである。
福島県でも広いがそれが一つの県としての意識がもてない
北海道はあれだけ広くても一つの県として国としての意識がもてる
そこで北海道全体を一つのテーマとして詩でも作れるのである。
そこに多様性があっても一つの国として世界として構成できる
]だからこそ蝦夷共和国の発想が明治維新の時生まれていたのである。

北海道は日本では外国である、北欧とかににているのだろう。
だから宗教でもプロテスタントとかゲルマンのゴシック建築とかにあうとなる
樹だと針葉樹の世界でありトドマツでも太いからである。
それが北の風土ににあっているのである。

北海道は詩にしても一つの国として意識して作る,他にも一つの国として機能する世界を作りやすいのである。本州になるとそうした感覚はなくなる
山が多いせいで統一感を感じないこともある
山にはばまれて統一感を感じない,福島県でもそうである。
阿武隈高原によってさえぎられ福島市とか中通りは地理的一体感を感じにくいのである
平原があればそれはかえって一つの統一国家になりやすいことはあった
山にさえぎられればそこで地理的一体感は断たれるからである。
山は障壁となり壁となり人の出入りも防ぐ天然の要塞となるからである。
おそらく北海道には平原的な風景がある唯一の場所だから本州と違って統一感をもつのである。

それにしても何でも人間は最後は過去を回想する,どんな人生であれ語る,会社に勤めていたらやはり会社が人生だったからそのことを語る
それはつまらないものでもそうである。その人にとってはつまらないとしてもそれが人生だったのである。そこに人生の重みが生まれる
だって人生は一回限りであり一回しか経験できないからだ
誰でもその一生が意義あるものとしてあることを願うだろう
とにかく自分はこう生きたのだと語る,自分は旅を生きたから旅を今語るのである。
そんなの遊びじゃないかとなればそうである。
でもそれもやはり自分の人生だったとなる
つまり今も心は北海道にあるともなる


北海道の大地にリフレッシュせよ

北海道心身ともに健やかにす
北海道の大気を吸いこみ
その心は澄み大地から
力が沸き上がる
黒々と大地は耕され
原始の巌がそそりたつ
雲雀が一日とがめられることなく鳴いていた
その声はどこまでも広がる大地にひびきわたる
つばめは縦横に飛び交い
旅人もその果てし無き大地をめぐる
悠々として大地は実りをはぐくむ
夏の日、若き日よ、旅人は交わり去りぬ
ああ、その日よ,我が身も心も放たれぬ
その広々とした大地に空に
その森厳なる針葉樹よトドマツよ
風雪を帯び北の聖堂の列柱のようにたつ
しかし過酷なる北の大地よ
そこに成らず敗れし者も多し
摩周湖の水は底まで澄み神秘をたたえる
その透明の水に映るのは神の顔
北海道を囲む海よ,そそる岩壁に波はうちひびく
海岸に流木の延々と積まれて
広々として湿原に花々は咲き満ちる
池塘には花がうっとり我が身を写している
激しく鳥が全身で鳴く声が日がなひびきわたる
利尻島は厳しく極のように聳え立つ
群青の海の色は深く北の清冽な自然に打たれよ
ポプラは風にそよぎゆれその大空よ大地よ
深々と北海道の大気を吸い生気にふれよ
そこになお原始の日が息づいている
人はその厳しい自然に鍛えられ人格を形成する
北欧のような北の文化を形成する

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posted by 老鶯 at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2018年03月18日

銀行は江戸時代の金貸しにもどった? (投資信託はだまし的要素があり危険)


銀行は江戸時代の金貸しにもどった?

(投資信託はだまし的要素があり危険)

日本古来のクラウドファンディング「頼母子講」とは

銀行というのがかかわってわからない,わからないのは金融業がわかりにくいからである自転車屋とかでもわからないことがあったがインターネットで調べるとそういうものかと納得する,でもまず銀行とか証券会社とかは理解できない
このサイトでは頼母子講から銀行が分化したとある,保険や投資もしていたのが頼母子講でありこれは相互扶助組織だった,何か協力するものとして生まれた
それは明治以降も活きていたという,つまりまだ銀行はそれほど普及していなかったのである。
自分の父親は酒屋をしていて暖簾分けした,それが双葉の新山だった,そこに姉が良く行っていてそこに銀行があり遊んでいたという,その時銀行はめずらしいものだったのである。

もともと金貸し業が基になっているのが銀行だというのもある
すると江戸時代のようなあこぎな金貸しの面もある
消費者金融の親になっているのが出資しているのが銀行だからである。
ヤクザまがいの人間を雇ってとりたてをするのは江戸時代と同じだとなる
ただ裏でいい顔して役人のようにしているともなる
今までは銀行をそのように見ていない,やはり高度成長が終わって利子がつかなくなったときから銀行は変質した
金を貸すもうけさきがないからそういうあこぎな金貸し業に先祖返りしたのかとなる

ただ資本主義社会では銀行は必要欠かせぬものとしてある,だから銀行の役割はある
ただ資本主義がもうこれ以上投資先がないとかなりただ金をためていても銀行にとっては負債を抱え込んでいると同じだとなる
金をあづかってもかえってそれで投資してもうけが出ている場合良かったのである。
それで地元でも助かった会社いるし育てられた会社もある
ただそれは高度成長時代に銀行は別に悪いものではなく良いものとして機能していたのである。

だから銀行が今地銀などでも苦境にありどうしてもうけるのかとなり投資信託とかすすめることになった,これはとてももうけられる仕組みになっていないのである。
ではなぜすすめるのかというと手数料を高くとれるからである。
銀行自身が投資して株をしているがそれは失敗したら損になる,リスクをかぶらざるをえない,でも銀行が手数料をとって買わせる株でも投資信託でも手数料がとれるから損することがないからである。

でもこうして自分でもそうだが投資信託は詐欺的商品だというとき何かわかりにくいからそうなっている,わかりにくいとごまかしやすくなるからしている
株だと意外と買った時点で安ければ株が上がればもうかるということは子供でもわかる
だから株の方がわかりやすいのだが投資信託をすすめるのである。
それは銀行や証券会社にとって都合いいものだからである。

銀行側にすれば借金している人のように追い詰められている,だからノルマも課せられているから押し売りのようになっている
そもそも貯金をしてもらってもそれは銀行の債務だというときそうなのだろう。
なぜならその金をあづけられても活かさなければただもっているだけでも費用がかかり事務費をとるということにもなる
では銀行自身が投資してもうければいいが銀行とはいえ株の世界では簡単にもうけられない,リスクがあり損することがあるからだ
だから投資信託でも株でも手数料を確実にとるのが一番楽なのである。

銀行はもう社会の中で正業として機能しなくなったのではないか?
それは銀行だけではない,官僚が経営する財務省でも不正が行われていた
財務省とは金融庁であり銀行を監督する立場にある
その大元が不正していたのである。そのために自殺した人まででてきた
財務省そのものが国民から税金をとりたてて不正しているとなる
金融資本主義は世界的にも格差社会を産みわずかの人達が私腹を肥やすものとなっているだから資本主義自体が危機になっているのだ
資本主義はもう機能しなくなっりつつあるのだ
すると銀行も機能しなくなりたまった金を活用できないのである。
もうけ先がなくなり預金者に投資信託などをすすめて手数料で稼ぐ
つまりあこぎな江戸時代の高利貸しのようになっている
銀行はこうなると社会にとっての悪であり必要ないともなる
銀行の役割が喪失したともなる

時代の変化で永続するものなどない,銀行もそのために変質した
何か変化しなければならないのだがそれができない
だから消滅の危機にあるのかもしれない,誰もそんなことしていたらかかわりたくないとなる
最初はいいにしてもいづれみんなそのことがわかる
得するのは銀行だけであり金をむしりとられるだけだとなる
そうなると預金者も銀行にいい顔をしなくなる
かつての銀行のイメージとは違う、あこぎの高利貸しにもどったともなる

そういうところで働いていると人相まで悪くなるかもしれない
消費者金融の人達とにたようになるかもしれない,紳士面していてもその中味はもう高利貸しと同じだとなる
銀行の社会的使命があったがそれが時代が変わり変質してもうその役目は終わったのかとなる
何か正業として利益をあげる方法がないのかもしれない
となると社会にとって害悪な存在ともなる,そういうことが預金者も気づきはじめたらどうなるのか?
銀行は信用されなくなりいらないとなる,でもどこに金をあづけるのかタンス預金なのかとなるとこれも危険である。
するとそれぞれ株をやればいいのかとなるとそれも危険である。
ただ銀行はかつての銀行とは違っていた,それだけはみんなも知るべきである。


posted by 老鶯 at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

自転車は人間の性格などの相違とにていた (その多様性に共通性があった)


自転車は人間の性格などの相違とにていた

(その多様性に共通性があった)


自転車の種類はいろいろある,メーカーによっても違う。
基本的にロードとクロスバイクとマウテンバイクがある
でも同じロードでも乗り心地とかが違ってくる
百種類の自転車があるとしてその百種類の自転車はみんな乗り心地が違う
それがなんとも不思議なのである。

遠くに行くということで28インチのパナソニックの自転車をすすめられてかった、
それはバッテリー容量が多いということですすめられた
長距離用としてすすめられた,それは28インチのタイヤだから早く進むことは確かだったでも婦人用タイプでありスポーツタイプではない
だからデザインとか乗り心地は違っていた
早く軽快に走るものとは違っていた
そしてパナソニックの電動自転車は坂をスムーズに上りにくいのである。
ヤマハの電動自転車は坂を上り安いようにできている

本当に乗ってみてそれも一年くらいとか乗ってみてわかる
この自転車はこういう自転車なのだとわかる
ヤマハのパスブレイスはずいぶん前である。だから重いし走り自体が重いのである。
でも馬力がすごくて悪路をぐんぐん上るのには驚いた
だからマウテンバイクなのである。
でも遠出をするとなると重くて走りが遅いから向いていなかった
それで今度は軽いものにしようとした

今パナソニックの電動自転車は買い物用にしているがこれもあっているとは言えなかったタイヤが28インチであり大きから小回りがきかない,街を乗るのには適していないし何かぎこちないのである。
一番気にいったのはヤマハのYPJ=Rである。これは26万したとしても高いものではなかった
それだけの価値あるものだった,これ自体優れたロードだったのである。
電動はおまけについたという感じである。
ただこれは坂を上ると電池がすぐきれるので長距離に向いているとは言えない
めしてドロップハンドルだと危険になる,急ブレーキをかけにくいのである。

こうして自転車はつくづく一長一短でありなにもかも満足するものはない
それで人間を考えたら人間も同じだなと思った
人間でも同じ人間はいない,みんななにかしら違っている
性格も違っている,でもその人をわかるには自転車をのりこなして一年二年とかでその自転車の良さと悪さがわかる
人間も同じである。何でもいい人間はいない,何かしら欠点がある
何かが得意であり得意ではないものがある
人間は人間の数だけ多様なのである。だから自転車ともにているなと思った

東北人だからといって社交的ではない,接待とか商売が下手とかではない,一般的にはそういうイメージでも全然違った人もいるのである。
その人は一人親方として庭作りから大工でも塗装でも何でもできる
そして人を接待することがうまいのである。
しゃべることがうまいのである。そういう人は東北人でもいる
だからこそこの人は一人親方として営業もできる
営業となると人と接することであり商売であり話が上手でないとできないからだ
ただこの人の欠点は八方美人なのである。
なんでもできるのだかやらなくてもいい仕事まで手を出している
それも金のためならなんでもするという何でもできるという器用さがそうしている
器用貧乏なのである。こういう人もまたいる

大工というと職人気質であり全然話せない人も普通にいるからだ
でも親方となるとそうはいかないのである。
事業を起こして失敗した人も職人としては優れていたが事業で社長になると仕事をとりにゆかねばならない,営業になるから商売になる
それがうまくいかず失敗したのかと思う
自転車屋でも接待が営業がありそれに向いていないる人といない人がある
でも自転車屋は職人としての技術的な面と客に接するサービス業なのである。
この二つを兼ね備えている自転車は少ないだろう
自分の町の自転車は兼ね備えている,いつも店では誰かと地元の人と話しているのであるそしてその人も人と会話するのがうまいなと思う
だから別に東北人だからといってすべて商売に向いていないとはならない

隣の街の自転車屋は古いタイプの人なのだろう
お前はここで買う必要はない,いつも買っているところで買いと知らないことがあり
ミヤタの最近出た電動自転車について聞きたかったからだ
そこで外国製まで扱っていたからである。
それをただ聞きたいのにお前はここに来る必要ないとまでなっていた
一回も買っていないならいい,パナソニックの電動自転車を買っているしパンクしてタイヤも交換したことがあるからだ

それで開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。

こういうことは別に他にもある,歯医者とかにもある,そこも接客が悪かった
でも歯医者とか医者だと尊敬されるから低姿勢になって接客する必要もない
だがやはり歯を直すだけではない,接客がある
でも看護師が何人かいて接客を担当してくれからいいのである。
それでも歯医者は対人商売であり人と直接接するからそうして人への気遣いが必要になる客に直接接する仕事はとうしても人とも接しないで物作りに励んでいる人とは違う
相手をロボットのように見て診れないのである。
だからそうした接客AI化しても残るとなる
JRなどでもまず接客のこと人のへのサービスは念頭にないのである。
だから駅を無人化してコストを減らせばいいとしかなっていないのである。

いづれにしろ人間と自転車を比べるのも変だが自転車はそれだけ多様だとなる
一台一台個性をもっているのである。
その乗り心地はまた乗ってみないとわからない,人間一人一人もつきあってみないとわからないのである。
人間の場合は生い立ちも違うし住む場所も違っているし男女もあるし年齢差もあるから自転車より多様なのである。
そういう多様な人達とどう接するかとなると本当にむずかしいとなる
自転車もつくづく一長一短であり人間もそうである。
それがにているということも人間と共通点があるという発見があった
おそらく車でもそうである。それぞれに用途があり乗り心地も違うからである。
ただ車に乗っていないからわからないのである。
家にしてもみんな違ったものになっている,建て増ししたりもするし家の造りは違っている
住む人によっても家は違っていて個性がある,庭でもそうである。
だから時々他人をの庭を自分は見ているのである。
自分は石に興味があるから特別見ているとなる

posted by 老鶯 at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

自転車は人間の性格などの相違とにていた (その多様性に共通性があった)


自転車は人間の性格などの相違とにていた

(その多様性に共通性があった)

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重くて走りが鈍い,悪路に強いマウテンバイクだった

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図体が大きいが小回りがきかない
28インチのタイヤが大きすぎる
坂をすいすいと上れない
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これは一番いいロードだった,軽快に走る,でも坂をのぼるとバッテリーがすぐきれてしまう
それが弱点だがあとは一番いいものだった
26万とか高いとしてもすでにロードとしてそれだけの価値あるものだった




自転車の種類はいろいろある,メーカーによっても違う。
基本的にロードとクロスバイクとマウテンバイクがある
でも同じロードでも乗り心地とかが違ってくる
百種類の自転車があるとしてその百種類の自転車はみんな乗り心地が違う
それがなんとも不思議なのである。

遠くに行くということで28インチのパナソニックの自転車をすすめられてかった、
それはバッテリー容量が多いということですすめられた
長距離用としてすすめられた,それは28インチのタイヤだから早く進むことは確かだったでも婦人用タイプでありスポーツタイプではない
だからデザインとか乗り心地は違っていた
早く軽快に走るものとは違っていた
そしてパナソニックの電動自転車は坂をスムーズに上りにくいのである。
ヤマハの電動自転車は坂を上り安いようにできている

本当に乗ってみてそれも一年くらいとか乗ってみてわかる
この自転車はこういう自転車なのだとわかる
ヤマハのパスブレイスはずいぶん前である。だから重いし走り自体が重いのである。
でも馬力がすごくて悪路をぐんぐん上るのには驚いた
だからマウテンバイクなのである。
でも遠出をするとなると重くて走りが遅いから向いていなかった
それで今度は軽いものにしようとした

今パナソニックの電動自転車は買い物用にしているがこれもあっているとは言えなかったタイヤが28インチであり大きから小回りがきかない,街を乗るのには適していないし何かぎこちないのである。
一番気にいったのはヤマハのYPJ=Rである。これは26万したとしても高いものではなかった
それだけの価値あるものだった,これ自体優れたロードだったのである。
電動はおまけについたという感じである。
ただこれは坂を上ると電池がすぐきれるので長距離に向いているとは言えない
めしてドロップハンドルだと危険になる,急ブレーキをかけにくいのである。

こうして自転車はつくづく一長一短でありなにもかも満足するものはない
それで人間を考えたら人間も同じだなと思った
人間でも同じ人間はいない,みんななにかしら違っている
性格も違っている,でもその人をわかるには自転車をのりこなして一年二年とかでその自転車の良さと悪さがわかる
人間も同じである。何でもいい人間はいない,何かしら欠点がある
何かが得意であり得意ではないものがある
人間は人間の数だけ多様なのである。だから自転車ともにているなと思った

東北人だからといって社交的ではない,接待とか商売が下手とかではない,一般的にはそういうイメージでも全然違った人もいるのである。
その人は一人親方として庭作りから大工でも塗装でも何でもできる
そして人を接待することがうまいのである。
しゃべることがうまいのである。そういう人は東北人でもいる
だからこそこの人は一人親方として営業もできる
営業となると人と接することであり商売であり話が上手でないとできないからだ
ただこの人の欠点は八方美人なのである。
なんでもできるのだかやらなくてもいい仕事まで手を出している
それも金のためならなんでもするという何でもできるという器用さがそうしている
器用貧乏なのである。こういう人もまたいる

大工というと職人気質であり全然話せない人も普通にいるからだ
でも親方となるとそうはいかないのである。
事業を起こして失敗した人も職人としては優れていたが事業で社長になると仕事をとりにゆかねばならない,営業になるから商売になる
それがうまくいかず失敗したのかと思う
自転車屋でも接待が営業がありそれに向いていないる人といない人がある
でも自転車屋は職人としての技術的な面と客に接するサービス業なのである。
この二つを兼ね備えている自転車は少ないだろう
自分の町の自転車は兼ね備えている,いつも店では誰かと地元の人と話しているのであるそしてその人も人と会話するのがうまいなと思う
だから別に東北人だからといってすべて商売に向いていないとはならない

隣の街の自転車屋は古いタイプの人なのだろう
お前はここで買う必要はない,いつも買っているところで買いと知らないことがあり
ミヤタの最近出た電動自転車について聞きたかったからだ
そこで外国製まで扱っていたからである。
それをただ聞きたいのにお前はここに来る必要ないとまでなっていた
一回も買っていないならいい,パナソニックの電動自転車を買っているしパンクしてタイヤも交換したことがあるからだ

それで開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。

こういうことは別に他にもある,歯医者とかにもある,そこも接客が悪かった
でも歯医者とか医者だと尊敬されるから低姿勢になって接客する必要もない
だがやはり歯を直すだけではない,接客がある
でも看護師が何人かいて接客を担当してくれからいいのである。
それでも歯医者は対人商売であり人と直接接するからそうして人への気遣いが必要になる客に直接接する仕事はとうしても人とも接しないで物作りに励んでいる人とは違う
相手をロボットのように見て診れないのである。
だからそうした接客AI化しても残るとなる
JRなどでもまず接客のこと人のへのサービスは念頭にないのである。
だから駅を無人化してコストを減らせばいいとしかなっていないのである。

いづれにしろ人間と自転車を比べるのも変だが自転車はそれだけ多様だとなる
一台一台個性をもっているのである。
その乗り心地はまた乗ってみないとわからない,人間一人一人もつきあってみないとわからないのである。
人間の場合は生い立ちも違うし住む場所も違っているし男女もあるし年齢差もあるから自転車より多様なのである。
そういう多様な人達とどう接するかとなると本当にむずかしいとなる
自転車もつくづく一長一短であり人間もそうである。
それがにているということも人間と共通点があるという発見があった
おそらく車でもそうである。それぞれに用途があり乗り心地も違うからである。
ただ車に乗っていないからわからないのである。
家にしてもみんな違ったものになっている,建て増ししたりもするし家の造りは違っている
住む人によっても家は違っていて個性がある,庭でもそうである。
だから時々他人をの庭を自分は見ているのである。
自分は石に興味があるから特別見ているとなる

posted by 老鶯 at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年03月19日

道徳を離れて経済もありえない (人へのサービスにば愛とか同情心とかが必要になる)


道徳を離れて経済もありえない

(人へのサービスにば愛とか同情心とかが必要になる)

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社会を構成するものはなにか?
社会を大きく分類すると分解すると物作り,商品作り、製品化があり次にそれらを売るということがある、製品は消費者に利用してもらわなければ意味がないし価値もないし金にもならないからだ
製品をいくら作っても消費者に利用されない消費されないとするとそもそもその製品はなくてもよいものだったとなる
そして物作りとかなるとそこは人へのサービスはない,人へのサービスがあったとしてもそれを作り出す人には人とは直接かかわらないのである。
物作りというときそれを開発するのは研究部門でありそこでいい製品を利用者になるためのものを作り出そうとしている,それは主に理系の仕事だとなる

例えば自転車屋から考えると自転車を作る人がいる,自転車でもそこには様々な技術が駆使されている,今電動自転車時代だから電気系統もかかわるから複雑なのである。
そしてそこでの技術の開発は車でも飛行機でも電車でもにたものがある
軽量化でありパッテリーを長持ちかするとかいい素材の追及である。
鉄よりアルミニウムが軽くなりさらにカーボンだとさらに軽くなる
それは共通していたのである。
そういうふうに絶えず研究して新しい製品を作り出さないと売れない
それはまさにイノベーションなのである。
そのために投資する,それが資本主義だとなる
技術開発が常に必要なのが資本主義である。
それはあらゆる分野でそうなのである。薬の分野でもそうである。
病気との戦いは歴史的に継続されている,だから効果的な薬を産み出せば大きな利益となる,今は癌とか長寿にする細胞を若返らせる研究をしているうあるそれも発見があり実現してくる、人類はいい面と悪い面があるにしろさらに長寿化してゆくのは技術的に間違いないのである。
常に技術は進化して追及されているからである。

でも社会はこうして技術を追及する,ではその技術だけで事足りるかというとそうはならない,今AI化とかロボット化を追及している,すると鉄道でも無人駅にするしコンビニでもスーパーでもレジがいらないとか極力無人化する
病院でもAI化してロボット化がすすめられる,ロボットの方が正確に手術できるともなるそういうことは確実にすすめられてゆく、ではそれで人間社会は成り立つのか?
そうはいかない,どうしても人間がいなければならないものがある
機械ではロボットではAIではできないものがある

それがなにかというと人へのサービスなのである。製品を作る人は人とは直接かかわらない、でも薬でも売る人は人と直接かかわる,薬屋でも医者でもかかわる
この薬はききますよというのはわかる,では人間はその薬だけでたりるのか?
薬がすべて人間が直せるのか?そうはならない
その薬を与えるにしても医者であれ看護師であれその人に対して愛とか同情心とかをもって薬をわたすのと医者でも看護師でもただ病人をロボットがするように扱ないのである。もちろんロボットの役割はある,人が重いのでもちあげるとかはロボットがするがでは介護とかなるとどうしても愛情が必要になる,同情心とかも必要になる
それはロボットにはできないのである。機械にはできないのである。
だからいくらAI化してもロボット化しても機械化しても人間にしかできないことがある

この人とと直接かかわることが常にある,物を売るでも例えばヤクルトなどが成功したのはヤクルトを売る人に重きを置いて成功した
女性が一軒一軒回り配ることをして成功した,ヤクルト自体の製品だけの力ではないのである。サービスする人に重点を置いたのである。
そしてヤクルト配るにしても人から直接渡されるからそこに愛がこもるというか人間の心が加味されるのである。
そういうことはロボットとか機械とかAIではできないことなのである。
だから人間的なものは何なのだろうとなるとそうしたロボットとかAIにできないものである。
愛とか同情心とか優しさとかなにかそうしたものが人間的なものだとなる

そして一見ビジネスという何かそうした愛など同情心など全く関係ない非情な世界のように見える,でも人間はまず自己の利益を考えて生きている
これを否定はできない,そして会社に入ると会社の利益を考える,でも会社だけの利益を追及してそれが社会的に有益なのもの公益性がなっかたら会社が繁栄するだろうか?
自己の利益→会社の利益→社会の利益になればいい
そうならなければ会社でも社会にとって害悪となったりしたら存続できるだろうか?
銀行でも投資信託など自分の会社の利益になるだけのものを押し売りしてもうけていたら社会にとって利用者にとって必要なものなのか?
だから一見自己の利益になる,会社の利益になることはいいことおように見える
でも結果的に社会にためにならない,利用者のためにならないとしたらそういう会社が繁栄したりするものだろうか?
何かそういうことを会社が考えない経営者が考えないというのもおかしいとなる

経済とは何か?経世済民とかから経済がある、それはモラルのこと道徳のことである。
道徳を離れて経済はありえいなのである。では利益をあげることが不道徳なことかというとそうはならない,例えば駅で必要とされているものが大きな時刻表である。
それを自分は無料で置いた,なぜなら必ず時刻表を見に来る人がいたからである。
確かにJRでは小さな時刻表を置いているが小さすぎるのである。
字も小さすぎるからみにくいのである。
大きな時刻表を家にはっておけばいちいち駅に見に来る必要もない
それは原町と相馬市では商工会で大きな時刻表を出している
それをビジネスにして売って利益をあげても別に悪いことではないのである。
もうけることがみんな悪いことではない
そんなことしていたらこの社会は成り立たなくなる
ポーターのようなものでも金をもらって運んだら金をもらうことが悪いことではない
本人がそうしてもらいたいのであり金を払ってもそうしてもらいたい助けてもらいたいとなればビジネスになり金をもらうのも当然だとなる

とにかく社会にかかわり感じたことは経済は決して道徳と離れてありえないことである。道徳など愛とか同情心とかいたわりとか関係ない世界だと今は思っている
でもウェバーが資本主義は修道院からはじまったというとき神への奉仕であり他者への隣人愛としてはじまったことに由来しているというときそこに経済は道徳から離れてありえないからそうなったのである。
他者を搾取してむさぼるというのが経済ではないのである。
そういう会社が成功することはありえないのである。
そうなったらこの世は暗黒であり生きていることすらできなくなる


「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳)

常識とは、道徳であり、仁義であり、公共の利益であり、私の利益です

信用金庫の人がこう言っている、投資信託をすすめるような銀行にはそれがない
銀行員はノルマを課せられて自己の利益を目指す,銀行は銀行だけの利益を目指す
それも結局時代が変わり利益をあげられないからそうなったことはわかる
要するに常に時代が変化してゆく,それに対応できないものは滅びるのがこの社会だともなる
自分自身は社会から離れた人間であり社会性がなかった
ただ介護十年したとかその後今度はたいしたことではなくても無人駅などでボランティアして社会とかかわった,これは誰も認められないしJRからかえって煙たいものとして扱われ無視された,地域でもなんら認められなかった
ただ道を教えただけでありがとうと言われた,自分は何かそういうことを言われたことはない,そのことで自分も他者のために何かしているのかという意識をもったのである。
自分は他者に対してありがとうと言わなかった,だからそんなことでしありがとうというのが意外だったのである。それだけ自分には社会性がなかったのである。
都築詠一氏などがベートベンとか天才芸術家が社会性がないということを批判していた

何かそういう人は社会からはずれていてもいいということが言う人もいる
ただそれにも問題があり社会に生きることはどういうことなのか?
宗教でも社会にとって必要なのはなぜなのか?それが社会と全く離れてありえないだろう
また逆に社会にどっぷりつかって俗化してもありえないのである。
だから僧院とか寺とかに籠もり社会から離れた生活では何か説教することもできない
そういう人は社会から離れていて社会のことがわからないからである
ただ社会がすべてではない,社会は世の中はどうしても汚れたものでありどんなことしても改革できない,だからこそ世から離れた世界を追及するのも宗教だったとなる

宗教と経済は不可分に関係している,ただカルト宗教団体となると別物である。
資本主義が崩壊の危機にあるというときそれはモラル的な面にもある
一握りの人が世界の富を独り占めするようなことはモラルに反するからそうなる
そういう社会はグローバル経済でも世界の公益性に反するから資本主義は修道院から始まったものとはまるで違ったものとなり
崩壊してゆく,グローバル経済にはモラルがないからである。
道徳を離れて経済もありえないからである。


タグ:経済と道徳
posted by 老鶯 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

盛岡短歌十首(秋から冬) (盛岡は芸術都市:詩人の街(続2)


盛岡短歌十首(秋から冬)

(盛岡は芸術都市:詩人の街(続2)

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中津川の瀬音を聞きつ岸歩む秋の日の石にさして休みぬ

長々と柳しだれて白壁の商家も古りて秋の日暮れぬ

上の橋わたりてあわれ芒かな晩菊映えて夕暮れにけり

擬宝珠の古きやあわれ芒かなその色錆つ秋の夕暮

上の橋わたりてあわれ夕ぐれや盛岡の街の青きともしび

啄木に賢治歩むや盛岡のともしびあわれ秋の夕暮

盛岡の銀行古りて秋の薔薇咲きつつあわれ心にしみぬ

盛岡に三色の秋の薔薇咲くや煉瓦の銀行古りて残りぬ

盛岡の城跡歩みて紅葉映え散りて美し流れの音聞く

盛岡の川の岸辺にコスモスのゆれて歩むも街のにぎわい

長々と柳しだれて白壁の商家の古りて秋の日さし暮る


盛岡は詩の街であり浮世絵のような版画のような絵になりやすい街である。
二つの川が流れていて中津川は浅い川であり瀬音がする、一方北上川になると
流れが速く深いからまた別である。
一番情緒があるの東北では盛岡市である。あとは東北で盛岡市のように感じる街がない,全体的にみて乱雑ではないし一応自然が街の中にあるたかもしれない
街が仙台のように拡大化すると情緒が失われるのである。

古い煉瓦の銀行が未だに残っているのもいい,あの銀行は貫祿がある
銀行というのはそれだけ文明の象徴だったともなる
何かそこでは質実な感じになるし銀行は今とは違っていた

ともかく盛岡市は啄木が住んでいたり賢治が来たりしていた街である
東北では仙台と並んで都会だったのである。
相馬市となるとそういう都会になっていない,仙台市は大きすぎるが盛岡はちょうど30万とかで大きいしまたそれほど大きくないということで情緒がある
岩手山とかもまじかに見えるし川が二つあるしそれがいいのである。
散歩するにもいいのである。

そして今は自分は介護を十年するようになってから遠くへ出かけない
ついに去年から春まで一回仙台に行ったきりで行っていない
ほとんど近間を回っているだけなのである。
ただこうして思い出す旅をしているのも不思議だとなる
盛岡はもう新幹線で50分でありここから仙台へゆくより近い
だからいつでも行けるのだけど回想の旅をしているのである。
ただ春の桜は盛岡では見ていないのである。

2018年03月20日

鹿島地区協議会で駅の活性化を考えていた (駅を視察もして予算が市より出ていた)


鹿島地区協議会で駅の活性化を考えていた

(駅を視察もして予算が市より出ていた)

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これも知らなかった,駅の活性化を図る駅を視察していたのである。その予算は市からでていた,ここの協議会では10人くらい人が集まり鹿島区の活性化を推進する
その一貫として駅が入っていたのである。

しかしこの会で駅のことを無人化した鹿島駅のことをどさだけ知っているのか?
何かしたのか,要望を聞いたのか?
一番駅に関係していたのは駅前の自転車屋とか商工会で掃除した人とか地区で花壇の手入れをした人とがである。
ではこの協議会で何をしていたのか?
それが知らなかったのではっきりしない

無人化した駅で今何が要望されているのか?
それはいちいち時刻表を見に来る人がいるから大きな時刻表である
それを自分は無料で駅に置き配った
でもそれはJRの許可がないと置けない,パンフレットも置けない
だからそういう要望があるということをまず知らない
それはなぜか?
駅に直接かかわっていないからである。
自分は駅で案内しているからそれがわかったのである。

何か案内のパンフレットなど置けばいい,それは団体になるとしやすいのである。
なぜ駅に置けないかというと責任が生じるからである。
時刻表でももしまちがっていると駅に置くとJRに文句がいくばあいがあるからだ
ただパンフレットに関しては連絡先があるし関係ないと思う
でもルールだからとして食堂の案内をしたものも撤去された
これもルールにしばられた温情もない地域のサービスとか人のサービスを考えないJRだからこそである。

確かにここの協議会ではアンケートとかとり要望を調べている
でも駅に関しては直接関係していないとわからない
それで自分がJRにはじめてくる人が仙台行きと原町行きの番線がわからないので良く聞かれると言ったら表示板を作ったのである。
だから何か要望があれば別に個人でもしてくれたのである。
ただ要望しないとしてくれないのである。
時刻表についてもそれを必要な人がかなりの数いても要望としてまとまらないと作ってくれないのである。

でも自分はそのことを地域振興課に何回か言った,でも関係ないと何も教えてくれなかったのである,ではなぜ他の駅の視察に協議会で行ってそこに市の予算が使われているのか?
十人分の視察費用ならそれなりにかかるのである。
それなら時刻表とか案内とかのパンフレット置くようにJRと交渉すべきだとなる

つまり金をもらうことは責任が生まれているのである。
それは市から出たものとなると南相馬市民から出たものだからである。
勝手にそれを使うということはできない
ただ駅だけではないからそこにも金を使うことはありうる
でも駅の視察まで行っているのだから駅の活性化を計るとしたらやはり駅前の自転車屋と直接駅にかかわる人の意見を聞くべきだとなる

では市はどう関係しているのか?
その人たちの活動を認めて予算をだしている,ではなぜ時刻表が欲しいという要望があるその要望を知るべきだとなる,それはなかなか直接駅にかかわらないとわからないのである。
第一駅長すら鹿島駅に来るけど仙台行きとか原町行きがはじめての人にはわからないということを知らないのである。
なぜなら無人化しているからである。それを伝える人もいないのである。
それは外部からの要望でもあり内部の人もわからない
その駅にいた自分だけが知ったということにもなるのだ
つまりJRでは無人化をすすめている,その数も多い,でも無人化しても困ることがあってもその要望が何かわからないのである。
鹿島駅からの交通案内とういうのも置いたが撤去された
それもやはりはじめてくる人でも地元の人でもわからないことがある

ただボランティアでもなんてもしいいとはならない,何か責任が生まれている
無料でしても責任が問われるからJRでは駅に許可しないと置かせないのである。
ただパンフレットなどは何の責任もとる必要がないのである。
だからこれも置けいなというのはおかしいとなる
杓子定規に考えすぎるとなる
JRはまず人のサービスを全く考慮しない会社だからうそなっているのである。

ともかくこういう団体があるということすら知らない,でも広報誌に入っていたので知った
まず活動を知らせるということも市の予算からもらっているのだから必要となる
ただ報告はだしている,これも印刷などすると金がかかるし知らせるのに金がかかるとなる
インターネットはともかく無料なのである。だからやりやすいのである。
でもみんながしているわけではない,特に年配の人はしていない
そしてその地域活性化協議会でも老人が多いのである。
そこが少子高齢化の問題である。
小高でも浪江でも帰るのは老人であり駅で浪江の人にあうが杖ついて病院に来る人とか良くあう,そうした老人社会だから復興ができないのである。
若い人は外部に流出した
そして原町とか鹿島で相馬市でも新地でも周辺に移住したがそれも老人が多いのである。でも補償金で金があるから二人とも原町に家を建てたという
でもその子供は外部に流出しているのである。
つまり南相馬市とか相馬市とかでもそういう避難している老人をかかえてますます福祉にかねがかかるとなっているのだ

まず地域活性化というとき若い人がいないとむずかしいだろう。
ただ老人でも経験があるし何か教えることはある
ただ地域といっても意外と身近なことを知らないのである。
だから駅でも実際無人化してどうなったかを知らない
知っていたのは駅前の自転車屋と直接かかわった自分だったともなる
その他地区の人とか商工会とかになる
市の職員も知らない,でもそういう協議会に金をだしている
どうしてその金がてるのかというのも政治なのかもしれない
つまりそれも民主主義なのである。
市民が自発的に市政に参加するということである。

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これだけ無人化しているのである。
JR西日本でも東海でもそうなのである。これは多すぎると思う

タグ:駅の活性化

老人と病人ばかり増えてくる (夕張のようにこの辺もなってくるのか?)


老人と病人ばかり増えてくる

(夕張のようにこの辺もなってくるのか?)


夕張で見たのは辺境の貧しさではなく、唐突に終わりを告げた豊かさと、偽りの希望の残滓だった


昔は市立の総合病院だったものが財政破綻で縮小して診療所に改組したのだ。いまは市内にCTやMRIが1台もなく、人工透析も廃止して、病床数は171から19に減ってしまった。

そもそも貧しい山村であれば、このようなかたちで破綻しない。石炭産業が盛んで人々が集まったからこそ、夕張は他の地域よりもずっと豊かだったし、国のエネルギー政策転換の煽りを受けて急激に寂れてしまった訳だ


夕張と原発事故周辺はにている,そもそもエネルギー政策として石炭産業に頼った街だったからである。10万から一万に人口が激減した
石炭産業により異常に繁栄した結果だった
それはこの辺でも原発ある所は原発に頼る,でも一旦事故になったり石炭から石油とかにエネルギー政策が変わると一挙に衰退する
だからこれは限界集落とまた違ったものとしてそうなったのである。
エネルギーが石炭から石油に変わる,鉄道でも車に変わるというときこうした大きな変化が起きてくる

夕張のような状態が避難区域で起きている,もう町は運営できないような状態になっている,医療でもゴミ収集でも水道でもサービスが受けられない,受けるとしても馬鹿高くなる,すると若い人中心にここには将来がないと移住してゆく
住民がいないと公務員の役所に勤める人も失業したり月給が減りやめる人もでてくるそういうところで働きたくないともなる
それは浪江の人と良くあうけど浪江の人は浪江町であ南相馬市とか相馬市でも相当数復興住宅とか団地に住んでいる
浪江の人達を南相馬市でかかえるようになったのである。
小高はまた別であり南相馬市民としての問題だった
小高は浪江の人から言わせるといいとなっているのだ
実際浪江で電車で行ったとき街中には誰も住んでない,廃墟の街になっていた
あれを見ると帰る気がなくなるのがわかる

この辺の問題は全国的な問題,少子高齢化とかがあるが極端になる,それは夕張とにてくるのである。
ただまだそうした深刻な状況にはなっていないがいづれそういう深刻な状況になってくるなぜなら老人と病人が多いのである。
駅に来た人も浪江の人だった,病院に来る
杖ついてっと歩いている,妻が補佐している,子供たちはみんな散り散りになった
南相馬市でもなく遠くに去ったとなる,つまり老人と病人が南相馬市に移った人でも多いのである。
そうした人達を南相馬市でもかかえることになったのである。
そういう人は補償金で金をもらっているから老夫婦でも家を建てたという
でもそういう人達はもう生産労働をしない,ただ介護とか医療とかで南相馬市の人達に世話になるだけなのである。
一応金をもっているにしても人手不足人的負担も大きくなる
なぜなら浪江町でも若い人が南相馬市に移るというのではなく他に移住してしまっているからである。
そして取り残された老人達が復興住宅や団地に住んでいる

それから浪江町にしても土地があっても固定資産税がとられるとかありそうした家でも土地でも負の遺産になる,補償金がもらえるときは土地や家の賠償があった
でもそれがなくなればもうない,そして生産活動はできないのである。
果たしてそういう社会が成り立つのだろうか?
それは日本全国の少子高齢化の問題が夕張でもそうだが極端なものとして現れている
自分の家に来ている人も毎日のように病院通いである。
それで自分に負担を強いる,つまり老人と病人の街と化しつつあるのだ
そういう人達増えすぎればかわいそうだとか愛だとかも成り立たなくなる
その負担の大きさに個人でも家でも市町村でもつぶれてゆくともなる
もう夕張では透析もないとすると生きるためには外部に出るほかないとなっている

愛とか同情とかが成り立つのは余裕ある場合なのである
現実自分は全く余裕ない人が自分が介護の時とか自分が病気の時来た
だから犯罪にあい,事業に失敗して借金に追い詰められた人は金を欲しいというだけで迫ってくる,死んでくれれば金が入るとまでなってくるから恐怖だった
つまりそういう状態に市町村全体が追い詰められる
財政的余裕もなくなれば今まで受けていたサーヒスすら受けられなくなる
馬鹿高いものとなるからその金も払うことができない

南相馬市ではあと3年で原発の国からの支援が切られる、それで財政的に苦しくなる
それは市全体に影響する,この辺は何かと原発事故でも国からの支援がありかえって潤っていたということがあった
それもなくなる,だから夕張のように深刻な状態になる
それが最も顕著に現れるのが医療とか介護関係でありそういうものは負担が大きいからである。人的にも財政的にもそうである。
それは国全体でもその医療費が膨大なものとなり国がつぶれるとまでなる
つまり老人と病人で国がつぶれる危機とまでなる

そうなると老人を尊ぶ人などいない,今でもいない,早く死んでくれとなり病気になったら治療より早く死なせろとかなるかもしれないし現実になっている所もある
何かこうなるとかわいそうだとかいっていたら若い人たちとか世話する人からみると
もうその負担に耐えられないとなるのだ
それは自分が家族二人の介護で経験したことである。
一人はひどい認知症だった,一人は最後まで死ぬ一週間前まで立ってポータブルトイレに行っていて寝たきりでもなくオムツもしないから自分のようなルーズなものでも介護ができた
そして介護が終わったから自分ではふりかえり恩返しができたから良かったと思っているでもみんながそうはいかない,みんな介護でも事情が違ってくる
それは家族だけで処理できればいいが自治体とか国の負担にもなるし若い人の負担にもなる,実際に介護しなくても税金でひかれるからである。

いづれにしろ地方はさらに疲弊する,地銀も投資信託であこぎに稼ぐほかないとか銀行がなくなるとかあったりこれから地方はさらに衰退する
最大の問題は老人と病人が増えてそれがプレッシャーとなり自治体すら維持できなくなるそして老人が老人をめんどうみれない,頼れないのである。
老々介護とかなると過酷だし老人は将来の街作りをしようにもできない
それで小高に帰った老人が死ぬことしか考えられないという言っていた
こういう人が帰って何するのか,ただそこで死を待つだけにしかならない
そこは墓場の街になるのではないか?

ただそうして老人がみんな無用なものかといえばそうでもない,経験があり次世代に教えることができるものもある
でもとにかく老人と病人が多すぎることなのである。パークゴルフ場では元気な老人がいることはいる,でもどうしても老人はやがて病気になりやすいし介護状態になる人が増えてくるのである。
街に出ると杖ついて歩いているような人が目立つ,そういう人が増えることはとても活気ある街にはならない,地域振興の協議会などがあっても年配の人が多いだろう
すると何か街の将来を考えるとしてもできない,ただ老人クラブのようになってしまうかもしれないのである。

結局病気になったとしても一二週間で死ぬ,介護を最低5年とかさらに十年とかなるともうできなくなる,そうはいっても見捨てるわけにいかない
そういうジレンマにおちいる,家族を介護してもそういうことが起きているからだ
いくら愛だとか言っても限度がある,若い人がそれで人生を犠牲にされたらあとで親だって恨まれるのである。
そういうけど自分でも病気になり介護になれば頼らざるをえないのである。
ただ団塊の世代などは数が多いので2025年ころはもう負担が増して自治体でも国でもつぶれるというほどまでになる
そういう時期はすでにもうすぐであり始まっているのである。





posted by 老鶯 at 17:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年03月21日

ボランティアと正規の仕事の相違 (金をもらえば義務と責任が生まれる)


ボランティアと正規の仕事の相違

(金をもらえば義務と責任が生まれる)


ボランティアしてみてわかったことはボランティアには義務とか責任がないことである。それが課せられていない,では一般の仕事はどうかとなると必ず義務と責任が課せられている,自転車屋でも安全に自転車に乗るようにして買うものに与えたり修理したりする
鉄道でもそうである。安全に時刻通りに走らせることに対して義務と責任が生じている
医者でもなんでも仕事は金をもらうしそこに義務と責任が生じる
金をもらうということは義務と責任が生じることなのである。

ではボランティアというとその義務と責任がない,時刻表を駅に置いたとしてなぜJRでは断ったのかというとその時刻表について文句が言われる,責任をおしつけられるからである。
そういうことがあるのかとわかった,確かに時間が間違ってたりすると駅に置いたのだからJRの責任が問われることにもなる,つまり苦情が来るとなる
たから駅に置くものはJRの許可がないと置けないルールになっている
でもパンフレットの類が責任はJRにはないのである。
それは観光案内でありその連絡は発行した商工会などにある
でも相馬市のレストラン案内のパンフレットも撤去されていたのである。
JRの許可がないと置けないということを知らなかったのである。

ボランティアの問題は何か?それは社会にも法的にも守られないし認められていないことである。
自分がしたことは誰も認めなかった,ただ道案内したときありがとうとか言われたからそのことで感謝されたから役に立ったとはなっている
でもこれをJRとか地元の人でも認めていない,ただありがとうと言ってくれたのだからそれが役に立つものとして認めたのである。
そういうことを言われたことがないので気分良くしたということは確かである。
JRでは駅でボランティアしようが一言も言わない,こいつうるさいなとかしか見ていないのである。それは他の人にもそう言っているからである。

ともかくボランティアの問題は義務と責任がないことである。
別に金をもらっていないのだから適当でいいし何かをしなければならないという義務もない,仕事だと定時に出勤しなければならないがボランティアは適当なのである。
金ももらっていないのだから真剣にやる必要もないし義務も責任もないのである。
そこにボランティアが認められない問題があったことに気づいた

まずどんな仕事でも義務と責任がある,それは金をもらい金を動かしているからである。銀行が投資信託をすすめるのはいい,でもその説明もあやふやでありもともと仕組みがむずかしくてわからない,それをいいことに手数料とる商売にはいいとなる
でも金を扱うということ顧客から金をあづかりそれを運用するとなると責任が生まれる
ただ株とか投資信託でも市場の相場に左右されるからどうにもならなといえばそれまでである
結局自己責任だとなる,知らないからあづけたのでありお前が悪いで結局は終わる
それは自己責任だから銀行にまかせたものが悪いのであり銀行は悪いとはならない
責任は全部自分になるとなっている

そうなるとするとよほど慎重にしなければならない,事前の知識も必要である。
経験者にも聞いたりといろいす調べてからしないといけない
なぜなら銀行にまかせたらまかせた方が悪いとなるからだ
だからそうして何も知らないでまかせる方が悪いとなるのだから慎重にすべきだとなる
一方で銀行で投資信託がどういうものかしっていて客にすすめる
そこにもやはり責任が生じていたのである。
なぜならわざわざ株をやりたいとか投資信託したいと銀行までゆく人はまれだからであるそうして一軒一軒回ってすすめることはやはり責任がともなっているのである。
そんなにもうかるものなのですか?銀行自体で投資信託をしていないとういことも聞いているからである。そういうものを客にすすめるのは詐欺的だとなるからだ

金とは何か?金から一秒も離れられない社会である。
たとえ仕事しなくても金をもつということはすでにそこに責任を課せられている
百万もてば百万の責任が課せられ、一千万もてば一千万の責任が課せられている
別に遺産としてもらったからどう使うとも勝手だとはならない
そうしている人もいるが社会から良くは思われないのである。
金とは社会的責任なのである。だからその社会的責任を果たせる者なら金をもってもいいとなる
そうでないものは日々の生活にかかるものはいいとしてもそれ以上の金をもたせるべきでないともなる
社会的責任として仕事があり金があるからだ

だから地区の協議会で地区の振興するというとき市から金をもらったら義務と責任が生じる,何をしたとか何に使ったとか報告する必要もあるし成果も出す必要がある
そうしないとしたらその金は市から出るとしても市民の税金とか国の金も使っていることになるからだ
国の金というときそれは国民の税金なのである。
それで生活保護はうるさくなるのである。

金とはなにか?義務と責任をもたされるのが金である。
だから途方もない金を資本主義の中でもうけたのもはそれだけの義務と責任が課せられているのだ,それをただ私益に贅沢に使うことは本来できないのである。
だから石の貨幣があるとしてそんな大きな石は流通もしないの貨幣だった
その貨幣は威信とかと関係していた,社会的威信として石の貨幣があった
別に流通しないがその石の貨幣をもっていることでその人は社会的威信をもつことができたのである。金だけが社会にとって価値あるものとはならない
その社会の中で何か認められるものがあればその人は価値ある人となる
現代はただ金をどれだけとるかもっているかで評価されるが社会的評価はそれだけではない,ただ金は具体的に人に義務と責任を課すのである。
それを果たせないとすると金は与えられないし与えるべきではないのである。

だからボランティアがいかにも人助けでいいようでもそこに問題があった
ボランティアなど義務も責任もない適当なものだ
だから重要な仕事はまかせられないとかなる
また仕事している人からすると鉄道会社でも義務と責任を課せられているから邪魔だとまでなってしまうのである。
それは自分が経験したことである。
仕事とは何かとなればいろいろあっても義務と責任が課せられたものである。
それは金をもらう報酬をもらうということでそうなっている
ただボランティアが何も与えられないかというとありがとうと言われることが報酬であるでもそれは仕事としてではない,JRの職員だったら給料をもらっているから義務と責任がありそれでクレームが言われるのが嫌だとなり駅に時刻表を置かせなかったのである

まず人間は仕事しないと社会のことはわからない,それで自分は社会性がなく社会のことがわからないとなる,こういうことは実際に仕事にたずさわらないとわからないからである
まず学問だけではわからない,現実の社会の場で実感しないとわからないのである。
ただ別に仕事しなくても義務と責任が社会に対してある。
それは国家に対しても自治体に対してもあるし家族に対してもある
日本国民であること国籍をもつことはすでに日本国に対して義務と責任がありパスポートでも付与されているのである。
ただ国家というと大きいから意識しにくい,でも戦争のときのように命までささげなければならなくなるときもある,その時国家の義務と責任を痛切に感じさせられるのである。
人間は義務と責任から逃れられない存在である。親と子でもお互いにすでに義務と責任がある,結婚でも義務と責任がある,金をもらえば責任が生まれる
でもその金でもいい金と悪い金がある,でも金をもらえば義務と責任がやはり生じる
金をもらったから義務があり責任があるからと悪いことでもしなくてはならなくる
報道関係とかなると大会社から宣伝費をもらうからそのスポンサーの悪口は言えない
そうして原発の「安全神話」は作られてきたからである。
金をもらうにしてもそれによって義務と責任がおしつけられるのである。
そういうことも世の中に多い,金でもなんでもいい面と悪い面に働くのが人間社会なのである。

だから別に金をもらわないから適当でもいいとはならない,出版とかになるとそこにいろいろな圧力がかかる,出版社は売れるものを書けとかなり自由な発言が規制される
ネットだと無料だから自由にみんな発言しているのである。
それは金がかからないからである。金がかかれば逆に今度はその金を払った人達,会社でも義務と責任が生まれる
だから無料だからといって義務と責任がないとはいえない
ただボランティアに関しては金をもらわないのだから適当にやっていればいいとなる
責任は問われないとなるからだ,でも報道関係でネットでも適当にフェクニュースでも流していればいいとはならない,報道するものの責任があるともなる
第一報道しているとしても自分の場合はボランティアでありネットで金をもらっている人は本当に少ないのである。そこにも問題があるが現実はそうなっている
ただ宣伝が全然なされていないかというとグーグルとかでネットでしているしネットが盛んになればグーグルがもうかるようになっているのである。



posted by 老鶯 at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題