2018年03月01日

意味を求める人間 (宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)


意味を求める人間

(宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)

この地球とか宇宙はなぜあるのだろうか?
こういうふうにまず考えるのが人間なのである。
そこに人間の人間たる所以(ゆえん)がある
これだけ多様な生物がいて宇宙があり地球がある
しかしその意味を考える人はいない
考えて意味を与えているのが人間なのである。
神が創造主だけど意味を価値を与えることは人間なのである。

動物は腹が減った今日食べるものがあった腹は充たされた満足だとなる
それ以外なにもない,自分が生きる意味など考えないのである。
人間も最初はそうだった,狩猟するにしろ漁労で生活にしろ食べることに追われていた
そこに余暇はないのである。
「俺たちは何で生きているのか,働いているのか?」
とか考える余裕もなく食べることに追われていた。
暇ができなければ考えたりしない,意味を求めたりしないのである。

ただ人間が言葉をもつというときその言葉がすでに動物にはない高度なものである。
言葉があるというとき人間はすでに意味を求めるものとして言葉があった
言葉がロゴスが最初にあったというときそれだけ人間にとって言葉はその存在を問うものとして欠かせないものになっていた
バベルの塔の意味しているのは人間は一つの言葉を話ししていたとき神が怒って言葉が通じなくさせたことなのである。
人間が通じ合えるのは言葉によってだったのである。
何かこうして延々と一人プログで自分は書いているけど書きながら考えているのである。それがプログとかではしやすいのである。
言葉や文章は考える道具なのだとつくづく思う
もちろん言葉で話しても考えるが文章で考えることは深くなる

なぜ人間に宗教や哲学が生まれたのか?
それが大きな疑問がありその解答を得るためである。
最大の人間の問題は死だった,なぜ人間は死ぬのか?
それがどうしても今だって納得がいかないからである。
死によってすべてが終わるのかとなれば生きる意味もなくなってしまう
どうせ死ぬんだ,無になるんだ,だからどんな生き方してもいい
悪も善もないとか自暴自棄のようにもなってしまうだろ。
それだけ死はすべての人間の存在を否定するものなのである。
だからこの解決なくして人間の生きる意味は様々なことを言ってもなくなる

その解答は永遠の命を説いたキリスト教しかないともなる
ただ死後の生があるということで宗教は共通している
この世だけで生が終わらないということは死んだら天国とか地獄とかあるとなれば
そのことに恐怖して現世も生きることになる
その来世をも否定する無神論者が普通に多い
でも無神論者がどこまで真剣にそのことを考えるかとなると考えない
人間はそのことで人間でいられなくなるとか結論した人もいる
人間が存在して自分でも自然でも宇宙があるのではない,神が存在して人間があり宇宙があり自然がある
自然は自然に生成したという人がいる,それは違う,明かに人間であれ万物は目的があり神によって創造されたのである。
ただその意味とか価値は人間が求める,人間が解答を出すようにしたのである。
山でも木でも石でもそれがなどういう意味をもっているかは神は教えない
その答えを出すのは人間なのである。

今は日本では豊かになったから暇も生まれた,働かない人が膨大なのである。
一億人にいるとして65歳以上が4人に一人とかなる時代である。
その老人の大半は働かないのである。その他ニートとかも働いていない
それができたのは高度成長時代に親が金を貯えたからだともいう
自分などもそうだった,自分が働くこともしないで旅ばかりしていたというのも親がいたからである。
高度成長時代はまずがむしゃらに欲望を達成するために働いた時代である。
そういう時代は何のために働くかなど考えない,家電製品が欲しい家が欲しい車が欲しいうまいものを腹一杯食べたいしかないのである。
そういう時代は何でも意味を求める時代ではなかった
働くことにも意味など求めないのである,金になればいい欲望を達成すればいいとしかならない
でも豊かになると人は意味を何でも求める,働くことにも消費することにも何かしら意味をもとめる,中国人でも最初は物の消費だったが今は事の消費だというときもそうである何かしらその国の文化とかその国のもっている価値を見いだそうとしているのである。

老人になると人生をふりかえり自分の人生は何だったのだろう?
このように必ずその人生の意味を求めるのである。
でもそう思ってももうその人生の意味を老人になってから求めることができない
意味を求めたらこんな人生を送らなかったといっても後悔してももう人生をやり直すことができないのである。
そして金持ちにっても何か虚しいなとなっていることもある
自分が求めたのは結局金だった,でも金だけでは意味ある人生を送れなかったとかなる
ただ金にふりまわされで生きてきただけだとか後悔する
老人になるとこうしてみんな哲学的になるのである

今の時代は高度成長も終わり経済は成長しなくなった,成長を求めてももう無理である
そういう時代ももどってこない,今は宗教とか哲学とか芸術とか他でも何か意味をあるものを求める考える時代なのである。
そして価値観とかも変わってしまったのである。がつがつと欲望を充たすために働いた時代は終わった,一人一人が意味ある生を求めているのである。
老人の貧困が問題になるが老人は欲望が一般的には減退する,あまり消費しない
自分も電動自転車のマウテンバイクを欲しいと思った,それは30万以上する
でもそれに乗るエネルギーがなくなったのである。
節々が痛くなるとか疲れるとかなる,新しい道具でも何か電器製品でも使いこなせないことがある,パソコンでもそうである。
それを教えてもらいたいが量販店では物を売るだけしかしないのである。
そういうことでも需要に答えていないのである。
高齢化社会というのも時代的に違った価値観になる
つまりまだ高度成長時代の延長のような価値観が尾をひいている
その価値観を高度成長も終わり高齢化社会になり変わっているのである。
だからそれに適合した社会にも経済にも働き方にもなる必要がある

とにかくこうして延々と自分一人で書いているのも書きながら考えるのにいいからであるここに対話がないのだけど思索を深めているのである。
要するに人間はいくら他者がいていろいろ言っても結論は自分で出すほかないのである。投資でもなんでも結論をだして選択するのは自分しかないのである。
それを誰かの言う通りにしていたら自主性と独立はなくなるからだ
それでカルト教団とかに入り奴隷にされたりいろいろ洗脳されて投資させられたり
原発を造らされたりして甚大な被害を受けるからだ





駅の保守点検は毎日のようにしている (駅前の活性化をどうするかが課題)


駅の保守点検は毎日のようにしている

(駅前の活性化をどうするかが課題)
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人のいるところに車がとまっているのを見たことがない


駅では何かしている,電気系統の保守点検も常にしている,掃除はJRの委託会社の人が駅舎の中を掃除するようになった
商工会はホームのゴミとトイレを掃除する,周に一二回である
だから掃除の問題はかたづいた

タクシーの乗り場と白線の字を消していたのは電気系統の小屋のようなものを建てるので車の置き場を確保するためである。
あそこにタクシーと白線で書いてあるから利用できない
ここは駐車場が駅前だけであり狭いから問題なのである
あの白線をさけてとめている
するととまる場所が限られるようになる
でも北郷タクシーではそこを確保するために金も払っているのかもしれない
でも実際にあそこにとめているタクシーを見たことがないのである。

自転車屋の人が一番駅を見ている,だからあそこが切符売り場とか駅を利用する人の便宜を計るのに向いているのである。
しきりになにかしたいと言っていた,ただおおがかりなことになると無理である。
鹿島区にも資金が援助されていたがそれも使ってあとつづきしなかったという
そのことをしきりに山梨から来た事業に失敗した人が言っていたのである。
あの人は経営のセンスがある人だったのだろう。
失敗しても事業のことを知っているのである
だから外部からそういう人を招きしてもらうこともいいとなる

地銀とか信用組合とかはそもそも地元に根ざした金融だとすると地域を良くするために活性化するために資金を投入することが本来の役割だったのだろう。
でもグローバル経済へ投資させて自分は損したのである。
自分で選んだことでもあるがグローバル経済には疑問が前からあった
地銀が生き残るにはグローバル経済とか投資信託を売るとなると
地域には必要ないものになるかもしれない
まず地域を良くしようとか銀行では考えないのである。
まず自分たちが損しないで利益をあげることを目的にしている
そしてたら地域の金融なのかとなる,証券会社なのである。
地銀としての役割はなくなったとなる

別に何か休息する飲み物を出す食べ物を出すような所はある
前にしていたところもあり空いている,使われていないか喫茶室とか休み場として利用できる,でもそうなると賃料を払わなくてはならない
人の流れが少ないからあそこで利益を出すのはむずかしいだろう
ただ休む待つ時間が電車の場合あり長くなる時があるからそういう場所が必要になる
小高辺りで事情があってお茶のみ場とか無料で提供している
小高の場合はいろいろ援助があってできたのである。

いづれにしろまず大きな事業となるともうできない
ただ小さなことはできる,自転車屋だって一部を休息所にできるかもしれない
そこでお茶やコーヒーやおにぎりくらい用意しておくのである。
そこでまず利益をあげようとすると失敗する
それほどの人の流れがないからである。
常磐高速のセデッティは人の流れがあれだけあれば商売になる

あそこで果物のジュースをミキサーで出していた,それを自分もまねして作ってみた
2500円のミキサーで簡単に作れた,リンゴだと材料がリンゴ半分でできた
あそこでは350円くらいで出していた,するともうかっているのかと思った
そのジュースをミキサーで出すのもいいかもしれない
なぜなら駅にある自動販売機は一番売れているからだ
必ず待ち合わせがありコーヒーとか飲んでいるからだ

今日は雨はあがったが後から強風になり運休になっていた
今日は風が吹かない前に磯部で始まったパン屋にパンを買いにいった
あそこだと鹿島からも近いのである。相馬市まで行くと遠いのである。
鹿島区ではパン屋がないので焼きたてのパンは食べられない
誰かやればいいとも思う,なぜか新地にはパン屋がある
焼きたてのパンを売っているのである。
磯部のパン屋は民家を改造してしている
まだパンの種類が少ない,だから期待したものとは違っていた
ただあそこから海が見えて眺めがいい所だった
復興住宅もありあそこの民家はもともとあそこにあった
磯部でも広いからあそこには行ったことがなかった

2018年03月02日

津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因 (自然に悪意はない)


津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因

(自然に悪意はない)

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津浪の被害はあまりにも大きかった,それでどう解釈していいかわからなかった
それで自然でも海でも天でも被害にあった人は呪ったのである。
でも自然には悪意があるだろうか?
悪意というとき人間にのみ悪意がありこの悪意が一番怖いのである。
投資関係でも投資自体は公平だとしても悪意をもって接触してくる人は危険である。
投資でだまされやすいのは投資の世界がわからないからである。
悪意というとき自分たちだけもうければいいという考えの人も実は危険だった
それが銀行にも今はなっていたのは経営的に追い詰められていたからそうなった
人間は借金でもなんでも追い詰められると危険になる

自然に悪意がないというときそのことこそ自然と人間の一番の相違である。
石や花でも木でも動物でも本来は悪意はない,蛇などは嫌だとなるが何か全般的に悪意をもっていない,だからこそその無垢なる状態に感嘆する
人間社会は虚偽の世界であり常に偽りの中に生きている,嘘つかない人がいないことでもわかる
その自然がどうして人間社会に対して悪意をもって災害を起すのか?

自然災害が起きるのはなぜなのか?
ノアの洪水とか確かにあったけどそこに神の意志が働いていたとなる,だから自然に神の意志が働くことはある,聖書は神の意志が働いた記録である。
だからモーゼが海を割ったとか太陽が止まったとかいろいろある
自然をも左右するのが神だとなればそうなる
ただその後は自然と神はきりはなされ科学的に自然を見るようになった

なぜ自然災害が起きるのか?それは自然を人間が改造して破壊して住んだことに根本的な原因があった
今回の津浪で甚大な被害あった所は自然を無視して住んだ場所である。
本来住むべきではない所が甚大な被害にあった
石巻は被害が大きかったけどあそこは家が密集していたのである。
だからこんなに海に近くてこんなに家が密集しているのは不自然だなと見ていた
そこが根こそぎ津浪で破壊されたのである。

そもそもなぜ海側にこれほど家が密集したのか?その原因は便利だからである。
漁業するに便利だから海側に人家が集中した
磯部などでもあんなに家が集中してそこが根こそぎ失われた
でも高台がありそこは無傷だったのである
あれを見れば高台に住んでいれば助かったのにとつくづく思う
でもそこは不便な場所なのである。

日本は国土が狭いから海側に開拓して米作りをした,その田んぼにしたところが津浪の被害があった
そして縄文時代の海が再現したのには驚いた
どこでも縄文時代に海だったところは海になったのである。
要するに自然が元の自然にもどったのである。
つまり人間はもともと海だった所を開拓して住むようになった
もしそういうことをしなかったら自然災害があったとしてもこんな甚大な被害にはあっていない
江戸の安政地震で被害にあったのは埋め立てて作った深川とかが死者が多かった
そこは海であった所を埋め立てて住んだから地盤が悪いし液状化が起きたとも推測している

人間は文明が発達するに連れて自然にそって住んでいない,不自然に住んでいる
東京という大都会を見ればわかる,そういうところで大地震が起きれば当然大被害になる神戸でもそうである。大都会とかは自然にそって作られていない
異常な密集状態になり不自然なのである。
だからこそ大きな自然災害があると被害が大きくなる
それは自然が悪意をもって人間を苦しめるために災害が起きているのではない
文明とは自然を改造して破壊した結果として自然災害が起きている

例えば極端になるが家が二階になると危険が増す,それよりもし弥生時代のような掘っ建て小屋のようなものにに住んでいれば地震が来ても壊れてもまたすぐ建てられるともなる
倒れるものがないから安全だともなる
つまり家すら文明が発達すると高度なものになり便利なものになるが危険も増していたのである。都市は便利なものとして人間が作り出したものである。
でも人間が密集して住めば便利なのだけど危険にもなる
人間はまず便利なものを追及する,それが自然災害には弱いものとして危険なものになっていたのである。
大都会は地震か自然災害で甚大な被害を出すのは自然ではない不自然に人間が便利さのために密集して住んでいるからなのである。
自然が別に悪意をもって人間を苦しめるために災害を起こしているのではない
人間がそもそも災害を作りだすものを便利さを追及して作り出していたのである。
それは原発だってそうである。科学技術は便利さを追及してきたからである。
でもその結果として自然災害に弱い社会が生まれたのである。

不思議なのは四倉とかでも前は広く砂浜がある場所は被害があったが大きな被害にはならなかった,あそこだって海に面しているから相当な被害になり街ごと消失するようにもなっていた,でも街全体がなくなるようなことはなかった
それは前に広い砂浜がありそこが緩衝地帯になっていたためである。
それは自然な状態がそこに残されていたからである。
砂浜もなく直接海に面していた磐城の漁港などは豊間などは被害が大きかったのである。九十九里浜でもあういう緩衝地帯があると津浪を弱めるのである。
文明が発達するとそうした緩衝地帯は海側になくなり漁港が便利さのために作られそこに人が密集して住んだ結果被害が甚大なものとなった
文明とは便利さを追及することである。その便利さが人間に仇にあだ)になるということがあった
便利さを追及することが誰も悪いものとは思わないからこそこれだけ便利な社会になったでもその便利さは自然に逆らうもの改造して破壊するものとして働くものでもあったことを津浪で思い知らされたのである。
なぜなら縄文時代のような一番不便な生活をしていたなら被害も最小限にくい止められたからである。海であったところに縄文人は住んでいないからである。
新地の山から手を伸ばして貝を食べていたという手長の巨人伝説でも貝塚が高台にあり高台で縄文人は生活していた,海側にあんなに接近して住んでいなかったのである。



江戸幕府以前の江戸

現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。 道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。 道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります。

わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

これは実際の景色を詠んでいたのである。江戸というのはベネチアのように美しい街だったのである。江戸なら今の東京と違い住んでみたいとなる
江戸城の前まで海だったというときそれだけでも景色が良かったことがイメージできる

posted by 老鶯 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2018年03月03日

グローバリストとナショナリスト(ローカリスト) (国や地域の文化を重視するのがナショナリスト)

グローバリストとナショナリスト(ローカリスト)

(国や地域の文化を重視するのがナショナリスト)


グローバリストとは何なのか?グローバルとはglobeのこと地球のことである。
そこには国はない,地球という神が創造した自然のことである。
だから何かここで言葉でも受け取り方が違っている
グローバリストとはその地球とは関係ない,経済的に貿易で国境をなくす
経済優先の人達なのである。
グローバルに経済を展開して利益を得る,多国籍企業がそうである。
一方でナショナリストは国内経済を主要なものとしてまずあるべきだという人達である。だからトランプ大統領が中国などに鉄鋼で関税をかけるというのは国内の鉄鋼産業が衰退すると労働者も困るし国内産業も育成できない,労働者も失業するということで主張している

自分の考えではグローバルとはあくまで地球なのである。地球というとき海があり大地があり川があり森があり山がありという地球のことである。
そこで経済だけでありえない人間の生を考える,何かの物を生産する,売買する,もうかる,損するというかの問題ではないものとしてグローブ(地球)を考える
たから自分が言うグローバリストとかナショナリストの意味は違ってくる
グローバリストは地球主義なのである。それは経済原理の地球主義ではない
国々の風土があり文化あり歴史かありその中で培うものが地球主義でありグローバリストなのである。だからグローバリストというときeconomical globalistになる

グローバリストとナショナリストを考えるとこれは世界的にだけあるものではない,
東京とかに住む人はみんなグローバリストなのである。
なぜなら彼らの思考は完全に自然から乖離しているからである
回りに自然がない,食料はどこから入ってくるのか?
子供ならスーパーにいくらでもあるじゃない,金さえあればいいとなる
田んぼとか畑がなければ食料がどういうふうに育つのかもわからないのである。

都会と特に東京と田舎,地方との対立はグローバリストとナショナリストの対立とにているのである。ナショナリストという大きな範囲になるがローカリストとの対立だとうのもわかる
ナショナリストはローカリストはやはりその土地土地の風土に養われて思考している
東京に住んでいるような人達はそうした自然を思考しないですべて語る
経済でもそうだし科学でもそうだしなんでもそうなのである。
そこに自然がぬけている,自然の思考がないのである。

自分は地域地域を一つのコスモスとして見る,でもグローバリストはただ世界を経済の道具とみている,多国籍企業などでもそうである。
車を売るために薬でも売るための市場としてのみ見ているのである。
だからグローバル経済は非人間的である。
そもそも世界は地球は市場とだけ見ることが間違っている
その国々を地域をただ市場として見ていることそして経済的に支配するものとして見ているのは悪魔的だともなる
石油の値段が下がってベネゼエラが破産状態になった,国民が10キロやせたのである。
食料が入らなくなったのである。そういうことがグローバル経済では起きる
日本は車だけ作っていろ,牛肉をアメリカから買いと常に要求される
そして東京に住んでいる人は田舎人とナショナリストと対立するのはにている
食料など農民などは国の援助で成り立っている,俺たちの税金が農民に使われている
そういう不満が田舎の人達に農民に対してある
だから外国から食料を輸入した方がいいと本気で思っているのである。
彼らに日本の国土への思考がないのである。
まさに東京とかなるみんなグローバリストが住んでいる所なのである。

自分がグローバル経済を否定するのはそれは文化的側面からなのである。
グローバル経済は国々の国境をとりはらい自由に物でも人でも流通させるということになるがそこに国々の歴史があり文化があるがそれも無視するのである。
その国々は国内でも風土があって自然があって歴史があって作られてきたのである。
その地域地域であれそこで血の通った人間的経済にすることで本来の人間性が回復する
一つの世界観が形成される,アイディンティティが形成される
そういうことを自分は詩とかで追及してきたのである。

自分は経済的な面だけからではなくナショナリストではない,地域地域の風土自然があってそこで世界観をアイディンティティを築く,経済より文化を重んじて言っている
経済がグローバル経済になったらもう文化もなにもない,ただ経済的原理だけで動く
それが今のグローバル経済である,そこには弊害が起きてくる
だから自分が言っているグローバリストとナショナリストの意味は違っている

アメリカだとクリントンはグローバリストでありトランプはナショナリストというとき経済的側面だけでそうなっている,アメリカの中でも対立していることがわかる
ナショナリストとなる国を第一にするからどうしても歴史でも文化でも重んじることになる,グローバリストは経済的に世界を支配しようとすることである。その支配の方法は金融なのである。それがユダヤ人とだけは言えないだろう別にキリスト教者のネオコンなどもそうだからである。

アメリカでも白人がアメリカを作ってきた,それなのに移民がアメリカを支配するようになるとかナショナリストが反発したのである。
人間は経済的原理のみでありえない,それはグローバル経済でもそうである。
そこに金融資本主義になり格差社会になり国々の文化や歴史を無視する横暴があった
人間はそもそも経済人間だけとなるものではない,様々な要素がありそれで人間的に生きられるとなるからだ

自分の考えでは東北ブロックとか道州制とかにしてそこでそれぞれの世界観を形成してゆく,金融でもそういう中で機能してゆく世界である。東北ブロックがあればその中にまた地域地域のブロックが自然でも歴史でもある
金融でも地域の会社を育てる地域に貢献するものとしてあるのが地銀だとなっている
だからグローバル経済の株をすすめたり投資信託をすすめるのは合わないのである。
会津とか考えるとそこはもともと万葉集から一つの大きな国として意識されていた
そういう自然があり歴史が育まれてきた,ただ経済的原理だけで働くとか世界を見るというのが合わなくなった,そもそも人間が経済人としてだけあるのではない

グローバリストとは人間が世界でもみんな経済人としてみている
あらるものを経済の単位としてみている,海であれ山であれ森であれ美しい景観の中に住んでそこで文化を育むという思考がないのである。
ナショナリストに回帰するというときそれは経済だけの問題ではない
その国の風土と歴史によって育まれたものを再アイディンティティ化することなのである
グローバルというとき地球を今やグローバルに探求している,無数の写真や絵がインターネットにでている,そこでソフトで抽象画を作ったというのは不思議な体験だった
そういう芸術でもグローバル化する,それは経済とは違ってまさにグローブ(globe)
地球の景観が多様に写真などで見せられる時代である。
そういう文化的なもののグローバルは経済摩擦など起きないのである。
グローバル経済になるとどうしても摩擦が起きてそれが深刻になると戦争にもなる
いくらそれがいい面があるとしても日本から車を買っているんだから牛肉を買いとか
オレンジを買いとかなるのは当然なのである。
そこで必ず貿易摩擦が生まれ深刻になると戦争になる
経済の原理だけのグローバル化はそもそも無理なのである。
貿易とかは必要でも現代のグローバル経済は限界を越えたものとなりそれに人間はもう耐えられないのである。人間はみんな経済人として生きるものじゃないからである。


posted by 老鶯 at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

最近の故郷の風景(春は来たが) (風車もなじむ景色となる?-磯部のパン屋)


最近の故郷の風景(春は来たが)

(風車もなじむ景色となる?-磯部のパン屋)

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風車が回っていない
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磯部のパン屋
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相馬市の道の駅のすぐ近くで二人の若い女性が事故死する

ここで雪の日に二人の若い女性が死んだ
歩道が雪で凍って歩けない,それで車道を通ったのだが白線の内側も凍っていた
すると車の通る車道を歩いていた
そしてトラックにはねられたのである。
これは思わぬ雪と真夜中の三時という時間が影響して事故になった
まず夜は自転車でも危険になる,いくら慣れていても危険になる
第一あそこをなぜ真夜中の三時に歩いていたのかとなる
自転車でも歩道が凍って通れないと車道になるがそこは白線の外に出れば自転車も危険になる
悪い条件が重なって事故死したのである。


風やみて風車回らず冬芒

石十個常連客あれ冬の暮

蠟梅や猫一匹いつき我待つ


この道に若き女性の二人死ぬいたましきかなうらめしきかな

梅咲くもかなたの山は雪なりや厚くも雲の覆いけるかも

春なれば峠を越えて飯館へ我が行かむや雪雲閉ざしぬ

面影のなおも浮かぶや我が家に待つ人なしや春となりしも


磯部のパン屋は場所が自転車でも行ける,相馬市までだとなかなか行けない
ただパンはそんなに種類がないし素人の家族で焼いているという小規模のものだった
機一昨日,強風のとき行って失敗した,風がやみ雨もやんだと思い行った
それから急に風がふいた,そして吹き飛ばされて転んだ
その時自転車の予備の電池をなくした,あれは高いし損した
ロードは軽いけど自転車としては危険だなと乗ってみてわかった
だからへたすると大怪我する危険を感じる
早いから急ブレーキにしてもぶつかる度合いが大きくなるからだ

あそこにあんな民家があったとは思わなかった,東京の方からあそこに移ってきた
その人がパン屋をはじめた,パンはたいしたものではなかったがあそこの場所はいい
自分は何か場所にこだわる,そこがどういう場所なのか,景色がどうかとかまずみる
この辺でも場所が違うと雰囲気でも何でも違っている
狭い場所だからどこでも同じではないかというとそうではない
あそこは海が遠くに広く見えた,それが違っていた
あそこには広い高台があった,あそこには行ったことがなかった
そういう場所に休む場所があるといいのである。

だから限界集落とかなりそうした地域地域が失われることは住んでていて面白くないというか変化がなくなる,場所の雰囲気を変化を楽しむことができなくなる
田舎は多様な場所に住んでいるからである
ともかくあのように今は意外と他から移り住んでいた人達がいた
でも放射能騒ぎとか津浪もあり帰った人も多い
その人も実際はパン屋をするわけではなかったこの辺の特殊な事情ですることになった
商売は常連客があるとリピーターがないと成り立たないだろう
この辺は工事とかで今も外からの人が来ている,それで成り立っている食堂とかある
でも前のようには来ないので地元の人に来てもらわないと成り立たないということがある自分は朝はパンだからうまいバンを食べたいのである。

鹿島区は海岸が風車の風景になった,今日はめずらしく風が吹かないので風車が回っていない,そして冬芒の風景になっている
これもこの辺の風景としてなじんでくるのかとなる
家で待っている人はいない,待っていたのは猫だった
この猫も何か不思議なのである。猫は家にいつくというが本当である。
家の住人のようになるから不思議なのである。

死んだ人もだんだん忘れさられてゆく,去る人は日々に疎しになるがなおやはり面影が浮かんでくる
春といってもまだ春とは感じられない,今年は寒かったからだ
ただ梅は咲き始めたから春にはなっている,鶯の初音も聞いた,雲雀も鳴いたのである。ただ本格的に鳴きはじめるのはまだである。
飯館の方は雪であり雲におおわれて雪がこっちにも吹きかけてくるのがこの浜通りの気候である。







タグ:風車 磯部 冬芒

2018年03月04日

人生老後の誤算 (百歳の人生はイメージできない)


人生老後の誤算

(百歳の人生はイメージできない)

何故今これほど老後が問題になるのか?それは人生百歳とか言われるようになったためである。
百歳となれば60で退職してそれから40年もある,するとどうなるのか?
それをイメージもできないのである。
まず人間は若いとき老人になることをイメージできない
だから若い人はたいがい50とか60で死んでるよと死にたいとかなる
でも実際はもう現代は70で死んだら早いなとなる
ただ70は一つの区切りのような気がする
還暦が60というのは今の時代に合わない
60は普通に働ける時代である。個人差があるけど一般的にはそうである。

明かに現代では十年は若返っているしこれからも寿命は伸びる
なぜなら細胞を若返らせる研究がすすんでいるしそれは空想の世界ではなく現実となるとか投資されているからである。
すると百歳は普通に生きる時代がくる
それはいいとしてそれに備えるものがない,社会的にも個人的にもないのである。
金銭的な面でもそんなに長く生きることを想定していないからである。

だからこそ退職してから余裕ある生活をするには一億円かかるとなる
ただもし百歳生きるのが普通になれば人生設計を変えねばならない
それは金銭的な面でもそうだし精神的な面でもそうである。
会社勤めを終えて今までは人生は終わりだとなっていた
でも会社を退職してから30年40年もの人生があるとしたらどうなるのか?
精神的な面では趣味もなにもない人はその長い年月を有意義に過ごせないという問題もでてくるしでている
会社一辺倒で働いていた人達は社会で役割もなくなりただ早く死んでくれと今でも言われる
社会ではもう高齢化社会で老人に金を使っていられないからそうなる
そして年金とか保険も破綻すると真面目に言われる,それは数が多いし確実に長生きするからである。その財源も日本は少子高齢化や経済の衰退でなくなる
そういう深刻な状態が年金が破産するのが後三年だという人もいる
そういう危機的状態が迫っている

そして不思議なのはAI化で人間は働く無くてもよくなる,人間はそこで何をするのか?
それは人間にしかできないことをする,芸術とか創造的分野で才能を開発するとか言われる
それはなんのことなのか?今までは働くことが美徳とされてきたし強制もされてきた
働かない奴は無職は社会の敵であり排除されてきた
ただフリーターとかニートとか増えたのは何かそうしたことを奨励するためだった
創造的個性的生き方を奨励した結果そうなったとも言われる
結果的にその人たちは悲惨なものとなる,それは誤っていたとしている

そもそもそんな考えが堂々と言えることが理解できなくなる,価値観は絶えず変わるにしてもそうである。自分などはそれに対して別に驚きもしない
なぜなら自分は無職だったし働いていないからである
でもベーシックインカムとかがまことしやかに語られる時代が来るのも何なのだろうと思う
自分のように生きた人はアウトサイダーであり極少数だった,フリーターとかニートなどが増えた時代とは違うからである。ただ今でも無職ということは犯罪者と同じなのであるだから暴力団の方がニートより増しだと激しい憎悪をいだいている人がいる

いづれにしろ人間は人生はみんな誤算である,それは70年の人生だったとしても時代が変わり価値観が変わり思わぬことが津浪や原発事故が起こる
何かのために備えてもそれも無駄だったとかもなる
事業しても成功しているのは20人に一人であったり常に誤算がつきまとっているのである自分の身内でも最後まで優秀だったと言って死んだのは認知症になったためである。
人生の最後に認知症になるのも最大の誤算だったとなる
優秀な人でも最後は馬鹿になるのかという恐怖を介護してまざまざと見たからである。
人間は金でもなんでもそんな長い人生で計算できないのである。
思わぬ出費があったりいろいろある,それが人生百年になったら余計にそうである
社会的にも個人的にもとても備えられないのである。
ただでは個人的には金銭的に余裕があるからいいやとはならない
回りはそうして金銭的に苦しい人が増えると余裕ある人も危険になる
そういう目に自分はあったからだ,老人の犯罪も十倍以上に増えているからだ
その問題はその負担はみんなにのしかかるのである。

人間の最後はやはり生物と同じである。天命を全うして死ねばいいとなる
そして苦痛もなく死ぬのがいい,90から百歳とかなると老衰がいいとなる
95以上生きたらたいがい老衰で死ぬからあまり苦しみはない
樹が枯れるように死ぬ,欲も消失してそうなるのがいい
ただこれも個人差があり人間の欲はそう簡単には消えないのである。
いづれにしろ百歳となると本当に老後も長いしそれをどう生きるのかが課題になる,でもそれに物心共に備えることはもうできないのである。
ただその結果として何か社会が変わる,価値観が変わることは確かである。


樹齢千年の桜
そは十分に花を咲かせた
暴風に倒れたが
その命は全うされた
老木は枯れて朽ちてゆく
痛みもなく命は尽きて
逆らうことなく
天命を全うし森に還る

樹齢千年の大玉村の馬場桜が倒れる
posted by 老鶯 at 09:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

abstract forest(forest in northen europe)


abstract forest

(forest in northen europe) 

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forest in Northern Europe



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タグ:FOREST

2018年03月05日

銀行の役割の喪失 (地方で安定した就職先がなくなるのも問題)


銀行の役割の喪失

(地方で安定した就職先がなくなるのも問題)

銀行はなになのか?これも歴史が古いから人間生活にとってはなくてはならないものとしてありつづけた
銀行は江戸時代だったら金貸しであり質屋である,両替などもそうである。
地銀は江戸時代の頼母子講などからはじまったとある
金を出し合って相互扶助の助け合う講だった
銀行は必ずしも銀行として独立していない時があった
絹織物でもうかった家がその中に銀行を開いていた
銀行は何かでもうけて金がたまると資本となりそれで銀行にもなっていた
銀行というと何かむずかしいけど実は金持ちは自ずと資本家になり金貸しになりそれが大きくなると銀行になる
金持ちになるど必ず金を貸してくれという人が来るからである。
ただそれを組織化したものだから頼母子講などから発展したとなる

だから銀行が金を貸さないでどうする,必要なくなるとまで政府から言われた
銀行は金貸しなのである。それが金を貸してもうける先がなくなっている
バブル時期に銀行でも金を貸さない銀行が生き残ったとかあり金を貸すことにその時期から慎重になるようになった
日本はバブルから20年成長しないし停滞した
その時銀行も金を貸すことしなくなった,貸し渋りとかなった
でも日銀に国債をあずけて利子をもらっているとかでやりくりしていた
それがマイナス金利になったとき追い詰められていたのである。

銀行は地方の就職先ではエリートだった,それは公務員と同じように見られていたのである。まず地方では田舎では公務員とか銀行とか農協とかが有力な就職先でありその他あまりないのである。
そこが安定している,それで地方の有力者の就職先になっていたという。
それで融資先もあったとかいう。そうしたコネで就職できたということがある。
それで孫が銀行に就職したということで自慢している人もいた
銀行はそれだけ信用がないと就職できない所だったのである。

地方の問題は就職先が限られていることである。田舎に住んでみるとわかるが田舎では資産がないと住みにくいのである。土地と家があり何代も同じ土地で住んでいる人が多い
だから田舎では家がないとか賃貸の住宅に住んでいると貧乏な人だとなる
ある人は4000円で部屋が三つある一軒家に住んでいる
これは都会と比べると贅沢だなと見た
ただ田舎ではそうした所に住んでいる人は貧乏だとなる
それで仮設がこの辺でできたとき狭い所に住んでいる窮屈さを知ればいいという人がいた
田舎で安定的に暮らせるのは土地と家があり恒産がある人である。
農家中心の生活のときは土地をもっている人だったのである。
だから小作となると不安定になる,貧乏になる
自分の家は最初は貧乏だった,戦後はみなんそうだったがその時農家の方が食料でも恵まれていた,なぜなら納豆まで作っていたし鶏も飼っていたから食べ物は町で暮らしているより良かったのである。
その後経済成長になり店をはじめて繁盛した,その時どこでも小さな工場でも繁盛した
何か小規模の事業をはじめても成功した人が多いのである。
それは経済成長の時代だったからである。その時銀行も貸す先があり利子をとれたから預金に利子が7パーセントにもなっていたのである。
それだけの収益を銀行は金を貸して出していたのである。
今になると夢のような世界だったとなる

正直田舎で暮らすには恒産があって恒心ありとなる,だからある程度の財産かないと余裕があって生活できないのである。
土地と家があり金融資産もありとかならないと余裕ある生活ができない
だからかえって田舎では貧乏になるとみじめになる,そして目立つのである。
そして田舎の安定した就職先が公務員と銀行と農協だったのである。
自分の家族の一人も公務員だったから知っている,公務員は何かと得するのである。
公務員などたいした仕事していないのに高給取りだと常に批判している若い人がいるのもわかる
ただ田舎で公務員とか銀行とか農協とかの勤め口がないと安定して暮らせない
田舎で安定して暮らせることのメリットは精神的に安定するから自然と融合する生活ができる,そこにcultivate(耕す)ことでcultureが生まれる
自分はそういうことをしてきたのである。
別にそういう場所に就職したのではないが家に余裕があるからできたのである。

地方は田舎は今はいろいろなことで窮地に追い込まれている
そういう中で地銀とかがなくなると就職先がないとういことで田舎に定着できないとういことも起きてくる,それも問題なのである。
そうはいっても社会に必要でないものを養う余力はもう日本にはないのである。
田舎で地方でそうした安定した就職先がないと若い人は都会に東京にでてゆく
だから知っている人の息子は40代なのに東京に出た,建築関係の仕事がなくなったからである。
自分が学問とか芸術とか追及できたのは安定した家があり家族がいたからだとつくづく思う,そうでなければ田舎では暮らせないからである。
ただ我ながらこんな生活をできたものだとふりかえる
今はめずらしくないけど高度成長時代となると団塊の世代ではこんな暮らしをした人は極少数である。それは社会からはずれたアウトサイダーだったのである。

いづれにひろ銀行がこんな窮地にあるとは思わなかった
銀行についてはyoutubeでいろいろ語られていたのである。
ともかく自分は介護になって親が家族が死んで大変な目にあった
その時自分も病気でもあったが一切同情はなく金だけを要求されて大金も失った
それが銀行までに投資信託とかで金をとられのかということは田舎が地方の経済が窮迫しているためであった
直接そういう人達に接しなければ今まではしていないからわからないだけだったのである生活に困る人,事業に失敗した人,飲食業に勤めて賃金をもらえなかった人,または勝者金融から金を借りていた人とかそういう金に窮している人たちが家にきた
その人たちは自分を襲ってきたとも言える

地方は田舎は経済的にこれからもさらにおいつめられてゆく,この辺では原発事故の援助が金銭的にされるのはあと三年しかない,その後は自治体の運営でも苦しくなる
例えば小高でも帰ったのはほとんど老人であり人手不足で介護施設が運営できない
そこに市立病院を運営するにも市の財政負担になる
でも小高ではそれを要求している,そのことは南相馬市全体の問題なのである。
だからこそ小高の人は自立してやってくれとなるがそれを言うとまた反発される
補償金のことでもめたからである。
でも銀行が必要なくなるようにそれを維持したくてもできない,財政的にできない
すると切り捨てるほかなくなる,そんな余裕がなくなってくるからだ
少子高齢化や日本の経済の衰退とかで田舎は地方は窮地に追い込まれる

だから高度成長時代こそ自分のような今で言うフリーターであれニートなどでも
もっといても良かったのである。
その時はみんながむしゃに働いた,企業戦士となっていたのである。
その人達が団塊の世代の人達が退職して今度はその人たちが社会の負担にお荷物となってしまったのである。
キレル老人とかでもそうであり財政的負担も大きすぎるのである。
病院に通う老人も多い,医療や保険や生活保護の負担が増えるばかりなのである。
田舎で安定的に生活するのは生活保護になるほかないとまでなっているのだ
posted by 老鶯 at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

JRが駅に置いた自分が作った時刻表やパンフレットを撤去した (JRの許可なしで置いてはいけないルールだから)


JRが駅に置いた自分が作った時刻表やパンフレットを撤去した

(JRの許可なしで置いてはいけないルールだから)
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自分が作った時刻表を置いたトイレとか観光パンフレットを全部撤去した
JRの許可なしで置いてはいけないという

なんでなのか?

いろいろ苦情が来るからだという,パンフレットについても何か聞かれると困るという
これも何なのだろうと思う
時刻表でも自分は10円でコピーして置いておいた,それをみんなもっていった
なぜなら必ず時刻を見に来る人がいるからだ

それをこんなものJRの許可なしでなぜ置いたのか?
みんな撤去しろとなった

ただJRにも言い分がある,何か駅に置くには申請しないとだめだという
それがルールとなっているから守らないとJRでは困るし許可できないのである。
なぜならJRの責任にもなるからだ
それはそうなのかと理解した
申請は個人でも簡単にできるという

JRはまず自分が結構いろいろ無人駅なのでかかわって知っているのに礼一つない
結局お前はここで何しているんだ,何もする必要ない,ここは無人化して自動化しているからだ,こういうことなのである。
そして警察からはお前はここで何しているんだと誰かが通報して職務質問されたのであるそれもみんなの前でである
俺たちがすべて管理する,自動化したら人はいらない,ここで何かするな!
勝手に何もするなとしている,俺たちがすべて鉄道や駅のことはする
他の人はかかわるなということなのか?
ただ勝手なボランティアだから認められないことはある

でもこれは何なのか?

JRはJRだけですべてする,他の人はかかわるな!

こういう管理のしかたなのだろうか?俺たちの仕事の領域に他の人は立ち入るな
無人化して自動化したのだから人はかかわるな!
だから構内に勝手に入ったときJRの人が入るなと言ったのである。
それもやはり鉄道のことはJRでするから他人はかかわるなということである。
でも無人駅だからこそかかわっているのである。
無人駅だとやはり困ることがあるからかかわっているのである。

こういうことなのだろうか?
この経営態度は何なのだろうか?全く地元とか人間を無視した態度なのである
だから無人化自動化をすすめいる,人間とはかかわるな,
パンフレットを置いたのは自分では自転車屋の人である。
そのパンフレットは観光案内なのだから別に許可なくても置ける
何かの宣伝でもないからである。

ともかく市の地域振興課に聞いてみたらJRにはルールがありそれを守らねばならない
勝手に置いてはいけない,そのことはわかった
でもルールでも何か人間味がない,ルールが全能ではないからだ
何か現代の社会はこうしておかしなものになっている

鉄道はみんなJRのものであり他の人は立ち入れるな,鉄道はみんな自分たちでやる
これがJRの上から目線の態度なのである。
人間に関してのサービス精神が全くないのである。
JRではのせてやっている,ありがたく思いという意識しかないのである。
人間がサービスする人間がかかわることを拒否しているのだ
ただもう電車でも駅も無人化自動化して自動運転のようにしたいのである。


何かこれは無人化自動化する社会への警告ではないか?
そういう社会はもう人間味もなにもなくなる,ただロボットがいてすべてまかなえる
人間は必要ないということにする社会である。
そこにAI化とかいいように見えるが人間そのものが排斥されていらないとなる
冷酷な社会になることも暗示している
つまりAI化とか自動化とかはすべてバラ色ではない,人間の暗黒を作り出すものにもなる仕事の場でも人間は効率的でないから邪魔だからいらないとなるからだ
そういう社会はも情もにもなくなってくる
現実になっている,そういう社会にはいくら便利でも生きたくないとなる
結局原発でもそうだが便利だということはすべていい方には働かないのが人間社会だったのである。

時刻表は商工会なり自治体なりで配布すべきなのである。
それもJRの許可が必要でもそうすればこの問題は起きなかった
原町駅の時刻表は作られているし相馬市でも作られている
前は一軒一軒配れていた記憶がある
そうすればこの問題は解決しているのである。
要望として時刻表が欲しいという人が多いからだ
その要望に答えるのが自治体でもあり商工会でもJRでもある
それをするものがいないから問題になったのである。
別に自分は時刻表を置かなくてもいい,置くと金がかかるからだ
だから別に乗客が不便でもいいともなる
何か感謝するわけでもないからだ,ただそこで不便になるのは乗客だとなる
それもやはり乗客がそういう要望を出さないからである。
もし十人でも百人でも要望がありまとまれば圧力になり対策されるからである。
ただそれほどの要望でもないから個々人で不便でも時刻表を見にくるほかないともなる

自分としては申請してまでまた金をはらってまで時刻表を置く気はない
それをするべきなのは乗客なのである。
乗客がそれを要求しない限り不便でもそのままになる
民主主義社会はまとまって何か要求しないかぎりそのままになる
改善されない,ただみんなが困っているのだからそれをまとめる人も必要になる
それが代表となるということである。
つまり政治の問題となる,そういうことで民主主義が発達するということはある

鹿島駅の問題は無人駅になったということにある,普通だったらまず勝手に構内には入れないし
確かに勝手に駅内に何でも置けないからである。駅員がいるから許可が必要になる
その駅員がいないから問題なのである。
無人化して自動化してもそこに人間がないことで生じる問題が必ずあることがわかる
だからAI化で無人化自動化してもそこに問題が生まれるのである。

普通の社会人だったら絶対にあり得ない!!JR駅員の高慢な接客態度

やはり自分だけが感じたことではない,自分は別に乗客としてかかわったのではない
そもそもJRとかには普通の社会人としての常識が通用しないのである。
そうしなくてもいいという感覚であり乗せてやっているという気持ちだからそうなる
いろいすめんどうなことは言うなよ,乗せてやっているのだからありがたく思へ
そういう感覚だから普通の人の感覚がない
人に道を教えただけでありがとうと言うとするとそういうこともないのがJRなのである。
人のことは言えないが国鉄からの殿様商売だとなる
ただ職人として時間どおりに安全に電車を走らせることには勤めているのである。
人へのサービスはぬけているのである。

タグ:JRのルール

2018年03月06日

AI化自動化が人間を幸せにするのか? (便利さ効率化を求めて不孝にもなる文明人間)


AI化自動化が人間を幸せにするのか?

(便利さ効率化を求めて不孝にもなる文明人間)

人間の歴史は別に幸福を求めてきたわけではない,第一幸福というのは計ることができないからである。
原始人と現代人の幸福を計ってもできない,原始人が日本なら縄文人が現代人と比べて不孝だったのかというとわからない
そんな時代は食べるに精一杯で幸福もなにもないという見方もある
でも原始人は縄文人は自然に則って生活していて幸福だったという見方もある
原始人ならもう病気になったら死ぬ他なかったから不孝だったともなる
現実に縄文人の寿命は30歳とか言われているからだ
そうなると百歳生きる現代人は幸福だとなる
長寿は人類の願いだったから今実現しているとなるからだ

ともかく人間は幸福を求めてきた歴史ではない,便利さを求めてきた歴史である。
鉄を発明したとき農耕は飛躍的に発展して収穫量も増えたし開墾も容易になり
人間が住む土地が広がって人口も増えたのである。
鉄の発明はそれだけ人類を変えて便利にして生産量をあげたのである。
それで幸福がましたともみるしまた鉄を発明した結果,それが武器となり殺傷力がまして人間が戦争で多く死ぬようになった
それで鉄の時代は人間を不孝にしたという見方もある

人間の歴史はまちがいなく便利さをもとめるのが文明である。
駕籠で人間を運んでいた江戸時代から急激に鉄道ができて蒸気機関車で物でも人でも運ぶ時代になったことの変化はあまりにも大きかった
その技術によって社会もまるで変わった,それは車社会で変わったのと同じである。
通信でも飛脚が手紙を運ぶ時代から電話の時代からインターネットの時代,携帯からスマホの時代と飛躍的便利になった
そういう技術の変化が日本だと明治以降から世界的には19世紀から起きてきた
その変化も激しかったのである。
遂には飛行機の時代となり世界は一気に狭くなったのである。
戦艦大和などは船の時代の産物でありそれが太平洋戦争で飛行機の時代となりアメリカに敗れたとなる
その時原爆が落されて原子核の時代に突入していたのである。
それは恐るべき殺戮兵器であった,人類を滅亡させる威力があることで恐怖した

つまり人間はこうした科学技術を追及してきたのは便利さのためである。
でもそれが幸福を追求するためのものではない,幸福とは何かわからないからである。
ただ便利さとか効率とか生産の増大とかを追及してきたのである。
人間がその科学技術によって幸福になるか不孝になるかなど考慮していない
だから核が発明されてそれが核戦争になって人類が滅びるとしたら最悪であり科学技術は人間に最大の不孝をもたらしたとなる

人間は便利さ効率さ生産の増大とかを求めるが幸福は求めていない
もし幸福を求めるとしたらその幸福とは何なのかが問題になる
でもそれを定義することはできない
飢えるよりはうまいものをたらふく食べるのがいいし寿命が伸びるのはいいとかは幸福として定義はできる,でも寿命が伸びたら伸びたで苦しみも増してくるとしたら寿命は長いのが幸福ともならないのである。
だから本当に幸福とは何かなど計れないわからないからそうなる

人類の願望として飢えとか貧乏とか病気の克服はテーマとしてありそれは克服することは幸福度が増すということは言えた,だから科学技術はそういう点では貢献して幸福度を増したとは言える
でも人間の幸福は計れない,なぜ20世紀に世界戦争で何千万もの人間が日本では300万人も死なねばならなかったのか?
それで人間の幸福度が増したのかとなる,戦争はあったにしても近代以前は局地戦争だったからである。犠牲者も少なくてすんだともふりかえり見る
人間にとって幸福とは何かとなると戦争などないことが幸福であることは間違いないのである。

飢えない
食料は豊かであり保証されている
戦争がない
病気がない
長寿である

この辺が幸福を計ることができるものとなる,でもその他は幸福を計るものがない
便利になったから効率的になったからとかなってもそれが幸福にはつながらないのである旅行でも新幹線で一日で京都まで行ったとしてもそれが幸福な旅だったのかとなるとそうはならない,江戸時代のように江戸まで歩いて旅した人は本当に旅していたと見る
だから旅をするという観点から見るとこれだけ旅しやすいのに不孝だともなる
要するに人間の幸不孝は計れないからである。
何が人間を幸福にするのか不孝にするのか?それは様々な要素があり計れないからである

ただはっきりしていることは人間は幸福を求めてきたのではない,便利さや効率さ生産の増大を求めてきた,その結果として幸福とはなったとはいえない,第一幸福とは何か定義できないし個人的にも違ってくるからである
さほど金にならなくても働きづめなのは嫌だ,のんびりしたいとなる人もいる
でもがつがつ働いても稼ぎ贅沢な暮らしをしたいう人もいるからである。求める幸福はそれぞれ違っているから計ることはできないのである。
幸福というとき苦は楽の種というときもそうである。
苦があって楽があるからだ,楽ばかりだと楽は楽でなくなる
うまいものばかり食べていると本当にうまいものの味もわからなくなる
腹が減っていればなんでもうまい,そういうとき何を食べてもうまく幸福になる
このように人間の幸福はわからない,幸福を求めて生きている訳ではないからだ
また人間は幸福をいくら求めても幸福にならないともなる
幸福を求めたが不孝になったということもある,思わず意外に幸福を感じたということもある,つまり幸福というのはそれぞれ違ったものでありわからないからである。

人間は便利さ効率や生産の増大をも求めても幸福になるとはかぎらない,別に幸福を求めてそうした科学技術を利用するわけではない,科学技術でも人間を不孝にすることがあるだ,何かそれでAI化自動化がバラ色だと見ているがそれも嘘だと思った
それによってもう人間はいらない,ロボットだけでいいとなる世界は人間砂漠であり
悪夢の世界になるかもしれない,なぜなら人間の幸福を求めてそうしたAI化自動化になるのではない,便利さや効率化を求めてそうなっているだけだからである。
これだけは知っておく必要がある,AI化自動化は人間を幸福にするとは限らない
不孝にすることもある,人間はいらない,人間は効率的ではないとかなり人間はAIより無能だとなりもうそういう人間は始末すべきだというSF的な悪夢が実現するかもしれないのだ
そうなるとそんな科学技術は人間を不孝にするのだからいらないとまでなる

車より自転車や歩く方が人間的だとか幸福にするとか今でもある
だからいくら科学技術が発展しても人間は幸福にはならない,必ず悪い面が生まれ人間を不孝にもすることは確かなのである。
そういうことは20世紀で経験済みだからである。
むしろ非効率でスローの方がいいとかもなる,それが人間的だなと人間として幸福だなともなる,スローライフが言われるのも今の高速な極度の効率を便利さを追及するものが決して人間を幸福にはしていないからである。
高齢化社会になると価値観が変わる,なぜなら老人の価値観と若い人の価値観は違うからである。
どうしてもめまぐるしく変わる早いとか効率的だとか合理的だとかよりスローで変わらない世界とか非効率でもそこに人間的なものを見いだす社会がいいとかなる
経済合理性だけを追及することに合わなくなる,人間的なもの金だけではない,情ある社会がいいとかなる,高齢者と若い人の幸福とするものが違ってくるからそうなる
そして現代は高齢者の価値観が優位になる,それは悪いことではない
それは別に年齢に関係なくそういう時代の価値観に転換する時代だともなるからだ