意味を求める人間
(宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)
この地球とか宇宙はなぜあるのだろうか?
こういうふうにまず考えるのが人間なのである。
そこに人間の人間たる所以(ゆえん)がある
これだけ多様な生物がいて宇宙があり地球がある
しかしその意味を考える人はいない
考えて意味を与えているのが人間なのである。
神が創造主だけど意味を価値を与えることは人間なのである。
動物は腹が減った今日食べるものがあった腹は充たされた満足だとなる
それ以外なにもない,自分が生きる意味など考えないのである。
人間も最初はそうだった,狩猟するにしろ漁労で生活にしろ食べることに追われていた
そこに余暇はないのである。
「俺たちは何で生きているのか,働いているのか?」
とか考える余裕もなく食べることに追われていた。
暇ができなければ考えたりしない,意味を求めたりしないのである。
ただ人間が言葉をもつというときその言葉がすでに動物にはない高度なものである。
言葉があるというとき人間はすでに意味を求めるものとして言葉があった
言葉がロゴスが最初にあったというときそれだけ人間にとって言葉はその存在を問うものとして欠かせないものになっていた
バベルの塔の意味しているのは人間は一つの言葉を話ししていたとき神が怒って言葉が通じなくさせたことなのである。
人間が通じ合えるのは言葉によってだったのである。
何かこうして延々と一人プログで自分は書いているけど書きながら考えているのである。それがプログとかではしやすいのである。
言葉や文章は考える道具なのだとつくづく思う
もちろん言葉で話しても考えるが文章で考えることは深くなる
なぜ人間に宗教や哲学が生まれたのか?
それが大きな疑問がありその解答を得るためである。
最大の人間の問題は死だった,なぜ人間は死ぬのか?
それがどうしても今だって納得がいかないからである。
死によってすべてが終わるのかとなれば生きる意味もなくなってしまう
どうせ死ぬんだ,無になるんだ,だからどんな生き方してもいい
悪も善もないとか自暴自棄のようにもなってしまうだろ。
それだけ死はすべての人間の存在を否定するものなのである。
だからこの解決なくして人間の生きる意味は様々なことを言ってもなくなる
その解答は永遠の命を説いたキリスト教しかないともなる
ただ死後の生があるということで宗教は共通している
この世だけで生が終わらないということは死んだら天国とか地獄とかあるとなれば
そのことに恐怖して現世も生きることになる
その来世をも否定する無神論者が普通に多い
でも無神論者がどこまで真剣にそのことを考えるかとなると考えない
人間はそのことで人間でいられなくなるとか結論した人もいる
人間が存在して自分でも自然でも宇宙があるのではない,神が存在して人間があり宇宙があり自然がある
自然は自然に生成したという人がいる,それは違う,明かに人間であれ万物は目的があり神によって創造されたのである。
ただその意味とか価値は人間が求める,人間が解答を出すようにしたのである。
山でも木でも石でもそれがなどういう意味をもっているかは神は教えない
その答えを出すのは人間なのである。
今は日本では豊かになったから暇も生まれた,働かない人が膨大なのである。
一億人にいるとして65歳以上が4人に一人とかなる時代である。
その老人の大半は働かないのである。その他ニートとかも働いていない
それができたのは高度成長時代に親が金を貯えたからだともいう
自分などもそうだった,自分が働くこともしないで旅ばかりしていたというのも親がいたからである。
高度成長時代はまずがむしゃらに欲望を達成するために働いた時代である。
そういう時代は何のために働くかなど考えない,家電製品が欲しい家が欲しい車が欲しいうまいものを腹一杯食べたいしかないのである。
そういう時代は何でも意味を求める時代ではなかった
働くことにも意味など求めないのである,金になればいい欲望を達成すればいいとしかならない
でも豊かになると人は意味を何でも求める,働くことにも消費することにも何かしら意味をもとめる,中国人でも最初は物の消費だったが今は事の消費だというときもそうである何かしらその国の文化とかその国のもっている価値を見いだそうとしているのである。
老人になると人生をふりかえり自分の人生は何だったのだろう?
このように必ずその人生の意味を求めるのである。
でもそう思ってももうその人生の意味を老人になってから求めることができない
意味を求めたらこんな人生を送らなかったといっても後悔してももう人生をやり直すことができないのである。
そして金持ちにっても何か虚しいなとなっていることもある
自分が求めたのは結局金だった,でも金だけでは意味ある人生を送れなかったとかなる
ただ金にふりまわされで生きてきただけだとか後悔する
老人になるとこうしてみんな哲学的になるのである
今の時代は高度成長も終わり経済は成長しなくなった,成長を求めてももう無理である
そういう時代ももどってこない,今は宗教とか哲学とか芸術とか他でも何か意味をあるものを求める考える時代なのである。
そして価値観とかも変わってしまったのである。がつがつと欲望を充たすために働いた時代は終わった,一人一人が意味ある生を求めているのである。
老人の貧困が問題になるが老人は欲望が一般的には減退する,あまり消費しない
自分も電動自転車のマウテンバイクを欲しいと思った,それは30万以上する
でもそれに乗るエネルギーがなくなったのである。
節々が痛くなるとか疲れるとかなる,新しい道具でも何か電器製品でも使いこなせないことがある,パソコンでもそうである。
それを教えてもらいたいが量販店では物を売るだけしかしないのである。
そういうことでも需要に答えていないのである。
高齢化社会というのも時代的に違った価値観になる
つまりまだ高度成長時代の延長のような価値観が尾をひいている
その価値観を高度成長も終わり高齢化社会になり変わっているのである。
だからそれに適合した社会にも経済にも働き方にもなる必要がある
とにかくこうして延々と自分一人で書いているのも書きながら考えるのにいいからであるここに対話がないのだけど思索を深めているのである。
要するに人間はいくら他者がいていろいろ言っても結論は自分で出すほかないのである。投資でもなんでも結論をだして選択するのは自分しかないのである。
それを誰かの言う通りにしていたら自主性と独立はなくなるからだ
それでカルト教団とかに入り奴隷にされたりいろいろ洗脳されて投資させられたり
原発を造らされたりして甚大な被害を受けるからだ
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