2018年02月25日

自己責任とは何なのか? (原発事故や株,投資信託の自己責任)


自己責任とは何なのか?

(原発事故や株,投資信託の自己責任)


自己責任とは何なのだろうとなる,民主主義社会は自己責任社会である。職業でも選べるし住む場所も選べるし自由である。
ただ自己責任というのを今は必ず問われる社会である。
その自己責任が問われる前提というものもある
民主主義社会だと情報が開示されているとか十分に事前に納得してもらうとかある
原発事故でも自己責任が問われた,事故を起こしたけど原発を積極的に誘致したのだから誘致した村でも町でも県でも責任があり自業自得だとなる
そのために十分な金を支払われていたのだからそんなに補償金を要求するな
それは税金だから国民に要求するなという批判があった

でも自己責任というとき自己責任をもちうるものが情報が開示されていて責任がもちえたまず政府とか官僚とか東電やマスコミでも「安全神話」を作ったのだから何か原発に対して危険を感じても質問すらできない状態だったのである。
「お前ら原子力のことなどわかるのか,専門家に政府にまかせておけばいいんだからひっこんでいろ」
「お前らには十分な金をやる,飴をやるから黙っていろ」
とかなっていたのである。そして地元では原発が危ないというだけで地元にいずらくなっていた,なぜなら三分の一も原発にかかわって生活しているとなるとそうなる
事故が起きて今度はお前たちの自己責任だというときその自己責任になる条件が欠けていたのである。
つまり民主主義社会が自己責任だというときそのためには情報開示が必要であり何かそれを充たすものが必要なのである。
「安全神話」になればもう何も言わせない状態を政府と一体になり作り出されていたのである。
だからどこまで自己責任なのかそれが良くわからないのである。

民主主義社会ではあらゆる所に自己責任が問われているのである。
交通事故でも必ず自己責任が問われる,ルールに違反していた信号を無視してわたっていたとか落ち度があったら責任が厳しく問われるのである。
何か知らなかったとかでは通らなくなる
何でも知らなかったでは通らないのであり知らないということが自己責任にされるのである。
でも人間はあらゆることに通じることはできない,一部しか知らないのである。
でも自己責任にされるのが民主主義社会なのである。
何かそうなると万能性すら要求されているのである。そんなに知識がある人などいないのである。

今回の株や投資信託の問題でもそうだった、損したのは別に銀行のせいでも証券会社のせいでもない,知らなかったお前が悪いのだとなる,お前の自己責任だとなってしまう
ただ自己責任というのは何かわからない,完全に自己責任というのはないようにも思う
株でも一番ふりかえり失敗したのは株があがってきているのに売って投資信託に金をつぎこんだことである。
それは銀行員がそうしたのである。その時強引にそうした
ただ自分は銀行員でもその人がプロであり知っているからそうしているものとしてまかせたのである。
でも損したら全面的に自己責任になる,証券会社も銀行員も悪くはない,知らないお前が悪い,まかせたお前が悪いとなる,でも何かこれも納得いかないのである。

ただ今反省すると株とかでも実際は自分の判断ですべきものであった,それをまかせたことが失敗だった,なぜなら自分の判断でしていたなら損してもあきらめがつく
それをプロだと思いまかせたから失敗したのである。
まかせたということは銀行員にも責任が生じていたのである。
でも銀行ではその責任は一切とらない,顧客が損しても銀行や証券会社は絶対に損しない仕組みになっている,つまり銀行や証券会社は手数料は確実に入り損はしないのである。自己責任を言う前に確実に人間は失敗の責任をとらされるのである。
原発事故でもそうである。そこに住んでいた人達は故郷に住めなくなる責任を負わされたからである。

株でも金持ちならヘッジファンドとかに投資して損しない方法がある
またプライベートファンドとかに頼む,そういう人達が本当のプロだったのである。
その人たちはもうかったらそのもうかった分から報酬をもらうのである。
もうからなかったらやめさせられたり一文の金にもならないのである。
だから真剣にもうかるように努力するのである。
投資信託などとはまるで違ったものとなっていたのである。
その人たちは責任をとらされるから真剣になっているのである。
投資信託はそんなことはないい,ただ金を集めて適当にやっているだけである
別に損はしないからである。責任をとることもない,責任をとらされるのは顧客だけである。
ただそうはいってもやはり銀行などはもともと信用があって成り立っていたからその信用を失うこともありもう地道な前のような活動ができない,信用されなくなるからである。「なんでこんなもうからない投資信託を売りつけたんだ,もう信用しない」
こうなるからやはり何らか責任が問われるのではないか?
原発事故では責任を問われたから国では莫大な補償金を支払ったのである。
それだけの理由があったためである。

自己責任というとき例えば何か人を仕事でも紹介するときでも紹介した人が責任を言われる,お前の紹介した人は何なのだ,仕事ができないとか言われる
その人は何か仕事についてルーズであり紹介した大工も何か支払いについてルーズだったのである。責任というとき親戚とかなると意外と連帯責任のようにされる
事業に失敗したらそのことと関係ないと思っていたが自分が苦しいとき借金を迫ってきた関係ないと思っても事業失敗の責任が回ってくるのである。
他人がしたことで関係ないと思っても責任が回ってくる場合もある
親戚関係になるとそういうことが逃れられないようになるから怖いのである

ともかく自己責任といっても全部が自己責任にはなりえない,そうなことを言っていたら人間は万能人間になるほか生きていけない,万能人間なら責任をとれるからである。
それは神にもなってしまう。
社会自体が連帯責任で成り立っている,保険などはそうである。
あらゆる責任をとれないから保険でみんなで責任をとりあっている
交通事故が起きたからと何千万円の金など払えないからである。
みんなで責任を負うことで自己責任を軽くしているのである。

だから自己責任を言いすぎるのが現代だと思う
自己責任は確実にある,病気でも不摂生で病気になったのだからお前の責任だといわれてもしょうがないことはある
病気でも自己責任が問われる,何か知らないで失敗すればお前は勉強しないから自己責任だとなる,株でもそうである。
でもすべて自己責任など負いようがないのである。
人間はあらゆることについてしりえようがないからだ
放射能のことを株のことを簡単にわかるかといえばわかりえようがないからだ
法律のことがわかるか?それも複雑だからわかりえよがない
そうして複雑な社会でわからないことが多すぎる,それで自己責任を問われるとなると
こういう世界に生きていけるのは万能の超人,神のようになってしまう

原発事故だと国民にも責任があった,原発を造ることを許したのは国民だからである。
選挙で自民党を勝たせて原発を造らせたともなる
戦争でも同じでありあらゆる人か責任になる,戦争を望んだのは国民にも責任があるとされる
だから自己責任でなんでもかたづけるのは疑問なのである。
株や投資信託でも銀行がすすめれば全部ではないにしろ責任が生まれる
わざわざ銀行まで行って投資信託をしますなどと言う人はまれだからである。
銀行員が一軒一軒回って話してすすめるから買うとなる
だからそこまですすめる方にも責任が生じる
銀行員にもすべての責任があるわけではない,ノルマを課してすすめさせる銀行とか会社が責任があるのも確かだからである。
全部を個人に自己責任としておしつけるのは疑問になる
ただ自己責任もいろいろあり海外で危険な目にあい死んだ人は自己責任だとされる
そこに国民の同情はない,勝手に警告している危険な場所に入り死んだから自己責任だとしてかたづけられていた,そこは政府でもそもそも戦場なのだからそんなところで死んでも自己責任であり人質になっても助けない,金は払わないとなったのである。
自己責任もケースバイケースだからちがってくるからいちがいに数式のように判定できないのである。
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posted by 老鶯 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

時代の変革期には痛みがあり犠牲がある (明治維新に太平洋戦争でもそうだった)


時代の変革期には痛みがあり犠牲がある

(明治維新に太平洋戦争でもそうだった)


時代を歴史をみると戦国時代でもそこで生きていた人は必死である。
今は娯楽として戦争を見ているのだ,そこでは生きる死ぬかのなかで生きていた
例えば戦争があっても名もない人達が無数に死んでいる
戦国時代だと信長とか秀吉とか家康とかが常に話題になるがその他の雑兵はその他大勢になる,その時農民でも商人でも職人も生きていたのである。
そこで悲惨な状態で生きていても話題にならないのである。
でも戦国時代は華やかな時代にも見えるのである。
それはただそうしたその当時生きて苦しんでいたことは時代が変わればなくなるからである。

人間の一生でも苦しんだことがあっても過ぎ去ると笑い話にすらなるのとにている
ただ自ら痛みを負った人はそうした苦しんだことはなかなか忘れられないのである。
人間は何か痛みを負うとそれが忘れられないものとなる
痛みを負うことによって他者のこともわかることがある
だから障害者を子供にもった人が苦しみを言うが障害者をもって実際に苦しんでみないと痛みを負わないとわからないのである。

ただこうして人間の歴史をみると戦国時代でも別にそこに生きて苦しむわけではないから娯楽として今では見る,戦国絵巻だとかなる,かえって戦国時代は安土桃山時代で華やか時代だったとみる
でも庶民などはそうした華やかさとは何のかかわりもなかったのである。
要するに一時代が終わるとそれは過去になり何か娯楽化して回想する
そこで塗炭の苦しみを受けた人のことなどを見ないのである。
別に自分が苦しむわけでもないし痛みを負うこともないから娯楽にもなる

時代の変革期には必ず痛みがあり犠牲がある
明治維新でもこれも同じようにその時の英雄がドラマとなる,西郷ドンとかなる
でも無名の内に死んだ志士も多いし会津のように犠牲にされた人達も多い
時代の変革期には必ず痛みと犠牲がある,武士が職を失ったことは余りにも大きな変化だから武士でありたいと西南戦争が起きたことも理解できる
時代が変わると産業も変わるから失業する,新しい職に就くのは容易ではないからだ
それで大井川の渡しを職にしていた人達が鉄道で職を失った
その人たちは茶を作りはじめて名物になったとかある
川越人足の仕事が幕府でできなかったのは川越して金を得ているものが1000人とか多いためにその人たちの既得権をとりあげることができなかった
その人たちが職を失うことはそれだけ大問題になるからである。
橋もかけられたし船で渡せばいいとなるしそれも技術的にもできるとしたらそうなる
そういうことは江戸時代には何か多いのである。
である。でも既得権となって守られていたとなる

そのことで気鋭の学者がAI化するために既得権者がいてできない
その既得権者を退場させないとAI化はできないと訴えていた
日本でIT技術が遅れた,20年間で進歩がなかったのは既得権者がいてだめになったという何か新しいもので社会化できない,反対がありすすめられなかったと言っていた
江戸時代はそういうふうに保守的であり外圧もないから技術革新もできなかった
必ずしも時代が変わったからマイナスにならない,プラスに転じることもある
それでもそこに痛みがあり犠牲になる人がかならずいる
歴史となりふりかえるとそういう痛みや犠牲より時代が変わり新しいものが生まれることで全体的には良いものとして見ているのである。
戦国時代でも安土桃山時代とか明治時代でも新時代として華やかなものとして見ている
ただ太平洋戦争は焼け野原になったから華やかなものとしては見ない
でもなぜ破壊しつくされた国土,焼け野原から復興したのか?

これもふりかえると不思議である。戦国時代よりも明治維新の時より徹底的に日本は壊滅的状態になったのである。
そこから復興して高度成長時代になった,これも全体的に見てふりかえればそこで痛みがあり犠牲があった,300百万人が戦死した犠牲がありその後に復興があったがそこでも痛みと犠牲があった,引揚者が働く場がなく土地の悪い場所に開墾に入ったからである。
戦後十年は日本人はみんな一様に貧乏だったのである。
焼け野原になったときそこでは食べるものもなかったから苦しかった
そういう時代を経て今日の繁栄があった

そして今は変革期になっている,津浪とか原発事故も大きな変革をうながすものだった
街ごと消失したのだからそうなる,その後に前とは全く違う街を作ることになったからである。天変地異でもそういうことが起こる
何かそうした大きな変革期になり痛みがあり犠牲にされる人たちもある
では一体明治維新から70年後で太平洋戦争があり敗戦があり79年過ぎて何が起こるのか?
それは大きな変革である。銀行がなくなるとかいうのもそうである。
そこで痛みがあり犠牲がある
でもそこで大きな変革をしないと時代に世界に遅れるのである。
そこで破壊が起きないと次の時代は来ないのである。
規制のものや旧弊なものの破壊である,その破壊があって新しい時代が来ているからである。
現代とはそういう変革期にあることを自覚すべきである。

グローバル資本主義も金融資本主義であり格差社会を世界的に生んだ,だからこれも機能しなくなるからもしれない,銀行がなくなるとかいうのもそうである
ではその後に何が来るのか?
それは未だわからないにして大きな変革期にさしかかっている
イギリスのEU離脱でもそうだしトランプ大統領が出てきたのもそうである。
ナショナリズム,国内経済にもどるというとき日本もそうなる
グローバル経済はもう限界なのである。むしろブロック経済になりそこで複雑ではなく血の通った人間的経済にもどる
中世にもどるというときもそうかもしれない,道州制というのもそうである。
なぜなら東京一極集中は明治維新からの政策でそうなっていたからである。
何か大きな変革が世界で社会で要求されているのである。
ただその変革期には大きな痛みがあり犠牲がともなうのである。
でもその痛みがあり犠牲がないと新しい時代は開けないのである。
それは歴史をふりかえればわかるのである。
posted by 老鶯 at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題