2018年02月16日

グローバリゼーションの行き詰まりはなぜ? (国家を越える共同体を作ることができないから)


グローバリゼーションの行き詰まりはなぜ?

(国家を越える共同体を作ることができないから)


人間の歴史は何か?道具を使う人間,ホモファーベルとか言葉をもつ人間とかいろいろ見方がある
重要なことは見方として人間の歴史と共同をめざす歴史だったとういことである

共同するために歴史は変化して作られてきた

言葉でも英語だったらcoがつく言葉が多い,それは共同という意味なのである。
日本語だとあうというのが語尾につく,・・・・しあうというのは合わせるという意味であり合わせるということは共同して生活することなのである。
人間の歴史は共同するための歴史だったとなる

まず家族がありそこに共同の基があり発展する,強力な有力な家族が国家の基礎にもなる家族は今でも変わらない人間の共同体としてある
ところが共同するにしても人間の社会は常にその共同体を破壊することで社会が変化した進歩したとなる
進歩というとき技術の進歩に着目するがそれとともなって共同体が変化することなのである。
共同体は常に家族が基礎にあってもより大きな共同体へと拡大して変わる
その大きな共同体を作る時,これまであった共同体が破壊される
だから歴史をふりかえれど共同体の破壊が歴史だったとなる

共同体を破壊して新しい共同体を作ることが歴史の進歩だった

歴史が変わるとき必ずもともとあった共同体が破壊されるからである。
家族があり村があり村には群れるという意味であり狭い範囲の共同体である。
それが国(くに)となるとクニは区切るからきていて境界をもうける
そしてそこが国となる,ただその国にしても今の国家とは違い規模が小さいのである。

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね 

国はそれなりに広い範囲だが何かそれでも自然の中に区切られた一地域なのである。
オクニはどこですかというとき今は県になるが前は藩だった,会津藩とか仙台藩とか相馬藩とかなる,そこが国だったのである。

国が大きくなるとき必ずこれまであった共同体が破壊される,大和王権になるとき蝦夷制服があり蝦夷という大和王権に反抗する共同体は破壊される
蝦夷共和国などと榎本たけようが函館の五稜郭で宣言したのはそこに新しい共同体を作ろうとしたためである。
蝦夷というときそこに一つのまとまった国は国家はなくても蝦夷と言われる共同体が存在したともなる,それはアメリカだったらインディアンが原住民がいてそこに共同体があった,でも異民族の侵入でその共同体は破壊された
蝦夷民族もそうした原住民もいたしその他大和王権に所属したくない人達がいたのであるでも大きな共同体,国家を形成するときそうした共同体は破壊される

これは常に人間社会であったことなのである。
わかりやすいのは江戸時代から明治になるとき侍という階級がなくなったことである。
侍というのは当時の支配階級であり共同体である。そこに侍の文化が歴史の中で作られてきたのである。
江戸時代は身分社会であり固定した社会だから金だけが通用するような社会ではない
身分として人は生きていたのであり金があってもそれが力を持ち得ないのである。
そして侍階級が明治維新で破壊されたとき日本は古代の天皇の臣民になった
天皇によって日本を再統一したのである。
その時ヨーロッパで起きた市民革命とかはない,貴族階級を庶民が倒すということはなかった,侍同士の戦いで侍階級をなくした戦いだった
それはヨーロッパから見ればありえない革命だったともなる

侍階級がなくなったとき日本の共同体は国民共同体に変貌した,でも国民という意識がないからそれは作られ必要があった
西南戦争で政府軍が国民軍を編成して侍の集団に勝ったことにより国民の意識をもったのである。政府軍はもう侍も混じっていたが平民主体となりそれは国民軍だったのである。国民という共同体がそこに生まれたのである。
国民というのもはもともとあったものではない,確かに日本人というのは存在した
日本語を話す人々は存在して日本民族は存在した
でも民族と国家は国民は違っていたのである。国民は歴史の中で新たに作られたものだったのである。
それは世界的に国民が形成されて今度は国民同士が戦いになったのが第二次世界大戦だったのである。

そして日本が目指したのは大東亜共栄圏である,それはやはり日本だけではない大きな共同体を目指すものだったのてある。そのためにもともとあった共同体を戦争で破壊するのである。
でもそれは挫折した,国家とは何かというときそれは歴史的に作られてきたのもであり必ずしも同じ民族ということではない,外国で民族が入り交じるからである。
国家と民族は違っているのである。
人間はより大きな共同体を目指すために歴史がある,そこでは戦争もある
戦争だけではない商業とか貿易はより大きな共同体を目指すものとしてあった
だからハンザ同盟とかは貿易のために商人が作った国家なのである。
それは今まである封建国家と対立する存在ともなる

戦前は強固に国家共同体があった,戦後は日本はアメリカに負けてその強固な国家共同体が破壊された,そして新たな共同体になったのが会社であり企業である。
企業戦士というのでもわかる,国家に忠誠を誓っていたのが会社に忠誠を誓い猛烈な企業戦士となり高度成長時代を築いたのである。
その時国家共同体は希薄化していた,何かいくらナショナリズムを煽ってももう一つ戦前のようにならないのは共同体が歴史的に変わってしまったからである。
ただ民族とか国家は共同体として根強く残る
なぜなら中国であれロシアであれアメリカであれヨーロッパの諸国であれ国家は残っているからだ,その間でまだ戦いがある

でもそうした国家とか民族を越えた共同体を目指したのがグローバル経済である
地域とか国とか人種とか関係なくグローバルに人も物も行き来する社会である。
それもまた国家を越えた共同を目指すものだったのである。
その時国家とか民族の共同体が破壊されるのである。
でも結果的には国家とか民族は強力であり反発がヨーロッパでもアメリカでも起きたのである。
グローバリゼーションというのは世界的人類的共同体を目指すものだったのである。
civilizationは文明でありその基は技術ではなくcivil(市民)なのである。
その市民は城壁に囲まれた市壁に囲まれた中での市民のことである。
でも文明とはより大きな共同を目指すものでありその基に市民があった
それはヨーロッパの歴史から生まれたのである

歴史でもエジプト文明とかマヤ文明とかローマ帝国とかあればそれは大きな共同体を形成した文明だとなる。
その大きな文明を共同体を形成するものとして共産主義がありマルキシズムの思想を基にして生まれた,これも資本主義とは違うようでグローバリゼーションとは違うようでも同じだった、なぜなら人種とか国家を越えて共同を目指したからである。
世界のプロレタリアートよ団結せよというときそうである。
それは民族とか人種とか国家を越えたものとして思想が普及して実現したものなのである
ただこうしたグローバリゼーションがゆきづまっているのはなぜか?
そこに共同しえないものとしての壁がありそれでかえってイギリスで反抗してアメリカですら反抗してナショナリズム的傾向になったのである。
経済だけで国は形成できない,国は歴史的に形成されたものでありそれを無視してもできない,国家を越えて民族を越えた共同体の理想は挫折する
グローバリゼーションとか多国籍企業は国家とか民族がない経済中心の共同を目指しているのである。
そしてそのグローバリゼーションは金だけに支配される世界となる
そこでユダヤ人は金融で支配しているとか陰謀論にもなる
ユダヤ人は国を土地をもちえなかったから金融が発達したとなる

グローバリゼーションが失敗したのは人間は経済だけで金だけで共同できない
何かそこには経済だけではないもの,共同するものが必要なのである。
それが宗教であったり民族の文化であったり歴史であったりする
そういうものを破壊して成り立つ経済だけのグローバル経済社会は人間社会にとって不可能だったとなる
それを理想としてありえない,異常な世界とも化していたのである。
世界の富がわずかの人に集中して格差社会が生まれたのもそうである。
共同を目指すならそんな極端な世界はありえないからである。
グローバリゼーションは共同することに失敗したのである。
それは経済だけを中心にしてグローバルを目指したからである。
資本主義のゆきづまりも同じように経済の論理だけでは世界は共同を目指すことができないということである。
共産主義でもその思想は経済だけの論理であり人間が生きるのは経済だけではない
様々な要素があり文化かあり歴史があり生きてきたからそれを無視することはゆきづまるのである。その文化とか歴史は人間的なものであり金だけが非情に支配する社会とは違うのである

身近なことでは例えば地銀が消滅するというとき今地銀には証券会社が入ってきている
証券会社がしていることはグローバリゼーションの経済である。
世界的に金が流通する株式の世界である。でも地銀はもともと地域に根ざし金融だったのである。それがグローバル化すると金が世界を流通するのである。
それで投資信託をして何か違和感を自分は感じたのである。
それは地域に住むものとは関係ない所で金が動いている,もうそこは人間的感覚からはずれた世界になる,経済でもそういうふうにグローバル化するともう人間の感覚から隔絶した所で動き何かその実体もつかめないものとなる
ただグローバル化とはそうした地域的なものを破壊するのである。
多国籍企業が一つの国家のように巨大になると国家でも地域でも破壊される
でも多国籍企業に所属して共同体を形成できるのかとなるとできない
なぜなら多国籍企業とは何か一部を作り生産して売るものである。
車であり薬でもそうだがそれは社会の一部であり全体ではないのである。
国とか民族とかはそうした一部を部品を作るものではなく全体のことだからである。
それは風土と一体化して作られてきたのもである。
そこに国があり故郷があるとなるからだ
そういうものを越えて一企業に所属して人は共同できないしそうあるのが人間としてあるべき姿なのである。

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

会津嶺でもそうだが山が国の象徴としてあるのは日本的だとなる、山に固まれた国が日本には多いからである。
そこは経済的要素だけではない,美しい自然がありそこに囲まれた国がまほろばであり故郷なのである。
だから東京が首都でもそこにはまほろば,国はないのである。
ただ経済的な膨張した都市でありそこにあるのはやはり経済的なものだけになり殺伐としたものになる,そこに文化もないし文化も起こらないのである。

グローバリゼーションの資本主義も共産主義もゆきづまり失敗した
それは当然だったのである。文化とか歴史とか自然をとかを無視して来たのだからそこに共同はありえないのである。共同は経済だけでは成り立たないのである。
世界的共同を無視するというのではない,経済だけが金だけが唯一の価値となり世界を支配する,それはドルが支配することでありアメリカが支配することに通じている
ただ人間の歴史は共同を目指す歴史でありそのことはやはり以前として追及されるが経済的なものだけを追及しても挫折するのである。
それは資本主義でも共産主義でも同じでありゆきづまるのである。


故郷意識国意識とは何なのか? (南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)

ここで考察したように市町村合併でうまくいかないときより大きな共同体として結合したが原発の補償金問題などで分裂したのである。
金というのは人間を分裂させる,原発避難民が金があるからいわき市などに家を次々に建てた,それも数が多いからもともといた住民は迷惑になった
なんであいつらが家を建てられるのだ,こっちは元から住んでいるのに家も建てられないのにとか不満になった,金が万能の社会はそうしてその土地の歴史でも文化でも破壊する消費者が王様だというのもそうである。
そういう金だけに支配された現代のグローバル経済の歪みがあちこに出てきている
人間は共同を目指して歴史的に進歩してきたというとき金だけの経済はゆきずまりグローバリゼーションもゆきづまる
金は何か暴力的でありそれだけに価値を置くと社会でも世界でもゆがめるのである。
金はあくまでも流通の交換の手段であったがそれが人を何か暴力的に支配するとなる
その矛盾が格差社会となり人々のモラルも崩壊してゆく
それは世界的なことでありグローバリゼーションの実験は挫折したともなる



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故郷意識国意識とは何なのか? (南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)


故郷意識国意識とは何なのか?

(南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)

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冬の樹の真澄の空に今日も立つ故郷に根付き支え立つかも


故郷意識とか国意識とかはそもそもどこから作られてきたのか?
それは自然に生まれたのではない,歴史の中で積み重ねられて作られてきた
相馬藩だったら戦国時代から相馬氏が支配するようになって作られてきた
それは支配者から上からおしつけられて藩民の意識が醸成されてきた
政治行政的なものとして作られてきた
国家でもそうである。政治権力とか行政として上から支配者によって作られてきた
最初の大和王権でもそうである。それは武力により蝦夷を征伐して作られてきたものである。
でも何か故郷というときそれは何なのか?
それはそうした上からおしつけられるものとは違うもともとその土地に住んで醸成されたものである。

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね 

このクニはそういう政治権力とも行政単位としての国ではない
会津という国に住んで民の中から生まれ作られてきたものである。

古代でも郡とか置かれたときはそれは上からの行政の区割りであり故郷という感覚ではないし国(クニ)という感覚でもない、オクニはどこですかというときそのクニは必ずしも行政的区割りではない,村というのは緊密な共同体であり行政的な区割りとは違うのである
一番わかりやすいのが家の共同体である。だから故郷というとき家の共同体から発しているのかもしれない,故郷の故は故ある地というとき血縁の地ということもある
でも日本では血縁よりその土地に重きをおいて生活してきた
だから日本人の姓は必ず土地に由来しているのである。
必ず姓をたどると村の土地の名に由来しているのである。
つまりその土地に土着してその土地の地名を姓にしている
外国では血縁をたどるのであり土地の名を姓にするのではないからだ
そこに村の共同体があり日本人のアイディンティティがあるとなる
血縁より地縁の方が大事だったとなる

故郷意識は明かにその土地に根付き家をもち生活をはじめたとき起きてくる
そこに父母がいて祖父母がいてと家族がいて故郷意識をもつ
だからヨーロッパでハプスブルク家が発展して大きな帝国に発展したことでもわかる
家が国の基となっていたのである。
有力な家が権力をもち国を作る,それが国家となる,だから家が強固な共同体でありそれが大きな国の共同体となる,そういうことは人間の歴史にあっても不思議ではないのである。

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

自分の家も姉の同級生の橲原(じさばら)の人に木材を切ってもらい柱にした
その柱のことを良く自慢していたからわかる
その土地のもので作りその土地の大工が作りそこに住むことで家意識が生まれ故郷意識が生まれる,その土地に家をもつことは土着することになる
木のように根付くことになるからだ

共同体とはそうして作られてきたものなのである。
civilzationとはcivilとは市民のことだからである。文明は市民によって作られてきたということはどういうことなのか?
それはヨーロッパでは塀に囲まれた中に外敵から守る市民共同体を形成していたからである。そういう歴史があったということである。
イタリアでフィレンツでも他の都市でも国家と同じであり戦争もしている
日本だと藩同士が戦争しているがヨーロッパでは市同士が互いに敵となり戦争していたのである。そこでマキャベリの思想が生まれた
その辺の歴史がわかりにくいから日本では市民というのを理解できないのである。

共同意識が歴史的に作られてきたというとき日本には日本国民という意識がなかった
それぞれの藩の中で暮らしていて藩の意識があっても日本国民の意識がなかった
その国民意識が作られたのは明治維新後のことである。
それは西南戦争によって国民意識が作られたのである。
武士階級と侍でない一平民が一致して政府軍となり戦ったことにより国民軍となり国民意識が生まれた,国民意識はそれから対外的に戦争によって強固なものになった
日清日露戦争に勝ったことにより国民意識がさらに強固になり太平洋戦争で国民が三〇〇百万人が国のために犠牲となり死んだのである。
その国民意識は日本だけではないフランスでもドイツでもヨーロッパでもなかったのである。ナポレオンが出てきてフランス国民意識が生まれた
国民というものも実際はもともとなく歴史的に作られたものなのである。

日本は戦争で負けてそうして日本という国民意識も失われた
そして今度は高度成長時代になり企業戦士とかなり会社共同体意識になった
会社が最も重要なものとなった,会社に生涯所属すれば自ずとそうなる
その会社の共同体意識も今度は社会が変わり会社が倒産するとかなくなるとかなると
共同意識もなくなる,銀行なども地方では安定した職業でありエリートだったが今は消えるという危機にまでなっていた
そうなると会社に所属してもそこで共同意識はなくなる
これまた時代の変化であり共同意識もそこで変わってくるのである。

ただなぜ原発避難地域では放射能の問題があっても簡単に故郷が捨てられたのか?
それはやはり故郷でも村とかの強固な共同体意識はすでに失われていた
田舎でも専業農家は一割くらいである。あとはみんな会社員なのである。
すると村としての共同意識は希薄化するのである。
そうしてグローバル経済とかなると金だけが唯一の頼りとなり力となる
金さえあればどこにでも住めるというのもそうである。
そうなれば補償金をもらってどこでも移り住めばいいとなったのである。
金というのは金があまりにも力ももつとそうなるのである。
その土地に執着しないからである。
また商業工業化した世界は農業のように土地に執着する必要もないからである。
それで簡単に原発事故で避難して帰らなくなったということもある
放射能だけで故郷は捨てられたのかというと疑問だからである。

共同体意識というとき南相馬市が小高と原町と鹿島で合併したが今回の原発事故で合併しても補償金で分裂してしまったのである。
小高が特別優遇されたことはわかるがそれでも鹿島での不満は大きかったのである。
小高で逆に鹿島の奴らは何なのだ,人の苦しみもわからないのかと不満が大きくなった
そして外部から来たボランティアの方がいいとなったのである。
でも小高の人達は原発避難民は毎日パチンコやギャンブル三昧だったのである。
だからその人たちがなぜ一方的にかわいそうだったのかともなり自分も不満だったのである。
行政的に合併してもいろいろな過程をへて市も形成される
それはヨーロッパの市を見ればそうなっている
だから行政的に合併しても市としての共同体が作られるのには時間がかかるとなる
その時間の中でいろいろなことがあり共同体が形成される
そういうことは一朝一夕にはできないことなのである。
つまり行政的なものと実質そこで暮らす人の乖離がある,実質的共同体はいろいろな困難を乗り越えて作られる,歴史はそうして作られてきたのである
今この辺は南相馬市は原発事故で危機的状態に陥った,それを乗り越えて修復して一体化できるのか?それが問われているのである。






posted by 老鶯 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連