映画館時代からテレビのマスコミ時代から
インターネットのユーチューブの時代へ
この映画は、長編大作映画で前編と後編があり、前編が終わると照明がつき、休憩がはいる。 しかし何分たっても後編が上映されない。場内は次第にざわめき始め、野次が飛び交う。 延々と待たされること1時間以上経過しただろうか、観客が暴動寸前になってやっとフィルムが到着し、 何とか上映することができて事無きを得た。
当時「カケモチ」といって、同じフィルムを隣町の映画館と持ち回りで使う方式がよくとられ、 劇場から他の劇場へフィルムをバイクで運ぶ のが常だった。
駅前の映画館は子供のとき入った,ただ映画館のことを良く記憶していない,映画館は何か大人が入る雰囲気で子供には入りにくい場所だった
ニュースを映画館で写していた,その時ニュースは新聞が中心だった
動画で見るのはめずらしいし貴重だった
第一フィルムは汽車で運ばれてきたのだからニュースでも遅れるのである。
映画館ではニュースを見るのはおまけであり映画のドラマを見るために入った
でも何か封切りとかフィルムを回している二階の映写室のことが記憶に残っている
そのフィルムを回す人は当時専門の技術者だったのである。
そのフィルムもコピーできないのでバイクで他の映画館に運んでいた
だから映画を見ることはそれだけ手間がかかっていたのである。
メデアの歴史を考えると映画や映画館があった
ただこれは意外と早く終わってしまったのである。
次にテレビ時代でありこれは最初テレビが入った時はテレビがある理髪店とかに集まって見ていた,テレビ時代は長かったなと思う,50年以上つづいたから長い
それだけテレビの影響が大きかった,テレビ番組の内容ではなくテレビに映れば何でもいいという時代でもあった,娯楽の王様にもなった
それでマスコミの影響が大きなものとなった,そこには弊害も生まれた
マスコミによって情報が操作される時代になった
そしてこの50年もつづいたテレビの時代が終わりを告げようとしている
インターネット時代になったらみんなお茶の間でテレビを見ているのとは違う。
個別化して多様な放送を見る,それがユーチューブである。
そこには一般の人でもテレビ放送している,それが意外と面白いのである。
いろいろな電器製品を紹介して使い方も教えている
一人一人が情報源になり放送しているのである。
テレビは何百万の人を対象にしたマスメデアであるがユーチューブは個々のメデアであるつまりメデアが変わるとその放送するもの自体が変わる
テレビ時代は何百万を対象としたマスメデアである。
それで宣伝効果も大きかった,インターネット時代は個々のメデアである
それでも一万でも視聴者があればそれなりに影響する
ユーチューブを見てわかったことは何回も見ているとそれが知らずに頭に記憶される
一回だけ見ていると忘れるが何回も見ていると記憶される
そういう効果があり学習するにはいい,何かインターネットは報道というのではなく学習機能がある,テレビには教育テレビがNHKにあるがそれがインターネットのユーチューブに変わる,何かを学習するのに向いているのである。
テレビとか受け身のものであり一般人が情報を発信はできなかった,それがインターネットだとできる,テレビ放送すらできる,すると情報は無数に増えてくる,多様化してくる例えば週刊誌とか雑誌でも今はdマガジンで一カ月400円でほとんど電子化して読める
するともう一冊の雑誌を全部は読まない,自分の関心のあるものしか読まないのである。それはインターネット的情報の摂取方法なのである。
そうして個別化して情報を摂取すると全国民で関心をもつべきものに関心が集まらないということもある
自分の関心のあるものしか読まない見ないからである。
だから全国民が関心をもつべきものを知らないとまでなる
ただ相撲で貴乃花理事長とかに関心が集まりそれだけを放送するマスコミ,テレビにも問題がある。
それがそんなに日本の社会にとって重要なことなのか?マスコミの問題はテレビの問題は何百万のマスを対象にするからかえって芸能ニュースとかが中心になり芸能人の漫談を見せられることになる,そこにインターネットのように学習機能がないのである。
インターネットのいい点は学習機能があることなのだ
学習するには何回も読んだり見ることが不可欠である,一回だけでは頭に入らないからである。そのニュースの意味も理解せずに終わる,ただ毎日何が起きたとかあってもそれがどういう意味をもつのか考えることができないからである。
学習機能があるというとき本がそうなのだが本もありすぎると問題が起きる
前に買った本と同じ本をアマゾンで注文して買った
それはその本を読んだことをあったことも忘れていたのである。
これも馬鹿げたことだが人間が記憶できる容量が限られているからである。
例えば千冊本があったとしてもうそこで記憶されている本はどれくらいになるのか?
何回も関心をもって読んだものは覚えているかもしれないが忘れるのも多い
本の題名すら忘れている,そして自分は読もうとして買ったもののそれが積んどくになっている,ただ読まれずに積まれた本が実際は半分にもなるのだ
だから本の書名だけでもパソコンに記録して検索する,そこで思い出すことをする必要があると思った
本の題名すら覚えていないしましてその内容も覚えないないのが多いのである。
それは自分はプログでも膨大なもの書いても自分の書いたものすら忘れている
それで自分が前に書いたことを読んで感心しているということが起きているのである
つまり人間は本当にあらゆることで忘れやすいのである。
旅行しても10年もたつとそこにいたのかどうかすら定かでなくなる
だから外国まで行ってもそのご10年以上すぎて津浪とか原発事故とか自分の病気とか介護で十年費やされてそのことに心も身も奪われて余計に忘れることになる
人間はとにかく今に追われるものだからである。
いづれにしろ自分のしていることは家事でも整理であり何をとっておくとかより捨てることを考えねばならない,それで断捨離が話題になりやすいのである。
読まない本をあるだけでもう邪魔になるからだ,でもなかなか捨てられない
するとどうするばいいのか,それを電子化すると検索しやすいとなる
それができるのだがめんどうなのでしていない,検索しやすいようにすることが情報を効果的に利用するには必要なのである。
だからインターネットの便利なのはその検索機能と学習機能が備わっていることなのである。
それが今までのメデアと違っていたのである。