2018年02月01日

映画館時代からテレビのマスコミ時代から インターネットのユーチューブの時代へ


映画館時代からテレビのマスコミ時代から

インターネットのユーチューブの時代へ


この映画は、長編大作映画で前編と後編があり、前編が終わると照明がつき、休憩がはいる。 しかし何分たっても後編が上映されない。場内は次第にざわめき始め、野次が飛び交う。 延々と待たされること1時間以上経過しただろうか、観客が暴動寸前になってやっとフィルムが到着し、 何とか上映することができて事無きを得た。
当時「カケモチ」といって、同じフィルムを隣町の映画館と持ち回りで使う方式がよくとられ、 劇場から他の劇場へフィルムをバイクで運ぶ のが常だった。

駅前の映画館は子供のとき入った,ただ映画館のことを良く記憶していない,映画館は何か大人が入る雰囲気で子供には入りにくい場所だった
ニュースを映画館で写していた,その時ニュースは新聞が中心だった
動画で見るのはめずらしいし貴重だった
第一フィルムは汽車で運ばれてきたのだからニュースでも遅れるのである。
映画館ではニュースを見るのはおまけであり映画のドラマを見るために入った
でも何か封切りとかフィルムを回している二階の映写室のことが記憶に残っている
そのフィルムを回す人は当時専門の技術者だったのである。
そのフィルムもコピーできないのでバイクで他の映画館に運んでいた
だから映画を見ることはそれだけ手間がかかっていたのである。
メデアの歴史を考えると映画や映画館があった
ただこれは意外と早く終わってしまったのである。

次にテレビ時代でありこれは最初テレビが入った時はテレビがある理髪店とかに集まって見ていた,テレビ時代は長かったなと思う,50年以上つづいたから長い
それだけテレビの影響が大きかった,テレビ番組の内容ではなくテレビに映れば何でもいいという時代でもあった,娯楽の王様にもなった
それでマスコミの影響が大きなものとなった,そこには弊害も生まれた
マスコミによって情報が操作される時代になった

そしてこの50年もつづいたテレビの時代が終わりを告げようとしている
インターネット時代になったらみんなお茶の間でテレビを見ているのとは違う。
個別化して多様な放送を見る,それがユーチューブである。
そこには一般の人でもテレビ放送している,それが意外と面白いのである。
いろいろな電器製品を紹介して使い方も教えている
一人一人が情報源になり放送しているのである。
テレビは何百万の人を対象にしたマスメデアであるがユーチューブは個々のメデアであるつまりメデアが変わるとその放送するもの自体が変わる
テレビ時代は何百万を対象としたマスメデアである。
それで宣伝効果も大きかった,インターネット時代は個々のメデアである
それでも一万でも視聴者があればそれなりに影響する
ユーチューブを見てわかったことは何回も見ているとそれが知らずに頭に記憶される
一回だけ見ていると忘れるが何回も見ていると記憶される
そういう効果があり学習するにはいい,何かインターネットは報道というのではなく学習機能がある,テレビには教育テレビがNHKにあるがそれがインターネットのユーチューブに変わる,何かを学習するのに向いているのである。

テレビとか受け身のものであり一般人が情報を発信はできなかった,それがインターネットだとできる,テレビ放送すらできる,すると情報は無数に増えてくる,多様化してくる例えば週刊誌とか雑誌でも今はdマガジンで一カ月400円でほとんど電子化して読める
するともう一冊の雑誌を全部は読まない,自分の関心のあるものしか読まないのである。それはインターネット的情報の摂取方法なのである。
そうして個別化して情報を摂取すると全国民で関心をもつべきものに関心が集まらないということもある
自分の関心のあるものしか読まない見ないからである。
だから全国民が関心をもつべきものを知らないとまでなる

ただ相撲で貴乃花理事長とかに関心が集まりそれだけを放送するマスコミ,テレビにも問題がある。
それがそんなに日本の社会にとって重要なことなのか?マスコミの問題はテレビの問題は何百万のマスを対象にするからかえって芸能ニュースとかが中心になり芸能人の漫談を見せられることになる,そこにインターネットのように学習機能がないのである。
インターネットのいい点は学習機能があることなのだ
学習するには何回も読んだり見ることが不可欠である,一回だけでは頭に入らないからである。そのニュースの意味も理解せずに終わる,ただ毎日何が起きたとかあってもそれがどういう意味をもつのか考えることができないからである。

学習機能があるというとき本がそうなのだが本もありすぎると問題が起きる
前に買った本と同じ本をアマゾンで注文して買った
それはその本を読んだことをあったことも忘れていたのである。
これも馬鹿げたことだが人間が記憶できる容量が限られているからである。
例えば千冊本があったとしてもうそこで記憶されている本はどれくらいになるのか?
何回も関心をもって読んだものは覚えているかもしれないが忘れるのも多い
本の題名すら忘れている,そして自分は読もうとして買ったもののそれが積んどくになっている,ただ読まれずに積まれた本が実際は半分にもなるのだ

だから本の書名だけでもパソコンに記録して検索する,そこで思い出すことをする必要があると思った
本の題名すら覚えていないしましてその内容も覚えないないのが多いのである。
それは自分はプログでも膨大なもの書いても自分の書いたものすら忘れている
それで自分が前に書いたことを読んで感心しているということが起きているのである
つまり人間は本当にあらゆることで忘れやすいのである。
旅行しても10年もたつとそこにいたのかどうかすら定かでなくなる
だから外国まで行ってもそのご10年以上すぎて津浪とか原発事故とか自分の病気とか介護で十年費やされてそのことに心も身も奪われて余計に忘れることになる
人間はとにかく今に追われるものだからである。

いづれにしろ自分のしていることは家事でも整理であり何をとっておくとかより捨てることを考えねばならない,それで断捨離が話題になりやすいのである。
読まない本をあるだけでもう邪魔になるからだ,でもなかなか捨てられない
するとどうするばいいのか,それを電子化すると検索しやすいとなる
それができるのだがめんどうなのでしていない,検索しやすいようにすることが情報を効果的に利用するには必要なのである。
だからインターネットの便利なのはその検索機能と学習機能が備わっていることなのである。
それが今までのメデアと違っていたのである。

a forest in space


a forest in space
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なぜコンピューターで大量の抽象画ができるのか?
それは一つのソフトから森なら森を川なら川ができるからである。
何も創作的なことはなく機械的操作してできるから大量にできる
数学的に変換しているのとにている
一つの箱を通すと無数の変化が生まれるからである。
そして基本的には何も手を加えないからである。
それで手間もかからないのである
ただどういうものがその箱から出てくるからは予想もできないのである。

Why can a myriad of abstract paintings on computers?
It is generated by infinitely varying through one piece of software
Since nothing is creative and can be done mechanically, it can be mass-produced
I am converting mathematically

And basically I do not do anything.
It does not take time and effort
And I can not predict what will be produce.

2018年02月02日

人手不足は深刻


人手不足は深刻


昨日駅で会ったのは沖縄の人だった,岩手県の陸前高田市のことを言っていたから岩手県の人かと思った,なまりがあるので変だなと思ったら沖縄の人だった
その人が言うには人が沖縄で募集しても集まらないという
70以上の老人とかが多いと言っていた,確か東京から80の人が来ていたから人手がたりないので老人でも集めていることがわかる
ベトナム人が来たのもそうである。

建設現場では人手がたりない,でも知っている非正規雇用の人は東京に職探しに行った
この人はいわきの建設会社に雇われているのだが6月まで仕事がないから東京に行った
これはなぜかわからない,近くで人手がたりないと言っているのにどういうわけなのか
前はここで除染の仕事もしていたからだ
ベトナム人もいたが時間にルーズで働かないという
それは実は沖縄人でもそう言われる,南国の人はルーズなのである。
のんびりしているのである。気候でそうなるのである。

沖縄の人は夏に風をひくという,それはバイ菌が飛んでくるからだという,確かに暑いと山原とかの森林がありバイ菌が生まれやすい,それで風をひくというのも南国なのか?
東南アジアとか暑い国では男は働かない,それでもやっていけるのはバナナなどは働かずにとれるからだともなる,食うには困らないからだとなる
日本人はそういう国からすると異常に働く,外国でもそんなに働かない
バカンスとかも長くとる,日本人はなぜこんなに働くのかそこに日本人特有の文化があるという,でも江戸時代は二時で仕事が終わりのんびりしていたというのは何故だろうとなる

無人駅だと仙台行きと原町行きのホームがわからない,初めての人はわからない,それで今度は改札口にその表示をするといいと原町の駅員に提案した
何か欠けているものがある,それはその駅で働いてみないとわからないのである。
ともかく無人駅では困ることがある,それをここで書いてきた
地元の人もそのことを言っていた,老人がふえて電車を利用する人が増えてくる
すると駅からの足が交通も必要になる,バスなども必要になってくる
そういう対策も必要である。

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うまい大福と相馬焼きのコーヒーカップを買う (経済とは何か?-本当の価値を追及すること)


うまい大福と相馬焼きのコーヒーカップを買う

(経済とは何か?-本当の価値を追及すること)

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利益の追及は悪いことではない,正当な利益の追及は悪いことではない,今日金沢の街から離れた所のコンビニで大福餅を130円で買った
その中味は小豆の粒が大きいのである。
これはセブンとか他のコンビニでは売っていない,他は100円くらいで売っている
130円は高いようで高くない,それだけの価値があるものだからその値段でだましてもうけているのではない
その大福餅が食べたくてそれほど遠くもないと思い自転車でそこに寄って買った
ただあそこはダンプがひっきりなしに通っているから嫌だった
あんりる行きたくない場所になっている
でもあんな離れたところでコンビニが成り立つのか?
それは外から来たダンプの運転手とか工事関係者も寄るからなのかもしれない。
場所的には良くないからである。津浪の被害もあったところだからである。

何か一つでも売りになるものがあると商売も成り立つとういことがある
あの大福餅食べたいないうだけで寄ることがある
そこは遠いという距離でもないことでそうなる
何か名物が生まれるとそれだけで商売になるのはそのためである。
お菓子屋などがなぜ小売店のようにつぶれないのか,近くではカステラとシュークリームだけを売って成り立っている店がある,それはその店だけが出せる味を出しているからである。お菓子屋はそれで生き残っているのである

100円で同じもの売るより

130円で価値あるものを売れ

大福でも中味が同じでどこも100円なのは今は価値がない
30円高くても価値あるものを売った方が売れるとなる
それは外部の人にでもそうである。
これはどこにでもコンビニで売っているものだとなると価値がない
こんな大福食べたことがないとなれば30円高くても売れるとなる

もう一つは原町のみ道の駅で買ったコーヒーカップである。
これはこの辺の土地の特徴を出していた
この辺は海と大地と森の世界である。
それでこのカップを見ると海の感じと土の感じを出している,それで浜通り特有の特徴を出したものとして評価して買った,2100円だけど高いとも言えるがそれだけの価値がある,こうした陶器類とかの価値の判断はそれぞれにあるからむずかしいことがある
まず芸術品は鑑賞能力がないかぎり無価値なのである。
食べ物ならその価値はどんな人でもわかるが芸術品は鑑賞能力がないなら無価値なのである。ゴッホの絵が何十億だピカソの絵が何十億だとか言ってもそもそもその絵でも見る目がない人には無価値なのである。
ただ何十億となると芸術の鑑賞力ない人もその価値を認めるのが資本主義社会だとなる
あらゆるものの価値が金で計られるからである。
そして金で計られないものは価値がないとなるのが資本主義社会である。

価値を見いだすというときその人が価値を見いだすことがある
近くの花屋でいいフラワーアランジメントをして3000円で売っていた
でもその花屋自体がその価値をそれほど認めていなかった
自分がその価値に注目したのである。和洋折衷の美の価値を見いだしたのである。
だから消費するというとき食べ物なら平等に消費できるが芸術品的なものになると消費できない,買い物もできないとなる
芸術となるとそれを鑑賞できる能力がある人が価値あるともなるのだ

一般的に車でも自転車でも高いものはいいとかなる,でも陶器とか芸術品とかなると値段がつけようがない場合がある
それはその人の見る目がないと評価できないからである。骨董品などがそうである。
だからそういう価値を発見したものはこそそれを作った人と同等に価値ある人だともなる奇妙だけどそういう価値を見いだし得ない者はいくら金もっていても価値がないとなる
そういう人は金ももつ価値がないともなるのだ,確かに10億円の絵画を買うことができても鑑賞はできないとなる,金があっても何でも買える訳ではないのである。
それは自然の美があったとしても金ばかり数えている強欲な人は自然の美が見えないとういこととも通じているのである。
それでソロモンの栄華よりも一輪の自然に咲いている花の方が飾られているともなる
その価値は金では買えない無償のものとして平等に与えられているとなる
ただ見る目がなかったらそれも無価値となってしまうのである。

ただ金だけで高いとか安いというだけ計れないものがこの世にはある
価値にはいろいろな要素があるからである。
土地にしてもそこがどういう場所にあるかで価値が変わる
眺めのいいところだったら価値があるとか車などが頻繁に通るダンプなどが通るとしたら価値が低くなる
都会に豪邸が建ってもそこは見えるのはビルだけだとしたら価値がないともなる
いつも富士山全体を見えるような場所だったら価値があるとなる
価値はだからいろいろであり一定していなのが普通なのである。

経済は人生であり生活であるとか分配とか消費こそ経済だという経済で説いている人のサイトは何か自分と追及している共通のものがあった
要するに金ばかりですべての価値が計り他のものが人間にとって本当に価値あるものが見えなくなったのが現代の資本主義なのである。
それぞれが本当の価値を追及する社会を求めている
ただ別に正当な利益は利益を追及するべきだというのもわかるし分配が大事だというのも共感する
なぜなら現代のグローバル資本主義が数バーセントのものに富が集中していることが最大の問題だからである。
消費と分配こそ経済の基本にあるべきだというのは現在の経済の状況を見ればわかるからだ、経済とは常に人間の社会の根幹にかかわるものである
経済学部と商学部とか商学部は実利的なものであり経済学部は人生全般にかかわるものだともなる
ただ文系の場合はそういう学部ごとで特別変わるものではない,経済といっても陶器一つの価値を見るにもその見る目を養うことが大事になるからである。


貨幣で重要なのは、循環と分配である。循環があって始めて貨幣は効用を発揮できる。そして、貨幣本来の目的は、分配なのである

経済の基礎は消費にあるのである。
消費が生産を制約していくべきなのである。
そして、消費が生産を制約するために分配の仕組みが重要となる。

ここのサイトは現代の経済が本来の経済からはずれている,金だけが価値を計ることになり荒廃したというとき自分と同じ感想であり共感したのである。
それはみんなが思っていることである。
なぜ数パーセントの人に巨額の金が流れて平等に分配されないのか?
そのことが今の経済で一番問題になっているからだ

人間は消費が大事であり生産だけではないというのも誤解しやすいが膨大な不必要なものを生産しすぎる時代だからである。
薬でも過剰に生産して必要ないのに投与したりと不必要なもの本当に使用すべきもの消費すべきものを作る,そのために労働者の時間と金を無駄にしていけないということでもある
ここのサイトは一冊の本のように論を展開している,だから深く考察すると現代が見えてくるので読まれるべきサイトである。

posted by 天華 at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月03日

経済社会の構図 (景気がいいのに金が回らないのはなぜか?)


経済社会の構図

(景気がいいのに金が回らないのはなぜか?)


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経済を考えることは社会の構成とか社会全体を見ないとわからない,経済学とは社会学であり社会全体を見る学問である。
社会全体を見ることが現代社会ではできない,だからどんな人が社会を分析してもできない,それほど巨大で複雑だからである。
だから自分がここで分析したとしても社会の一部のことである。

ただ最近なぜ景気がいいのに賃金が上がらないのかと消費が伸びないのかとかなぜ銀行に金をあずけても利子がつかないのとか盛んに言われる
金の行き場がない,銀行でも有望な投資先がない,金を借りてくれる会社がないから金利は下がる,金が借りて事業を起こしたいという人がいれば金利はあがる
銀行は金貸しが商売なのに金を貸さなかったらなにする所なのだと政府から批判されるのもわかる

そしてもう銀行に金を預けただけで事務費などがとられる,預金したらかえって銀行から金をとられる,また投資信託などをすすめられて手数料がとられる
銀行は証券会社の子会社か支社になったとなる、現実に地方銀行には証券会社の人が出向して銀行員の一員として働いているのである。
マイナス金利も銀行を追い詰めたからそうなったと言われる

今景気がいいから会社がもうかっているといってもその分配が問題になる
経済が分配が大事だというとき利益の配分が株主とかに吸い上げられて一般の人に従業員にも回らない,賃金は上がらないからだ,すると消費も伸びないのである。
ただほんの一部の人に株主に株が上がり金がまわる,それより世界的にみると数パーセントの人に世界の富が集中して吸い上げられているそして格差社会になっている

金があっても金が有効に配分されない、分配されない問題なのである。
会社は利益をあげることが株主から要求されて株主優先になり従業員の賃金にまわらないそして利益をあげるために賃金の安い外国に工場を作ると国内に金がまわらない
会社は賃金を安くして利益をあげなければならないからそうなる
その圧力が強いから会社は会社員の賃金を上げることができない
利益を上げるというとき会社であり会社中心の社会が現代である。

例えば税金は会社が払う,国にも払う,法人税として払う,その金が公務員の給料になる公務員は利益を追及する必要がない職業である。
その公務員とは福祉とか医療とか安全とか警察とか自衛隊とかの国家公務員とかになる
その人たちは利益を追及しないし利益をもたらさない職業なのである。
今はこの公務員にかかる費用が膨大なのである。
少子高齢化で余計に福祉とか医療とかに金がかかり財政を圧迫して危機的状態になっている
そもそも会社が利益をあげて税金を払っている,それがなければ成り立たない職業なのである。公務員の仕事が肥大化すれば財政を圧迫するのは当然なのである。
なぜなら会社のように利益をあげないことを追及しているからである。
利益をあげているのは会社であり公務員はそこから税金をもらって運営しているからだ
またみんな会社員だというとき会社員は給料からそうした福祉とか医療とか安全のために警察とか自衛隊に金を払っている
でも公務員は利益を産みださないのである。

今金がまわらないというとき銀行にあづけても投資信託をすすめられて手数料とられるだけだとか証券会社でもそうである。確かにもうけている人はいるし株は上がっている
でもそれは全体からすればほんの一部なのである。
それより今はみんな株でも投資信託でももうからないから銀行に金をあずけても利子をつかないからビットコインの投資でバブル化しているという,ビットコインにはそういう事情があったのかと納得した,金があるのだかその金が有効に使えない,消費できない,回らない,分配できないということにあった
経済は分配が大事だという人がいたが現代経済の問題はそこにあるから納得する

現代の資本主義が限界にきているとか常に言われるのは投資先がなくなっている,投資してもうけることができない,投資信託とかでファンドで金を集めてもその投資先がない
もうけ先がない,それで投資を基本とする資本主義がゆきづまったとなる
金融関係者だけに巨大な金が吸い上げられているだけだともなる
世界の富が数バーセントの人ににぎられるというのはもう資本主義が機能しなくなったのである。
そこから資本主義は破綻してゆくようになる,格差社会でモラルも荒廃してゆく
投資マインドを持てというけど投機マインドしかもてないようになっている
金を右から左に移してその利ざやを稼ぐだけであり投資ではない,それFXなどで顕著である。
そうなると投資ではなく投機に走る,ビッドコインもそうである。
何か将来有望なものに投資するのではない,そうした有望な会社に投資するのではない
ギャンブル的投機になっている,そして胴元だけがもうかり格差社会になる
するとこれはいかさまだと一般の人の不満が爆発することになる
資本主義のシステムがもう機能しなくなったからでありもう崩壊してゆくとなる

自分が経験したことは奇妙だが有効に金が分配されたともなる,というよりは分配を強いられたのである。
泥棒にも大金が流れたり銀行や証券会社の投資信託として手数料がとられたり生活困窮者に金をくれたりした,それは金を回した分配したことにもなる
その金は有効に分配された,このことから考えると現代の経済の問題は分配がうまくいっていないことにある
会社がもうけても会社員の賃金が上がらないとか公務員などの税金に吸い上げられて金が有効にまわらない,そもそも公務員の仕事は医療とか福祉に安全に金がかかればそれは利益を上げないものだからそうなる,そういう仕事は利益を追及できないのである。
ここの支出を減らせば財政的に楽になり他にまわる,こういう所にだけ金が増大して回すと社会全体の経済は疲弊してゆく,国家破産にもなる
少子高齢化社会はまたそうなることを強いるから全体の経済も良くならない,金がまわらないのである。

投資というとき何か将来にむけての未来に向けての投資になる,教育も投資でありそれは今の成果ではない,未来に向けての成果のためである。
個人的にも勉強でもそれは未来に向けての投資である。教育投資は先が長い投資なのである。地味な研究などもそうである。
その成果があがるのはようやく老人になってからだともなる
いくら医療とか福祉とか老人に投資しても国の未来はないともなる
それが少子高齢化になり投資先が医療とか福祉とかだけになるから国自体が疲弊して全体の経済も良くならないということはある

posted by 天華 at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月04日

資本主義の崩壊現象が起きている (ビットコインのバブルなど)


資本主義の崩壊現象が起きている

(ビットコインのバブルなど)

資本主義はなぜ起きたのか?なぜ世界に普及したのか?
それはいろいろな見方がある,一つは資本主義はウェーバーによると資本蓄積することであり隣人愛にもとづいて修道院の中で発生した
労働倫理であり労働は神のために隣人のためにするとなった
ただこれも次のように堕落するとウェーバー自身が指摘してその通りになった
宗教というのがその禁欲などが守れないので世俗化してゆくのとにている

1.ウェーバーが見据えた資本主義の末路
ウェーバーは禁欲的プロテスタンティズムのエートスと資本主義の精神を同一と考えたのではない。
資本主義機構の確立とともに両者は決定的に対立する事になる

@金持ち達の信仰心の喪失
A激しい反営利性が邪魔になる
B隣人愛の実践から利潤追求への重点移動
C営利そのものを自己目的とするエートスへ
D禁欲的精神、天職倫理の喪失、機械化の中で精神喪失、意味喪失の時代となる

資本主義を理解するのには社会主義とか共産主義を理解することが必要になる,対比して理解することが必要になる
社会主義とか共産主義は平等を目指した,それは分配の平等を目指したのである。
だからこそ土地まで私有を廃して国のものとして平等に与えることにした
そこにこそ共産主義たる所以があった
すべて共同に使用するものとして国家のものになったのである。
でも皮肉なことに平等を目指すと競争もなくなり悪平等になる,人間は何するにして優れた人と劣った人がかならずいる,才能ある人とない人もいる,努力する人と努力しない人がいる,そういう様々な人達を平等にしたらかえって不平等になり経済は停滞したのである。

現実に前のソビエト連邦や今の中国は最も不平等な国になったという皮肉である。
共産党幹部が何兆もの金をもっているからかつての皇帝と同じになったのである。
共産主義は平等を一番目指したのに一番不平等になっている
だから何でも平等を目指すことは失敗する,いくら働いても怠けても工夫しても何しても同じ給料しかもらえないとなると誰も働かない,適当に怠けて働くのいいとなるからだ
ローマ帝国のゆきづまりは大量の奴隷がいてもその人たちは創意工夫して積極的に働かないからだというのもそうである。
共産主義は一種の国家的奴隷状態に労働者がなったのである。
創意工夫が起きないイノベーションが起きない,ソビエト連邦だと軍事力だけが増大して核兵器が大量生産されたのである。
そして共産党の幹部が神のように祭り上げられて偶像崇拝のようになった
それは中国でも起きていた,共産党幹部が権力を握り皇帝のようになる

資本主義とは資本を蓄積して資本を投下して生産を増大させて経済を活性化させる
資本というとき今は金に紙幣になるのが資本はもともと現物であった,家畜が羊が資本になることもある農業だと麦や米が資本になる,林業だと木材になる
そして土地が資本になる,そういう具体的なものとして資本がある
ローマ帝国の兵士に支払われていたサラリーとは塩のことだったのである。
日本でも江戸時代は石高で米で支払われていたのと同じである。

その資本が土地でなんでも債権化して金融資本主義となったのが現代なのである。
そして今なぜ資本主義が終わりとか崩壊現象が起きているのか?
資本主義が常に資本を投下するものを求めている,資本を投下してそこで利益を出すのが資本主義である。
でも銀行には金融資本があるがそこに預金すれば利子がついていた,それは銀行が金融資本を集めてそれを起業する人などに貸してその会社がもうけを出して銀行ももうけるということをして預金者に利子として与えていたのである。
ところが銀行ではもうその金を貸してもうける先がなくなったのである。
すると金の行く先はどこになるのか?
資本主義にはバブルがつきものである。オランダのチャーリップバブルでもそうである。チューリップにそんな価値があったのか?そこに大金がつぎこまれたのである。
日本では土地バブルになった,今度は仮想通過バブルになった
資本を金を投下する場がなくなりそうなった

そもそも仮想通貨というけど金そのものが紙幣そのものが仮想のものである。
金融市場でも半分は仮想なのである。
仮想の世界で金もやりとりされている感覚になるのだ
仮想通貨は株式市場と違って全くの仮想の世界だったともなる
仮想の中で金がやりとりされていたから破綻したともなる
株式市場は現物が動いて金が動いているということがまだある
仮想通貨にはそういうことがない,現物の裏付けがないのである。
仮想の世界だからバブルであり一挙に無価値と化してゆく
価値となるべきものが仮想だったからだとなる
株式市場でも半仮想の世界である。金融資本主義になるとそうなるのである。

資本主義は資本を有効に投下して経済活動することだが金融資本主義になるとそこは本来の投資家マインドより投機マインドになる
FXとかがそうであり本来の投資とは関係ないのである。
投機でありそれは博打と同じである。博打ではギャンブルでは何も産み出さない,胴元がもうかるだけだとなる,全体としては何も産みださないのである。
資本主義が正常なときは常にイノベーションがありとか産み出していた
それが全体の富ともなっていた,ギャンブルからは何も産み出されない
巨額の金が右から左に動くだけで実際は何も産み出していないのである。
その金はほんの一部の胴元に入るだけだとなる
そこに数パーセントの者に金融資本が流れ格差社会が生まれたのである。
そうなると今一番の経済の問題は分配の問題だとなる
富をいかに分配するかが問題になる,それでアメリカでも社会主義者のサンダースとか大統領になったしトランプが大統領になったのもそうした富が公平に分配されないということでアメリカの不満がありそうなった
それは世界的なことでありただほんの一部の者に金が流れ滞留して金が資本主義本来のものとして回らないから銀行にあづけても利子はつかない,かえって金を預ける方が利子を事務費など負担させられることになった
それはすでに資本主義の崩壊現象なのである。

これから資本主義はどうなるのか?
金とか紙幣が本当に紙屑になるかもしれない,そしてまた現物経済にもどるのか?
土地バブルのときはそうだった,金とか紙幣は紙でしかないのだから紙屑になっても不思議ではない,その金とか紙幣自体に何の価値もないからである。
それで土地バブルのときはそうなったのである。
土地をもっている人が金を持っているより価値がありわずかの土地をもっているだけで売れば億万長者になっていたのである。
金より紙幣より現物をもっている方が強いとなる
資本主義が本格的に崩壊するときそうなる
誰も金と紙幣を信用しなくなるのである。信用がなくなったとき何でも通用しなくなる
地銀などは信用が第一でありその信用が利子をつけられないということで壊れている
その信用が銀行の財産だったのである。なぜならまず人を信用することが最もむずかしいからである。信用とは簡単に築けない,

だから家に入れて働かせるとなると一番危険になる,それで十年とか家政婦として働いているとかになると信用できるとなる
それは金持ちの家でしかできないことである。
そいういうふうに信用は銀行でも地元を一軒一軒回ることで築かれてきた
だから郵便局とか地銀は地元では固い職業でありエリートであり信用される人となっていたのである。それが投資信託と株を売るだけとなるとそうした信用も失われる
その時銀行の役割も喪失していらないとなる,現実はもう証券会社化しているのである。投資信託とかすすめる証券会社化して投資家マインドは銀行には喪失した
銀行は資本主義社会の要としてあったときそれが機能しなくなったことが資本主義崩壊現象の最たるものだともなる

そうして経済がモラルが消失してゆくことがすでに資本主義でも崩壊していることなのである。格差社会でもそうである。
みんな働いたら負けとか働くの馬鹿らしいとかなる,ではどうすればいいのか?
盗めばいいとかなり社会のモラルは維持できなくなる
労働倫理はなくなる,格差社会は確かに上の人にとってはいいのだがそれが上の人にとっても危険なのである。モラルがなくなればその上の人も襲われる,殺されるとういことも起きる,それが社会全体になると暴動となり革命となり上の人は殺されるともなる
そういう危機的状態を極端な格差社会は作りだだすのである。
だから資本主義は崩壊する危機にありその前にまたバブルとか長期停滞とかもう成長できないとか銀行に利子がつかないとかいろいろその前兆現象が起きているとなる


資本主義はすべてが金で計られる,金で計られないものは無価値にされる
でもこれからは金で計られないものの価値を認める,価値を社会的に付与する
何かそういう社会の転換期である。
ボランティアが増えたのもそうである。金にならなくても社会的価値を認めてもらいたいからしている,でも金にならない,利益を出さないものは社会的に価値を認められず無用のものとされる
だからベーシックインカムは衣食住は最低限は補償してそれぞれの価値を追及する
それは金にならない,利益を産まなくても社会的価値を産む,そういう価値を認めることで社会を豊かにする,それはどっちかというと物質的満足というよりは文化的精神的満足になる,そういう文化的精神文化的なものへの変換期になっているのが現代なのである。時代が変わるときは価値の変換が起きる

津浪とか原発事故も大きな価値の変換をうながすものだった
科学文明に対する不信が生まれた,故郷にも住めなくなったらかである。
土も水も森も大気も汚染されたからである,するとそこに今までの価値観ではない
ただ物質的な豊かさを求めてはだめだということが現実問題としてこの辺ではつきつけられたからだ
例えば景観というのは金にならない,森があっても木材を切れば金になる
でも森自体の景観は金にならないから無視される
そして現代は索漠な景観となっている
この辺では海岸は風力発電となりソーラーパネルとなり火力発電所からの煙が出るまで工場地帯のようになった,まずあそこに植樹しても森にしようとしてももう無理である。
松原の景観とかみんな失われてしまったのである。










posted by 天華 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月05日

冬の暮(松川浦ー日立木を回る)


冬の暮(松川浦ー日立木を回る)

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海老村
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百間橋渡りて長し冬の暮

村一つ社一つや冬の暮

蔵ありて郊外の農家冬菜かな

百才の間蠟梅咲きて残る雪


碑の一つ金砂神社や津浪にそ流され残り冬の日暮れぬ

松川浦穏やかにして白鳥の河口に浮かび安らぎにけり

立谷川打ち凍りけり祠町場橋一つに薬師堂かな

日立木の家並みの間の道細し昔のままに冬の日暮れぬ

苦しむもここに生きなむ人のあれともにここに歳月刻む

近くにそ四十雀来てしきり鳴く声のひびけり春めく日かな


海老村から松川浦へより日立木を回る,海老村には金砂神社の津浪に流された碑が集められてあった,あそこには良く寄っていた
文政とあるし湯殿とかあるからこの辺では良く見かける碑である。

百間橋とは一間が一メートル以上あるとして百メートルにもなるのか?
これはただ長いということで百間橋と名付けられた,いつかけられたのかわからない,
やはり長い橋だったのでそういう名がつけられた

日立木はいつ行ってもなにか感じるものがある。
それはなぜなのか?そこがやはり村として街道としての歴史を刻んでいるからだろう。
そして村の要として必ず日本では薬師堂があった
薬師堂とは医者とか病院がないから病気になれば薬師堂で祈る他なかったから要としてあった,要するに病院と同じだったのである。

そしてなぜあそこの橋が町場橋になっているのか?これもやはりあそこが町の中心的場所でそうなっていた
薬師堂の中に古い碑が並んでいる,そこは相当に古い場所なのである。
日本は村中心に生活があり行政もあった,村ごとに人はともに住み苦楽をともにしたという歴史がある。だから何かあそこにはそうして生活してきたものがにじみでているのだ
そういう場所が日本にいたるところにあるにしても外から旅しただけではわかりにくいのである。
そこはありふれた何でもない風景と見るからである。

日本の村は相馬藩内でもその場所によってかもしだすもの雰囲気が違うのである。
それは土地土地によって地理によってそうなる,深野というときあそこもありふれた場所でも何かそこだけに感じるものがある
あそこは地名が影響していることもある,だからあそこに新田川ユッサ温泉があるのがふさわしいのである。あれは本当に温泉なのか?それがわからないにしても場所がふさわしいのである。

いづれにしろ冬はまたしんみりとして田舎ではいいのである。
ただ今年は寒かった,ここ二三日は春めいて近くで四十雀が鳴いた
また寒くなり雪がふるのか?
百才の間は母を介護した部屋である,そこに蠟梅が咲くのはふさわしい
田舎で暮らすことはやはりその土地と一体化して生活することなのである。

駅に張ってあった広告と働き手の募集 (人手不足は介護に多い)


駅に張ってあった広告と働き手の募集

(人手不足は介護に多い)

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これらは関係あるのかもしれない,街作りというのもこの辺の課題としてあるし駅からの街作りを駅にかかわり考えたりした
ただそれが大がかりになるととても手が負えないものとなる
駅でこの前電車が行ったばかりでまにあわず喫茶店とかで休みたいと言ったがそれがなかった,何か駅前にはそういうものが必要である。
近くに食堂がありもう一つあったみたいだが案内できなかった
今は喫茶店だけしているところはほとんどない,スナックみたいな酒飲む所とカラオケが併用になっている所である。

介護はもう小高でいい施設が建物があっても人が集まらない,介護する人が集まらないから再開できないと放送された
介護は給料が安いししたくないのはわかる,そして重労働の場合もあるから誰もしたくないとなる
でも仕事を考えるとコンビニであれその労働にやり甲斐があるのか疑問だし銀行員と接したがその仕事も今は株とか投資信託とかすすめるだけで何か職業としていいものとはならなくなった、前は郵便局でも銀行でも信用組合でも何か地方ではいい就職先だったのである。
だから孫は銀行に就職したと喜んでいる人がいるのもわかる

信用がないと就職できない所だった,今は変わってしまった,株とか投資信託をすすめる証券会社の支店なのかと思う
部長という人が来たけどその人も真面目そうな律儀な人に見えたのである。
その人は銀行員として真面目な仕事をしてきた
その人は退職した,退職して良かったなと思った,今の銀行はそういう律儀な固い地域に信頼できるものとなっていない,変わってしまったのである。
銀行そのものが存続できるかどうかの瀬戸際になっていたのだ
そういう時代なことも知らなかったのが自分の失敗だった,何か津浪原発事故以来時代が急速に変化して対応できなくなったのである。

職業の問題が重要なのは職業によって人格が形成されるからである。
銀行員であれば人間も律儀な真面目な人になっていた,証券会社化すればそうならない
それに比べると介護などはどうなのか?これもいろいろ問題あるにしろ介護に要求されているのは何なのか?
それは優しさなのである。常にやさしさが要求される職場というのも他にないだろう
銀行員だったら優しさなど関係ない,金をいかにして集めるがノルマになっている
そこでいかに手数料をとるしかなくなる
だから介護職がそういう職業と比べて悪いものでもないと外から見ればそうなる
ただ介護でかえって人格がゆがめられることもある
例えば障害者を相手にしてばかりいた人が遂には大量殺人になったのでもわかる
こんなやつら生きていて何の価値があるんだ,そういうことは老人の介護でもありうる、あまりにも増えたからそうなったのである。
そして介護する動機がもていないのである。

自分はひどい認知症の介護で最後は鬱病になたっけどももう一人も介護したけど自分には強い動機があった,特別自分は60になるまでも良くされていたのからである。
そういう特別な事情があったから懸命に介護したとなる
そういう動機が老人ホームではもていないからできないとなる

ともかく人手不足は深刻であり特に介護関係では深刻なことがこの募集広告でもわかる
駅はこの広告でもそうだが現実に人が出入りすることでも生の情報に触れる場所であることを書いてきた,そういう機能がある場だったのである。

2018年02月06日

余裕がないことが社会を害する (文明は害になる労働が多すぎる)


余裕がないことが社会を害する

(文明は害になる労働が多すぎる)


人類の歴史をふりかえると縄文時代とか狩猟採集時代とかなると最も貧乏でそこには毎日食うだけで精一杯で何もできない社会と考える
でも不思議なのはそうして毎日食うためにだけ追われて何もできなかったのか?
縄文時代なら縄文土器などを装飾性豊かな土器を作っている
そうした装飾をするのはまず食べることだけに追われていたなら時間がないならできないなんらか時間があり余裕があるからそうした装飾をすることができた
芸術が生まれたのである。芸術は暇がなければできないからだ
つまり人間は最も貧しい時代でも食べることだけに追われていたのではない
その時踊りとか祭りとかもしていた,それがなぜ不思議なのかというと現代の文明は最も豊かな文明であり食べることだけに追われないということで対比してみる
でも縄文時代でも人間は食べることだけに追われていないし暇もあった
江戸時代でも仕事は二時で終わったとかなれば暇があり暇を楽しむ文化が生まれていた

ただこの暇が生まれたのは歴史的にふりかえるとギリシャでスクールがスコーレであれ暇だったということで学問が生まれた,ソクラテスなどがアゴラ(市場)をぶらついて青年に話しかけ真理を議論したことなどがそうである。
ソクラテスなどは一日仕事もしないしただ若者と議論していた
そうできたのは奴隷がいたからだとなる,奴隷が食料を供給してくれ食事を用意してくれたとか妻がいてそういう暇が生まれた
暇は今でも誰かに与えられて暇ができるということがある
結婚して妻がいて食事を用意してくれれば暇が生まれる,でも妻が死んだりして全部家事を料理でもさせられたら暇がなくなる,家事は機械化されていないからそれだけで時間が奪われるからだ,それで戦前は中産階級でも二人とか女中を雇っていた
それだたけ家事は時間がかかっていたからだ,ただそれでも縄文時代でも江戸時代でも暇がありその暇を楽しむ時間があり文化が生まれた

文明の目的は何なのか?それは人間に暇を作り出すことである。だから現代はその暇が作り出された,機械化などと豊かになり仕事しない人が老人を含めてニートとかもいるしフリーターとかも働いたとしても不正規であり一年中は働いていていない
その数が膨大でありそれだけ暇が作り出されているから文明化したことは暇を作り出したとはいえる
暇と金銭的余裕とかあれば文化が発達する,それは個々人でもそうなのである。
自分は三流大学で文系であり大学でもほとんど勉強していない,だから就職もできず今の底辺労働者として放浪していたとなる
その後は家族がいて何でもししてくれたから暇で暇でしょうがない身分だったのである。結婚もしないから子供の世話もしないし稼ぐ必要もないから旅ができたとなる
そうして暇と金と余裕が与えられていたから旅もできたとなる
金銭的に十分ではないが一応旅はできていたのである。旅は金より時間が必要になっていたのである。それから体力とか精神的余裕も必要である。
今になると家が留守になり誰もいないから外出するだけでも不安になるとかある
だから旅するにしてもそうした旅をできるような状態にさせてくれる応援してくれるのもが必要だったとなる

現代の問題は何なのか?何から問題が生まれているのか?それはこれだけ文明が発達しても暇とか余裕が産み出されていないことである。
文明は余裕を暇をスコーレを作り出すことは一面してもまた余裕なき社会にもしている,だから人間が時間を文明に奪われていると嘆いている
つまり豊かさの基準を暇とを楽しむことに置いていないのである。
経済成長とか何か常に働くことを強いられる,そしてみんな社蓄だとか奴隷なんだよなと働く人が言う社会は文明の目的に反している

なぜ人はこんなに働くことが必要なのか?働くことが強いられているのか?
日本では働くことは端(はた)を楽にするということである。家族とかを見ていて働く姿をみて楽にさせたいということでその言葉が生まれた
そういうことは極めて人間的なことであり動機としてはいいのである
今の人の働く動機はそういうものとは全然違っているのだ
働かねば食べることもできないし住むこともできない衣食住も成り立たないというのもわかる、それは別に縄文時代から同じだったのである。
でも暇は作り出されていたのである

文明の矛盾は労働量を増やしすぎたことである。その労働が害になることが実は多くなっていたのだ,例えばなぜ銀行で今株とか投資信託をすすめるのか?
それは日銀などがマイナス金利にして銀行に余裕がない,すると金を貸し付ける先もないそしたらどうしてもうけるのかとなり投資信託とかで手数料え稼ぐとかなった
それは余裕がなくなったからである。銀行は何か公務員のようなところがあり地方でエリートであり余裕がある職業だったのである。
その余裕がなくなったとき実際は7割の人が損する株や投資信託をすすめるようになった
それで自分も失敗した,銀行は固い信用できるものだということで信用していたからである。それも銀行自体に余裕がなくなり失われた
そうして余裕がなくなると働いているから有用のようでも社会に害をもたらすのである。銀行員はノルマを果たすことと銀行の利益のみしか考えなくなる
それで実際は株でもそのままにしておけば今上がったからもうかったが手数料がとれる投資信託を買わせたのである。それは自分にも非があっても自分は相手がプロだと思いまかせたのである。
要するに余裕がない人は自分のことしかまた自分の所属する会社のためしか考えなくなるまず相手のことを考えるのは相手の立場になり考えることは余裕がないとできないのである。

だから自分のところにきた人はみんな余裕がない,事業に失敗した人は多額の借金をかかえているから自分が苦しくても何にも考えない,相手のことが考えられないのである。
ただこういう苦しい状態だからこそ金を借りるにはいいと脅迫するようにもなる
そしてこいつが死んだら金になるとまで心ではなっていたから恐ろしいことだが相手は追い詰められているから自分のことしか考えられないからそうなる
犯罪は余裕がないから起きるのである。明日食べるものがないから相手を殺して金を奪うとなる,でももしそこで自分は今日食べるものがない,今日食べるものをくださいとか言えばあげることもあるかもしれない,ただそういうことをしにくいのが現代である
犯罪は余裕がないから起きる,ベトナム人の日本で起きるのは当然なのである。
日本人の最低の生活すらできないとなれば自ずとそうなるのである。

いづれにしろその銀行員でもそうして余裕がない人が働くことは害になる
ただ自分のことしか考えない,会社のことしか考えない,公益性もなくなる
あの人は毎日働いているから会社にとって必要だと認める
社会にとっても必要だみる,でも働くことが全部社会のためになるとは限らない
マスメデアでも働いて甚大な害悪をもたらした,それが一見社会で有益なようでもそうではなかった
戦争も朝日新聞が宣伝して作られたとかなるし温暖化もそうだった
その人達は社会の善として報道で働いていたのである

働くことが社会の害になる

そういうことは意外と多いのである。みんなノルマを課せられては働かせられる
すると何でもその人のためにより自分のもうけのために会社のもうけのためにと働くことになりそれは社会の害になるのである。

火災報知機が義務つけられたけどこれもみんな必要なのか?それは業者のために必要なのかともなる,公共事業でも無駄な道路を作ったりしたのは必要だからではない、業者のためにゼネコンのために国で決めたのである。
それはこの辺の除染作業でも何兆円の金を使った,それもどれだけ効果があるのか疑問である。他にその金を使えばもっと有効に働いたということもある
つまり消費者のためではなく業者とか会社のために義務づけられてもうけさせるためにある
そういうことが現代文明では多すぎるのである,そのために金が必要になりまた働くことが労働が強いられるのである。

原発だってそうである。これは社会の人々が必ずしも必要だから作られたのではない,国家の政策として核兵器の準備として必要だとか強制されたのである。
科学者もそのために働かせられた,その働くことが害になるということがあるのだ
現実にこの辺ではそのために故郷に住めなくなったのである。

原発で働いたために害になり住めなくなった

そうして文明は働くこと労働がなんでもいいものとして是認される,でもそれが害になることがある,甚大な害になることがある

それで老子は無用の用とか成さずして成るとか無為自然を唱えた
それは政治というものが甚大な害を作り出すからである。政治は人間の恣意であり自然に則ったものではないからである
原発は自然に反するものでも国家の政治として作られた,それで安全神話も作られた
そうして働いたことが甚大な害を及ぼすのである。
文明はいらないものを無数に作り出すと老子が言っていたのもそうである。
いらないもの作り出す労働が膨大になり労働がますます増えてくる矛盾がある

お前らが働いているから害悪となっている

こういうことが多いけど誰もそうは社会で思わない,警告もしない
あらゆる場面で働くことがすべていいとはならない

労働は甚大な害悪になる

こういう自覚をしている者がいない,社会でもそうである。働かないものは無職は刑務所行きだとか言うけど害悪の労働を責める人はいないのである。
お前が働いていることがそんなに社会にとって必要なのか有意義なのか?
そう反論する人はほとんどいないのである。働くことがすべて善だとしているのである。だから逆に過剰に働く人は罰せられるべきであり労働をさせないようにすべきだともなるそうした害悪の労働を放置しておくと甚大な影響を社会に与えるからである。
自然環境だって利益優先させると破壊されてきた,つまり文明とは膨大な労働のことだからである。その後は森がなくなり都市化して砂漠化したのである。
エジプトでもメソポタミアでも文明の発達したところから森が消えたのはそうした労働の結果なのである。
そのことを二千年前に老子などが警告していた,キリストでも仏陀でもそうである。
だからすでにその頃人間はかなり高度に文明化していたからそうした思想が生まれたのである。今やその文明も極点に達して遂には過剰な労働のために滅亡するまでなっているのだ,害になる労働が増えすぎたのである
いらないものを作りすぎている,それがかえって人間を余裕なくさせている

労働は社会に害悪をもたらす,すべての労働は是認できない
労働は制約すべきである

文明はいらないものを作りすぎるというとき薬でも過剰に作りもうけるために投与する
病院が減ったら病人も減ったとかなるのも医者が病人を作り出しているともなる
患者にとって医者が必要ではあるが医者にとって患者が病人が必要なのである。
だから極端になれば健康な人も病人にしなければならない,そうしなければ医者の利益にならないからである。製薬会社でもそうである。病人が薬を飲む人が減れば商売にならないからである。
そういう職業は文明が高度化すると多くなる
警官でも犯罪を犯す者がいなくなれば必要がないしそれが理想である。軍隊でも戦争がなければ必要がないものである。

軍隊があるから戦争が必要なのである
兵器があるから売るために戦争が必要なのである。

そういう逆説を説いたのが老子の思想だったとなる,文明に対して警告して予言していたのがその通りになったのである。
政治というのも否定したのもそのためである。政治は害悪になる,害悪を作り出すから無為自然にまかせろとなったのである。
そういうことは聖書に書いてあるから何か宗教は共通したものがある

わが民よ、あなたを導く者は かえって、
 あなたを迷わせ、 あなたの行くべき道を混乱させる」
わたしはわらべを立てて彼らの君とし、 みどりごに彼らを治めさせる。 。

嬰児(みどりご)に治めさせよというときそうである。なぜそんな人が治めることができるのか?つまり政治をする人はかえって害悪をもたらすことが多いからそうなったのである
原発など作る必要なくても核が必要だから作るとか害悪をもたらすものが政治なのである
ともかく文明社会は必要ないものが多すぎるのである。カルト宗教団体なども実際は社会の害悪でしかない,でも会員を増やすために一軒一軒回って歩く,それは何のためなのか?勢力を拡大して社会に対して権力をもって社会を動かすためである。
そのために銀行員のように会社員のようにノルマが課せられているのである。
それは社会の害悪でしかない,でもその人たちは社会の善だとして働いているのである。善だとして働いていることが最大の害悪となっていることを自覚させるべきなのである。でも働いているからすべて善だとしている,働くことによって甚大な害悪をもたらすことを指摘する人はほとんどいないのである。

そして高度に文明化した社会ではベーシックインカムが必然的に必要になる
つまり文明社会は害悪の労働を作りすぎるからである。それも働かねば収入にならないとして害悪の労働でも強いられるからである。
そうしたらみんな働かなくなり困るというけど文明とは高度だから知能もAI化するからそうはならない,害悪になる労働を抑える制約できるようになる
ただこれもまた問題が生まれる,でも高度な文明の行き着く点としてベーシックインカムがあるともなる,そうしなければ害悪の労働を制約できないからである。

posted by 天華 at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月07日

時代時代の苦しみを人は負う (70年周期で時代が大きく変わる)


時代時代の苦しみを人は負う

(70年周期で時代が大きく変わる)

時代が変わる時人は苦しみ負う
江戸時代には飢饉の苦しみを負う
越中などの移民が苦労して働く
明治になると侍の世は終わり
北海道に開拓に入る農民となり
いろいろな職につく
慣れない職につく
侍は苦しみを負った
戦前は貧乏で苦しむ
女性は紡績工場で過酷な労働に苦しむ
戦争の時は戦争の苦しみを負った
多くの人が戦場で苦しみ死んだ
戦争が終わり引揚者は
不便な所に開墾に入った
その苦しみを負った
団塊の世代でも中卒で集団就職
その人たちは苦しみを負った
常に時代の苦しみを負い
時代が変わると苦しみを負わされる
それが人間の歴史だ
それぞれの時代を生きるのは宿命
今また大きく時代が変わる
原発事故で避難して苦しみを負う
人は生きる限り苦しみを負う
時代時代の苦しみを負う
そうして積み重ねられたのが歴史
国々の歴史も苦しみの歴史
今の時代は苦しみつ作られてきた
人間は苦しみから逃れることができない
時代時代に苦しみがある
苦しみを逃れる者は後の世に残す物がない
苦しみによって作られてきたものだから
それが尊いのだ
楽した親を金持ちの親を直接子供は世話しない
金で他人が世話する老人ホームにあづける
苦労した親を見ていたら世話する
苦労して育てたから親がありがたいと・・・
そこに育てられた価値が生まれる
苦しみを負うことによって価値は生まれる
ただ血のつながりの父母は父母ではない
苦しみつつ作られたものを残したもの
それが父母であり先祖となる
苦しみが人間を作り歴史を作る
だから苦しみから逃れてはいけない
そうすると後世に残す物がない
そういう人は先祖として尊ばれないだろう
苦しむ者よ,その人は尊い
苦しみ耐える者が後の世を作る

相馬藩だと越中からなどの移民があり飢饉から立ち直れた,その時越中などの移民は相当に苦しんだ,土地でもいい土地は与えられなかったのである。それで加賀泣きとかが伝えられている,この土地で新参者として苦しんだのである。
その苦しみと涙があって相馬藩は飢饉で三分の一に人口が減ったが立ち直ったのである。そしてこの地の先祖となったのである。

時代が自然にそれぞれの時代があるのか?時代は例えば明治時代だと外からの圧力で開国して明治維新になったがそれも自然と生まれた時代ではない
そこで時代を作った人達がいた,それはその時代を生きた若者だったのである。
そうした混乱と変革の時代を生きて命を落した人達がいる,でもそういう人達が新しい時代を作ったのである,その人たちは時代の犠牲だったとなる
江戸時代から明治時代に変わる時産みの苦しみがあって犠牲になった

明治になったとき侍は特権を失った,それで北海道に開墾に入った,伊達藩などでも侍が一体となり伊達町を築いたのである。そこに苦労があったがその時苦しみ時代を築いたのである。つまり時代は自然と生まれるのではない,人の苦労によって作られるのである。
ともかく歴史を見れば必ず時代の苦しみがある,戦国時代なら戦争の苦しみがあったし太平洋戦争でも戦争の苦しみがあった,常に時代の苦しみがある
でもその苦しみ故に新しい時代が作られる,時代は自然発生的に生まれていないのである時代はその時々時代に生きる人達が作り上げたものなのである。
戦後の引揚者もまたいたるところにいて不便な所に入り苦労したのである。
そういう場所が本当にいたるところにある,この辺では津島とかでもそうだし飯館村でもそうだし鹿島の小池にも引揚者が働く場がなくて開墾に入ったのである。
戦後そういう苦しみを負ったのである。

団塊の世代は評判悪い,楽した世代だというとき評判が悪いのはそのためなのである。
何か苦しんで作り出したものがない,楽した世代だと常に言われるからである。
そういう時代に生まれたのもまた時代だったとなる

いづれにしろこれから生きる人はどうなるのか?
資本主義が終わるとか銀行がなくなるとか激変の時代になる
でもこれからの時代もまたこれから生きる人々が作るのである
時代は自然に生まれるのではない,次に生きるものが作り上げるのである。
それが人間の歴史でありただ何もしないで新しい時代は生まれないのである。
確かに団塊の世代は楽だった,これからは激変して日本は苦しくなる
それぞれの場でも苦しくなる,苦しみを背負うことになる
それは次の時代を作るための苦しみだとなる
そういうことは歴史で常にあったからである。

歴史は決められたものではない,ふりかえれば歴史は固定化している,過去をふりかえればそうなる,でも歴史は固定していない,未来は固定していない,絶えず作り上げられるものとしてあるから固定していない,次代が未来がわからないのは過去と違って固定していないからである,それと今から生きる人達が作り上げるものだから固定しないしわからないのである。

津浪や原発事故でもそうである,この辺は苦しみを背負わされたのである。
ただそれを担うのを嫌い故郷は捨てられたともなる
そこには確かにもう住みたくないというのはわかる
でも何かそういう苦しみの場であってもやはりそれを担うことがあれば未来が開かれるかもしれない,もうただ故郷を捨てて他で住めばいいとなった
でもそこで苦しみを背負い生きればやはり未来が開かれるかもしれない
そういうことは過去にも歴史としてあったしそれが歴史だったからである。
そして故郷の未来はなくなったともなる
子供がいないとか若い人がいないということ自体がすでにその地域の未来がくなっているのだ,老人だけではもう死ぬだけであり何もできないからである。

ただ未来という時,それはこの世だけではない,来世こそ未来なのである
そこに神の約束された理想世界がある,その未来こそ本当の未来である。
だから若い時に求道してその未来を確信することが大事なのである。
その未来なくしてこの世をいくら変えようとしても絶望になるのである。
未来は神によって約束されている,そういう確信のもとに生きない限りこの世を克服できない,結局絶望挫折に終わる

未来はどこにあるのか?例えばカルト教団にいるような人はもう未来がないしすでにこの世の悪に染まったような人も未来はない,でもこの世がそうした悪に満ちているとき悪に染まる,やがてそれを感じなくなる,これはおかしいのじゃないかと思ってもそういう場で惰性でいたりして悪に染まってゆく
その時決然としてそういう場から離脱することが必要になる
そうしないとそこで未来はないとなる
若い時にそうした方向が決まるから大事だとなる
ただここの事情は違ってくる,同じ事情の人はいない,だから人の真似をしてもだめである。境遇とかがみんな違っているからその運命も違ってくるのである。
そういう時,お前は楽だったといえば楽だったがまたそれも宿命だったのである。
その楽があって自分は体力がなのにこれまで生きてこられた,そうでなかった死んでいたのである。過酷な生活を強いられて死んだ人が過去に多いからである。
その楽なことから自分の病気とか介護で苦しんだことを書いてきたのである。
人間は楽に終わることはないのである。どこかで苦しむようになっている
それが人生なのである。金持ちの家に生まれたとしても一生楽に終わることはないのである

いづれにしろ明治維新から太平洋戦争から戦後70年で大きく時代が変わる
津浪原発はそういう時代の変革の時に起きたのである。
そしてこれから若い人は相当に苦しむ,日本の経済は衰退してゆく,もう東南アジアであれ中国であれ物価もさほど変わらなくなっている
中国など10数年前とまるで変わってしまった,物価が10倍差があったが今は日本とさほど変わらないのである。タイでも富裕層がいて日本人より金持ちの人が多くなっているのだ日本人の底辺層の人達の方が貧乏になっている時代なのである。
これも時代であり逃れようがない,そして時代の産みの苦しみを担わされるのである。