2018年01月20日

forest and river and rock


forest and river and rock

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big river at nifht



抽象画も現実にあるものをイメージしてできる,樅の木がそうである。
そういう重厚な樅の木を私は見ているからだ
すると瞬間的にこれは樅の木だなとして変化させたのを見たのである。
だから抽象画も具象画を離れてありえないのである。

Abstract paintings can be imaged in reality, there is a tree of a king.
Because I am looking at such a heavy trees tree
Then I saw that it was instantaneously changed as a tree of trees.
That's why abstract paintings can not leave concrete paintings.

争点は脱原発では桜井市長が勝つ (他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)


争点は脱原発では桜井市長が勝つ

(他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)

脱原発、脱原発,・・・これで勝ちでいいのか


30k圏外約2千余世帯の支給額は市長が要綱を規定し、それにより支給した金額で
総額8億5,593万円は不当公金支出であり市の損害金である。
その責任は全て市長にある事をもって、この金額を遅滞無く弁済を市長に要求する。

こういうことがあった,南相馬市では鹿島には見舞金であれ補償金も払うなということがあった,同じ南相馬市民でもそうだった,原町区の人に多かった
鹿島区は30キロ圏外で排除された,でも桜井市長は鹿島区に補償金を払うことに尽力したとある100億円を仮払いとして払った,一人70万の補償金だった
原町区は30キロ圏内だから3倍くらいもらっているとか言われた,場所によっても違うのか原町の人がいくら本当にもらっているのか言わないからわからない
ただ知っている石神の人が古い家がすみにくいからと新しい家を建てた
それは補償金で頭金が用意できたからかもしれない,でもローンなのだからその補償金で全部まにあうようなものではなかった

鹿島区の不満はその後も根強く残り小高とは反目する関係になってしまった
なぜ小高だけが優遇されるのか?それは避難区域になったから当然であり小高の人になればなぜ鹿島区は不満なのかということで反目しあう結果になった
この反目しあうことは市長の責任があったかもしれない
なにか融和策がとれなかった,これが実際は市政の一番の問題だった
とにかく何兆円もの除染とかいろいろ国から金がおりたのだから方法があったともみる
それがゼネコンとか外部のものに流出しただけだとなる
その構図は前からあり変わらなかったともなる

そもそもこの辺では脱原発は当たり前だと思っていた、いくら自民系でもこの地域で脱原発でないこと自体なんなのだとなる,これだけの被害を受けてまだ原発をしようとしているのか?
そのことが理解できない,脱原発でないかぎりこの地域では負けるのではないか?
ただ桜井市長は左系統であり中央との自民とのパイプをもてないから復興に支障をきたすそれは言えるかもしれない,ここにも政府与党と野党の対立がもちこまれている
自分は極力地方自治体の政治は中央の争いをもちこむべきではないと思う
地方自治体はそうういものではなく,福祉の充実とか雇用の充実とか教育保育とかの充実とかもっとその土地に根ざしたものが争点となるべきなのである。
もちろん脱原発はこの辺では当然だと思っていた
そういうものは争点にならないと思っていた

いづれにしろ明日選挙だけどっちにしていいのかまたわからない,国政選挙でもそうだった,自分はしょうがないから希望の党に入れたのである。
今回も桜井市長の応援に希望の党の議員が来たというから脱原発連合がある
ここでは脱原発でないとしたら勝ちようがないのである。
これだけの被害を受けてまた原発をはじめることはありえていと思っていたからである。争点を脱原発なら国政選挙でありここでは脱原発が当たり前として議論外のものとしてある,そうではなくて別なものが争点になるべきなのである。
国の中央の政治が地方でも行われるのは納得いかないとなる

ここでは脱原発を言うまでもなくそれ意外のことに重点を置き政策をすすめてもらいたいとなる
だから鹿島区と小高区が分断されたことの融和策は何かとか議論してもらいたいがない
それが政治のはずなのである。脱原発言うのは簡単なのである。
この辺ではみんなそうだからである,現市長に不満というとき脱原発ではない
鹿島区と小高区の融和策がとれなかったことなどが深刻だったのである。
脱原発なら鹿島であれ小高であれ同じである。するとそれだけを訴えることはこの辺では楽なのである。
それで勝てるということは他の政策を見ないということになる
国レベルとなると脱原発はかえって重要な争点になる,でも全国レベルでもそうならなかった,国民が求めているのは争点は別なものだったとなる
消費税とかなら国民で一致したものがあり争点になったのである。

ともかくここで中央の政治の争いをもってくるのは納得できない,脱原発だけ言っていれば当選するというのも納得できない,政治的課題は実際はこの辺ではそうではなかった
なぜ鹿島区と小高区など融和策がとれなかったということでもあった
この分断によって南相馬市の一体感がなくなったからだ
脱原発は当然としてそれで一体感はもちえないのである。

自分も脱原発というよりこの辺ではみんな脱原発自明としてある,これだけ被害を受けて原発をまたしたいという人はまれになる,それで選挙を勝つとしたら楽だとなる
それが評価されて当選するとしたらそれは地方自治体の長として楽であり他の政策の実行はないがしろにされるのである。
これが争点になるなら確実に桜井市長が勝つ,結果的にはそうなる勢いなのだとも言われる
でも桜井市長に対して不満な人は多いのは鹿島区と小高区の反目などのことである
そういう対立をなくして南相馬市を一体化するにはどうすればいいのかという問題なのである。

ただ門馬氏の主張もわかりにくい,具体的に小高で入院できる病院をつづけるというから小高の人にとってはいいことである。
ただ一方で小高は南相馬市では負担になっている
小高は帰ったのは老人が多いし福祉の街のようになりそこに生産活動する若い人は本当に少ないのである。
小高は今や重荷なのである。そこに南相馬市で予算をつぎこんだり援助することは南相馬市の財政でも苦しくなるのである。
復興しようとしても老人の街であり簡単にはできないからである。
ただこういうことを言うとまた鹿島と小高の対立になり批判されるのである。
原町区はその中間にありその舵取りをどうするのかとなる
そういう具体的なことを何も主張されていない,ただいいことばかりいう
脱原発だけを言うのは楽なのである。自分も脱原発でありそれは自明としてもっと別な深刻な地元の問題がある,それにエネルギーを注ぐべきなのである。

posted by 老鶯 at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

年明けぬ(短歌十首)


年明けぬ(短歌十首)


新年の真澄の空に鳥一羽羽ばたきゆかむ命なるかな

未来にそなお強くしも羽ばたける鳥にしあれや年の明けにき

大海の寄せにし波の轟きて飛び立つ鴎年は明けにき

広々と海そ開けぬ大望を抱くべしかな年の明けにき

年明けぬ昇竜の年や我が命なお盛りなれや神励まさむ

雪閉ざす蔵王望むや新年に太平洋に陽は昇るかも

船一艘太平洋を進むかな名古屋につき奈良に行きしを

津浪後傷痕の癒えぬ死者の霊なお漂うや年は明けにき

年明けぬ心の広く我があらむ糧は豊かに与えられるべし

新地駅新し遠く金華山望みて仙台年は明けにき

年明けぬ国の境を我が越えて広き世界にまたいで行かむ


今年は自分は昇竜の年かもしれむ,本当にいろいろありすぎて苦しんだ
その苦しみからも解放されて一段落した感じにはなる
旅ばかりしていたがここ十年はほとんどしていない,近辺を回るだけだった
だから視野が狭くなったとは言える

この辺の地理だと蔵王が八沢浦とか磯部からははっきり見える
山形県は雪に閉ざされているが太平洋は開けている
海は何か解放されて大望を抱く,ただ海は津浪で大被害になりその傷痕は癒えていない
ただ太平洋フェリーで名古屋に行き奈良まで行ったことなど思い出した
太平洋フェリーには何度も乗ったからである。

今年はなんとか自分にとっては回復の年でありたい,気持ちも広く大きくもちたい
まだ早いかもしれんが有終の美を飾りたいともなる
創作した詩も山ほどある,それをまとめるのが手間なのである。
芸術となるとなかなか完成しにくい、それだけ世界は自然は奥深いのである。

とにかく波乱激動の年は十年はつづいた,だから一方で安定したいというのがある
だから株とかあまりに変動するのは向いていなかったのである。
老人は内面に熟達するのが向いている,外に向かうことや変化が苦手になるのだ
ただ心は狭められるのも良くない,広い自然を宇宙に目を向けるべきである




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なんでも引かれる時代 (資産は増やせない時代)


なんでも引かれる時代

(資産は増やせない時代)


今テレビでサラリーマンの小遣いが3万とかで減ったと放送した,どこで景気が良くなったのか,株もっている人だけであり他はない
アベノミックスは極一部の人達に恩恵があっただけである。そこにトリックがあった
他に投資でも銀行がすすめる商品は投資信託でも何でも引かれる傾向がある
自分がしたのはみんなそうだった,自分は全く知識がなくてはじめたのも原因だった
銀行に預けたら金が増えるという感覚は高度成長時代にあった
銀行に預けたら金は増えない,利子はつかない,そしてさらに銀行から投資信託などをすすめられて確実にへる,分配金が増えていたと思ったら元本から引かれて減っていた
銀行自体がマイナス金利で日銀から減らされる,銀行自体が増えないから増やそうとして投資信託などをすすめる

それはもうあらゆるところで起きている,保険でもそうだと言っている,ゆうちょでも保険を勧誘するがそこでも損させられている,ゆうちょでも地銀でも儲け口がないから今までの顧客に信用があるから顧客から金をとろうとしている
もうどこも引かれる時代である。
高度成長時代のように郵便局であれ銀行であれ金をあずけていれば増える時代はとっくの昔に終わった,その時郵便局とか銀行員は信頼されて地方でもいい職業だったのである。それがもう信用できないものとなってしまった
そういうことをしていると一時的にはいいがやがて郵便局でも地銀でも信用組合でもこれは何なのだとみんなが気づくようになる,これは前のようなものとは違ってきている
するともう信用しなくなり金もまかせなくなる

それはゆうちょとか地銀とかが悪いともならない,背に腹は代えられないからそうなっている,切羽詰まってそうなっている,もうそこにここでも余裕がないのである。
マイナス金利というけどあらゆる所で引かれる時代なのである。
賃金がわずかにあがったとしても保険料とかが上がり引かれる
年金も引かれるし他にもいろいろ引かれる時代で増える時代ではない,増やせないのである。
何か資産を増やそうとすると減らされる引かれる時代になっている
それは社会全体でそうなっているのだ,高度成長時代なら貯金は別に特別の知識とかなくても貯金すれば増えていたのである。今は利子はゼロであり貯金は全く増えない
物価が上がれば目減りしてゆく

自分の資産もどうして金を失ったか書いたけど引かれるだけだったとなる
回りが困窮していれば増やすことはむずかしいのである
高度成長時代はみんなが右肩上がりの成長時代であり増える時代だったのである。
今は株が上がって一見また景気よくなるのかと見えるがそれは錯覚なのである。
アベノミックスの演出であり本当に景気が良くなっているわけではない
確かに株をもっているとか大企業とかの一部は良くなっているが全体に普及していないのである。
サラリーマンの小遣いが3万に減っているというのがわかりやすいのである。

何か老人はもっと使いというけど何をしても引かれる黙っていても引かれる時代である。すると一番安全なのは貯金なのかとなる,株とか投資信託はリスクが大きすぎるしもうからないのである。それをすすめるのは証券会社や銀行がもうかるからである。
ただ投資信託でも株でも自分の利益を度外視すれば税金にもなったし手数料として証券会社と銀行に金は増えたのである。だから投資することは資本主義では社会全体の金回りを良くするということはありうる,貯金にはそういうことはないからである。
ただそこで金を増やすことが個人的にはほとんどできない仕組みになっていたのである。
だから引かれる時代,マイナスの経済である時代にどう生きるかが問題になる
それは若い人と老人では根本的にその対処が違う,株とかは若い人は向いているが老人には向いていない,老人の先は短いからである。
そして時代にもついていけない,知識もないからである。

それで銀行員が信頼できると頼むと引かれるマイナスになる時代である。
本当に株でもうけるのは個人的に大金持ちがプロにまかせる場合なのだろう
それは個人的に雇いまかせるのである。それは銀行でもない証券会社でもないのである。つまり株をしっている個人的な相談役を雇うことなのである。
そういうことができるのはほとんどいない,だからたいがいは引かれる損するのである。証券会社や銀行に相談するなというときそうである。
株に詳しい相談しろというときそうである。でもそんな友達が普通はいないから証券会社や銀行に資産は引かれる時代なのである。

何か自分の資産を増やそうとすると引かれ時代である。だから増やそうとするより守りになる,特に老人はそうである。だから年金保険みたいなのがいいとなる
確実に将来入ってくるとなると安心するのである。
老人にはそういう金融商品があっていたのである。そして地銀とかでもすすめるのは自分たちがもうかるものでありそういうところに頼めば引かれるだけだとなる
ただ銀行などでも将来を考えるともうそいうことがみんながわかると頼まなくなる
信頼はなくなる,するとどうなるのか?
一時的にもうかったとしてもそういう商売は長くはつづかない,切羽詰まっているからもう地銀などは将来など考えないのかもしれない,第一もう地銀はなくなるとするとこれまでの地元を足で歩いて信頼を築いてきた資産を元に投資信託などでもうけてあとは消滅すればいいとなっているのかもしれない,将来のことすら余裕がないと考えられないのである。

つまり余裕がないということはあらゆるところに悪い影響がでてくる
それは人生でもそうだし社会でもそうである。
勉強でも余裕をもって勉強すれば身につくことがあるから受験だとかせかされるとできないということがある,試験のために追われていたから何が勉強なのかわからなかった
人生でも余裕がないということはあらゆることに影響している
芸術でも勉強でも余裕がないとできない,だから社会にとって余裕が大事である。
その余裕が現代では一番もてない,そうするとそういう社会に生きることは幸福ではない江戸時代は貧乏だけど余裕があったかもしれない,仕事も午後二時で終わったとしたら十分な時間の余裕はあったとなる,田から現代社会の余裕のなさはどこから生まれているのか考える必要がある。

金は否定できないが何か金に追われるのはなぜか?それは足りることを知らないかからかもしれない,これで十分だということは今の社会ではない,これが欲しいあれが欲しいと限りなく欲望を拡大するのが資本主義だからである。
常に充たされない渇望になり餓鬼地獄になっているのが資本主義社会だともなる
だからもうそれも限界に近づいている,幸福を追求しているとして幸福になっていないのが現代である。
栃餅を山では作り食べていた,それは外には売られていない,狭い地域で家族だけで生産して食べていた,それを売り何かを買おうとしたとき大量に栃餅を作ることになる
するとどうなるのか?毎日日夜栃餅を作ることになる,それで時間の余裕がなくなるのである。そういう生活になったのが現代の資本主義社会だとなる

恒産なくして恒心なし

上は父母に十分に仕えられるように、下は妻子を十分に養えるように、そして豊年の年には腹一杯食べることができ、不作の年にも餓死をさせることなく、そのようにしてから国民を励まして善い行いをするように仕向けました。 
そのために国民は君主に従うことがたやすかったのです。

恒産とは常なる産であり常に産出するものとすると農業に由来して生まれた道徳である。だからこれを今にあてはめるのはむずかしいがつまり人間は余裕がないと道徳もありえないことは同じなのである。
この恒産とは金ではない,常に農業時代なら米などの実りがありそれが安心に通じていた今ほど株のように変動しやすい時代では通じない
そういう社会は余裕がないから幸福なの社会ではないのである。
ただ人間は無常というとき常なるものがないのだ,それはいつの時代でもそうである。
この辺は本当に津浪原発事故で無常を経験した,だから恒産をもつといってもそういう平和がつづいた時代も個人的に短いのである。
自分の場合は30年つづいたからこれはありえないことでもあった,そうして生きられていたことは例外的だったともなる
ただその後に家族がみんな死んで急速に無常を経験したのである。

国民は君主に従うことがたやすかったのです。

高度成長時代はこうなっていたのかもしれない,国民は将来の見通しも経済的に明るいしそれは国の政治でも安定して従い安いとなっていたからである。







posted by 老鶯 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題