2018年01月19日

余裕なき社会は他人を思いやることができない (格差社会で金持ちも危険になる)


余裕なき社会は他人を思いやることができない

(格差社会で金持ちも危険になる)


自分のことばかり書いて恐縮だが自分に起きたことはやはり社会にも起きるし現代の社会現象なのである。
金の社会だというとき今だけではない,金のために日夜ある,金が頭から離れる時はないそういう社会に生きている
結果的にどうなるのか?余裕がない社会になる

事業失敗した人は借金している人はまず余裕などもてない,なんとか借金を返そうとそれしか頭にない,金ことしか頭にない,すると相手のことを思いやることなど微塵もない
ただ金をとってやろうとういう考えになる,それが極端になると盗むとなり犯罪になる
現実にそういう目に自分はあってきた

貧困社会になるとそういう余裕がない人が巷にあふれることになる,するといくら金をもっている金持ちでも実際は危険になり住みずらい世の中にある
ただ本当に自分の場合不思議なのはそういう目に30年間あっていないのだ
だから他者がそんなに困窮していたのかと驚きなのである。
社会と人と接しないでそれなりの財産があって家族が守ってくれればそうなる
ただそうなることは本当にまれなことだった
みんなこうして金に追われて追い詰められて生きていたとなる

そういう人と直接接しなければわからないのである。
だから大金持ちでもそんな金に困っている人いたのとなる
マリーアントワネットが「パンがなければ お菓子を食べればいいじゃない」
とかなる
貴族は宮廷で何不自由なく生活している,そうした貧民と接しないから全くそういう人がいることもわからないのである。
結果的にどうなったか,革命がありギロチンで殺されたのである。
その悲劇はまさに全くそういう貧民がいることすら気づかないとういことにあったのだ

自分は20代は苦しんでいた,アルバイトを転々としていたからである。工事現場でも働いたことがある,例えば冷凍庫の中で働いたのは厳しかった,零下20度くらいになっていたからである。あいういうところで働いていると体を壊しやすいことは確かである。
ただ30以降は全くそうした苦労をしていないのである。旅に明け暮れて終わったとなる
だからこそこうして今苦労を強いられたとなる

ただ自分だけではない,政治家でもそうした貧民がいることをじかに接しないものはわからないのである。野菜の値段が上がったといっても無関心になる
総理大臣でも本当に貧民がいるというこをじかに接しないからわからないのである。
金持ちでもじかに貧民と接しなければそういう人がいるということすら見えないわからないのである。どこにそんな困った人いるのとなってしまう
そういう人もまた多いのである。政治家ですらそうだからおして知るべしとなる

自分でもだから意外だったのである。こんなに困っていたのか?
そんな人がいたのかとなる,それでこれまで書いてきたように自分はそういう人達に苦しめられたのである。
まずそういう人達他人のことを思いやることができない,みんな自分が優先になる
自分のことしか考えられないのである。
だからこいつが金があるんだからとればいいしかない,その人が困り苦しんでいても関係ないのである。
それは結局余裕がないからである。他人に思いやりがある人は余裕があるからなのだ
金持ちは貧乏人をかわいそうだねと言えるのは思いやりをもちうるのは余裕があるからである。貧乏人は明日食べるものどうしようとしたら他人を思いやる余裕がないのである。

そして高度成長から低成長時代になると地銀なども余裕がなくなった
それでどうして収入を得るのかとなる投資信託とか株をすすめることになる
それも相手を思いやるのではない,銀行にとって都合のいいものをすすめるのである。
手数料をとれるものをすすめる,相手のことを考えないのである。
だから自分は何度も別に大きなもうけはいらない,少しで増えればいいと何度も言っていたのである。そういう商品はただここの地銀では買えない
東京のメガバンクとかそうでなくても他では用意してある
それは老人用であり定期預金に多少利子がつくような年金的な保険のようなものである。そういう方が老人には向いていたが地銀とか証券会社ではそれではもうけにならないから投資信託とか株をすすめるのである。それは非常にリスクが大きいので理解するのもむずかしいから老人向きではなかったのである。

そういうことは前からあったにしろ現代は地銀のような固い職業もそうなっている
地銀はもう融資先がなく必要もないとなればどうしてもうけるのだとなり切迫してくる
つまり余裕がないから顧客を本当に思いやる対応ができないのである。
それはあらゆる人がそうなっているのである。
ただ金持ちは喧嘩せずとかあり金持ちは余裕があるからガツガツしない
ただ金持ちでもマリーアントワネットのように格差社会がこれだけすすむと危険になる
なんらか貧民の暴動とかが起きてくる,それは自分が経験している
追い詰められた人間は犯罪など恐れないからである。
格差社会の怖さはそこにあった,田舎などでは金持ちは目立つし真っ先に標的にされる
そういう自覚がない人がマリーアントワネットのように多いのである。
そして現実に貧民の反乱が起きて殺されるということまでなる,そして愕然とするのである。それは貴族が貧民のことに関心をもたない,関係ないとしていたから起きたのである。

タグ:格差社会
posted by 老鶯 at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

町(街)作りは土地の特性を活かすこと (相馬地方にも多様な土地の特性がある)


町(街)作りは土地の特性を活かすこと

(相馬地方にも多様な土地の特性がある)

実はドイツにも「まちづくり」のような使い勝手のよい言葉はある。「立地要因」「立地特性」などと訳される”Standortfaktor”がそうだ

市町村でどうして特徴を出した町作りができるか?
ドイツでは町作りという概念がないという
「立地要因」「立地特性」というのがある

これは興味深い言葉である。立地要因とはその土地の特性このである。
相馬地方でも立地特性というときどういうことなのか?
原町の深野のことを例にあげたがそれは地理的特性と歴史的特性とがある
まず地理的特性から人間の住む場所が決められる
だから地理的特性の影響は大きいのである。
海側と山側に住むものは感覚的に相当違ってくるのである。
職業でも漁業にたずさわるものと農業にたずさわるものでは感覚的相当違っている
浜通りにはこの二つの特性がある,常に海に面して山に面しているからである。
ただ山は高くないからどちらかというと森につつまれているともなる
飯館村は森の村だったからである。70パーセントが森だったからである。

相馬地方の立地特性としては海側と山側に分かれるからである。
松川浦があり八沢浦があり津浪の前は右田浜の松原があったが消失して風力発電の風車の風景になった,あとはソーラーパネルになったから土地の特性を失ったのである。
必ず土地の特性はある,新田川とういう浅い川であり瀬音がするから広瀬川とにている
それで青葉城恋歌ができたりする,それは土地の特性と結びついていたのである。

その土地の特性を活かすことが町づくりの基本としてある,松川浦がありそこに海の幸があり特性を活かせる,ただ津浪で松原とかアサリ取りがなくなり打撃が大きかった
その特性を活かせなくなったからである。
松川浦でとれた魚を出せないとしたら魅力がなくなるからだ
その土地の特性が津浪とか原発事故で失われたことは痛手だった
ただ海でも山でも川でもなくなったわけではない,だから高瀬川は景勝の地としてある
そこに相馬焼きの大堀の窯元があった,ふさわしい風光明媚な場所にあって特性を活かしていたのである。

だからどういう町作りをするのか?南相馬市長選挙があり課題となる
そういうことは別に争点にはならないがその土地の特性を活かすことが町作りになる
深野のことを書いたがあそこにユッサがあり温泉が一応あることはその土地とマッチして特性を活かしたものだったのである。
自分は深野というとき何か魅力を感じる,そこは何も変哲のない場所なのである。
その理由はわからない,ふこうのという地名の名もいいのか?
歴史としても中世からあり古いのである。大原より古いのである。
それは歴史的特性としてある,その歴史的特性を活かすことも町作りである。

相馬氏では公共の建物を入母屋作りにして統一しているからそれも街作りになる
そこには相馬の六万石の城跡があるからそこを基点に城下町風の街作りをしている
それはある程度評価するがそんな建物ばかりに金をかけるなという批判もある
何か自分は異常に景観にこだわるから評価している
景観を壊すものソーラーパネルでも過剰になると嫌だとなる
最近は深野でも土がえぐりとられてむき出しになっている所が多いので嫌だとなる
でもそういう景観は金にならないから普通は無頓着なのである。

自分は全国でも旅したからその土地の特性を地理からみる,相馬地方でもそうである。
狭い地域でも実は土地の風土の特性と地勢の特性と歴史的特性がある
これを町作りに活かすことなのである。相馬地方が海と山と森があるから平凡なようで多様な土地の特性がある,それを自分は詩にしてきた
少子高齢化でコンパクトシティが言われるが自分としては村が消失することはその土地の多様性が失われることだから問題があるとみる
街の中心にすべてがあること,病院でもスーパーでも何でもそこで用を足せるから車が無くても暮らせるようにするというのもわかる
鉄道の駅を中心にするというのもそうである。鉄道の場合は老人が車を運転できなくなるからである。

駅で会った元は小高に住んでいた女性も車を運転しなくなったので電車を利用してきた
でも電車の乗り方がわからないといっていた,そういう人も車社会では多いのである。
だから車社会は高齢化社会にはそぐわないものとなる
そのためには小高では乗合タクシーを市の方に何度も陳情して利用できるにしていた
その女性もかかわって何度も要求してできたのだといっていた
ところが鹿島ではそういうことをしないから原発事故の前は小高の方が何かと役所でも立派なものが建ったり高校ができたりと良かったのである。
それはやはりこうして運動する人がいたからだと思った

南相馬市の市長選挙でこうした町(街)作りのビジョンを建てているのか?
そういうものが見えない,何か政策も似たりよったりである。だからどっちに票を入れていいかまたわからないのである。
際だって違うものがないのである。脱原発だけが相違というのでは何かもう一つ地方選挙では目立たないのである。
ただ実務となると自分のように詩的な観点からは見ない,自分はどうしても景観とか詩的美的観点から見ているのである。
だから八沢浦が入江に一時になったとき奇跡だとして感動していたのである。
でもそこで死んだ人がいて幼児でも泥のなから掘り出しているという人がいて叱責されたのは当然だったのである。
一般的には美的観点から見る人はまれだからである。
ただその土地の特性を活かすときそこに安らぎが生まれる,その土地にそぐわないものがあると安らぎが失われる,ソーラーパネルなどはそうなるが経済的には土地を活かすために容認せざるをえないのである。

ともかく津浪原発事故後の町づくりは変わってしまった,すでに変わっている右田は風力発電となり景観がまるで変わってしまった,あそこに植樹して森を作っても森は映えない風力発電の方に圧倒されるしそこからの騒音があるかもしれない,つまりそこがかつての右田の松原のように憩える場ではなくなったのである。
だから50年後でもそこに森が生まれてもそうだろう。自然は活かせないのである。
なんらか人工的なものは自然を破壊して景観を乱すのである。


深野の秋の詩

その家は石神にありて古しも
昔紙漉きをしたる家と
深野より嫁ぎし女は語る
新田川、水無川の清き水に
寒き冬に紙漉きの生業ありぬ
押釜村には一六軒もありぬれ
今日石神村の八坂神社をたずねぬ
団栗の石段に落ちて我が上り
その木々の古りしと秋の日さしぬ
その謂れは何や社も古りしも
石神より深野に来たりて
百井の姓と深野の姓の家や何か語る
その細道行きて土地の人と話しぬ
豪倉という地名は村の米倉
今この一村にも実りのあれ
飢饉の時の備えなりと地名に残りぬ
樹々の根づきて屋敷を囲む
松に蔵ある家や秋の日のさし
落ち着く暮らし継ぎにしも
ここに誠の日と美しき日々のあれ
深野は大原より古き村なり
山陰に墓のもの寂びてあり
新田川の岸辺に芒なびきて
流れに光まぶしく反射しぬ
ここに太陽も喜び輝き沈む
国見山仰ぎて深野の秋の日暮れむ

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この詩でも詩とか芸術は深くその土地の地勢とか歴史的特性から生まれているのである。


八坂神社は日本に多い,この辺では相馬市にもある,いたるところにある
もともとは渡来系である,秦氏関係だという
京都の八坂神社が本殿である。でもなぜ全国にあるのか?
そしてなぜ石神にありいつ建てられたのか?
神社の場合,なぜそこにいつ建てられたのか?
それが不明なのが多いのである。
posted by 老鶯 at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

南相馬市長選挙を前回の渡辺氏との政策の相違で考える (自民系と左(共産系)とかの戦いのなか?)


南相馬市長選挙を前回の渡辺氏との政策の相違で考える

(自民系と左(共産系)とかの戦いのなか?)


南相馬市の復興を考える

A 帰還困難区域については移住費用を支援。帰還困難区域以外は「戻る」選択には賠償追加で支援。帰還困難区域以外で「戻らない」選択には支援しない。 
B 除染一辺倒から、除染・インフラ整備・汚染水対策・廃炉を「大きな公共事業」とし、税金を投入する。

自動車関連企業、成長産業である医療機器やロボット産業とは、グローバル経済に対応し、規模が大きく、成長を追求する産業だ。それらの企業は、言うまでもなく、東京に本社を置くグローバル企業、あるいは海外に拠点を置く多国籍企業だ。そして収益の最大化を目的にしている。地域で生み出した利益の大半は本社のある東京や海外に移転し、企業内に留保される。地域にはほんの一部しか循環しない。

交通インフラの整備とは、企業誘致を当て込んで、道路などの基盤整備を行うということだ。しかし、住民の生活再建が依然として進んでいないのに、企業誘致のための道路建設に復興資金を使うことに住民が納得するだろうか。 
 また、その公共事業を受注するのが被災地外のゼネコンであれば、被災地の企業に回るお金は限られ、被災地の企業の復興は進まない。しかも、公共事業は一回限りの投資で、持続性はない。

 隣りの宮城県では、農業への新規参入を積極的に進めている。野村ホールディングス、サイゼリア、カゴメ、IBM、GEなど、外食産業ばかりか農業に無縁と思われるグローバル企業が、農業生産法人を設立し、植物工場などを始めている。 
 これも、企業誘致のところで見た通り、外国や東京に本社を置く企業が、地域の契約農家を組織し、生産物の加工工場をつくり、それらを販売する店舗を設置するということをやったとしても、その利益は、ことごとく東京や外国の本社に流出し、地域には一部しか循環しない。

 火発も原発も、東京・首都圏への集中・集積やグローバル企業の収益には貢献するが、地域への分配はわずか。住民が受け取る所得は非常に小さい。電力会社の本社は、東京電力は東京に、東北電力は仙台にあり、その所得はこの地域の外に出て行く。むしろ長期的には地域の衰退を促進するものでしかない。 
 これは、脱原発ということで、再生可能エネルギーを導入したとしても問題は同じだ。被災地外の企業が発電設備を運営すればその利益は地域には残らない。

 横山、渡辺両氏らには、<福島の原子力災害問題はもう終わりにして、開発政策に舵を切りたい>という意志がはっきりとあって、それを進める上で邪魔になっていた桜井市長を落とそうとして動いていた

 汚染を引き起こした加害者が、加害責任を問われていない。それどころか、彼ら自身、加害者だという自覚が全くない。

 福島が受けた原子力災害とは何だったのか。それは、中央や公共事業や大企業に依存したら、何かしらの恩恵が地方にもあるのではないかという幻想の行き着いた果てだった。それを再び繰り返すのだろうか。そうではなく、その犠牲と教訓から、破産した政策を総括し、社会や経済や政治のあり方を根本的に見直すということではないだろうか。


帰還困難区域以外は「戻る」選択には賠償追加で支援。帰還困難区域以外で「戻らない」選択には支援しない。

これは前から自分も言っていた,補償金でいち早く原町であり鹿島であれ相馬市や新地でも家を建てた人がいた,そういう人に金を支払ったらもうもどらない人なのだから復興はありえないのである。でも現実はそういう人が多かったのである。
そして浪江町の人でも南相馬市とかに「浪江町」を作るとか構想があり二本松でもあったとういがそれは無理である。そしたら南相馬市民との軋轢が生まれるからである。

そもそも復興する主体が誰なのか?

外部の人がいろいろ言ってもそこに住んでいた人のはずだがその人たち故郷を捨てているのである。その町を捨てる人に補償金を払っているのだからますます帰らない
もう自分たちはここに住む他ないとなれば覚悟ができて復興ができるかもしれない
それよりいかに荒廃した町から脱出するからが課題になってしまった
何か町を再生したいという町への故郷への思いがあまり見えないのである。
ただ離散分裂してなんとか一体になり復興しようとする気持ちが感じられないのである。
要するにこの辺でも言っていたが土地が安い時家を建てた人は賢かった
それは小高の人だったのである。
いち早く見切りをつけた人が勝ち組だったとなっている
つまり故郷の人のつながりなどは現代ではない,田舎でもない,金が支配するというとき金があったらどこに住んでもいいならそんな荒廃した町に帰る必要はないとなった
それは現代社会が広域化グローバル化したからである。
一つの土地に執着する必要はない,金さえあればいい場所にどこでも住んでいいのだという社会である。そういう社会は危難にもろく一挙にコミニュティも崩壊したのである。

自動車関連企業、成長産業である医療機器やロボット産業とは、グローバル経済に対応し、規模が大きく、成長を追求する産業だ。それらの企業は、言うまでもなく、東京に本社を置くグローバル企業、あるいは海外に拠点を置く多国籍企業だ。そして収益の最大化を目的にしている。地域で生み出した利益の大半は本社のある東京や海外に移転し、企業内に留保される。地域にはほんの一部しか循環しない。

この辺はロボットとかドローンの工場基地ができる,ではその収益はどこにゆくのか?
東京に本社があるグローバル企業にゆく,この辺の会社の社長は東京に住んでいる
地元に住んでいないのである。それで社員が駅に社長を迎えに来る
東北サッシでもそうだし友伸エンジニアでもそうである。
つまりその収益は地元に有効に回るとはならないともなる,地元に社長が住んでいればまた別である。
そもそも東電とか東北電力でもそうだというときそれは世界的傾向である

多国籍企業の力は絶大でありそれに逆らうことは不可能になっている
それは国より強力なのである。国すらどうにもならないのである。
地域に金が回らないというとき証券会社がもってきたのは地銀を通してもってきたのはこうしたロボットとか人工知能などのファンドである,だからこういう会社に投資してもうけようとすればそこに投資する
それがグローバル経済なのである。地域に金はおりないというとき矛盾しているけどこういうファンドに投資するほかないのである。地域というのこえてグローバル経済になっているということはそういうことなのである。


このことを感じたのは地銀もそうなっていたのである。東京の証券会社の人が地銀の銀行員を連れて投資信託をすすめる,そういうことができるのは地銀で地元で培った対面的な営業の信頼関係で顧客があるからだ,そうした継続として地銀は信用できるものとして地元で仕事していたのである。
それが東京の証券会社の下請けとなりその出向した証券会社の指示で動いているのであるすると証券会社の支社が地銀なのか?実質はもうそうなっているのである。
地銀はもう地元に貢献するものとしてありえなくなったから合併したり消滅すると言われるようになったのである。
ただ地銀ではつくづく金融商品が本当に少ない,そろえることができない
老人用の保険などが安全なものが作られているからだ
ここだけは田舎は不利だった,東京と田舎の差はここでは歴然としていたのである。
地銀もグローバル化して巨大証券会社の一支店のようにされる
その収入は東京に吸い上げられるともなる,そのおこぼれを地銀が受けるとかなってしまう。

宮城県では、農業への新規参入を積極的に進めている。野村ホールディングス、サイゼリア、カゴメ、IBM、GEなど、外食産業ばかりか農業に無縁と思われるグローバル企業が、農業生産法人を設立し、植物工場などを始めている

これも収入は地元にはわずかで東京にある会社に吸収される,それはイオンがそうである地元の商店街が壊滅してイオンだけが郊外に繁栄する,その収益は地元にはわずかだともなる,それが資本主義社会だとなればこういうことは世界中に起きているのである。
するとそもそもが資本主義とか反グローバルにならないと解決しえない問題である。
でもそれに対抗できるものがあるのか?
この巨大な怪物と化した大企業とかグローバル多国籍企業に対抗できるものがあるのか?
そもそもが東電の原発は何も強制的に国とか企業がおしつけたものではない

双葉とか大熊とか出稼ぎ者が多く地元で働きたいということで地元の人が積極的に誘致したものなのである。
もしその時貧乏でも別な志向が働いていれば今日のようにはなっていないのである。
そして現実に東電の原発依存の経済になっていたのである。
それで経済が成り立ってしまったからもうそれ以外のことは考えられなくなったのであるふりかえると本当は原発を誘致するときこそ地元の人が重大の判断と決断をしなければならないときだったのである。
でもほとんどそうした真剣な議論もない,将来の世代のことも考えない
ともかく金だとなり何の抵抗もなく原発は建てられたのである。
その後も原発の安全神話が作られてきた,地元で原発が危険だというと危険人物にされて住めなくすらなっていたのである。

福島が受けた原子力災害とは何だったのか。それは、中央や公共事業や大企業に依存したら、何かしらの恩恵が地方にもあるのではないかという幻想の行き着いた果てだった。

これは左でも同調する,ただではこうした大企業とかグローバル多国籍企業とかに対抗するものが地域にあるのか?
何をもって地域の経済を成り立たせるのか,漁業では金にならない,農業はだめだ,林業はだめだとなり一体何をもって地域の経済を成り立たせて復興がありえるのか?
それが問われた,何かその対抗策があれば納得するがない
そこに左系統の言い分に同調してもみんなの賛成が得られないからこそ原発でも企業の工場でも誘致されているのである。むしろ積極的に自治体が誘致しているのである。
働く場所がないからそうなる,漁業,農業,林業では成り立たない社会になっているからである。
ただそうしたグローバル多国籍企業とかの影響で今回のような悲惨なことにここがなったことは確かである。

その公共事業を受注するのが被災地外のゼネコンであれば、被災地の企業に回るお金は限られ、被災地の企業の復興は進まない。しかも、公共事業は一回限りの投資で、持続性はない。

その金をもし地元の復興に使えばもっと有効なものとなった,補償金にだってあてることができて小高とか鹿島とかが憎みあうこともなかったのである。
除染に何兆円もつぎこんでもその金はゼネコンに流れて地元に恩恵がなかったのである。

そもそも右は原発賛成である。左は反対である。そしてそれはそこで二分されてどっちかの陣営につかねばならない,それで武田邦彦氏は原発反対なのだが右であり左の人とはうまくいかないとなる,自分は心情は右である。国の文化と地域の風土とかに根ざした経済とか文化の町作りを推進する方である。
また原発は反対である。第一これだけの被害を受けて脱原発になるのがこの辺では普通である。それが自民系にはないのかとなる
それは党派の問題でもない,地域は党派越えたものがあるからだ
中央の政治の争いをもちこみにくい場でもある,だから無所属の方がいいとなる
今回の門馬氏は明かに自民公明だから保守系として出ているから渡辺氏と同じになるのか?
門馬氏の主張はアピールは何なのかわかりにくい,何が争点なのか?
脱原発になるとそれはこの辺では当たり前なのである。
そのことで勝敗が決まるのか?それも納得いかないのである。
復興の進め方なのか?そこに門馬氏と桜井市で相違があるのか?
右は自民の政権は除染は終わり帰還して普通の暮らしにもどるべきとしている
左はそうではない,除染は必要でありもっと放射能対策を継続すべきだとなる

横山、渡辺両氏らには、<福島の原子力災害問題はもう終わりにして、開発政策に舵を切りたい>という意志がはっきりとあって、それを進める上で邪魔になっていた桜井市長を落とそうとして動いていた

門馬氏は自民党だから渡辺氏とかと共通しているのか?
今回の選挙も自民と左系統の政党の争いが地方でも行われるのか?
これもどこに判断基準を置くのかむずかしい
ただ門馬氏の主張はもう一つはっきりしないから自民から出た渡辺氏の主張とダブルことがあるのかと検討したのである。





posted by 老鶯 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月20日

なんでも引かれる時代 (資産は増やせない時代)


なんでも引かれる時代

(資産は増やせない時代)


今テレビでサラリーマンの小遣いが3万とかで減ったと放送した,どこで景気が良くなったのか,株もっている人だけであり他はない
アベノミックスは極一部の人達に恩恵があっただけである。そこにトリックがあった
他に投資でも銀行がすすめる商品は投資信託でも何でも引かれる傾向がある
自分がしたのはみんなそうだった,自分は全く知識がなくてはじめたのも原因だった
銀行に預けたら金が増えるという感覚は高度成長時代にあった
銀行に預けたら金は増えない,利子はつかない,そしてさらに銀行から投資信託などをすすめられて確実にへる,分配金が増えていたと思ったら元本から引かれて減っていた
銀行自体がマイナス金利で日銀から減らされる,銀行自体が増えないから増やそうとして投資信託などをすすめる

それはもうあらゆるところで起きている,保険でもそうだと言っている,ゆうちょでも保険を勧誘するがそこでも損させられている,ゆうちょでも地銀でも儲け口がないから今までの顧客に信用があるから顧客から金をとろうとしている
もうどこも引かれる時代である。
高度成長時代のように郵便局であれ銀行であれ金をあずけていれば増える時代はとっくの昔に終わった,その時郵便局とか銀行員は信頼されて地方でもいい職業だったのである。それがもう信用できないものとなってしまった
そういうことをしていると一時的にはいいがやがて郵便局でも地銀でも信用組合でもこれは何なのだとみんなが気づくようになる,これは前のようなものとは違ってきている
するともう信用しなくなり金もまかせなくなる

それはゆうちょとか地銀とかが悪いともならない,背に腹は代えられないからそうなっている,切羽詰まってそうなっている,もうそこにここでも余裕がないのである。
マイナス金利というけどあらゆる所で引かれる時代なのである。
賃金がわずかにあがったとしても保険料とかが上がり引かれる
年金も引かれるし他にもいろいろ引かれる時代で増える時代ではない,増やせないのである。
何か資産を増やそうとすると減らされる引かれる時代になっている
それは社会全体でそうなっているのだ,高度成長時代なら貯金は別に特別の知識とかなくても貯金すれば増えていたのである。今は利子はゼロであり貯金は全く増えない
物価が上がれば目減りしてゆく

自分の資産もどうして金を失ったか書いたけど引かれるだけだったとなる
回りが困窮していれば増やすことはむずかしいのである
高度成長時代はみんなが右肩上がりの成長時代であり増える時代だったのである。
今は株が上がって一見また景気よくなるのかと見えるがそれは錯覚なのである。
アベノミックスの演出であり本当に景気が良くなっているわけではない
確かに株をもっているとか大企業とかの一部は良くなっているが全体に普及していないのである。
サラリーマンの小遣いが3万に減っているというのがわかりやすいのである。

何か老人はもっと使いというけど何をしても引かれる黙っていても引かれる時代である。すると一番安全なのは貯金なのかとなる,株とか投資信託はリスクが大きすぎるしもうからないのである。それをすすめるのは証券会社や銀行がもうかるからである。
ただ投資信託でも株でも自分の利益を度外視すれば税金にもなったし手数料として証券会社と銀行に金は増えたのである。だから投資することは資本主義では社会全体の金回りを良くするということはありうる,貯金にはそういうことはないからである。
ただそこで金を増やすことが個人的にはほとんどできない仕組みになっていたのである。
だから引かれる時代,マイナスの経済である時代にどう生きるかが問題になる
それは若い人と老人では根本的にその対処が違う,株とかは若い人は向いているが老人には向いていない,老人の先は短いからである。
そして時代にもついていけない,知識もないからである。

それで銀行員が信頼できると頼むと引かれるマイナスになる時代である。
本当に株でもうけるのは個人的に大金持ちがプロにまかせる場合なのだろう
それは個人的に雇いまかせるのである。それは銀行でもない証券会社でもないのである。つまり株をしっている個人的な相談役を雇うことなのである。
そういうことができるのはほとんどいない,だからたいがいは引かれる損するのである。証券会社や銀行に相談するなというときそうである。
株に詳しい相談しろというときそうである。でもそんな友達が普通はいないから証券会社や銀行に資産は引かれる時代なのである。

何か自分の資産を増やそうとすると引かれ時代である。だから増やそうとするより守りになる,特に老人はそうである。だから年金保険みたいなのがいいとなる
確実に将来入ってくるとなると安心するのである。
老人にはそういう金融商品があっていたのである。そして地銀とかでもすすめるのは自分たちがもうかるものでありそういうところに頼めば引かれるだけだとなる
ただ銀行などでも将来を考えるともうそいうことがみんながわかると頼まなくなる
信頼はなくなる,するとどうなるのか?
一時的にもうかったとしてもそういう商売は長くはつづかない,切羽詰まっているからもう地銀などは将来など考えないのかもしれない,第一もう地銀はなくなるとするとこれまでの地元を足で歩いて信頼を築いてきた資産を元に投資信託などでもうけてあとは消滅すればいいとなっているのかもしれない,将来のことすら余裕がないと考えられないのである。

つまり余裕がないということはあらゆるところに悪い影響がでてくる
それは人生でもそうだし社会でもそうである。
勉強でも余裕をもって勉強すれば身につくことがあるから受験だとかせかされるとできないということがある,試験のために追われていたから何が勉強なのかわからなかった
人生でも余裕がないということはあらゆることに影響している
芸術でも勉強でも余裕がないとできない,だから社会にとって余裕が大事である。
その余裕が現代では一番もてない,そうするとそういう社会に生きることは幸福ではない江戸時代は貧乏だけど余裕があったかもしれない,仕事も午後二時で終わったとしたら十分な時間の余裕はあったとなる,田から現代社会の余裕のなさはどこから生まれているのか考える必要がある。

金は否定できないが何か金に追われるのはなぜか?それは足りることを知らないかからかもしれない,これで十分だということは今の社会ではない,これが欲しいあれが欲しいと限りなく欲望を拡大するのが資本主義だからである。
常に充たされない渇望になり餓鬼地獄になっているのが資本主義社会だともなる
だからもうそれも限界に近づいている,幸福を追求しているとして幸福になっていないのが現代である。
栃餅を山では作り食べていた,それは外には売られていない,狭い地域で家族だけで生産して食べていた,それを売り何かを買おうとしたとき大量に栃餅を作ることになる
するとどうなるのか?毎日日夜栃餅を作ることになる,それで時間の余裕がなくなるのである。そういう生活になったのが現代の資本主義社会だとなる

恒産なくして恒心なし

上は父母に十分に仕えられるように、下は妻子を十分に養えるように、そして豊年の年には腹一杯食べることができ、不作の年にも餓死をさせることなく、そのようにしてから国民を励まして善い行いをするように仕向けました。 
そのために国民は君主に従うことがたやすかったのです。

恒産とは常なる産であり常に産出するものとすると農業に由来して生まれた道徳である。だからこれを今にあてはめるのはむずかしいがつまり人間は余裕がないと道徳もありえないことは同じなのである。
この恒産とは金ではない,常に農業時代なら米などの実りがありそれが安心に通じていた今ほど株のように変動しやすい時代では通じない
そういう社会は余裕がないから幸福なの社会ではないのである。
ただ人間は無常というとき常なるものがないのだ,それはいつの時代でもそうである。
この辺は本当に津浪原発事故で無常を経験した,だから恒産をもつといってもそういう平和がつづいた時代も個人的に短いのである。
自分の場合は30年つづいたからこれはありえないことでもあった,そうして生きられていたことは例外的だったともなる
ただその後に家族がみんな死んで急速に無常を経験したのである。

国民は君主に従うことがたやすかったのです。

高度成長時代はこうなっていたのかもしれない,国民は将来の見通しも経済的に明るいしそれは国の政治でも安定して従い安いとなっていたからである。







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年明けぬ(短歌十首)


年明けぬ(短歌十首)


新年の真澄の空に鳥一羽羽ばたきゆかむ命なるかな

未来にそなお強くしも羽ばたける鳥にしあれや年の明けにき

大海の寄せにし波の轟きて飛び立つ鴎年は明けにき

広々と海そ開けぬ大望を抱くべしかな年の明けにき

年明けぬ昇竜の年や我が命なお盛りなれや神励まさむ

雪閉ざす蔵王望むや新年に太平洋に陽は昇るかも

船一艘太平洋を進むかな名古屋につき奈良に行きしを

津浪後傷痕の癒えぬ死者の霊なお漂うや年は明けにき

年明けぬ心の広く我があらむ糧は豊かに与えられるべし

新地駅新し遠く金華山望みて仙台年は明けにき

年明けぬ国の境を我が越えて広き世界にまたいで行かむ


今年は自分は昇竜の年かもしれむ,本当にいろいろありすぎて苦しんだ
その苦しみからも解放されて一段落した感じにはなる
旅ばかりしていたがここ十年はほとんどしていない,近辺を回るだけだった
だから視野が狭くなったとは言える

この辺の地理だと蔵王が八沢浦とか磯部からははっきり見える
山形県は雪に閉ざされているが太平洋は開けている
海は何か解放されて大望を抱く,ただ海は津浪で大被害になりその傷痕は癒えていない
ただ太平洋フェリーで名古屋に行き奈良まで行ったことなど思い出した
太平洋フェリーには何度も乗ったからである。

今年はなんとか自分にとっては回復の年でありたい,気持ちも広く大きくもちたい
まだ早いかもしれんが有終の美を飾りたいともなる
創作した詩も山ほどある,それをまとめるのが手間なのである。
芸術となるとなかなか完成しにくい、それだけ世界は自然は奥深いのである。

とにかく波乱激動の年は十年はつづいた,だから一方で安定したいというのがある
だから株とかあまりに変動するのは向いていなかったのである。
老人は内面に熟達するのが向いている,外に向かうことや変化が苦手になるのだ
ただ心は狭められるのも良くない,広い自然を宇宙に目を向けるべきである




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争点は脱原発では桜井市長が勝つ (他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)


争点は脱原発では桜井市長が勝つ

(他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)

脱原発、脱原発,・・・これで勝ちでいいのか


30k圏外約2千余世帯の支給額は市長が要綱を規定し、それにより支給した金額で
総額8億5,593万円は不当公金支出であり市の損害金である。
その責任は全て市長にある事をもって、この金額を遅滞無く弁済を市長に要求する。

こういうことがあった,南相馬市では鹿島には見舞金であれ補償金も払うなということがあった,同じ南相馬市民でもそうだった,原町区の人に多かった
鹿島区は30キロ圏外で排除された,でも桜井市長は鹿島区に補償金を払うことに尽力したとある100億円を仮払いとして払った,一人70万の補償金だった
原町区は30キロ圏内だから3倍くらいもらっているとか言われた,場所によっても違うのか原町の人がいくら本当にもらっているのか言わないからわからない
ただ知っている石神の人が古い家がすみにくいからと新しい家を建てた
それは補償金で頭金が用意できたからかもしれない,でもローンなのだからその補償金で全部まにあうようなものではなかった

鹿島区の不満はその後も根強く残り小高とは反目する関係になってしまった
なぜ小高だけが優遇されるのか?それは避難区域になったから当然であり小高の人になればなぜ鹿島区は不満なのかということで反目しあう結果になった
この反目しあうことは市長の責任があったかもしれない
なにか融和策がとれなかった,これが実際は市政の一番の問題だった
とにかく何兆円もの除染とかいろいろ国から金がおりたのだから方法があったともみる
それがゼネコンとか外部のものに流出しただけだとなる
その構図は前からあり変わらなかったともなる

そもそもこの辺では脱原発は当たり前だと思っていた、いくら自民系でもこの地域で脱原発でないこと自体なんなのだとなる,これだけの被害を受けてまだ原発をしようとしているのか?
そのことが理解できない,脱原発でないかぎりこの地域では負けるのではないか?
ただ桜井市長は左系統であり中央との自民とのパイプをもてないから復興に支障をきたすそれは言えるかもしれない,ここにも政府与党と野党の対立がもちこまれている
自分は極力地方自治体の政治は中央の争いをもちこむべきではないと思う
地方自治体はそうういものではなく,福祉の充実とか雇用の充実とか教育保育とかの充実とかもっとその土地に根ざしたものが争点となるべきなのである。
もちろん脱原発はこの辺では当然だと思っていた
そういうものは争点にならないと思っていた

いづれにしろ明日選挙だけどっちにしていいのかまたわからない,国政選挙でもそうだった,自分はしょうがないから希望の党に入れたのである。
今回も桜井市長の応援に希望の党の議員が来たというから脱原発連合がある
ここでは脱原発でないとしたら勝ちようがないのである。
これだけの被害を受けてまた原発をはじめることはありえていと思っていたからである。争点を脱原発なら国政選挙でありここでは脱原発が当たり前として議論外のものとしてある,そうではなくて別なものが争点になるべきなのである。
国の中央の政治が地方でも行われるのは納得いかないとなる

ここでは脱原発を言うまでもなくそれ意外のことに重点を置き政策をすすめてもらいたいとなる
だから鹿島区と小高区が分断されたことの融和策は何かとか議論してもらいたいがない
それが政治のはずなのである。脱原発言うのは簡単なのである。
この辺ではみんなそうだからである,現市長に不満というとき脱原発ではない
鹿島区と小高区の融和策がとれなかったことなどが深刻だったのである。
脱原発なら鹿島であれ小高であれ同じである。するとそれだけを訴えることはこの辺では楽なのである。
それで勝てるということは他の政策を見ないということになる
国レベルとなると脱原発はかえって重要な争点になる,でも全国レベルでもそうならなかった,国民が求めているのは争点は別なものだったとなる
消費税とかなら国民で一致したものがあり争点になったのである。

ともかくここで中央の政治の争いをもってくるのは納得できない,脱原発だけ言っていれば当選するというのも納得できない,政治的課題は実際はこの辺ではそうではなかった
なぜ鹿島区と小高区など融和策がとれなかったということでもあった
この分断によって南相馬市の一体感がなくなったからだ
脱原発は当然としてそれで一体感はもちえないのである。

自分も脱原発というよりこの辺ではみんな脱原発自明としてある,これだけ被害を受けて原発をまたしたいという人はまれになる,それで選挙を勝つとしたら楽だとなる
それが評価されて当選するとしたらそれは地方自治体の長として楽であり他の政策の実行はないがしろにされるのである。
これが争点になるなら確実に桜井市長が勝つ,結果的にはそうなる勢いなのだとも言われる
でも桜井市長に対して不満な人は多いのは鹿島区と小高区の反目などのことである
そういう対立をなくして南相馬市を一体化するにはどうすればいいのかという問題なのである。

ただ門馬氏の主張もわかりにくい,具体的に小高で入院できる病院をつづけるというから小高の人にとってはいいことである。
ただ一方で小高は南相馬市では負担になっている
小高は帰ったのは老人が多いし福祉の街のようになりそこに生産活動する若い人は本当に少ないのである。
小高は今や重荷なのである。そこに南相馬市で予算をつぎこんだり援助することは南相馬市の財政でも苦しくなるのである。
復興しようとしても老人の街であり簡単にはできないからである。
ただこういうことを言うとまた鹿島と小高の対立になり批判されるのである。
原町区はその中間にありその舵取りをどうするのかとなる
そういう具体的なことを何も主張されていない,ただいいことばかりいう
脱原発だけを言うのは楽なのである。自分も脱原発でありそれは自明としてもっと別な深刻な地元の問題がある,それにエネルギーを注ぐべきなのである。

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forest and river and rock


forest and river and rock

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one powerful rock
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big river at nifht



抽象画も現実にあるものをイメージしてできる,樅の木がそうである。
そういう重厚な樅の木を私は見ているからだ
すると瞬間的にこれは樅の木だなとして変化させたのを見たのである。
だから抽象画も具象画を離れてありえないのである。

Abstract paintings can be imaged in reality, there is a tree of a king.
Because I am looking at such a heavy trees tree
Then I saw that it was instantaneously changed as a tree of trees.
That's why abstract paintings can not leave concrete paintings.

2018年01月21日

外発的動機と内発的動機の相違 (芸術家だけでなく,一般の仕事でも悩むー銀行員を例に)


外発的動機と内発的動機の相違

(芸術家だけでなく,一般の仕事でも悩むー銀行員を例に)

成功する芸術家と、成功できない芸術家。その運命をわけるものは?

内発的に動機づけられた画家や彫刻家は、発見の喜びと創造へのやりがいが彼らにとっての報酬にあたり、芸術家のキャリアにつきものの困難な時期――収入がない、なかなか認められないといった苦労の多い時期――を切り抜けられる。

アメとムチの致命的な7つの欠陥】

●内発的動機づけを失わせる。
●かえって成果があがらなくなる。
●創造性を蝕(むしば)む。
●好ましい言動への意欲を失わせる。
●ごまかしや近道、倫理に反する行動を助長する。
●依存性がある。
●短絡的思考を助長する。

芸術でも賞をとることが目的になるのもあるしまた賞でもとらないと文学では社会的に認められることがない,そのため外発的動機が強く作用する
有名になりたいというのもあるし金も欲しいとなる,有名になれば金が入ってくることがあるからだ,ただその時内発的動機が失われる
賞をもらって有名になった人がその後どうなったのか?
何かその道で大成しているのはわずかだろう。

これを考えると別に芸術家の問題だけではない,社会全般の問題である。
そもそも内発的動機で仕事をしているか,内発的動機で仕事を求めているのか?
そういう人はまれなのかもしれない,知っている人で事業に失敗した人はそうした内発動機はほとんどなかった,ただ経営者になり自分が優秀だということを他人に見せたいためだけだったともなる
だから金持ち相手にもうけるんだとか言っていた,そうでなければ田舎では金にならないとか言っていた,何か事業を起すということは回りの人をまきこむものだと思った
一人ではない,その事業に共鳴する人々を作る必要があるのだ

例えは金を出さなくてもでもそうなのである。この人は社会に何をアピールして会社を起こしたのかということである。
それで「はれのひ」成人式の商売を起こしたのだ失敗した
内発動機として人生の一度の「はれのひ」を提供するものだった,ただその事業が失敗した原因は何かはわからない,でもそうして社会に対してみんなに対して共感させて商売することが会社になると必要になるのだ

例えば銀行がなぜ今問題になっているのか?
それはこれまでしてきたような銀行の役割とか使命感みたいなものが喪失した
銀行が創立された動機があった,地銀だと地域経済を発展させることをになうため会社を育てるとかあった,それがなくなり金を投資する先がなくなりどこでもうけようかとなったとき投資信託とか株を客にすすめる
そして証券会社の支社のようになり地銀の役割が喪失した

すると七つの欠陥のようなことが起きてくる

一軒一軒回る人は若い人だとそうした純粋な動機があり入ってくるがそれがなくなった銀行についていけないとやめているというのもわかる

●好ましい言動への意欲を失わせる。
●ごまかしや近道、倫理に反する行動を助長する。
●短絡的思考を助長する

とにかく手数料とるために客をせかす,過剰にもうかるどうかわからないのにいいことを言いすすめる,もうノルマもありそれに追われる,困窮している人は個人でも余裕がなくなる,投資信託でも買ったらまた売らせてその時大きな手数料が入るからそうする
でも証券会社の人自身が投資信託はもうからないと言っていたから分配金は知らずに元金からまた引かれていたのである。
つまり投資信託は何か仕組みが複雑すぎるからわからないから手数料をとるには好都合だとなる

おそらく銀行員のイメージは律儀であり硬い職業であり地域の人にとって信頼できる人だった,銀行員というと公務員という感じでもあった
それは高度成長があって成り立っていたのである。銀行にあずければ利子がつき安心だ,銀行は金を守ってくれるし利子もつけてくれるということに安心感があり銀行員も固い職業として信頼されていた,証券会社の人もいたが別に見ていたのである。
銀行に就職するにはその家のことを詳しく調査されるという,それは金を扱うから信用第一だからそうなっていた,それでこの辺で孫が銀行に就職したとか自慢していたのもわかる,地方では銀行員というとエリートになっていたのである。

投資信託を株をすすめるとなると前の固い銀行員とは違ったものになる
株や投資信託で客にもうけさせるより自分たちがいかに手数料をとるしか頭になくなる
そこにごまかしや倫理に反することも助長するのである。
短絡的にもうけることが頭に先にあり客のことはないがしろにする

そうなるのはやはり銀行がそもそも地銀であるための地域の人々に何か奉仕するというベースが動機が消失したためだともなる
地域の会社でも金を貸してもうける先がないとなればどうしてもうけるのかとなる
マイナス金利になったのも痛かった,これは政府の責任だという人もいる
銀行は遂に預金の通帳をもっいるだけで金をとるとかなる
利子はなくただ預けるだけで金がとられる時代になった
そしたら銀行の役割はなくなったとなる,それでタンス預金が増えた
銀行はただの貸し金庫になる,それで銀行も信用できないからタンス預金になる
この信用できないということは怖い,やがて銀行から金をみんな下ろしたら銀行が倒産するからである。それは信用がないし金をあずけるメリットもない損するだけだとなればそうなる,貸し金庫でもあれば銀行は銀行でなくなる

自分の失敗は大きな金をもったことがないので金がどういう作用をするのかわからなかったことである。大きな金といってもたいした金ではなかった
でも回りに困窮した人がいるとき金があればそういう人達が目の色変えて寄ってくる
金持ちが不孝になるというときそういうことかあった,金が災禍を生むのである。それ相応の金だったらいいのかもしれないが金が常に人間社会で災禍を生むのである。
自分が病気だろうが介護で苦しんでいても関係ない,弱った時がチャンスとなり金をとろうと寄ってくる,そこに金持ちの危険があり現実に家政婦二人を雇うような不動産屋が強盗に殺されたとか普通にある,そういう困窮した人達に狙われやすいのである。
それを狙っていたのが銀行だったということに気づかなかった

そういうことを知ってる人は銀行に金を預けると投資信託をなどすすめられるから預けないとう言っていた,銀行の強みは金があるということを帳簿を見て知っているからであるそして地元の家を一軒一軒回ることか信頼を築く方法だったのである。
地銀では特にそうだった,それが崩れたとき銀行の最大の財産だった信用が失われる
信用金庫とあるように信用が失われる,それで銀行には金をあづけないとまでこれからはなる,前の銀行員の固いイメージとは違ったものとなっていたのである。銀行には金をあづけられないという時銀行の役割もなくなる

人間にとって信用が一番大事なのである。信用がなくなれば商売すらできなくなる
なぜドルが信頼されるのか?紙切れじゃないかともなる,でもカンボジア紙幣などをもっていて何の価値もないのである。
その信用はどこから生まれているのか?アメリカという世界一の大国があり生まれている
でもまたアメリカが信用できないとなるとドルも紙切れにすらなりかねないのである。
信用は一旦失うと回復するのがまたむずかしい,だから地銀の信用も失うときもう地元では仕事ができなくなることもある
預金もしないとかなり倒産することさえありうる,でも切羽詰まってそうなってしまったともなる

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<南相馬市長選>門馬和夫氏が初当選 「脱原発」桜井氏破る


<南相馬市長選>門馬和夫氏が初当選 「脱原発」桜井氏破る


200票の差でぎりぎりだった,そんなこと予想されていた,今回は強力な対抗馬だった
特に鹿島区の人は桜井氏に不満が大きかったから入れなかったかもしれない
延々と文句を言っている人がいたからだ
そして二期も市長になっていたから変わったもいいとか思った人もいたかもしれない
自分などはそうだった,それほど実績もないとする二期で十分だとなる

自分は「脱原発」というだけ主張して勝つことは嫌だった
自分も脱原発でもそれだけ叫んでいれば勝つというのは楽である。
それは国政レベルだったらそれを叫んでもいい
自治体レベルではやはり地元に密着した問題なのである。
それは政党ともあまり関係ないことである。

でも意外と投票率が60パーセントが低いなと思った,まだ避難している人が多いからなのか?市の選挙でこれだけ低いのかとなる。関心が低くかったのか?
どっちにしろ相馬市長選挙では70パーセントだからその影響がまだあったのかもしれない

そもそも桜井氏が脱原発だけ叫んで勝つと見込んだのは震災から7年もなるのに間違っていた,震災の復興の進め方がどうだったのか,その議論をすべきだった
それから鹿島区と小高区の対立がありそれも重大な課題だったが具体的なものは何も示していない,ただ小高に病院を再開するという門馬氏は主張しているからそれは実現するのか?
それでも小高の復興は進まない,そもそもそこの住民は復興すとる主体が老人がほとんどでありそれで復興できるのかとなる

いづれにしろ自分が言ったように「脱原発」を声高に叫んでまわり野党の脱原発議員が応援する,それは国政レベルならわかるが地方自治体ではもっと地元に根ざした問題の方が先決なのである。
だから無所属の方が地方自治体ではいいのである。
中央の政党争いを地方にもってくるべきではないからだ

ただ桜井氏との差が200票ということは次の選挙ではまた野党に変わる
何か成果をあげなければ簡単にそうなる,おそらく鹿島区の票が桜井氏に入らずに勝ったのかもしれない,それは開票結果を見ないとわからない
ただ門馬氏も小高と鹿島の対立にどんな施策があるのかわからない
それでまた不満になり次の選挙では野党側に変わるとなるかもしれない
政治は実績でありいくらいいことを言ってもも実行できなければ評価されない
桜井氏にはそういうことがあった,意外と飯館村とか相馬市長には批判があっても
評価が高いのは実行力があるからなのかもしれない

ともかく門馬市長に期待します

争点は脱原発では桜井市長が勝つ (他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)

posted by 老鶯 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月22日

同世代の著名人が死んでゆく (西部邁さん(78)が自殺)


同世代の著名人が死んでゆく

(西部邁さん(78)が自殺)


大鵬(本名・納谷幸喜)が1月19日、心室頻拍のため都内の病院で死去した。72歳だった。

「羽柴秀吉」などの名で東京都知事選や大阪府知事選など全国の選挙に相次いで出馬し、話題になった三上誠三氏が11日、肝硬変のため青森県五所川原市内の病院で死去した。65歳

楽天の星野仙一球団副会長が4日午前5時25分に死去した。70歳だった

21日朝、評論家の西部邁さん(78)が、東京都内の多摩川で意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡しました。警視庁は、現場の状況から西部さんが自殺したと見て調べています

都築詠一死亡 腎臓透析17年 遂に力尽きて死す,残したものはプログの「心に青雲」のみ


大鵬は団塊の世代ではヒーローだった,その人も72才で死んでいた,これも意外と早かった,相撲取りは長くは生きられないのが多いみたいだ

羽柴秀吉も城を建てたとかテレビでも有名になった,その人も死んでいたのかこれもわからなかった

星野仙一も死んだ

そして西部邁も昨日自殺したというから驚きだった

そして去年はみんな知らないが都築詠一氏が死亡した,これも自分にとっては大きな死だった,ただその残したものがプログであり全部は残っていないので再検討しにくくなった西部氏だと著作が残っているからできるけど何かこむづかしいところがあり自分には理解しにくかった
自分にとっては都築詠一は簡潔でわかりやすいから理解できたから今でも興味がある
そこから発展させるものがある,対話できるものがあった

人間いくら著名人でも理解できないものは親近感がなく興味ももていなのである。
そして今更それを検討する気にもなれないのである。
西部氏がなぜ自殺したのか?
これも謎だがやはり病気のせいらしい,それと二年前くらいに妻を亡くしたことのショックらしい,とにかくこの病気にだけは勝てないのが人間である。
身内でも健康優良児のような人が最後は認知症になり無惨に醜態を晒し死んだからである何かそうして介護されて死ぬのが嫌で自死した語られる
なかなか自殺の原因はわからない,これも人間は一つの原因ではない複合的な原因で自殺になるからである。一つの原因ではない,その主要なものが病気だったとは推測できる

いづれにしろ同世代が死んでゆく,これから余計にそうなる,80前で死ぬとなると今では早いとなる,スポーツ選手でも体力あっても寿命とは関係ない?
自分の母親もかよわい人だったが百才まで生きたから不思議なのである。

人間の死に興味をもつのは人間は死ぬとその人間について評価しやすいからである。
客観的に評価しやすいからである。
例えば羽柴秀吉は何を残したのか?
巨万の富を残しても何を残したのか?
それを問うとその人間の生きた人生は何だったのかとなる
それは死んでみてそう問いるのである。
生きている内は成功者として通るからである。
田から人間は巨万の富を残しても何かを残したとはならないのである。
その一つの例かもしれない,本物秀吉は違う,それは歴史的人物だからである。

ともかくどんな偉人でも理解できないと興味がないし親近感がないのである。
芸術作品でも理解できないと興味がなくなる,自分が理解しやすいと死んでも作品を残していたらそこからその人を偲ぶとなる
だから西部氏の本は読んだとしても理解しにくい,するとそこでもういくら有名でも関心がなくなるのである。ただ関心をもつ人はもつ,そして死後でも関心を長くもたれる人はやはり歴史的人物だったとなるのである。
実際はほとんどの人は消えてゆくからである。
死後何十年もして語られ人は本当にまれになる,これからは同世代が次々に死ぬからいちいち考えることもできなくなる,あの人も死んだのかあの人もかとなりただそれだけだとなる

でもこの人達は意外と早くしんだなと思う,高齢化社会では早いとなる
三島由紀夫も実は老人になることをものすごく恐れていた,それで若い肉体に鍛えみせびらかして死んだのである。
そして最後は英雄になろうとして自演して死んだ,それは演技だと思っていたがそれを現実に実行したので驚いたのである。
人間は時代の子でありとても英雄にはなれない,吉田松陰も明治に生まれて英雄にされたのである。ただ動乱の時代になると英雄が出やすいことは確かである。
これからそうなってゆくかもしれないから新たな時代の英雄が出るかもしれない

とにかく団塊の世代は死が身近である。大量死の時代になる,その数が多いから火葬場が不足する問題がすでにでている,団塊の世代は学校でも教室が数が多くて用意できないとかあった,それがここにきて火葬場もないとなったのである。

「あだし野の露消ゆるときなく」=化野の石仏には常に露が滴り
「鳥部山の煙立ち去らで」=鳥部野の山では煙が消える事がない
「住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。」=人間が永遠に生きるものだとしたら、いかに世の中はつまらないものだろう
「世は定めなきこそいみじけれ。」

鎌倉時代の徒然草に鳥部野と並び化野が人生の無常をあらわす枕詞に使われております。
こういう時代になってきた,津浪の死も大量死の無常だった,その霊は今も漂っている
そこになんらかの怪があっても不思議ではない,これだけの死があれば怨念か何なのか
漂っているとなる

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