2018年01月15日

深野の俳句やユッサの湯の正月


深野の俳句やユッサの湯の正月

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深野の隣は大原冬深む

大原に知る人眠る冬深む

深野に大原村や冬日没る

冬の日や長野に古りぬ墓あわれ


石五つつ庭に変わらず正月に活けにし花は葉牡丹なるかな


深野とは名前も関係していて気にいっている,ふこうのであり深野ではないのだ
その雰囲気も何かいいとういうか独特のものを感じる
外から見たらたいした変わらなくなるしその土地のことはわかりにくいのだ
日本では村が生活の基本の単位だった
だから村には歴史がありそこに本当は日本人の心性がある
むずかしくいえばそうなるがやはり日本人は村で生きていた時間が長いからである。
それは悪い面としても反映される,外からの人を受け入れないということである。

ただ現代だともう隣村とか隣の市だろう町だろうが村だろうが関係ないともなる
それだけ広域的にグローバルにも生活しているからそうなった
ただ歴史的には深野と大原は違っている
ここで錯覚しているのは深野が古いということである。
大原は相馬氏が進出してきたとき大原は開墾されたのである。
深野はその前からあった,だから中世の館の地名が二つもある
館とつく地名があるのは古いのである。
飯館村でも館というつく地名があったから中世からあった村なのである。

つまり郷土史は村でもその新旧を知ることが基本にある,だから戦後開墾に入った村が奥地にある,それが何か古い家だとまちがいやすいのである。
そして豪倉という地名は昭和十年だったのであり新しかったのである。
飢饉のために備える倉のことである,米を貯えていた
そして江戸時代のものは墓でも価値があるがこうして新しいものは歴史がないとなり価値がないのである。

ユッサの湯に行った,あそこは時々休息に行くのにはいい,見るべきものもないが庭に石があり森がある,だから安らぐ場である
でもあそこの湯に入ったことはないのである。自転車だと湯冷めするからである。
そして入浴料が750円とかは高いと思う
それが本物の温泉ならいいがどうもそこが良くわからないのである。
確かに温泉は出たとしてもそれがどんな温泉か確かでないらしい
要するに温泉が出てもどれだけ出ているのかもわからない
ただ温泉とすれば価値が上がるから一応そうしているのかもしれない
この辺では温泉は出ないからである。

ユッサの湯に飾ってあった生け花は正月らしくて良かった
生け花は結構センスがないとできないし暇もないとできない
自分もしているが何かうまくいかない
やはりこれも伝統的なものがあるから身につかないし
生け花は金も暇もかかるのものである
それで忙しいからできないということもあった
家事に時間をとられるからである。

田舎の冬はしんとしていいものである。都会だと騒々しいからだ
しんみりと田舎の冬を味わうのがいい,田舎はやはり老人に向いているのである。
ただ何か田舎は恒産がないと住みにくい,家があったり土地があったり田んぼや畑があったりそれなりの財産がないと住みにくいのである。
ただ今はみんな財産は金であり田舎でもほとんどの人が会社員なのである。
それが都会から見ると錯覚しているのである。

深野の豪倉

ユッサの湯

住所

南相馬市原町区深野字荒戸沢15

時間

10:00〜22:00

入浴料

750円

源泉

PH 9.02 源温 28.2℃

泉質

アルカリ性単純泉

効能

神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進



間違いなく温泉であるがどれだけの温泉なのかわからない,温泉にも評価がいろいろあるからだ

駅前の公衆電話故障の原因 (十円玉がすりへって合わない,昭和の十円玉は使えない)


駅前の公衆電話故障の原因

(十円玉がすりへって合わない,昭和の十円玉は使えない)

公衆電話にも歴史がある,大正時代からはじまってるとすると古い

新潟県中越地震(04年)の発生の際には、公衆電話が減少していたため被災住民に不便となったことや、岩手・宮城内陸地震(08年)の際に公衆電話が最も通じやすかったことが、過去には報道されていた。

公衆電話が災害時に強いのは、NTTが設置する公衆電話が「優先電話」と同様の扱いとなっているため(総務省HPより)。

東日本大震災で帰宅難民があふれた首都圏で、公衆電話の前に長蛇の列ができたことはまだ記憶に新しいところです。停電や規制で携帯電話がつながらない中、優先的に通話ができた公衆電話はその価値を見直されました。

経済状況などによって硬貨の重さや大きさが変わると、公衆電話も対応する必要が出てきます。

新しい5銭硬貨が公衆電話で使えないことを伝える記事=1920(大正9)年12月17日付東京朝日朝刊5面
拡大新しい5銭硬貨が公衆電話で使えないことを伝える記事=1920(大正9)年12月17日付東京朝日朝刊5面
 1920(大正9)年、新しい5銭白銅貨がつくられました。当時の公衆電話ではこの硬貨が使えなかったため、逓信省と大蔵省で対応策が話し合われます。「旧5銭白銅貨と同じ形の金属をつくって、切手のように売る」などの案も出たようですが、最終的には電話機自体をつくりかえることで決着しました。

このうよな歴史がある

今回の故障の原因は十円玉が古くなりすり減ってあわなくなったためだという
そんなことがあるのか?硬貨自体が変わるとそれに合わせられなくて機械自体を変えることになったことはここに書いてある
でも十円玉がすりへって使えなくなり故障になったというのは驚きである。
十円玉がそんなにすりへるのか?それが機械に影響して使えなくなった

それはスーパーのお釣りがでてくる自動機械でもそうである。古い硬貨を入れて不具合になったことがある,何か使い古したものがそうなりやすい。
ただ十円玉がすりへって使えない,故障の原因になっているのとは思わなかった
昭和の十円玉は使えないという,それだけ硬貨でも使っているとすりへってくるのだ

そのNTTの警備員とかになっている人は浪江の人なのでいろいろ話した
その人も原発で働いていたのである,浪江だと三分の一なんらか原発に関係していたのである。
ともかく駅に関していろいろあるものだと思った
それはただ駅を利用して乗りおりするというのではなく駅員のようになり駅を管理するようになったからである。
奇妙なのはそのNTTの職員にごくろうさまとか言うのは駅員がすることである。
駅の管理者がすることである。JRの人がすることである。
この公衆電話も駅の一部なのである。

つくづく機械には弱点がある,昭和の硬貨はまだ使っていたはみたが平成のがほとんどになっているのかもしれない

29歳平成元年1989年
30歳昭和63年1988年

昭和から天皇が代わり平成になった,それは30年前だった,昭和から30年すぎたのか?
これも早かったなと思う,昭和は長かった,平成は天皇退位で来年は年号が変わる
これも時代だと思う,日本の年号は何なのか?
江戸時代などはめまぐるしち数年でも変わっている,でもその年号が郷土史とかでは貴重である。その年号から時代をみるからである。

ただ昭和の時代は平成の時代と比べるとどういう特徴があるのかとなるとわからない
昭和は戦前もあり戦後も長いからそれも長すぎて時代の特徴を出すことができなかった
時代区分では戦前と戦後になるからである。昭和というのがつづいたのは違和感がある
それは天皇の在位期間によって左右されていたのである。

いづれにしろ何か今回の駅前の公衆電話も一つの歴史だと思った
公衆電話は緊急時に役に立ったということはやはり必要なものなのだろう。
でもカードの時代になった,でもテレホンカードなど使っていない
みんなスマホを見ている,携帯を使っている
ただ携帯を忘れたとか,年寄りとかとかまだ使っている人はいる
でも三分の一に減ったとなるとこれも時代だなと思う

今回の公衆電話の故障では機械は万能ではない,十円玉がすり減ったら使えなくなったとかある,これもやっかいである,何か機械ではすべて対応できないものが出てくる
だからAI化とか自動化が盛んに言われるがそれが万能にはなりえないのである。
必ず不具合が生まれ故障したり事故になったりするのである。
それで駅員が必要だとなるがそれがコストの関係でできない,でも自動化してもたりないものがありそれを補うのが人間なのである。

タグ:公衆電話

2018年01月16日

駅にものものしく警官が来た (高校生に何かあった?)


駅にものものしく警官が来た

(高校生に何かあった?)

今日はばあちゃんが一人きていた,何でも鹿島の仮設に住んでいたから来てみたと言っていた,今は新地に住んでいる,息子が住んでいるのでそこで暮らしているという。
そのばあちゃんは電車に乗っていなかったので電車のことがわからないと言っていた
車の免許をもっていたけど今は乗らないという
80過ぎているからだ,そういう人が増えているのである。
その人は小高の井田川に住んでいたのである。
仮設の食堂には良く行っていたという,仮設は壊されている,残るのはわずかとなる

今日はものものしく警官が五六人駅に出入りした,知っている警官もいた
一人に聞いてみたらなんか丸坊主の高校生とかに何かあったらしい
それで通学しているから電車を待っていたのかとなる
何かものものしいから確実に高校生が問題を起こしたのかもしれない

まず駅にはいろいろあるものだと思った,駅がこんなにいろいろなことにかかわるとは思っていなかった
駅は広場の役割があり人々が交わる場でもある,だから生の情報が得られる
インターネットとかではない直接交わる情報が得られる場である。
外部からも来るから外の人と内の人が交わる場所でもある

小高駅はやはり高校に通う人が五〇〇人とかいるからそこで駅員が必要となり鹿島駅から移ったのか?
何か今日の警官のものものしい出入りではそういうものを感じた
詳しく警官に聞こうおうとしたが後はしゃべれないといった
何か推理ドラマでも警官と記者がやりとりするのとにている
自分はボランティアの記者にもなっているからだ

ともかく駅はいろいろなことが起きる場であるこを知った
それは社会といろいろかかわる場だからそうなっている
外部の人でも多様な人々が出入りして交わる広場の役割をしている
それで振込詐欺の犯人が監視カメラに移り鹿島駅でつかまったというのも驚く
駅は外部の人の出入り口にもなっているからだ
ただ今は車であり道の駅がそうなっている,車だと何かわかりにくいのである。
自転車で旅行していると目立つから職務質問などを受けやすい
車はわかりにくいのである。だから車の犯罪だと警官も追跡しにくくなる



タグ:警官

南相馬市長選挙迫る (問題山積みは続いている)


南相馬市長選挙迫る

(問題山積みは続いている)


かねてから南相馬市に住んでいる人、震災後に避難先から戻って来た人、震災後に引っ越して来た人たちが暮らしています。皆、言葉に出すことは少ないですが、震災後に南相馬市に残ったか、残らなかったかという溝や受け取った賠償額の格差による溝ができているのです。

 市選挙管理委員会によると、有権者約5万3千人のうち、約5600人が避難などで市外に住んでいる。

 

津波原発事故の後遺症は傷は深い,津波の被害者がいて原発事故の避難者がいてさらに今南相馬市で問題になるのが浪江町などの原発避難者なのである
その復興団地を見ればわかる,その数が原町区では多いのである。
だから浪江町の人たちも実際は浪江に帰らないというとき南相馬市の住民になっている
ただ浪江町の住民だから選挙権がないのである。それで自分たちの利益を主張できないことはある
ただ税金は別に払っているから何も権利がないのとは違う,外国人でも生活保護の権利があるからだ
ただ今回の選挙で浪江町の人たちのことを考えると選挙権がないからこれはどういうことなのか?
浪江町の人に候補者は訴えることはしないとなる
選挙権がないということは市民権がないということなのか?何かそれに通じるものがある

そもそも浪江のことを考えると何なのだろうとなる、公務員だけが必死に働き町を復興させようとしている
職員がたりなくて新しく採用した人が仕事ができなくてはらはらになったとかある
実際に津波で被害にあった町に外から応援に来たほかの自治体の職員が三人死んでいる
過労になったのである。
不思議なのは公務員が必死になっても肝心の住民がいなくなれば公務員が成り立たなくなったのである。
王様がいて家来がいる、社長がいて社員がいる、住民がいて役所の公務員がいる
家来がいなくなれば王様もなくなる,社員がいなくなれば社長もなくなる,住民がいなくなれば役所は成り立たなくなる、公務員だけが残るともなる
現実に浪江ではそういう状況になっているのである
みんな帰らないと言っているからだ

そしてわからないが浪江の人とか原発避難者は立派な豪邸を建てているのが見かける
ケーズデンキの近くの家の庭が立派なのである。石が豪壮であり見惚れてしまう
自分は石に興味があるから見惚れる
その石だけでも一千万とかかかっても不思議ではないように見える
鹿島地区では新しい家が百軒以上建ってもあれだけの立派な庭は見ていない
ではなぜそれだけの庭と家を建てた人はどういう人なのか?
それはやはり原発避難者だろう、大熊、双葉、浪江とかになる、主に浪江とかかもしれない
一方で深野のユッサの庭はそういうのに比べる貧弱なのである。
あそこはみんなが外部の人も集まるから立派な庭にしてほしいとなる
自分は庭が好きだからそうみる、環境的にもいい庭を作るのに向いているからだ

その土地に市町村に住んでいれば誰でもこうあってほしいなと思うことがある。
ユッサは民間であれ場所的にはいいしもっと庭をいい庭にしてほしいとかなる
駅でボランティアしていると駅でも駐車場が整備されていないので外からの人が入りにくいとか
高齢鹿社会になるから車を利用できなくなる人が増えてくるから対策してほしいとかなる
争点が子育てとか教育になっているのはやはり未来を背負う人を育てないと市町村は将来つぶれてゆくという
ことで全国的にそうなっている
この辺では小高でもそうだが限界集落化したし浪江とか双葉とか大熊では町自体が消滅する危機なのである。
それで南相馬市だけではない浪江町も含んだ広域的なものとしての政治の対策必要になっている
それは県とか国でしているとなるがもう浪江町は維持できるか維持できないのかの瀬戸際なのである。
現実には浪江町の人が南相馬市に千人以上とか住人に実質はなっている
そういう問題も南相馬市にはある,相馬市とか新地でも移り住んだ人があるから同じようにあるが南相馬市は一番多く引き受けているから問題なのである。

桜井氏の評価はいろいろだろう。政治家は何で評価されるのか?芸術家なら作品で評価するからわかりやすい
政治家の実績は何なのか?前の渡辺市長の実績は駅前の図書館を作ったことである。
それは賛否両論があるにしろ実績としてわかりやすい,自分は今では評価していない、インターネット時代になり利用しなくなったからである。
そういう箱物は必要なかったとも時代でなる、街の活性化にも役立たない,ただ買い物するスーパ−とかが併設すれば活性化していたかもしれない
高齢化になると車を運転できない人が増え電車を利用する人が増えてくるかもしれないからである
高齢者対策も必要になる、一方で保育所とか教育とか仕事を作るとか将来のための政策も必要である。

国は東日本大震災の復興事業期間を10年として所得税等の増税により財源を確保しましたその10年の期間も復興創生期間残すところ3年になります

こうなると3年後はこの辺の経済状況はかなり厳しいものになるだろう
今まで復興のために金が入ってきたし工事関係者も入ってきて建築関係は活性化した
息を吹き返した,ただそれが本当に三年後で終わりになることは厳しい状態になる
なぜ最初は地元で除染で働きいわき市の方で働き次にまた働く場所がないとか東京に探しに行った非正規の労働者がいる
これも良くわからないが地元での仕事が減ってきていることは確かなのだろう。
例えば浪江町ではこの駅の公衆電話の修理であった人は浪江の人だけどやはり原発で働いていたのである。
浪江は三分の一は原発で働いていた,葛尾村でも働いていた人があるし飯館村でも原発で働いていた人がいたことには驚く
それだけこの辺は原発依存の経済になっていたのである。
それで船主が原発御殿を建てていたとか津浪で判明したのである。
だからこそ逆に怖いのは原発再稼働しないと経済的に成り立たなくなるということになることである。

その圧力は大きなものになる,そもそも原発は上からだけの要請ではない,地元の要請もあって作られていたからである。背に腹は代えられないとなりかねないのである。
ただこの辺は脱原発になりそれは当然の前提としてあるものだと思っていたが自民党系はそうではない,とるすとまた原発再稼働がありうるのである。
全国レベルでも原発は争点にならなかったがここではやはり脱原発になるのが当然であり前提としてあるものだと思っていた
ただそれをぬきにすれば二期勤めた桜井市長の実績は何だったのか,ただの人気取りパーフォーマンス市長だったのか,それが問われる
やっぱり二期は長い,実績があれば別だが変化を求める人が多いかもしれない

大学を見れば桜井市長とか飯館村の村長も畜産科であり農業になるが飯館村ではいいが門馬候補は東北大の工学部となるとそっちの方に強いのか?
この辺ではともかく理系の知識が必要になった,だから理系の市長でないと勤まらないということがあった,相馬市でも医者だから理系である。
ただ政治となるとこれはまた経営とか関係してくる,専門職とも違う総合職なのである。総合職になると文系的なものが必要になる
本当に総合的に見ると郷土史とかも関係してくるし自分の追及してきた郷土とか自然とのアイディンティティなども関係しているのである。
郷土をトータルに見ることだからである。だから市長の担当する範囲は広い,総合的に判断する能力が必要になるのである。

posted by 老鶯 at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月17日

仕事したあとに次々に金を要求する大工 (困窮する人達が増えているためか?)


仕事したあとに次々に金を要求する大工

(困窮する人達が増えているためか?)

雨漏りしたから大工さんに頼んだ,その大工は五六回も仕事が終わったあとに金かかったと請求してくる,すでにそれなりに金を払っている
でも最初に見積もりもなくただ雨漏りを直してくれというだげで頼んだ
一二回ならいいそれが何度も後から後から請求されるのである。

何がここで問題になったのか?
この仕事はだいたいいくらかかりますかとか金額提示されないからだった
それで後から後から金を請求される
工事の請け負いでも落札価格があり決める,どのくらいの値段でしてくれるのかで決めるところが素人にはそうした工事していくらという値段がわからないのである。
ただ領収書で材料費にいくらかかったとかはわかる
その人はその領収書も見せないで後か後から金を請求してくる

つまり最初にいくらいくらでするとかおおよその目安を示してそれで契約する
その時多少高くてもそういう契約したのだからそれは双方で納得したことなのである。
契約がうるさいのは後でこうした問題が常に起きているからである。
ただ素人には例えばリホームとかでその値段がわからないのである。

だから仙台から来たユニットバスを作った会社は良心的だった
百万で作ると言って契約してその通りに立派なものを作ったからである。
イワタニではガス屋ではこれは二百万すると言っていた
もし地元の人に頼んだら知り合いの人を通じて頼んだら後から後から要求されて三百万になっていた
その人はいろいろあって大目に見て金を払ってきたのである。

というのは仮設の食堂で働いていて賃金をもらえなかったからである。
その仮設の食堂には自分は通っていたからである。
七〇万もらえないと自分のところに来て訴えるからかわいそうだと思って払ってきた
そこでは皿二三枚洗うのとは違う,かなりの労働だったからである。

要するに雇う人と雇われる人の関係は何なのか?
そこにはなんらか信頼関係がないと成り立たない
別に雨漏りで頼んだ大工さんが多少高くてもしょうがない,それは交渉である
でもあまりに高いと頼めないのはしかたないことである。
慈善事業ではないからだ
ここで問題は契約が大事なのはこうしてのべつもなく後から金を請求されたり困ることが双方に起きるからである。
それで樋も壊れたので頼んでいたが断った
つまり信頼関係がこれで壊れた,仲介した人との関係も悪化したりする
仲介する人の信頼も壊れてゆくこともある
なぜそんな人を頼んだとなるからである。
人と人の信頼関係が壊れてゆく

この前の家で手伝ってもらった人もそうである,家に来て盗むとなると危険となるその人はこの土地に今も住んでいる
するとこの土地にそういう人が住んでいることはこの土地はそういう危険があり信頼できないともなる,狭い田舎だとそうなる,その市町村は住むにも危険だともなるのである。雇うとか雇われるという関係もつくづくめんどうだった
そんなこと自分は経験していないからだ
雇う人雇われる人には問題が起きやすい,それは双方の信頼関係を築くのがいかにむずかしいかを示しているのである。
信頼関係を築くことがいかに人間はむずかしいかを示しているのである。
それは歴史的にもそうである。人間が信頼し合う関係は最高にむずかしいともなっているからだ

ともかく自分の所にくるものはこうして金を奪おうとうする人達が多かった
一人事業に失敗した人であり借金かかえているからただ金を奪おうという気持ちしかないから自分の困ったことがチャンスとなり脅迫のようになった
例えば銀行員などがまともだと思うと今は違う
地方銀行はもうかつての銀行ではない,収入がなく追い詰められて投資信託とか売っているがそれは手数料商売であり顧客がもうかるとはなっていないので手数料とりすぎるので金融庁から諫められたのである。
この前は親の代の親戚で金貸してくれとかきた,何かこの辺ですでに金がなく困窮している人が多いから余裕がないからそういうことをするとなる
自分の所にはそうした困窮している人が来るからこの辺の経済状態は悪い
それよりそれは下流老人と非正規とかフリーターとかニートとかそうした社会が貧困化している日本の問題が顕在化しているのである。

雨漏りの修理をたのんだ大工さんも仙台の方で働いているという,非正規の人は東京に職探しに行った,そういう何か困窮した人達が増えてきたのである。
それは日本全国でそうである。アベノミックスでいいのは株でもうけた人達である。
その株にしても普通の人はもうからない,極一部の人でありトリプルダウンはなかったのである。
もうこの辺はこうして困窮している人が増えてくる
この辺ではいいのは原発の避難民となり多額の補償金をもらった人達である。
それも全部ではない,復興団地に住んでいる人も多いからである。
豪邸を建てた人はやはり多いとは言えない

もう三年でこの辺は復興事業の予算が国からでなくなる,その時さらにこの辺は高齢化が他より一〇パーセント多いとかなり困窮する人達が増えてくる恐怖である。
それは自分のように今は余裕があっても回りが余裕がないのだから田舎では平等を徹底して要求するからのんきにしてはいられないのである。
三年などすぐだしその時もう自分も年で弱ってくる年齢である
するとさらにこの辺で住むことは苦しいことになってゆく
回りに余裕がないと経済的でもそうだが一人だけのんびりはできないのである。

だから今になるとニートとかフリーターとか非正規とかが社会の重荷になり責められるのである。
そういう経済状況でくなったからである
本当は高度成長時のときこそニートとかフリーターがまだ多くても良かったのである。
全体の経済が良かったからである。
でもその時は自分のようにニートとかになっていたのは本のわずかである。
だからそんな人いたのと誰も注意もしないし話題にもならなかったのである。
でもその時こそそういう人がもっといても良かったなと思うのも時代である。
とにかく時代によって人間はあらゆることの価値観から見方から変わって来るのである




posted by 老鶯 at 10:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

株や投資信託がわからない人はするな? (すべて自己責任になる)


株や投資信託がわからない人はするな?

(すべて自己責任になる)


人間は何でも知っていたりできない,極一部しか知ることができないしできない,だからこそいろいろな人に頼む,病気になれば医者にみてもらうし家を建ててもらうには建築会社に頼む,大工さんに頼む,墓を作るとしたら墓を作ってくれる会社に頼む
人間はあらゆることに通じることはできない
だから投資信託とかも株でもわからないからこそ銀行員が来ればそれに頼む人が多いのである。

では知らないからとすべてが自己責任になるのか?
投資信託とか株とかはそうなりやすい,私たちは十分に説明してすすめたのです
ただいろいろな状況で株は変動するものですし投資信託でもそうです
それが下がる時も上がる時もあるのです
その責任は私たちにないのですという言えばそれまでで追及はできない
要するに知らないと自己責任になるのである。

別に他にも投資信託をネットでするとか会社もある,ただそうなるとまた手続きがめんどうになったりする,銀行員は近くに支店があり地元を一軒一軒まわることで頼み安いとなる,でも証券とか投資信託とか株はそういうものではない
これは知識とか経験かないとそもそもできなものである
いくら一軒一軒まわって対面的に相談するにしても株とか投資信託とか証券はそういうものではない,一軒一軒まわる銀行員がいてもそれで信頼できるというものではない
ただそれで手続きができて安心感があってすすめられてしている
利子がつかないから投資信託だともうかりますとか言われればそうなる

でも投資信託は実際はもうからない,手数料でも高いし毎月分配はもうからない
仕組み的にはそうなっている,リスクだけが怖いと思うようになった
利益になるよりそっちの方が怖い商品だと思った
だから株とはそもそも大きなもうけがありそれで余裕ができてまた株をするというのがいい,毎月配分型とか利子がつく感覚でやるものではない商品である。
株はそもそもそういうものだからである。時々の状況にも左右されやすいからである。

自分は株にも証券にも国債にも投資信託も知らないけどした
それは結構大金だった,それは銀行員だと地銀だと銀行員は地元をまわっている
それで頼みやすいのである。そこに信頼が生まれている
でも株とか投資信託とかはそういう性質のものではない
銀行員が地元と回って歩いているからと信頼がましてもうけがあるという商品ではない
性質の違った商品なのである。
しょっちゅう顔を合わせているからといって株が上がったり投資信託が上がったりしないからだ

地銀の仕事はなになのか?やはり地元に支店がありface to faceで仕事している
でもこれはそういう仕事とも違う,ただ証券会社とかなると地元に支店もない
地銀というのは地元志向で土着的だともなる
ただ地元の会社を育てるとかなくなるとそれは役割を終えたのかとなる
電子化してゆくと特に金の管理でも自動化するからである。
地銀というのは地銀として本来もっていた役割を終えたのである。

だから今日は大和証券の人が来たが銀行は証券会社の下請けになったのかとなる
つまり銀行はかつてのような信頼できる地元に土着した密着したものとは違う。
証券会社の下請けになったとのかとなる
なぜなら株に投資しろとか投資信託になると証券会社の方が断然上になるからだ
証券会社はそういう仕事をしてきたのだから当然だとなる
すると銀行は何をするところなのか?それが問われることになる

それは商店は地元にありそれは土着的であり信頼感をもつ,ところがインターネット販売になると違ったものになる
それでケーズデンキで通販で調べて最新式のデジタルカメラを買った,店に飾ってある商品が少なすぎるからである。ただアマゾンでノートパソコンを買ったが壊れて修理に出すところがなかった,それで損したこともあり近くに店があると安心なのである。
そのことはアマゾンだけになるとそうした商店は消滅してそこには人間がいなくなる
それで緊急時にはそうした食料すら手に入れらなくなると忠告する人もいる
それは近くに現実のリアル商店がないことからそうなるのである。
だから銀行でも現実にリアル店舗として地元にあることがネット化しても必要なのかもしれない,ただコスト的に女性の窓口業務などは無駄だとなり廃止されてゆくしすでにしている

大和証券がもってきたのはAI化自動化ロボット化する会社の株を買いということである。そのファンドでありそれは毎日のように今や話題になっている
そこが社会を変えるから株が鰻登りに上がっているという,そこに将来性があるというのはわかる,だから納得するから買ってもいいとなるのか思案する
でもまた前の投資信託を解約すると何か金がとられたりする
その株を買えばまた手数料がとられる,その手数料の額が馬鹿にならないのである。
投資する額が多いとそうなる,そのもうけは証券会社と銀行に入るだけだとなったのが現実だったのである。
そもそも銀行が投資信託をすすめるのはメリットがある,それが会計上そうなっている
ただそうした仕組みを理解すること自体むずかしすぎる

だからわからないか人は株や投資はするなというのもわかる
結局説明されてもわからない,そのわからないことで失敗しても自己責任だとなるからだ
ただ金融でもそうだが病気のように自分で直せないから医者に行くのである。
金融商品でもわからないから銀行員にたのみ証券会社に頼むのである。
だから何でもわからないからとすべて自己責任になると社会で生きてゆくこともできなくなる
株とは投資信託はそういうリスクがありますよというのはわかる
そうなると本当に思う,銀行員は特に地銀はそういうリスクをすべて地元の客におしつけるな,すすめるなともなる
もちろん株で投資信託でもそれぞれが自己責任でするならいいとなる
そういう投資信託でもうかる会社はある,ネットに出ているからだ
すると銀行に地銀に頼まずそこに頼めばいいとなる
ただ自分の場合その手続きとかがめんどうでしなかったのである。
やはり近くに銀行があり地元をまわっている銀行員がいるということが信頼を生んでいるのである。

いづれにしろこれもいろいろな問題があり次々に問題がもちこまれているのが自分なのである。それで疲れたともなる,そんなにいろいろなことを自分だけでは処理できないからである。
だから家事でもこれもいろいろあり金融でもあり忙しいのである。
そんなに人間はいろいろなことはできないのである。
だからこそ専門家にみんな頼むのだがそれでうまくいかないとしてもまた自己責任だと責められるのが現代なのである。

でも医者などはいろいろあっても患者を直すためのノウハウがありしている,そして手術などでミスすれば裁判にもなる
建築関係でも建物に手抜きがあって事故になれば責任問題になる
この銀行の投資信託とか株は銀行の責任問題にならない,責任が別な所にどうでも転嫁できるからである
医者の場合や建築関係は具体的に責任問題となり問われる
だから金融関係の仕事は何かというときいい加減な口八丁の仕事なのかともなってしまう。
別に客が損してもいい訳がつくからである。
銀行は融資して失敗したら損する,だから土地などの担保をとる,融資して失敗したら責任をとらされるのである。
だからこそ慎重にもなる,でも投資信託とかは客がすべてその責任をとらされるのである。
そういう商品を買わせているのである。それで銀行も責めることはできない自己責任になるのである。
だから知らない人は株でも投資信託でもするなという結論になるのである。
そして株とか投資信託でも素人が知ることがむずかしすぎるのである。
だからこそ素人は株とか投資信託に手を出すなともなる

ただ人間の仕事は商売でも一時もうかってもあとでそれが信頼を失い会社自体が駄目になることがある
地銀でも投資信託とか株で客にすすめると信頼がなくなるかリスクがある
今はいいけど後で銀行自体が信頼されなるなるのである。
銀行というものはそんなものか証券会社の下請けになったのかとかなる
地銀としての役割もなくなりみんなから見離されてしまうのである。

それは雨漏りを頼んだ大工さんが仕事をしたあとに何がかかったとか五六回も金を請求してくる
金は別に多少高くなってもしょうがない,しかし常識的にあとから何かかかった,またかかったとか次から次と後から要求されたらたまらない,いいかげにしてくれとなる
それで次の仕事は断ったのである。なぜなら仕事した後に何ににかかった今度は何にかかっていたとか要求されるからである。
そしたら頼めるか?怖くて頼めない,一回頼んで仕事してもらったそれがわかったからだ
そういうふうに信頼をなくしてしまい仕事も失うのである。
そういう危険が今や地銀とかにある,それはあせりもある,収入の道がないということもある
ただそこで地元の人からも信頼されなくなったらどうなるのか?
今日来た人は東京から大東銀行に出向してきた人であるから地元とは関係ないともなるからだ
でも地銀は地元密着型でありそこでの信頼関係が失われると地元の人から見離されるということがある
それで投資信託に手を出さないという信用組合とか地銀もある
とにかく今銀行が問われていることは確かである。


銀行にも責任はある,客が損した分の半分くらいは払う必要があるかもしれない
ただ逆に客がもうけたときはその半分はもらうとかなるかもしれない
客もやはり負担が強いられる,そんならしないというのもわかるし自由である。
ただ銀行は客が損したとき何のリスクもとらないことが別に客が損してもかまわないしどうでもいいとなる
手数料さえもらえば関係ないとなれば真剣にもならないのである。
客が損したら銀行も損するとなれば真剣になるからだ
だから銀行はこの点を改善しないと地元の客からも見捨てられるかもしれない・・・


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2018年01月18日

株や投資信託は経験知識のないものはするな (老人が金をためこむほかない訳)


株や投資信託は経験知識のないものはするな

(老人が金をためこむほかない訳)

●自分の投資の経験

最初どういうわけか株に投資していた、それは相当前である、もしかしたら20年前とかなるかもしれない、一時その株は民主党時代に半分になったのである。
でも今のように回復してきた,でも地銀の銀行員がその株を売って投資信託とか国債に投資した,そのとき自分は上がってきたのだからもっていればいいのかと思っていた
ただその時の判断はむずかしかった,なぜならまた株が下がるということもありわからちなかったからである。
ただその銀行員は何か強引なことがあり勝手に金を別な投資先に移した
そこでもう少し間を置く必要があったがそれができなかった
投資信託とかに移した方が銀行がもうかるという判断もあったかもしれない
何しろ手数料商売だとそうなる
次々に勝っては売らないと手数料が入らないのである。
だから自分の場合手数料は相当にとられている,銀行と証券会社は相当にもうかっているのである。まず銀行と証券会社は損はしないからである。

ただ自分が直接かかわったのは銀行であり証券会社ではない
投資はカナダの国債を買った、これは石油がとれるということで安定しているということで買った、しかし石油が下がり損した、次に並行してUSリートを買った
ただ円高になりそれが大きく影響して大損になるところだった
これは分配金を見ていてもうかっていたと思った、分配金が月々結構高いのでもうかっていたと思ったら昨日大和証券会社の人が来て下がっているから売るべきだとと言って売った、損にはならなかったがたいしてもうけにもならなかった

次にJ-reitを買った,これも大東の銀行員が今下がっているからこれから上がるとしてさらに余剰金を投資した、何かそのときも自分は間を置いて考えることができない
銀行員が勝手に決めるとなっていた
でも昨日来た大和証券会社の人も同じことを言っていた、J-reitは下がりすぎている
これは共通の認識らしい,だから売るなと言ってきた
証券会社の人はそのことを確信をもっていっていたのである。

●投資は分散することが定則

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投資はどうしたらいいのか?それなりの資産だと分散することだというのは正しいことだった、別に投資信託でもいいが株とか国債でも貯金でも分散してリスクを減らすのであるだから別にカナダの国債とかに投資してもいい、ただここには為替リスクがあった
だから外国だけではない国内にも投資するのが分散することなのである。

だから株を売ったのは失敗だった、株も分散してもっているべきだったのである。
株が上がる時国債は損するが株が下がると国債が上がるとか逆になるからだ
それは金利が上がったり下がったりするからそうなる
金利が今アメリカであがってUSリートが下がったのである。
そういう国際経済でも見る目がないと投資はうまくいかないのである。
そして絶えず経済も国際状況も変わるからリスクがともなうのが株式である。
ただわかったことは株は長くもっていれば上がり下がりがあってももうけがでる
20年前の株が今になるとかなり上がったともなるからだ
そういう経験をしている人が今回多いのである。
それも経験なのである。

●老人は株や投資信託すると失敗が多いのはなぜか?

老人がなぜ株とか投資信託とかで外国の国債でも失敗するのが多いのはなぜか?
株とか投資信託のことを理解できないからである。
これは知識だけではなく経験も必要なのである。
人間は何でも経験であり知識も経験がないと身につかないのである。
だから老人が退職して株をすすめられたり投資して失敗するのが多いのである。
でももしそういうことを訓練していれば失敗の度合いは低くなる
つまり基本的な株のこととか投資信託のことがわからないからそうなる
そして銀行員などがすすめると信用してしまうのである。
銀行員は本当に金を扱うから信用が命である。
信用が失ったら誰も金をあづけないのである。
そういうものだと銀行を思っていたが今それが変わってしまったのである。
銀行はもう消える瀬戸際にきて藁をもつかむ思いで収益を得ようとしている
そうなると顧客のことなどかまっていられないのである。

株や投資信託は証券会社とか銀行員にまかせるな!

そして経験と知識のない人はするなとなる、なぜなら基本的なことすら知らないからである。そして結局自己責任になるからである。
ただ老人は貯金して消費しないから金が回らず景気が良くならないのだということは本当である。今回自分は損しても銀行でも証券会社には金が回っているのである。
社会的には資産が金が金を産み増えたとなるからだ
だから資本主義社会では投資が基本にあり貯金ではないのである。
貯金に利子がついていたときは高度成長時代であったからなのだ
老人は消費できないというときそのことを書いた
食べ物などはいいとして新しい機械などを買うにしても使いこなせなくなる
何か新しいことを始められないのである。
それで今までのようにビデオをやろうとしたができなかった
カメラを買っても使いこなせなくなっていたとかなる

そして株を長期にもてということは株の定則だけど老人は先がわからない,短いとなるとそうできないから株の投資に向いていない
こういうことがあって老人が金を持っていても社会に回らないということは確かである。でも別にそんなに金をもっている老人は一割とか少ない
自分も本当はそんなに金をもっているとは言えない、都会では一億円持っている人など普通にいる、でも自分はそんな金持ちではないのである。
それより下級老人が増大しているし日本は貧困社会になっているのだ
株でトリプルダウンが起きなかったのはなぜか?
株でもうけているのは一割とか二割しかないからである。
高度成長時代のように全体が盛り上がる経済になっていないからである。
老人が金をもっているというときそれは高度成長時代の恩恵なのである。
郵便貯金で利子が7パ―セントついていたから隔世の感がある
この時は本当に楽だった、ただ銀行や郵便局に貯金していればよかったからだ
銀行員もその時は硬い職業として地域で信頼される人たちだったのである。
公務員のような人たちだったのである。

それが今は銀行員などは銀行が消失するという危機に晒されている
地銀などは特に厳しいし大手でも大規模なリストラになっている
それは時代とともに企業でも盛衰があり今安定していたと思っていた銀行が消滅の危機に晒されているのだ
そうなると余裕がないから利益をあげるものは何でもするとなる
それで顧客に投資信託でも株でもすすめる証券会社の下請けになったのである。
でも証券会社の方が株とか投資信託には詳しいからその子会社のようになり地銀としての役割は喪失する、ただ実際は証券会社の仲介役であり使われいるという感じになる
そこに地銀での自負するもの地域に貢献するものがないのである
地銀というと地がありその土地に根ざすものとしてあった
証券会社となるとそういうものではない、地域に根ざしてはいないのである。
だから昨日来た大和証券の人は地銀の人とは違っていた,やり手だともなる
前の部長という人は何か実直な真面目な昔風の銀行員だった
何かそういう人とは違っていた、若い銀行員も別に悪い人ではない,真面目な人である。東京の人と田舎の人はまだ違っているという感じがある
田舎はどうしてものんびりしているタイプが多いからだ

いづれにしろ株と投資信託とか国債でも知らない人はすべきではないとういことは本当だった,経験がない人はするべきでなかったとなる
それで退職金を損したという人はいるのもわかる
何か自分でもそうだがもうかるという甘い幻想を抱くのである。
投資にはそういうことがあるからだまされるともなる
投資は知識とか経験がないとわからないからである。
投資でだまされるのはそもそも知識とか経験がないからである。
ただ銀行員だから信用するとなるが今は違ってきたのである。
投資信託はネットで確かに手数料なしでしているところがあるし情報はいろいろある
むしろ株に詳しい友達に相談した方がいいとなる、利益とか利権がからむと人間は判断を必ず誤るからだ、証券会社の人とか銀行員とかに相談すべきではない
ネットでも勉強することである。ただそれも時間をとられるから老人には向いていないのである。
これまでしてきたことはできるが新しいことは老人にできないのである。

時すでに遅し

これが老人だったのである。



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自分の失われた金 (カルマの清算のために金は失った)


自分の失われた金

(カルマの清算のために金は失った)

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今貯金を計算したら相当へった,それはこれらの人に使ったからである。
その額は大きい,事業失敗者にも払った
盗難の額が一番大きかった,これは痛手だった
親戚の遺産分配もそれなりに大きかった
困窮者が来て援助するはめになった,これもそれなりに要求されて大きかった
そして地銀もまた同じようにもうけ話をもってきても結果は銀行や証券会社に手数料とかとられるだけだった

結果としてずいぶん減ったと思う,ただ助かったのは介護は手間だったけどそれほど金がかからなかった,それは自分一人でのりきったからである
ただその間に自分が病気になったりして盗難にあったり苦しい目にあった
介護は本当は二人だからもっと金がかかっているのが普通である。
でもここで金がかかっていないから残ったともなるかもしれない
病院に入院して治療代とか安いし自宅で介護していてもベッド代にしても安いから意外と金はかからなっかた,手間はかかったがかからなかった
ここで金を使っていたら残らなかった
介護とか病気とかで金がかかると思っているが意外と保険があるからかからない
ただ保険金を払うことにかかるだけである。
だからそこを心配する人がいるが自分の場合介護医療には意外とかからなかった
ただ私的に介護する人をたのんだら月三〇万とか一千万くらいかかったともなる
つまり自宅介護で自力でできるなら金は意外とかからないのである

ともかく金は要求されて出ていったとなる,それもしかたない面はあるがここでわかることは困窮者が多いからこうなっているのである。
一見銀行が関係しないようでも銀行も地銀などが困窮会社になる
もうけることができない,金を貸さない金貸しがいるのかと揶揄されたことでもわかる
金を貸してもうけるのが銀行だけどそれができないから銀行の役割はなくなり消滅してゆく危機である。

事業失敗者の要求も追い詰められているから余裕がないから介護する自分の家にきても助けることなどできない,ただ重荷となって自分に事業失敗の金をなんとかしてくれとくるだけである。それはだんだん自分が死んだら金が入るのではないかとすら思うようになる保険金殺人のようになるから怖い
人間はみんな金に追い詰められればそうなる
わずかの金でも殺すし借金が犯罪の動機になるのが普通である

なぜ自分がこんなに金で責められたのか?
それはみんな金に余裕がないからである。
差し迫ったものがありそれが強盗のようなものにもなり脅迫めいたものにもなり自分は苦しめられたのである。こういう人は他人に同情する余裕もなにもなくなっているから
そういう人が自分が苦しい時に来ればかえって苦しめるだけだったともなる

ただこうなったのも自分の親のカルマと自分のカルマだったのである。
ふりかえるとカルマの清算を強いられたのである。
必ずカルマの清算時期がある,遺産相続したりすると必ずこうした金のことでもめる
だからカルマの清算は過酷なのである。
必ずそのカルマの清算の時はやってくる
へたすると殺されるということさえカルマが重ければなる
それは自分だけではない,例えば親が金があってもその金がブラックな金だとカルマの清算が強いられる,金があればすべていいとはならない,そのブラックな金のためにカルマがまわってきて苦しめられる
それは人生の法則のようなものである。若いときの過ちもそのままでは終わらない
必ずカルマとなり後年責められる苦しむことになる

ただここで銀行に苦しめられというのは無知だからだろう,銀行に責任があるわけではない,それはただ知識がない経験がないことでのってしまっただけだとなる
ただ銀行も今は困窮者になっているから余裕がないから証券会社化したのである。銀行もまた困窮者だから苦しめる側になったともなる
困窮者になれば明日食べるものがなければ相手を襲ってでも奪っても殺してまで得ようとするだろう。そこまで追い詰められている人間は善悪はなくなるからだ
そういう人に出くわすのもカルマだとなるかもしれない
自分がそうだったとなる,でないとなぜある人がなぜ事件にあい,苦しめられるのか理不尽だとなるからだ,

もう自分は自分の親とか自分でもカルマを清算したとしてくれとなる
これ以上金はもうない,それで許してくれともなる
つまり金をもつことはこうしてカルマになるから気をつけろとなる
金の額にもよるが平均的にしても上回る金だと今は貧困者が多いから責められる
田舎では特にそうである。田舎では大金持ちなどは住めない
なぜあいつは金をもっているんだとなるからだ
ともかく金というのはどこまでもついてまわる,そして地獄の沙汰も金しだいになる
金の恐ろしさがわかる,金をめぐって人生も変転する
だから人間は金から解放されたいと心底願うようになる
そして強欲資本主義とか金融資本主義がやがては成り立たなくなる,そして別なシステムが生まれるのか?そういう時代が来ることを願うほかない

ただ天に宝を積めというときこの世に積んだ宝も金もそれは腐れる,死ぬときは結局そんなものは意味がなくなる,天国ではこの世の金で生きるのではない
天に積んだ宝で生きる,金にふりまわされることはもうないのである。

カルマの精算期にきたら

本当にこういうことがある,もうこれは法則のようなものである。
人はカルマから逃れられないのである。ただ苦しみがないと自覚できないのである。
なんらか苦しみがともなうときカルマを自覚するのである

自分はカルマ消すことをしてきた,だからもう金ではめんどう起さないでくれとなる
金のカルマから解放されたいとなる






地銀などの投資信託でも株でも商品の数が少なすぎる (その説明もないし地銀とか証券会社のもうかるものを提供する)


地銀などの投資信託でも株でも商品の数が少なすぎる

(その説明もないし地銀とか証券会社のもうかるものを提供する)

自分の経験では勉強していないからわからなかったけどいろいろな商品があるし投資信託でも安全に投資できるものがある
地銀には一つ二つしかなく勝手に相手の銀行と証券会社の都合で決められているふしがある
調べればいろいろなものがあった,投資信託でも積み立てとかいろいろな方法があった
でもそんなものは一切紹介されない
そういう商品をそろえられないのである。
メガパンクでそういうものをそろえているからそこの案内に行けば教えてくれる
でも田舎の地銀はそうした商品の知識すらないのである。
大和証券が来たらそこから与えられるものであり地銀はただそれに従う下請けである。
様々な商品を投資の仕方が提示できない,ただ証券会社にとって投資信託などの商品もいろいろあっても銀行がもうかる証券会社がもうかるものを提示するだけである
だからこうした証券関係や投資信託などは田舎では不利である。

要するに地銀では東京のメガバンクなどと比べると格段の商品の差がある
そしてその仕方もいろいろあり安全志向のもある
地銀で損したら半分リスクをとって払いというときそういう商品もあるみたいだ
この世界は商品の種類が多いが田舎に来るときはすでに証券会社と地銀のもうかるものを提示して与える,そしてそれしか方法がないのである。
だから安易に知らないですると損する
本当は少額で訓練してやれば良かったとなる,それなら損しても仕方がないとなるからだそうするとまた証券会社とか銀行でもめんどうだから相手にしないということもある

何も勉強しないで銀行だから安心だとしてまかせたのが自分のもともとの失敗だった
自分では調べることもできない,他にすることがあってできない
だから時間がとられるから頼んだがそこが裏目に出たとなる
つまり人間は何するにも時間が必要であり時間をさかないと実りがないのである。
それは天才とか特別な人でなくても一つのものを探求すればそれなりのものになる
それはそのテーマに時間を費やしたということなのである。
それは株でも投資信託でも同じだった
みんな銀行に一括してまかせたら時間は節約できてもその代わり実りは収入はないのである。

本当は株でもうけるならデイトレイダーのように一日パソコンの画面を見ていることである。だがそうなる他のことは一切できなくなる
その人の時間はパソコンで株をみることに費やしたとなる
ただ結果として大金持ちになることもある
そこに時間を費やして大金を得たのである
ただ貴重な時間はそのために消えた,すると後で老人になって後悔することになる
金はあるけど自分のしたことはパソコンの画面で株の値動きを追うだけだったとかなる
この時間が貴重なことが人間にとって盲点だった
時間などいくらでもあるというが時間は確実に消失する
そして最後は何にもできなくなる,ベッドで病院の天井だけを見て死ぬだけだともなる

だから老人になるとみんなあの時何をしていればよかったとかみんな後悔している
それはどんな優秀な人でもそうなのである。
それだけ時間を有効に使うのはむずかしいのである。
金がいいのは金があれば他人を金で雇うことができる,すると家事してもらえばその人は自分のしたいことに集中できる
金で時間を買うというときはそういうことなのである。
でも人間は何かを経験するというとき家事だって経験なのである。
それに時間をさいて家事を理解する,料理も理解する
それを全部他人にやらせたら経験がないとなり損したともなる
時間はこの世には様々なことがありそれを経験することだからである。

結局株でも投資信託でもそれを経験していないからわからない,わからないのに近くの銀行員だから安心だということはなかった
むしろ東京のメガバンクのような多様な商品がありそれで説明されて入るというものでもない
本当に非常に限られた数個の株でも投資信託しか紹介しないからである。
そのやり方も説明しない,銀行のもうけになるから最初大金を入れてももらうことになるまた売り手数料を稼ぐ,それが全部悪いというのではないが説明もその時ない
それは営業する人にもよるかもしれないが地銀には本当に商品が少なすぎる
メガバンクなら老人にあった投資の商品も仕方もあったのである。
ただ田舎ではそれを申し込むにも店舗に行けないのだからできないのである。
だから田舎では投資信託とか株はすべきではないとなる
すすめれるものでも確かにいいものはある,ただ選べないのである。
田舎はここでかなりこうした商品とか投資では不利になっていたのである。
アマゾンで本を買うなら平等だが投資は平等ではなかったのである。

ただ銀行員は毎日地元の人達の家を一軒一軒回っている,そして何度も来る,それが信用なっていたのである。ネットとは違うリアルな人間が直接来ることが信頼になる
でも証券とか投資信託とか株は必ずしもそしてもうけるものではない
その仕組みがわかればパソコンの画面で取引して一人でもできる
それになるには相当時間をさくし訓練が必要なのである。
そのためには資金も必要なのである。
だからこそ銀行員に頼んだがそれが裏目に出たのである。
銀行員自体が知らないし地銀はそうした老人向きでも多様な商品をそろえられない
またその投資の運用の仕方もいろいろありそれも説明しないのである。

自分は何度もそんなにもうけなくてもいい,、損はしたくないと言っていた
そういう商品が売られていたのである。
銀行員では答えられない,そんな商品をそろえられないからである。
田から証券会社と銀行に都合のいいものだけを紹介されるともなる
確かに一つはなんとか利益を出したみたいだけど元本から分配金はひかれて損もないがもうけもないという感じなのである。

老後に投資などで知らないことで金をとられるな

これは言えたのである。投資は田舎と都会の差が意外と大きかった
地銀では素人に毛がはえたくらいの経験と知識もない
蓄積もないのである。だからそもそもそんな商品を売ることができないから一方的に証券会社の下請けになっている,独自に何か商品をそろえたりその仕方を教えることもできないのである。
ただ銀行に都合のいい商品を売って手数料を稼げばいいとなる
そういうことを知らないで銀行員にあづけたのは自己責任だとされる
ただ何か老人はもう時間がない,将来生きる時間が限られている
それで一から勉強するものは無理になる
その老人の弱点を知ってその需要に答えられる商品があっても紹介されなかったとういことである。また地銀ではできなかったのである。




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老後の金の計算のむずかしさ (積み立てて月に年金五万でももらうと助かる)


老後の金の計算のむずかしさ

(積み立てて月に年金五万でももらうと助かる)

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これは50から積み立てて90まで5万円もらう年金保険である。

一〇年間毎月60-70の期間を4万もらう保険だった,これは十年間だが民間の年金だった,これは親にかけてもらって役にたった
老後の備えは年金が有効である。毎月もらえるから安心感がある
それが4万でもそうだった,年金がいいのは死ぬまでもらえるものがあることだ
これは十年間だったが年金は死ぬまでだし新商品では九〇まで5万もらえるのは大きい
自分の場合は五〇〇百万かけていたから毎年五〇万くらいもらっていたのである。
これは貯金として五〇〇万円あるより安心なのである。
何か貯金は額が大きくて不安なのである。
老後にいいのは年金なのである。
年金を一定額もらえないと老後は苦しくなる,別に五〇〇万貯金と月々支払われるのと同じじゃないかとなるがそうでもない
これもそういう経験して不思議に思った
考えてみると10年間だと一〇〇〇万になると9万くらい月々支払われることになる

ところが貯金には何かそうした感覚がない,確実に使いすぎたりして目減りしてゆくのだ老後の金の計算はみんなしているだろう。
でも死ぬかわからないしいつ病気になるかもわからないし必ず不測の事態が起きるから困るのである。その時出費が増えて貯金は目減りするのである。
ただ正直金は計算できない,一千万あるとしてもその金がどういうふうになるのか?
みんな20年後まで計算するけどその間に何があるかわからないとしたら不安になるのである。

金はいつも同じ価値ではないからだ,百円の価値が半分の50円に実際はなっているとかなる,金の価値は常に変動しているのである。同じ百円でも千円でも同じ価値ではないのである。
だだ年金として支給されるのはわかりやすいというか安心がある
確実に90まで5万支給されるとなるとそれに厚生年金とかもらえれば安心になるのであるだからそういう保険ができたとんうのもわかる,高齢化社会だからそうなる
自分たちの世代にはまだそういう保険はなかったのである。
でも自分がもらったのはそういう保険の一種だった
ともかく何かと自分は親に良くされたのである。だから懸命に介護するのは当たり前だったのである。

高齢化の問題は実際は様々でありその対策はまだ出ていないのだ,こういう商品が出るのも高齢化社会である。
老後に備えないとならないということが普通になる時代になる
まだ自分たちの団塊の世代はそこまでしていない人が多い,そこまで余裕ある人は少ないだから下流老人化してゆくのが多い,高齢化は日本だけではない中国でも今すでに深刻である,一人っ子政策で親のめんどうみるのが大変なことになっているからだ
その制度も介護保険も整備されていないからだ

老後の問題は高齢化社会の問題はいろいろあるが金の問題が中心になっている
本当はそうではないが金がわかりやすいからそうなっている
現代はこれだけ金の支配する社会になったのだからそれに不満をいってもどうしようもない,金を中心に老後をまず考えるのはやむをえないことである。
なぜなら子供でも金は出せないとか大家族で世話してくれるわけではないからとなる

不思議なのは1000万の貯金を10年間で計算すると月々およそ九万にもなるのかということである。
84000×12=1008000となっている,これがなかなか納得いかないのである。
年金にすると厚生年金とか国民年金を加えると結構大きな額になるからだ
だから金をどう計算するかはむずかしい,とても数式通りにはいかないからである。
一千万の価値がそんなにつづくのか維持できるのかともなるからだ
もしかしたら半分にも低下しているかもしれないからだ

死ぬまでの金の計算などしたくない,でも高齢化ではしたくなくても避けられないのである。金が尽きたら人生も終わりだともなるかもしれないからだ
だからこそ年金は老後には大事なものなのだと最近わかってきたのである。
その自覚が若い人にはない,絶対にもう60代では人は死なない
今の40代は90才が男の平均寿命になるかもしれないからだ
すると60からの生活をどうするか金をどうするかが問題になるから高齢化また金がさらに必要な時代だとなる,それは用意していない人が多いのである。
自分は親に用意されていたが金だけではたりなかった,それで一人孤軍奮闘してきたことを書いた,これからもそうである。

人生は短すぎたから長くなることは悪いことではない,ただそこに数が多いから社会の負担が増えて問題になる
ただ個々人をとってみれば長く芸術でも探求してきたことを追及できる時代だとなるのだ芸術家は特に詩人などでも早く死にすぎたからである。
そうするといい作品も残せないとなる,それより芸術はつくづく時間をかけないと理解できないものだった,それだけ深いものがあるからそうなっていたのである。
鑑賞すること自体がむずかいしものだったのである。

要する高齢化社会は日本だけではない人類の課題として与えられたのである。
高齢を生きることで人生を豊かにする社会なのである。
それが人類史上はじめてのことだから問題が起きているのである。
人間の一つの願いに長寿があったのである。
それはあまりにも人間が早く死にすぎていたからである。
だから長寿が今実現するというときそれは人類の長い間の願いがかなう時代になったということでもある,ただそれだけからこそいろいろな問題が噴出しているのである。

はっきりいって株とか投資信託とかは老人向きではなかった
老後のたしにしようとしたがかえって損したりする
つまり老後に高齢化社会に向いたものでないなと合わないということがあった
それが証券会社でも銀行でも用意していないのである。
投資は若い人向きである。知識も経験も必要だし先が長く考えるのもそうである。
ところが老人向きのはそういう商品ではなかったのである。
東京のメガバンクなどでは老人向きの商品を出していたのである。
やはりこの辺は田舎では不利だったなとつくづく思う
高齢化というとき都会では高齢者だけが集まる食堂もあり高齢者用の食事も出している
それはやはり数が集まるからそういうサービスが生まれる
田舎ではそれだけの金がある老人とかが集まらないから老人向きのサービスが生まれないのである。
ただ高齢化社会ではこうしたサービスを銀行でも証券会社でも考慮せねばならない時代になったのである。
その対応がないから自分は安心安全で冒険したくないと言ったがそういう商品を示してくれなかったのであり
また地銀ではできなかったのである。