2018年01月11日

墓は何のためにあるのか? (記憶するためにある)


墓は何のためにあるのか?

(記憶するためにある)


墓は何なのか?墓は死んだ人を埋めたのだから死んだ人をそこで供養するということがある
供養のためにあるとなる,一方で記念碑としてあるのは記念するものとしてある
忠魂碑とかあるがあれは墓ではない,墓は死んだ人の骨などを埋めた所だからである。
一つの戦争に貢献した国のために死んだ人としての記念碑になる

墓が何かというとき墓に行けばお参りすると必ず死んだ人を思い起こすのである。
だから母の実家の墓にゆくと享年25才とかで死亡というときその人は若くして肺結核で死んだ,そのことを必ず思うのである

だから何かそこの墓にゆくとしめつけられるような圧迫感を覚える
「俺はもっと生きたかった,生きたかったが生きられなかった」という叫び声のようなものがいつも聞こえるような気がする
それで何かしめつけられるような気分になる
そのことを何回も母から聞かされていたからである。
つまりこの人はもっと生きたかったが生きられなかった,成仏しなかった
だから圧迫されるようなしめつけられるような気分になる

墓でもこの人は安らかに死んだなとなると別にそんなことはない
母は苦労し人だけで百才で死ぬときも楽に死んだからそういうことはない
姉の場合は認知症で苦しんでしんだから違っているが一応85才まで生きたからそれほどそうした圧迫感は感じない,兄は40才で交通事故で死んだから無念がそこに残った

ともかく墓はこうして必ず死んだ人を想起させる場所なのである。
もし墓がなくなればお参りする人もなくなればその人のことは全く忘れられる
確かに記録として書類ではその人が存在したことがあるとしても具体的に墓としてもないのだから墓で想起するのとは違ったものとなる
死んだ人は無数にいるのであり書類にも記されている
でも墓参りするのとは違ってくる,戦争で300百万人も死んでいるからである。
もうその一人一人のことを具体的に知ることはなくなる
だから過去に死んだ人は本当にこの世に存在したのかとなってゆく

墓はそれだけ死んだ人を記憶させる重みをもっているのだ
ただいづれ墓もお参りする人もいなくなると忘れられる
無縁化したりして忘れられる
でも記憶させるものとしての重みをもっているのが墓なのである。

いづれにしろ兄を知っている人は確かに子供のとき5年くらいここにいたけど知る人はいなくなった,そこに墓を建てたことにより毎日自分はそこを通るから記憶されるのであるだから別に骨は埋まっているわけではない,でも墓がありその人を記念するものともなる記憶するものとしてある,
「あなたはここに存在したんですよ,私はあなたの存在をここで確認します」
そういうことにもなる,それだけで死者はなおまだこの世に存在しつづけるということがある。

ただそうはいっても実家の墓には行きたくなくなっている
これまで書いてきたように不和争いの家だったこともある
そして何か圧迫されて苦しくなるのだ
だからかかわりたくないともなる
間違いないことは死者が墓とともに生きていて何かを訴えていることは確かなのである。もし墓がなくなったら墓参りもしなくなったらそんなこと感じないからである。


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大学は名前だけになり大衆化した (それは団塊の世代から始まっていた-文系大学はいらないのか)


大学は名前だけになり大衆化した

(それは団塊の世代から始まっていた-文系大学はいらないのか?)


大東亜帝国以下の大学なので、こんなもんじゃないです。
全国で500弱の大学が該当します。

自分のプログのアクセスを見ると驚くのはこんなに大学があるのかとなる
どこからアクセスしたかわかりにくいけど大学からアクセスするのはわかりやすい
するとこんな大学があったのかと知らない大学が多いのである。
Fランとかなるとそんなに多いのかとなる
何か地方にそうした大学を誘致して活性化を計るために大学を作りすぎたためである。
今日は長崎ウエスレヤン大学とかからアクセスしていた
キリスト教系の小さい大学なのである。

大学とは何なのか今問われている,団塊の世代から大学が大衆化していたのである。
自分の大学は文系でありマンモス大学であり講義を聞く講堂には3千人いたとかなる
これは高校の授業とはまるで違ったものなのである。
今は少人数になっているだろう。高校中学で30人クラスであり恵まれている
団塊の世代は50人くらいが普通だったからである。
そして地方から大学に入る人が多かった,今は有名私立大学は関東圏で70パーセントとかしめているとなるとか変わっている
地方から大学に行ける余裕のある人は少なくなったためである。
関東圏だったら家から通いから金がかからないのである。
地方だったら東京に住むだけで金がかかるからだ

学生運動というときなぜ起きたのか?
それはマンモス化した大学に対する不満があった,学問に身が入らないという不満があり学生運動になり青春のエネルギーを費やしたのである。
青春時代はなんらかでありあまるエネルギーが噴出して爆発するのである。
そして必ず過ちを犯すのが人間としてくりかえされてきたことである。
老人になってその過ちを悔いるのもそうである。

大学というと名前から錯覚しているのである。旧制高校からの帝国大学はまるで違ったものとして私立大学の文系などが生まれたのである。
団塊の世代から大学はそうしたエリートとは違う大衆化した大学となっていたのである。だから何か自分なども大学という名前だけでありその名前で錯覚しているのである。
大学を出たと言ってもほとんど勉強していないのだから大学を出たということにどれだけ意味があるのか?
例えばそこで何かを文系でも研究していたなら別である。そんなことは大学院まで行かないとないのである。

大学でも成城大学とか成蹊大学とか金持ちの行く大学は少人数でかえっていいものだったろう。その学生の数が百倍くらい違っていたからである。
だからその数に圧倒させられる,そんな数がいたことに驚くのである。
数が増えれば大学というっても名ばかりになる,それはすでに団塊の世代からはじまっていたのでありそれがさらに地方に大学は自治体の要請で活性化のために作られたのである最近看護系の学部を設置するのも地方では看護師不足で悩んでいるからである。

大学とは何かというとき戦前の旧制高校の時代とはあまりにも違ってきた,それはすでに戦後の団塊の世代からはじまっていたのである。
大学生の数がふえすぎて価値が低下したのである。
だから一流大学を出ない限り価値がないとなったのである。
むしろ手に職をつけた方が就職するにも世の中をわたるにもいいとなってもいる
大学の教育は役に立たない,特に文系は何のようにもならないとなった
自分は経済学部出ているけど何にも勉強していないから銀行員が来て株のことがわからないのである。
むしろ高卒の人は証券場で働いているから詳しいのである。
債権とか株の相違とか基本的なことがわからないのである。
株式とかが資本主義の中心にあるときそのことすら経済学部出てわからなかったのであるただ経済の分野は広い,哲学でも宗教でも関係しているから自分には本当はあっていたのである。

それにしても資本主義の基本である株式のことすらわからないというのはそれで大学の経済学部を出たと言えるのかとなる
理系と文系の相違は分けることは簡単にはできない
宗教が生まれたのは宗とはむねなることであり全体志向があって宗教が生まれた
だから宗教でも仏教でも医学と関係していたし江戸時代は医は仁術となっていたのである
大学で錯覚しているのは旧制高校の延長として団塊の世代は考えていたふしがある
つまり将来エリートとなり社会を指導する地位にたつことが約束されていたものとしての大学だと錯覚していたのである。
そんなマンモス大学でエリート意識が養われるはずがないのである。
エリート養成は少人数でしかできない,ソクラテスの回りに集まった弟子は数えるほどしかない,キリストでも12人の使途に教えを説いたのである。
講堂で三千人に講義すること自体,それは何なのだろうとなる
すでに授業も成り立たない状態になっていたのである。
だからみんな授業はつまらないとして学生運動で鬱憤を晴らしていた見れるのである。

その後大学を出てみんなが企業戦士となったのも戦前だったら旧制高校なら社会の重要な地位につき指導者になっていた
企業戦士とは会社の一兵卒のように働く人でありみんなが社長になるわけはないのである大量の一兵卒の方が必要とされた時代だったのである。
その人たちが団塊の世代を中心に高度成長時代を築いたのである。
その人たちはエリートではない,高度成長時代に大量生産して消費者となったのである。だから別に大学ではエリートとして社会の指導者としてどうあるべきかなど何にも教えられていない,日本の国をどうすべきかなども論じられないない
なぜならエリートでもなくなっているしそういう志など必要とされなかったからである。そもそも団塊の世代の受験戦争では他者を蹴落としていい大学に入り大企業や公務員になりいい暮らしをしたいということだけをすりこまれたからである。
そこにはエリートだった旧制高校のような矜持は全くなくなっていたのである。

いづれにしろ大衆化した時代というときエリートがいない時代であり何が指針となったかというとただいい暮らしをするしかない,物質的欲望を充たすことしかない
それはカルト宗教団体でもそうである。そこは巨大な欲望の塊りとなり政治化する
日本の戦後はエリートなき大衆社会である。
大衆がリードする社会である。それでマスコミでもその大衆向けに放送する
大衆が主役なのでありそれに答えるためにマスコミがある
パンとサーカスの時代だったのである

大学とは何か高邁な理想を追及するエリート集団を形成することにあったのだろう。
その理想が現実社会から離れていても大学内では理想を追及するとなる
社会の現実はそうでないとしても若いときはそういう純なもの目指すからである。
それに答えるために大学あったともなる
旧制高校とか明治維新の後の侍出身の人達はもともと選ばれた優秀な人達でありその人たちが新しい日本を作ったともなる
その後も旧制高校などのエリート集団が日本には存在したのである。
でも戦後はあらゆるものが大衆化したのである。
高邁なものを追及するものは拒否されて大衆化して堕落したのである。
マスコミがそれを象徴している,そこに本当の知とか何もない
芸能人の馬鹿騒ぎでありそれを見ているのも無知な大衆だとなってしまったからである。
それは日本だけではない世界的なものでありアメリカでもインターネットが発達していても一日十時間以上テレビを見ているというのには驚いた
インターネットを発明して普及しているのにそんなにテレビを見ているのかとなる
そしたらテレビに左右される人が多数だとなる,それで大統領選挙でもテレビを操作すれば勝てるとなり実質トランプ陣営がそれだけの金をテレビ宣伝に使ったとというのもそうなのかとなる

とにかく文系大学がいらないというとき大学が戦前の旧制高校のものとはまるで違ったものとなっていたのである。エリートを養成する場所ではなくなっていた
それは会社の一兵卒になって大量に働く人を大学をランクづけして選ぶことだったのである。もちろん有名大学ならそれは将来の幹部候補生となるからエリートとして選ぶとういことがあるかほとんどは一兵卒として採用されるのである。
だから大学というのは名前だけであり名前を変えないとなにか時代にそぐわないのである大学とついていると何か高校とはまるで違ったエリートのように錯覚するのである。
大学は団塊の世代からすでに大衆化してエリートでもないしその価値は格段に低下していたのである。
特に文系は大学では勉強しないし自分のように経済学部を出ても資本主義の基本の株式すら理解していないのである。
今や大学は名ばかりであり文系の場合どこの大学を出てもそれほど差がない気がする
自らが目的意識があって課題にとりくむことがなければ社会でも全然役に立たない

学問とは何か?それは社会の問題を解決するためにある,例えば今ここで津浪や原発事故で悲惨な状態になった,ではその復興とか解決策はどこにあるのか?
それこそがまさに学問なのである。それは理系が主でも文系も関係している
理系であれ文系であれ総力をあげて解決する策を見いだすことだからである。
それを自分はプログでしてきたのである。
学問とは現実社会がありそこに起きる問題を解決するためにある
それは個々人の問題でもそうである。
ただ学生だと現実社会を知らないから机上の空論になりやすいのである。
でも社会にでると否応なく社会の問題につきあたり解決を求められるのである。
その時大学で勉強していないと答えられない,解決策を見いだせないともなる


タグ:文系大学
posted by 老鶯 at 16:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年01月12日

昨日の痴漢冤罪のテレビドラマの批評 (今の社会で怖いのは警察と病院)


昨日の痴漢冤罪のテレビドラマの批評

(今の社会で怖いのは警察と病院)


このドラマは複雑だけど現代を象徴しているものだった,警察と病院が舞台になっていたからである。
最初は痴漢冤罪だけだと思ったがその背景に病院がからんでいたのである。
まず日本の有罪率が99パーセントとかほとんどが有罪になっているのはおかしいというのは本当である。

こうした警察当局を増長させたのが司法である。日本の刑事裁判の有罪率が99.9%を超えていることは異常だ。先進諸国では7〜8割程度であり、日本では「起訴されたら有罪確定」と考えて間違いない。それだけ無実の罪で服役する(あるいは死刑になる)者も多いはずだ。

そもそも人間はどんな人でもミスを犯す,だから裁判でも人間は公平に裁判できない
人を裁き罪に帰することは最高にむずかしいものとなる,だから神は裁くなと言ったのである。裁くなというより人間は人間を裁けないからそうなった
だから日本では有罪率が高いというときすでに起訴した時点で裁きがついているとなる
そういう事案しか扱わないともなっている
でも本当は人間にはミスがあるのだから冤罪も確実に起きる
それだからこそ外国では7割くらいしか有罪にされないのである。
もちろん弁護してまた誤って罪悪人を無罪にすることもある
これも人間はミスをするからそうなる,でもそれも有罪率99・9バーセンというのはありえない数字だともなる,その中に確実に冤罪があるからだ

ともかく痴漢冤罪というときこれは女性が訴えだけで有罪になるというのも不公平となる女性の権利は格段に主張され法的にも実行力もつものとなった
その権利を逆手にとり男性をおとしいれる悪い女性も出てくる
ちょっと手を触れただけでも訴えられ有罪にされ社会的に抹殺されることは怖いことである。女性の権利が余りにも強くなった結果,男性は結婚がめんどうだとかなり少子化の一員にもなっている,結婚することは女性が断然に有利になっているからである。
少子化の原因はこういうところにもあった,女性は今はいろんな点で守られているのである。女性は大目に見られ犯罪にしても警察は女性には甘いのである。

この痴漢冤罪の背景は病院にあった,病院の院長がホームレスの男性を手術する必要がないのに手術して死なせた,それは生活保護だと手術すると金が入るからである。
だから手術する必要もないのに手術したのである。
ここに病院の怖さがある,生活保護とか身寄りがないとかなるとこの世は一見やさしいようで非情化する,そういう人は病院は恐怖の場所になる
実験材料にもされる,現実に自分が入院した市立病院では隣の福祉施設に入っている患者をおもちゃのように扱っていた
痰がつまってそれを治療するとき苦しんでいたがそれを面白がっていたのである。
その他病院には怖いところがある,確かに治療するにしても病院は無機質な空間であり情に欠けた空間なのである。
だから病院は刑務所のように思えた,見はり役が医者であり看護師であった
その人の言う通りにしなければならなからだ
医者は病院では拒むことのできない絶対的権力をもっているからだ
なぜ医者がこれほど敬われ力をもっているのか?
それは命をあづけるから何も言えないからである。

このドラマのテーマは警官がその痴漢した人を逮捕したのだがそれに疑問をもち独自に探り冤罪を晴らしたのである。
その背景に病院がからんでいたのである。その冤罪した人は病院にとって都合の悪い人だから痴漢にされて逮捕されたのである。それは仕組まれた罠だったのである。
そこで警官は苦悶するのだがどうしても良心があり冤罪にしたら自分が警官をやっていけないとして弁護士を頼み冤罪の証拠を探して遂に病院の院長の悪事を暴いたのである。
でも一警官がそこまでするのは相当に抵抗があり仲間からも注意された
上からの圧力もあった、でも押し切って痴漢冤罪を晴らしたのである。

ただ現実はそうはいかない,むしろ警察は怖い場所であり冤罪にできる権力をもっている検察と警察は今の社会では実行力あるのだから一番力を持っているから怖いのである。
他は会社であれ何であれ実行力がないからそうはならない
そして警官と医者と看護師は頭を下げない,患者様とか言うが現実は病院では頭を下げない,職務質問でも上から権力で拒否できないようになっている
警官に検察には逆らえないのである。
だから今の世の中で一番怖いのは警官と病院の医師とか看護師になる
そこはだからかえって悪が露骨になる
時代劇でも役人が悪人だとそれが露骨に権力を笠にきて威張っているのと同じである。
権力があるから何でもできるということにもなりかねないのである。
実際に実行力があるのが権力でありなければ怖がらないのである。
戦時中では一番威張っていたのは軍人だったという
現在は警官と医者とか看護師とかなる,これには逆らえないからである。
病院長の言い分としてはホームレスを手術したのは生活保護から金を得るためだという
そして優秀な医師や看護師を雇うのには金が必要だからだという
そこに必ずコストの問題が生じる,医も算術だとなっているのが現代だからともなる

このドラマは現代の問題を浮き彫りにした,過度な痴漢の摘発であり法の解釈である。
あまりにも女性側にたちすぎる結果として起きているということもある
それがひいては今度は少子化の原因にもなる,みんな女性に対して怖がるとういことさえある,ちょっと触ったら社会から抹殺されるとなると近づくことさえできないとまでなるそうなると結婚はめんどうだとかなりしない人が出てくるから少子化の原因にもっている何かと女性の権利が強くなりうるさくなっているし人間の善意すらはばまれる
そういう窮屈な社会にも反面なったのが現代なのである。

タグ:痴漢冤罪

原町まで行く (南相馬市長選挙のことなど)


原町まで行く

(南相馬市長選挙のことなど)

election12.JPG

今日原町に行ったらいわきまでのバスが新しく出ていた,常磐道で行くから一度乗ってみよう,さくらのバスは鹿島からも出て東京まで行くが遠い
いわきまでなら90分だとある
常磐高速は乗ってみたいと思っていたからだ

それからイオンに行ったら南相馬市長選挙の期日前投票が行われていた
そこで取材していたのが福島民報の記者だった
出口調査しているというが一時間しかいないとういうからたいした取材はできない
鹿島の区役所でも期日前投票をしている

ただ月曜日に討論会したがどういう内容だったのかわからない
今回の選挙の争点とかが良くわからないのだ
ただわかっているのは桜井市長は二期勤めてそれほど実績を出せなかったから変えてもいいという人がいるかもしれない,自分もそういう動機になる
二期もつづくとマンネリ化して癒着したりするからだ
ただ対抗馬の門馬の人となり政策もわからない,だからどうして判断するのか?

桜井市長は脱原発であり門馬氏は自民公明指示であるから今度は保守が一本化したから手ごわいとなる,脱原発はこの辺ではこれだけの被害なのだから当然だとなる
しかし自民では脱原発ではないのである。前の自民の渡辺氏もそうだったのである。
桜井市長は野党系だから脱原発なのである。
第一この地域で脱原発にならないとしたらどういうことなのかとなる
つまりそれは当然としてこの辺ではありそれふまえて争点があり争う
復興の進め方で争うというのもそうである。
それから高齢者が多いから票になるのが高齢者だとなると当然そうなる
この辺は特に高齢化率が他の県より10パーセントとか高くなっているからである。
そして看護師不足も問題である。人手不足もこの辺は他の地域より深刻だからである。

今は取材しているマスコミをまた取材している人が出る,そして報告する人もいる
プログなどがあるからインターネットで報告する
この前はNHKの人と小高であった,そこでNHKの放送が原発避難者のことであまりにも小高寄りであり鹿島は無視されていて不満があるというと俺は下のものだから知らない
上の言う通りにするだけだと怒っていたのである。

今はこうしてマスコミは取材されて標的にされてプログなどに書かれる時代なのである。マスコミは監視されていていてインターネットで報告される
警官でも職務質問を警官に逆にしているのには驚いた
それをyoutube で流している,相手の名前とか役職とかを言いその警官のことを職務質問していたのである。ここまでやることは驚きである。


NHK紅白歌合戦の裏側【金・女・暴力団】を元NHK職員が実名付きで語ります。

これは迫力があり驚きである,こうしてインターネットで告発できる時代なのである。
インターネットでは一人一人が記者にもなれる時代なのである。
ただ影響力は宣伝力はやはりマスコミに以前としてある,インターネットでプログでも読まれているのはわずかだからである。

とにかく南相馬市では小高が復興できない,そこが大問題である
また原発の補償金をめぐって分断されたことも大問題である。
復興の進め方でも問題をかかえている,ここは問題が山積みであり変わっていないのである。

高齢者の住みやすい街作りというのでは高松市が参考になった
商店街に老人を住まわせてそこの狭い範囲で病院まであり何でも用たせるというのはいい高齢になると車も運転するのが危険になり迷惑をかけるからである。
自分もあういう街に住みたいともなる,ただあそこまでやるとなると大事業になってしまう,ただ高齢化社会の一つのモデルなことは確かである。

渡辺氏が作った図書館は立派だったけどそれが今になると十分に利用されているのか?
鹿島から電車で暇つぶしに行っている老人がいる
あとは高校生などのたまり場になっている
本を読むといっても今は少ない,自分は家事が忙しいので調べ物などはインターネットでしている,駅前で買い物ができるならいいが駅前には買い物する場がない
六号線の方とイオンとかは離れているからだ
それが問題なのである。つまり図書館ではなくスーパーとか買い物できるものが必要だったのである。また併設する必要があったのである。
そうすれば駅前が活性化できたが図書館だけではできなかったのである。

イオンで会ったのは飯館村の蕨平の人だった,パチンコに来ていた、この前は鹿島の競輪のギャンブル場に来ていた,原発避難者はパチンコ屋に以前として通っているのだろう。蕨平では女性の年配の人が帰って住んだとか放送されていた
一人住むとなると飯館では苦しいだろうし淋しいとなる

sekeitouhokuuu111.jpg

ツタヤで「政経東北」を買った
浪江町の外郭団体でパラハラというとき浪江は公務員が苦しい状態に置かれて神経質になりパラハラになったとか書いてある,今回は応援に来た公務員が津浪の被害地で三人くらい死んだとかあった,公務員はもう仕事をつづけられるかどうかの瀬戸際まで追い詰めれているのである。仕事が増えすぎたのと職員がたりないから若い人を入れたのはいいが
うまく仕事ができないとなりパラハラとかなった
それもわかる,公務員でもそこで仕事するには経験が必要になるでも緊急事態でそうなったのである。
それは看護師不足でも経験がなくてもなんとか補充して病院を維持するために雇ったのとにている,みんなで経験がなくてもやれることをやらないと病院でもどこでも成り立たなくなるのである。
だからこの辺では何かやれることをしないと自治体を維持できなくなるのである。
ニートとか働かないことはここで責められる度合いが強いのである。
特に病院とかは深刻なのである。



「南相馬市民が被災地支援医者に苦言」の記事は医者が研究調査のためにきていて真面目に診療の方をしない,医者が来て助かるのだが調査や研究対象でありそれで一旗揚げようというのは困る
これもそういうことがある,今もまだ原発事故とかの影響があり医者は調査研究対象にしてそれで名を揚げようとかある
何か興味本位でこうした問題の場所に来る、それはマスコミでもそうである。
こういうとき地元を親身になって助けるというよりボランティアでも宗教団体などが来て売り込んだりもした,詩を書いて売り込んだ人もいる
それはなぜか?それが全国からも世界からさえ注目されるからである。
それで桜井市長は世界の有名人だと今回の市長選挙で宣伝しているのもおかしいのである桜井市長が何か特別復興のために尽力した,実績をあげたのならいいがそういうこともないだろう。
ただ原発事故の当事者で市長だったから世界で有名になったというだけなのである。

自分でも地元だけど何かマスコミ的になることがある
目立ってアクセスを稼ぐとかなる,何かみんな今はインターネットがあって記者になっているからだ,何か一目をひくものを出さないと目にもとまらないのがインターネットの世界だからである。
週刊誌でも「日本は滅びるとか株価が暴落するとか戦争になるとか」
何か一目につきそれを読まさせるような工夫をする
明日も平穏無事で何も起こらないとしたら週刊誌などでも読まないのである。
週刊誌は今は買わない,インターネットでほとんど読めるからである。




posted by 老鶯 at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月13日

非正規雇用の問題 (一年の内に半年も仕事がないのか?)


非正規雇用の問題

(一年の内に半年も仕事がないのか?)

その人は建築関係の仕事である。年齢は40代くらいだろう。去年は3ケ月くらい働いていない,その後仕事探していわき市の方に勤めた、前はこの辺で除染関係の仕事をしていたその時は近くだから楽だった
その仕事を終わってまた別な仕事を探しまたせっかくいろいろ書類をそろえて正式に勤めたのにまた仕事がないと6月まで仕事がないからその母親が金を援助てしくれという
その女性にはいろいろあってずいぶん援助してきた
でも遂に限界に達した,前借りから何かと金を要求されるから限界になった
事情があったときはやむをえなかったが限界になった
そんな親子とつきあっていて金払っていたらきりがないからだ

確かに母親は67才くらいと年でいつも腰痛い痛いと言って皿二三枚やっと洗って終わりである。それはもう必要ない仕事である。ただ事情があってさせていたのである。
非正規の問題はそうして途中でブランクができてまた別な仕事を探すことである。
これは手間になる,建築関係とか土木関係はそういうのが多いからしかたがない面があるでも建築関係でも正規に勤めている人はそうではない,その人の兄は同じ建築関係でも
家族を養い足場を組む仕事をしているのである

だから非正規とかなっている人はその時の社会の事情があり氷河期で就職できなかったとかあった,でもそれを全部社会のせいにはできないだろう。
現実にその時でも正規になって働いて来た人はいるからである。
とにかく非正規はこうして一年の内半年くらいブランクができることが問題なのである
その人はその間に何もしないというのではない,手間賃をもらうような仕事はしていた
でも去年もそうでありまた今年もまた半年も働かないのか?
仕事がないとはこの辺では言えないのである。
全国でもそうである。どこも人手不足で苦しみ会社自体が倒産したり起業できなくなっているからだ

特に原発事故周辺はみんな人手不足で困っている,特に病院とか介護関係で困っている
飲食関係でも募集しても時給1000円以上になっても来ないのである。
だから働く場所が仕事がないから困っているということはないのである。
ニートとかフリーターとかの問題を取り上げたけどこの辺の事情が違うし人によっても事情は違ってくる公式のように社会の問題をあてはめることはできない
この辺では働いてもらわないとみんな困るし復興もできないのである。
それで原発避難者が毎日パチンコでありギャンブル指定ことが避難されるのは当然だったのである。それは被害者だからしかたがない,かわいそうだだけでは許されないことだった,今でも今度は浪江町の人達が遊んでいるけどこれもやはり問題になる
浪江町の問題は不思議は南相馬市に特に原町市に5階建ての団地ができて浪江町の人が入った,原町には何千人と入ってきている
でも南相馬市民ではないのである。浪江町民であり南相馬市民として税金も払っていないのである。そのことが問題になった
そして小高の人達と同じように補償金で働かない人が多数なのである。
老人が多くて働けないとういことがある

いづれにしろ働かない自分がなんか言うことはまた考えてみれば矛盾しているともなる
それで自分は反省すれば自分にはそもそも人を雇う資格がなかったともなる
第一自分には人を雇う経験もないし人を雇うことがどういうことかもわからなっかた
それで大金を盗まれたり次は次々にただ金を要求するだけなのかとなる
そこには事情があってもなぜそうなっているのか?
こういう事態になっていればこの辺ではニートとか働かない人は責められて仕方がない面がある,人手が足りなくて困っているのにパチンコ屋で毎日いりびたりで遊んでいたり他に何もしない仕事をしないということは責められる立場にある
すでに事故から7年も過ぎようとしているからである。

結局労働問題になると生活保護であれ非正規であれ確実にその人の資質とか自己責任はある,ただそれが百パーセントあるとはならない,社会の責任も回りの責任もあるからだ
ただ全く全部社会の責任とはならないのである。
どうしてもそういう人達は怠け者が多いとなる,それが別に他人に迷惑をかけないならいいのである。では仕事あるのに働かずに他人に要求してくる
あいつが金があるからせびればいいとかなっている
そして自分自身も問題があり人を雇う資格などなかったのである。
今になれば自分で家事も全部できるから人など雇う必要がない
人を雇うということがどれだけやっかいなものかわかった
そういう資格のある人はできる,また組織として人を雇うシステムがあり伝統があるとかなればできる,一人の普通の金持ちでもない人が人を個人的に雇うことはその雇う人に問題があったのである。
それは自分のことである,自分など仕事もしていないし会社勤めもしていないし人を雇うことがどういうことかもわからない,だから人をたいした金でもないにしても雇う力量も資格もなかったとなる
ただやむをえない事情でそうなったのである。

だから自分はそんな非正規社員で一年の内半年も働かないで金がないからと自分に要求されては困るのである。それは社会に対してもそうである。
今は現実に人手不足でありいくらでも仕事がある,特に原発事故でこの辺は人手不足で困っているからだ,そしたら正規に勤める場もある,近くでもある
それは町を復興させるためにも必要なのである。
67才で今は働いている人もいる,だから67才でも何か病気でない限り働けないということもない,何か市町村のために働くことはある
結局非正規とかフリーターとかニートとかは現代の豊かさから生まれたものである。
でもそれを個々に事情があるからわからないが全部は是認できない
特にこの辺ではみんなで働いて復興しようとしているとき許されないものとなっている
全体的にそうしてここで働かない働けない人が多すぎるのである。
そうなるともう市町村自体が成り立たなくなる

ただ何が優先順位になるかはわからない,葬儀屋などは自分の価値観ではそんなに重要な仕事なのかとなる,でもそれも重要だと社会で位置づける場合もある
ぎりぎりになれば飲食業でも外食はしない,家で食べていろともなる
金があっても人手がないのだからできないともなるかもしれない
でも外食できなくても死ぬことはないから他の病院のようなものだけは人手不足では困るからそっちに働くことを優先するとかなる
人間はぎりぎりになればそうして働くことを強いられるのである。
この辺はそういう事情があるから他とは違っているのである。

タグ:非正規
posted by 老鶯 at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

避難している浪江町民などの問題 (けじめの時期が来ている-いつまでも被害者なのか?)


避難している浪江町民などの問題

(けじめの時期が来ている-いつまでも被害者なのか?)


小高のときも仮設に住んでいる人が問題になった,毎日パチンコやギャンブルしていて遊んでいた,それでもボランティアが来てかわいそうだからと支援していた
そして鹿島の人は同情もしない冷たい人だと互いにいがみあうようになった
小高の人は鹿島の人の気持ちなど全然考慮していなかったのである。

次に主に浪江町の人が今度は移住してきた,その人たちでもほとんど働いていない,老人が多いということもある
でも不思議なのは他でも問題になったが二本松市とかに移り住んでも以前として浪江町民なのである。だから税金など払わないということが問題になった
それで二本松市に浪江町を作るということを提案した

なぜそうなったのか?浪江町民とは何なのか?それがわからなくなった
漂流する流浪民のようになったからだろう,ただ県と国ではそうしたし人達を援助するから移住先の自治体に金を払うということがあった
だからそうした人達がすべて邪魔者というものではない,それより被害者なのだから保護されるべきだということがあり誰も何も言えないのである。

その保護されるにしてももう60以上は仕事できないから小高の人達は国民年金では足りないからもっと援助しほしてい,年金として死ぬまでもらいたいと現実に要求したのであるつまり被害者だというとき何でも通る,それに批判するのものはなんて非情な人達だとなりマスコミでも応援するから何も言えない
それでNHKでもそのことを言うから余計に原発避難民を非難するものは糾弾されるのである。

でもすでに7年もすぎて以前として同じ状態にある,避難民はどう考えているのか?
誰も小高でも浪江でも帰りたくないという,では他に移りそこで住むのか?
原町とかに家を建てた人が多いのだからすでに浪江町には帰らないのである。
だとするなら南相馬市民として税金も払いとなるだろう。
また南相馬市民として尽くし働いてもらいたいともなる
人手不足で困っているし浪江町の人でも病院とか施設とかその他利用するからである。
そこには金だけではない南相馬市民の労力も費やされているからである。
ただ浪江町の人も看護師とかで働いているとかこの前はnttで働いていたとかありみんながそうではない,それなりに働いている人はいる

ただそれは割合とすると極めて少ないだろう,一割くらいかもしれない,その割合はわからない,ただ小高でもそうだが浪江でも特権意識化してかわいそうであり被害者なのだからいいのだとなんでもなってしまうのも問題なのである。
もう7年もすぎてもそうなのである。

そもそもわからないのは復興するというとき小高でも浪江でも飯館でも誰が復興するのかまたしたいのか?
それもわからない,地元の人達はもうあきらめて家を壊して他の土地に新しく家を建てて生活も別になっている人も多いからだ
公務員などは残り復興したいとしてもその肝心の町民はもう住みたくないとなっている
では一体誰が復興するのか?外部の人がいくら支援しても肝心のそこに住んでいた人が復興とは関係ない,他に移り住み帰らないと言っているからだ

結局それも被害者なのだからどうにもならないとそこに住んでいた人達は言う
それは自分たちの責任ではない,国や東電や原発事故を起こした人達の責任である。
俺たちはもう死ぬまで被害者であり補償されるべきだとなっている
補償金が切られたらあとは生活保護だと遊び人は言っていたからだ

俺たちは被害者だ
俺たちに責任はない
俺たちは最後まで補償されるべきだ
俺たちは働く必要がない
俺たちは被害者だ
回りの人達が支援すべきだ

こうなっているのが原発避難民なのである。でもその責任は一体誰がとるのか?
そこに住んでいた人達にはないと主張するとき誰がとるのか?
そうなら浪江でも小高でも飯館でももうみんな住まない方がいいのではないか?
復興を支援すること自体徒労だとなる
第一そこに住んでいた人達がそこに住むことを拒否して放棄したんだからその人たちはその町村民でもないのである。
ただ補償金をもらうためにそこに土地があれば何か財産があれば金にしたいしかないのである。

それはそれでいいとして別な自治体に籍を移してそこで税金を払いそこの一市民や町民になるべきだとなる,でも現実は南相馬市の市長選挙があっても選挙権はないのである。
南相馬市民の一員ではないからだ,だから権利は与えられないない,でも別な自治体に住むのだからそこで補償金だけをもらいあとはまた生活保護くれとかなると困る
市の負担が増えるからである。

わからないのは浪江町の人が南相馬市であれ相馬市であれ他の市とか町に移り住んでも回りの人があの人達は浪江町民だとか見ていることなのである。
でも実質はもう浪江町とは関係なくなっているのである。
浪江には帰らないからである。家も建てて別な自治体で暮らしているからである。
何かそういうけじめをつける時期に来ている
いつまでもだらだらと訳わからなくしていることはできない
それは浪江町とかの自治体でも公務員でも処理に困る
この人は他に家まで移り住んだし帰ってこない,だから浪江町民ではない
では他の人はどうなのだとか悩むだろう
この人は帰ってくるからなんとか帰ってきてもらい新しい町作りなり復興に役立ってもらいたいとかなる

そういうけじめの時期が来ている
それは自分にも言えたのである。一時は同情してもその人も原発事故とは関係なく被害者でありかかわいそうということがあってもそれなりに援助したのだからだらだらと援助ばかり都合よくすることはできない
現実に一年の内半年も働かない非正規である。そこには確かに事情がある
でもそのために自分が援助するとなると個人的には無理である。
社会的にもなぜ人手不足の時代に正規にもなれるのに定期的に働ける場があるのに働かないのかとなる
自分にそんなに援助する金などないのである
人間はどこかでみんなけじめが必要になってくる,いつまでもだらだらと何か困っていても先伸ばしはできないのである。

タグ:原発避難民
posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

ギャンブルのために費やされる労働の是非 (金になるからいいとすべてなるのか)


ギャンブルのために費やされる労働の是非

(金になるからいいとすべてなるのか)


一時鹿島区では競輪の券売り場で是非を争った,風紀が乱れるとかなんとかあった
でもどちからというと賛成者が多かった,理由は金になるからということである
そこで底辺層は掃除などあるからいいと言っていた
それはパチンコ屋とにている
バチンコ屋があって街もにぎわっているという主張があるからだ

でも問題は何にあったのか?金になればすべていいという論理がまかりとおるのが資本主義であり現代である。
いちいちその金のことなど考えない,金をどう稼ごうとも使うとも自由だというのが資本主義である

しかしそれを深く考えるとそうでもない,そのことが自分の一身上のことで現れたのである。
自分が介護で苦しんでいるときその人は借金してパチンコ屋で働いていたのである。
その時小高の人達が大勢避難してきて仮設に住んですることなくパチンコ屋におしかけた他にも競馬とか競輪とかに通うことになった

別に暇だからいいじゃないか娯楽なんだよという人もいる,気晴らしが人間に必要なんだよという人もいるしいろいろである。
でもその本当の問題は何なのか?
それは金の問題もあるが貴重な人間の労働がそこに費やされていることなのである。
その時介護で自分が苦しんでいたのになぜパチンコ屋で働いていたのか?
それは借金のためしかたなく働いていたとはなる
でも本来は介護して苦しんでいる人のために労力を費やすべきだとはなる
でも金にならないのもは何もしないとなるのが現代である。

自分は駅で案内してそういう競輪の人が来てタクシーを呼ぶ,案内したこともある
でもそんな人のために労力を費やしたくないとはなる
しかしタクシー会社とか金をおとしてくれる人がいいんだという意見の方が根強いのである。

それが資本主義社会に基礎にあるからそうなる
それはいいとして他の人達が困っている時にそういうことで遊んでいる人が許されるのかそういう疑問になる,そんなこといったらパークゴルフ場で老人が毎日遊んでいるではないかともなる
そこにも労力は費やされているのである,そこを作るにもそうだし整地するとかにも今でも金はかかっている,金だけではない必ず労働されて労力が費やされて成り立つ運営されるのである。
だから遊びのためにそんなところに金を使っていいのかという意見もある

ただ自分はパークゴルフはしないけどあそこは気持ちいい場所として散歩に自転車で寄っているのである。
それはレクリーエションで別に今の時代そんなことにめくじらたてる必要もないとはなる
ただ問題はこの世のあるゆるものに人間の労力が費やされて成り立っている
一見それが見えないのである。鉄道など乗っている人にはわかりにくいが毎日のように鉄道の保守点検に下請けの人などが来ている,それだけ鉄道を維持するには金も人手もかかっているのである。
いくら機械化しても自動化しても必ず人手がかかるしそれを全部無くすことはできないのである。
そして人手とは今や貴重なのもでてあり安価には使いないものである。

だから自分には人は使いなかった,使う資格がなかった,そういう立場にもなかったのである。人は単に金だけでは使えない,その仕事にそれだの価値があり社会の用があるとき仕える
医者は看護師を仕える立場にあり社会的にも認められている
それは確かに給料も関係しているが金が関係しているが社会的に必要なものとして認められているから人を使うことができる
自分などの仕事はそんな家事を自分でやれよなとなるのである。
ただ介護のときは苦しいからそうでもなく助けてもらいたかったとなる

まず人の労力は貴重なものでありそれを使える者はそれだけの資格とか社会的必要性があるのかとかで判断される,金があるからは言って人をがむしゃらに使うことはできない
もろろんそれで働く人もいるし資本主義社会では是認されている
でも労働力が貴重であるときすべてが金だけでは決められない
社会的必要性があるもの万人が価値を認めるものでないと人を雇うことはできない

だから例えばオリンピックに今労働力が費やされている,そのために過労で死んだとかいう人もいるし事故で必ず誰かかが死ぬ,ではそれだけの労力を費やしてオリンピックをすべきなのかということになるのである。
それは労働力が貴重だからそうなっている

人生は何か?それは何に時間を費やしたかによって決まる,すると人生は労働なしではありえないのだから何のために何に貴重な時間を労力を費やしたのかとなる
労働というとき必ずしも社会のためにというだけではない,遊びでも旅行とか登山とかその他遊びが貴重な時間を費やして実りとなることもある
ただギャンブルなどがそうして労働の実りとなるとはありえないのである。
ただギャンブルの本当の問題は何か?

そこに貴重な他者の労働力が費やされている

掃除するものも労働だしその労働は本来はもっと社会にとって個人にとっても有効なものに費やされるべきものだからである。
ギャンブルするのはいいとしてパチンコする人が掃除をして他人の貴重な労働を奪うなとなる
それは理想だがそういうことが社会には多いのである。
その時労働をしたくないというのもわかる,自分の貴重な時間をギャンブルする人達のために掃除して他にも費やして何か実りがあるのかとなるからである。
そこまで深く考える人はいないが社会にはそういうことが多いのである。
ただそれが自由社会であり資本主義だとなれば是認される
人はそれぞれの価値観に基づいて金を払うというだけになる
ただその時社会全体が荒廃してゆく,本当に労働の必要な所には労働力が得られなくなるそれは社会全体の被害になる,人手不足の時代は特にそうなるのである。



タグ:ギャンブル
posted by 老鶯 at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月14日

仕事になるのはみんなのためになること (一人はみんなのために みんなは一人のために)


仕事になるのはみんなのためになること

(一人はみんなのために みんなは一人のために) 


仕事というのを考えるとき自分の例だと例えばお手伝いさんを雇うというときそれは自分という一人のためであり家族のためである,でもその範囲は極端に狭くなる
すると社会的にその仕事が認められるにくい
戦前女中が多かったというとき家事が家族だけでできない社会的事情がありそうなった
今は家事は機械化しているしいろいろオカズも買うことができる
家事は一人でもできるようになっている

だからオカズをスーパーなどで売っているというときそれは一家族のためではない,みんなのために売っている,オカズでも食事は家族のために作っていたのである。
家族労働と社会的労働とは違っている,現代は家族的労働が社会的労働にとって変わってきている,掃除すら会社がしてまわる,それは一家族のためではない,みんなのための労働なのである。

まず一家族だけの労働だとすると一個人のための労働だとすると仕事にはならない,収入にもならない,たいがい製品でも食品でも売るものはみんなに受け入れられて評価されなければ売れないのである。
社会的に認められ受け入れられたものが社会的価値あるものとして受け入れられる仕事になる

例えば食堂でもレストランでも一人のために食事を出す所などないのである。
ある程度の人数のためにサービスしているのである。
でも考えてみると金持ちがいて一人でもそのレストランが成り立つようであればできる
そうなるとそれは王様くらいしかいなくなる
そういうのは現代では成り立たない,ただ食事でも高級な食事はある
そういうレストランは都会だとあるし田舎だってある
それは特別であり予約制になっている
一般的にはそういうのはまれであり仕事として成り立ちにくいのである。

仕事というとき何か自分が人を雇って感じたことはみんなのための仕事でないのは仕事として社会的に容認されにくいのである。
社会的に価値が認められないのは仕事となりにくい,介護でも家族内でしていてもそれが社会的には認められない,家族なら当たり前じゃないかとなるだけである
でも他者がかかわり施設などを利用したり入るとそこは社会的に認められた仕事である。それは一人のためにではない,みんなのためにしているからである。

みんなのためになるというとき電気でも石油でもガスでも一軒のために供給するのではない,もうこれは全員に供給しているのである
そういうのが仕事であり社会的に認められる,家族内では家族だけの人のための労働になる,それは社会的労働とは違っている
でも人間は家族内ですべてできればいいのだができない,だからこそ社会的労働が家事の分野まで拡大したのである。

野菜とか米とか農業でも自給自足していても仕事はしている,それは家族内労働とにている,農家では納豆を作っていたとか味噌を作っていたとか自給自足であった
でも現代では文明とは無数の職業がある,分業化した
すると仕事になるにはみんなのためになることをしないと社会的には認められないし金にはならないのである。
家族内で自給自足していているのと野菜でも米でも果物でも売るとなると自分の家族のためだけではない,みんなのためになり仕事となる
でもそうなるとその品質も売れるものとして作らねばならないのである。
市場に出して商品として売れるものみんなに認められるもの必要とされるものを作らねばならない,それは自給自足で野菜などを栽培しているのとは違ったものになる
価格競争もあり品質競争もありそれに勝たないと売れないともなる
自給自足だと競争というのはないからである。

みんなのためになるのが仕事だというとき例えば自分が駅に鉄道の時刻表を作って置いたそれは需要があった,もう千枚以上すっているが以前としてもってゆく人がある
それはみんなのためであり一人のためではない,だからビジネスにもなるのである。
無人駅での案内などは外部の人のためであり町の人のためでありその範囲が広いのである今やグローバル化になると世界の人のためになり世界の人のために売れるものが認められる,世界的に容認されて仕事となる

そしてそういうことができるのは大きな会社組織である,みんなのためになるものを提供するとなると社会組織にならないとできないからである。
だから今は女中のような個人である特定の家族のみに労働を提供することはまれになった掃除するにも会社が多数の家をまわってしているのである。
そういう形態は過去にはなかった,家事でも会社組織となってしているのである。

その女性は一時仮設の食堂で働いていた,その時その食堂は繁盛した
外部の人も大勢来たからである。自分も通っていたから街の人にもサービスしていた
でも外部の人の方が多かったのである
今でも仮設に一軒食堂があるが外部の工事関係者が入っていて成り立っている
つまり仕事になるのはそうしてみんなのためになるもの,より大勢の人のためになると仕事になり収入にもなるのである。
現代はこうしてみんなのために働いている人が多いのである。
それが仕事であり分業化してそうなっている,そうでなければ仕事として認められないからである。

なぜ自分に人を雇う資格がなかったかというとそれは自分一人のためになっていたからである。
「あなたはどこで何して働いていますか」
それがその人をどういう人か見る指標である。
だからどこの会社で働いているかで人を見る,人の価値を決めたりするのである。
「私はある家で家事働きをしています」
そういうのは今では社会的に価値として認められにくいのである。
だから家事サービスでも会社組織になってしているのである。
つまりみんな会社員の時代になったのである。

一人はみんなのために みんなは一人のために

こうならないと仕事になりにくい,みんなそうして仕事しているのである。
自分の場合はそうなっていないから人を雇うことも使うこともできないとなったのかと反省したのである。

この言葉もまた深く解釈すると逆に生活保護とか福祉になるとそういうのはみんなで負担するということになる,みんなの了解を得て給付するとなる
第一自分とか一人に頼られてもできないからだ,そういう余裕のある人はまれだからである。だから福祉関係もみんなで負担して助け合うとういうことで成り立つ
みんなはひとりのために助けるということがある
ただそこにもやはりみんなの了解が必要になる,それが民主主義社会となる
民主主義社会自体みんなの社会であるからだ,王様のための社会ではないからだ
だから格差社会が問題なのである。


posted by 老鶯 at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

氷河期世代高齢化社会で日本は共倒れになる危機に (ニート,非正規などと高齢化問題はセットである)


氷河期世代高齢化社会で日本は共倒れになる危機に

(ニート,非正規などと高齢化問題はセットである)

なぜか田舎でも40代あたりでニートがいる,自分はそういう人間と会いやすい,三人くらいあっている,一人は働いていても非正規なのである。
だからこの前も仕事を探して就職したのに今年になって仕事がないと6月まで休むというから驚きである。
それでその母親が自分に困ったとして金を要求してくる
だから自分はできないと言った,その人はこれまで同情すべきことがあったから援助していた,しかし自分一人ではどうにもならない問題である。

低賃金の仕事で生活することや、インフォーマルな仕方で紹介されることが多い職をそもそもみつけることは、家族や家族のように付き合う仲間がいない場合、途端に難しくなるからである。

しかし仕事が流動化し、一生の職と呼べなくなるなかで、仕事によって人を判断することも、まただからこそ仕事に熱意を注ぐことも、意味のないことになりつつある。

この人は自分の労働観とにた意見になっている,現代の労働はその場限りの日払いのような仕事に変わっている,それまで終身雇用とかで一生勤めていた会社員だったけどそういうのは少ない,非正規の数が膨大になっているからだ
だから働くことは何なのか自分のようにすでに団塊の世代でもあったのである。
ただその時は高度成長時代で会社が大きな価値をもっていたからみんな企業戦士となったのである。

非正規だからこうしたことがないとやっていけないとなる,この記事はその非正規の待遇を考慮するべきだと言っている,つまり非正規が増えすぎたからそれを自己責任として押しつけることができなくなっているのである。
自分も半年工事関係で働いて仕事がない,その間援助してくれとなり二回も金を要求された,その額も大きい,そんな金は自分にはもうないのである。
自分には収入として入ってくるものが国民年金しかないからである。

氷河期とかニート,フリーターは40代で人口も多い
その人たちがなぜ大問題になるのか?
それはその親がその負担を負っているからである。
その親が死んだりするともう生活もできなくなる,その数も多いから問題なのである。

つまり氷河期とかニート,フリーターとか非正規とかの問題は高齢化社会と一体化してあった,これは切り離せない問題である。
親があって親の援助で生きている,その親が介護状態とかなる高齢化社会である。
それはちょうど団塊の世代が親なのである。
その団塊の世代は介護時期になるとその氷河期とかニートとか非正規とかの子は親を介護できるのか?それは思った以上深刻な問題である。

それを自分は自ら被害を受けて具体的に知ったのである。自分にその負担がまわってきたからである。他にも親戚で生活保護の女性が東京にいた,それも40代なのである。
この40代世代が大きな問題をはらんでいる,それも数が多いのである。
団塊ジュニアになるからだ,数が多いということはそれだけ問題が社会に顕在化しやすいのである。
例えばニートとかでも数が少なければ問題化しない,団塊の世代で自分のようにニート化したのは極々まれだからである。そんな人いたのとなるからである
でも社会に数が多くなると問題化してどうしようとなる,社会の負担となるからである。少数だったら負担にならないからである。
その人たちがどうにもならなくなり生活保護になったら国自体が負担して国が傾くのである。

高齢化社会はまた団塊の世代のように数が多いことで問題になる,死体を処理する火葬場すらたりなくなり困ると東京などで問題にふでになっている
つまり数が多いということはあらゆることで問題になるのである。
高齢化社会とは数が多いことによって国の負担になり負いきれないとなる
そこでもう老人の価値は昔と違って格段に低下する,老人は邪魔だ,安楽死して始末させろとか毎日のようにネットで若者が叫んでいることでもわかる
昔のように老人をいたわるというとき敬老の精神は数が少ないときありえたのである。
数が多くなったらただ社会全体の負担になり若者の負担になり老人のために人生が犠牲にされるとまでなる
国の税金も老人のために使われて将来の日本をになうものに使われないとなる

そういう不満が全国に充満している,そこでは愛とか慈悲とか成り立たない,数が多すぎるから成り立たなくなる,そんなこと言っていたら国が破綻するとなるからだ
老人は弱者だからいたわりなさいとかならない,老人は障害者でもありでもその障害者が膨大に増えたらそれにいちいちかわいそうだねとか言えなくなる
みんなそんな余裕がなくなる,だから今病院では老人が無理やり生かされているが早く始末してくれともなる,数が多いと人間は物扱いになる,愛とか慈悲が成り立つのは少人数の時なのである。
数が多いといちいちかわいそうだねとかなりえないのである。
それで病院ではそうした老人ばかり診ているからいらだっている
そこで自分も看護師に虐待されたのである。
数が増えすぎた老人はもうその負担に耐えられないとなり社会的に始末しろとまでなる

つまり今までの宗教観とかモラルも通用しなくなる,それは人間が悪くなったからとも言えない,数が多すぎるとそうなってしまうのである。
数が多いこと自体,人間の価値は比例して低下してゆく
一票の価値でも村のような所だと十票の価値があるが東京とかなる一票の価値は格段に低くなるからだ

いづれにしろ氷河期とかニートとか非正規の問題は深刻である。
日本の経済が景気が良くなったというが株だけ上がり逆に物価が上がり苦しくなっている野菜が高騰して鍋物が作れないと嘆いている
実際は賃金も上がらない,そしてニートとか非正規をかかえた親は負担を強いられるがそれもできなくなる,その時あと20年とかなると社会負担になる人が増えてくるのだ
団塊の世代の高齢者もその氷河期とかニートとか非正規の親であり介護状態になる人が多くなる,認知症の患者が800百万人になるという数字も恐怖である。
認知症の介護に全国がふりまわされてパニック状態になるかもしれない
つまりこの深刻な将来を真剣に考えないともう日本は終わるとなる
あと十年とかでその問題は社会に顕在化してゆく,それは本当に恐怖でありリアルなものなのである。



posted by 老鶯 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

ゴッホの絵から抽象画へ(ゴッホの絵から抽象画へ From Van Gogh's picture to an abstract picture)


ゴッホの絵から抽象画へ

From Van Gogh's picture to an abstract picture

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varied ones from this picture


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mornig forest

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night forest


これは一つの例として出した、こんなふうにソフトで変化するとそれもまた一つの作品となるのか?
私はそういうことをソフトでしてきた
何かこれは新しい創作なのか?第二次三次作品なのかとなる
オリジナルの写真や絵がありそこから無限に変化する芸術だとなる


This was given as an example, if it changes soft like this, will it also be a single work?
I've been doing that kind of software
Is this something new, is it the second tertiary work?
It is an art that has original photos and pictures and changes infinitely from there