2017年12月29日

会社中心の社会が終わる? (個々人のスキルで仕事はプロジェクト型になる?)


会社中心の社会が終わる?

(個々人のスキルで仕事はプロジェクト型になる?)

金儲けは何か会社というものにしばれていた、銀行を考えると銀行という会社で仕事している、会社のために仕事している,会社があって自分がある,会社がなくなれば自分もなくなる,だから会社を優先させる,会社の一員として忠誠心をもって働く
新卒一括採用という日本の方法はそういう手法である。
まず何より会社への忠誠心が大事なのである。それを最初にたたきこむために新卒一括さいようなのである。忠誠心となると若い内は教育できる,たたきこめるけどだんだん年をとると打算的になったりと純粋でなくなるからできなくなる
カルト教団でも洗脳しやすいのは若い内である。何にもない白紙の状態だと洗脳しやすいのである。
そして会社は社会で信用がある,私は・・・・の銀行員ですというときこの辺だと東邦銀行などは大きいから信用度が増すのである。
それで孫は東邦銀行に入っていた人が近くで自慢していたのもわかる

一方で欧米では仕事は会社に入ることではない,どういう仕事ができるのか,その仕事をこなせるのか,それが大事になる,だから天職が多い,自分はこういう仕事ができる
だからその仕事をしたいとして転職する,そういうシステムもある
一つの会社で一生過ごすようなことはない,仕事について言っていたので面白かったのはプロジェクト型の仕事の仕方である,何か一つの目的があってプロジェクトがあってそのプロジェクトを達成するために仕事する人が集まる
テレビドラマだと仕置人が金をもらって何人か集まり悪人を殺すということともにているそれはプロジェクト型なのである。そういう仕事の方法は会社とは違っている

まずどんな仕事でも絶対に一人ではできない,多様な人がいて才能がありスキルがあってできる,それでコラボレーションというのが必要になる
コラボすると何か才能が引き出せるのである。
この前変わった陶器を売っている人と野草のアレンジしている人が道の駅で並んで売っていた,するとそこに相乗効果が生まれる,陶芸と野草とか花とか関係ないようで関係ある野菜でも農業とも関係ある,自分もそこで実は何か提供するものがある
プログで表現したようにいろいろなことをしているからである
自分は花屋で写真をとったりしてコンピュターで絵画化したりもしてきた
花屋も農業とも深く関係している,土で花を育てるから野菜を育てると共通しているからである。

自分の場合は美的なものを追及している,ただこの美的なものは食べ物と違うから普通は関心がないというよりセンスがないとなる
食べ物だったらうまもいものとうまくないものは誰でも区別できるからである。
だから価値としてわかりやすいのである。
でも美的なものとなると絵画を見てもどれが優れているのか判断しにくくなる
ただこの絵は一億円するんですよど言うと絵画に詳しくない人は驚きそんな価値あるものなのかとなる,まず値段がつかなっかたら判断しようがないからだ
抽象画なんか特にそうである。絵画に詳しい人でもその判断はまちまちになるからだ

銀行員であれ何であれまず会社があり会社の一員として会社のために働く
会社が増収になり会社が社会的に認められればその会社員も認められるとなる
でも会社が今の地方銀行のようにその価値が何なのかわからなくなるとその会社の一員であることにも価値がなくなる
もしその銀行員が優秀なら金持ちのフイナンシャルコンサルタントのようになり金持ちから会社を銀行を通さないでもらうことになるしそうしている人もいる

ただそうなるともうけたら金は分配されるがもうからなかったらもらいないとなる
そこにリスクを自らも負担せねばならなくなる
でも今の銀行は投資信託を売っても株を媒介して売ってもリスクを全くとらないのである手数料だけは必ずもらいます,損しても銀行では全くリスクをとらないのである。
リスクをとらないことはまたその個々人の銀行員でも真剣にならない
自分の金でもないし別にもうけたとしても俺たちに金が入るわけではない,銀行に入り同じ給料しかどうせもらえないとなるからだ

つまリスクがないことは真剣に仕事もしないということである。
金持ちの金を預かり自らももうければ何倍の収入を得るが失敗すれば得られない,かえってやめさせられたりとか収入もなくなるとなれば自分の金のようになんとかもうけようとするだろう。そういう真剣さが今の銀行になはい,ただ手数料をもらえばいい
後は他人の金だから適当に斡旋すればいいとなる

おそらく本当に能力ある人はスキルがある人はアメリカのような所だったら別に大企業に就職しなくても生活できる,そういうシステムになっている
もしフイナンシャルプランナーとかなれる人だったら銀行員でいる必要もない
むしろ種金が資本金がかなりあれば自分で投資してもうければ銀行員である必要もない
なぜなら地方銀行不用論になっているとき会社に頼れなくなくなる
会社自体が消滅したら会社のために尽くすという今までもの働き方も終わるのである。

だからネットでは盛んにそういうことを言う人がいる,AI化で仕事なくなるとかもう会社はなくなる,大企業でも安心してはいられないとかいろいろ言われる
自分で稼ぐ力を身につけろと盛んに言われる時代だとなる
ただどこの分野でもそれだけのスキルと能力がある人はまれである。
だからAI化であれ会社中心社会が終わっても今度はさらに格差社会になる
天才的に能力のある人は高収入になるけど何もスキルもない人は就職すらできない,AI化で失業してベーシックインカムで食うための最低の金は支給するからがまんしろともなる
そもそも陶芸などは自立して自営しやすいものだった,会社経営ではない,みんな自分の窯をもって生産しているからである。小規模でも独立して腕を磨くことができた
だから個々人で窯ごとに個性をだす作品を作っていたからこういう仕事は自分の技でスキルで生活していたのである。
ただほとんどの人か会社員時代に自分でスキルをもって自立できる人は少ない
そういう社会になるから備えろといってもなかなかできないことはある

でも以前として会社に新卒で一括採用はつづいている,そこで忠誠心をたたきこまれ会社に尽くすことを第一とされる時代が実は時代遅れでありそんなに忠誠心を若い人にたたきこんでも会社自体が地方銀行でも消滅したら何にもならないのである。
そういう会社自体が増えてきたら何をもって生きてゆくのかとなる
会社への忠誠心より自分のスキルを磨く,するとプロジェクト型仕事でもスキルさえあれば参加できる,この分野の仕事はまかせておけとかなればできる
でも私は大会社の一員ですとかの肩書は通用しなくなる
プロジェクト型だと会社の忠誠心とは別なものでありいかにそのプロジェクトを達成するかのために努力するからである。



posted by 老鶯 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

枯葉(介護は家でされるのが理想)


枯葉(介護は家でされるのが理想)

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日のさして枯葉愛しむあわれかな


この室(へや)に母を介護す窓の外に枯葉残りてなお散らじかも

窓の外に残る枯葉やあわれかなそを見つつも年の暮れなむ

残りたる枯葉に午後の日のさして一人部屋にこもりけるかな



母を介護した部屋から外を見ていると大きな葉が枯れて見える,まだ散っていない
ここで介護したときこの枯葉のように見て介護したとふりかえる
母は百才で枯れるように死んだからである。
人間も生物だからこうして体が衰えやがては枯れて死んでゆく
ただ違うのは葉は枯れて土に散るとき土の養分となるのである。
だから森ではそういう命のリサイクルがつづけられてきたのである。

人間も生き物だから老化する、衰えることがさけられないのである。
だからいくら女性でも若作りしても無理である
結局老いは老いとして受け入れざるをえなくなるのだ
死もそうである。いくらそれに抵抗しても無理だからである。

そして枯れてゆく葉に午後の日がさして短き日は暮れてゆく
それもあわれだとなる,これもただ枯葉を見ているだけの写生なのである。
俳句短歌はだから写生が基本なのである。

介護が家でされたほうがいいというとき家というのは何度も書いたがそこは単なる寝起きする箱ではなかった,長い時間を人生の記憶を刻んだ場所だからである。
人間は意外と家で生活する時間が長いのである。だからこそ女と家が嫁になった
嫁は家と一体化してしまうのである。

そして死んでも何か家にいる感じがする,何か物の怪を感じる
結局はそれはそれだけ長く同じ家にいたからそうなったのである。
60年間一緒にいるとやはり以前として一緒にその人がいるという感覚になる
だからこの辺では原発事故で家が浪江で三千軒,飯館で一千軒とか壊された
その時何か家とともにあったものが喪失したのである。
その精神的損害が大きいものだがそこはあまり注目されないのである。

家というのは単なる寝起きする箱ではない,家は60年一緒にいればそこに記憶として刻んだものが死んでも残っているという感覚になる
もし家が新しくなったり別な所に新しい家を建てると何か昔の記憶も喪失するかもしれない,なぜならこの部屋で母を介護したなとふりかえるときその部屋とか庭が残っていないとふりかえることができなくなるからだ

病院だと死んだ時すぐ死体をかたづけてくださいとかなる,それは物のように人がされるのである,番号で呼ばれて起こった人もいた
次がひかえていますから邪魔ですからかたづけてくださいとなるのも淋しい
家族だと何か死んだ後も偲んでいるからである。

そこには継続する時間がある,死んだからと物として片づけられるものではない
継続してやはり家に生きつづけるということがある
ただ墓にはそこに死んだ人が骨が埋まっていてもいるという感覚はない
家には以前としているという感覚をもつのである。
それは家で共に生活した時間の長さのためだったのである。

ともかく今年も終わりである。介護から死からその後の死者を偲ぶことは継続したものとしてあった,だから介護でも苦しいけど家でされて死んだ人は幸せだとなるだろう。
ただそれだけの余裕が今はなくなっている
でも百才生きた介護した母の部屋を今使っているけどこれもここに母がいる感じにもな
複雑だけど姉もまたいる感じになる
だから家とはそうして死んだ人でも以前としている感じになるから家のもっている重みはただの物ではない,寝起きする箱ではない,精神的なものがありそれで愛着が生まれ家から離れたくない,家で介護されたい家で死にたいとなるのである。