2017年12月07日

原町の時刻表 (小高行きの時間が出ていた)


原町の時刻表

(小高行きの時間が出ていた)

odakawwww1.jpg

道の駅にあった原町の時刻表に小高行きの時間がでている,こさを見れば小高に行くときは便利である。浪江行きとはなっていないが浪江行きも小高行きだと行くのかもしれないこれは浪江駅が開通する前に作られたので出ていない

これも時刻表として自分の作ったものに入れればいいがめんどうでできなかった
自分が駅に置いた鹿島駅の時刻表は結構枚数を置いたが今でもなくなる
だから相当な量が必要になる,千枚とか必要になるのかもしれない,
それ以上必要にもなる,ただ最近駅でしていることはタバコの吸殻とか拾ったりゴミを拾ったりしているだけである。

駅舎のホームの蛍光灯が二つ点滅していので連絡した,それは了解したから交換するだろう。その他何かいろいろあったが話だけで終わった
ただ一年間ボランティアのまねごとをして面白かった

鉄道の旅が長いし世話になった,でも鉄道員のようなまねをしてみたら鉄道も違ったものにみえる,これは簡単にはわからないものだった
車掌に手をふって電車を見送ったときなんともいえぬ不思議なの気分になった
鉄道員としての鉄道を維持する連帯感を感じたのである。

人間の仕事はいろいろあってわからない,まず鉄道を利用するのと鉄道を維持するために働くのとはまるで違ったものとなる,鉄道会社で働くということは何か義務感とか大げさになれば使命感みたいものが必要になる,だから生きがいになるのである。
自分も鉄道を維持しているんだというものを感じる
それはボランティアのまねごとでも感じたからである。

自分は働いたことがないから会社員になったことがないからそういうことがわからなかったのである。鉄道員が映画になったように何かそこには人生そのものが鉄道とともにあったとなる,だからこそ愛着が生まれたのである。
どんな仕事でも長くしていればそれに愛着を感じる,ガンになった人が倉庫で働いた人とまた働きたいというときもそうである。
なぜなら仕事というときそれが給料をもらうとういだけではない,人生そのものになる
これもふりかえればそれが生きた証だとなってしまうのである。

冬の日の故郷(写真俳句)


冬の日の故郷(写真俳句)

maehataaaa1.jpg


fuyuyanagiii1.jpg

iinnnn111.jpg

前畑を手入れす老人冬の菊

新築の家の隣に冬柳

冬日さし寄り合い並ぶ石残る

山茶花や石の残りて医院かな


この写真家から読み取れるのは何か?
この老人は前の畑だけど手押し車を押してきたのか?手押し車が脇に置いてあるからだ
前畑だからなんとか畑にして仕事しているのだろう。
前畑とか前田というのは家の前だから仕事しやすいのである。
それは姓にもなったのが日本である。後畑という地名も浪江にある

肉眼で見たときはこの車椅子は良く見えなかったしシャベルも良くみえなかった,写真にとると見えないものも写っているのだ
写生俳句が写俳が一つのジャンルを形成したのは時代である。

新築の家に冬柳がしだれているがそこはもともと古い農家であり新しい家はこの辺ではまだ建ち続けいるからこの辺の変化を示している

次にいつも通る路地裏の医院である。これはこの辺では知られていた,母も通っていた
このお医者さんは老人に親切だとかやさしいと言っていた
もう一人の医者はこの辺では有名だった,その話の出ないことはなかったのである。
でも口が悪く母は嫌っていたのである。
ただ医者としては優秀な人だったのである。
不思議なのは死んでから全く話をする人もいないのである。
一時息子が跡を継いでいたが原発事故で東京にもどり母親は施設に入りいなくなった
そういう家の変わりようが普通にある

この医院はいかにも作りからして古いし地域に親しまれた医院だということがわかる
その頃大きな病院は少なく開業医が多かったからである。
この空家となった医院を見ているとだから不思議である。

冬の日がさして庭には石が並んでいる,それがまるで年寄りが肩寄せ合って並んでいる感じに見える,開業医は人間的な所があ地域に土着して根ざしているのが違うのである。
大きな病院は無機質であり人間味がないのである。
そして勤務医と開業医ではかなり違う,開業医は地域の人と親しくならねばならない,そこでコミニケーションもしなければならないから違っている
この医院にはそうしたものが今でも感じるのである。

ともかくその後には人がいなくなっても何かが残る,近くの空き地には一本だけ松が残っている,それが近くでも誰が住んでいたかもわからないのが不思議なのである。
住む人もこの辺では変わった,だから外から来た人がかなり移り住んでいる

ただ人間は常に変わる,人でも何でも変わる,だからこうした変化は世の常だったのである。ただこの辺はその変化が激しすぎたのである。

金に働くカルマ (後で意識される怖いものとなる金もあるので注意)


金に働くカルマ

(後で意識される怖いものとなる金もあるので注意)


金にどうしてカルマになるのか?それはわからない,金というとき何かカルマが働くとしてたら大きな金である。
百万以上の金だろう,その他の金は日常的なものに使うのだからいちいちカルマがあるとか気にかけていたら生活もできなくなる

ただ金にはなんらかカルマがつきまとっている,それも意識しなくてもそれがいつか意識させられる,その金は親から受けるカルマもある,自分だけのことではない,遺産とかなると親も必ず関係しているからである。

ふりかえると例えばなぜ弁護士は裁判もしない,何もしなくても百万の金が転がりこんだのか?職業柄そうなったともなる
運送会社に兄が勤めて死んだときそこに保険金がおりることになった
自分は車をもっていないのだからそれすらわからなかった
でもなぜ骨を置いておけとかいろいろいいふくめていたのか?
休業補償など書類でもなかなか書いてもらえずでもめた

それで困って弁護士に頼んだのがそれは仙台である。事故は静岡で起きたのだから弁護士は何もしない,本当に何もしない,裁判にもならない,保険会社の人が何度も運送会社の人に頼み書類を書いてもらったのである。
弁護士は何もしていないのに百万円が労さず入ってきたのである。

ただ頼みに行ったら報酬として百万円必要だとして払った,でもその弁護士は何もしないのである。何か裁判の結果として払うならいい,何もしないのにもらったのである。
ではこの弁護士が悪いかとなるとそうともならないだろう。
第一頼みに行ったのだからそうなった,ただそれが事前の報酬として必要なものだったのか?なぜなら何もしないし実際に手続きしたのは保険会社の人だったからである。

ただ何もしないで漁夫の利を得たとなる,弁護士という職業自体そういう争いごとがあり利益を得る,職業柄そうなったということである。
でもそれは十万くらいならいいがなぜ百万も必要だったのか疑問なのである。
弁護士も何かブラックな職業だというときこういうことがあるからかもしれない。
つまり報酬費用として払うなら最初から百万を払う必要はなかったか要求すべきではなかったからだ

ただそうして別にその金は今度は離婚した親が病気になったとかで子供がまだ中学生だったりして実際は使われたのである。離婚しなかったら保険金は妻に全額入っていたのである。ところが事故を起す数カ月前とかに離婚していたからもらえなかった
でも実質は親が使っていたのである。

そして同じようにその娘も子供のために使うと言っても自分のために使っていた
高校を卒業して学校に入るために使うというがその人は金が入るとぱっぱっと使う女性である。それは父親とにていたのである。
だから母が最後に金をやれとして遺言した金をやったが実際はすでに使っていた

だからその娘も同じカルマを金でくりかえしているのである。
ただ事故で死んだ人や不孝で死んだ人の金は本当は非常に危険なものだった
人の不孝があり残された金だからである。
子供は無駄に使うにしろ使う権利があった,その他はなかったのである。

まず金もこんなふうに厳格に考えたら金はたまらないだろう。
ただ金には本当に受け取ってはならない金があることは確かである。
それがその時は意識しないで金があればいいとなり受け取る
でもそれが後でカルマになるから怖いのである。

そもそもこの世で毎日事件が起きている,強盗だって起きている,それはただの偶然なのだろうか?
このことはいちいちその人のことなどわからないから知り得ようがない
ただ何か偶然として事件が犯罪が起きているように見えてもそうではないのかもしれない何かの必然性があって起きているのかもしれない
自分も犯罪にあって大金を失ったとしても何か冷静にふりかえるとそれももしかしたら自分が親から受けたカルマだったのかともなる
なぜそういう人が自分の家に来たのか?それも不思議だとなるからだ

カルマはその時は意識しなくてもいつか意識させられる,その時カルマに気づくのである親のカルマも受け継ぎカルマを意識するのである。カルマは自分だけではない伝えられるからだ
カルマは悪いことばかりではない,ここで損したけどここで得したというとき何か金の帳尻が合う,そういうことを経験している人が結構いると思う
損ばかりしているとは限らないからである。

いづれにしろ金は別に正当な理由があれば大金でももらってもカルマとはならない,悪いとはならない,何か正当な理由なしでもらう金が災いを生む
一千万でも拾って幸運だったとはならないのである。そこにその金をもらう正当な理由がないからだ,法律はなんでも理由を追及しているのである

巨大の遺産分けでも苦労して介護した人がもらえないというのは理不尽だとなる
それでただ血のつながりだけから遺産分けするのも不公平になる
ただそうしているのは原則として公平だからそうしているだけであり何でもみんな公平にはなりえないのである。

ともかく金は怖いものをもっている,何でも金ならもらえるならもらえばいいとはならない,何らかの理由が必要でありそれならいい,ただ問題が起きるのは百万以上だろう。
その他いちいち金についてカルマだとか考えていたら生活もできなくなるからだ
ただ受け取っていい金といけない金は確実にあるのだ
それが災いをその時は意識しなくても後で意識させられるから怖いのである。

タグ:金のカルマ