2017年12月03日

冬の俳句十句(冬の南相馬市を回る) (常磐高速のセディティとは何の意味なのか?)


冬の俳句十句(冬の南相馬市を回る)

(常磐高速のセディティとは何の意味なのか?)

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貨物船一二艘行く冬の海

貨物船進むも遅し冬の雲

海近し冬タンポポや浜通り

朝日さし梢鋭く冬の樹々

落葉踏み深野の墓地牛のいる

木の葉散り深野の墓地またたずぬ

深野の墓地に枯木の影静か

冬日さし一村の墓地またたずぬ

高速のセディティに休む冬の空

晩菊の土地に根付きし暮らしかな

冬薔薇二輪のみかな闇つつむ


松の苗津浪の跡の海老浜に植えて育つや冬の日なりしも

忘れらる墓また一つ我が墓地に見いだしあわれ冬の日暮れぬ


昨日は右田とか海老浜に行った,海老浜からは太平洋を望み貨物船二艘ほど見えた,ゆっくりと進んでゆく,
今日は山の方に行き常磐高速のセディティ鹿島に寄った,意外と近い所にあった,
自転車でも行きやすい場所だった,車をもっていないと車のことがわからなくなる,
それは社会のことがわからなくなることなのである。

場所がわからないので深野(ふこうの)から鹿島の方の小山田に遠回りした
深野(ふこうの)は何か不思議な場所の魅力がある
深野(ふかの)ではないふこうのということが地名としていいのである。

そして台地の上の墓地は古い,落葉していて踏むと牛がいた,この辺は牛を放射能で飼わなくなったが最近また牛を飼っている家がある,もともとあそこは牛を飼っていたのである。
何かそれが墓地とマッチしているのも不思議である。
牛がいると何か精神に影響する,どっしりとした気持ちになるから不思議なのである。
牛がいるといないでは田舎でも違ったものとなる
飯館村は牛の村だった,牛がなければ飯館村ではなかったのである。
だから飯館村は田んぼも土が削り取られたりもうかつて村の様子ではない
無惨な村となった悲劇である,それは自分にとっても大きな損失だったとなる
精神の安らぐ場所としてあったからである

浜通りはあたたかい,昨日は寒かったけどタンポポが咲いていた
海が近く海の影響を受けやすい,だから津浪もあった
一方山も近いのである。山は低いが飯館村となると高原であり標高が高いのである。
だから飯館村に行くと空気も変わる,何かが違うのである。
そして一軒一軒の家が森につつまれている広い土地なのである。
常磐高速ができたら飯館村にも回る人が多かったに違いない
今は行っても放射能汚染のフレコンバッグとか田んぼもない風致も損なわれた
それが残念だったのである。

sedate(セディティ)

sed- 座ること・腰掛けることを表す印欧語根(sit)。語幹sessを持つ語(assess, possessなど)、reside, sessionなどの由来として、座ること、据えること。

この言葉が何なのかわかりにくかった,鎮座するという日本語を機械翻訳したらこの言葉がでてきた

鎮座するというときsed- 座ることだから通じている,鎮静するという意味でもある

 北風(キタ)唸る−残る雪(真野ダムへ)

真野川に鎮座する石がこれだった,これは見えにくいから気づきにくいのである。
地元にいてもわからなかったのである。隠されるようにあったからである。
何か電動自転車をセディティに置いて真野川を上る観光計画があるという
電動自転車だと坂を上りやすいからである。
その時この隠された石を見るべきだともなる

セディティとはこの石のことなのである。cool sedate stoneなのである。

ともかくこの辺は本当に変わった,津浪や原発や常磐高速などもできて変わった
何かかえって都会化したのである。
常磐高速の影響は鉄道より大きい,人の出入りがここの方が断然今は多いからである。
自分は車をもっていないから車のことがわからないから今の社会から取り残されているのである。逆に自転車だと風景と一体化するから俳句でも短歌でも作れるとなる
車は遠くに行くのにはいいが景色をゆっくり見ていられないのである。
運転に気をとられるから景色が見れない,ただ常磐高速で一回くらい東京に行ってみたい高速道路から見える景色はまた違っていたからである。
ただそのバスが出ていても普通のバスであり四時間も乗っていたら疲れる
そういう気力がなくなってしまったから長い旅行をしていないのである。




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自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する


自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する


我が街の家の墓地への情をつづる (文語体で記す)

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姓が違ってる墓は明治時代まであった,家が有力なものだったら嫁いでも姓を名乗ったとなるのか?

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捨てられた墓



不詩朗謡

不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい

これもなぞである。最後の字はわかりにくいが不詩朗は読める。朗は名前だと思ったが違う。
朗謡-朗詠かもしれない、ただこれが何を意味しているのかわかりにくい、詩にしないで朗詠しなさい、暗唱しなさいなのかとなる。詩文にしないで暗唱して覚えなさいということなのか?
推測すると天保となるとまだ庶民では字を書けたり読んだりできる人はまれだったろう。
字が書けたり読むことが普及したのは江戸時代後半、特に幕末辺りに寺子屋が増えて読み書きができる庶民が増えたのである。ここは一つの寺子屋のような役目を果たしていたのかもしれない、暗唱することに学びの重点があったからこのような戒めの碑を建てたのだろうか?他に儒教が普及してそうした戒めの碑がほかにあったようだ。南相馬市鹿島区の

町内の墓地の碑の謎

これは前に書いた街内の墓地のことである。鹿島御子神社の隣にある,ここは神社の領域だったが寺ができて神宮寺になった,そういう所は全国でも多い。
ここにこの碑があるのは寺子屋があったからだろう。

      1772年安永1年壬辰11月16日改元 
  1773年安永2年癸巳  
  1780年安永9年庚子  
  1781年天明1年辛丑4月2日改元 
  1788年天明8年戊申  
  1830年天保1年庚寅12月10日改元 
  1843年天保14年癸卯  
  1844年弘化1年甲辰12月2日改元 
  1847年弘化4年丁未  
  1861年文久1年辛酉2月19日改元 
  1863年文久3年癸亥  
  1864年元治1年甲子2月30日改元 
  1865年慶応1年乙

ここで一番目立つのは大きな安永時代の碑である。

光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら  はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)

空海の密教の祈りの塔だった,空海を祖師とする仏教である。
明治維新がすでよら百五十年前とかなりそれから百年前は安永である。その安永から天明になった,その時この辺は天明の飢饉で三分の一に人口が減ったのである。
なぜ自分の家のすぐ近くの神社にも天明の碑があるのか?
なんらか町内でも天明の飢饉の影響があった,その記念のためなのかもしれない。

天保となると明治維新に関係し人達が生きていた時代である。だからかなり身近なのである。
今回発見したのは「弘化」と刻まれた墓である。小さな墓である,僧侶の墓だろう。
僧侶の墓は多いし残りやすい,文久の墓もあった,ここは密教系の寺がありやがて廃寺になり墓地になった,だから相当数の骨が埋まっている場所である。

ただ墓と碑は違う,暗唱せよと記したものは碑である,記念碑とか戒めの碑である。
人が埋まっている墓とは違う,戒名とか記されていれば墓である。
鹿島神社があり鹿島町と前はなっていた
そしてこの辺で一番古い家は南北朝時代に霊山から逃れてきた只野氏なのである。
その人の墓は寺の内にあるというのもわかる
しかしここももともとは寺であった,そこに墓地もあったとなる

いづれにしろあそこの墓は狭いし入り組んでいる,でも古い墓地だったのである。
そしてまた人が死ぬから墓が増えるのだからあそこはもう増やせないのである。
墓が残っていても供養しない墓もあり墓が無縁化したものが集められている場があった
墓の墓場が増えているのも昨今である。
墓が個々人とか家の墓とか維持するのが現代はむずかしくなっている
だから共同墓地化するのがいいのかもしれない,例えば十人でも埋まっている墓があればその子孫の誰かがお参りするからである。そこは墓として維持できるからである。

母の実家の墓を三百万もらって墓を維持してくれと頼まれても無理である。
そんなことを背負わされなくてつくづく良かったと思う
なぜなら墓というのはその家の因縁とか負の部分も背負うことになるからだ
それを代々背負いつづけるのも容易ではないからだ
だからいづれは絶えてしまい墓を処理することが大変になるのである。
自分は兄の骨を母の実家に埋めたのでお参りしていた
それがめんどうになったのである。隣の街ですらそうなのだからもう離れていると墓も疎遠になりやがては捨てられることになるのである。
だから原発避難区域では移動した場所に墓も移すようになるのである。

人間最後に残すは残るのは墓だけどそれも忘れられる,もうただ墓だけが残りその人がどういう人だったのか何もわからないのである。
ただ暗唱せよというのは碑であり墓とは違う,それは記念碑であり死者を供養するものではないからだ,だから墓石屋が兄の墓を碑と記せといったのは間違いだったのである。
忠魂碑とかあるがそれも死者のことではない,記念碑なのである。
そして今は何か変わったデザイン墓があるがあれもその人の記念碑のようになっている
墓とは違う感じになる,何かその辺の混同が起きているのである。
時代と共に何でも変わるから墓も変わってもしかたがないがやはり墓と碑は違うのである
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この墓は僧侶の墓ではない,居士とは僧侶に準じる人とあるが僧侶ではない
ただ院とは記していないが院があり道があり戒名があるからそういう位がある人だったとなる,大姉もそうである。ここでは男性二人に女性二人が記されている
なぜ四人も一緒に一つの墓なのか?紋も記されて立派なのである。
これはいつの時代なのかわからない,江戸時代なのか,明治時代なのかわからない
ただ四人も名前が記されているのはなぜなのか?そこに何かの因縁があってそうなった

忘れらる墓また一つ我が墓地に見いだしあわれ冬の日暮れぬ

posted by 老鶯 at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)