2017年12月27日

旅の思い出(短歌,俳句,詩など)


旅の思い出(短歌,俳句,詩など)

旅の思い出(福島県)

東北-新潟県

飛鳥−奈良−近江-京都−大阪−瀬戸内海-九州俳句短歌(詩)

北海道

外国編


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死亡した都築詠一氏の評論を芭蕉の俳句から検討 (時代性社会性の理解なしで芸術は理解できないことについて)


死亡した都築詠一氏の評論を芭蕉の俳句から検討

(時代性社会性の理解なしで芸術は理解できないことについて)

芭蕉も、俳句だけから俳句を鑑賞しても、芭蕉の俳句の芸術性は理解できない、ことになる。
 文学を文学のみから見ては(読んでは)ならないのである。(都築詠一)

  芭蕉と一茶とでは生きていた時代も作風もまったく違います。いや「生きていた時代が違うから作風も違う」といったほうが正確でしょうか。

都築詠一氏は芸術についてこういうことをしきりに言っていた,芸術の時代性と社会性である,芭蕉の俳句を理解するのにはその時代と社会を理解しないとできない
ある人の個性はその時代の社会から作られるとなる
西欧の歴史はキリスト教の教会中心に社会が構成されていたから芸術と言ってもその社会の一部として存在したのであり個人の芸術家などありえないのである。
絵画でも建築の一部の装飾のようにあって絵画とか画家という芸術家は存在しないのである。画家が絵画が独立的分野として生まれたのはルネサンス辺りからだろう
レオナルドダビンチとか生まれたからである。

つまりこれまでは建築も音楽も絵画も一体のものとしてあった,ゴシック大聖堂と一体化してバッハのカノンがパイプオルガンとともに荘厳にひびきわたった,建築と音楽は一体化していたのである。
建築にしても音楽や絵でも教会というキリスト教という制約の中でありえた,そこから独立してありえなかったのである。
そういう時代と社会でありその時代と社会を理解できなければ芸術を単体として見ても鑑賞すらできないとなる

でもその時代と社会を理解するのは本当にむずかしい,元禄時代とはどういう時代だったの?まず自分は相馬地方で古い碑とか墓を見てあるっているが元禄とあればこの辺では相当に古いのである。だから元禄の碑は貴重である
ただこれも葛尾村とかに発見したのは意外だった,それから相馬市の松川浦に近い新田村でも元禄と刻まれた碑があった
では相馬地方の相馬藩の元禄時代はどういう時代だったのか?それもわからないが葛尾村にあったというとき新田村にあったとき開拓が開墾が全国的に進んで人口が増大した活気ある時代になっていたことは確かなようだ

それまでは戦国時代がありそうした開墾開拓はされなかったが戦国時代が終わったとき
平和な時代になり日本全国で開墾開拓が進んだ時代であり豊かな層が生まれた時代となり俳句でも商人とかが参加して普及した時代だとなる
それで芭蕉は「奥の細道」で頼ったのはそうした俳諧をしている富裕層,商人の家を頼って旅したのである。
芭蕉のような人はすでに有名になっていて迎えられて俳句の連句の座がもうけられたのである。そういう連句とかの座が行われたのはそういう文化が生まれていたことである。
それは音楽でも貴族のサロンが生まれてそこで室内楽が発達してモーツアルトのような天才の才能が開花したのとにているのである。

涼しさをわが宿にしてねまるなり 芭蕉

清風:鈴木道祐。尾花沢(この時代には「おばねざわ」と呼称していた)の豪商。紅花の流通業や貸し金業で財を成した。島田屋八右衛門とも称する。芭蕉とは旧知の間柄。しばしば江戸と出羽とを往復していて世間の事情に精通していた。芭蕉の評価の高かった門人の一人。 この時39歳。

みちのくの旅でもそうした富裕な門人がいたから旅ができたともなる、第一江戸時代とかでは何かツテがないと旅もしにくいからだ,知人を頼って旅をしていたのである。

時代性というとき平泉の「五月雨に降りのこしてや光堂」という芭蕉が句を作った時代をふりかえると1189年に平泉が頼朝に鎌倉幕府に滅ぼされてから500年も過ぎている 

1185源頼朝が全国に守護、地頭(じとう)を置く(名目は源義経を捕縛)
この頃には鎌倉幕府が成立する
1189奥州合戦で奥州藤原氏、源義経、武蔵坊弁慶が滅亡
1318後醍醐天皇が即位する(初代南朝天皇)
1331-09光厳天皇が即位する(初代北朝天皇)
1333鎌倉幕府の滅亡
1333-05-22新田義貞が鎌倉幕府(14代執権北条高時、北条一族)へ攻め込み滅亡させる。

建武の新政 1333–1336
南朝(大覚寺統)初代:後醍醐天皇、奈良の吉野、新田義貞・楠正成・北畠顕家。
北朝(持明院統)初代:光厳天皇、京都、足利尊氏・足利直義・高師直。

南北朝時代 1336–1392

1701元禄赤穂事件 - 忠臣蔵
1702松尾芭蕉の俳諧・紀行文「奥の細道」ができる

鎌倉時代からすでに光厳天皇が即位する(初代北朝天皇)しているからすでに南北朝の時代にさしかかっていた
では時代性をみるとどうして500年もすぎて平泉の栄華をかえりみることができたのかともなる,それは距離の感覚が今と違っていたこともある
果てなる地がみちのくであり平泉だったからだともなる、その前に西行が来て平泉で歌を残している

ゆきふり、あらしはげしく、ことのほかにあれたりけり。いつしか衣川みまほしくてまかり向ひてみけり。河の岸につきて、衣河の城しまはしたることがらようかはりて物を見る心ちしけり。汀凍りてとりわきさえければ

とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河みにきたるけふしも (西行)

平泉堂塔伽藍炎上すその後雪に凍りつくかも(自作)

芭蕉の句は五月雨に残っていた金色堂のことを俳句にしたけど500年すぎたら実感が湧かなくなるだろう。
西行が生きていたときは平泉は栄えていた,でも凍りついた衣川が歌われた
むしろ自分は近いから冬に平泉に行ったけどまさに雪に凍りついていたのである。
みちのくの都の跡と言ってもほとんど何も残っていない,金色堂だけだとなる
そしてさらに元禄の500年前からまた300年以上も過ぎているのである。

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凍りつきただ一つ映ゆ金色堂

平泉礎石残りて雪の降る

こんなふうになる,礎石などは残っているから栄えた跡を残していることはいる
ただみちのくとなるとき栄華は炎上してたちまち消えて今も雪に凍りついているとなる

俳句でも当時の時代性,社会を理解して鑑賞することはむずかしい
当時は時代性もあるが地域性もある,地域地域は閉鎖されて別個にあり交流も少ない
元禄時代といっても江戸とみちのくではその差も大きいのである
つまり八百八町の繁華な江戸から平泉に来たからその落差から芭蕉の俳句は生まれた

ききもせず たばしねやまのさくら花 よしののほかに かかるべしとは

とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河みにきたるけふしも 西行

この二つの短歌は対象的だけど平泉を如実に物語っている
そしてその栄華を桜に見たがあとは衣川が凍りついていたのである

ともかく時代性というときその時の社会というときどう見るのかそれには相当なイマジネーションを働かせないとできないのである。

今日は特別寒いし雪もちらちら降ったし今も北風が唸っている

平泉栄華の跡や北風の唸り雪ふり凍りつくかも

こんな感じになる天候だった

都築詠一氏の評論はいろいろ示唆するものがあったが深く検討できなかった

ただ同世代の人でありそれで共感するものがあったことは確かである。
同世代というときすでにバブルの世代とか氷河期世代とか団塊の世代とかあり世代感覚でも十年違うと感覚的に違ってくるのである。
5年違っても時代の変化が激しいときは感覚的に違ってくる
ギブミチョコレートの世代は5年くらいの差があってそうなった
進駐軍が日本にきたとき5才だったらその言葉を覚えていたとなる
自分は子供のとき遊びで兵隊の帽子をかぶって戦争ごっこをしていた
その頃戦争終わったばかりだから戦争ごっこがはやっていたとなる
すでに5年の差で時代性が生まれそれが理解しにくいとなるから百年とかでも歴史はめまぐるしく変わるから時代性とかその社会を理解することは至難なのである。

例えばなぜ雪の中で女性が裸足で雪だるまを作っていたのか、また裸足で真冬の家にいたのか?それもなかなか理解できなくなる,でもネパールの山岳では裸足で歩いているのである。そういうふうにその時代を理解することは至難なのである。

足袋を履かない事が流行っていたのですから、遊女はもちろん、深川芸者や町人のオシャレさん達も足袋を履かなかったそうです。

おしゃれで素足というのも江戸時代が今より寒いというときできるものなのかと今の時代からすれば考えられなくなるからだ

例えば人物でも現代の知性とか代表するような人物が出てくることは確かである。
それがインターネットから出てくるというの時代である。
団塊の世代だと武田邦彦氏などがそういう現代という時代を象徴する人物かもしれない
なぜなら科学者であり文系の知識の洞察も深いからである。
現代は科学なしでありえない,科学の時代というとき科学を知らないものは現代の時代を知り得ないとなるからだ
その象徴として福島の原発事故が起きたからである。これこそ時代を象徴したものだったのである。
そしてその場に生きていたのが自分であったともなる

都築詠一氏が今年死んだがこれも自分にとっては大きなことだった
ただその評論などがまだ深く検討されずに終わった
評論も一つの大きな文学の分野である
評論がむずかしいのはその人より上から見ないと深く理解しないと書けないからである。それで人物の評価とか文学作品でも評価がむずかしくなるのである。

参考にした都築詠一氏の文です

そのままここに文を全部のせたのはどこに書いたのかわからなくなっているからです
リンクできなくなっているからです
それでインターネット上で書いたものが著者が死ぬとどうなるのか?
それも大きな問題として浮上したのが都築詠一氏の死だったのである。

都築詠一氏の全文を参考

刑事たちが歩くということにはどんな効用があるか。それは歩くことで刑事のカンが発達することである。
 犯人が辿ったあとを歩くことで、犯人の像ができてくる。犯人の感情がわかってくる。
 そうやって認識が創られるとともに、足を使うことによって頭が良くなるという二重構造があるのだ。
 つまりカンとは実体的ありかた(歩く)で創ったもので、それは二重構造になっている。

 松尾芭蕉も歩きに歩いたから、俳句の認識が創られるとともに、足を使ったころで頭が良くなり、前人未到の俳句を芸術の域にまで高めたのだった。
 カントもヘーゲルも歩いたことがプラスになったはずである。


  中学生の子が芭蕉を勉強しているという。
 私に、どんな句が好きかと尋ねるので、いくつか有名な句を暗唱してみせた。
 例えば、

 むざんやな 兜の下の キリギリス
 夏草や つわものどもが 夢のあと
 あかあかと 日はつれなくも 秋の風

 とか、いろいろ。そしてなぜこれらが名句なのかも少し解説してやった。
 さらに、俳句とは何か、どう発生したかも中学生向けにミニ講義をすることとなった。
 そのミニ講義を簡単にここに書いてみる。

 そもそも俳句は、王朝貴族のすなる短歌(連歌)を短縮した庶民の文芸である。江戸初期に始まった。俳句も、連歌と同じく、端的には「座の文芸」と呼ばれる。一人で個室に閉じこもって、ひねりだすものではなかった。
 座、つまりサロンのような場所で、何人かが集まって歌を詠みあうのである。
 ところが最近は、短歌にしろ俳句にしろ、たいていは一人で考えて一人で創って、一人で発表するといった形になっている。座の文芸ではなくなっている。
 稀に連歌、連句を試みるグループもあるけれど、それはむしろ珍しい部類に入る。

 だからどうだと言えば、社会性が希薄になりがちになる。
 座で詠まれるから、それだけで個人で呻吟して創るのではなくて、互いの認識の交流、すなわち社会性を帯びることができてくる。

 これは小説家もそうだし、作曲家や絵描きも同じようなことになっている。
 絵画の巨匠とされるレオナルド・ダ・ヴィンチを例にすれば、彼は単なる画家が絵を描いたと思っている人がいると思うが、そうではないのだ。

 ダ・ヴィンチは周知のように、ルネッサンスを代表する画家であるが、単に芸術家だけだったわけではない。
 彼はイタリア・トスカーナ地方から14から16歳の間にフィレンツェへ移り、画家見習いとしヴェロッキョの工房に弟子入りし、ボッティチェッリらと共に修行したとある。
 つまり単独で絵の技法を学んだのではなく、多数の人間がいる工房で学んだのである。
 ここが現在の美術大学みたいなあり方と違うところである。現在の美大は集団で学んでいても、結局は極私的状態で絵を勝手気ままに(それを個性としょうして)描いているだけだ。

 何が違うかといえば、まず認識の形成が社会性を帯びるかどうかである。
 ダ・ヴィンチの場合でも、あるいは他の昔の画家でもそうだが、単なる画家が単なる絵を描いたのではない。工房、とあるように原基形態は絵画ではなく、後にダ・ヴィンチの絵画に発展したのであった。
 当時の上質の社会性といえば、貴族階級や僧侶らが社会をリードしていたのであり、その彼ら上質な認識を受け取り、あるいは育てられて、芸術家は見事になっていった。

 だからダ・ヴィンチの絵、「モナ・リザ」でもそうだけれども、絵画から絵画を見てはいけないのである。ダ・ヴィンチの認識とともに、どんな社会が「モナ・リザ」を描かせたか、ということも見てとらねばならない。


 同様に音楽でいえば、ベートーヴェンやモーツアルトの音楽の才だけに酔っていたのでは、彼らの音楽はわかったとは言いがたい。

 話を芭蕉に戻せば、だから芭蕉も、俳句だけから俳句を鑑賞しても、芭蕉の俳句の芸術性は理解できない、ことになる。
 文学を文学のみから見ては(読んでは)ならないのである。

 だから時代性のない芸術はあり得ず、時代性を捉えぬ鑑賞もあり得ない。創造者も鑑賞者も、どれほど時代性、社会性を掴んでいるか、作品から掴めるかで、芸術の質が決まる。
 よって、時代性、社会性をいまだ掴めていない小学生や中学生には芭蕉の俳句の良さなどは理解できないものだ。

 さはさりながら、冒頭の俳句などは小学生でも理解はできるのであり、そこを社会性とからめて学校の先生が説けるかどうかである。
 個性任せでは、とうてい子どもには(大人も)俳句の芸術性は将来の教養の礎にはならない。

 冒頭に紹介した俳句などは、有名ではあるが、どれほどの芭蕉の「歴史性」への認識が込められているかを、小学生にには小学生なりに、中学生には中学生なりに説けてこそ、教師という称号を与えてもよかろう。

 ここで

 刑事たちが歩くということにはどんな効用があるか。それは歩くことで刑事のカンが発達することである。

 現場に行って考えろというのは推理ドラマでは良く言っている,現場で感じることとただ頭でイメージするのは違ったものとなる
 子規の写生もまさにイメージではない現場をリアルに見たものをそのまま俳句にするということがそうだった,つまり百聞は一見にしかずということがそうなのである。
自分は外国に行ったのは50代だから遅かったのである。
それで外国について書いているとき理論だけであり実感がともなわないからおかしなものとなっていた,はずかいしものとなっていたのである。
要するに実感の世界を時代が違うと得られない,そこにいくらその時代の社会を理解しようとしてもできなくなるのである。 

タグ:平泉 西行 芭蕉

2017年12月28日

年の暮(短歌十首) (家とともに生きる人間の一生)


年の暮(短歌十首)

(家とともに生きる人間の一生)

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変わりやすかった今年の天候



大輪の白菊の映ゆ八畳の間姉の誇りし柱によりぬ

北風の唸り石垣反りにけり政宗ここに冬の月かな

北風の家にうなりぬ我今に主となりて守り住むかな

我が齢この家とあらむ北風の唸り吹きつも継ぎて生きなむ

我が母の面影石にしも宿りて見えむ冷える夜かな

我が街の駅の寒しも見送りぬ無人駅しも年の暮れなむ

誰を待つ我今日も駅に見送りつ年も暮れなむ

けたたまし鳥の飛びにつ風に舞い木の葉吹き飛ぶ今年も終わる

今年また荒々しくも時はすぐ夜のふけても北風唸る

志高くもあれな都築氏の齢の尽きて冬の星見ゆ

故郷に苦労したる女(ひと)もがな皺を帯びつつ北風唸る


今年は天候の変化が激しかった,それで体の調子を悪くした,熱射病になり体が震えたり吐いたり吐いたりもした,夏は紫外線が強くて昼間は外にも出れなかった
そして秋が短くまた急に冬が来て冷えたのである。
この天候も異常なのだろう。秋は長く感じたが短く急に冬になった

一年をふりかえると母が死んで三周忌とか姉が死んで8年とかなるけど残された家とともに死者を偲ぶ年でもあった
広い家でありそこに大輪の白菊が咲いているのにふさわしい
今や家に生きているのが自分である。
今年も仙台には一回しか行かないし半年以上相馬市にも行かなかった
家ですごすことが多かったのである。

プログの方は安定してきたので一カ月60とか記事を書いた,自分の場合一記事が長いから60となると相当な量になるのである。
それだけ余裕ができたともなる

何か政宗の青葉城は石垣の反りが急である。城も家であり今になって家の主となったのが自分だったのである。
この家に本当に住んだと感じたのも不思議である。この家の全体に住んだという感じはなかったのである。今は全体に自分一人で住んでいるから家と一体化しているのである。
姉が自慢した柱によるときもそうである。母の面影を庭の石にみるときもそうである。
だから死者は長年暮らした家にとどまっているというのを感じる
だからその家がなくなると死者も感じられるなくなるかもしれない

それから駅でボランティアしたことも成果だった,一時通報されて警官に職務質問されたり嫌なことがあった,その時駅に長くいたときだった
長くといっても買い物帰りにちょっと寄る程度だったのである。
その後はさらに短い時間しかいないからボランティアとも言えない
でも駅のことについてプログで書いたようにいろいろあったなと思う

何か別に誰かを待つというのではないが見知らぬ人が来て見送っていることが不思議なのである。そこが自分の一つの働く場になっていたというのも不思議である。
働くというのでもないが何かそこがworkingする場になっていた
無人駅には確かに別にそれでもまにあうのだが足りないものがあった
それを自分は何か多少でも補ったという感覚がある
この町に生きるものとして何か働くことがあったのかとも思う
それは誰も認めないものでもあったが自分は感じたのである。

都築詠一氏の部も作り書いただしばらく書いていなかった
なかなかふりかえることがしにくくなった
ただ10年間くらい毎日読んでいたからそれで死んだのに驚いた
同世代でもあり共感することが多かった
文学に造詣が深いのでめずらしいなとも思った
なかなか文学となると芸術となると語り合える人は少ないからである。
別に語ったわけではないがあれだけのものを書ける人はそうはいない
それが死んで心の青雲のプログも閉鎖されてログが消えたことは残念だった
そこにインターネットの問題があった
本を出していたらその本は残るからである。
一部は残っていたが消えたのもあり残念だった

いづれにしろ何か今年は天気のせいなのか?荒々しくすぎたという感じである。
荒々しいということは実際は自分が介護になってから津浪とか原発事故になってから荒々しいものとなっていたのである。それが今年も天気で継続されたとなる
木の葉が吹き飛ぶように今年も死んだ人がいる
無情迅速である。ただ自分も後何年生きるのかと数える年になった
それでも人生百年時代はとなると先が長いのか?
それとも80くらいで終わるのかわからない,あと十年生きればいいと自分では思っているそのくらいまでなら金もなんとか尽きることはないし健康でいられるのかとも思っているからである。

いづれにしろ介護になってから家とともに奮闘し生きたとなる
家というのは実際は人間にとって寝起きする箱ではない,精神的なものが付与されているだから家という建物と家にまつわる家族とか精神的な場でもあった
だから家と共に死んだ家族を偲んでいるのである。
そして家は大きい家でないと心も広くならない,狭くなってしまうのである。
人間にとって家の影響は大きいなとつくづく思った
だから浪江でも3000軒の家が壊されているとか飯館でもそうである。
それは家という建物だけではなくそこにある精神的なもの思い出とかも消失することがある,家のもっている重みは大きいのである。
日本では家はイエというとき単なる建物だけのも意味ではないからである。

あをによし 奈良の山なる 黒木もち造れる室(むろ)は 座(ま)せど飽かぬかも
  〜聖武天皇 『万葉集』 巻8-1638
  
 「 はだすすき 尾花 逆葺(さかふ)き 黒木もち 造れる室(むろ)は 万代(よろづよ)までに 」 巻8−1637 元正太政天皇

まさにこれを自分の家で感じた

奈良の山というとき故郷でありその木で作った室でありそこに住むと飽きないというのを感じる,そして万代までも住むとなる
  
常に姉誇れる柱我が家に寄りて頼もし北風唸る

この柱は橲原(じさばら)の木を使っているから万葉集の歌とにているのである。
そしてこの家の主となったのは家族がみな死んでからだったことに気づいた
家の主となるのとただ借りて住んでいるような感じとは違っていた
家全部をかたづけたり掃除したりしていると家の全部に眼を配らねばならないからである

その女性は苦労した,だから普通より老けて見える,その苦労を語る,でも問題は病院に金がかかったり仕事でも皿二三枚洗うのでも疲れたとかなり人を使うのはつくづく雇う方が大変だなと実感した
だから会社で人を雇いたくない機械化したいというのがわかる
雇う方の負担が人間の場合大きすぎるのである。福祉事業ではないからである。
ただ今の時代金がない人が多すぎる,それより金を何か自分からみると法事だとか病院でも無駄なものに使っているように見えるのである。
医者に通う金がかかりすぎるのである。
また本当に明日食べるものがないという貧乏ではなく贅沢のために貧乏している人も多いのである。そして借金している人も多いのである。

ともかく今年も終わった,比較的いい年だった,気力も体力も回復してきた年でもあった来年はどうなるのか?それほど変わりないのか?
創作の方に励むことができることは確かである。



2017年12月29日

枯葉(介護は家でされるのが理想)


枯葉(介護は家でされるのが理想)

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日のさして枯葉愛しむあわれかな


この室(へや)に母を介護す窓の外に枯葉残りてなお散らじかも

窓の外に残る枯葉やあわれかなそを見つつも年の暮れなむ

残りたる枯葉に午後の日のさして一人部屋にこもりけるかな



母を介護した部屋から外を見ていると大きな葉が枯れて見える,まだ散っていない
ここで介護したときこの枯葉のように見て介護したとふりかえる
母は百才で枯れるように死んだからである。
人間も生物だからこうして体が衰えやがては枯れて死んでゆく
ただ違うのは葉は枯れて土に散るとき土の養分となるのである。
だから森ではそういう命のリサイクルがつづけられてきたのである。

人間も生き物だから老化する、衰えることがさけられないのである。
だからいくら女性でも若作りしても無理である
結局老いは老いとして受け入れざるをえなくなるのだ
死もそうである。いくらそれに抵抗しても無理だからである。

そして枯れてゆく葉に午後の日がさして短き日は暮れてゆく
それもあわれだとなる,これもただ枯葉を見ているだけの写生なのである。
俳句短歌はだから写生が基本なのである。

介護が家でされたほうがいいというとき家というのは何度も書いたがそこは単なる寝起きする箱ではなかった,長い時間を人生の記憶を刻んだ場所だからである。
人間は意外と家で生活する時間が長いのである。だからこそ女と家が嫁になった
嫁は家と一体化してしまうのである。

そして死んでも何か家にいる感じがする,何か物の怪を感じる
結局はそれはそれだけ長く同じ家にいたからそうなったのである。
60年間一緒にいるとやはり以前として一緒にその人がいるという感覚になる
だからこの辺では原発事故で家が浪江で三千軒,飯館で一千軒とか壊された
その時何か家とともにあったものが喪失したのである。
その精神的損害が大きいものだがそこはあまり注目されないのである。

家というのは単なる寝起きする箱ではない,家は60年一緒にいればそこに記憶として刻んだものが死んでも残っているという感覚になる
もし家が新しくなったり別な所に新しい家を建てると何か昔の記憶も喪失するかもしれない,なぜならこの部屋で母を介護したなとふりかえるときその部屋とか庭が残っていないとふりかえることができなくなるからだ

病院だと死んだ時すぐ死体をかたづけてくださいとかなる,それは物のように人がされるのである,番号で呼ばれて起こった人もいた
次がひかえていますから邪魔ですからかたづけてくださいとなるのも淋しい
家族だと何か死んだ後も偲んでいるからである。

そこには継続する時間がある,死んだからと物として片づけられるものではない
継続してやはり家に生きつづけるということがある
ただ墓にはそこに死んだ人が骨が埋まっていてもいるという感覚はない
家には以前としているという感覚をもつのである。
それは家で共に生活した時間の長さのためだったのである。

ともかく今年も終わりである。介護から死からその後の死者を偲ぶことは継続したものとしてあった,だから介護でも苦しいけど家でされて死んだ人は幸せだとなるだろう。
ただそれだけの余裕が今はなくなっている
でも百才生きた介護した母の部屋を今使っているけどこれもここに母がいる感じにもな
複雑だけど姉もまたいる感じになる
だから家とはそうして死んだ人でも以前としている感じになるから家のもっている重みはただの物ではない,寝起きする箱ではない,精神的なものがありそれで愛着が生まれ家から離れたくない,家で介護されたい家で死にたいとなるのである。

会社中心の社会が終わる? (個々人のスキルで仕事はプロジェクト型になる?)


会社中心の社会が終わる?

(個々人のスキルで仕事はプロジェクト型になる?)

金儲けは何か会社というものにしばれていた、銀行を考えると銀行という会社で仕事している、会社のために仕事している,会社があって自分がある,会社がなくなれば自分もなくなる,だから会社を優先させる,会社の一員として忠誠心をもって働く
新卒一括採用という日本の方法はそういう手法である。
まず何より会社への忠誠心が大事なのである。それを最初にたたきこむために新卒一括さいようなのである。忠誠心となると若い内は教育できる,たたきこめるけどだんだん年をとると打算的になったりと純粋でなくなるからできなくなる
カルト教団でも洗脳しやすいのは若い内である。何にもない白紙の状態だと洗脳しやすいのである。
そして会社は社会で信用がある,私は・・・・の銀行員ですというときこの辺だと東邦銀行などは大きいから信用度が増すのである。
それで孫は東邦銀行に入っていた人が近くで自慢していたのもわかる

一方で欧米では仕事は会社に入ることではない,どういう仕事ができるのか,その仕事をこなせるのか,それが大事になる,だから天職が多い,自分はこういう仕事ができる
だからその仕事をしたいとして転職する,そういうシステムもある
一つの会社で一生過ごすようなことはない,仕事について言っていたので面白かったのはプロジェクト型の仕事の仕方である,何か一つの目的があってプロジェクトがあってそのプロジェクトを達成するために仕事する人が集まる
テレビドラマだと仕置人が金をもらって何人か集まり悪人を殺すということともにているそれはプロジェクト型なのである。そういう仕事の方法は会社とは違っている

まずどんな仕事でも絶対に一人ではできない,多様な人がいて才能がありスキルがあってできる,それでコラボレーションというのが必要になる
コラボすると何か才能が引き出せるのである。
この前変わった陶器を売っている人と野草のアレンジしている人が道の駅で並んで売っていた,するとそこに相乗効果が生まれる,陶芸と野草とか花とか関係ないようで関係ある野菜でも農業とも関係ある,自分もそこで実は何か提供するものがある
プログで表現したようにいろいろなことをしているからである
自分は花屋で写真をとったりしてコンピュターで絵画化したりもしてきた
花屋も農業とも深く関係している,土で花を育てるから野菜を育てると共通しているからである。

自分の場合は美的なものを追及している,ただこの美的なものは食べ物と違うから普通は関心がないというよりセンスがないとなる
食べ物だったらうまもいものとうまくないものは誰でも区別できるからである。
だから価値としてわかりやすいのである。
でも美的なものとなると絵画を見てもどれが優れているのか判断しにくくなる
ただこの絵は一億円するんですよど言うと絵画に詳しくない人は驚きそんな価値あるものなのかとなる,まず値段がつかなっかたら判断しようがないからだ
抽象画なんか特にそうである。絵画に詳しい人でもその判断はまちまちになるからだ

銀行員であれ何であれまず会社があり会社の一員として会社のために働く
会社が増収になり会社が社会的に認められればその会社員も認められるとなる
でも会社が今の地方銀行のようにその価値が何なのかわからなくなるとその会社の一員であることにも価値がなくなる
もしその銀行員が優秀なら金持ちのフイナンシャルコンサルタントのようになり金持ちから会社を銀行を通さないでもらうことになるしそうしている人もいる

ただそうなるともうけたら金は分配されるがもうからなかったらもらいないとなる
そこにリスクを自らも負担せねばならなくなる
でも今の銀行は投資信託を売っても株を媒介して売ってもリスクを全くとらないのである手数料だけは必ずもらいます,損しても銀行では全くリスクをとらないのである。
リスクをとらないことはまたその個々人の銀行員でも真剣にならない
自分の金でもないし別にもうけたとしても俺たちに金が入るわけではない,銀行に入り同じ給料しかどうせもらえないとなるからだ

つまリスクがないことは真剣に仕事もしないということである。
金持ちの金を預かり自らももうければ何倍の収入を得るが失敗すれば得られない,かえってやめさせられたりとか収入もなくなるとなれば自分の金のようになんとかもうけようとするだろう。そういう真剣さが今の銀行になはい,ただ手数料をもらえばいい
後は他人の金だから適当に斡旋すればいいとなる

おそらく本当に能力ある人はスキルがある人はアメリカのような所だったら別に大企業に就職しなくても生活できる,そういうシステムになっている
もしフイナンシャルプランナーとかなれる人だったら銀行員でいる必要もない
むしろ種金が資本金がかなりあれば自分で投資してもうければ銀行員である必要もない
なぜなら地方銀行不用論になっているとき会社に頼れなくなくなる
会社自体が消滅したら会社のために尽くすという今までもの働き方も終わるのである。

だからネットでは盛んにそういうことを言う人がいる,AI化で仕事なくなるとかもう会社はなくなる,大企業でも安心してはいられないとかいろいろ言われる
自分で稼ぐ力を身につけろと盛んに言われる時代だとなる
ただどこの分野でもそれだけのスキルと能力がある人はまれである。
だからAI化であれ会社中心社会が終わっても今度はさらに格差社会になる
天才的に能力のある人は高収入になるけど何もスキルもない人は就職すらできない,AI化で失業してベーシックインカムで食うための最低の金は支給するからがまんしろともなる
そもそも陶芸などは自立して自営しやすいものだった,会社経営ではない,みんな自分の窯をもって生産しているからである。小規模でも独立して腕を磨くことができた
だから個々人で窯ごとに個性をだす作品を作っていたからこういう仕事は自分の技でスキルで生活していたのである。
ただほとんどの人か会社員時代に自分でスキルをもって自立できる人は少ない
そういう社会になるから備えろといってもなかなかできないことはある

でも以前として会社に新卒で一括採用はつづいている,そこで忠誠心をたたきこまれ会社に尽くすことを第一とされる時代が実は時代遅れでありそんなに忠誠心を若い人にたたきこんでも会社自体が地方銀行でも消滅したら何にもならないのである。
そういう会社自体が増えてきたら何をもって生きてゆくのかとなる
会社への忠誠心より自分のスキルを磨く,するとプロジェクト型仕事でもスキルさえあれば参加できる,この分野の仕事はまかせておけとかなればできる
でも私は大会社の一員ですとかの肩書は通用しなくなる
プロジェクト型だと会社の忠誠心とは別なものでありいかにそのプロジェクトを達成するかのために努力するからである。



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2017年12月30日

高瀬川の詩 (浪江の復興はいつになるのか?)


高瀬川の詩

(浪江の復興はいつになるのか?)


その上に渕なす淀み
碧々として静まりぬ
ごつごつの岩また岩の間を
激して轟きひびき流れぬ

その清流は山間深くも流れ
けたたましく翔る鳥の鳴く声
春の光に芽吹く樹々や風そよぐ
さらに流れは磐を打ち轟きぬ

重々しくも畳みかさなる巌
塔のごと千古の重み
紅葉の映えて神寂びぬ
誰か描かむこの仙境の地を

山の道一つの石ありぬ
その石の皺帯びて古り
春の日浴びてここに動かじ
梅の花咲き匂いのよしも

川は平地へと下りその岸辺
相馬焼の技を伝えぬ大堀
窯元並び新しき茶碗も作る
その一品の我が家にありぬ

高瀬川流れて二つの川は合流し
太平洋へとそそぐかな
かなた船の見え鴎群れ飛び
波は棚塩に打ち寄せひびく

請戸の港の春や船あまた
海の幸をここにもたらしぬ
田畑も広く実りも豊かに
健やかに子を育てし栄えし家

今浪江の人の散り散りに
故郷に帰らず荒れにけるかも
そこを訪ねる人もなしや悲し
高瀬川の流れは変わらざりしも

復興の日はいつになるや
情を育む家は壊され虚し
思い出も家ととも潰えしや
しかし心は故郷にあらむ



浪江というとき高瀬川はこの辺では景勝の地である。あれだけの急流で奥深く岩がありそこを激しく流れている,この辺では絵になる景色でありこれは外からきてみても誰でもわかる目立つ所なのである。
会津辺りだとこういう流れは多いがこの辺ではまれだからである。いわきの方の夏井川渓谷くらいである。
普通秘境を求めてきた自分のことを書いてきたが地元の人でないとそこはわかりにくいがこの高瀬川は別に外からきた人で車で来てもわかる
車で奥まで入って行けるからである。

浪江町はこの辺では相馬地方では自然の景観が一番いい場所になっている
確かに相馬市には松川浦があるし新地は海と山が迫っているとかあるから特徴はある
でも川になると平凡であり高瀬川は特別になる
高瀬川を下って請戸の港のあるのもいい,そして請戸は実際は港をイメージするが田畑が広いのである。だからそこで篤農家がいて野菜栽培して平(昔のいわき市)に売って栄えた家があった,三人の娘を大学まで出したのである。
その人が南相馬市の病院に入院したとき同じ病室だったのである。
その人は浪江から妻が通っていたが悲惨だった
やっと手をあげるだけで手をにぎりしめるだけでしゃべることも何もできなくなっていたからである。
いつも手をにぎりしめて去ってゆくのを自分は見ていたのである。

いづれにしろ自分の介護がはじまってから十年間は激動だった,こんなに人生が激動になるのは考えられなかった,それは津浪の被害や原発事故でもそうである。
浪江は未だに散り散りであり帰っている人もほんのわずかであり廃墟のようになっている3000軒の家が壊されたというのもそのためである。
そして浪江の人はもう帰らないと言っている,あれを見たら帰るのが何であれ正直帰りたくなくなるからだ

その原因はなんであったのか?まず浪江町は原発により依存していた町だった
三分の一はなんらか関係していたろう,だから原発で働いていた人は政府と東電から安全をたたきこまれていた,だから原発は安全だと他の人にも言っていた
まず浪江町とかなるともう原発が危険だと口にもできない状態だった
町自体が経済的には半場原発で成りたっていたからだ
そして漁業関係者は漁業補償で事故前も事故後も金には困らないのである。
それで船主は原発技御殿を建てたと周りではうらやましがっていた人がいたのである。
金の屏風を東京の職人に作ってもらったとかもきいた

津浪の被害だけだったらなんとか復興できたとみんな言っている,原発事故は致命的なったのである。だから二万もの町が廃墟化することはイメージもできないことだったのである。
ただ自然がなくなったわけでない,高瀬川はやはりか変わらず流れているし汚れたとも見えないし海も同じである。ただそこの魚が汚染されて食べられなくなったことはある
農業もできないことにもなった
でもそんな漁業より農業より原発の収入の方が町として大きなものだったのである。
つまり原発なしでは町すら成り立たないような状態と化していたのである。
双葉町とか大熊町とも事情は違うが浪江町はやはり原発に依存する割合が大きかったろうだから原発には反対した人はほとんどいない,もうできない状態になっていた

結局町自体が消失する廃墟化することになった,相馬の大堀焼の窯元も再建できなくなった,みんな各地に散って相馬焼の窯を作って移住したからである。
原発に依存する町は市でも一旦事故になったらこうなるのだということを見せつけたのである。その被害はあまりにも大きすぎたのである。
結果的には町民自体が町をみんな見捨てたのである。

それでも人間は技術をもっている人は強いと思った
移住しても相馬焼を焼き物を作れるから仕事として継続できるからである。
それは大工とかでも何か技術をもっている人は他の場所に移っても仕事ができる
小高のタンス職人とかも会津で仕事しているとかなる
何か技術をもっていて仕事ができればそこに定住できるのである。
何も技術ももっていない人は仕事もできないからあいつは遊んでいるだけで何の役にもたたないと見られるようになる
そしていつか補償金もなくなるから他に移っても苦しくなる
結局人間日頃していることがどこかで役にたつ,それもカルマだとなる

ただ高瀬川渓谷とかの景観は変わらないし海の景観も変わらない
だから外から見るとまた高瀬川を見たいとなる
だから観光としては人を呼び込めることは変わりない
ただ放射能汚染で今入れないのが残念なのである。

somayaki111.JPG
相馬焼 ・ 緑釉そば猪口
  製作年代:江戸末期

wakakusa1.jpg

若草は大堀で買ったものである。
緑にしても多様な色合いがある

この色合いは草萌えるとか芽吹くとか春の感じがある,春の色合いを感じる
ただ新作でそうした春を感じさせる色の茶碗を買ったことがあったがなくなった
江戸時代にすでにこういうものがあったのである。
緑の色合いがなんともいえぬ,陶器にしか出せない色がありそれが多様なのである。
それは日本の文化なのである。

皺石の詩(浪江町の高瀬川近辺)

これは一回だけ春に見た石である。皺がよったようであり変わった石だと見た
これはまだ発見されていない石である。


タグ:高瀬川
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2017年12月31日

年終わる


年終わる

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大晦日一人用意や担う家

何語る鵜鴨鴎や年終わる



今日はイオンの方に行った,イオンだと安いものがあった,品物も豊富である。
同じものでも安いのがあるから得である。
ここだとキクチとシシドがあっても同じ値段で高いし品物が少ない
だから何かとかえって買い物でも不便で損するのである。
ただ車がないから一週間に一回とかしか行けない
最近風が吹いて寒くてずっと行っていなかった

石鰈の切り身で売っていたのを買った,他にも品数が多い安いものがある
原町レベルだと買い物とか外食はいろいろあっていい
何か一万と四万くらいの人口の差が大きい,一万の町と格段と買い物など差がでる
医者でもここでは十倍くらいの差がでる
だから便利な時代は不便な所に住みたくないとなる
それで原発事故の避難区域には帰らなくなったのである。
人間は便利な生活贅沢な生活を覚えたらそのレベルを落すことがむずかしくなる

ともかく介護が終わっても何か生活に追われている,やはり家事が結構大変なのである。大晦日とか正月の用意するわけでもないがそれなりに用意があり忙しいとなる
意外と家のことにこるとやることが多くなる,何かいろいろ配置とか自分好みにしようとするとそれだけで時間がかかる
最近毎日ダイユーエイトに行って家に使うものを買っている
だからこんなに次々買うものがあるものだと思う
今の社会は金がかかるようにできているのである。

これからまた買い物がある,花を買って活けようとしている,でも生け花でも何か時間がかかる,するとそっちの方に時間が回らなくなる
一人で何でもやることに限界がある
今思い出した,セブンエレブンに雑煮を頼んでいた
雑煮は作れないからそれでまにあわせる

あとは正月の用意でもない,今年もこれで終わりだ
川には鵜とか鴨とか鴎がいた,それぞれに何を語るのか年は終わる

今年の自分のプログをふりかえるとずいぶん書いた,やはり余裕ができて書けた
でも家事は結構忙しいからこれだたけ書けたというのは意外だったともなる
来年はどうなるのか?それほど変わりない年になるのかもしれない

ただ一月一日がスーパームーンになり地震が来るとかyoutube に出ていたが不安になる
なぜなら3・11の地震と津浪は天体も関係していた,それから地熱が関係していたとかいろいろあるからだ,天体と熱は関係して地殻変動が起きる
特に本当は熱が相当に関係している感じになる
なぜなら津浪の前の年の夏が異常に暑かったからだ
異様な暑さでありそれで熱であたためられて地殻変動が起きやすくなっていたのではないか?何か素人的にもそれが納得がいくというか気になるのである。
月はどうかとなるとそういう記録があり地震が起きやすいと証明されてもいまいち危機感はない,ただ熱だけは関係していると思う

ともかく今年も終わりです,来年もまた書き続けますのでよろしくお願いします

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