金と宗教の問題
(宗教も金をとる口実としてある)
金には何か必ず責任がついて回っている,金もらえばいい,もらったらどう使うとか関係ないとも考える
でも時代劇で良く浪人がいて金をもらうと誰でもいいから殺すということをする
ヤクザでも金をもらったからなと本当は喧嘩に参加したくなくても殺したくなくても殺すそれは金をもらったから責任が課せられてそうなっているのである
ではなぜそうなるのか?別に金があれば金がなくて追い詰められなければそうはならないのである。人間は金で変わる,何でも金をもらえばいいともなる,遂には犯罪を犯しても金をとればいいとなる
それは金に追い詰められれば誰でもそうなるのである。
明日食べるものがない,金がないとなればわずかの金をとるために人を殺すことだってありニュースとなる,それは追い詰められているからである。
浪人などは定収入がないからそうなりやすいのである。
人間は別に悪人でなくても追い詰められると犯罪者になる,もしそうして金にでも追い詰められなかったら犯罪者にもならない,普通の人として終わっていたとなる
だから借金に追い詰められた人は必ず犯罪予備軍なのである。
借金によって人は追い詰められているから他人のことなど考えない
どんなことであれ借金を返さねばならないとなり犯罪にもなる
そういう人が自分が困ったとき来たから恐怖だった
自分が殺されるのではないかというまでの恐怖になる
別にその人ももともと悪い人ではない,うまくいっていたときいい人と見られていたのである。
ただ人間は追い詰められると変わる,悪魔にもなる,ある人はホームレスだけど遍路のようになっていた,そして自分が金があまっていたので大きな金をやると言ったら素直に受け取らなかった,そしてではお礼に経文を唱えさせてくれといういう
その時良くそのことがのみこめなかった,経文を唱えることができるのかと思った
その人は何かホームレスとなり遍路のまねごとを覚え経文を唱えるようになった
その人は僧の修行もなにもしたわけではない,でも追い詰められているから金をもらえるならと即席で僧になり経文を唱えたのである。
その人は追い詰められてそんなことをするとなると悪人になったとなる
僧を偽り金をもらう人となった,その人は金欲しいだけであり何か修行するわけでないからである。
宗教もただ世渡りだけのものなのである。そういうことはカルト教団にもある
宗教法人になると税金もかからないしそれで収入になるし御布施でも賽銭でも金が入る
それで富岡八幡宮の宮司殺人事件では土地を所有しているから駐車場にしたりかなりの収入がありその財産争いであのような凄惨な事件になった
結果的にはあまりにも金がありすぎてその財産をめぐって凄惨な争いになった
兄弟の遺産争いならいくらでもありそれが宗教がからんでいたが実際は財産争いになっていたのである。
もともと寺とか神社でもそういう利権化した場所としてあった。
それはカトリックなどでは顕著であり土地を所有しているから権力をもっていたのであるそして世襲制であり同じようなことが起きてルターの宗教革命になったのである。
だから宗教と経済を考えるとき宗教は本来なるべくそうした利権とかかわらない,金とかかわらないことが純粋性を保てるとなる,世俗的にかかわると汚れてしまうのである。
それで出家して世俗とかかわらず僧侶は質素な生活をしていた
ただそうして出家してもそこもこの世からは離れられず世俗化しして利権化したのである
金となると何か金をもらうと必ず責任が生じている,だから責任も果たせないのに金をもらうと問題が起きる,なぜ弁護士が何もしないで百万もらったのか?
裁判もなにもしない,当事者と交渉もしない,何もしないのに百万が転がりこんだとなるそれはもめごとになり頼まれたのだからもらっていい金だともなる
でも何もしないのに交渉もしないのに受け取れる金だったのかとなると疑問になる
最初に百万とるということ自体が変だったのである。
そして何の責任も果たさないのに金をだけを受け取ったのである。
「これこれで今困っているんです」
「では百万を先にもらいます」
「それで相談にのってもらいるのですか」
「そういうことです」
しかしその弁護士は何もしていない,本当に何もしていなのに金をもらっただけなのである。実際の交渉は運送会社と保険会社で行われただけであり何もしていない
そしたらなぜその金を受け取れるのか?第一何もしないのに最初から相談料として百万も受け取るのか,要求するのか?
そしてなぜそれで金を払ったのかとなると今ふりかえると変だなと気づいた
自分はその時何かわからないから気にもしなかった
つまり金には責任が生じている,何もしないのに金をもらうことは責任を果たさないのにそうしたことは納得がいかないとなる
ただ相談料として10万くらいとられてもそれはいいとなる,百万となれば百万の責任が生じているのである。
だから何か弁護士でも推理ドラマで理不尽でもクライアントの味方として働く,それはクライアントから金をもらうから責任があるからそうなる
それは浪人が金をもらって何でもする,人殺しでも請け負うとにているのである。
弁護士はだからブラックになりやすいのである。
そんなこといったらあらゆるものがそうなりやすいし金など得られないともなる
まず飲食業があるとする,それらの仕事は簡単に百円でもごまかせない,多くは金はとれない,その仕事に見合ったものしかとれない,千円の料理を作るのにごまかせないからである。材料にしても料理するにしても千円の値段によって決まる,それを百円だけですませて利益を得ることが不可能である。そんなことしたらすぐにわかるからである。
その店は誰も次から来なくなるからである。
物を売るにしてもそんなにごまかせないのである。値段なりにしか売れないしもうけられないのである。
ただ宗教とかで金が入るのはそれだけで宗教とはまるで違った場所になっている,利権化した場所なのである。金儲けの宗教だとなる
カルト教団でもそうだし今回の富岡八幡宮事件ではあまりにも露骨に凄惨なものとして現れたから驚いたのである。
そんなことを言ったって人間は金から離れてありえないのである。自分だってそうであるただ富岡八幡神社の宮司の家族は異常である。賽銭とか土地の所有で豪遊していた,歓楽街で散財していたからだ,宗教によって神社が食い物にされていたのである。
そもそも賽銭とかオミクジとかあるがそこに願う人も祈る人もそもそも不浄なのである。何か賽銭とかにはこの世の汚れた欲をかなえてほしいという願いがこびりついていいないか?御神籤にしてもそうである。神社は何かとなるとそんな神聖な場ではもともとなかった,良く近くでクジを買う人がいつもけっこういるなと見ている
なにか一攫千金をねらう庶民が結構いることに驚く,そんなもの当たる確率からしたらほんとんどないのにクジを買っているのである。
神社でもいろいろあってもそこも何か世俗的な場である,祭りとかを継承しているから神社はまた違ったものとしてある
とにかく賽銭をもらう,その金で豪遊する,賽銭をもらうことはやはり責任が生じている何にでも使っていいとはならない,ただ宗教の不思議は遍路の真似してお経を上げていたホームレスのようにそれだけで金をもらうことが正当化される
お経を上げたのだからもらうのは当然だとなる,その人はそうして乞食ではないと威張ることにもっないたのである。
その人は乞食としてもらうことを嫌っていたのである。人間にはプライドがあるからそうなる,そしてお経をあげてやったから高額な金をもらうのも当然だとなり逆に金をやったのに礼をしろとまでなっていたのである。
こういうことはカルト教団で寺でも神社でも普通にある世界なのである。
その宮司は賽銭であれ女遊びで豪遊していたのである。
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