2017年12月14日

金と宗教の問題 (宗教も金をとる口実としてある)


金と宗教の問題

(宗教も金をとる口実としてある)

金には何か必ず責任がついて回っている,金もらえばいい,もらったらどう使うとか関係ないとも考える
でも時代劇で良く浪人がいて金をもらうと誰でもいいから殺すということをする
ヤクザでも金をもらったからなと本当は喧嘩に参加したくなくても殺したくなくても殺すそれは金をもらったから責任が課せられてそうなっているのである

ではなぜそうなるのか?別に金があれば金がなくて追い詰められなければそうはならないのである。人間は金で変わる,何でも金をもらえばいいともなる,遂には犯罪を犯しても金をとればいいとなる
それは金に追い詰められれば誰でもそうなるのである。
明日食べるものがない,金がないとなればわずかの金をとるために人を殺すことだってありニュースとなる,それは追い詰められているからである。
浪人などは定収入がないからそうなりやすいのである。

人間は別に悪人でなくても追い詰められると犯罪者になる,もしそうして金にでも追い詰められなかったら犯罪者にもならない,普通の人として終わっていたとなる
だから借金に追い詰められた人は必ず犯罪予備軍なのである。
借金によって人は追い詰められているから他人のことなど考えない
どんなことであれ借金を返さねばならないとなり犯罪にもなる
そういう人が自分が困ったとき来たから恐怖だった
自分が殺されるのではないかというまでの恐怖になる
別にその人ももともと悪い人ではない,うまくいっていたときいい人と見られていたのである。

ただ人間は追い詰められると変わる,悪魔にもなる,ある人はホームレスだけど遍路のようになっていた,そして自分が金があまっていたので大きな金をやると言ったら素直に受け取らなかった,そしてではお礼に経文を唱えさせてくれといういう
その時良くそのことがのみこめなかった,経文を唱えることができるのかと思った
その人は何かホームレスとなり遍路のまねごとを覚え経文を唱えるようになった
その人は僧の修行もなにもしたわけではない,でも追い詰められているから金をもらえるならと即席で僧になり経文を唱えたのである。
その人は追い詰められてそんなことをするとなると悪人になったとなる
僧を偽り金をもらう人となった,その人は金欲しいだけであり何か修行するわけでないからである。

宗教もただ世渡りだけのものなのである。そういうことはカルト教団にもある
宗教法人になると税金もかからないしそれで収入になるし御布施でも賽銭でも金が入る
それで富岡八幡宮の宮司殺人事件では土地を所有しているから駐車場にしたりかなりの収入がありその財産争いであのような凄惨な事件になった
結果的にはあまりにも金がありすぎてその財産をめぐって凄惨な争いになった
兄弟の遺産争いならいくらでもありそれが宗教がからんでいたが実際は財産争いになっていたのである。
もともと寺とか神社でもそういう利権化した場所としてあった。
それはカトリックなどでは顕著であり土地を所有しているから権力をもっていたのであるそして世襲制であり同じようなことが起きてルターの宗教革命になったのである。

だから宗教と経済を考えるとき宗教は本来なるべくそうした利権とかかわらない,金とかかわらないことが純粋性を保てるとなる,世俗的にかかわると汚れてしまうのである。
それで出家して世俗とかかわらず僧侶は質素な生活をしていた
ただそうして出家してもそこもこの世からは離れられず世俗化しして利権化したのである
金となると何か金をもらうと必ず責任が生じている,だから責任も果たせないのに金をもらうと問題が起きる,なぜ弁護士が何もしないで百万もらったのか?
裁判もなにもしない,当事者と交渉もしない,何もしないのに百万が転がりこんだとなるそれはもめごとになり頼まれたのだからもらっていい金だともなる
でも何もしないのに交渉もしないのに受け取れる金だったのかとなると疑問になる
最初に百万とるということ自体が変だったのである。
そして何の責任も果たさないのに金をだけを受け取ったのである。

「これこれで今困っているんです」
「では百万を先にもらいます」
「それで相談にのってもらいるのですか」
「そういうことです」

しかしその弁護士は何もしていない,本当に何もしていなのに金をもらっただけなのである。実際の交渉は運送会社と保険会社で行われただけであり何もしていない
そしたらなぜその金を受け取れるのか?第一何もしないのに最初から相談料として百万も受け取るのか,要求するのか?
そしてなぜそれで金を払ったのかとなると今ふりかえると変だなと気づいた
自分はその時何かわからないから気にもしなかった

つまり金には責任が生じている,何もしないのに金をもらうことは責任を果たさないのにそうしたことは納得がいかないとなる
ただ相談料として10万くらいとられてもそれはいいとなる,百万となれば百万の責任が生じているのである。
だから何か弁護士でも推理ドラマで理不尽でもクライアントの味方として働く,それはクライアントから金をもらうから責任があるからそうなる
それは浪人が金をもらって何でもする,人殺しでも請け負うとにているのである。
弁護士はだからブラックになりやすいのである。
そんなこといったらあらゆるものがそうなりやすいし金など得られないともなる

まず飲食業があるとする,それらの仕事は簡単に百円でもごまかせない,多くは金はとれない,その仕事に見合ったものしかとれない,千円の料理を作るのにごまかせないからである。材料にしても料理するにしても千円の値段によって決まる,それを百円だけですませて利益を得ることが不可能である。そんなことしたらすぐにわかるからである。
その店は誰も次から来なくなるからである。
物を売るにしてもそんなにごまかせないのである。値段なりにしか売れないしもうけられないのである。

ただ宗教とかで金が入るのはそれだけで宗教とはまるで違った場所になっている,利権化した場所なのである。金儲けの宗教だとなる
カルト教団でもそうだし今回の富岡八幡宮事件ではあまりにも露骨に凄惨なものとして現れたから驚いたのである。

そんなことを言ったって人間は金から離れてありえないのである。自分だってそうであるただ富岡八幡神社の宮司の家族は異常である。賽銭とか土地の所有で豪遊していた,歓楽街で散財していたからだ,宗教によって神社が食い物にされていたのである。
そもそも賽銭とかオミクジとかあるがそこに願う人も祈る人もそもそも不浄なのである。何か賽銭とかにはこの世の汚れた欲をかなえてほしいという願いがこびりついていいないか?御神籤にしてもそうである。神社は何かとなるとそんな神聖な場ではもともとなかった,良く近くでクジを買う人がいつもけっこういるなと見ている
なにか一攫千金をねらう庶民が結構いることに驚く,そんなもの当たる確率からしたらほんとんどないのにクジを買っているのである。
神社でもいろいろあってもそこも何か世俗的な場である,祭りとかを継承しているから神社はまた違ったものとしてある

とにかく賽銭をもらう,その金で豪遊する,賽銭をもらうことはやはり責任が生じている何にでも使っていいとはならない,ただ宗教の不思議は遍路の真似してお経を上げていたホームレスのようにそれだけで金をもらうことが正当化される
お経を上げたのだからもらうのは当然だとなる,その人はそうして乞食ではないと威張ることにもっないたのである。
その人は乞食としてもらうことを嫌っていたのである。人間にはプライドがあるからそうなる,そしてお経をあげてやったから高額な金をもらうのも当然だとなり逆に金をやったのに礼をしろとまでなっていたのである。
こういうことはカルト教団で寺でも神社でも普通にある世界なのである。
その宮司は賽銭であれ女遊びで豪遊していたのである。

タグ:宗教と金

2017年12月15日

強いられるカルマの清算 (金でもなんでもカルマから逃れられない人間)


強いられるカルマの清算

(金でもなんでもカルマから逃れられない人間)


カルマというとき金になると具体的でわかりやすい,借金になれば事情はいろいろあるにしろ具体的にカルマを背負ったことになる,その借金を他人に負わせることはできない
カルマは責任のことでもあるからだ
一旦何であれ金をもらえば責任が生じる,だから浪人は金をもらって人を殺すとかなる
ヤクザでも金をもらったから嫌だけ金をもらっているからなと人を殺すことまでする
つまりそれもカルマを金で背負わされたのである。

ここ介護などで苦しんだ自分はカルマの清算を強いられたのである。
カルマというとき自分のカルマもあるが家のカルマもある
家には必ずプラスのカルマとマイナスのカルマがありマイナスのカルマは苦しみとして現れるのである。それでなぜ自分はこんなに苦しむのか?
苦しむことによってカルマを自覚するのである。

家のカルマを背負うの長男長女になりやすいのでてある。
その家にどういうカルマがあるのか外から見ればわかりにくい,でも何の原因もなく人間はただ偶然に何かが起きるのか,事件でも何でも起きるのかも疑問なのである。
例えばなぜある人が金を盗まれたとか強盗にあうとか殺されることまである
なぜその人はそういう目にあわなければならなかったのか?
ただの偶然なのか?それもなかなかわかりにくいけどそこにもカルマの必然性があるかもしれない。

自分の場合あったのかもしれない,大金を盗まれた,それは一見自分に責任がないように見える,でも家の長男だとするとその家のカルマを背負うことになる
何か金で得したということが自分の家にあったからかもしれない,別に普通に働いて遺産を残したのだが一人は公務員でありそれで他より金が入ったということはある
公務員はみんなからたいして仕事もしないのに給料が高い恵まれていると常に批判されているからだ,確かにそういうことは公務員に実際にある,いろいろな特典が公務員にはあるからだ,それを自分は知っている

なぜそういう人が自分の家に来たのか?それもカルマだったのかともなる
人の出会いにもなんらかカルマが関係しているのかとなる
金はあればいいたまればいい,なんであれいいと思う人が多いが金に怖さがある。
金は具体的なカルマだからである。
まず自分はわからなかったが事故で死んだ人の保険金などをもらったりしたら後で災いになる,その怖さを今になると感じる,保険金が額が多いから危険なのである。
遺産でもそうである。金の額を関係している,金が大きいものとなればカルマも大きくなる
それで富岡八幡神社の清算な事件が起きた,その遺産であれ収入が桁違いに大きいものだったからともなる
そんな金が神社に集まること自体何かすでに災いとなるべきものがあった
だからカルト教団などに莫大な金があり土地でも財産があるから凄惨な争いになる

別に金があることが悪いわけではない,ただ分相応の金があれば問題が起きないのかもしれない,富岡八幡神社でもカルト教団でもあるところに莫大な金がありそれが災いとなるだから金が欲しいというけど金には何か怖いものがある
例えば宝くじで何億円とかあたった人がいるとする,するとそれに当たらない人がほとんどである。すると当たらない人の羨望が当たった人に向けられる,なぜあいつだけがクジにあたって自分はあたらないのだという不満がその人に向けられるのである。
その数も多いからその金が災いになる,それで宝くじにあたってもその後いいことなかったともなる

カルマというき家だけではない,他者のカルマも関係してくる,なぜその人がまた来たのか?その人は飲食店で働き70万とかの給料をもらえなかったのである。
その時津浪や原発事故でこの辺の仮設とかで繁盛したのである。
でもそうして働いた分がもらえなかったことを自分の所に来て嘆いていた
その飲食店は暴力団関係の人が経営していたのである。
これも本当に理不尽なことだった
結果的に自分がその金を払うことになったのである。
それは自分の家のカルマとはなんの関係もないのにそうなったのである。
その時自分も困っていることで払うようになったということもある

だから家だけではないなんらかカルマの清算が強いられる,それは他者もかかわっているそれでもう一人の親戚にあたる人にも金を払った,それもやはりカルマだったから清算したとなる,それで金は結構使ったが気持ちが楽になった
死者を恐れるのはなぜかというとき良心がとがめられるからである。
なにか死者に対してやましいことがありそうなる
それは死者に対しては偽ることができないということで深刻なものとなるのである。
だから金額まで指定して死ぬ一カ月前に母に言われたことは守った
認知症になってわからなくなったと思ったが正気にもどって大声で言ったことは忘れられないからだ,それを守らないとすると本当に怖いものとなる

いづれにしろ金に関しては自分の家であれカルマを清算したという感じになる
これからまたどうなるかわからないがそういう感じはある
この世の問題はほとんど金をめぐる問題である。
だからカルマもそこに現れのが一番多いのである。
そしてカルマとは因縁でありその因縁を切るということも悪いカルマを断つということになる
結婚でもそうであり離婚することは相手との因縁をたつことだがそれが一旦結婚するとなかなかできなくなる,つまり因縁を断つということカルマを断つということは相当なエネルギーがまた必要になるのである。

母の実家との因縁はあるが兄の墓を自分の家に建てたので因縁が切れたのかとも思う
実家の墓参りしていればやはり因縁(カルマ)はつづく,その因縁を背負うことは苦しいとなる,その因縁(カルマ)は3百万円で墓を守ってくれと頼まれた人にある
3百万受け取ったことと実家で育った人なのだからカルマを因縁を受け継ぐのである。
だから安易に金をもらうものではないと思った
そんな因縁を受け継ぐということは楽なものじゃないからだ
ただそれももし半分でも自分がもらっていたら責任がカルマが生じていた
だから墓は一人ではなく何人かで守るのがいいとなる,責任が分担されるからである。
しかし金は一人じめしようとする人が多いのである。

カルマは別に金だけではない,因縁のことでもある,悪い因縁はなかてか切れないのである。そのカルマを断つには相当なエネルギーが必要になる
結婚したり何か男女間でも縁を結ぶと縁を切るために殺されることまでなることが事件としても結構ある,縁切り寺も神社もあるのもわかる
神社は縁を結ぶ所でもまた縁を結び災いとなることもある
ともかく自分はカルマを清算して楽になったという感じはある
ただ金の問題は生涯つきまとう,金のカルマが本当に清算されるのは死んでからとなるかもしれない,死んでようやく清算されるのかともなる

我がカルマ清算して楽や年の暮

年の暮になると借金とかなんとか清算が強いられる,60以降は必ずカルマの清算が強いられる,それは苦しみとなって現れるのである。

水戸管理局と原町の駅長が来る (無人駅の掃除する人を探していることは確かだった)


水戸管理局と原町の駅長が来る

(無人駅の掃除する人を探していることは確かだった)


水戸管理局の人が原町駅の駅長を待っていた,駅舎ないに入り電源かなにか点検するものがあるという,そこは鍵がかかっていて入れないからだ
水戸管理局の人は良く来ている,何かしら点検作業が常にある

まもなく原町の駅長が来た,そこで今まで聞いていた鹿島駅が無人駅になっこたことで、商工会の人に掃除を頼んでいたのだがそれを断られたことで新たに掃除してくれる人を頼んでいるのか?誰かNPO法人が申請しているのか?
そのことを聞いたらそれは水戸管理局でしかわからないという
契約は水戸管理局でしいるからわからないという

そこで駅前の自転車屋と話し合った

誰かが申請したことは原町駅ではわからない,水戸管理局の人が決めているからわからない」
「原町の駅長ではないのか?」
「でも誰かが申請したことは市役所ではわかるのではないか?市役所を通してしか申請はできない,直接水戸管理局に申請することはできないし聞くこともできない」
「まあ,掃除だけだから近くの障害者の施設の人が市で作ったトイレを掃除しているのだからついでにやればいいというものだよな」
「ゴミは落ちている,吸殻とか多い,自分は拾っている」

そんな話をした,でもこのトイレさえ外から来る人にはわからないのだ
それで郵便ボスとのところに小便した人がいたという
自転車屋の人はいつも見ているから知っているのである。
旅行するとすぐ近くでもわからないことが多いのである。
駅員がいればトイレどこですかと聞けるからいいのである。

そしたらスマホをもった人が来て,時刻表を見に来たと言って写真にとっていた
自分は時刻表を作っていたがしばらく置いていなかった,置くと必ずなくなっている
相当数刷って置いていた,やはり時刻表を見に来る人が多いことがわかった
原町と相馬市では時刻表を作って配っているのだろう。
浪江と小高行きの時間も出ていたから便利である。
鹿島の商工会では時刻表を作っていないのである。
時刻表の需要は確実にあることはわかった

今年一年は駅でのボランティアをしてきた,そこから見えものがあった
それはいい経験だった,やはり何でも経験である。
最近はゴミを拾うくらいで何もしていない,ただ掃除が一番の問題だからJRでは本当に掃除してもらう人を探していたのである。それは本当だったのである。
ただ水戸管理局でするもので契約もそうだから誰が申請したのかそれもわからない
市役所ではわかるはずだがそれもわかならいということでどうにもならない。
タグ:無人駅

15歳の少女がアルバイトの作業中、13メートル下に落下して死亡 (危険な高所の仕事)


15歳の少女がアルバイトの作業中、13メートル下に落下して死亡

(危険な高所の仕事)

警察によりますと、茨城県古河市の工場で14日午前、秋山祐佳里さんが屋根に取り付けられた太陽光パネルの点検などをしていたところ、天窓のガラスが割れて13メートル下のコンクリート製の床に転落し、死亡しました。

こんなことがなぜ起きたのか?

人手不足のためだという人もいる,日本はそれだけ人手不足で追い詰められてこんな人まで雇っているのか?まず法律違反になるのに雇っているのはなぜだったのか?

ただ前にもアルバイトで60くらいの人がアンテナとりつけでやはり屋根から落ちて死んだだからなぜそんな危険なことをアルバイトにさせるのか?
今は何かと人を雇うのに厳しい時代だからである。まるでアジアの貧乏国なのかというのもわかる,中国人などはそうして建設中にビルから落ちているのか多かったからである。
アルバイトになぜそうした危険なことをさせることがわからない,普通の雇い主だったらさせない,でもさせている,これは明かに法律違反なことはいくらなんでもわかるだろう
なぜ自分が屋根から落ちるとか興味をもっているのかというと20代の時自分も同じ経験をしているからだ
ビルの四階から本当に危機一髪で落ちなかったが落ちるところだったのである。
だからそれを時々思い出すと良く落ちなかったなとふりかえる
明かにそれで一貫の終わりになっていたのである。

なぜそんなところで働かせられたのか?それは働く場所がなくてそんなところに行った結果なのである。雇い主は危険なことでもさせていたのである。
普通だったらもし事故が起きた責任を問われるからそんなことをアルバイトにはさせないのである。

まず屋根に上がるとか高所で仕事できる人はなれた人でありそれに向いた人である。
ただ中学生は軽いからと選ばれたなのかと言う人がいる
それもありうるが女性なのにそんなことをさせるのかとなる
この雇い主の責任は重い,まず法律違反だからそれだけで罰せられる

なぜそんな場所で働いた事情はわからない,そもそもアルバイトにそんな仕事をやらせることが理解できないのである。中学出たばかりの人を雇うこと自体わからない
だからそこまで今日本が人手不足に追い込まれているのかともみる
建築関係では人が集まらなくてつぶれている会社が報告されているからだ

80才の人が東京から除染の仕事に来ていたのも人手不足のためである。
人手不足になると人を選んでいられないのである。
だから介護関係などはいつも人手不足だから変な人でも雇っている
そうなるとそういうところで世話になる老人も怖いとなるのだ

人間はなんらかの危険を経験していない人はいない,ただその時は一番危険だった
ただ近くの岩場を登っていて下に落ちて頭を打ったときも実際は危険だった
高さがそれほどないので軽傷ですんだのである。
自転車でもすぐ近くの危険な場所ではない普通のところで起きた
車輪が大きい新しいもので乗りなれていなかったのもあったかもしれない
強く顔をうちつけた,それで前歯三本を折った,それを忘れていたが抜け落ちたので思い出したのである。
この時は本当に頭打っていたら死んでいたのである。自転車も危険なものがある,この前は急な坂道がつづくところで転んだが助かったのは
その自転車はマウテンバイク風の電動自転車であり足が地につきやすいので助かったのである。やはり高くなる,足が地につかなくなるととっさのとき危険になる
ロードは早いから危険なことを知った

いづれにしろ人間は誰でも危険な目にあっている,それで死んだ人もいる
別に交通事故でも死んでいるのだから人間の死ぬ確率はある
同世代でももう一割は死んでいるからだ
これも運不運があるのか?それよりそうした危険な場所で働くというのは自重すべきである。そんなことをやらないと自分で言わないとやらせられるから困るのである。
アンテナとりつける若い人は機敏でありスイスイと屋根を歩く,恐くないと言っていた
それから船乗りも漁船がゆれても機敏に動ける,体が小さいのだけと向いていたのかとなる

ともかく人間は自分に向かないことは本当にやるべきではない,仕事でもするべきではない,させられるのも困るのである。若いときは自分の適性がわからないのである。
学校では失敗したのは自分は体力がないから体力仕事ができないから本当は頭を使う仕事をするべきだったということを自覚すればもっと勉強していた
でも勉強嫌いになっていたから就職もせずそうした危険なアルバイトをさせられたのである

だから家の職業の跡を継ぐというときは親の仕事を見ていいてそれがどういう仕事なのかわかるからいいのである。電器屋だったらアンテナとりつけで屋根に上るのを子供が見ていてその仕事を身近に知るからいいのである。
そして屋根に上ったら危険でありそのことを親から言われるからいいのである。
全然そうした経験もない理解もない人が突然屋根に上げられて仕事させられるのは危険なのである。

そのアンテナとりつけではないがはずすために手伝わされた,そして屋根に上った
そしたらアンテナが落ちたのである。それが反対方向に落ちたから良かったのである。
もし自分の方に落ちてきたら大怪我をしたかもしれないのだ
だからなぜそんなことを自分にさせたのかということがある
たいした危険がないとその人は見て自分にさせたのである。
だから何でも頼まれたからと仕事をするのも危険なのである。
怪我しなかったから良かったがもし怪我したらもうその人とはつきあえなくなっていた
それもその人にとっては苦しいことになっていたのである。
なぜなら自分はずっとその後その女性を援助してきたからである。

人間は危険はどこにでもある,毎日のようにこの辺でも交通事故が起きている,だから歩いていても自転車でも安全だということはないのである。
知り合いの女性は自転車だが安全に相当に気を使っている
自転車の危険は車から死角になりやすい,ダンプとかの陰に隠れて見えなくなる
それでまきこまれて事故になる
この辺は外部から人がかなりまだ入ってきていてダンプが通るから危険なのである。
ともかく建設現場は危険な場所である,物でも上から突然落ちてきたりするからである。だからなれていないと危険なのである,ただそういう場所はだから誰でも雇う,履歴書などいらない,ヤクザ関係の人が連れてくるからである。
原発でも危険だからそういう人を連れてくる,そして犠牲になっても責任をもたないともなる,保証されないということもある

結局そんな危険な場所にゆく奴は馬鹿だともなるがそういう人がいないと成り立たないのも建設現場である。それで確実に一定数が死んでいるのである。

2017年12月16日

冬薔薇五句 (芸術も修行者として真善美を追及する)


冬薔薇五句

(芸術も修行者として真善美を追及する)
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塵つかず一輪静か冬薔薇

冬薔薇ことに美し籠もるかな

冬薔薇今日も散らずや石に映ゆ

冬薔薇黄色にほのか赤み帯ぶ

冬薔薇待つ人あれや田舎駅


冬の日や墓を並べてここに終ゆ故郷あわれ我も眠らむ

薔薇は夏の季語であっても春にも咲くし秋にも咲いているし冬にも咲いている
意外と秋の薔薇もおもむきがありいい,冬薔薇はさらに季節で花が凍るような美しさがある,空気が澄んで塵もつかないとなる
芸術は俳句でも似たような類似俳句がある

白菊の目に立て見る塵もなし 芭蕉

これとにているのが塵つかずになる,知らずと覚えていて参考にして俳句は作られる
これまで作った薔薇の句だけをまとめると一つの薔薇の連作の作品となる
ただプログではどこに書いたのかもわからなくなる
だからそれをまとめようとしているのだかめんどうになる

自分はここ何年かも家のあとかたづけに追われている,片づけても片づけても片づかないのである。本を整理して片づけるのも容易ではない,本もなかなか捨てられないのはまた参考にして利用すると思うと捨てられないのである。

いづれにしろ俳句とか芸術でも一つの修行にもなる,芸術にもいろいろあるが本来は身を清めるための修行の要素がある,純な自然を見るには心も純なものを保たなければならないからである。
それは宗教にもなる,でも今の宗教はそういう場ではない,この世ではかえって汚れた場所になっているのだ。

金でも大きな金を賽銭に投げるのは欲深いやつだ

1000円賽銭入れるから神様お願い
2000円,3000円,一万にして福を与えてくれ

宝くじをねらうようにして願いをかける,神様は銀行でもない,利子つけて金を返してくれるわけではない,実はその金は放蕩する宮司とかくだらない人に入っていたのである。

要するにカルト教団でも神社でも人間の欲にまみれたところなのである。
そんなところで宗教を追及しているのは暴力団に入って宗教を追及しているのと変わりないのである。人間の様々な欲望が肥大化して集まる場所が宗教の場になってしまったのである。またそういう人を受け入れるからこそ選挙の票にもつながるのである。
まず人間の欲を否定したら人は集まらないからである。
それで面白いのはやはり大都会の神社が賽銭が多くなるのはまさにねそうである。
人が多いからそれだけ欲望もふくれあがり賽銭が集まるのである。
だから都会の宗教は経済と政治しかないのである。

本来なら山に籠もり節制して身を清め修行するのが宗教だったからである。
今の宗教にはそういうものがほとんど一切ない,ただ欲望の無限の追及しかないのであるそれは神社でも仏教でも同じである。
だからそんなところに行くのは世俗の欲深いやつでありそういう所に交わる人もまた汚れるし汚れているからそういう場に行くのである。
そんなところにもし心を清めるとしたら行かないからである。
賽銭にはこの世の欲がこびりついているのである。
その賽銭もただ今回の富岡八幡神社の事件のように放蕩して消尽されたとなる
そんなところに賽銭を投げる人も同類だともなってしまうのである。

墓を並べて眠る場はやはり因縁深い場だったのか?ふるさとはやはりそうなるのか?
自分もあの墓地に墓に眠るのかともなる
冬の日はやはりしんみりとして墓も鎮まる
毎日自分は自分の家の墓地の前を通っているから供養していることになるのだ
故郷から離れたいと思っていたが故郷は因縁深いから離れられない宿命にもある
ただこの辺では原発事故で避難して故郷さえ失った人が多いのである。
タグ:冬薔薇

人間の不可解 (有能でも成功しない-神が関与しているためか?)


人間の不可解

(有能でも成功しない-神が関与しているためか?)

人間はそもそも不可解である。普通だったら有能な人間が成功するはずなのである。みんな有能なことを望んでいる,有能になるために努力している
では世の中で本当に有能な人が成功しているかとなるとしない
かえって有能すぎて失敗している人もいる

一人親方だった人は有能である。大工でも優秀である。庭仕事もできる,あの人はなんでもできる,体力も柔道の有段者のように強い,しゃべるのもうまい,だから人と接するのがうまいから営業で成功するから事業したら成功する
その他いろんなアルバイトもできる,焼き芋売りとかもしたとか何でもできるのである。だから自分は感心して見ていたのである。

でもこの人はあらゆる面で有能すぎていろいろなものに手を出しすぎていたのである。
ブラックなものにも手を出していた,そういう方面でも有能だったのである。
とにかく交渉力もあるから何でもできる,でもなんでもできることがいろいろなことをしすぎることでブラックなことにも平気で手を出す
ただもうければいいというだけになる,それだけ有能だったらブラックなものに手を出す必要もないのにさらに金儲けのためにやる
原発が建つとなると景気良くなると賛成していたのである。
その人は金儲けのことしか見ていない,だからいくら有能でもその人は有能なのかともなる

器用貧乏の特徴

なんでもそつなくこなす,対応力がある,でも一つのことを守り通すことなどができない何でもできるから手を出さなくてもいいものまでする,能力がありすぎてそうなっ,ているのも皮肉である。

有能だというとき時と所によっても違ってくる,戦場では戦争がうまい人を平気で殺すような人が有能とされる,それは非日常の現場でありそういう所で力を発揮する人はまた有能なのかともなる
人間はあらゆる面で有能な人はいない,人間が有能だというとき何かに限定して有能なのである。事業を起こした人は電気関係では有能だった
でも自ら事業を起こしたとき失敗した,経営とかまた別な能力が必要だからである。
経営は商売人になることでもある,経営と機械関係に詳しいとかは別な能力なのである。でも理系で電気関係で有能だから経営もできると自分では思って失敗した

何かそうして人間の有能さは神のような万能ではない,ある一分野でしか有能になれない天才だってそうである。生まれつき恵まれた天分をもって生まれてきたからといってそれが社会で有能にされるとは限らないのである。
なんかそれだけ天才であっても十分に能力が発揮されなかったなともなる
例えば英雄だってまず平和な時代だったらいくら有能でもその能力を発揮できない
そういう場を与えられない限り発揮できないのである。

家康が天下をとったのは別に家康が有能というわけではなかった,天才だったのは信長と秀吉だった,家康は平凡だったとされる,ただ長生きしたことと運が作用してそうなったといわれる,信長は本能寺の変で死に秀吉も死んで残されたのが家康だけだったからだと言われる,そういう運に恵まれていたからだともなる
武田信玄も病気で死んだとかいろいろ家康の時代になるまでにあって最終的に家康が天下を治めたとなる
家康が別に特別の天才でもなかったのにそうなったのである。

人間有能であることにこしたことはない,みんな有能になりたいのである。体力で強くありたいのである。自分も無能だから体力もないから有能でありたいと願って来たのであるただ人間は何か強いと思ってももろいなとつくづく思った
一人の身内は本当に女性でも男が恐れるほど強かった,でも認知症になり信じられない弱者と化してあえなく死んだ,これも信じられない死だった
最後の言葉は「俺は優秀だった」と言って死んだのも悲惨だった

人間は例えどんなに有能であっても無能化される恐怖を感じたのである。
人間が有能だというとき原発を作ってそれを運営した人達は科学者であり今の世の中では一番優秀なエリート集団だったのである。
でも事故で無能化されたのである。
そもそも人間の有能さとは賢さとは何なのか?それ自体が疑問になる
人間は賢いから原子力を作り核兵器を作った,でも核戦争で滅びたとなると最高に馬鹿だった愚かだったのが人間だったとなる

人間は神から離れて絶対に賢くも有能にもなれない宿命がある

全能の神なら賢くなれる,有能になれが人間はなれない,いくら有能だと思っても極一部のことで有能にすぎないのである。
そして何でもできる器用な人も器用貧乏とかなる,なんでもできるからとブラックなことにも手を出すのは疑問なのである。なぜならそんなことしなくてもその人は有能なのだから稼ぐことができるからである。
ただその人は金をもうけることしか考えていないのである。
そんなことみんなそうではないといえばそうなる,でも何が欠けていたのか?
肝心なモラルが欠けていたのかもしれない,いくら有能だってモラルが欠けていたらそれは人間として大きなものを欠けることになる
核を発明して原発を作り核兵器を作る有能さがあるがそれで人を殺すのにつかったら科学者は有能だったのかとなる,人類は核戦争によって滅亡させるからである。

人間は有能であることが無能に通じている
人間は強いことは弱さに通じている

人間はいくら有能になろうとしてもなれない,有能だと思ってもそれが無能に通じている認知症になれば人間は無能化される恐怖をまざまざと見たからである。
いくら体が強くても病気になれば全くはかなく死んでゆく
人間はどんなことをしても絶対的に有能な人間になりえない,超人を唱えてもニーチェは無能人間になった,つまりなんらかで人間の奢りは神によって砕かれる運命にあるのだ
人間は神なしでは有能になれないのである。
人間はいかにもろいものか様々な死を見ていたら実感するからだ

そういうことは聖書で説かれている

『旧約聖書』「コヘレトの言葉(伝道の書)」(9・11)に見られることば。「足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ずしも勝つとは言えない」。まじめな人が報われるとは、限らない。善人が、幸福をつかめるとは限らない。知恵のある者が、勝利をつかむとは限らない。

見よ、主、万軍の主は/エルサレムとユダから/ささえとなり、頼みとなるもの――すべてささえとなるパン、すべてささえとなる水――を取り去られる。

 すなわち勇士と軍人、裁判官と預言者、占い師と長老、 五十人の長と身分の高い人、議官と巧みな魔術師、老練なまじない師を取り去られる。 わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。 

あなたを導く者は/かえって、あなたを迷わせ、あなたの行くべき道を混乱させる。 (イザヤ)

だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする 者は高くされるであろう。
( 箴言16)
高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ 。 ダニエル
高ぶり歩む者は低くされる。

これは何を意味しているのか?現代に合わせればやはりこの言葉を活きている

すなわち勇士と軍人、裁判官と預言者、占い師と長老、 
 五十人の長と身分の高い人、議官と巧みな魔術師、老練なまじない師を取り去られる。 わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。

 なぜこんなことが言われるのか?要するに上に立つものは有能とされてもあてにならない有能だからこそあてにならない,軍人とか裁判官とか予言者でも偽りの予言者がいる
身分の高い人はあてにならない,その人たちが民を守ってはくれない
今は政治家などは自分のことは考えても民のことは考えない
偽りの予言者はカルト教団なども取り去られる,現代なら科学者もこの中に入ってくる
科学者が今の世の中では一番有能とされているからだ

そしてみどりごに治めさせる

これはなんなのだろうか?みどりごにどんな能力があるのかとなる
神が指導者にしたのはみどりごだということである,それは最も無能なものなのである。その意味するものはなになのか?
人間はいくら有能でも有能でありえない,だから人間が有能だと思うとき無能にされるのである。みどりごは何の有能さもない,無能だから治められるともなる逆説がある
みどゃごは高ぶることはない,この世で高き地位あるものは卑くくされる
だから意外とこの世で地位ある者は天国に行けないという逆説がまたある
天国にはこの世で卑くくされた者がいるとなるのである。

こういうことは老子とか荘子の思想にもあった,無用の用というとき有能なものを否定していたのである。無用の中にこそ用があるという逆説である。
だから老子は政治を否定したアナキーになったのである。
人を治めようとする有能なものがかえって害になる,かえって治めない方がいいというときその逆説を語っているのである。
だからここには東洋思想との共通性がある。そもそも宗教は東洋から生まれた
イスラエルまでは東洋なのである。アジアなのである。
宗教の淵源はアジアにあるから共通性があるとなる
インドの思想でもなぜ座禅とかするのか,無用者になっているのか?
禅宗では大愚とか愚かなることを悟りのように見るのも不思議だとなる
禅宗とかでもヨーロッパのキリスト教から見ると理解しがたいものになる
ヨーロッパのキリスト教だと修道院から資本主義が生まれたというとき常に勤勉なもの働くものとしての思想があったからである。
瞑想があったとしてもそれはアジアのものでありヨーロッパでは勤勉に神のために働くという思想になったのである。

ともかく人間はどんなに有能だと思っても無能化する,どんなに体でも何でも強いと思っても弱者化する,それは国でも同じである。アメリカが大国が強いとは限らない
いつも大国が強いものが勝つとは限らない,だからそこに世界史にも神が関与していると聖書では見ている
国も栄枯盛衰がありいつまでも栄えた国はないからである。

人間が不可解だというときそこに人間だけでは解きあかせないものが必ずあるからだ
それは科学的なものでも人体でも何でも科学者が解きあかしたわけではない
常に不可解なものが残る,塩分が悪い高血圧になるというのもその説も嘘だったとかなる個々の人生でも不可解なのである。自分なども危険な所で死んでいたかもしれない
でも生きていたのは神の関与があったからだったとのかともなる
それでも死んでいる人は死んでいる,それはなぜだろうとなる
ふういう不可解は個々人ではいくらでもあり解明されないのである。
神の関与があるとするときそれとは結局神しかわからないかそうなる
来世のこともわからない,それは神のみぞ知るとなるからである。

2017年12月17日

新地駅俳句十句 (新地から海が見えて景観が良くなった)


新地駅俳句十句

(新地から海が見えて景観が良くなった)

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桜咲き海を望みて新地かな

船の行く山より望み朝桜

草萌ゆる電車の行きて望む海

耕やしや海を望みて新地かな

山鳩や海を望みて春の畑

海の青染まりて新地春の暮

新地より高架になりて夏の海

鴎飛び電車の行くや夏の海

文禄の碑伊達領なれや秋深む

時代毎碑の古り並ぶ秋の暮

新地駅雪の蔵王の迫るかな

新地駅おりたち二本の冬木かな

金華山牡鹿半島望めるや津浪の後の新地駅かな

相馬地方の景観は変化がある,外から見た人は電車などで通りすぎてもわからない,複雑な地形には実際はなっている,その土地のことはやはり長く住んでいないとわからない
新地と相馬市と原町とかで何が変わっているか一回くらい来てもわからない
新地は地勢が浜通りでは同じようで違っている

海と山が近く迫っているのである。海が近くすぐ岡になり山が迫っている
それで手長明神の伝説が生まれた,鹿狼山(がろう)から巨人が手を伸ばして貝を食べていたという伝説である。これは裏付けのある伝説である。
貝塚も丘にあり海に近いからである。地形を見れば納得するのである。
この地形は簡単にはわからないのである。

まず春になると鹿狼山の麓まで上ると太平洋が一望できて牡鹿半島とか金華山が見える
そこに桜が咲いていてあそこは本当に見晴らし良く春は一番眺めがいい
新地駅も高くなり同じように見えるようなったので新地駅におりて一見する価値がある。
ただ快晴にならないと見えないから注意である。

そして新地が津浪で海岸部の村が消失したけど景観的に良くなったという不思議がある。高架橋になり電車が走っている風景はなんともいえぬ海にマッチした風景となったのである。
今まで海は浜通りなのに常磐線では見える場がほとんどなかったのである。
新地から坂元から山下と海が見えるのである。
だから景観的には前より良くなったという不思議がある
松原はいいものだったが海をさえぎり見えなくしていたことがあった

この辺の景観でいいのは新地でもそうだが新地から丸森に入ると丸森も森であり秘境のような所が川を上っていったらあった,その深い森林に迷い入り出れなくなったことがある丸森は森が深くおおっていたのである。だからそこで米沢藩と伊達藩と相馬藩で森林資源の木材をめぐって争っていたのである。
丸森も阿武隈川があり森が深く景観的にいい場所である。
この辺にはまだ人があまり踏みいらない土地が残されている
飯館村にもそういう場所があったが道路ができて消されたりはした
でも森が深くつづいて森につつまれている地域という感覚はある

ただ山下から亘理までは景観的に見るべきものがない,山は低くなり変化がないのである亘理に来て阿武隈川をわたるとき蔵王が見えて変化をみることができる
だから山下とか浜吉田とかあるが景観的には魅力を感じないのである。

この辺の景観の弱点は高い山がないことである。鹿狼山でも400メートルくらいなのである。あとは高い山がないのである。それがものたりないのである。
日本はここだけではない,狭いのだが地勢が変化に富んでいるからあきないということがある。
まず大陸だ満州でもどこまでもトウモロコシ畑でたまに大きな泥川が流れているくらいで変化ないからあきるのである。
だから日本は旅行するには地形に変化があるから面白いと思う
海あり山あり川あり森ありであきないのである。季節の変化もあるからそれであきないということがある。日本は地形でも季節でも変化が激しいのである。
今年は特に暑かったり寒かったりと変化が激しい年だった

歴史的には新地には文禄の碑がある神社があった,伊達領だったのが新地だから検地のための記念の碑らしい,その神社には時代毎に碑が残されていて興味深いものがあった
新地は伊達領だったということがわかりにくい,なぜなら明治以降は相馬郡に編入されたことでわかりにくくなったのである。
蔵王も新地駅からまじかに見えた,蔵王は相馬地方だと鹿島の八沢浦からも見えていたのである。

俳句も連作でないと一句だけでは文学となりにくい,それで自分は連作を試みてきたのである。四季がありそれを連作にすると一連の作品として鑑賞できるのである。


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2017年12月18日

冬の暮俳句十句 (家の考察-家は自然空間を模したものとしてもある)


冬の暮俳句十句

(家の考察-家は自然空間を模したものとしてもある)


冬の暮六万石の城下かな

五本松残る三本冬の暮

乱れじや物音もせず冬日没る

石一つ村の境や冬の暮

故郷の古りにし家や冬の暮

冬の暮我が眠るは奥座敷

我が家を一人守りて冬の暮

古き家に昔を思い冬の暮

古き家や昔を想うスト-ブの火

もの言わぬ岩の重みや冬深む

奥深く岩の動かず冬の暮

冬深む奥処に岩の鎮まりぬ


半年くらい相馬市には自転車で行っていない,道の駅のところの五本松の二本の松は枯れた,松は何か一番人間に親しい,人間に見えるのである。
だから松にまつわる伝説とかいろいろ残されているのである。

冬の暮となると冬が暮れるということで12月でもいいが冬深むとなると一月からだろう。い,冬には冬の良さがあり冬は物思いにふけるのにはいい,
冬は岩と石にふさわしい季節でもある,冬に石とか岩の重みをより感じる
田舎だとそうした石と岩は近くでもある
だから自然とアイディンティティ化しやすいのである。そういう作業をしてきたのが自分だった

そして石とか岩を想う場合でも家が関係していた,家の不思議は一つの安定した場を与えることである。家があると精神的に安定するのである。
それも持ち家である程度の広さが必要である。
もしこれが借りているものだと狭い住宅だと何か精神の安定が得られないのだ
ただ一時的に借りて住んでいるというだけになる,それもまたこの世は借りの場だからという感覚になるので日本人はもともとそうして大きな家に住んでいなかった
また貧乏で住めなかった,ただ農家では家と仕事が一体化しているから家の重みがあった

昔の旧家だと奥座敷とかある,座敷は普通にあった,小高の人が50畳の家に住んでいたというのも驚きである。そういう屋敷のようなものがあった,そこは一つの城のようにもなっていた,なぜそんな家が必要だったのか?昔はみんな家に集まって法事とか行事をしていたからである。
ただ家というのは維持するのに大変だと家族がみんな死んでつくづく思った
直したりするのに金がかかる,するとある程度の資産がないと大きな家は維持できなくなる,また広い家だと掃除するにも大変になる
そして古い家は今回の地震とかで傷んだ,ひび割れしたり戸があかなくなったりした
それを直すとなるとまた金がかかり大変なのである。
だから家をもつのはいいにしても負担になるのである。

家を考えるとき奥座敷とあれば田舎だと奥座敷という場がある,この辺だと橲原(じさばら)とかはそんな感じになる,さらに奥に入ると人も住んでいない場があり岩がある
家としてイメージされることが田舎ではある,大きな家となるとそこがただ寝食するだけのものではない,精神的な場であり精神に影響するなと思った
大物は大きな家から育つと言う人がいたがそういうことはありうる
広い家に住んでいれば広い気持ちもなるが狭い家に住んでいると心も狭くなる

広い廊下は心を広くする
それは広い道路もイメージする
冬の光りが一杯さしこむ
そこでおもむろに古書をひもとき
長椅子に座り読む
八畳の奥座敷があり
そこは隠されて眠りにつく場
家は閉じた空間の中に
密なる場を与え精神を醸成する
・・・・・・

家というのは良く有名な旧家の家を紹介しているけど実際にそこに住んでみないとわからないのである。
それはどこでもそうである。住んでみないと深いことはわからない,住んでみてその土地のことがわかるのである。
家は細い廊下とか曲がりくねっているとそれは迷路のようになりそれは森の小径を歩いている感じになる,大きな庭があれば都会でもそういう感覚が生まれる
ただ都会では自然と結びつかない,田舎では生の自然と結びつくのである。
自分の家の特徴は二階の広い廊下にあった,それが外の景色と結びついていたのである。ただ自分は家に住んでいても自分の家のことがわからなかった
家族が死んで家を自分一人で住んで管理するようになってわかってきたことがある
なぜなら家族が死んでから残された家を管理するようになり家が傷んだり直すことで否応なく家に前より関心をもたざるをえなくなったのである。

細い廊下がある,廊下を曲がる
広い庭があり石がある
そこに冬の日がさしている
木の葉が散りつもり
池がありそれは森の中の沼に見える
それはより親しい空間である

家は広ければそうして一つの自然的空間を模したものとなっているのだ

住もうことのなかでのみ人間はその本質を実現することができる
住もうことは一つの確固たる位置を空間のなかにもつこと,つまりそこに属して根付いていることなのである。
しかし人間がこの位置にとどまりここを快適と感じるためには住もう「場所」はさきに我々が「体験されている空間」の自然な中心点,--]そこにこの空間のすべての道が関連づけられている
「人間と空間」オットー・フリードッヒ・ボルノウ

この本では家のことを哲学的に考察している,これは一読の価値がある
自分は実際はこの家に住んでいたとはならなかった,なぜなら家族が住んでいると自分の住んでいる場は割り当てられた部屋には住むが全体に住むということはない
自分の家で特徴なのは広い廊下と奥座敷だったからである。

家とはまた新しい家と旧家とは違っている,古い家には50年としても歴史がある
代々住むとなると家には歴史がある,一代だけでない何代かの記憶が家に詰まっているから違っているのである。そこに家の重みが生まれてくるのである。
だから原発事故など避難されて家を失った人達,大きな家に住んでいた人達がいたしその精神的損害が実際は大きなものだったのである。
それは家というものだけではない,それに付随する精神的なものを失ったからである。
故郷を失うということもそうだったのである。

2017年12月19日

安らかなことが家では一番大事 (恨みが残された家には災いが起きる)


安らかなことが家では一番大事

(恨みが残された家には災いが起きる)

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冬の雲四五片垂れこめ田舎町

我が家に安らかにあれ七十年嫁ぎて死にぬ母の見守る

我が姉の自慢したる柱かなそを受け継ぎ家を守りぬ

我が家に幸のあれかし恨まれず終わりに和して安らぎにけり

田舎を象徴しているのが,この四五片の冬の雲だった,なんか陰鬱であり街にたれこめているのである。
そのあとはいろいろイメージするのが写生俳句である。

ここ十年は介護とか自分の病気とか犯罪にあうとか災難つづきだった
他のサイトでも書いてあったがカルマの清算時が来てそうなった
カルマは本当に厳しいものがあるし逃れられないものがある
人は誰しもカルマを積んでいるが自覚できないのである。
知らずにカルマを積んでいるのである。それが周り回ってくるのである。
ただ苦しみとして現れたとき自覚するのである。

何か自分はずっとこうして家のたとに追われていた,三十年間は家にいても楽だった,何もすることがなかったのである。それが介護になり追われるようになったのである。
家族がみんな死んだがやはり以前として家と格闘している感じになる
毎日家のためにすることがある,新しい石油ストーブを買った,大きなもので作業している人などが使う丸形のものである。

どうしてもあたたまらないので部屋全体をあたためるために買った
でもこれは石油を前より倍くらい使う,そして石油を缶で入れるのではないのでかなり]あふれてこぼしてしまったのである。このれも後始末も大変だった
次に絨毯を敷いたがそこにも鍋物をして油をこぼしてしまったのである。
何かこういうことが家事では結構ある,道具でも慣れればそういうことはないのである

今日はあと自転車屋に三千円でクリーンセンターにもってゆくものを頼んだ
大きなテーブルとブリキ制の衣服入れだった,車がないのでこうしたものをもっていけない,処理する車が来るが高くとられるので頼めないのである。

いづれにしろ家族が死んで感じたことは説明しようがないものである。
何かほっとするとか安らかに感じるのである。
認知症になった姉のときは家は大混乱した,でも意外と早く死んだ,そのあとすぐまた母の介護だったのだから二人が同時に介護になっていたらもうもたない,共倒れになっていた,自分も病気になりそうなっていた,そこをきりぬけて楽になった

そして不思議なのは家にいても安らかに感じる,死者も安らかに感じる,死者も別に恨んでいないからである。
それで呪われた家とか本当にあるのだと思う,自殺したとか殺人事件とか何か嫌なことが起きた家に住んでみたら悪いことが起きるというのはあながち迷信でもない
何か成仏しない恨みを残した人の霊がさまよっているのかもしれない
そんなこと自分は今まであまり考えなかった

でも家族死んでみて安らかに死んでいない人はそういう家では何か悪いことが起きる
それは理屈ではない,そういう物の怪を感じるのだ,一方で安らかに感じるときはその家は一時的に悪いことが起きたのだがそのカルマが清算されて浄化さされてそうなったのかともなる,遺産相続とかにはそうしたカルマの清算が起きると他のサイトで書いてあったが本当だと思う,カルマを清算させるために苦しみが災いが起きてくるのである。
最悪になると富岡八幡神社のように凄惨な結末になる。
金があまりにありすぎるのもその家にその団体とかにはカルマとなっているから吐き出さないと凄惨な事件も起きてくるのだ

親戚の女性の親は恨みを残して死んでいった,自分の家ともつきあいがなかったが母の実家は不和分裂の家だったのである。そしてあんなに凶暴な女性と変化したことに驚愕したし憤りを越えて恐怖だった,何かとりつかれたような形相になっていたからである。
人間は恨みとかで悪霊とかに取り殺されるということもありうる

怨霊信仰があるのもうなづける,なぜ怨霊を恐れるのか?それは良心が傷むから恐れるのである。何かやましいことがあるから恐れのである。
それは家族の間でもある,家族でも恨んで死んだ人は結構いるのだ
親戚の人はそうだった,事情は複雑でも一番世話した母親は恨んで死んだからである。
ただ一緒に住んだ家は空家であり誰も住んでいないし一緒に暮らしたこの街にも住んでいない,一年に何回が墓参りにくるだけである
でもその墓参りでも苦しいくなるかもしれない,あんな凶暴化した女性だからすでに何かにとりつかれたような恐怖を感じたからである。

その家が安らかな状態にあるかどうかは本当に大事である

なぜそうなのか?そうでないと災いを受けるからである。そういう家にかかわると災いを受けるから見逃すことができないのである。
もしそういう家に家政婦でも金をもらえるからと雇われると危険になるからだ
その家から発する物の怪が怖いのである。

これは別に人を脅かしているのではない,自分は家族を看取って感じたことだから言っている,自分が安らかに感じたから死んだ後でも何か家には影響するものがある
物の怪として家にいる感じになるからだ
こういうことは精神的なものだから説明しにくいのだ,安らかな気持ちになっている
それはどういうふうに安らかなのとなるとそれは死者を見送り死者が安らかにいるという感じなのである。そこに恨みをもって死んだりしたらそうはならないのである。
そうした家には圧迫されるようなもの平安はないのである。
だから家とは人間にいろいろに影響する場だなとつくづく思った
家はただの人がいて寝起きする箱ではない,いろいろな人間的に精神が作用してくる場なのである。

2017年12月20日

丸森の春(詩と俳句)


丸森の春(詩と俳句)

丸森の全体的な写真

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桜花夕日に映えて山の里

春の暮水面に夕日映えるかな

鶯や岸辺に鳴きつ日の暮れぬ

川岸の砂地に春の日碑の古りぬ

蛇行する流れや遠く春の暮

丸森に河口想うや春の暮

丸森の峠越え去る夕桜

(金山城)

山吹や峠を越えて丸森へ

木の根古り石垣残りシャガの花

橋渡り水面に秋の夕日影

川下りいわれの石や秋の暮

石の風呂栄し家や冬の暮


丸森の春

新地より峠を越えて丸森へ
広らかに流れる阿武隈川
その岸辺の砂地碑の古りぬ
春の日さして我がそぞろ歩めり

川は悠々と流れゆく
その長々とした川も遂にかなた
波立つ太平洋にそそぐかな
港に船や海にい出るも

金山城の石垣古りて残りぬ
伊達と相馬の攻めぎあい
城主も変わり境の城かな
蔵王はなおも厳しく雪に閉ざしぬ

流れの岸に謂われを語る岩々
船は下るや岸に鶯の鳴く
橋を渡りて丸森の街並
斉理屋敷の栄えし跡かな

丸森を去るやまた越ゆ峠かな
伊達と相馬の境かな
夕桜の色濃く心にしみぬ
我が通いし道の親しも

写真を見ればわかるけど丸森は地形的に景観的に魅力がある,山間を阿武隈川が流れてくる,その山の向こうに厳しく威厳のある蔵王が聳えている,春でも雪が厚くとおっている新地も景観的に海と山が迫りいい,丸森は阿武隈川と山々と蔵王が映えるから景観的にいい,新地の峠を越えると景観が一変するのである。

日本では川というと短いし船も行き来しないから川が景観として映えない
外国では川がなければそもそも文明すら起こらなかったのとは大違いなのである。
ラインは父なる河というときそうであり四大文明が大河から生まれたのでもそうである。川なくして文明もありえなかったのである。川が文明を作ったのである。

阿武隈川はそれなりに長いし大きい川としてある,だから丸森辺りでは舟下りがあり楽しめる,川では東北では阿武隈川とか北上川とか最上川がある
阿武隈川でも一応船運があって荒浜に出て江戸へ物資が運ばれた,でもそれほどでないから知られていない,阿武隈川とかでも途中船の通りにくい場所がありそこを工事したので有名になる,最上川だってそういう場所がある,日本の川は外国のように舟運に適していないのである。

ただ丸森辺りから川は広くなってすでに海が近くなっているのである。
丸森まで来ると海も近いなと感じる,でも亘理からでも河口まで自転車で行ったが遠い,相馬市から丸森までも自転車で行けばそれなりに遠い
でも自分は何度も丸森には行ったのである。
最近の発見では森の中へ入る川がありそれをさかのぼった処は秘境だった
そしてその森の中に入って出れなくなったのは恐怖だった
それだけ丸森は地名のごとく森が広く深いのである。杉林だけどその木材資源は江戸時代から豊富だった,それで米沢藩と伊達藩と相馬藩でその木材資源をめぐって争っていたのは有名である。

丸森は石でも有名であるがそこまで自分はわからない,丸森は地形的にまだわからないところがある。だからこそ森に入る川がありそこに秘境を発見したのである。
秘境は飯館村にもあった鹿島にも橲原(じさばら)を上った奥にある,そういう場所がまだこの辺ではあるし他でもあるから外からきたときそういう場所には入りにくいのである
ある地域を知るときたいだい常磐線とか六号線にそって行く,でも福島県は会津まで横断しないとその魅力がわらないのである。福島県はそれだけ広いかである。
ただ六号線にそって行くと行きやすいから自転車でも飯館村とか丸森の方へは行かない人が多いのである。
ただ最近は六号線を自転車で通れないから飯館村とか遠回りして行く人が増えた
でもあの八木沢峠を自転車で上るとなると辛い,電動自転車だと上れるからいいが人力となると容易ではない,そういう処があるので自転車旅行は問題なのである。

いづれにしろ自分は丸森へは何度も坂を越えて帰ってきた,それが記憶となっている
それは自転車で行き来したからそうなっているのである。
自転車だと坂が記憶に残りやすいのである。あそこを苦しいけど上ったなとかが記憶として残るのである。丸森はあの峠を境に景観が一変するからそれが魅力である。

丸森の秘境へ