2017年12月01日

森の変容(transformation of the forest)

森の変容(transformation of the forest)


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介護の後に燃え尽き症候群 (人間は最後まで協力して人生を全うすることが大事)


介護の後に燃え尽き症候群

(人間は最後まで協力して人生を全うすることが大事)


近所の、認知症で透析しているじいちゃんの世話を 
長期間してた娘さんが 
じいちゃが亡くなって一年後にガンで亡くなった 
自分の体は後回しになったらしい 
それ以来高齢者の透析はどこかで線引きが必要と思うようになった

脳梗塞で倒れ、幸いにも軽くて医師からは頑張ってリハビリすれば
また歩けるようになりますよ、と言われたにもかかわらず、
真面目にリハビリしないで結局は車椅子生活に。

その分、老々介護で母の負担は重くなり後に母の寿命を縮めた、
せめて周囲に感謝の一つも述べてくれたらと恨むことがありました。


介護をやりきった後の燃え尽き症候群

介護を最後までやり遂げることに全てを捧げてきた為、介護が終わった途端、人生の意味や目的など、生きる指標を見失い、燃え尽き症候群のような症状から鬱状態になってしまうのです。

燃え尽き症候群はバーンアウトともいい、やる気を高く保っていた人が突然のようにモチベーションややる気を失ってしまう心の病気です。
燃え尽きてしまうと、何もやる気が起きず虚無感を感じたり、自信がなくなったりします。


介護を十年間したけど何か消耗した,燃え尽き症候群になった,まず外に出たくない,旅もしたくないとかなった,これは別に介護のせいではない,年のせいもある
でもこれだけ旅したのにしたくない,それはやはり旅するにもエネルギーが必要だったからだとなる
旅を後押ししてくれた家族がいたことで自由に旅できたのである。

介護の後に病気になったとき寿命を縮めたとかあるのもそうである。自分は介護中に病気になったからひどかった
その時助けるものは一人もいない,ただその病気とか弱ったことをいいことに借金とかその他犯罪にあっただけである。
そういうことをプログで書いてきた

介護はそれだけエネルギーが奪われる,介護が無駄とかではない,介護でも意味があるし自分の場合は意味があり恩返ししたから良かったと書いてきた
ただ介護でエネルギーが奪われてその後に病気になったり寿命を縮めたりすることはある介護の問題は一年とかではない最低で5年でありさらに十年でも普通にあるのだ
その長さの故にまいってしまうのである。

ただ介護から死の看取りとか供養とかを経験すると自分の場合は介護が終わり死んでから感謝している,感謝の念が深まっている
介護は確かに力を奪うのだが自分は親に特別良くされたから違ったいた
そして親の一生はあとあとまで影響する
親がまともに生きず死んだら子供も親を供養しないし墓参りすらしなくなる

自分の場合は親が生きたことかは生きる励ましとなっている,苦労して良く生きたなとか自分のために尽くしてくれたなとかなって死んでから生きる力を与えているのである。
だてから供養もしている,ただもし自殺していたりしたら後味悪いものとなった
母は腰が曲がったときそういうことがあった
でもそれから別に腰が90度曲がっても10年は生きて百才で死んで往生したのである。

だから事故とかで死んだり何か人生を全うしないで死んだ者は生きる励ましとならないだろう。別に平凡な人でもそれなりの人生を全うすれば子供でも後の人にも評価される
ただ不遇に死んだ人,昔だったら肺病で死んだとかなれば同情される,供養される
それは時代だからしょうがなかったのである。

そして夫婦だったら夫婦を全うすることが後の人にとっても子供にとってもいいしそうした家がつづくのかもしれない,家というのは離婚したりして夫婦が別々になるとめんどうになる,その家に繁栄はなくなる傾向が多い,まず離婚してシングルマザーになっている人も今は多いが苦労が多くなるし豊かにはなれないのである。
夫婦が協力しない家で豊かになれるとは思えないのである。

自分の家は複雑であったが両親ではないが二人の女性が争いつも協力した結果,ある程度の財を築き豊かさをもたらした,そして最期は悲劇であり分離したがそれは認知症という病気のためだったのでしかたがなかった
ともかく自分の家は二人が協力したからたいしたことはないにしろ財を築いたのである。
離婚した人は豊かになっている人はまれだろう。一人だけでは人間は協力しない限り豊かにはなれないのである。
だから結婚の誓いで

「新郎(新婦)となる私は、新婦(新郎)となるあなたを妻(夫)とし、良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います。」

死が二人を分かつまでとあるがここが大事なのである。それで夫婦として生を全うしたとなるからだ,それは子供にも良い影響を与えるのである。
結局今は三分の一が離婚するのだからここが一番大事なのである。
そうすると後の人にもいい影響を与えるのである。

自分の家はともかく60年間一緒に生活していたことで最期は悲劇に終わったが遂に死んで二人は結ばれ家族は一体となったのである。
普通だったら分離していたしそうならないのは特別なことだったのである。
だから自分にもいい影響を与えたのである。

母の実家はみんな分離して分裂している,後継ぐべき人が弟だったが姓が変わり墓は別になったのである。そしてまたその実家に埋葬した自分の異父の兄も今度は自分の墓の側に供養のために墓標を作る
何かこうして母の実家の墓はその後ももめているのも分裂しているのもそうした家族だったから争い分離する分裂する家族だったからそうなったとなる
墓参りは一人ではなく何人かでした方がいいというき第一そうしてその後もまとまらなくなる,不和分裂の家だからその後も墓を守るべき人もそうなったのである。
その仔細は前にも書いた

協力しないことは家だけではない地域でも国でも栄えることはない,不和になり分裂して争いになるとその団体でも組織でも地域でも国でも衰退する
それは南相馬市は原発事故の補償金でもめて争いになったことでもそうである。
そのために協力できない,その影響も大きかったのである。
そういう市は自治体は栄えることはむずかしくなる
だから争わないようにすべきだったができなかったのである。
市でもそういうことを念頭に置き対策すべきだったがしなかったのである。

明治維新でも内戦になり日本が二分したら外国が侵略してきて日本は二分されて衰退したそれをなんとかくい止めたから繁栄もあった,不和の影響は大きいのである。
だから天皇があって日本がまとまるというとき天皇の役割が日本では大きいともなる
天皇も批判されるが日本をまとめるものがなくなったら分裂して外国に侵略されるからだだから聖徳太子は「和をもって尊しとすべし」となったのである。

いづれにしろ介護から死から供養は一連のものとしてあった,供養は疲れないが介護でも死の看取りでも疲れる,消耗が大きいのである。
二人を介護して看取りしたことでエネルギーが消耗したのである。
自分の場合は病気も回復したから良かった,母の介護はオムツもしないし他より楽だった最後まで一週間前まで自宅でポータブルトイレに行っていた,オムツはしなかったのである。そして病院に入院して一カ月くらいで死んだのである。
5年間くらいは介護したが母の場合は楽だった,姉の場合はひどい認知症で介護するのも大変だったが二年半であっけなく死んだのである。
そういう点で一人で悪戦苦闘したが楽な面もあったのとふりかえるのである。
そして今では二人に感謝して供養している,恨むことも自分の場合はないのである。

2017年12月02日

変貌した右田浜,海老浜 (もう右田の松原は記憶の中にしかない)


変貌した右田浜,海老浜

(もう右田の松原は記憶の中にしかない)

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海老村に植えられた松の苗?


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右田の松原があったとき飛んでいた揚羽蝶


右田浜の松原はいい松原だった,でも右田の松原はいつの時代に作られたのか不明なのである。
「海からの夜明あけ」(新開ゆりこ作)では太平洋のことを書いている

天保13年(1842)にいよいよ相馬の海沿いに住む百姓たちの願いが実り防潮林の植林がはじまった,藩では植林奉行の下に各代所や陣屋ごとにお係を定めた
金沢浜から小浜まで三里の浜に東西南北二十列づつ四尺五寸おきに黒松を植えるという

ここに松を植える苦労が書かれている,これは資料があって書いたのだろう
江戸時代から松原は作られていたのである。
でも不思議なのは右田浜のことは書いていない,右田浜の松原は津浪の前まで残っていた金沢の松原も残っていた,ただ金沢の松原は火力発電所が建ってなくなった
その松原があるときを自分は知っていた,いい松原だった

萱浜の方にも松原はあった,しかしなくなった,ただ右田の松原は残っていた,その幹は太いから古いのである。松川浦にも松原があったが幹が細いから新しいのである。
だから右田の松原は景観的にも良かったしいい松だったのである。
それが根こそぎ津浪で失った,今や何も残っていない,その後に台地にして植林したからまた木が育つ,でも最近また景観が変わった,大きな風車が二つできていた
三つ目もすでに建てている,これも景観の大きな変化である。
辺りはすでに一面ソーラーパネルである。火力発電所の煙が出て風車がまわりソーラーパネルの景観になっている
そこに植林したがもうそこは前のような景観にはならない

ただ海老浜で集落となっていた所が津浪でなくなった所にやはり松の苗だと思うが植えられていた,あそこだと景観的にはいいかもしれない,ソーラーパネルもないし風車はそこにはないからだ
何か自分は常に景観を気にしているのである。景観が乱されると嫌なのである。
でももうかつての景観はもどらない,全く別の景観になってしまったのである
右田の松原はただ思い出のなかにあるだけである。
それも五十年とか百年すぎたら全くそこに松原があったかもわからなくなる
こんなに自然景観のうよなものまで変わることは想像もできなかったのである。
ただ松は津浪には弱かったのである。稲を作るための防潮林としては良かったが津浪には松は弱かった,根を強く張らないからである。
松原は実は自然景観と思っていたが自然を破壊した景観だったのである。
松原でなかったら他の木が植えてあったら木は残っていたかもしれないのである。
どこでも松原は根こそぎ津浪では消失したのである。


松原の潮風防ぎ
稲の実りもたらす
右田浜,その松太く
夏なれや影なして
海風涼し我が休む
冬なれや荒れにし波に
船ゆられ漁をするかも
松風鳴りてすがし
その松原の今はなしかも

右田の松原は本当に記憶の中でしかありえなくなった,でも年数がたつと記憶している人も死んでゆくとそこに松原があったということがわからなくなる
記憶としてもっている人はいいがそうでなくなるともう右田の松原は誰もそこにあったということもわからなくなる
松影と松風とかが鳴りそこはこの辺では一番いい風致を作り出していたのである。
それが一番残念だったとなる

ともかく八沢浦が津浪で本当に海になったとか入江になったとか写真を出したときは批判された,お前はここで子供が死んで泥から掘り出されたのだと批判された
それもわかるのだが何か自分は常に景観を一番大事にしている
景観を破壊されることが耐えられないのである。
だから八沢浦でも海だったときのことを入江だったのことを頭の中で想像していたのである。でも実際に津浪が来て現実になったときほど驚いたことはない
それは奇跡にも見えたのである。

つまり自分が想像する以上のものが生まれたので驚いたのである。
自然は人間の想像を越えるものとして現れる,人間の想像しえないものとして現れるのである。
つまり松原が破壊されたものそうである。こんなことになるなど想像すらできなかったからである。そういうことがこれからも百年二百年後に必ず起きる
想像もできない変化が現れるのである。
posted by 天華 at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2017年12月03日

自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する


自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する


我が街の家の墓地への情をつづる (文語体で記す)

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姓が違ってる墓は明治時代まであった,家が有力なものだったら嫁いでも姓を名乗ったとなるのか?

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捨てられた墓



不詩朗謡

不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい

これもなぞである。最後の字はわかりにくいが不詩朗は読める。朗は名前だと思ったが違う。
朗謡-朗詠かもしれない、ただこれが何を意味しているのかわかりにくい、詩にしないで朗詠しなさい、暗唱しなさいなのかとなる。詩文にしないで暗唱して覚えなさいということなのか?
推測すると天保となるとまだ庶民では字を書けたり読んだりできる人はまれだったろう。
字が書けたり読むことが普及したのは江戸時代後半、特に幕末辺りに寺子屋が増えて読み書きができる庶民が増えたのである。ここは一つの寺子屋のような役目を果たしていたのかもしれない、暗唱することに学びの重点があったからこのような戒めの碑を建てたのだろうか?他に儒教が普及してそうした戒めの碑がほかにあったようだ。南相馬市鹿島区の

町内の墓地の碑の謎

これは前に書いた街内の墓地のことである。鹿島御子神社の隣にある,ここは神社の領域だったが寺ができて神宮寺になった,そういう所は全国でも多い。
ここにこの碑があるのは寺子屋があったからだろう。

      1772年安永1年壬辰11月16日改元 
  1773年安永2年癸巳  
  1780年安永9年庚子  
  1781年天明1年辛丑4月2日改元 
  1788年天明8年戊申  
  1830年天保1年庚寅12月10日改元 
  1843年天保14年癸卯  
  1844年弘化1年甲辰12月2日改元 
  1847年弘化4年丁未  
  1861年文久1年辛酉2月19日改元 
  1863年文久3年癸亥  
  1864年元治1年甲子2月30日改元 
  1865年慶応1年乙

ここで一番目立つのは大きな安永時代の碑である。

光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら  はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)

空海の密教の祈りの塔だった,空海を祖師とする仏教である。
明治維新がすでよら百五十年前とかなりそれから百年前は安永である。その安永から天明になった,その時この辺は天明の飢饉で三分の一に人口が減ったのである。
なぜ自分の家のすぐ近くの神社にも天明の碑があるのか?
なんらか町内でも天明の飢饉の影響があった,その記念のためなのかもしれない。

天保となると明治維新に関係し人達が生きていた時代である。だからかなり身近なのである。
今回発見したのは「弘化」と刻まれた墓である。小さな墓である,僧侶の墓だろう。
僧侶の墓は多いし残りやすい,文久の墓もあった,ここは密教系の寺がありやがて廃寺になり墓地になった,だから相当数の骨が埋まっている場所である。

ただ墓と碑は違う,暗唱せよと記したものは碑である,記念碑とか戒めの碑である。
人が埋まっている墓とは違う,戒名とか記されていれば墓である。
鹿島神社があり鹿島町と前はなっていた
そしてこの辺で一番古い家は南北朝時代に霊山から逃れてきた只野氏なのである。
その人の墓は寺の内にあるというのもわかる
しかしここももともとは寺であった,そこに墓地もあったとなる

いづれにしろあそこの墓は狭いし入り組んでいる,でも古い墓地だったのである。
そしてまた人が死ぬから墓が増えるのだからあそこはもう増やせないのである。
墓が残っていても供養しない墓もあり墓が無縁化したものが集められている場があった
墓の墓場が増えているのも昨今である。
墓が個々人とか家の墓とか維持するのが現代はむずかしくなっている
だから共同墓地化するのがいいのかもしれない,例えば十人でも埋まっている墓があればその子孫の誰かがお参りするからである。そこは墓として維持できるからである。

母の実家の墓を三百万もらって墓を維持してくれと頼まれても無理である。
そんなことを背負わされなくてつくづく良かったと思う
なぜなら墓というのはその家の因縁とか負の部分も背負うことになるからだ
それを代々背負いつづけるのも容易ではないからだ
だからいづれは絶えてしまい墓を処理することが大変になるのである。
自分は兄の骨を母の実家に埋めたのでお参りしていた
それがめんどうになったのである。隣の街ですらそうなのだからもう離れていると墓も疎遠になりやがては捨てられることになるのである。
だから原発避難区域では移動した場所に墓も移すようになるのである。

人間最後に残すは残るのは墓だけどそれも忘れられる,もうただ墓だけが残りその人がどういう人だったのか何もわからないのである。
ただ暗唱せよというのは碑であり墓とは違う,それは記念碑であり死者を供養するものではないからだ,だから墓石屋が兄の墓を碑と記せといったのは間違いだったのである。
忠魂碑とかあるがそれも死者のことではない,記念碑なのである。
そして今は何か変わったデザイン墓があるがあれもその人の記念碑のようになっている
墓とは違う感じになる,何かその辺の混同が起きているのである。
時代と共に何でも変わるから墓も変わってもしかたがないがやはり墓と碑は違うのである
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この墓は僧侶の墓ではない,居士とは僧侶に準じる人とあるが僧侶ではない
ただ院とは記していないが院があり道があり戒名があるからそういう位がある人だったとなる,大姉もそうである。ここでは男性二人に女性二人が記されている
なぜ四人も一緒に一つの墓なのか?紋も記されて立派なのである。
これはいつの時代なのかわからない,江戸時代なのか,明治時代なのかわからない
ただ四人も名前が記されているのはなぜなのか?そこに何かの因縁があってそうなった

忘れらる墓また一つ我が墓地に見いだしあわれ冬の日暮れぬ

posted by 天華 at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

冬の俳句十句(冬の南相馬市を回る) (常磐高速のセディティとは何の意味なのか?)


冬の俳句十句(冬の南相馬市を回る)

(常磐高速のセディティとは何の意味なのか?)

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貨物船一二艘行く冬の海

貨物船進むも遅し冬の雲

海近し冬タンポポや浜通り

朝日さし梢鋭く冬の樹々

落葉踏み深野の墓地牛のいる

木の葉散り深野の墓地またたずぬ

深野の墓地に枯木の影静か

冬日さし一村の墓地またたずぬ

高速のセディティに休む冬の空

晩菊の土地に根付きし暮らしかな

冬薔薇二輪のみかな闇つつむ


松の苗津浪の跡の海老浜に植えて育つや冬の日なりしも

忘れらる墓また一つ我が墓地に見いだしあわれ冬の日暮れぬ


昨日は右田とか海老浜に行った,海老浜からは太平洋を望み貨物船二艘ほど見えた,ゆっくりと進んでゆく,
今日は山の方に行き常磐高速のセディティ鹿島に寄った,意外と近い所にあった,
自転車でも行きやすい場所だった,車をもっていないと車のことがわからなくなる,
それは社会のことがわからなくなることなのである。

場所がわからないので深野(ふこうの)から鹿島の方の小山田に遠回りした
深野(ふこうの)は何か不思議な場所の魅力がある
深野(ふかの)ではないふこうのということが地名としていいのである。

そして台地の上の墓地は古い,落葉していて踏むと牛がいた,この辺は牛を放射能で飼わなくなったが最近また牛を飼っている家がある,もともとあそこは牛を飼っていたのである。
何かそれが墓地とマッチしているのも不思議である。
牛がいると何か精神に影響する,どっしりとした気持ちになるから不思議なのである。
牛がいるといないでは田舎でも違ったものとなる
飯館村は牛の村だった,牛がなければ飯館村ではなかったのである。
だから飯館村は田んぼも土が削り取られたりもうかつて村の様子ではない
無惨な村となった悲劇である,それは自分にとっても大きな損失だったとなる
精神の安らぐ場所としてあったからである

浜通りはあたたかい,昨日は寒かったけどタンポポが咲いていた
海が近く海の影響を受けやすい,だから津浪もあった
一方山も近いのである。山は低いが飯館村となると高原であり標高が高いのである。
だから飯館村に行くと空気も変わる,何かが違うのである。
そして一軒一軒の家が森につつまれている広い土地なのである。
常磐高速ができたら飯館村にも回る人が多かったに違いない
今は行っても放射能汚染のフレコンバッグとか田んぼもない風致も損なわれた
それが残念だったのである。

sedate(セディティ)

sed- 座ること・腰掛けることを表す印欧語根(sit)。語幹sessを持つ語(assess, possessなど)、reside, sessionなどの由来として、座ること、据えること。

この言葉が何なのかわかりにくかった,鎮座するという日本語を機械翻訳したらこの言葉がでてきた

鎮座するというときsed- 座ることだから通じている,鎮静するという意味でもある

 北風(キタ)唸る−残る雪(真野ダムへ)

真野川に鎮座する石がこれだった,これは見えにくいから気づきにくいのである。
地元にいてもわからなかったのである。隠されるようにあったからである。
何か電動自転車をセディティに置いて真野川を上る観光計画があるという
電動自転車だと坂を上りやすいからである。
その時この隠された石を見るべきだともなる

セディティとはこの石のことなのである。cool sedate stoneなのである。

ともかくこの辺は本当に変わった,津浪や原発や常磐高速などもできて変わった
何かかえって都会化したのである。
常磐高速の影響は鉄道より大きい,人の出入りがここの方が断然今は多いからである。
自分は車をもっていないから車のことがわからないから今の社会から取り残されているのである。逆に自転車だと風景と一体化するから俳句でも短歌でも作れるとなる
車は遠くに行くのにはいいが景色をゆっくり見ていられないのである。
運転に気をとられるから景色が見れない,ただ常磐高速で一回くらい東京に行ってみたい高速道路から見える景色はまた違っていたからである。
ただそのバスが出ていても普通のバスであり四時間も乗っていたら疲れる
そういう気力がなくなってしまったから長い旅行をしていないのである。




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2017年12月04日

老後は減らす生活を目指す (物を買わない,新しい物を買わない)


老後は減らす生活を目指す

(物を買わない,新しい物を買わない)

●スマホはやらない
●ノートパソコンは買わない
●動画はやらない
●印刷はコンビニで
●なるべく物は減らす
●物をなるべく買わない
●新しい本もなるべく買わない
●なるべく何回も同じもの読んだり見たりする
●生活をシンプル化する
●野菜果物は買う

スマホは本当は今の生活では不可欠である。でも老人には目に悪いし疲れるからしない方がいいともなる,パソコンはずっとしていたからしてもいいがスマホは別である。
ノートパソコンもこれも旅行したりすると必要になったりするがそれもめんどうである。何かノートパソコンを三万で買ったが故障して使えなかった

動画をとろうとソニーの日ビデオカメラをアクションカメラを四万で買ったがこれも使えなかった,実際はこのカメラは不良品になっていたのだ
ASUSの三万のノートパソコンも壊れやすいものだったのである。

印刷するにしても意外とめんどうでありインクが消耗してコストがかかる,するとコンビニで10円でも二十円でも印刷した方がいいとなる
機械をもつことが意外とコストがかかりめんどうになる
つまり印刷などはかえって個人でするより自動でも装置がついている場でするのがいいとなる,それは相馬市にあるが遠いのでできないので残念なのである。

自転車でもロードを買ったがこれも早いので危険なことを知った,だから必ずしも老人には向いていない,安定しマウテンバイクの電動自転車の方が向いていた
老人にとって危険なものがかなりある,使いたなせないものがかなりあることがわかった
本でも電子本でも読める機械を買ったがこれも読みずらかった,要するに便利でも使いこなせないという問題が老人にはある
新しい本と古本を集めたがこれもみんな読めない,読む気力がつづかない
そして忘れやすい,だから買ったとしても何度も読んで脳裏に刻む,記憶するのがいい
それはテレビでもインターネットの放送でもそうである。
その点youtube は何度でも見れるからいいのである。一回限りでは頭に入らないからである。

新しいものはなるべく買わないようにした方がいい,本でも古典的なものを何度も読むのである。百回読んでもそういうものは糧になる,ヘルダリーンの詩などは最近読んでそうだった,他にいろいろな現代の詩などは読まない方がいい
ただ今まで研究してきた分野では資料とか本はそろえている必要がある
でも新しい分野のものは買わない,買っても読めないし理解できないからだ

ともかく老人は消費意欲が衰える,消費できないのである。
そして教訓として

あきらめてシンプルに生活しろ

いろいろ買って何かを身につけようにもできない,だから何でも買うというのもあきらめることである。このあきらめるということが大事になる
もういろいろなことはできないからだ
自分は家事を全部しているとそれだけで手間になるからだ
野菜とか果物は健康のために食べていた方がいい,なぜなら老人にとって健康が最も大事なものだからである。

本当は株とか投資信託とかもすべきではないのかもしれない,つまりこれも理解できないからである。基本的なことすら理解できないのである。
若いときからしていれば経験で理解するがそれができないからである。

老人にとって大事なのは本当はいくら利子がつかないにしろ理解できないものに手を出すのは危険である。つまりそうしたこともあきらめろともなる
実際は自分はしているがもうかっていないからだ

意外とこのあきらめるということは今までもしていない
それが老後にきて現実にあきらめざるをえない,しかしあきらめきれないのである。
物を集めたものが捨てられないでゴミ屋敷にもなるである。
何かそれはあきらめきれない結果としてそうなっているのだ

何か物をもっていることが老後は負担になるのである。確かに家があればいい,でも大きい家となると修繕がありまた金がかかる,それで仮設を今壊しているが建てるのも簡単だったし壊すのも簡単だなと見ている
大きな家となると壊すのにも金がかかりこの辺では事情かあって壊すのに二百万くらい市から支援されたのである。

ある人は体が動けなくなり家に住めなくなり車に住んでいた,そして這ってやっとコンビニに買い物に来ていたのである。家が負担になり住めなくなったのである。
家を放置して車に住んでいたのである。
家を維持することが負担になりそうなった,家すらあっていいようでも負担になる
あることが負担になる,九州くらいの土地が今誰の持ち主かわからなくなっているという山林などがそうなっていて困っている,利用するにも土地の所有者に了解をとらなければならい,でもその土地の所有者が無数にいて細分化して利用できないのである。
これもあまりにも明治維新後私有権を認めた結果なのである。

何かもっていること所有していることはいいことのように見えても負担になるのだ
ただ人間はあきらめきれない,いつまでも生に執着して延命してでも生きる
それが本能だからどうにもならない,でも老後はあきらざるをえない,だから生活をシンプル化することがかえって楽になるのである。
それは欲を減らすということが若い内はむずかしいが老後は欲を減らすことが強いられてもいるのだ

禅宗だと無一物だとか無欲を追及してきた,それが老後には強いられる
いろいろなものをもっていることが実際に負担になるのだ,最後は家そのものが負担になるのである。
もし簡単な仮設とかあばら家とかだったら未練なく壊すことができる
大きな家は未練が残り壊すのにも金がかかり負担になるのである。

ともかく老後はあきらめるということが強いられる,その前に自らあきらめるという生活をする,何か執着してもあきらめざるうえないからである。
そして生活をシンプルにしてこれまでやってきたこをやる,やれることはやる
写真を追及していたら継続してやる,でも動画となるとめんどうだからしないとなる
そういうふうにやれることとやれないことを明確にしてあきらめることが大事になる
これを書いたの自戒のためである。

2017年12月05日

人間の最後のメッセージ (人間が死んで残すものは何なのか?)


人間の最後のメッセージ

(人間が死んで残すものは何なのか?)


人間はみんな死ぬ,そしてどんな平凡な人でも何かを残して死ぬ,そしてその一生を残された人がふりかえるようになる,自分の家族はみんな死んだ
最後にやはりそれぞれメーセージを残したのである。

母の場合は認知症になり金のことがわからないのに金額まで指定して最後の力をふりしぼるようにして大声で自分に言った
それには驚いたので孫を家に泊めてその金を支払った

その金は金だけのことではなかったのだ,孫に母の気持ちを伝えるものだったのである。孫はいろいろ不孝だったけど母は孫を思っていたということである。
他に誰も孫を思うものはなくなっていたからだ

でもその孫は金が使ったとかでたらめな生活をしている,だから金をやってもその金は活きていないのである。
そして母が金だけでない,孫に伝えるものがあったのだ
孫の行く末を思っていたということである。誰も思う人がいなくなったが母は思っていたそのことを孫は受け止めていないのである。

人間が残すことは何のなのか?それは芸術家なら作品とかなる,でも普通の人でも何かを残してゆく,その人の人生そのものが後世に残すものとなる
母の一生は苦労の一生だったとかなる,ただ戦後は食べ物とか贅沢はしていた
楽な面はあった,戦前はみんな貧乏だったから母だけではない,大正生まれとなるとみんなそうである。だから一般的に大正生まれは辛抱強い人が多いのである。

人間はどんな人でも何かしら伝えるものがある,ただ自分の家のことだと関心をもつが他人の家のこととなるとわかりにくいから関心がもていないのである。
なかなか事情がわかりにくいのである。

母が最後に残した誰かだす草稿の手紙は宝物になった,家宝というとき物に注目するが実際はその家に残されたものは物とか財産だけではないのだ
何か家訓とか残る家はそれなりに精神的財産を残しているのである。
そういう家は栄えるとなる

いづれにしろ人間最後に残す言葉は重いものとなる,キリストの死はあまりにも壮絶だったのである。でもそこで最後の愛をその最大の苦痛の中で示したとなる
それは普通の人にはとてもまねできるものではなかったのである。

それは別として普通の人でも最後に残す言葉は重い,認知症になっても最後は正気にもどるというのも不思議だがやはり人間は最後になれば違うのかともなる
ただ無惨に死んでゆくものもあるからみんなそうとは限らない,ただ人間最後に残す言葉は重いものとなる

そしてそれは後世のものに家族なら遺族に伝え残される,人間はみんな死んでゆく
では何を残すのだろうか?財産にみんな注目しているがそうではない
その人の人生を後世に残す,でたらめな人生を送ったもの親でも家族は供養したりしなくなる,それはただ苦しめられた人でしかなくなるのである。

人間がどう生きるかは別に自分の人生だから自分勝手に生きればいいとはならない,別に平凡な人でもそうである。その子供に孫に影響するのである。
ただその子供にしてもそんなことを言ってもそれを重く受け止めないでいい加減に生きる人はいる,最後のメッセージでもそれを重いものとして受け止めないのである。

人間は歴史をもつというときそれは家族に歴史がありそこから何かを教訓としてくみ取り後世に伝えるということがある,だから歴史というとき何かむずかしいのだが家族にも歴史がありそこから親や祖父母の人生を知ることも歴史を知ることなのである。

自分の家族の歴史でも一人は離婚したて交通事故で若くして死に悲惨だった,確かに不遇だった,でも不遇だからといってそれがその人の人生を決めてしまうのか?
もし不遇な運命でもそれなりに普通でも生きたとなれば家族に残すものがあった
つまり不遇な人だと不遇を普通に生きただけで称賛すべきものとなるからだ

とにかく人間は最後からふりかえり考えると人生でもいろいろなことが理解しやすい,若いときなど無我夢中で生きているからわからないのである。
でも人生をどう生きるべきなのか?それはいろいろあるから個々人で別になるから簡単には言えない

でも何か不遇でもなんでも辛抱強くあれというのも基本的に生きることにはある
不遇でも辛抱強く生きろということが大正生まれとかの人からは学ぶのである。
今の人は文句ばかり言うことが多い,近くの障害児を六十以上まで世話した人はそのことについて他者には口を閉ざしていた
一方で障害者をもって人は延々と人にその不満を言う,だからなぜあの人は不満を言わなかったのか?ただ耐えていたのかとなる,それも普通はできないことである。

こうしてただ教訓を残すというとき楽な人生を送ったら残らないのも逆説である。
苦しいけど生きたというとき後世に残すものがある,子は親の背を見て育つというときもそうである。楽に過ごす親を見ていたら楽に生きるのがいいとなるからだ
苦労はしたくないとなるからだ,ただ苦労でもすべてがいいとはならない,母の場合は苦労ばかりで花でもなんにも興味をもたなかったからである。
だから索漠とした人生でありマイナスの面があった

母の三周忌は命日は十二月十二日である,これも一生90過ぎても忙しく働いていた母にふさわしかったなとなる

墓の変転する顛末 (墓も無常をまねがれえない)


墓の変転する顛末

(墓も無常をまねがれえない)

墓は分離してあると良くない,原町でも遠いとなる,なぜ自分の家の方に兄の墓を建てるのか?それは事情があってそうなったのだ,兄は自分の家の戸籍には入っていない
意外と戸籍に入る入らないかはあとあと大事になる
財産の問題にもなる,戸籍に入れなかったということはそれだけ入れたくなかったのである。ただ五年間は一緒に子供のとき同じ家で生活していたのである。
だから覚えているのである。

ところが母の実家で暮らすようになってからは行き来していたが一緒に暮らしていない
その家で一緒に暮らした女性がいたがその女性は兄を覚えていないというから不思議なのである。ただその女性は人格的に異常化して普通の人でなくなったからそうなったのか?

ただ実家の墓はその家継ぐ長男にあたる人が墓を守ってくれと三百万はらって頼んだのである。もともと実家で育った人だから実家の墓を継ぐべき女性だったともなる
ただその女性は実家の姓とは違ったものとなって墓も別にあるのである。
そして住んでいる場所が原町でとなく遠いから困るのである。
何か墓でも遠くなると管理しずらくなるからだ
要するに墓が実家の墓,そこから別れた姓が別になった墓,そして自分の墓がある
何か生前も不和分裂の家だったのだが死んでからもそうなっているのだ

墓が分離していることはやはりその家も分離しているのである。
その女性は狂気のように自分の家に来て別れもう会うことはない
結果的に自分は兄の墓を自分の墓の隣に墓標として建てる

なぜそうしたかというと近ければいつでも供養しているとなるからだ
毎日のように墓の前を自分は通っているからだ,そしたら墓もいつも一体であり死者とも一体だと気持ち的になるのである。

墓でも遠いところから墓参りにきている人がいる,良く仙台ナンバーはみかける,この辺では仙台に移り住む人が多いかである。
広域社会になると全国に散らばりすむようになり家族もばらばらになる
すると墓を守るのは誰かとなり継ぐ人もいなくなり捨てられるようになるのが多くなる

だから墓は立派なものを建てるべきではない,墓標のようなものでいい,そしたら十万もかからないのである。あとでかたずけるのも楽である。
それは家とにているのだ,大きな家は空家になったらかたづけるのが金もかかるしやっかいなものとして負担になるのである。

そして墓は共同的な墓の方がいいとなる,なぜなら十人が一カ所に埋まっていれば誰かが墓参りしてくれるからである。一家族だと絶えてしまうのが多くなるからだ
そして個々人の墓標を建てあとは取り払えばいいのである。
墓だっていつまでも残せないからである。
実家とか長男とかが家族の中心にあったときは家は維持できたが今はできないのである。

いづれにしろ兄の墓の顛末も奇妙なものだった,交通事故で死んだとき運送会社で墓を作ってやると言って自分の家ともめたのである。
その時自分は車をもっていないから事情がわからなかった,ここでも車をもたない人は今の社会がわからないのである。
保険金をもらいたくてそんなことを言ったのである。そして骨を渡さないとかもめたのである。その時妻とは離婚していた
なんでも乞食のような恰好をしてきたのを雇ってやったととかしきりに恩きせがましくいい,墓は作ってやるから代理人にしろということだったらしい
自分は事情がわからないので帰ってきたのである。

ただ兄はその運送会社に入って喜んでいたことは確かである。
仲間ができてその仲間と死ぬ前に仕事で自分の家に寄ったのである。
その時は喜んでいたからその運送会社の社長とか仲間が別に悪い人達でなかった
それは保険金が関係ないときである
人間は保険金とか大きな金になると目がくらみ欲がでて悪魔に変身するのだ
そういうことは世の常である,だから人間の欲は本当に怖いのである。

ただ正直なぜめんどうな問題に事件にまきこまれたのか?
それは自分たちの家のせいではない,夫婦が不倫したり離婚したり経済的に困窮したのは自分たちの責任ではないのである。

とにかく兄の墓がこんな事情で静岡で死んでそして母が骨をもってきて原町の実家の墓にうめた,そして今度は自分の家の墓の隣に墓を建てて供養することにしたのである。
実家の墓はたまに墓参りするにしても将来的には自分はかかわらないかもしれない
兄の墓ともなっていたので墓参りしていた,後は墓をまかせられた女性に託すほかなくなる,その責任は自分にはないからである。
だから墓を守れと頼まれるのも実際は難儀なことだったのである。


ともかく墓の物語は死んだ人の人生の物語だともなっていたのである。
ただ兄の墓を兄を知っているひとはいなくなった,ここで子供のとき遊んだ仲間がいてもそれも年取って忘れる
人間はみんな忘れられる,墓だって遂には誰の墓なのかもわからなくなる
そして捨てられる,その人のことを知る人もいなくなる
それが人間の無常なのである。墓地とは無常の場所なのである。
近くの神社の墓地でもそうである。
子供のときその墓の上で遊んでいた,そこは人が埋まった場所だったのである。

そんなふうにもうその墓に埋まっている人は誰も知らない,江戸時代の墓も多いからだ
ただ自分は墓に関心をもって調べているから江戸時代の年号が刻まれていると貴重だなと思うくらいなのである。
結局墓も無常をまねがれないのである。いつまでも残すことは何でもできない
だから立派な墓など作るべきではない,簡単な墓標で共同的な墓がいいとなるのだ
それなら壊すのも簡単だしまたその墓地は他の人が使うこともできるからである。

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小池の墓地に倒れた墓だがこれも誰も参るものがなくなりこうなった,もしこの墓をお参りする者がいたら倒れたままでなく
立てておく,ということは誰もお参りするものがなくてこうなったのである。
だから無常なのである。

お墓の処分は宗教的な感情対象物として「現時点ではまだ適切な処分規定は定まっていません。」産業廃棄物として指定できる自治体(市区町村)もあれば、地域の関係団体などからは「廃棄物として適当ではない」という意見もでている県もあるようです。

産業廃棄物の品目の規定や解釈は、各地方自治体に任せられておりますので、自治体によって相違することが多いためのようです。


墓は何なのか?それがわからないからこうなる,墓と碑は違っている,墓は供養するものである。碑は記念するものである。だからデザイン墓は墓なのか記念碑なのかとなる

なにかモニュメントのようにしている現代の墓は墓なのかという疑問もある

記念碑にするときは何かに功績があった人であり生前に自分の記念碑を作るというのも変なのである


なぜなら一旦記念碑でも墓でも捨てることがむずかしくなるからである。

ただ記念碑なら捨てやすいかもしれないが墓だと捨てにくいとなる


墓には骨がなくても霊魂が入っていて供養する対象としてあるものだからである。




タグ:墓とは

2017年12月06日

力を与える死者(詩) (人間の命や人生は自分だけのものではない)


力を与える死者(詩)

(人間の命や人生は自分だけのものではない)

母の面影
時にして浮かびぬ
その残せし家に
石一つ
目立たざるも
辛抱強き人かな
かつて姉はおおらかに笑いぬ
母はやさしく微笑みぬ
我はこの家にはぐくまれしも
母こそあれ
姉こそあれ
今我を思う人の一人だになし
何故か責めらるのみ
冷たき無情の世よ
時にして浮かびぬ面影や
姉死して八年
母死して三年
時はたちまち過ぎゆきぬ
我はなおこの家にありて偲び住む
今年もはや暮れんとす
力強く生きた人
誠を生きた人
辛抱強く生きた人
その人は死んでも
家の国々の霊となり
国々を見守りぬ
死者はその家の人とともに
国々の人と共に生きている
そういう家は国は強い
力は祖先からも与えられる故に
力は神から天から地から与えられるもの
汝一人にしては成せず
力は与えられものなれば・・
姉はおおらかに笑いぬ
山のごとしかも
母はやさしく微笑みぬ
石のごとしかも
二人は我を支えにしを・・・


感覚を鋭くすれば、亡くなった愛する人があなたに寄り添ってくれるのを感じることもできるのです。

そういうことは確かにあるのかもしれない,何か面影が浮かんでくるというのもそうである。つまりそこにいるような感じである。見えないがいるような感じである。
自分の場合は六十年間一緒にいたということの影響が大きいのである。

死者とは何かというとき死者とはその人の生前の継続として死者がある,死者となっても全く別なものに死を境にしてなるのか?
人間は死でもってすべてが断絶するように思う
死が骨と灰にしてしまうからである。するとどうな生き方をしようと金持ちであれ貧乏人であれ悪人であれなんであれみんな死ぬとなればそんなことに意味がないともなる

でも死者は生前が全く切り離して考えることはできない,極悪人がいたとして死んだから全く生前のことと関係ないように見る人はいないのである。
子供でも親でも毒親だったら死んだからと供養すらしないのである。

人間の一生など自分勝手に生きればいい,一回限りの人生だ,その人の自由に勝手にいきればいいとはならない,それが子とか子孫とか周りに必ずなんらか影響するからである。
人間の一生とか人生とか命とかは自分だけのものではない

みんな自分さえ良ければいいんだ,自分の人生は命は自分だけのものだということにとらわれている,他人は関係ないことだと思ってもその人生とか一生が他人に影響を与える
特に子や子孫に必ず影響を与えるのである。
すると自分の一生や命も自分だけのもではないとなるのである。

考えてみると自分だけを自分のためにだけ生きているとなるとかえって疲れる,自分のエゴのためにだけ生きていると疲れる,力も出ないのである。
母親は子供を生むとかわるというとき自分より子供のために生きるとなるからである。
だから母は強いとなる,自分のだけにため生きることは力が出ないのである。

要するに死者といっても死者を感じる人と感じない人とがいる,何かそこにいるなと感じる人もいれば感じない人もいる,それは生きている人にもよるじ死んだ人がどういう人だったかにもよっている
自分はあまり母のことは思ったことはないが死んでから何か思うようになったのも不思議である。生きているとき主役ではなかったから思わなかったのである。

人間が生きたというときいろいろある,でも死者はどうしたら喜ぶのか?死んだ人は喜ぶことがあるのか?それもわからないが死者は讃えられれば喜ぶと感じる
卑しめられれば喜ばないということがある,だから戦争で死んだ人達が貶(おとし)められれば死者は喜ばないのである。そこに英霊とか崇めることの問題が生じてくる

ただどんな人間でも完全な人間はいない,マイナスな負の部分が必ずある,だから死者は異常に美化して神のようにするのは問題なのである。
死んだからといって生前の継続であることは変わりないのである。
でたらめな生き方をした人が死んで突然変わることはないのである。

別に自分の家族が理想的なものではない,誠を生きたともならない,マイナスの部分も大きかったのである。ただ自分にとっては概していいものとして働いたから偲んでいるのである。そして力を与えられているのである。

まずひどい娘だわとか言って死んだ母がいるけどそういうのは子供でも死者が力を与えないだろう。恨んで死んだからである。そこに介護とかが苦しくても無情にできない切実な問題がある,親子関係でもいろいろあるからその辺の事情は外からわかりにくいのである。

本当に誠に生きた人は後世の人に力を与える,それは家族でなくてもそういう人はいる,だから人間はそういう人に習い努力すべきだとなる
ただ人間は死んで終わるわけではない,何か死者でも時間がたって家族でもそんな人だったのかと気づくことがあるからである。
生きているときはわからないが死んで気づくことが結構あるのである。
だから人間は死んですべて終わりにならないことだけは確かである。

2017年12月07日

金に働くカルマ (後で意識される怖いものとなる金もあるので注意)


金に働くカルマ

(後で意識される怖いものとなる金もあるので注意)


金にどうしてカルマになるのか?それはわからない,金というとき何かカルマが働くとしてたら大きな金である。
百万以上の金だろう,その他の金は日常的なものに使うのだからいちいちカルマがあるとか気にかけていたら生活もできなくなる

ただ金にはなんらかカルマがつきまとっている,それも意識しなくてもそれがいつか意識させられる,その金は親から受けるカルマもある,自分だけのことではない,遺産とかなると親も必ず関係しているからである。

ふりかえると例えばなぜ弁護士は裁判もしない,何もしなくても百万の金が転がりこんだのか?職業柄そうなったともなる
運送会社に兄が勤めて死んだときそこに保険金がおりることになった
自分は車をもっていないのだからそれすらわからなかった
でもなぜ骨を置いておけとかいろいろいいふくめていたのか?
休業補償など書類でもなかなか書いてもらえずでもめた

それで困って弁護士に頼んだのがそれは仙台である。事故は静岡で起きたのだから弁護士は何もしない,本当に何もしない,裁判にもならない,保険会社の人が何度も運送会社の人に頼み書類を書いてもらったのである。
弁護士は何もしていないのに百万円が労さず入ってきたのである。

ただ頼みに行ったら報酬として百万円必要だとして払った,でもその弁護士は何もしないのである。何か裁判の結果として払うならいい,何もしないのにもらったのである。
ではこの弁護士が悪いかとなるとそうともならないだろう。
第一頼みに行ったのだからそうなった,ただそれが事前の報酬として必要なものだったのか?なぜなら何もしないし実際に手続きしたのは保険会社の人だったからである。

ただ何もしないで漁夫の利を得たとなる,弁護士という職業自体そういう争いごとがあり利益を得る,職業柄そうなったということである。
でもそれは十万くらいならいいがなぜ百万も必要だったのか疑問なのである。
弁護士も何かブラックな職業だというときこういうことがあるからかもしれない。
つまり報酬費用として払うなら最初から百万を払う必要はなかったか要求すべきではなかったからだ

ただそうして別にその金は今度は離婚した親が病気になったとかで子供がまだ中学生だったりして実際は使われたのである。離婚しなかったら保険金は妻に全額入っていたのである。ところが事故を起す数カ月前とかに離婚していたからもらえなかった
でも実質は親が使っていたのである。

そして同じようにその娘も子供のために使うと言っても自分のために使っていた
高校を卒業して学校に入るために使うというがその人は金が入るとぱっぱっと使う女性である。それは父親とにていたのである。
だから母が最後に金をやれとして遺言した金をやったが実際はすでに使っていた

だからその娘も同じカルマを金でくりかえしているのである。
ただ事故で死んだ人や不孝で死んだ人の金は本当は非常に危険なものだった
人の不孝があり残された金だからである。
子供は無駄に使うにしろ使う権利があった,その他はなかったのである。

まず金もこんなふうに厳格に考えたら金はたまらないだろう。
ただ金には本当に受け取ってはならない金があることは確かである。
それがその時は意識しないで金があればいいとなり受け取る
でもそれが後でカルマになるから怖いのである。

そもそもこの世で毎日事件が起きている,強盗だって起きている,それはただの偶然なのだろうか?
このことはいちいちその人のことなどわからないから知り得ようがない
ただ何か偶然として事件が犯罪が起きているように見えてもそうではないのかもしれない何かの必然性があって起きているのかもしれない
自分も犯罪にあって大金を失ったとしても何か冷静にふりかえるとそれももしかしたら自分が親から受けたカルマだったのかともなる
なぜそういう人が自分の家に来たのか?それも不思議だとなるからだ

カルマはその時は意識しなくてもいつか意識させられる,その時カルマに気づくのである親のカルマも受け継ぎカルマを意識するのである。カルマは自分だけではない伝えられるからだ
カルマは悪いことばかりではない,ここで損したけどここで得したというとき何か金の帳尻が合う,そういうことを経験している人が結構いると思う
損ばかりしているとは限らないからである。

いづれにしろ金は別に正当な理由があれば大金でももらってもカルマとはならない,悪いとはならない,何か正当な理由なしでもらう金が災いを生む
一千万でも拾って幸運だったとはならないのである。そこにその金をもらう正当な理由がないからだ,法律はなんでも理由を追及しているのである

巨大の遺産分けでも苦労して介護した人がもらえないというのは理不尽だとなる
それでただ血のつながりだけから遺産分けするのも不公平になる
ただそうしているのは原則として公平だからそうしているだけであり何でもみんな公平にはなりえないのである。

ともかく金は怖いものをもっている,何でも金ならもらえるならもらえばいいとはならない,何らかの理由が必要でありそれならいい,ただ問題が起きるのは百万以上だろう。
その他いちいち金についてカルマだとか考えていたら生活もできなくなるからだ
ただ受け取っていい金といけない金は確実にあるのだ
それが災いをその時は意識しなくても後で意識させられるから怖いのである。

タグ:金のカルマ