2017年11月29日

感謝に欠けていた自分 (なぜ今自分が親に感謝するようになったのか?)


感謝に欠けていた自分

(なぜ今自分が親に感謝するようになったのか?)

人間は感謝するというときそんなに普通はしない,ちょっとしたことでありがとうというのは感謝とは違う,感謝は深いものである。
だから感謝の基本はもともとは創造者と神と人間の関係のなかでの感謝である。
感謝というとき人間に対しての感謝を言うのが多いからである。

例えばリンゴを例にすればリンゴという種を造ったのは神である。すると最初に感謝を捧げるのはリンゴを造った神であって人間ではない,確かに人間は手を加えて労働して与えている,でも本質的には感謝は神があってリンゴが食べられるのだから創造主に感謝を捧げて次に人間に感謝するのが順序なのである。

そしてリンゴがどうして作られるのか?それはリンゴだけがあるのではない,リンゴになるためには大地の栄養が必要なのである。他にも天候とかいろいろな要素が働いてリンゴがなる,それは自然の恵みであり神の恵みなのである。人間はあくまでも補助役なのである。リンゴを作るものは神であり自然である。


でもそうしている人はほとんどいない,ただ人間に対して感謝しろとなっているのだ
そしてあらゆるものが人間が与えたものだとなるとをとなるのか?
人間が神になってしまうのである。そこに肝心の創造した神がないがしろにされているのである。

それは偶像崇拝にも通じている,人間は自然にあるありとあらゆるものを神にした
でも肝心のそのありとあらゆる自然のものを造った神はないがしろにされていたのであるそれが神は怒ったのである。
作り主であり神を崇拝しろとなったのである。ある時は木が神ともなり石が神ともなり山が神ともなる,そして人間も神となった,でもそれらを造ったのは神なのである。

その神というものが何なのか?聖書では教えた
偶像崇拝とは目に見えるものを崇拝することである,でも目に見えないものこそ神だったのである。
神といっても目に見えて具体的なものとして現れれば必ず汚されるからだ
だから神は人の目にも触れられない,見えないものとっな存在したのである。

ともかく感謝しろというとき人間にばかり感謝していたらそれは偶像崇拝になるのである肝心の神がないがしろにされているからである。
正直毎日買い物しているけどいちいちその買った物にありがとうなど感謝しないのであるただ逆に買ってやっているとう感覚になっているのだ
ありがとうと言われるのは買ってるほうであり作ったり売っている方ではないのである。
人間はよほどのないかぎり本当に感謝するのだろうか?
ありがとうと言うのと感謝はにていても違っている
感謝は深いものであり一時的なものでもない,あるものに継続的に感謝するのである。
自分は感謝が欠けていた,感謝したことがほとんどなかった

そして今一番感謝しているのが死んだ親だったのである。
なぜそうなったのか?それは六十年間食事の用意したり家事をしてくれたり家のことをしてくれたからである。
それでなぜ深く感謝するようになったのかというとここ十年間は介護となり自分のために何かをしてくれる人は皆無でありなかった,それより自分に対して金欲しいとかしかなくなったのである。
だから自分のために二三枚の皿洗う人も皆無である。その二三枚の皿を洗ってもらうのに高額な金を払わねばならない,そうして十年間過ごした結果,六十年間食事の用意をしてくれたり家事をしてくれたり自分を世話してくれた親に感謝するようになったのである。
あとは鉄道旅行が長いから鉄道の人には世話になったとかあり無人駅でボランティアしたりする,それからずいぶん旅行して泊めてもらったから人を泊めて接待したりした
それもカルマだったとなる,現実にそうして海外旅行して世話になったからと外人を格安で泊めている人がいた,それは感謝の心がありそうなった

感謝しろというけどよほどのことがないと親でも感謝しないと思う
ただ親でも妻でも死んでみるとそのありがたみがわかる
空気のようにあるものに人は感謝しないのである。当たり前にあるものに感謝しないのである。そういうことが原発事故の避難区域で起きた
故郷に住めなくなるなど思いも寄らなかったからである。
故郷があるということに感謝することにもなったのである。

とにかく自分の場合,親の遺影の前にいることが不思議である。
何か心が浄化されるような気分になる
なぜ死者が美化されるのかというと生きていれば醜い面が必ずあり生きている人に感謝しにくい,でも一旦死ぬとそうした醜い面は消える,そして死者は何か浄化されてまさに仏様のようになる,それが先祖崇拝になり先祖が神ともなる宗教となった
この感覚は奇妙であり何か言葉では説明しにくいのである。

親とか妻は一番身近な存在である。そう身近な存在だった人が死んだとき感謝の気持ちが湧かないのは共に不幸である。
そういう人間関係は失敗だったことになる,自分の家は複雑で別に仲のいいものではなかった,絶えず争いがありもめていたのである。
でも一旦死んだら争うこともない,醜い面も見えない,すると何か今は美化されてゆくのも不思議なのである。
二人はこの家で生を全うしたのである。離婚した人は全うしていないのである。
その差も大きいのかもしれない,六十年間一緒に暮らしたことの意味が重いのである。
別に途中で分離することもありえたからである。それがなかったことが大きな意味をもったともなる

姉と母との遺影の前に
我がありて感謝の絶えぬかも
大地より湧く泉のように
感謝の心は自ずと湧きぬ
巌のように硬くありて
感謝を献ぐべきかな
我に尽くす人なし故に
その感謝の心は深まりぬ

これは自分の家族の場合特殊な事情でこうなった,他ではならないだろう。
父が早く死んだことなどでそうなったのである。

感謝することが生きる力になる (感謝しないと逆に罰がくだる)


感謝することが生きる力になる

(感謝しないと逆に罰がくだる)

今の世の中人はめったに感謝しない,自然の恵みに感謝したりもしない,だからそうした祭りもなくなる,神というのも関係ないとなる,神の代行約が科学者である
だから科学者が神のようにもなる,一番今でも尊敬されているのは医者であるのもそうである。医者は万能でなくてもやはり命を救うことができる,病気も直せると信じるからなる

でも実際は人間の体にしても全部わかったわけではない,
人間の体がなぜわからないのか?それは人間の体はこの自然界と宇宙ともあらゆる元素とも関係しているからわからないのである。
それは相互浸透しているからわからないともなる,人間の体も自然の様々な元素が栄養として必要であり自然界と一体となってあるからわからない,人間の体がわからないのは自然がすべて解明されないと同じなのである。

でも何か科学者はそういうこともわかっていると思われるので科学者が神のようになるのである。でも実際は科学者もみんなわかっているわけではない,でも何か現代は科学者に幻想を抱いている,科学者がこの世のことでも体のことでも解明してくれると思っている科学が現代の信仰に近い,科学者は現代の聖職者になっているのだ
そして牧師とか僧侶とが昔の権威ある人達は力がない,信じられない,ただ無駄飯食っていると見られるのが多い,それは何か社会に実行力を示さないからである。

宗教でもキリスト教でも初期なら奇跡を示して宗教の力を示していたのである。
今はその奇跡の力は科学に期待しているのである。
ip細胞ができれば病気は直せる画期的だ,もう老いることもないとかそれが過剰に期待されているのである。それでスタップ細胞の騒ぎ起きたのである
科学が万能のように見させている,そうなら神が科学者になるからである。
そうなると感謝すべきは本来のこの世界を人間を作った神でなくなる,科学者に感謝しろとなる,科学者が神となるからである。

でも結局原発事故のように科学者の地位も事故で低くされた,科学者に対して信用できなくなった,それだけの技術力もないと知られたのである。
そしてこれだけの災禍をこの辺にもたらした,科学者はその地位を急速に失ったのである科学者に石なげてもいいくらいになったのである。科学者はペテン師になりさがったのである。科学者は原子力を操作できなかったのである。
でも操作できると安全神話まで作っていたのである。それが事故で一挙に崩壊してしまったのである。

人間は今あらゆることに感謝しない,食物にも感謝しない,ただたりないたりないというだけである,親に感謝しないし先祖にも感謝しない,食料を得るにも金を出せば買える,金を出して買っている方が偉いのだとなっている
「金を出せばいいんじゃないか」それでなんでも手に入るとなっている
感謝すべきは金を払った方だとなり消費者は王様だとなってしまったのである。
本当は生産者こそ王様であり感謝すべき方だったとういこともある
食料を作り出して与えてくれる人達だからである。

ではこうして何物にも感謝しない社会はどうなるのか?
感謝しないことは人間に力が湧いてこないのである。人間は親でも感謝すれば生きる力が湧いてくる,親は苦労して育ててくれたとなれば親に感謝して生きる力がでてくる
母は苦労して百才生きた,自分も生きようとなるのである。
俺は自分一人で生きている,誰にも感謝する必要はない,もちろん神にも感謝などしないみんな自分の力で得るのだとなったらどうなるのか?
そういうふうに生きていたら傲慢であり神から罰せられるだろう。
現代人は感謝するとういことがない傲慢がある

ただいくら感謝しろといっても人間は簡単には感謝しない,それは強制できないのであるでも感謝しないということは何かそれが神の意向にも反するものだから恐ろしいことが起きてくる,津浪でもそうである。
一匹の魚を軽んじたとき津浪が起きた,不思議なのはこの世にあるものはみんな神が作ったものである。確かに人間の労働が加わってできても本質的に神が作ったものである。
つまり原発がいいものであり補償金をもらった方がいいとなり事故が起きたのである。
その時魚などとっても金にならないとか常に言われていたのである。
農業でもそうである。農業では金にならない,原発の方がいいとなり事故が起きた,一粒の米を軽んじた結果として起きたともなるのだ
そういうことを反省しないし何が悪かったのかも良く考えない
そうして感謝を失ったから罰が下ったともなる

人間は何かあらきゆるものを人間が作っていると錯覚しているのである。でも人間は何も作れない,なぜなら人間は全く新しい種は植物でも作れないからである。
そこに人間の限界がある,創造主が作り与えるが人間は作れないのである。
リンゴでもそれを作ったのは神であり人間が手を加えて与えられている
でも人間が手を加えてもリンゴを作ったのは神なのである。
でもその神そのものにリンゴを食べているからといって感謝する人はいないのである。
「神様リンゴを与えくれてありがとうございます,とてもおいしいです,リンゴは健康にいい栄養に満ちています,こんなおしいしものを与えてくれて神様ありがとうございます」こんなふうに感謝して食べている人などいないのである。
このリンゴは高いと安いとしかないのである。

ただ現代人は親でもそうだし先祖でもそうだし基本的なものに感謝しない,ただ金があれば何でも手に入る,何かに感謝するなどより金があり金が欲しいとなる
金を遺さない親は用はない,感謝などする必要はないとなる
そしてあらゆる人がただ不満だけを言う,足りないことを金持ちでも貧乏人なればなおさら言う,足りない,足りないという不満だけになる
感謝する人はいないのである。
そういう人間を見て神をどう思うのだろうか?

神は遂に怒りになってしまうだろう。そのために津浪が襲ったのかもしれないのだ
感謝すれば神も喜びさらに良きものを与える,しかし神の与えたものに満足して感謝しないものには神は怒り罰を与えることになる
何かたりないたりない欲しい欲しいというより与えられたものに感謝すると生きる力が湧くのである,これは不思議なことでもある
何かたたないというのではなく欲しいというのではなく与えてくださってありがとうございますと感謝すれば神も喜びその人自身も生きる力が湧くのである。
でもそう思う人はほとんどいない,あらゆる人が金持ちでも不満であり足りないとなっているのだ
だからこ現代には大きな災いが起きたりする,そして豊かになろうとしても貧乏になってゆくのである。それは感謝しないからだともなるのである。

とにかく何か感謝するとさらなる力が与えられることは確かである。
例えば親でも先祖にでも感謝すればその家はさらに栄えると思う,感謝されない親は問題があった人である。
だからどういう親をもつかもその人の運命を左右してしまう,親にはそれだけの責任があるとなる,親にひどいめにあった人は親に対して何の感情もなくなる
ただひどいめにあったというだけになってしまうのである。
自分の場合は特別な思いを親にもっている,感謝している,自分がありえたのは親がいたからだと思っているからだ,それは特別な事情でそうなったのである。

なぜ感謝が大事かというとあまりにも人間はあれほしい何かほしいとか欲しい欲しいしかなく感謝する人がまれだからである。
いくら欲しい欲しいと得てもさらに欲しい欲しいとなりきりがないのである。
感謝するということはそこにない,もちろんいろいろ与えてくれる神に感謝など今はしない,すると与える方にしても神でも人間でも嫌になる
これほど与えているのに感謝もしないのか?そういう気持ちになり災いが与えられるということもあるのだ
そういうことが津浪や原発事故で起きたことを書いた
漁業関係者も一匹の魚に感謝している人などいない,もう漁業では暮らしていけないとかしかなかった,農業でも一粒の米に感謝している人などいない,農業ではやっていけないとか不満だけだったのである。
そして金になる原発を誘致したのである。
結果的にそのことで神は罰を与えたともとれる,感謝することは力を得るがしなければ災いが与えられるから怖いのである。

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