2017年11月19日

家政の道徳(詩) (道徳なき経済で社会も衰退し破壊される)


家政の道徳(詩)

(道徳なき経済で社会も衰退し破壊される)

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玄関に置く壺に咲く対なる鶏頭の二つ
長くも咲きて枯れじも
人の交わりも長くあるべし
誠実にして日々勤めつつ
使う者も仕える者も
誠実に勤めべし
巌のごと主は不動なれ
人よ,いづこにあれ良心に恥ざれ
良心を汚すと心は乱れぬ
例え罰せられずとも
良心は痛み苦しむ
村も街も会社も国も誠実なるべし
そして山も大地も木も石とも
人は調和して活きるべしかな
正当な実りはそこに神から与えられる
しかし過剰なる富は与えられじ
相応の富のみ等しく配分されるべし
富をむさぼる者,わたくしする者
それは許されざるべし
上に立つ者の責任は重く
厳しく罰せられべし
人は金により従わすことならじ
人は権力によって支配されじ
良心に従い心の安らぎを得る
社会の安定もまた同じなりしを


【経世済民】は「世の中を治め、 国民の苦しみを救うこと」


道徳を忘れた経済は、罪悪である。

経済を忘れた道徳は、寝言である。

人道は一日怠れば、たちまちすたれる。

誠実にして、はじめて禍(わざわい)を
福に変えることができる。術策は役に立たない。
(二宮尊徳)

「οικονομία(オイコノミア)」という言葉は「オイコス(家)」と「ノモス(法、ルール)」という言葉を組み合わせた言葉で、家族や仲間、国や地域などの共同体のあり方を考えるという意味なんだ。
つまり、「Economy(エコノミー)」=「経済」とは自分だけの幸せを考えるのではなくて、「どのように生きたら世の中のみんなが幸せになれるか」を考えることなんだ。

プロの経済学者の多くが「非現実的」な特定の前提の下で研究を進め、そこで証明された事柄を政府に提言し、それに基づいて「現実的」な政策が展開されているのである。


経済というとき何なのか?エコノミーの語源がオイコノミアであり家政だというとき狭い範囲で考えていたのである。
家政というとき一番身近だからそうなった,まず経済を国家単位とかさらにグローバル単位になると大きすぎてわからかなくる,誰も世界が株で動かされている社会を理解できないのである。それで結局何か極一部のものにユダヤ人だとかロスチャイルドだロックフェラーだとかが支配しているとなる,つまり世界の富が何パーセントかの人達によってにぎられて世界が操作されているとなる陰謀論になるのである。
世界的経済のことなどわかりえようがないし株のことも普通の人はわからないからである見えざる手によって導かれる世界市場とはまさに逆に見えないからこそサタンの手によって導かれるのである。巨額の金の流れは見ることがもはやできない
それで巨額の金が税金逃れのためにタックスヘイブンの国にあづけられるとういのもそのためである。

家政という単位だったから経済は見ることができる,まだ村とかポリスなら見える社会である。もう経済は個々人では見えない世界で操作されている,だから富は世界の極一部の人達に集まり操作されるとなる
そこにはモラルもなにも通用しない,悪魔的なものが世界を支配するとなる
「道徳を忘れた経済は、罪悪である」であるというときまさにこの世が罪悪の社会,ブラック化した社会となる

ブラック会社のことを良く言われるけどそこでモラルが通用しない,雇う人にも雇われる人にもモラルは通用しない,雇う人はただ安く雇いたいとういだけであり人を人とも見ない,だから時給とかで安くこき使い使われる方も奴隷なんだよとなる
でも人手不足になるともうブラック会社が倒産している,会社も起業できなくなっている働く方にするとそれはいいことになる,つまり雇う人をを大事にしないものはつぶれるとなるからだ,つまりそこにはモラルが道徳がないから当然の結果だとなる
モラルが関係しないようで結果として現れているのである。
モラルがなくなるとき荒廃するとき家でも村でも街でも国でも成り立たなくなる

プロの経済学者の多くが「非現実的」な特定の前提の下で研究を進め、そこで証明された事柄を政府に提言し、それに基づいて「現実的」な政策が展開されているのである。

これなどもまさに非現実化しているとき経済が何かグローバル化すればそれを現実のように見ることができない,マネーゲームとなるものもそうである。
そして学者が経済学など役にたたないというとき非現実化している提案をしているというのもそうである。グローバル経済になるとその実体を見える人はいないからである。
エコノミーが家政単位だったら手にとるように見えるからこそモラルも通用するのであるそのモラルも自然にも通じる,二宮尊徳はそうして自然と通じる農業を基本にしていたからそこにモラルと一体化していたのである。

自分の詩のなかでもこれは自分が家政の中で感じたことを詩にしたのである。
人を使うにしても使う方でも使われる方でもやはりそこにモラルが必要になる
だからそういうことが江戸時代では侍に奉公する中で培われたというのもそうである。
相手が身近に人として接するからそうなったのである。
つまり家政の延長としてそうしたモラルが養成されたのである。
人と人が上下の関係なく信頼関係が結ばれたということがあった
現代社会はそうした関係はない,時給でロボットのように時給として雇うという関係だけなのである。そこにモラルもないから雇う方でもそういうロボットのようにしか人を見ていないから遂に雇う人もいないくなり会社が成り立たなくなる,それは道徳,モラルの喪失による結果だともなる

ただ等しく配分するといっても実際は人間は平等ではない,平等にしたらかえって不公平になるのである。真面目に働いた人が能力がある人と不真面目な人と能力もない人が等しく配分されることはかえって不平等となり社会は衰退するのである。
富でもすべて悪いとはならない,それ相応の配分の富だったらそれは公平なのである。
でも貧乏人は自ら努力もしないで才能もないのにただ等しい配分だけを求めることがあるのだ,それもモラルとしては許されないのである。

いづれにしろ理想の経済といってもその逆としてブラックなモラルなき経済が世の中を支配する,グローバル経済とか資本主義でもそうしたモラルが喪失しているから陰謀論になる。誰もグローバル経済のことなど理解できないからである。
こういうことを言う自分だって経済のことはわかっていない,ただ家政を自分一人でするようになって感じたのである。
家政というのはいろいろあるから大変なのである。家事もあり財政もありとその家政は政治でもあり一国を運営するものともにているのである。
だから家政というのはエコノミーの基本にあるからそこから考えるとわかりやすくなるのである。

誠実にして、はじめて禍(わざわい)を
福に変えることができる。術策は役に立たない。
(二宮尊徳)

誠実なことが実は使用する人でも使用される人でも不可欠である。でも富める人と貧乏な人ではそれがありえない,なぜなら貧乏な人は等しい配分を要求しているからである。
するとまず富める人は貧しい人に等しく配分せよとなるからだ
でも富はその人の相応に配分されるというときその相応がむずかしいのである。
それは個々によっても違ってくるからである。
だからみんな平等だ,なんでも平等にしろという共産主義は理論的にも現実的にも無理であり失敗だったのである。
要するにかえって不平等になり特権階級を生んだのが共産主義だったからである。
貧乏にも貧乏になる原因がある,その原因を無視してみんな平等だというのは無理だったのである。

ともかく人間は良心をもっている,だから良心にはじることをすると苦しむようになっている,人をだましたりいろいろ悪事を行うと良心がいたむ,それで心が乱れる
もし人間に良心がなかったらどうなるのか?それはもう本当にこの世は地獄になるだろう
ただグローバル経済社会となるとそうした人間の良心も傷まない,それは見えない世界でありそこに悪魔が活動しやすいからである。
天文学的な金を操作するということ自体がそうなのである。
家政とか村とか小さな共同体単位ならそういうことはないのである。
江戸時代はそういう社会だから二宮尊徳の道徳の経済が成り立っていたのである。
ただ現代でもモラルが喪失する荒廃すると社会も成り立たなくるのは同じなのである。

本当に人間は富で金だけで支配できるのか?力によって支配できるのか?
いくら国が大きくてもその力によってすべての国を支配できるのか?
アメリカが世界を支配できたかとなるとできなかった
力だけでは支配できないのが人間なのである。
また民主主義となると選挙だがこれもまた数だてがすべてとはならない,そこにモラルが欠如すると数の論理がまかりとおると社会は破壊されるのである。
そういうことは国家間の大規模戦争でも起きてきたのが現代だったのである。
数が権力となったのが民主主義だっからである。数が大衆がモラルを破壊したのである。数だけが目的化して破壊したのである。それはカルト宗教団体ともにていたのである。
そこは数だけがすべてになるからだ,モラルも関係ない数だけのマスだけが権力化してくるからである。
posted by 老鶯 at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題