2017年11月16日

ドイツのライン河の詩 (河の文明−ヘルダーリンの詩を読む)

  
ドイツのライン河の詩

(河の文明−ヘルダーリンの詩を読む)

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さわやかなる秋の朝,マインツに船はよる
古い教会のマルクト広場に市がたつ
色とりどりの菊の花が所狭しと並べられる
ラインの岸辺の街の一つ
ポプラの直なる樹々が風にゆれる
悠々とラインは下流へと下る
河は街と街を結び
自由なる商人をはぐくむ
またもの寂びた古城は何語る
城壁は崩れ王の悲劇の物語
ここより下りてケルンの街よ
名高き双塔が天に聳え立つ
その建築の合理性と気高さよ
重々しく貨物船がラインを下りゆく
かなたオランダもイギリスも望まん
一望するドイツの広らかな大地よ
その胸に抱かれてラインは流れぬ
厳かにゴシックの大聖堂に祈りは献げられる 
かなたまで鳴り響く鐘の音よ
その千年の石の重みよ
ここにキリストの信仰ははぐくまれぬ
聖歌はここに荘厳に鳴りひびきわたる
バッハのカント,重厚なベートンベンの音楽
ネッカー河畔の晩秋の哲学者の道
落葉を踏みて深い思索にふける
ドイツは生みぬ世界的哲学者を
ハイデルベルグは中世の最古の大学
ここに学びの歴史は始まる
修道士ありて勤め学問の始まる
ドイツの深き森よ,実直なる樅の木よ
その森厳なる大地に育まれしもの
そこより荘厳なる楽が鳴りひびきわたる
ラテンのフランスと分かつライン河
霧深きドイツの大地と黒い森
独自の文化はここに育まれぬ
ドイツにとどまらじ限りなき霊感を生む地球よ
国々の精神はその土地土地の地勢により作られる
それぞれの土地の魂(たましい)を歌いあげよ
剣を捨て国と国は争わずそれぞれの詩を示せ
その時地球はパラダイスとならむ
国々はただ神の与えしもの
国土は神より賜りしものと知るべし
国は国のものにあらじ神のものなり
国はその国のもののためにのみにあらじ
国々はその神に与えられた天分を果たすもの
地球は壮大な一つものにあれ
誠の詩人は大いなる地球を歌うものなれ
天上の国を歌うものなれ地球を讃歌せよ
ただそれぞれの土地は人の心をしばりつける
しかし詩はその鎖たちきり解き放つ
自由の鳥は境を越えて飛翔する
その憧れはやむことなくも
ペガサスとなり大鵬となり天翔る
その翼は不死鳥となりて燃え上がる
そして天空の星座となり連なり
地を離れて永遠に輝く・・・


ヘルダーリンというとドイツの国民詩人になるだろう。それは父なるライン川を詩にしたからである。
日本人にとって外国がわからないというとき例えば四大文明が河から生まれたというとき理解できないのであるエジプト文明がナイルの賜物というときそうであるか。ナイル河と離れてエジプト文明はありえないからであるその他のインダス文明でも中国の黄河文明でもそうである。
インドのガンジス川を理解せずしてインド文明を理解できない、ヒンズー教でもガンジス川をアイディンティティとしているからである。
日本が世界の文明を理解できないというときこうした大きな長大な河がないからである。
日本の川は山が迫り短いし外国人が滝だというときそのことを語っている
外国の川は流れているのかいないかのかわからない、運河のように見える、現実に川は運河の役割を果たしていたのである。それは最初の交通路になっていたのである。
だからエジプトの河岸からピラミッドに通じていた、港の役割を果たしていたのである。
ナイル河を運行していた船はすでに大きな船だった、その距離も長いから河は最初の道だったのである。
その長大な河に沿ってエジプト文明が成立したのである。

ナイル河の岸辺の神殿に船はよりぬ
月影に照らされてヒエログリフの文字何語る
はるかなる遠き日よ、月影に浮かぶ神殿
船は去りゆく、静かなるナイルを下り・・・
星辰はきらめきピラミッドが砂漠に影なす

船でよった神殿は月影に照らされて神秘的だった、こうしてともかく河がいかなるものか日本人にはわからないのである。ナイルが洪水になってもその泥は肥料となり麦が作られたのである。そしてすでにビールも作られていたのである。
ナイル河とかインダス河とか黄河とか揚子江になると長大な河が一本大地を貫き流れている感じになる
でもヨーロッパの河になるとセーヌ河がありライン河があっても支流がありその支流も日本のような支流ではない、船が運航できる河なのである。だからこそ河が交通路となり商人が行き来してハンザ同盟とか商人の同盟がヨーロッパでは生まれたのである。
ヨーロッパは河が道路となり結ばれたのである。

河というときバイキングとかがセーヌ河を上ってきたのである。バイキングは船でイギリスとか地中海とかまで航海した商人でもあった,川は海からの交通路であり入口にもなり出口にもなっていた、だからライン河の出口にオランダが独立した、オランダは河と海で結ばれた国だったのである。
河といきうとき下に流れるだけのものとみているが海から見ると川を上るものとなる、アイヌでも河口は河の尻として地名化している河で怖かったのは津波がまず川から上ってくる、それは早く上ってくる、あの多賀城の小さな砂押川でも津波がさかのぼってきたから驚いた、海というものがその小さな細い水路に海の水を押しだしてきたのである。   
海から来る水の圧力がもの凄いものだったのである。

河は気高く泡立って流れている−ライン河こそは
更にこのすばらしい仙境の最大の魅力だ
何千回となく曲がるたびに その都度
前よりももっと新鮮な美を展開して見せる
(バイロン)

雪の峯は大地にそそぐ
この上もなく清い水を 生まれながらに
あなたが純一なのは そのためなのだ
根源の近くに住む者は その場を離れない
そしてあなたの子なる もろもろの街
ネッカルのほとりの街
それらの街はみな思う ここにまさる住処はどこにもないと
(ヘルダーリン−漂白)

雪の峯とはアルプスの峯である、氷河と磐のアルプスから清涼な清水の一滴である。
それがラインの上流であり源である。ここではアルプスに通じている、そして黒海で交わる
あとはギリシャがヨーロッパ文明の礎の国としてある
ただ今と違ってヘルダーリンは世界を旅していない、視界は限られているのである。
今は別に特別な人手でなくても世界旅行ができる恵まれた時代なのである。

ライン河沿いの街をその子として表現しているのは面白い、実際にそういうものなのである。
河が産んだ街なのである。こういう感覚は日本では生まれないのである。日本の国は国造りでは海から生まれたからである。
イザナミ、イザナギは海の神だったからである。

美しきラインの眺め
山を離れたその後で
満ち足りながら よき営みの内に
あこがれる思いを鎮める
父なるラインは土地を拓き 愛する子らを
みずから築いた都市に養う
(ヘルダーリン−ライン)    

根源の近くに住む者は その場を離れない

こういう表現もこの時代密接にドイツの大地と結ばれていたから生まれた詩である。
深くドイツの大地とアイディンティティ化されていたからこういう詩が生まれる
それは自分でも自分の住む場所でそうしてきたからである。
根源とはthe fundmental deepest  homelandとなる

そして河が街を養うという感覚は河の文明なくしてありえない表現なのである。それはいかにく深く河と結びついているかを知らねばならない,それはナイル川でもそうだがガンジス川でもそうであり黄河や揚子江でもそうなのである。
河がまさに文明を産みだしているからはそういう表現になったのである。
ヨーロッパの都市は一つの国であり街は独立した市民のものだった,そういう都市が多いというときそこから文化が生まれたのもわかる,その都市を作ったのが河だったのである。

 ■文明はなぜ砂漠地帯に発生したのか?
 
   文明の成立の第一条件は多くの人間が集まり、大社会を作ることにある。集まるための条件の第一は、移動が楽だということだ。砂漠は一般には酷暑乾燥の過酷な土地で、旅行するのも命がけだと思われている。しかし、点在するオアシスを結んで行けば意外と楽である。足もとは砂だからどこでも歩くのは比較的容易だ。砂漠というと歩きづらい「砂丘地帯」を連想させるが、砂ばかりとは限らず、土漠、岩漠などもある。反対に歩くのに難儀するのは、湿潤地帯ではなかろうか?
http://home.e08.itscom.net/21water/bunmei.htm

このサイトでは移動しやすい所に人が集まりやすい所に文明が生まれたという説である。日本はいたるところ湿地帯だから移動しにくい,それで文明を作りにくかった、道がないと大きな国は作りえないからである。大きな国は移動しやすいと作りやすいということがある、それでローマ帝国は道をはりめぐらしたのである。

いづれにしろそれぞれの国はその国土から生まれた,国の精神もそうである。大和魂でもたましいというときその土地から生まれたものなのである。土地から離れて魂(たましい)もありえないのである。日本なら万葉集が日本の国土と一体化したものだった
なぜなら大和とは山の戸口でありヤマトは山を神とする国となるからだ、日本では山にその根源を置いているとなる
三輪山は山自体が御神体になっているからである、それが日本の根源なのである。

ただ日本でもそうだがその国土を歌う詩人は生まれていない、日本の詩人でもそうである。何か芸人的詩人なのである。
ヘルダーリンのような詩人は生まれていないのである。
俳句とか短歌ではどうしても詩としては短いから大きな詩となりにくいからだ
そして現代とは工業とか経済とかに席巻された時代である。
だからシュペングラーの言うように西欧文明の没落とかなる,その本が数からははじまっている
人間は言葉でも商人の言葉となりただ機能的言葉となり本来の詩語だった言葉が数字のようにもなったことを嘆いている
言葉が死んだというときそれが現実の自然の像とも結びつかないからである。
だからそもそも根源なるものから人間は乖離して人間としての像を持ちえないのである。

言葉は本来自然の事物と石でも樹でも山でも一体不二のものだった,だから荘厳なものとして言葉はあった
神聖なものとしてあった,ロゴスとしてあった,言葉は今や貨幣なのである。ただ商業的経済的なものとしての流通物なのである。
そしてその貨幣に人間はけがされて貨幣が神のごとくなってしまったのである。
真実の言葉はそういうものではない、それは大地と自然と一体化したものであり荘厳なものだったのである。
一面言葉をもって人間となったともいえるからだ
だから言葉を軽んじることはできないのである。言葉を軽く扱うことは危険なのである。
それは魂までも心をけがすからさである。だから宗教は山に籠り沈黙の行をしていたというのもわかる

それぞれの国の栄はもともとそれぞれの国土から生まれていた、河の文明は河が都市を街を産んだように河が文明を作ったのである。その大河が日本にないからそもそもその文明を理解できないとなる
外国人が日本は温泉だというときまさに山の国、火山の国、地震の国だからこそ温泉があり日本の国土から生まれた恵みだったとなるそういう恵みはそれぞれの国々に与えられている、砂漠の国にはなにもないかというと石油が与えられていたからである。
神はそういう点公平だったのかともなるのである。

人手不足倒産時代 (特に飲食業が人が集まらない)


人手不足倒産時代

(特に飲食業が人が集まらない)

低価格のラーメンチェーン「幸楽苑」を運営する会社が人手不足で人件費が上昇し採算が悪化しているとして、全体のおよそ1割に当たる50店舗余りを今年度中に閉鎖すると発表しました

サービス業ってのはそもそも半分虚業じゃないの? 
単に自分がやればできることを他人にやらせてるだけの商売は特に

人手不足で休みます

幸楽苑が原町にあるけど二人だけで忙しい,この辺は原発事故で若い人が減ったとかあり人が集まらない時給を高くしても集まらない,それは全国でもそうである。
働く人がいなくなれば会社もやっていけない,しかしもともと飲食業とかしたくない仕事がこの世に多い,だからそうした飲食業は給料も安いとなると人も集まらない
何かそうした仕事は機械化してゆく,事務関係でもAI化してゆく,つまり給料もあるが人間がやりがいを感じないこともある,自分は流れ作業しか仕事していないから仕事のことがわからない,そういう仕事は金をもらってもしたくない,人間の尊厳を傷つけるのである。

こんなことが人間の仕事なのか?そうして遂に自分の場合は仕事をせずに一生終わったのである。ただそれは特別恵まれたからできたことでありニートとか今は普通だけど団塊の世代はガムシャラに企業戦士として働いたのである。
それは何か高度成長時代は働く意欲がみんなあったのである。上昇気分があった,経済成長が国全体として高揚したものとなっていたのである。
日本はアメリカに戦争に負けても経済では勝ったとかなっていたのである。
だから国民全体が今とは違って働く意欲があった,それは仕事がいろいろあっても全般的に言える,そして給料も毎年上がりマイホームとかいろいろ将来への望みがありそれが目標となりかなえられるとなっていた

そもそも時給で働かせることは人間の尊厳を傷つけていないか?
人生は時間を何に使うかで本当に決まる,時間が一番大事なのである。それが安く切り売りされている,でもその時間がもしただ切り売りするのではなく何か自分のスキルを仕事を身につけるならいい,例えば大工なら職人なら職人として仕事を身につける,それが誇りになる,職人は仕事をするというときその仕事に関して専門家だという自負がある
他でも仕事は一人前にになるには修行をする,それはその仕事でスキルでも何か社会で給料だけではないものを身につける,それで社会からも大工なら大工として認められるし自分もそのスキルで誇ることができる
飲食業などはチェーン店などではそうしスキルは与えられたものであり機械化している感じになる

要するには本当は誰でもできないものがあるにしても誰でもできるものでありロボットでもできるのじゃないかと見られる職業が人手不足となる,そうして機械化するとAI化するのである。それは人間はこんな仕事したくないとなるものなのである。
だからたいがいの人か人手不足というときただ奴隷が欲しいだけなんだよとなる
時給2000円くれるのが当たり前だとなる,それも人間になるとそうなるのである。
人間は「俺は機械じゃない」とかなる,そういう人間の尊厳を傷つける労働が多すぎるからである。

では仕事は「俺は機械じゃない」という仕事をしている人は少ない,江戸時代だったら職人は手作りだから一つ一つ丹精こめてその人の技量を活かして独自のものもう作っていただから下駄すら作った人の名前がついている,今でも近くの包丁を作っている店はいい包丁だとして知られている
何かそういうことが江戸時代には手作りの社会だから多かった大量生産の時代になるとそういう仕事がなくなった,みんな型にはまったものを大量生産するだけだとなった,それは人間も同じような型にはまった人間の大量生産だったのである。

それは学校という場がそうした大量生産に向く型にはまった人間を訓練する場として作られたというのもそうである。
江戸時代の寺子屋は机でもばらばらであり自由だからである。
この大量生産の時代は命も安価となったのである。
戦争で大量に何百万人も死んだというのも現代社会の大量生産の結果だという人もいるのがわかる,ナチスをそうして批判している思想家もいる
今まではそんなに大量に死ぬ戦争はなかったからである。

ともかく飲食業でも人手不足でみんな倒産するというのも困る,飲食業は社会にとってただ腹を充たすだけの場ではない,憩いの場だと社交の場だとか気分転換の場だといろいろある,人間のすることはまず一つの機能だけをすることはないのである。
人間の仕事はただ部品を作るということではない,だからロボットのように人間を使うことはできないのである。
自分は外食することが多いから飲食業に関心をもっている
飲食業は実は他者と区別できる,同じ品物を売っていないのである。

料理はみんな店で違っている,最近鹿島の仮設の食堂が一軒残っているけどメニューを変えた,500円のカレーがうまいなと思う,いい肉も使っているから500円では手頃である。そのカレーはそこだけのカレーなのである。
そういうものが別にチェーン店だけではなくても作れるのである。
だから飲食業が誰でもやれるとはならないし個別化できる,他と違ったものを作れるということである。それで人を集められるということがある
ただ商売は場所だから都会のようにある程度人がいないといくらうまいとしても人が集まらないのである。
商売にはいろいろな要素がからんでくるからである。

サービス業ってのはそもそも半分虚業じゃないの? 
単に自分がやればできることを他人にやらせてるだけの商売は特に

別に飲食業がなくても自分でも作れる,でもそうしたら人間の生活は豊かなものにならない,豊かさとはただ食べるだけのことではない,雰囲気とか仲間と親交をあたためるとか人間が食べるというとき腹を充たすだけではないのである。
鉄道の駅だってただ電車に乗るというだけではない,そこは出会いと別れの場であり人間的情をはぐくむ場でもある
つまりメカニカルなだけではない,ヒューマンな場なのである。そこが自動化して無人駅になってもだから駅員が必要だともなる,人間的な場にする必要があるとなる
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メニューをかなり変えた ラーメンでも盛りがいい,いいものを食材に使っている
仮設はここ一軒しかないから淋しいとなる
やはり何軒も食堂でもあれば選べぶからいいのである。
そこに仮設商店街の利点があった


posted by 老鶯 at 08:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題