2017年11月11日

木枯らしに時雨(川子の御堂)


木枯らしに時雨(川子の御堂)

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ジャンパーにぽつぽつ音して時雨かな

柿なりて御堂一つや旧き家

冬の蝶隠れて見えず飛び去りぬ

明和の碑川子の御堂や銀杏散る


風樹々をゆすり吹き鳴り時雨ふる木の葉も舞いて飛び散りにけり

風鳴りて木の葉吹きちり時雨ふる山頭火の影遠く消えさる


最初ぽつぽつとジャンパーに時雨の音がした,それから木枯らしが吹いて木の葉が吹き上がり舞い散った,川子に御堂があった,何の御堂かわからない,でもその脇の碑には明和とあった,戒名だから死んだ僧侶なのだろう
あそこが意外と古かったのである。なぜなら天明より前だからである。

その前に家があり柿がなっていて落ち着いた風景になる
ただあの辺は家が少ない,だから一部落があったのかとなる

とにかく今年の天気は本当に変わりやすい,急激に冬が来たのである。
時雨というとぽつぽつと降るのが時雨と思っていたが一雨降った
でも明らかに時雨の雨だったのである。

時雨というとき山頭火が時雨を俳句にしていた

後ろ姿のしぐれてゆくか

音はしぐれか

大樟も私も犬もしぐれつゝ 山頭火

犬もしぐれつというとき山頭火らしいとなる,野良犬のように旅したからそうなった
ただ時雨というとき静寂の中にぽつりと音がして時雨をイメージする
ところが今日のように時雨のときは雲がかたまり流れて嵐のようになるときもある
木枯らしと時を同じくして時雨になる,だから今日の時雨は一所雨になったのである。
雨が風とともにふり樹々をゆすり風が唸り木の葉が舞い上がったのである。
だから急激に冬が来たのを肌で感じた,家では二階にいたら下から木の葉が吹き上げられた

今日一日の変化は激しかった,電車も一時遅れたらしい,それで二両の電車の写真を撮ろうとしたがとれなかった,代わりに時雨と木枯らしの写真をとったのである。
これは動画ではないから良くわからないが時雨の雨が筋になって写っている
ともかく冬が急激に襲うように来たのである。

山頭火の時雨の句の意味 (旅人になれない現代)

冬来る(今年は急激に季節が変化する)


冬来る(今年は急激に季節が変化する)


木の葉散る眠るは誰や墓地のぞく

故郷に見送る人や柿なりぬ

晩菊や孫連れ歩く小径かな

晩菊に午後の日ざしや裏の路次

舞い上がる下より木の葉風鳴りぬ

冬日さし全集のページめくるかな

我が椅子のここに動かじ冬の雲

昼時に二両の電車や冬の山


今年は季節の変化が激しい,ここ何日かは晩菊とかを見ていた
しかし今日は二階にいたら木枯らしであり風が朝から唸っていた
そして下から木の葉が風で吹き上げられた

自分はただそこで座る椅子があり休んでいる
外を見ると冬の雲であり何かこうして動かないことが安らぐようになった
だから老後は住む家と住む場所とか誰と住むとかが大事になる

全集のページを読み直しめくるとそこに冬の日がさしてくる,こういうことは電子本ではできない,そうして読んだものはなぜか記憶されやすいのである。
電子本とインターネットは検索するのには便利なのだがなかなか記憶しにくいのである。なんでもいい面と悪い面が人間には生まれる,だから自分は電子本にはなじめない,本のが読むのにいいのである。

ゆったりと定席の椅子にすわり本を読む,それが幸せな時である。
外を見ると冬の雲が動かない,何か動かないことが落ち着くとなる
結局年取ると何か動き回ることは苦手になる,じっとしていることがいいのである。
だから家でゆったりする場がないと落ち着かないとなる
家事を一人でしているからその家事が手間になるときがある
でも機械化しているからコツを覚えればなんとかできる

one cloud in winter
the still one
on my sitting chiar
in stability

とかなる

自分のプログの検索は

検索窓でキーワード→タイトル(題名)を押す→全文表示

これだった,なかなかプログでもインターネットは操作がわかりにくいのだ
だから検索するのがむずかしい,ここで季語を入れれば関連したものが出てくる
そしてタイトルを押すと全文表示できるから便利である。
季語をキーワードとして入れると検索できるのである。
これは自分にとっても便利だった,何を書いていたのかもわからなくなったからである。

「二両の電車」と入れると一連のものとして読める





タグ:冬来る

便利な自分のプログの検索方法 (キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)


便利な自分のプログの検索方法

(キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)

キーワードを入れてタイトル(題名)を押すと全文が表示されます

これはわからなかったけど便利である

自分のプログは膨大なので自分さえ何を書いたかもわからなくなった
だからこの検索方法は便利である。

二両の電車と入れたら一つの連作として作品化できる
他にもそうして分けてまとめることができるのが便利である


検索窓でキーワード→タイトル(題名)を押す→全文表示
タグ:検索

観光立国の疑問 (なんでも経済優先は後で後悔する)


観光立国の疑問

(なんでも経済優先は後で後悔する)

デパートの売り上げが大幅に減ったことはともかくとして、これまで培ってきた「洗練された」「高級感あふれる」「落ち着いた」街という銀座のイメージが損なわれてしまったことは残念ですね

短期的な儲けを当てにして、外国人観光客目線の商売をすることは、長期的には、街に対する愛着を失わせてしまう恐れがあります。


NHKで観光立国のことを今放送していたけど疑問である。人間社会というのは何かを得れば何かを失う宿命にあることに気づくべきである。
確かに経済的に困窮してくると観光でもなんでも金を稼がねばならないとなるからそんなことを言っていられないともなる
この観光立国の問題はもしかしたら日本の文化的なものが破壊されることかもしれない
京都などの古都ではそういうことが起きているだろう,しみじみと静けさのなかで味わう日本的情緒が外人がおしかけて喪失する,それはすでに修学旅行生などで起きていたのである。そもそも寺は観光のためにあるのではない,修行の場だったのである。
これは銀座だけの問題ではない,京都などで一番起きている問題だろう

それぞれの土地には、そこに根差して暮らしてきた人々が時間をかけて培い、大切にしてきた歴史的、社会的な「意味」があります。そうした意味を、人々が共有しているからこそ、郷土愛や郷土意識、人々の同胞意識が育まれ、村や町、ひいては国が成り立っているわけです。


ここの文章はうまく表現している,観光が目的化するとこうしたものが無視され外国人のためにばかり配慮してそもそも長年生活していた土地の人のことは無視される
それが国の政策として奨励されると余計にそうなる
京都などは何か和服の人がもともと静かに歩み通るのに向いていた,それがすでに現代化したとき失われていたのである。
さらに外人が増えるともう京都の情緒もさらに失われる,だから宿もとれないとかなるともう行きたくないとなる,自分は十年間旅行していないししたくなくなったからいい。
自分が旅行したときは恵まれていたなとなる,むしろ閑散としていた方が情緒が味わえる
これも不思議なんだけどこの辺では原発事故で一時原町と相馬市の駅の間しか電車が通らなかった,それが何か人間的なのである。今までは6両くらいのときそう感じなかったのである。

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今日も行く二両の電車や秋の虹
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冬の雨(二両の電車の不思議は以前としてつづく(4)
枯野(人間的な二両の電車)

二両の電車は今でも二回くらい行き来している,乗る人が少ない昼間である。
なぜでは六両の電車と二両の電車が違って見えるのか?
それは一つの謎である。六両だと人間的ではない,二両だと時雨たりしても何か電車が人間のように見えるのである。
車だと時雨とか風でも感じない,外から見ても感じない,電車は風景と溶け込むことがあるので人間的なのである。それが二両になったとき余計に感じたのである。
この感覚は不思議だなと思う

だからこういうことは観光にも影響しているのである。京都などは人が多すぎたらもう本来の京都の情緒はないのである。
そして最近観光に来る外国人は別にそんなふうに見る人達でもない,ただラーメンを食べたいとか庶民が来ているのである。それでやはり観光により俗化が起きてくる
夜も楽しみたいというときそこに若者も来ているから見せ物を作り出す,それは日本文化とは違う,テレビのような見せ物になる

ただそうはいっても人間はつくづく背に腹はかえられないのである。
みんな金になるならやるとなる,地方では余計に衰退しているからそうなる
ただそこで失うものもまた生まれる,マイナスの面が生まれる
原発でもとにかく金になればいいと地元の人達が誘致したのである。
今になると後悔しても時遅しだったのである。
だから観光も極端化してゆくと遂には日本文化の破壊までになる

ただ日本はそれだけ落ちぶれたから贅沢は言っていられないとなる
要するに金のために日本の魂まで売るとまで大げさに言えばなる
それは原発でそこに住めなくなったこの辺とも共通しているのである
何か当たり前にあったものが喪失した,「生業を返せ」と補償金を要求しても
金をもらってももう生業は返ってこのないのである。

だから観光立国がすべていいように政府が奨励してもその弊害もある
ただ人間は背に腹はかえられぬとなる,別に自分は海外旅行したから外人と交わるのが楽しいということがある,外人と交流したいということもある
一人一人が外交官になる必要があるというのも面白い指摘である。
外人と交流を深めれば日本を理解されるからである。
それでもこれだけ数が多くなると問題が生じてくる
やはり限度があるが日本は何で稼ぐとなると観光で稼ぐほかないとなりそれをとめることもできないだろう。それで失うものより金が欲しいというときそれは原発と同じなのである。そして後で後悔したりするのである。


タグ:観光立国
posted by 老鶯 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層