2017年11月09日

忘れられた昔の生活 (戦後十年は江戸時代のつづきだった)


忘れられた昔の生活

(戦後十年は江戸時代のつづきだった)

その家の近くだけど農家だった,だから庭が広い,農作業したからである。なぜか隣が神社でありそこに脱穀機が置いてあった,馬を飼う納屋があったのを知っている
その家に嫁いだ女性は八五才で死んだ,その人のことは子供の頃から知っていた
その夫は鉄道で工夫として働いていた,妻は農家で仕事していたがあとで菅野漬け物屋で働いていた,農家だから糞尿を汲みにきていたのである。
農薬を使わない時代は肥料は糞尿であった
便所は新聞紙を使っていた,トイレットペーパーがまだなかったのである。
何か汚いという感覚にはなるがそれが仕事だったのである。
もし糞尿を捨てる場所がなかったから困ったからである。

鉄道で働いていたというとき他にも国鉄の時代であり鉄道全盛の時代は鉄道はいい働き口だった,給料も良かった,民営化で騒いだがその時は高度成長時代であり退職しても金はもらえたのである。その時野党は社会党だったのである。
国鉄が衰退してなくなり民営化して社会党も消失したのである。
農業していたし国鉄で工夫で働いてもそれなりに収入は良かったかもしれない
ただ金に困った時はあったようだ,金に借りにきたこともあった
それでもそんなに生活に困るというのではなかったと思う
高度成長時代というのはみんなが豊かになった時代だったからである。

鉄道全盛の時代は鉄道関係の仕事が多かった,国鉄職員も多かった,今になると車関係の仕事が多いのと同じである。
鉄道の時代から自動車の時代になったからである。
ただ自分のように車をもっていないものは車がわからないのである。
だから現代では車をもっていない人は時代遅れであり仕事にもつけないのである。
たまたま自分は幸運で仕事しないですんだが車なしでは仕事にならないのが現代である。それで車もっている人は高速道路に入ると楽なんだと言うのは意外だった
車間距離をとれば自動運転するように行けるともなる,高速は自動運転化しやすいことがそのことを聞いてわかったのてある。
今は車のことがわからないのは社会もわからないとなるのである。
一方で旅するときは歩くことや自転車でする方が記憶に残る旅となる,車だったら昔の街道を行っても旅した気分になれないのである。

その近くに井戸があり自分の家では井戸がなくその水をもらっていた,水は水道がないのだから井戸がない家は水をもらっていたのである。
子供の時風呂に入るのには水くむから大仕事になる,バケツで水を運んだからである。
風呂は父が手作りで作った小屋のようなものだった,外風呂であり便所も外にあった
水道がない時代というのも相当に不便だったろう。
洗濯は近くの小川でしていたのである。
だから江戸時代のつづきを子供時代に経験しているのである。
燃料は炭であり炉端があったからである。

 朝顔につるべとられてもらい水 千代女

これは江戸時代だけと明治以降水道がないのだからもらい水だったのである。
街中では良く姉が言っていたけど「水ください」と井戸ある家に頼んだと言っていた。
それは子供の時であり井戸がない家はそうして頼むほかなかった。
でも水をもらっても金をとったりしないのが昔だった
第一払う金などない時代だからである。
その点農家の方が井戸はあるし自給自足で納豆を作っていたとか鶏がいて卵とかその肉も食べられたとなる,農家でもいろいろあり小作は貧しいが農家の方が豊かな面があった

橋は木の橋であり土橋だった,だからゆれるので怖かったのである。
自分はその橋を卵買いに行かされた,卵は農家から買っていたのである。一個か二個卵が割れるのである。そういう経験したことは今になると貴重である。
仕事はやはりわずかのものしか経験できない,仕事を経験するだけでも人生にとって貴重である。自分はその後仕事していないからそれを感じるのである。

昔をふりかえると不思議なのは江戸時代が理解できないことがある
江戸時代は靴下とかはいていない,女性でも素足なのである。冬でもそうである。
浮世絵の遊廓の女性も素足なのである。だから寒いと見るのである
そんな寒い所で良く暮らせたなと思う,それが時代が違うと理解できない
江戸時代で裸足で歩いていた人もいたという,なぜできたのか?
金属片とかガラスがないからできたと言うのも今から考えるとそうなのかとなる
道でも人と馬さえ通れればいいのだから広い道はいらなかった
第一広い道を作るのは簡単にできないからである。
子供の頃の道は舗装されていない,だから埃がたつ道だったのである。

外国ではネパールなどでは裸足で今も歩いていることに驚いた
インドでも街中で力車の人は裸足である。
裸足で生活することは何か原始的なことである。
現代人は相当に身体的にも弱くなっているのである。
ネパールとかインド農村に行けば昔の生活を体験できるのである。
そこに旅の面白さがあったが若いときならいいが良く見れなかったのが残念であった

街の中でも農家があるのが普通である。養蚕もしていたし田舎では街も農家の一部なのである。そもそも町というのは一区画のことであり今の町とは違った意味だったのである。だから村の中に町とつく地名がある,そこに町があるのではない,一区画の意味だったのである。墓町とあれば一区画が墓地になっている所なのである。
馬町とかあれば馬を売り買いする一区画だったとなる

家はトタン屋根であり雨漏りして洗面器を並べていた,それが伊勢湾台風で自分の家は低い場所にあったので一番被害が大きかった,その後に今の大きな家を建てた
煮炊きするのは竈であり炭や薪が燃料だった,だから台所がすすけて黒くなっていたのである。店をしたり食事の用意をした家事をすると忙しい,昔の人はまず家事に半分は費やされた,だから中流階級でも女中が二人いたとかなる,それだけ家事が一仕事だったからである。電気製品とかなければそうなる,オカズでも売っていない,作っていたから家事にさく時間が多かった,それで母と遊んだ覚えがないのである。

芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞く夜(よ)かな 

昔の家は雨漏りするのが普通だった,ヤハな家だったのである。

大正生まれの母は原紡(原町紡績)で働きあとは東京へ女中になった,まずその頃女性の職場は紡績工場とか女中くらいしかなかったのである。その時良く東京に行ったと思う
母はそうした冒険をしないおとなしい女性だったからである。それだけが最大の冒険だったのである。女中でも現金収入なるとなり喜ばれたのである。

何が一番変わったのかというと政治体制とかではない,基本的な暮らしが変わったことである。今までに高度成長時代のようにな成長もなかったし庶民まで豊かな暮らしはしていない,庶民はずっと貧乏だったからである。
歴史をふりかえれば今ほど人間が贅沢を覚えた時代はなかったということである。
そして莫大なエネルギーを費やしている時代もなかった
石油であり原子力発電であれ信じられない莫大なエネルギーを使っているのが現代なのである。こういう時代は世界的にもなかったのである。
その歪みが原発事故とかなり石油戦争とかも生み出したのである。

ともかく人間は最後は思い出だけになる,つまりこうして昔を語るとき思い出すとき老人は生きているのである。それで認知症になると千回も昔のことを同じことを話するのである。それが生きた証(あかし)だからそうなるのである。
インターネットはこういう昔のことを書いたりするのに向いているかもしれない
これが本とかなるとできないからだ,今は地域の人にも語れないし子供にも語れないからである。
そしてインターネットでもパソコンでもこれからしていた人も老人になってゆくからである。
すると何でも思い出話に花が咲くとなるからだ,ただまだ若い人中心だからそうなっていないだけである。
遂に2チャンネルでも老人が増えて昔を語るようになる
今は老人はのけものにされているがやがてそれも変わってしまうのである。

posted by 老鶯 at 17:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ) 白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南街(福良)から会津へ)


白河街道の旅

(勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ)

SHIRAKAWAA1.JPG

SHIRAKAWAAA1.jpg

同年、会津6郡・仙道5郡を与えられた蒲生氏郷が会津に入部すると、白川の地も氏郷の支配下に入り、氏郷は小峰城に城代として4万8千石で関右衛門一政、次いで町野長門守吉高を置いた。

漆器に目をつけ,会津から職人をうつして藩の産物とした
紙も会津人牧本善右衛門をまねいて様々な紙をすかせ一産業とした.

白河に会津町があるのはこういう歴史があるためである。会津町が城の近くにあるのもそのためだろう。

地図を見ると丹羽長重の墓がある

長重は毎日2,000人を動員して約4年の年月を経て小峰城と城下町の大改築を施し、白河城と呼ばれるようになった。

白河城を築いた人だった,聞いた話だと白河城の石垣には十字が彫られているという,それは掘られているという蒲生氏郷がキリシタンだったからとなる
そうした隠れた歴史がある,それは地元の人しか知らないということもある

白河街道というとき白河を意識するが会津街道にもなる。今でも六号線は東京からだと水戸街道と言われている
ここで白河に馬町があるが馬市が行われていたのだ

三代村の川をだんだんに登れば勢至峠である,分外に広い山野があって木地屋などの小屋掛けしているのが見える
峠になった勢至堂は下りの中腹にあって荒れた宿場である。会津へ帰る武士はここで酒を飲んだ,ここはまだ会津領ではなかった
勢至堂は馬の守り神かと思われる,奥州では所々にその石塔がある
この山中の村でも家々に駒を育てている,昨日買われた二才駒が五六匹一繋ぎになって見知らぬ親父にひかれてゆく,いづれも小さな木札が下げられている
香川県綾歌郡などと書いてあった
左側が片岨(そば)になっていて江花の古駅は坂道の両側に村を成している
この辺はみな熱心な馬飼いで一等賞を得るために泥鰌を食わせたり卵を飲ませたりしているう(柳田国男全集-勢至峠)

白河では馬市が行われていた,これは戦前のことでありそれで香川県からも馬が売られたのか?ただ江戸時代からも馬市があったのだろう。馬町という名がつけばそうである。
その辺の由来はわかりにくい,ただ白河は十万石くらいあるとしてやはり大きな藩だったのである。相馬藩は六万石だからである。白河は白河の関で有名なように要所だったので明治維新の時はそこが争いの場となったのである。
東北の藩が集結したのである。相馬藩の武士も戦いに参加した

馬というときなぜこれほと馬頭観音が多いのかとなる,それは馬が死んだときその供養のためだった,すると馬は二〇才くらいで死ぬからその数も多いのである。
だからそれだけ馬頭観世音の碑が多いのである。

勢至峠は車の道からはずれた所に家並みもそのつまに残っている,それは旧道になっているのだ。
この峠を越えて福良にでる,今は湖南町である。ここは郡山市なのである。
勢至堂も会津領ではなく白河領になっていた,境目になる場だった

この街道は二回か三回通った,春とか夏とか秋である。
普通はみんな鉄道が通っている方を通るがこっちの方がものさびて歴史を偲ぶのにはいいのである。福良では湖南町では一回蔵の宿に泊まったのも趣があった
あの辺はかえって猪苗代湖でも景観的にいいのである。奥まった所にあるからだ
福良は自分が行った時でも街の通りに茅葺きの家が何軒かあった,今はないだろう。
焼き物でも有名だった,あそこは魅力ある場所である。

清水湧き野菊の咲くや旧街道

山間は芒に暮れぬ旧き道

会津へと街は遠きも山間は芒に暮れぬてかすか虫鳴く

会津というと萱が芒が茂る山が多い,昭和村の方に行ったときも山が萱に覆われていたのである。この辺ではこんなに萱が繁っている風景を見ない,それだけ大量の萱が産出する場だったとなる,それは大内宿のよ茅葺きの家のように萱が大量に必要としていたからその需要があった,会津から萱葺き職人が相馬藩辺りに来たとういのもそういう技術に優れていたためである。
ともかく白河街道は魅力ある街道である。

白河はまた南湖公園とか翠楽苑(すいらくえん)とかある,翠楽苑は十年くらいして整備された,借景として自然の松林を利用している,いい庭園である。



白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

白河の秋の翠楽苑

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)

福島県の旅の部に白河について連作として書いています
キーワードで白河と入れてあとはそのタイトルをグーグルで調べると全文読めます

タグ:白河街道