2017年11月07日

城は何を意味していたのか? (城は建築は文明の象徴でありまた権力の象徴だった)


城は何を意味していたのか?

(城は建築は文明の象徴でありまた権力の象徴だった)


●建築は文明を象徴したもの

建築は文明を象徴したものとしてあった,城の美とかを自分も追及した,白壁であり簡素であり質実なものが城にはある,その建築には日本の精神と美がある,建築には必ず人間の精神が反映されている,建築物を見るとその国のまた一時代の文化が具体的にわかりやすいのである。
だからヨーロッパの建築は多様である。教会でもろいろいろに別れている,
ビザンチン建築ゴシック建築ロマネスク建築ルネサンス建築イスラム様式建築とかありその時代をみることができる,ローマ風というとき建築の歴史の基礎はローマにはじまっているからである

arch- の語源を辿れば、古代アテネ ancient Athens の第一執政官 archon に行き着く。archon は統治者 ruler であり、命令を下す始まりの者 begginer である。ここから、
arch-(pre-vowel), archi-(pre-consonant) : <接頭語>第一の、首位の、始まりの →昔のの意味が生ずる。

「首位の」
archangel [ɑ'ːrkèindʒəl] : n. 大天使 cf. Michael the archangel 大天使ミカエル
architect [ɑ'ːrkətèkt] : archi-(統治者) + -tect(造り手、大工 cf. tectonics, technology) → 大工の棟梁 → n. 建築家、設計者、発案者

Architecture

建築はこのように統治するということに結びついている,文明を見るときエジプトであれローマであれマヤであれキリスト教文明であれ建築を見てその文明を見る,建築が文明を象徴しているのである。
だから日本の文明というか文化というか最も象徴しているのが城だとなる
しかし現実に活きていたときの城は明治以降廃止された,その時城は邪魔者扱いされていたのである。あの姫路城が10万くらいで売りに出されていた,貴重なのは城ではなく燃料になる木の方だったというのも今になると信じられないとなる,なぜなら熊本城でも地震で壊れたら何百億円でも直そうとしているからだ,名古屋城で金がかかっても木で作ろうとしている,それだけ城の価値が見直されているのである。
その時時代の変化で城とか侍は一気に価値を失った,その変化があまりにも大きかったのである。だから今になって明治維新を見直す風潮になったのである。
つまり3百年つづいた侍の時代にもいいものがありそれを全否定したことで後悔しているのである。日本人は太平洋戦争でも負けたらころっとアメリカ追従になり文化まで否定する,全否定してしまう,そうなると文化の継続が消失してしまうのである。

城の美学

●城には桜も木も植えられていなかった

桜の名所に選ばれているお城は全国にたくさんありますが、実はお城に桜が植えられたのは明治以降のこと。1873(明治6)年の廃城令で大半のお城が取り壊され、廃城処分で民間などに払い下げられた際、市民に公園として開放されるようになって、桜が植えられたケースが多いのだそうです。

【そもそもお城に樹木はなかった!?】

では江戸時代まではどうだったかというと、そもそもお城に樹木は植えられていなかったそう。なぜならお城が攻められた際、樹木は視界をさえぎり、敵にとっては絶交の隠れ場所になってしまうから。江戸時代に幕府の指示で描かれた城の絵を見ても、樹木が確認されるお城はほとんどなく、あってもほんの数本。それも万が一のときに食糧や薬、燃料になる松、椎の木などだったそうなんです。

城は明治以降は無用のものとされた,でもその後城は公園とかなり庶民の憩いの場所となり鑑賞する場になったのである。
城は鑑賞としてだけ見るようになった,城についての詩歌でも俳句でも短歌でも城がなくなってあとに作られたのが多いのである。
今城には必ず桜が咲いて映えるが桜や木は城に植えられていなかったのである。
いろいろな城の詩でも城がなくなってから作られたのである。

春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い) でし 昔の光今いずこ

これもそうだし城がなくなってその城があったときの時代を偲んでいるのである。
明治となるとまだそういうふうに城があったときを記憶している人がいるからだ

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ 島崎藤村

これもそうだった,まさにそこはもう城があってもそこに寝ころび休む場所にすぎなくなっていたのである。そして雲がいづこともしらず流れてゆく,放浪の詩人がただ廃墟と化した城を偲んでいるのである。

「不来方(こずかた)の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし十五の心」石川啄木

これもやはり城はただ公園となり遊ぶ場所と化していたのである。

●城があった時城は近寄りがたい怖いものだった


人寄せぬ桜咲けり城の山 

鎌倉や今はかゞしの屋敷守 一茶

絶頂の城たのもしき若葉かな 蕪村

二本松城の跡かや蕎麦の花 子規

城というとき江戸時代に庶民からどう見られていたのか?一茶だとこんな感じになる
一方で蕪村は頼もしとあるから城がありそこで庶民を治めるものを賛美していることになる,これはただ美的にも見ているのである。
不思議なのは芭蕉には城の俳句がないのである。これはなぜなのか謎である。
城というのはともかく一番目立つものだったからである。
今では必ず城を見ることになる,でも城があったときはその城の中には入れないのである城に入れたのは侍でありそれもよその藩の者だったら招かれなければ入れない場所だったのである。

一茶のそこのけそこのけお馬が通るというとき何か侍に対していい感じをもっていなかった,それは侍は当時権力者だったからである。
おそらく庶民は侍に対してはそんな感じで見ているのが普通である。
その時の庶民の気持ちはなかなか今になると察することがむずかしくなる
普通の感覚では「人寄せぬ桜咲けり城の山」ここでは桜が咲いていたから不思議である。桜が咲いていたとしても人をよせつけないというより第一城には庶民など入れないのである。遠くから見ているだけである。居丈高に城が庶民を見ているだけだとなる

時代が変わると何が怖いものか変わってくる,侍の時代は侍が怖いものだった,それはやはり権力をもっていたからである。その前は僧侶や貴族なども怖い存在だった
なぜなら僧侶は教会とかを支配していた支配者であり日本でも僧侶は大寺院を有した権力者だったからである。宗教を恐れる前にその権力を恐れていたのである。
それは今のカルト教団にも通じている,その背後にある数の権力とか権力と通じていることで恐れているのである。
時代によって怖いものは変わる,今は医者などが怖い存在である。医者は今の権力者でもあるからだ,医者だけは尊敬されているからである。
あとは金持ちが今の一番の権力者になる,金さえあればその内容は問わない,一番の権力をもつことになる,昔もそういうことはあったがやはり時代によって怖いものは変わってくるのである。

鎌倉や今はかゞしの屋敷守 一茶

この屋敷も鎌倉に幕府があったときは権力をもった武士がいたから怖い場所でもあった,それが一時代すぎたとき案山子が守ってるだけの廃屋のようになり怖いものがなくなったのである。

牛砲打つ地城の上や雲の峰 漱石

二本松城の跡かや蕎麦の花 子規


1871年(明治4年)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射されていた。
牛砲による正午の通報は、現在の東京都区部の大部分で聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれ人々に親しまれていた。

江戸時代には、江戸市中に時刻を知らせるため「時の鐘」を鳴らしていたが、明治時代から牛砲となり、1929年(昭和4年)5月1日にサイレンに代わり、1938年(昭和13年)9月まで続いていた。

漱石の俳句は城が頼もしいものとしてまだ感じていたのか?明治になり時を知らせるのが牛砲になった,大砲を打つ音になった,ただこの俳句は城がまだ当時のように活きている感じになる
一方で二本松の城となるとそこはなにもない蕎麦の花になったのである。
明治維新で薩摩長州軍に荒らされてそうなったともなるのか?
ただ一般的に明治維新後姫城すら全く価値ないものとして売られようとしていたのだから明治の変化はあまりにも大きかったのである。
人間社会は時代によって怖いものが変わる,侍が戦争中は軍人が怖いものであり威張っていたのである。でも今自衛隊の人を怖がっているか?
警察は怖がっているが今庶民にとって自衛隊員は下位のものとなっている
こういう時代は平和でいい時代だとなる,警察が庶民にとって怖いのはやはり今では一番権力をもっているからだとなる,暴力装置でもあるからだ

侍と庶民がどういう関係にあったのかはわかりにくいがこの祭りは面白い

馬威し-武士と庶民の正月行事
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ここでは侍と庶民が交わり身分も関係なく庶民が馬の邪魔をしている,ここに身分の差別はなくなっている
ところが相馬野馬追いでは御行列とかといって二階から見るなとか何かとうるさいのである。野馬追いは侍時代の身分差別を意識するときでもあるのだ
馬上から野馬追いに出る侍となった人は威張れるのである。
だから野馬追いに出たいという人もいる,野馬追いに出るからといってその人は別に普通は庶民にすぎなくなっているからだ

馬に乗ることが許される者の身分を厳格に定めたことも、馬車がなかった背景の一つ。
馬にまたがって手綱を取って乗れるのは武士のみ。

馬に乗れるのは身分によって決められていたのである。侍しか乗れなかったのである。
そういう身分社会のことを今になると理解できなくなる

ただこういう祭りがあったということはやはり何か侍と庶民が交わるということもあったこういうのは実際は例外的でありなかなかなかったとも思う
とにかく今城を見ているのと江戸時代に城を見ているのとは全く違っていたのである。
歴史を見るとき今の時代から見るから必ず誤解して見ているのである。
つまりその当時を生きることはできないから必ずそうなってしまうのである。
今は城は怖くない,ただその美だけを鑑賞しているのである。


晩秋から冬(城の俳句十句) (城は季節でも周りの環境で印象が違ったものになる)


晩秋から冬(城の俳句十句)

(城は季節でも周りの環境で印象が違ったものになる)

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晩秋の熊本城や古木かな

和歌山城白壁に映ゆ朝の菊

晩秋にたずぬや大き彦根城

塩の道松本城や秋深む

足軽の長屋あわれや冬たずぬ

実りありここも一国秋田城

城外に虫の音あわれ会津かな

打ち曇り雪に暗しや鶴ヶ城

冬の日や老松残る盛岡城

二すじの冬の川流る盛岡城

弘前城雪に埋もれて門古りぬ

老梅の根を張り冬の弘前城

弘前の遠くや雪のしきり降る


長々と城の石段登りつつ白壁映ゆる秋の朝かな


標高約49mの虎伏山(とらふせやま)の上に建てられ白壁の天守閣の美しさから、別名「白亜(はくあ)城」、山の名前を取って「虎伏城」などとも呼ばれていました。

城は必ず旅したり観光すれば見る,その街の中心にある,城がわからないと歴史もわからないとなる,でも城がどういう印象が残るかというと城によって違う,それはその辺り景色とか季節によっても違う,今回は秋から冬の城である。

不思議なのはなぜ和歌山城が印象に一番残っていたのか?それは白亜の城というように白壁が映えることとその時季節が秋だったからである。秋に白壁が映えるからである。
それが鮮明な記憶となる,記憶として残っていた:それから石段が長く坂になっているのも記憶に残る,何か城というとき平城が多い,ここは平山城であり高い方の城だったからである。ただ城というのは全体を見るのがむずかしい,ここは天守閣が二つあったというのもわからなかった,事前にそうした知識がなかった
今はインターネットとかあるからそうした知識が得やすい

城といっても城だけではない周りの景色とか季節で印象が変わるのである。
熊本城をたずねたときは晩秋であり城の前の公園に太い古木があってそれが印象に残った彦根城はと大きな城だということが印象に残ったがここから琵琶湖が見えるのはわからなかった,ただここは関が原が近いから地理的に要衝だった

そんな松本城の特徴のひとつは、外壁に黒漆(くろうるし)を塗った「漆黒(しっこく)の城」であること。「これは、小笠原氏のあとに入城した石川数正・康長親子によるもので、豊臣秀吉の大阪城が黒で統一されていたことから、秀吉への忠誠のしるしと言われています」と林さん。それに対し、姫路城のように「白亜の城」は徳川家康の時代の城とされるそうです

そうなのか,秀吉時代の城だったのか?城というとたいがい白壁である。ここはだからめずらしい,松本は他に塩の道の終点として有名なのである。
相馬藩でも塩の道はあるがここは本当に日本海の糸魚川まで長いのであ。塩は牛で運ばれた,牛繋ぎ石などが市街に残っている,そういう観点からも松本を見ると違ってくる

新潟県の新発田城の足軽長屋は昔のままに残っている,これはまさに長屋である。長屋は庶民が暮らしていたのだからこれと同じだった,つまり長屋と武士の家の差が大きかったとなる,今はこの辺の市営住宅でも部屋数が三つとかあるがここでは一部屋くらいだったただこういうのは戦前でもあった。日本人はもともと狭い所で住んでいたのである。

会津の鶴が城は有名だが何か印象に残らない,平城だからかもしれない,何か特徴がない奇妙なのは城の外に田園風景が広がり晩秋に虫が鳴いていたことを記憶している
それは何を意味しているのか?会津だと白虎隊とかドラマ化されているけど庶民はそうした悲劇とは関係していないのである。かえって明治維新の時恨みをもっていた農民が一揆を起こしていたのである。会津の落城でも庶民には関係ないことでありそれで侍中心の
城があるところよりその北の喜多方が(きた)が商業で栄えたので蔵が多いのである。
どうしても旧来のものに縛られるから侍の街は新しい時代に適合できないからである。
ともかくただ冬になると毎日雪であり雪で暗かったという感じになる
雪国にはそういう暗さがどこにでもある

盛岡城は石垣だけであり中津川と北上川が流れて環境的にはいい,都会にしてはいい,
ただここの歴史は良くわからないが周りの環境がいいのである。
岩手山も見える,北上川がて流れているとか都会では景色に恵まれているのである。

建築年代を示す明確な資料はないが、いずれも江戸時代初期と考えられ、木部をあらわし古式を伝える遺構である。各門は、桝形ますがたを構成する土塁に囲まれ、雪を考慮してか下階の屋根をひときわ高く作るなど、配置や構造に工夫がなされている。

弘前城の城門は見るからに古い感じになる,雪を考慮していたというのも雪国らしい,弘前というとき青森は東北でもここからは東京より遠いという感覚になる
でも新幹線で近くなったこともある
青森は福島県からでも果ての国だという感覚になるのだ
弘前で見た雪は何か朝であり爽やかであり美しかった,雪の感覚は同じ雪でも相当に違っているのだ

心からしなのの雪に降られけり 一茶

この一句には一茶の深い思いがある,しなのの雪にふられるということはその土地に生まれて長く住んでその気候とともにあったからである。
そういう感想はその土地に住んだ人でないとわからないのである。気候の影響は人間には大きい,性格まで作る,雪国の人間が何か陰気になってしまうのもわかる
海に近いところは開放的になる,山国はどうしてもと閉ざされた感覚になるからだ
これは別に雪だけでなは,心からその土地になじめばそうなる,心(こころ)とはここのことでありここに長く住んだ人がもつのが心なのである。
それで原発事故で避難した人達はその心の場を失ったから悲劇だったのである。

しなのの雪に降られて一茶死ぬ

そこは終の住処でもあったからそうなる,人間は最後はみんなそうなってしまうのである。

青森の魅力は地の果てという感覚である。そこは冬には雪がしきりふり埋もれる,だから東北でも青森県は特殊の地理的環境にある,観光では魅力あるとなる
ともかく城というとき季節でも周りの環境でも違った印象をもつのである。
だから春とか秋とか二回くらい訪ねればいいとなる,たた全国になると城も多いからむずかしい,自分は恵まれたのでめぐり歩いていたのである。
今は何か旅行する気力がなくなったのである。

俳句という文芸は一句とかで鑑賞するのがむずかしい,短すぎるからだ,でもこうして城の俳句とかで十句とかを一つの作品として読むとそれなりに深い鑑賞ができる
これは一つのつながりがありそれで全国のつながりができるからである。
日本全国を一つのものとして見るのである。こういうことは現代はしやすいのである。
芭蕉の「奥の細道」が古典になったのはやはり一つのつながりとしたからでありその中に俳句があるからである。

今なら新幹線とかあれば何度も行けるということもある
だから季節ごとに行けばまた印象が変わるのである。
ただ問題は旅しても後で記憶に残るかが問題なのである。
自転車旅行を推奨したがこれもすべてだかいいとはならない,ともかく疲れるのでゆっくり鑑賞できないのである。電車で行けば体力的に余裕があるから見れるということもあるだから旅は電車でもいい,いろいろな手段ですればいい,でもそうなると自分のように一生が旅に費やされるとなってしまうのである。
それだけの時間が必要になるからである。そしてたちまちその旅も終わったとなる