2017年11月05日

馬が好きで東京から来た女性 (野馬追いで馬を飼っているから馬が見れる)


馬が好きで東京から来た女性

(野馬追いで馬を飼っているから馬が見れる)


今日駅であったのは折り畳み自転車で旅する人だった
その自転車は小さいもので重さは12キロあった
それを袋にいれていた,結構そういう人はみかける
でもロードとかであり小さな自転車ではない

だからめずらしい思って話しかけたら,その人は馬が好きで馬を見るために三連休を利用してきたという
東京の人であり馬が好きというのもめずらしい,競馬が好きなのかとも思ったが馬自体が好きなのである。だから北海道とかにも馬を見に行っている
この辺は野馬追いがあるから馬を飼っているきで馬が見れるから来た

もう一人青森出身の人であり下北半島の尻屋崎に「寒立馬」がいると教えた
下北半島は鉄道で行ったが終点からかなり遠い,馬に興味があるとしたら行きたいとなるのか?

鉄道の問題は駅からの足がないことである。その人もバスがないかと探してもないとか言っていた,都会だと結構バスがあるからだろう
折り畳み自転車は鉄道で遠くまで行けるが自転車が重いしかさばるので嫌になるのであるその女性は相馬市まで行こうとしたが坂があるので嫌なので電車を利用して相馬市に行った

なぜか結構鹿島駅でも遠くから来る人に出会う,遠くから来た人は無人駅になったので
切符代わりの乗車証明書をとるのがわからないから教える
スイカをもっていればいいがもっていな人もいる
だから外から来た人には教えることがある

ともかく馬が好きで馬を見に来るという人はまれだろう,東京辺りではそもそも馬は競馬でしか接しられない,競馬が好きな人は馬も好きだいうことがある
確かにそこでは毛並みのいい馬を見れるからである。

馬が一番あっているのはモンゴルのような草原なのである。
そここそ馬が一番あっている場所なのである。
馬が好きだという女性になると遠野辺りの民話で馬と結婚したという話が伝わっているからそういう女性もいるのかと思った
ただそれは馬と一緒に曲屋で住んでいたからそうなった
東京だとそんなことありえないからなぜ馬が好きになっているのかわからないのである。
ただこの辺が野馬追いということで馬を見に来る人がいても不思議ではない場所である。ただ馬だけを見に来る人はまれだと思った

像で考えろ,図で考えろ (抽象化された社会で生きる術)


像で考えろ,図で考えろ

(抽象化された社会で生きる術)


抽象化することは具体的な事物から離れてしまう,なぜ勉強嫌いになるのか?
それは学校はまさに抽象的空間しかない,何か具体的に学ぶことがない
教科書中心でありそこに具体的な現実にある事物を通じて学ぶことがない
実習として畑とか花作りなどをすればいいがそういうこともほとんどない
抽象的空間とは言葉がまずそうである。
言葉は現実にある事物を抽象化したものだからである
なぜ英語が身につかないかというと言葉でも実際の生活から具体的なものから
無意識的に覚えているのだ,

だから英語でスティディ(stedy)というのを馬が落ち着かず暴れるのを「スティディ)と言ったのを映画で見た時理解した,「落ち着け」とかの意味だがその他堅実になどいすいす意味がある,言葉そうして現実の生活の中で覚える
英語の場合にそれが結びつかないから身につかないのである。

そして現代はあらゆるものが数値化した世界になっている,数字も抽象化したものであり人間も数値化される世界である。科学は数字で現す,また化学記号化するからこれも抽象の世界になる,まるで人間は記号の中で生きていて人間自体が記号のように数字のようになっている,それで議員が病院で番号で呼ばれて怒ったというのもわかる
人間はおそらく学校でも会社でも工場でも番号化しているのである。
この人は俺は議員様だということ言いたかったのかもしれない,番号だったらどの人も同じになるからである。地位も個性もなにななくなるからである。

今の社会はこして数値化された社会である。銀行などもそうである。
金は実は数字にすぎないというのもわかる,金がもし小判とか銀でもいい金自体が価値あるものだったらその金をもったとき財産をもったとなる
数字だったら一瞬にして消える恐怖があるからだ
そして数字は抽象的だから金をもっていることが実感できないのである。
だから毎日札束を見ていたら実感できる
そしてわかったことは数字をグラフ化すると図形化するとわかりやすくなる
数字だと実感がわかないが図形とグラフ化すると実感として感じる度合いが強くなる

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この辺の放射性物質の被害もすべて数字でしかわからないものだった,それだけ抽象化した世界だから実感がわかないのである。どこに危険があるかも実感できないのである。
0.2と0.3マイクロシーベルトの相違がどれだけあるのか?
それも実感できない,放射能物質に色がついていればわかりやすいにとかなるった
水は透明であり空気もそうでありどこで汚染されているのかわからないのである。

自分は数学とか科学は苦手である。でも今ふりかえると数学の場合,子供のときから試験ばかりであり考えることがなかった,やはり考えることが学問に興味をもつことなのである。
算数も図形で考えれば具体的になり興味をもっていたのである。ただ暗記ばかりだから興味がもてなくなり勉強嫌いになる
不思議なのは一旦興味をもつとのめりこむ,そういうオタクのような人は興味をもったものに集中できるのである。そういう人が理系の人に多いというときなるほどと思う。

ともかく学問は学校で興味をもたなくても現実社会でもし役にたてば興味をもつ,そもそも数学だって実用のために生まれた,土地を計り建物を建てるのにも計測することは不可欠だからである。それはエジプトですでに生まれていたからこそピラミッドが作られたのである。知識とか技術はエジプトが起源になっているのが多いのである。

実用というとき原町の歯医者に行ったら例えば年齢により一割分や二割分や三割分がとられる,だから千円はらったとしたらそれが二割分はらったとなると実質に全部でいくらはらったことになるのか?
それが数学がわからないからなかなかわからなかった

二割ということは0・2であり分数に直すと10分の2であり数式にすると

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となりあらゆるものがこの数式にあてはまる,3割り負担になると10分の3×Xとなる
このように現実社会で役に立つと数学でも興味をもつのである。
いかに現実社会で生きるかがもともと学問だったからである。

それから保険証はもっていったが高齢者用のものをもっていかなかった,でもすぐ近くが市役所だったので市役所の人が連絡して事務ができた,それは市役所でできたのは南相馬市として合併したからできたのである。そういう点は便利になったのである。
その日はどしゃぶりの雨だったら助かったのである。

いづれにしろ現代は数字と離れずにありえない社会である。あらゆるものが数値化されるのである。絶えずどこでも経済でも数字の世界になる,科学は基礎は数字である。
数字の世界を生きているのである。
だから数学ができないと今の社会はいきずらいとなる,でも今や暗記だけの教育ではもうやっていけない,世界の競争に勝つにもそうである。
考える力が創造力がなければ世界から取り残されるのである。
posted by 老鶯 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題