2017年11月01日

一本の樹(詩)から考える (飯館村などの避難区域のこと)

    
 一本の樹(詩)から考える

 (飯館村などの避難区域のこと)
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一本の樹

この道の辺に
一本の樹
秋の夕日のさして
ここに立ちて久しも
そは何を語るや
ここに根づきて
ここにありしことの尊さ
何ごとのなけれど
ここに長くありしがゆえに
人は去りしも
ここに立ちて動かざれ
ここにありつづけるもの
その意味と尊さを知れ
一本の樹
かくもここに長くもありて
その土地の標(しるし)となりぬ
この道を歩みてまた暮るるかな
 
   
 野の樫

野にひともとの樫立つ
冬の日の老いた幹と枝は
いま光る緑につつまれて
野の道のほとりに立つ
行き還りその傍らをすぎるとき
明るい悲哀とものしずかな勇気が
ひとの古い想いの内にひびく
(伊藤静雄)


飯館村でもどこでもそうだがこうした木はある,それは日ごろ意識しない、でも村の中でもどこでもそういう
木は人間化した木になる、だからこそ村に人が住まなくなったとき余計にさみしく感じるのである。
空き家になった庭の木でも石でもそうである。

人間はこうしてしただあるものの価値を感じない、でも一旦この辺のように原発事故で人が住まなくなったときこれは一体何なのだろうと常に考えるようになったのである。
村でも町でもどこでも一本の木はある、そういうものはまるでその村の目印のようにあった
だから一本松とかが地名になり残された、それは意識しないが常にあったものでてある。
人間も生物の一種だから老人になると定着志向になる、その土地に根付きやがてその土地に朽ちてその土地の養分ともなる、それは生物はそういう循環を繰り返してきたからである。
人間もまた同じように自然の中に生を繰り返してきたのである。

ここで見直されたのはただあることの価値である。そこにあるだけで価値あるものがあった
そして長くあるものは価値があった、木とか石とか自然は長くあるから価値がある
人間は変わりやすいから価値が消失してくる
そこにいつまでもあるものはやはり価値を帯びてくる
本当の価値はそこに長くあるものでありそこに価値と意味と尊さが生まれる

それが現代では常に変化して新しいものを求めて古いものが捨てられる、
常に人間の社会は古いものがあって新しいものがある野だが技術の面では常に変化してしそのスピードが早い,
だから老人は技術的には追いつけないから無用のものとされる
でも精神的な価値を求めると老人的な価値がむしろ社会の価値を作ってきた、成熟しなけければ本当の価値は生まれない、
若者的なものが必要でも騒々しいものになる、
自然でもなかなか若いときその意味と価値を会得でとないのである。
それで自然と同化するアイディンティティ化するには時間がかかるから老人にならないと自然でも人生のこともわからないのである。

老人は人生をふりかえるから誰でもそれなりに人生とはこういうものだったのかとわかる
ただその時は時遅しとなっているが老人はそういうことで若者とは違った見方をしている
ただ本当にあるというだけで価値が帯びてくる、そういうものがあるということに気づく
そして原発事故で人が住まなくなった町や村はそこに住む人の担(にな)うものが大きくてなった
村でも町でも市でもそれがなくなるということはイメージもできなかった

そこで意識したのは村全体のこと町全体のことだったのである。
普通村全体でもなかなか意識しない、常に個々人とか家族は意識して暮らしている
でも村の暮らしをどうしようかなどは意識しにくい、飯館村辺りはそういうことが震災前もあった
でもやはり避難区域になったとき人々は補償金をもらい家族だけは守ろうと帰らなくなった
それはやはり村全体を意識することがなかったからでてある。
村があり町があり市があり家族もあり個々人もあると意識しなかったのである。
そういう全体は意識しにくいのである。ただ今回のように村でも町でも人が住まなくなり村自体が町自体が消失する危機となり意識したのである。

木でも川子の農家の二本の木は変わらずにある、ますますそこに結び合い離れないようにある二本の樹である。この辺では木もかなり切られた、ここの木は残っている

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 the twined trees
 in stability 
 the faithful ones
 
それは老夫婦のようでもある、何か顕密に結びあっている、無言ではあるが互いにもの言わずも信頼して結び合っているという感じになる 

二本の樹

常にここに
二本の樹
もの言わずとも
互いにここに
長くしあれば
信頼し結び合ふ
そは離れざるかな
秋の日はさして
秋は深まり
ここに静かに
二本の樹は変わらずに
今日もありしも

この二本の木も変わらないことによって価値が帯びているのである。その意味を深めているのである。
それを感じるのはやはりこの辺が変わりすぎた結果なのである。 

俳句になると

晩菊や牛数頭のここにいる

飯館村は牛の村だった、牛は定着的な価値の象徴なのである。 牛がいるということで定着を示唆している
そこに落ち着きがあり生の充実がある、こころがここの意味というときまさにここにあるのが牛なのである。
とにかく避難区域に帰って住むことは今までは村とか町の価値はその人口分で維持していた、でもその一割とか二割しか帰らないとなるとその減った人の分を村や町で負うことになる
価値が何倍にもなるのである。そしてそこで村や町に継続された歴史を担うことになる
だからそれを思いばやりがいがあるともなる、ただこんなふうに考えるのは思想的哲学的詩的に考えるのは普通はいない
みんな利益からしか考えないからこそ原発だって建てられたのである。
そのあともやはり補償金でもめてもう不便な土地は嫌だと帰らなくなったのである。

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人が減ると同じ地域でもになうものが大きくなる
百人いたのが10人になったら十倍にになうものがふえる
それは生活でもそうだが精神的なものでもそうである。
村や町には歴史をとして残されたものがあるし死者も墓に住んでいたり
他に歴史として生き続けているものがあるからだ

それを人がへれば担うことになり重いものとなってゆく、でもそこに住むことは
価値あることになる
でも不便だからその不便さもになうことになる
それで村や町を捨てるとなるが残る者には前より十倍もの負担があっても価値があるともなる
いづれにしろ村や町がその全体が消失することがいかなることがまだ自覚されていないのだと思う
posted by 老鶯 at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

黒人はなぜアメリカの国旗に起立しなかったのか? (グローバリズムで国家が問われる時代)


黒人はなぜアメリカの国旗に起立しなかったのか?

(グローバリズムで国家が問われる時代)


人の痛みはわかりにくい,それは自ら経験してないからだ,今回の警察による駅で職務質問はそんなことたいしたことがない,みんなされていることだとなり関心もない
警官自体が相手がみんなの前で職務質問されたことにどんな気持ちでいるかも無関心なのである。

それで黒人が良く警官に殴られたとかそれでひどい傷を負ったとか死んだ人もいる
そのことを考えるときやはり警官というのは暴力を行使できる権力だということを身をもって感じるのである。
その時権力を露骨に感じるのである。普通社会にいてそんなに権力を直接感じることはない,社会での権力は金があるかないかで感じる
金がない人は常に底辺で余裕もなくきつい労働もさせられる,だから奴隷だというとき金がないということなのである。
別に金があかば働かなくてもいいからである。

黒人がアメリカンフットボールの黒人選手が国旗に礼をして起立しない,膝をついて抗議した,それは黒人が警官などに暴力をふるわれたからだという
それでアメリカの白人が怒ってフットボールを見ないとなった
日本でも国歌を歌わないと国旗に向かって起立しないとかの問題があった
左翼系統の教師がそういうことを指示する
それは日本であることだから外国でもあるとなる

でも黒人差別問題は古いし根深いのである。アメリカの分断を考えるとき国家とは何か?
そういう根本的問題になる,誰が国を作ったんだ,白人だとなる
移民ではない,その移民が多くなることは白人の国家でなくなるということでトランプ大統領が指示されたのである。オバマ大統領が黒人だったということで反発がでてきたのである。

ところがアメリカを作ったとなれば黒人も奴隷としてアメリカができたときから国を作ってきたともなるから黒人は他の移民とは違っている,特にヒスパニックとかとは違っている,アメリカで暮らせば日本人などより黒人が人種的には上になる
黒人はアメリカでそれだけ古くから暮らしているからである。
ただなぜ黒人が本当はアメリカの階級でもそれだけ長く住んでいるのだから上のクラスになっていいのにならない,それは人種的な問題なのか黒人そのものの能力のなさによるのかわからない,ただ確かなことは警官が権力の手先となり白人の手先となり黒人を差別して暴力をふるう,そのことに黒人が凄く怒っているのである。


こういう痛みは外国になると余計にわからない,でも明かにアメリカは人種差別の国なのである。例えばなぜ武田邦彦氏などがあれほど白人嫌悪になったのか?
あれだけの学者で世界的に仕事していても差別があったのかもしれない,まちがいなくアメリカで暮らすと差別を受けるからである。
それは観光旅行でも差別を受けることがある,そういう国がアメリカなのである。
人種差別の根が深いのである。だからアーリア人種批判になったのである。
日本人で差別されるとしたら金があるかないかしかない,アメリカでは人種で差別される国なのである。

ただその痛みを共有することは外国になるとむずかしい,ただあれだけ警官に反発しているのは警官が権力の手先であり暴力装置でありそれで直接的に権力を身をもって感じるからである。それは警官が支配しているのではなく白人が支配者であるからそうなると感じるのである。
権力を一番直接的に感じるのは警察と軍隊である。だからぎりぎりになると軍隊が国を支配するのである。暴力で国を支配することになる
共産主義国家は軍隊や警察を幹部で勝手に動かすことができる体制である。
だから権力が一部のものによって使われる体制なのである。

人間はともかくいろんな事件があっても人の痛みを感じないのである。
すぐ隣でも困っている人苦しんでいる人でも直接接しないとわからないのである。
そんな貧乏しているのかとか今では貧乏も見えないのである。
ただ自分が苦しむとその痛みを理解できるのである。

自分は家族で認知症の人を介護したからその痛みを理解したのである。
認知症にはいろいろな誤解がある,それは認知症の人を介護しないとわからないのである自分は認知症はどういう病気か理解した,その苦しみと痛みを分かち合うことになったからである。
つまり介護することは人の痛みをわかちあうことになる,それは介護する人もくるしいのである。認知症の場合は特にそうでてある。また障害者をもつ人でもそうである。
そういう人を介護することは介護する方も同じような苦しみを背負うことになるのである
ただ黒人の苦しみに外国人が共有することはむずかしい,日本は部落差別などあったが差別がない国だからである。ただ人間の歴史をみると差別は常にあった,戦争に負ければ劣等民族とされて奴隷にされるのが普通であった
それでスラブ民族とはスレーブであり奴隷のことだったのである。今でも東欧諸国は遅れているの出稼ぎに出ている,そういう歴史が普通にあったから黒人だけの問題ではないのである。

いづれにしろ国家に忠誠を誓うというとき黒人が古くからいる人達なのに差別されるとなると嫌だとなるのもわかる,国家とか日本なら江戸時代なら侍は藩に忠誠を誓うとなる
藩が国家だから侍が支配者だからそうなる,外国でも貴族が支配者だから国家に忠誠を誓うのである。黒人は奴隷だったから国家意識がないというのもわかる
ヒスパニックでもそうである。アメリカにただ金が欲しくてかせぐために来ている
それは移民はみんなそうである。ただ金がほしい,楽したいために来ているからである。日本国家がどうのこうのとはみんな関係ないのである。
だから一旦そうした移民はもし戦争になったりしたら日本からでも逃げ出すのである。
日本のために死ぬという人はいないのである。

だから国家というとき何なのか?それが今アメリカでも問われているのである。
アメリカの問題はまた世界の問題にもなる,なぜならグローバリズムが否定されてナショナリズムに回帰するというときそれは世界的傾向だからである。
グローバリズムは国家をなくす多国籍企業が支配することである。
そのグローバリストとナシャナリストが世界的に争うようになったのである。
だから国家とかは何かというときグローバリズムで起きてきたことでもある
だから世界的問題となったのである。

国家とは何かというとき単なる利益共同体ではない,多国籍企業は利益共同体である。会社もそうである。国家は歴史的に作られてきたものであり利益共同体という側面があっても違ったものである。そこに軋轢が生じる,グローバリズムが今批判されるのは国家が何なのかそのものが問われているからである。
だからアメリカでは退役軍人が国旗に経緯を払わないフットボールの黒人の選手に怒りを覚えたのである。俺たちは国のために尽くして仲間も死んだとして怒っているのである。それはただ利益共同体ではない,国家を維持するためには死ぬこともあるから言っているのである。ただ今度は世界的に見ればアメリカが世界でアメリカのために戦争して死ぬとういことが世界で認められるかとなるとならない
そこにも国家間での国家とは何かが問われているのである。
世界的に意義がある戦争だったのかともなるのである。本当に正義があったのかとなると国家間ではそうではないからである。
posted by 老鶯 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層