2017年11月22日

最近は買って使えないものが多い (使えたのは中古のパソコンだった)


最近は買って使えないものが多い

(使えたのは中古のパソコンだった)

何年前だったかソニーのアクションカメラAKA-LUA四万で買った,その時四万で安いと思った,ビデオカメラは高いと思っていたからだ
ただ時代が変わりつつありビデオカメラはデジカメにもついている
技術の進歩が早いからわからなくなっていた
これは今一万くらいで売っている,かなり前だから高かったのである。

ただこれは本当に不良品だったのである。それで交換してもらった
このビデオカメラはyoutubeは本当に故障品であり使えないものだったのである。
ソニーでそんな製品を出すとは思っていなかった
これは自転車に乗って写そうとしていた
でもそもそもが前もビデオカメラは一番早い時期から自分は使っていた
でもそうして撮ったものを編集もできないしうまくいかなかった
ビデオカメラはうまく利用できなかったのである。

次にASUSのノートパソコンも三万だから安いと買ったが故障した
簡単にパソコンは壊れないと思っていた
これも安いからしょうがいと思ったし通販だから修理に出すこともできなかった
結局何にも使えず終わった

それからレンジは近くの量販店で買ったがいろいろな機能がついているように見えたが実際はそれはただそう見せているだけであり普通のレンジとなんら変わりなかった
そして中が一部壊れていた,ただ今も使えるが一万のと同じだったのである。
これは三万でありいろいすなことはできないのである。
レンジはそれでも使えているからいい
前の二つは全く使えないから損だった

何か最近はこうして買っても使いこなせないのである。
それで十万くらいは損になった,何か今の電気製品は使いこなせない,特に通信関係は使いこなせない,わかりにくくなっているからだ
だから老人は技術に追いつけなくなっているのだ
それで時代から取り残されるということもある
ただ自分はパソコンは二十年以上している
最初はワープロの通信機能がついたものからしているのである
それは今の通信ができるパソコンの最初のものだったのである。

だからその通信世界のことが理解できなかった,今は普通にしているがニフティとかあの頃通信は普通の世界ではない,マニアの世界だったのである。
ただ自分は富士通の親指シフトでワープロをしていた関係でそうなっていたのである。

その頃のパソコンは必ずソフトで不具合がありいちいち初期化して使っていたのである。今は滅多にパソコンは壊れない,通信でも通じなくなったりログは消えたりしない
安定して使えるのである。
自分がパソコンをはじめたのはワープロが出たからであり富士通の親指シフトが文章が打ちやすいからここまでやれたのである。
パソコンの問題はやはりキーボードであり文章を楽に打てないと嫌になりギブアップする人も多いからだ
パソコンに慣れるかどうかはキーボードを早く打てるかにかかっている,その他いろいろあってもそこが基本でありそこに慣れる人はパソコンに親しむのである。

それで買い物だが一番役に立ったのがwim7の中古のパソコンだった,二三万だったが使える,ソフトの関係で買ったのだが二年以上使っているが壊れないのである。
ウィルスにもやられていないのである。
今や中古でもパソコンは技術的に安定しているのである。
だからこれは得しかたなと思う,パソコンの中古品は今は壊れない,安定して使える

結局何か老人は新しいものを買っても使えないということになる
今まで使ったものは使えるが新しいものが使えなくなっているのだ
消費しろと言ってもできないのである。
若いときはいろいろなものに挑戦できるができない
機械でも新しいものを買っても使いこなせないのである。
多機能テレビとかもあり今はテレビすら操作するのがめんどうなのである。

こういう時代になると老人は本当に不利である。社会から取り残される
現実は自分は車を運転しないから社会のことがわからなくなっていたのである。
車社会になっているとき車のことがわからないとしたらもう生活できないのである。
たまたま仕事もしないから車なしでも生きてきたのである。
ただ今の社会のことは車をもたない人はわからなくなるのである。

それはパソコンでも言える,インターネットのことなどわからない人は今や取り残されるそんなものなくてもいいとか言っても社会はインターネット社会化すると車社会と同じように社会のことがわからなくなるのである。
情報でもテレビだけ見ているだけで偏ったものとなる
だからyoutubeで製品の紹介しているからそれを見て買うとういのも今の時代の買い物なのである。
ソニーで不良品のようなものを出しているとは思わないからである。
そして今は製品が多機能化して使いにくいから老人は相当に気をつけないとだめである。
今老人が不利なのは技術の進歩が早いのと様々なものが理解しにくくなっていることなのである。若い内は新しいものを利用しやすい,その時代のものを吸収しやすい
ただ体験が不足しているので深く物事を見れないのである。
だからすべて若い人が有利となるわけではない,老人になると深い見方ができる
理解力と鑑賞力がついてくるから評論に適しているのである。

2017年11月24日

老人は死んだ人の方が親しく感じる (認知症とは老人になれば誰にでもなる感覚)


老人は死んだ人の方が親しく感じる

(認知症とは老人になれば誰にでもなる感覚)

認知症の人は日頃親しくしている人のことがわからなくなる,自分の子供すらわからなくなる「あなたせ誰ですか?」となる,でもそれは日頃接していない遠くにいる子供だったらゆうなりやすい,でも毎日継続して接している人は忘れないと思う
自分の家族は六十年間一緒に過ごしていたから忘れなかった
子供のときから六十年間一緒にいたから忘れなかった

ところが何か最近会う人とか親戚でも二年に一回とか会う人は遠い存在となり疎遠なものとなる,それは血のつながった人でも子供ですらそうなりやすいのである。
何か話をししても合わない,遠く離れているからその事情ものみこめないのである。
あることを知るということは離れて暮らしているとわからなくなるのである。
だから近くで日頃接している人だと新しく接している人でも認識できる

つくづく老人になると見慣れないこととか始めて接する人とかは苦手になる
その感覚は認知症になると極端になるのである。
認知症の人は新しい人は認識できない,親しくなれないのである。
それで親しい人とは死んだ人,長く一緒に暮らした人なのである。

だから死んでもその人は死んでいない

夫でも妻でも死んでいないのである。その死んだ人に延々と話している認知症の人がいるそれを今自分が気づいた,何か自分と六十年間一緒に暮らしてきた家族の方が死んでも親しい,生きている感覚になる,だから認知症でなくても死んだ人と話しているのである。返事はかえってこないのだけど別に認知症でなくても死んだ親しい人の方が現実に新しく知る人より親しいのである。
これは認知症だからなるのではなく老人の特有の感覚なことだなと思った

老人は若い人と違ってもう親しくなれないのである。親しさも時間の中ではぐくまれる
六十年間も一緒にいることはそうして親密な感覚を作っていたのである。
だから遺影を見てもそれが親しい,生きている感覚になるのも不思議である。
こっちを見ている,笑ってやさしく見ている,それは一緒に生きていたときもそうだったからである。その継続としてやはりこっちをやさしく見ているのである。

もうそういう関係は新しく作るのは無理である。だからこそ死んだ人は死んでいないのである,認知症は訳のわからない病気だとされる,でも老人特有の心理の反映でもあったのだ,普通でも去る者は日々に疎しとなるように老人だと一層極端化して全く離れて暮らす子供などはわからなくなるのである。

認知症は訳のわからない病気とされるが実は訳があるきだ,徘徊にも訳があるし怒るのにも暴力になるのにも訳がある,だから精神病とは違うものだろう
精神病は訳わからないで暴力になったりするからである。
認知症には必ず訳がないようでよくよく見るとある,そこが違っているのである。

そして認知症が時々正気になる,死ぬときは正気になるというのもやはり完全に馬鹿になったとは違うからである。個々の症状は違っていても人間として何もわからなくなったとはならない,だからフライドを傷つけられると怒るのである。
フライドはもちつづけているからである。

いづれにしろ認知症は本当に病気なのかどうか?それは老化現象であり病気とは違うのかもしれない,今までなら耄碌したとなっていた,つまり病気とはされなかったのである。認知症とは耄碌現象なのである。
老人は新しい人などでも親しくなることは苦手である。
だから死んだ人の方が現実に死んでいない生きている人として話しかけている
それは別に認知症でなくても老人はそうなるのである。
自分も遺影に向かって話しかけているからだ
そして遺影が自分をいつも見ているのである。それは最も親しい関係でありこういう関係はもう作れないのである。それは子供の時から六十年間も一緒にいたからそうなったのである。

六十年間も一緒にいた家族は憎んでいるようでも喧嘩していても親しい愛する関係になっていたのである。だからその相手が死んだ時悲しいとなっていたのである。
その一緒にいる時間の長さがそうさせたのである。
ともかく死んでも以前としてやさしく自分を見ている感覚は不思議である。
ただそういう親や家族をもたない人もいる,ある人は親のことを関心がない
親に苦しめられたからそうなったのである。
自分は確かに介護で苦しめられたけとそれは自分を良くしてくれたから当然だったのである。そのことで恨んだりする関係ではなかった,かえって恩返しできて良かったなと今では思っている
だから家族の関係も一様ではないのである。離ればなれに暮らすようになると子供でも疎くなり認知症になったりしたら「あなたはどなたですか?」となる
近くでも日頃親密に接していないとそうなりやすいのである。

だから認知症は訳わからないというが老人になるとその心理が理解できるのである。
老人がどういうものか理解することが若い人はにはむずかしい,でも老人になると理解するのである。老人といっても七十以上に今はなるがその頃になると老人の気持ちは理解できるようになる,なぜなら自分が認知症ににた感覚を経験するからである。

2017年11月25日

外交的な人と内向的な人の評価の問題 (人間関係で一番大事なのは誠実さである)


外交的な人と内向的な人の評価の問題

(人間関係で一番大事なのは誠実さである)

内向的な人の12個の特徴や困ったこと


自己顕示型は自慢話がおおく、外交的な人です。

「人間は一人では生きていけないんだ! いつも一人でいたら社会ではやっていけないぞ!」

などとよく言われる。これは「外向的な性格は治す必要ないが、内向的な性格は治す必要がある」と多くの人が思っているからだろう。
内向的な人は、物づくりに向いていると思っています。
高い芸術性や、熟練の技などが必要な職業に就くには、外交的である必要はありません。
プレゼンは、他の人になってもらって、自分はコツコツと自分の仕事に打ち込めばいいのですから。

また、芸術や研究の分野で成功する人は
何でも深く突きつめて考える内向型の人が圧倒的に多いのです。


人間は何でも一長一短である。内向的性格は損であることも確かである,ただ人間は内向的だとか外交的だとか血液型だとか類型化されくけど人間はそんなに色分けはできない,内向的な人間でも外交的な面もあるし外交的な人間でも内向的な面をもっている
外交的な人のいい点もあるし悪い点もある,だから人間は性格で類型化できない
ただ外交的な人間と内向的な人間はいる,それはイヌとネコとにないるのだ
犬は感情を全面的に出して接してくる,ネコはそういうことはない,だからネコは何か冷たくよそよそしく何考えているのわからないとなる

外交的な人間は世の中をわたるには得である。そういう人を身近で接したからわかる,自信家でありどんどん自分を外に向かってだしてゆく,いつも笑っていて陽気なのである。だから人にも好かれるし人の上に立つ,人を導くリーダーになりやすいのである。
そのためにそういう人は何かを成すことができる,内向的な人は何か成すことができない外交的な人は強気で自信家であり他者を話術でも何でも圧倒する
ぐいぐいと人を引っ張ってゆく,だから実業とか政治とかに向いている

では外交的な人が社会では成功しやすいことがあってもそうはならない,自分の家族は外交的な女性と内向的な女性がいた,それははっきりと対称的な性格の女性だった
でも評価はどうしても外交的な性格の女性にあった,自分でもそうだった
内向的な女性だけだったら自分の家はありえなかった,もう家自体が成り立たなくなっていた,だから外交的な女性がいて家が栄えたとなる
でも夫婦ではないが内助の功というのが内向的な女性にあったのである。
それは死んでからわかったのである。

それは誰かに出すつもりだった手紙の草稿にあった,それは拙いものでも母になるが内面を文章にしていたのである,こんな文章を書いていたということに自分は感激して泣いたのである。母の内面の心が文章ににじみでていたからである。
つまり一人は外交的口達者だったが内面性は欠けていた
そして外交的な人にも欠点がある,自分のみを表に出して謙虚さがなくなる
それでそういう女性も他に知っているが口だけはとにかくうまいのである,でも何か実行することはできない,口だけでうまいことを言っているだけなのである。
ただ外交的な人でもまたいろいろいる,自分の家族は口だけではない実行する女性だったからまた違っていた,その女性は口だけなのである。口だけはうまいのである。
でも何か実行することがないのである。

最後に外交的な女性は姉になるが認知症になり悲惨な死に方をした,あれだたけ外交的な自信家だった女性は誰も寄りつかない,話すこともできないので友達が一杯いてもよりつかなくなったのである。そうなると外交的な人は悲惨である。
外交的な自信家は認知症になると暴力になったりする,不満をかかえてそれを外に出すからである。内向的な人はひたすら内にこもるから忍耐強いから暴力にはめったにならないのである。だから最後は外交的な人と内向的な人の価値の逆転が起きたのである。

要するに人間の評価は外交的とか内向的で決まる訳ではないのである,外交的な人がすべていいとはならない,もちろん内向的な人もそうである。
人間関係で何が大事かというと外交的なことでもなく内向的なことでもない
確かに押しが強いと営業でも成績を上げるかもしれない,それは一時的になるだろう。

人間関係で一番大事なのは何か?

それが口をうまく接することではないのである。
巧言令色鮮し仁とは、言葉巧みで、人から好かれようと愛想を振りまく者には、誠実な人間が少なく、人として最も大事な徳である仁の心が欠けているものだということ。

つまり人間関係で最も大事なのは誠実さなのである。それは外交的な人であれ内向的な人であれ関係ないのないのである,むしろ外交的な人は「巧言令色鮮し仁」になっている
政治家などは特にそうなっていることでもわかる,ほとんど公約を実行していないし嘘つきだとなるからだ,実行できないことは言うべきではない公約にすべきではないのである
不思議なのはだからこの人は口がうまいとか明るく外交的でいいとかだけで外面的なことだけでその人を判断することである。もちろん自分もあの女性は明るくてはきはきしていいと見る,それは地域を明るくしている,そういうこと現実にあるし社会では明るい人が好まれる,自分でもそうである。

ただそれはあっても人間で大事なのは誠実なのである。
営業でも本当はいいことばかり言う,巧言令色鮮し仁となってしまう
それは後であいつは口うまいだけだとなる,最近は銀行員や証券関係の営業マンとなるとそういう傾向がある,他にも口うまいというだけでいいのかということは社会ではいくらでもあるのだ,だから口うまいだけ成功するするのか?
商品でも誇大宣伝して本当に売れるのか?評価が得られるのか?得られたとしても一時的になるのではないか?
ソニーのアクションカメラが不良品だったとわかった,するとソニーでもそういうことがあるというので会社の評価が落ちる怖さがある,それは大企業でもそういうことが起きているからだ。だから口だけうまくても成功するとはならないのである。

物作りにも誠実さが必要なのである。日本の製品はそれで信用を得てきたからである。
信用が誠実さとかなくなると一挙に崩壊するのである。
もう信用されないとなると世界で日本の製品は売れなくなるのである
信用を一旦失うと回復するのがむずかしくなるのである。
誠実さが必要だというときカルト宗教団体などになぜ人は信用してだまされるのか?
なぜそれほどの数の人がだまされるのか?
これも外交的人間がトップに立ち導いているからなのか?

もし自己の内面を追及する内向的な人間だったからそうはならないだろ
ただ口がうまいいいことばかりいって誠実さが欠けているからこそ人がだまされて集めるともなる,なぜならカルト宗教団体では内向的な人が嫌われているからである。
宗教というとき内面の追及なのだが実際は政治化して外面の追及になっているからである
だから一見,外交的な仕事でも内面的なものの徳が必要になる,誠実さが必要になる
約束を守るということもやはり誠実だからこそできる,借りたものを返さないとかは約束を守らないから信用できないとなる


口がうまいだけで成功することができるのか?一時的には成功しても物作りにしても成功するはずがないだろう。それはいつか化けの皮がはがれる
製品は正直だから壊れたり何かするのである。
とにかく外交的な人間にも欠点があり内向的な人に見習うことがあるのだ
それは誠実さなど内面的なものをもつ必要があるだ
もちろん内面的な人の欠点もあり人は両方を必要としているのである。

自分のことを言うと自分は内向的でありそれが極端化すると異常化することも自分でわかった,引きこもりになるからだ,でも宗教とか特に禅とかなると内面化して修行することになる,沈黙の行をすることが修行なのである。
ぺらぺらしゃべらない,そのために社会から離脱したのである。
何か自分は社会に適合できないで自ずとそうなっていたのである。
普通だったら社会の落伍者であり不適格者となる,でも沈黙の行をすることは人間の徳を高めることになる,人間は無駄なことをしゃべりすぎるから徳を汚すからである。

口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 
というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのである、 これらのものが人を汚すのである。(マタイ)

人間は口から出るものによって一番心を汚しているのである。だから沈黙守ることは心を清めることなのである。でも社会生活をしていると必ず社会的にすでに心を汚すようになる,そもそも絶えず行われている売るための宣伝がそうである。
マスコミが不誠実なのである。それでもって金をもらっているから社会は常に汚されているとなる,社会そのものが誠実さがないというとき個々人で誠実であることもむずかしくなる,大企業の不正はそうして起こる,原発事故だってただ技術的なものかというとそうでもない,そこに誠実さが嘘をつかないということなどが守れなかったからだともなる
近くの事業に失敗した人も何か誠実さに欠けていたのである。その人の経営に問題があった,それは技術とは別な問題だったのである。

こういう自分も内向的だからこうして文章を書くのは得意なのである。しゃべるとなると自分はできない,それは内向的な人の特徴になる,ただしゃべることは必要でもより深いものを知るためには表現するためには文章なのである。
だから文は人なりと言われるのである。だから人がその人の書いた文章から評価し判断すると間違いないかもしれない,しゃべることだけからは判断しにくいからである。
自分は人としゃべるとか接すると異常に疲れる,こうして文章を書いていると人と接しないから疲れないのである。だから自分にとってプログなどは合っていたからこうて書きつづけているのである。

2017年11月26日

母の遺言は約束は果たした (その責任は重かった、だから軽々しく約束はすべきではない)


母の遺言は約束は果たした

(その責任は重かった、だから軽々しく約束はすべきではない)

約束を守る義務が発生するのは、何かを主張した時に、それが真であることを立証したり保証する義務が発生するのとよく似たことである。たとえば、何かを主張して、後で実際にそうでないことが分かった時には、彼は何らかの仕方で責任をとる必要があるだろう。これは、約束をして、それを履行しないとき、何らかの仕方で責任をとる必要があるのと同様である。

「とにかく、嘘はついてはならん。勢いや気合いを語っても仕方がない。
悪い事もしっかりと伝えよう。約束はしっかりと守る事が大切だ。」という

小さな約束事を守るために、もう約束をしない

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」  
  マタイ 5:33〜37


  
自分が約束したわけではない,母が死ぬ一か月前に大きな声で孫に金払えと言ったことを守った、死ぬ前に認知症にもなっていたのでそんな大きな声で金額まで指定して言ったことに驚いたからである。
なぜなら認知症になり金のことがわからなくなっていたと思っていたからだ
ともかく人間は死ぬときに言う言葉の重みがわかった、最後に自分に託された言葉だったのである。

実は別に孫に金を払う必要はなかった、事情があり払わなくてもいいのである。払うと法律違反にもなるからだそうはいってもその最後の言葉の重みで払った、金というのはやはりそれなりに重いものをもっている
金の貸し借りでも金が世の中では一番重いものとして働いている
だから金についてはきちんとしていないと後でやっかいなことになる
前に書いたが金というのは何でも受け取っていいものではない、金を受け取れば大きな責任が生まれる

例えば不幸で死んだ人の金を遺産でも受け取ると何か災いが生じる、金は金でありもらえるものはもらえばいいとはならない、金には何か怖いものがある、呪われた金もありそれが後に災いになる
一億円でも拾ったらいいかとなるがならない、その金は得たいの知れないものであり災いをもたらすのである。得体の知れない金は何か不正があり災いをもたらす、どうしてあなたはそんな金をもっているのですか?
その理由が正当でないと災いになる

自分の家は遺産でも両親とか家族がいて受け継いだ,その金は家族が正当に働いて家を建て残した財産である。それを説明できる,店をやっていたし家族は協力して財を築いたのである。
だからそこには不正はないのである。その理由は説明できるのである。
でもそうでない金だとするとどうなるのか?それは災いをもたらす
一見何でも金が入ることはいいことに思う,みんなそれを願っている
でも確実に受け取ってならない金がある、それは後で災いをもたらすからだ

このことで思ったことはせ約束を誓うことを契約を果たす責任の重さだった、社会人として生活しないと何か人間は欠けたものになる、だから現代社会では僧院なようなところで生活していたら社会のこともわからないから指導者にもなれないのである。
僧院で暮らせるような時代があり今はそういう時代ではない
実際に良く聖書で契約のことを言う、聖書は神との契約の書である。
神が人間に対して契約を守るということである。人間は契約しても守らないことが度々ある
ただ社会人として仕事をすれば契約の重みを知っている、ただ日本人は契約を軽く考えることがある
でも契約の基本は責任をとらないこととして細かく書いている、保険でもそういうものを良く読んでいないのである。それで当方には責任がありませんと言われるのである。

約束とか契約の怖さは何か?それを実行するためには命までかけなければならなくる、大損失があっても契約は実行されるからである。
だから誓うなというとき人間はそれだけの責任をもてないからである。
それだけの責任を持てるのは神しかないのである。
必ず〈契約を果たす」というとき神だからできるからそう言っているのである。
神が全能であり成しえないことがないから契約を実行して約束を守るのである

人間は小さな約束すら守れない,軽々しく約束するが守れない,だから口は災いの元になるのである。
むしろ約束しないことが誠実だともなる、軽々しく約束しない人は実行する人でもあるからだ
実行するからこそ実行できないことは軽々しく約束しないのである。

いつれにしろ母との約束ではないが遺言を果たしたので重荷がおりた,何か死んだ後でも人間はいろいろある
その人が死んで終わらない、墓参りのこともあるし供養のこともある
人間は死んでも継続するものがありそれが義務にもなっているのである。
それが長男とか長女が受け継がされるのである。
だからもともと実家があり長男が家を守っていたことにはそれなりの理由があったのである。
それで兄弟でも平等に財産を分けるのはいいかどうかわからない,そこに現実問題として墓とか供養とか継承のも問題が馬さゃているからだ,それで墓の跡継ぎがないとかいろいろ現実に不具合なことが生まれているからである。
墓を守るとか供養するとかが死んだ後も残るからである。それは実家の務めになるからだ
自分は現実にそうなったからである。誰も供養しない、その実の子も供養しないから自分が生きている限り供養することが勤めとなっんたからである。
タグ:契約 遺言 約束

人間はみんななんらかで異常である (異常を異常と意識できない)


人間はみんななんらかで異常である

(でも異常を異常と意識できない)

人間が異常だというとき何が異常なのか?異常と正常はどうして区別するのか?
異常の人は異常と思っていない,自分は正常だと思っている
そして人はなんらかでみんな異常性をもっている,自分ももっている
内向的な人は極端になると引き籠もりになり人と接しなくなる
自分はそうなっていた,そして社会性がなくなる

では自分の異常性はどうして生まれたのか?
それは自分の環境にあった,そういう異常性の中でも暮らしていけたことである。
親がいて三食用意されているし職につかなくても文句も言われないのである。
うるさく就職しろと言われて引き籠もりがニートが親を殺す事件がある
自分も一時はあったが30年間くらいあとは職につけなど言われたことがない
自由に旅行しても文句も言われないのである。
そういうことは普通にはなかなかないが自分の場合はあったのである。
それは異常なことだった,だから社会性がなくなっていた

これが自分の異常性だけど異常なことは環境の中で作られる,なぜならそういう状態にあることを許されなければそういう異常なことでありつづけることができないからである。もし貧乏な時代だったら引きこもっていたら飢え死にする,生活保護もなにもないからである。だからこれだけ現代が無職がいることは今までありえなかったことである。
「無業化社会」なのである。いたるところに仕事をしないでぶらぶらしている若い人がいる時代なのである。田舎でもそういう人はいくらでもいる
何か自分はそういう人と良く田舎で会うからである。自分とにているからそういう人と会うともなる

ただ異常というとき普通に暮らしている人も異常な人はいくらでもいる
そもそも異常だというとき人間はその持っているもの気質でも先鋭化すると異常になるのである。陽気な外交的な人は躁鬱病とかになり陰気な人は鬱病になる。
陽気な強気の人は異常に自信家でありそれが病気だったことを自分の家族の一人が認知症になったとき知ってショックだったのである。
認知症になっても「自分は優秀だ」と言い続けて臨終になったのである。
これは本当に異常なことだった,そこまで自分が優秀だとこだわっていたのである。
それが実は正気のときはそれで通っていた,本当に優秀だったからである。
でも認知症になったときはもうそうではないからである。
でも優秀だとして自分もそう思い死んでいったのである。
ちょうどニーチェが自分が超人だと言って狂気となり死んだと同じであったのだ

だから別にそうしてこれまで社会生活をかえって優秀なものとして見られていたものが実はそれが極端化すれば異常であ狂気になる,俺は超人だというときそれは異常と狂気に向かっていた,自分の家族の一人もそうして狂気となり死んだとなる

ところがこの異常性と狂気は誰でももっているのだ,自分が接した人はみんななんらか異常だった,自分もふくめてそうだったのである。
家族の一人は庭はいらないとか木はいらないと花はいらないとか狂気のように言っていたのである。それは異常なことである。そうなったのはやはり環境だった,貧乏であり働きづめでありそういう異常性がつちかわれていた,家では働かせられることしかなく何か花嫁修行などもしない,そういう余裕もなかったからである。
だから人間は環境で異常性が誰でも培われるのである。

ある女性も狂気となっていたことに驚く,ものすごく育ての親に反発して狂気と化していた,あれほど乱暴な女性に変身していたことに驚くのである。
子供のときしか接していないからそうなったとしてもその変貌ぶりには驚愕した
育ての親もひどい娘だわと言ってすぐに死んだから良かった,全く介護などできる人ではないからだ,だからすぐにあっけなく死んで良かったなとつくづく思う
今は今度は実の親を施設に入れているが何の愛情もないのである。
五年間とか子供のとき接していてもあとは関係なくなっていたから介護などできない
金が欲しいだけで施設に入れているだけである。実の親は金をもっていても認知症になっているからわからないのである。この親も悲惨だなとつくづく思う
そんな人に世話になること自体泥棒に世話になることと同じだからである。

それは人のことは言えない,自分もそういう目にあっているからだ
その女性がどうしてそんな異常な狂気の女性になったのか?それはその女性とは長い間接していなからわからない,別にその女性が愛されないことはないし経済的には恵まれて苦しんだこともないのである。
だからなぜそんな乱暴な女性になったのか不可解だとなる
女性的優しさが全くなくなっていたのである。
自分に対してはそれはわかるにしても育ての親は長い間一緒にいたのに非情にしたことがわからないのである。

今回は異常な女性になったのはこれも環境とかが影響していた,不幸な生い立ちがありそれは同情すべきなのだがすでに40越えて高校卒業する18にもなる娘もいるらだ
この女性がどうして異常性がつちかわれたのか?
それは東京で暮らして子供が幼児の時から離婚して生活保護だったということに由来しているのだと思う,その人は社会と接しなくても生活はできていたからである。
その女性はまたとても仕事ができる人ではない,今回話し合うにもそれもできない
何か文句言うばかりでありまともに会話できないのである。
こういう人が何か仕事ができるとは思えなかった,だからいろいろやってもやめている
長つづきしないのてある。
娘もむっつりとして愛嬌もない,そして娘と母はぴったりくっついて離れないのである。それも異常な人格を形成することになる
母子家庭とか一人っ子とは平均的に異常人格が形成されやすいことはいなめない

異常だというとき事業をしていた人も異常性があった,理系でありそっちの方には詳しいでも事業となると会社勤めとは違う,多様な能力が要求される,商売でもあるからそうした能力も必要とされる,ただ機械だけをいじっているのとは違うからである。
その人は事業をして何か異常化した,失敗して借金したからかもしれないが性格がやはり異常化したのではないか?
その人はこれまで資格もあり優秀な人として認められていた,何も異常性などない社会人だったのである。法律に詳しい理系の技術にも詳しい人だったのである。

でもその人だけではないその家族自体にも異常性を感じたのである。
この家族はおかしいという家族は普通にある,それは比べてみてそれを知るのである。
自分自身の家族もそうだから人の家族のことは言えない,でも一見普通の家族としてまた社会人として認められていても異常性がある人はいるのである。
別にその人は事業に失敗していなければその異常性に気づかない
サイコパスとか異常人格かいてもその人は事業に成功したりしている人もいるからだ
事業に成功しても異常人格と思われる人がいるのである。

ただ人間はどんな人でも異常性がある,個人的にもそうだが集団的にも異常性はつちかわれる,戦争中とか何か集団狂騒状態に陥っている,戦争中は何か催眠術にかかったように戦争に国民が一丸となって向かっていたのである。
それは今の北朝鮮のような状態だったのである。異常性は別に個々人でなくても集団でもつちかわれる,カルト教団ではなぜあれだけの人が集まり社会を圧迫しているのか?
これもその異常性に気づかないからだ

異常であっても異常に気づかない

そもそも異常なことに気づくにはそういう異常な集団だと客観的に見ることができなければわからない
異常な人はその異常性に気づかないのである。カルト教団の人はむしろ外部の人こそ異常と見ているかもしれないのだ。それだけの数の人が同調しあうことは異常なのである。
だからナチスが生まれファシズムが生まれる,つまりそこで異常集団が形成されてもむしろその異常な集団に入らない者はかえって異常なものとして見られるのだ
異常が正常で正常が異常になることは歴史でもあったのである。

人間は自らの異常性に気づかない,それは個々人でもそうだし集団でもそうである。
集団の異常がやっかいなのは数によって権力をもつからである。
いくら異常だと言っても権力をもっているとその権力によって異常が認められることになる,逆らえないことになるのだ,それがファシズムの恐怖でありそういうことは歴史上で共産革命とかナチスとかその他大量虐殺として起きているから怖いのである。
まさにこれこそ集団が異常化して狂気化して地獄になったのである。
タグ:異常と正常
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2017年11月27日

死者への供養は愛情である (すべての死者が敬われることはありえない)


死者への供養は愛情である

(すべての死者が敬われることはありえない)

死者を弔う心

日本人は、夏にはお盆をします。先祖の霊を自宅の庭に迎えて、弔い、また家族団らんの時を持ちます。そこには先祖たちの霊も一緒にいる。生者も死者も共に家族一緒になって団らんの時を過ごすのです。あたかも日本人は、死者の霊と共に生きているようだ。また日本人は、神棚や仏壇に食べ物や水など、先祖供養のお供え物をして、死者と共に暮らしている。
 それでラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、そうした日本人の生き方にとても感銘を受けて、日本を「死者の国」と呼びました。これは、日本人は死者の霊と共に生きている人たちだ、という意味です。


死者とは何なのかこれも謎である。確かにこのように日本人は死者を大事にする,月命日とかあるのもそうである。月ごとに死んだ人を供養するというのはそれで死者に対して思い入れがあるということである。
それが仏教では死者の供養の宗教となった,このサイトではそれをキリスト教の信仰と同じだとも言っている,日本人の心は死者と密接に通じたものだというのもわかる

でもみんながそうなのか?そういう日本人の伝統があってもみんなが死者を思っているわけではない,その人は親にひどいめにあったので親が死んでも供養する気も墓も作る気もない,金もないからそうなっているがまず親に対して何の関心もないのである。
親はその子を愛さないわけではなかったがいろいろ問題起こして事故で死んだからであるそれも中学生の時死んだからである。
その人は死んだ親に何の感情ももっていないのである。
だからみんなが死者を思うということはないのである。
いくら日本人の伝統でも個々人では事情が違ってくるのである。

死者というのはまたこれ愛すべき人が死んでみないと何なのかわからないのである。
自分は家族の一人は死んで八年になるしもう一人は二年とかになる
そういうことで死者のことを考える,わかったことは人間はなんでも継続なのだとういことである。人間は死んだからといって突然なにもかも途切れことはないのである。
自分の場合は60年間一緒にいたことが影響した
自分は特別愛されていたからそのことが影響した
ではそうして親が死んだときその愛情もすべてなくなるのかというとそうではない
やはり遺影がやさしく自分を見ているのである。
そして自分も遺影に語りかけているのである。

そこでわかったことは愛されたものがやがて愛する方に回る,それは介護になったときからそうなった,愛される方から介護になり愛す方に変わったのである。
その継続としてまた死者の供養があったのである。
死者は何も答えないしいるのかいないのかもわからない,でも愛情は死んでもとぎれることはない,それは死者でも愛も継続しているからである。
死んだときすべてが無に帰することもない,人間は死んでも継続するものがある

ただそれはあくまでも生きていたときからの継続なのである。だから死んだから死者になったから特別扱して先祖崇拝になることはないのである。
それで毒親のような人は死んでも子供は何の関心もなくなるのである。
生前にひどいめにあったから死んでも愛せない,供養もしないのである。
供養とは愛情のことなのである。

愛情がないかぎり死者への供養はしないのである。死んでからはむしろ生きている人が死者への愛情がなければ供養しない,確かに死者は何も答えない,愛情があってもそれを感じないかもしれない,ただ謎は愛情の交流は死んでもありつづけるのかもしれない
愛が生きている人から死んでいる人に流れてゆく,どっちかというと生きている人から死者へ流れてゆくことが多くなる,それは介護の時からそうなっていたのである。

まず親でも子が愛情がなければ介護もしない,その時からもう親子は愛情もないのだから親子でもなくなっているのだ。だから生前の継続として何でもあり突然に途切れて何か変わることはないのである。
だから日本人の伝統として死者の文化があった,としても全部にあてはまるわけではないのである。
ただ人間が死んだからといって何もかも終わりにはならない,生前からの継続するものはありつづける,生者が死者を偲ぶということはまさにその継続なのである。
でも死んでから偲ばれない人も親もいる,それも生きている時からの継続だからそうなっているのである。
だから人間は生きているときどう生きるかが大事になる,もう俺の人生は失敗だったといってせう一度やり直そうなどできないからである。
ともかく生と死を断絶したものとしてありえないのである。
死んだからといって死者が特別なものとなり敬われることはないのである。
死者が特別扱いされるのも危険なのである。生前がどうであれ死んだ途端に特別扱いはできないのである。

墓をどうするにしろ愛情をもてないことが一番の問題であり墓相がどうのこうのと関係ないのである。

死者とか墓とかいろいろ考察してきたけど前にもこういうことを書いていた

タグ:供養 死者

2017年11月28日

死んで人は終わらない (墓の問題は具体的なものとして残される)


死んで人は終わらない

(墓の問題は具体的なものとして残される)

人間は死んでもそれで終わりではない,別にむずかしいこと宗教などのことでもない,人が死ねば今度は死んだ人を葬る墓が具体的に必要になる
その骨とか灰をどこかに勝手に捨てるわけにはいかない,それは法律にも違反する

人間は死んでも終わっていないというとき具体的な問題として墓がある
死んだ後にも墓が人間には残るからである。
そこで現代は墓のことで悩む人が多くなる

そもそも墓とは何なのか?
これがわからないのだ,自分の異父兄弟の兄は事故で死んだ,その墓には骨壺があり骨を入れておいたがなくなっていた,何にもないのである。他の人の骨壺もなくなっていた
土になってしまったのである。
だから娘にその骨壺をもっていけといってもないのだからもっていきようがなくなったのである。

だからそもそも墓とは何なのか?死者とは何なのか?
それがわからないからそうなる
現実に近くの人は金がないので墓に母親の名前を刻んでいないのである。
墓に名前がないと一体それは何なのだとなる
その息子は評判の悪い息子であり親不孝の息子だからそうなった

その親はとてもいい人であり近隣からも慕われていたのである。
そして自分の家族が認知症になったときも受け入れてくれた唯一の人だったので感謝している,だからお礼として自分の隣に墓を造った
それはただ石に名前を刻んだだけのものである。
ただ名前が刻んであるだけなのである。そこに花を挿したりしている

そして今度は異父兄弟の兄の墓を自分の墓に作る,これもただ名前だけを記した簡単なものである。そういう墓が他にもある,卒塔婆だけがたてている墓もある
人間は墓はかえって粗末なものでもいいような気がする
なぜなら跡継ぎがいない時代には墓はかえって邪魔なものとして残るからである。
墓は簡単に捨てられないからである。それでも墓の墓場ができているのも時代である。
もし簡単なものだったら捨てるのも容易になるからいいともなる

人間はそんなにこれがけの数がいるのだから死ねばそんなに残り得ない,みんな忘れられてしまうのが普通である。江戸時代には墓が残ったのは侍くらいだけである。
庶民は墓がなかった,それは経済的な問題もあった,墓を造るには金がかかったからである。今でもそれなりに金がかかる,でも立派な墓を造っても今は跡継ぎがいない時代だから無駄だとなるのだ,かえって邪魔なものとして残りつづけるのである。

なぜ兄の墓を自分の墓の隣に空いているから作ろうとしたのか?
それは実家の墓が原町であり墓参りするにもめんどうなのである。
一人その実家で育った女性がいるが福島市に住んでいる,ただ一年二回くらいはその人は墓参りしている
その女性は実家の長男にあたる人から「墓を守ってくれ」と三百万もらい頼まれたのである。
じぶんはそんなこと頼まれなくて良かった,墓など守れないからである。
いづれ自分だって死んでしまうからである。
そんな頼みを請け負ったから大変なことになったと今では思う

自分の家の墓と兄は姓が違う,すると同じ墓には入れないのである。
江戸時代では実家の姓嫁いだ先の家の二つの姓が墓に刻まれているのもある
でも姓は一つにされたので同じ墓に入りにくいのである。
だから名前だけを刻んで供養することにした
その墓には骨もなにもない,ただ名前だけなのである。

そして墓とは何なのか?それは土地と関係して生まれていた
死んだら土になるというときまさに骨もなにもなくなり土になっていたからである。
その土地の土となった,でも今は土となるとしても広域社会になり遠くで生活して死ぬ人が多いから生まれた土地とも縁がなくなるのである。

そもそも人間は去る者は日々に疎しになる,生前から離れて暮らしているとその人のことが疎くなる,それは不思議だが墓でもそうなのである。
原町にあるのとすぐ近くにあるのとは違う,自分の墓は歩いて五分もかからないすぐ近くに墓がある,その墓の前を毎日のように通っているのである。
すると花が枯れたから淋しいなとか挿したりする
それは墓が身近にあるから墓のことを気にするのである。
墓はそうなると常時近くにあれば供養しているともなるのである。

つまり墓すら遠くにあれば疎いものとなるのである。
江戸時代あたりは農業中心だから農業中心の思想が宗教的なものでも生まれた
それが死んだ人は山に葬り田植えになると山から先祖が下りてくるとかの宗教である。
それは農業中心の社会から生まれた思想であり宗教観である。

人は死んだら土に還るとはまさにそうである。これは農業的宗教観である。
遊牧民だったら天に還るとなるからだ,その思想の相違も大きいのである。
土に還るというとき死んだ人はその土地のものとなりありつづけるということにもなる
それは近くであってこそそうした宗教観をもてるのである。
離れていたら例え隣の町でも何かそうした思想は生まれにくいのである。

近くだと死者もいつもここにいるなと感じる,それは生きていても離れていると特に東京とか離れていると疎くなるのである。それと同じように死者すら離れていると疎くなるというのも奇妙だけど感覚的にはそうなるのである。
だから毎日通る近くに墓があることは毎日死んだ人を意識するから生きている人と死者も共にあるともなる

ともかく人間は介護があるしまた死んでからも墓の問題があり供養がある,何か観念的なものでなくても具体的に墓の問題があり後始末があり死んでも簡単には終わらないのである。だから故郷に住めなくなった原発避難区域などでは墓の問題がありこれも結構むずかしい問題である,墓を移した人もいる,もう故郷に住めないとなるとその土地の土にもなれないとなってしまったのである。
それも一つの問題でありあまり話題にならないが大きな被害を与えたともなる
精神的損害だったということは言えるのである。
ただこの精神的損害を言ったらもうきりがないのである。
いくら補償金を与えても満足が得られない問題なのである。
ただそういう被害は外からは軽く見られることは確かである。

冬の日(円墳-変わらぬものに価値がある)


冬の日(円墳-変わらぬものに価値がある)

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枯菊や同じ道めぐりまた暮れぬ

冬の日や円墳ここに五つほど

五六個の円墳変わらず冬の暮

老人の住処(すみか)変わらず冬の暮

故郷の古墳変わらず冬の暮

また一つ墓を建てるや冬の雲

文を練る窓にのぞきぬ冬の月

冬薔薇駅に待つ人一人かな


同じよう道を毎日行く,ここ十年がそうだった,家族二人死んで一人になってからも
遠くには行っていない,何かまだ用があるからだ
今日は兄の墓を作ることで相談に行った,十万もしないで作れるので助かった
この墓作ればまた一仕事終わったともなる
何か実家とかなるとそうした仕事がある,だから長男は実家を守るものとして大事にされたことには意味があった,ただもはやそうした昔の家は消失した
結果として墓を守るものも跡継ぎもいなくなったのである。

そしてもうつくづく思うことは何度も書いたが人間は世の中が変わりすぎることである。現代は広域社会だから変わりやすいのである。
そして何か変わらないことはに価値があると思った
横手の円墳でも千五百年なのか変わらないとなれば驚異的だとなる

この辺は津浪とか原発事故でめまぐるしく変わったからである。
海の方に風車が二つできた,これも松原の景色からすると全く変化してしまった
もう昔を偲ぶものはない,右田の松原もないのである。
こんなに人間が変わるものか?

こうなると人間関係でも何でも変わらないものに価値がある
ここに変わらず木があり石があり家があり古墳があり人がいるとなるとそれが価値があり安心をもたらす,もうそれほど変化したのである。

実際もう変わりたくない,変わることに耐えられなくなっている,特に老人はそうなる
変わらずにあるということが何でもないようで価値がある
変わらずに住むことが価値がある
変わらないことで心も安定するのである。
もう新しい人間関係を作るのを老人に苦手である。
前からあるものが親しく変わらないことで精神の安定が得られるのである。
タグ:円墳 冬の暮

2017年11月29日

感謝することが生きる力になる (感謝しないと逆に罰がくだる)


感謝することが生きる力になる

(感謝しないと逆に罰がくだる)

今の世の中人はめったに感謝しない,自然の恵みに感謝したりもしない,だからそうした祭りもなくなる,神というのも関係ないとなる,神の代行約が科学者である
だから科学者が神のようにもなる,一番今でも尊敬されているのは医者であるのもそうである。医者は万能でなくてもやはり命を救うことができる,病気も直せると信じるからなる

でも実際は人間の体にしても全部わかったわけではない,
人間の体がなぜわからないのか?それは人間の体はこの自然界と宇宙ともあらゆる元素とも関係しているからわからないのである。
それは相互浸透しているからわからないともなる,人間の体も自然の様々な元素が栄養として必要であり自然界と一体となってあるからわからない,人間の体がわからないのは自然がすべて解明されないと同じなのである。

でも何か科学者はそういうこともわかっていると思われるので科学者が神のようになるのである。でも実際は科学者もみんなわかっているわけではない,でも何か現代は科学者に幻想を抱いている,科学者がこの世のことでも体のことでも解明してくれると思っている科学が現代の信仰に近い,科学者は現代の聖職者になっているのだ
そして牧師とか僧侶とが昔の権威ある人達は力がない,信じられない,ただ無駄飯食っていると見られるのが多い,それは何か社会に実行力を示さないからである。

宗教でもキリスト教でも初期なら奇跡を示して宗教の力を示していたのである。
今はその奇跡の力は科学に期待しているのである。
ip細胞ができれば病気は直せる画期的だ,もう老いることもないとかそれが過剰に期待されているのである。それでスタップ細胞の騒ぎ起きたのである
科学が万能のように見させている,そうなら神が科学者になるからである。
そうなると感謝すべきは本来のこの世界を人間を作った神でなくなる,科学者に感謝しろとなる,科学者が神となるからである。

でも結局原発事故のように科学者の地位も事故で低くされた,科学者に対して信用できなくなった,それだけの技術力もないと知られたのである。
そしてこれだけの災禍をこの辺にもたらした,科学者はその地位を急速に失ったのである科学者に石なげてもいいくらいになったのである。科学者はペテン師になりさがったのである。科学者は原子力を操作できなかったのである。
でも操作できると安全神話まで作っていたのである。それが事故で一挙に崩壊してしまったのである。

人間は今あらゆることに感謝しない,食物にも感謝しない,ただたりないたりないというだけである,親に感謝しないし先祖にも感謝しない,食料を得るにも金を出せば買える,金を出して買っている方が偉いのだとなっている
「金を出せばいいんじゃないか」それでなんでも手に入るとなっている
感謝すべきは金を払った方だとなり消費者は王様だとなってしまったのである。
本当は生産者こそ王様であり感謝すべき方だったとういこともある
食料を作り出して与えてくれる人達だからである。

ではこうして何物にも感謝しない社会はどうなるのか?
感謝しないことは人間に力が湧いてこないのである。人間は親でも感謝すれば生きる力が湧いてくる,親は苦労して育ててくれたとなれば親に感謝して生きる力がでてくる
母は苦労して百才生きた,自分も生きようとなるのである。
俺は自分一人で生きている,誰にも感謝する必要はない,もちろん神にも感謝などしないみんな自分の力で得るのだとなったらどうなるのか?
そういうふうに生きていたら傲慢であり神から罰せられるだろう。
現代人は感謝するとういことがない傲慢がある

ただいくら感謝しろといっても人間は簡単には感謝しない,それは強制できないのであるでも感謝しないということは何かそれが神の意向にも反するものだから恐ろしいことが起きてくる,津浪でもそうである。
一匹の魚を軽んじたとき津浪が起きた,不思議なのはこの世にあるものはみんな神が作ったものである。確かに人間の労働が加わってできても本質的に神が作ったものである。
つまり原発がいいものであり補償金をもらった方がいいとなり事故が起きたのである。
その時魚などとっても金にならないとか常に言われていたのである。
農業でもそうである。農業では金にならない,原発の方がいいとなり事故が起きた,一粒の米を軽んじた結果として起きたともなるのだ
そういうことを反省しないし何が悪かったのかも良く考えない
そうして感謝を失ったから罰が下ったともなる

人間は何かあらきゆるものを人間が作っていると錯覚しているのである。でも人間は何も作れない,なぜなら人間は全く新しい種は植物でも作れないからである。
そこに人間の限界がある,創造主が作り与えるが人間は作れないのである。
リンゴでもそれを作ったのは神であり人間が手を加えて与えられている
でも人間が手を加えてもリンゴを作ったのは神なのである。
でもその神そのものにリンゴを食べているからといって感謝する人はいないのである。
「神様リンゴを与えくれてありがとうございます,とてもおいしいです,リンゴは健康にいい栄養に満ちています,こんなおしいしものを与えてくれて神様ありがとうございます」こんなふうに感謝して食べている人などいないのである。
このリンゴは高いと安いとしかないのである。

ただ現代人は親でもそうだし先祖でもそうだし基本的なものに感謝しない,ただ金があれば何でも手に入る,何かに感謝するなどより金があり金が欲しいとなる
金を遺さない親は用はない,感謝などする必要はないとなる
そしてあらゆる人がただ不満だけを言う,足りないことを金持ちでも貧乏人なればなおさら言う,足りない,足りないという不満だけになる
感謝する人はいないのである。
そういう人間を見て神をどう思うのだろうか?

神は遂に怒りになってしまうだろう。そのために津浪が襲ったのかもしれないのだ
感謝すれば神も喜びさらに良きものを与える,しかし神の与えたものに満足して感謝しないものには神は怒り罰を与えることになる
何かたりないたりない欲しい欲しいというより与えられたものに感謝すると生きる力が湧くのである,これは不思議なことでもある
何かたたないというのではなく欲しいというのではなく与えてくださってありがとうございますと感謝すれば神も喜びその人自身も生きる力が湧くのである。
でもそう思う人はほとんどいない,あらゆる人が金持ちでも不満であり足りないとなっているのだ
だからこ現代には大きな災いが起きたりする,そして豊かになろうとしても貧乏になってゆくのである。それは感謝しないからだともなるのである。

とにかく何か感謝するとさらなる力が与えられることは確かである。
例えば親でも先祖にでも感謝すればその家はさらに栄えると思う,感謝されない親は問題があった人である。
だからどういう親をもつかもその人の運命を左右してしまう,親にはそれだけの責任があるとなる,親にひどいめにあった人は親に対して何の感情もなくなる
ただひどいめにあったというだけになってしまうのである。
自分の場合は特別な思いを親にもっている,感謝している,自分がありえたのは親がいたからだと思っているからだ,それは特別な事情でそうなったのである。

なぜ感謝が大事かというとあまりにも人間はあれほしい何かほしいとか欲しい欲しいしかなく感謝する人がまれだからである。
いくら欲しい欲しいと得てもさらに欲しい欲しいとなりきりがないのである。
感謝するということはそこにない,もちろんいろいろ与えてくれる神に感謝など今はしない,すると与える方にしても神でも人間でも嫌になる
これほど与えているのに感謝もしないのか?そういう気持ちになり災いが与えられるということもあるのだ
そういうことが津浪や原発事故で起きたことを書いた
漁業関係者も一匹の魚に感謝している人などいない,もう漁業では暮らしていけないとかしかなかった,農業でも一粒の米に感謝している人などいない,農業ではやっていけないとか不満だけだったのである。
そして金になる原発を誘致したのである。
結果的にそのことで神は罰を与えたともとれる,感謝することは力を得るがしなければ災いが与えられるから怖いのである。

タグ:感謝

感謝に欠けていた自分 (なぜ今自分が親に感謝するようになったのか?)


感謝に欠けていた自分

(なぜ今自分が親に感謝するようになったのか?)

人間は感謝するというときそんなに普通はしない,ちょっとしたことでありがとうというのは感謝とは違う,感謝は深いものである。
だから感謝の基本はもともとは創造者と神と人間の関係のなかでの感謝である。
感謝というとき人間に対しての感謝を言うのが多いからである。

例えばリンゴを例にすればリンゴという種を造ったのは神である。すると最初に感謝を捧げるのはリンゴを造った神であって人間ではない,確かに人間は手を加えて労働して与えている,でも本質的には感謝は神があってリンゴが食べられるのだから創造主に感謝を捧げて次に人間に感謝するのが順序なのである。

そしてリンゴがどうして作られるのか?それはリンゴだけがあるのではない,リンゴになるためには大地の栄養が必要なのである。他にも天候とかいろいろな要素が働いてリンゴがなる,それは自然の恵みであり神の恵みなのである。人間はあくまでも補助役なのである。リンゴを作るものは神であり自然である。


でもそうしている人はほとんどいない,ただ人間に対して感謝しろとなっているのだ
そしてあらゆるものが人間が与えたものだとなるとをとなるのか?
人間が神になってしまうのである。そこに肝心の創造した神がないがしろにされているのである。

それは偶像崇拝にも通じている,人間は自然にあるありとあらゆるものを神にした
でも肝心のそのありとあらゆる自然のものを造った神はないがしろにされていたのであるそれが神は怒ったのである。
作り主であり神を崇拝しろとなったのである。ある時は木が神ともなり石が神ともなり山が神ともなる,そして人間も神となった,でもそれらを造ったのは神なのである。

その神というものが何なのか?聖書では教えた
偶像崇拝とは目に見えるものを崇拝することである,でも目に見えないものこそ神だったのである。
神といっても目に見えて具体的なものとして現れれば必ず汚されるからだ
だから神は人の目にも触れられない,見えないものとっな存在したのである。

ともかく感謝しろというとき人間にばかり感謝していたらそれは偶像崇拝になるのである肝心の神がないがしろにされているからである。
正直毎日買い物しているけどいちいちその買った物にありがとうなど感謝しないのであるただ逆に買ってやっているとう感覚になっているのだ
ありがとうと言われるのは買ってるほうであり作ったり売っている方ではないのである。
人間はよほどのないかぎり本当に感謝するのだろうか?
ありがとうと言うのと感謝はにていても違っている
感謝は深いものであり一時的なものでもない,あるものに継続的に感謝するのである。
自分は感謝が欠けていた,感謝したことがほとんどなかった

そして今一番感謝しているのが死んだ親だったのである。
なぜそうなったのか?それは六十年間食事の用意したり家事をしてくれたり家のことをしてくれたからである。
それでなぜ深く感謝するようになったのかというとここ十年間は介護となり自分のために何かをしてくれる人は皆無でありなかった,それより自分に対して金欲しいとかしかなくなったのである。
だから自分のために二三枚の皿洗う人も皆無である。その二三枚の皿を洗ってもらうのに高額な金を払わねばならない,そうして十年間過ごした結果,六十年間食事の用意をしてくれたり家事をしてくれたり自分を世話してくれた親に感謝するようになったのである。
あとは鉄道旅行が長いから鉄道の人には世話になったとかあり無人駅でボランティアしたりする,それからずいぶん旅行して泊めてもらったから人を泊めて接待したりした
それもカルマだったとなる,現実にそうして海外旅行して世話になったからと外人を格安で泊めている人がいた,それは感謝の心がありそうなった

感謝しろというけどよほどのことがないと親でも感謝しないと思う
ただ親でも妻でも死んでみるとそのありがたみがわかる
空気のようにあるものに人は感謝しないのである。当たり前にあるものに感謝しないのである。そういうことが原発事故の避難区域で起きた
故郷に住めなくなるなど思いも寄らなかったからである。
故郷があるということに感謝することにもなったのである。

とにかく自分の場合,親の遺影の前にいることが不思議である。
何か心が浄化されるような気分になる
なぜ死者が美化されるのかというと生きていれば醜い面が必ずあり生きている人に感謝しにくい,でも一旦死ぬとそうした醜い面は消える,そして死者は何か浄化されてまさに仏様のようになる,それが先祖崇拝になり先祖が神ともなる宗教となった
この感覚は奇妙であり何か言葉では説明しにくいのである。

親とか妻は一番身近な存在である。そう身近な存在だった人が死んだとき感謝の気持ちが湧かないのは共に不幸である。
そういう人間関係は失敗だったことになる,自分の家は複雑で別に仲のいいものではなかった,絶えず争いがありもめていたのである。
でも一旦死んだら争うこともない,醜い面も見えない,すると何か今は美化されてゆくのも不思議なのである。
二人はこの家で生を全うしたのである。離婚した人は全うしていないのである。
その差も大きいのかもしれない,六十年間一緒に暮らしたことの意味が重いのである。
別に途中で分離することもありえたからである。それがなかったことが大きな意味をもったともなる

姉と母との遺影の前に
我がありて感謝の絶えぬかも
大地より湧く泉のように
感謝の心は自ずと湧きぬ
巌のように硬くありて
感謝を献ぐべきかな
我に尽くす人なし故に
その感謝の心は深まりぬ

これは自分の家族の場合特殊な事情でこうなった,他ではならないだろう。
父が早く死んだことなどでそうなったのである。