観光立国の疑問
(なんでも経済優先は後で後悔する)
デパートの売り上げが大幅に減ったことはともかくとして、これまで培ってきた「洗練された」「高級感あふれる」「落ち着いた」街という銀座のイメージが損なわれてしまったことは残念ですね
短期的な儲けを当てにして、外国人観光客目線の商売をすることは、長期的には、街に対する愛着を失わせてしまう恐れがあります。
NHKで観光立国のことを今放送していたけど疑問である。人間社会というのは何かを得れば何かを失う宿命にあることに気づくべきである。
確かに経済的に困窮してくると観光でもなんでも金を稼がねばならないとなるからそんなことを言っていられないともなる
この観光立国の問題はもしかしたら日本の文化的なものが破壊されることかもしれない
京都などの古都ではそういうことが起きているだろう,しみじみと静けさのなかで味わう日本的情緒が外人がおしかけて喪失する,それはすでに修学旅行生などで起きていたのである。そもそも寺は観光のためにあるのではない,修行の場だったのである。
これは銀座だけの問題ではない,京都などで一番起きている問題だろう
それぞれの土地には、そこに根差して暮らしてきた人々が時間をかけて培い、大切にしてきた歴史的、社会的な「意味」があります。そうした意味を、人々が共有しているからこそ、郷土愛や郷土意識、人々の同胞意識が育まれ、村や町、ひいては国が成り立っているわけです。
ここの文章はうまく表現している,観光が目的化するとこうしたものが無視され外国人のためにばかり配慮してそもそも長年生活していた土地の人のことは無視される
それが国の政策として奨励されると余計にそうなる
京都などは何か和服の人がもともと静かに歩み通るのに向いていた,それがすでに現代化したとき失われていたのである。
さらに外人が増えるともう京都の情緒もさらに失われる,だから宿もとれないとかなるともう行きたくないとなる,自分は十年間旅行していないししたくなくなったからいい。
自分が旅行したときは恵まれていたなとなる,むしろ閑散としていた方が情緒が味わえる
これも不思議なんだけどこの辺では原発事故で一時原町と相馬市の駅の間しか電車が通らなかった,それが何か人間的なのである。今までは6両くらいのときそう感じなかったのである。
今日も行く二両の電車や秋の虹
冬の雨(二両の電車の不思議は以前としてつづく(4)
枯野(人間的な二両の電車)
二両の電車は今でも二回くらい行き来している,乗る人が少ない昼間である。
なぜでは六両の電車と二両の電車が違って見えるのか?
それは一つの謎である。六両だと人間的ではない,二両だと時雨たりしても何か電車が人間のように見えるのである。
車だと時雨とか風でも感じない,外から見ても感じない,電車は風景と溶け込むことがあるので人間的なのである。それが二両になったとき余計に感じたのである。
この感覚は不思議だなと思う
だからこういうことは観光にも影響しているのである。京都などは人が多すぎたらもう本来の京都の情緒はないのである。
そして最近観光に来る外国人は別にそんなふうに見る人達でもない,ただラーメンを食べたいとか庶民が来ているのである。それでやはり観光により俗化が起きてくる
夜も楽しみたいというときそこに若者も来ているから見せ物を作り出す,それは日本文化とは違う,テレビのような見せ物になる
ただそうはいっても人間はつくづく背に腹はかえられないのである。
みんな金になるならやるとなる,地方では余計に衰退しているからそうなる
ただそこで失うものもまた生まれる,マイナスの面が生まれる
原発でもとにかく金になればいいと地元の人達が誘致したのである。
今になると後悔しても時遅しだったのである。
だから観光も極端化してゆくと遂には日本文化の破壊までになる
ただ日本はそれだけ落ちぶれたから贅沢は言っていられないとなる
要するに金のために日本の魂まで売るとまで大げさに言えばなる
それは原発でそこに住めなくなったこの辺とも共通しているのである
何か当たり前にあったものが喪失した,「生業を返せ」と補償金を要求しても
金をもらってももう生業は返ってこのないのである。
だから観光立国がすべていいように政府が奨励してもその弊害もある
ただ人間は背に腹はかえられぬとなる,別に自分は海外旅行したから外人と交わるのが楽しいということがある,外人と交流したいということもある
一人一人が外交官になる必要があるというのも面白い指摘である。
外人と交流を深めれば日本を理解されるからである。
それでもこれだけ数が多くなると問題が生じてくる
やはり限度があるが日本は何で稼ぐとなると観光で稼ぐほかないとなりそれをとめることもできないだろう。それで失うものより金が欲しいというときそれは原発と同じなのである。そして後で後悔したりするのである。
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