2017年11月11日

観光立国の疑問 (なんでも経済優先は後で後悔する)


観光立国の疑問

(なんでも経済優先は後で後悔する)

デパートの売り上げが大幅に減ったことはともかくとして、これまで培ってきた「洗練された」「高級感あふれる」「落ち着いた」街という銀座のイメージが損なわれてしまったことは残念ですね

短期的な儲けを当てにして、外国人観光客目線の商売をすることは、長期的には、街に対する愛着を失わせてしまう恐れがあります。


NHKで観光立国のことを今放送していたけど疑問である。人間社会というのは何かを得れば何かを失う宿命にあることに気づくべきである。
確かに経済的に困窮してくると観光でもなんでも金を稼がねばならないとなるからそんなことを言っていられないともなる
この観光立国の問題はもしかしたら日本の文化的なものが破壊されることかもしれない
京都などの古都ではそういうことが起きているだろう,しみじみと静けさのなかで味わう日本的情緒が外人がおしかけて喪失する,それはすでに修学旅行生などで起きていたのである。そもそも寺は観光のためにあるのではない,修行の場だったのである。
これは銀座だけの問題ではない,京都などで一番起きている問題だろう

それぞれの土地には、そこに根差して暮らしてきた人々が時間をかけて培い、大切にしてきた歴史的、社会的な「意味」があります。そうした意味を、人々が共有しているからこそ、郷土愛や郷土意識、人々の同胞意識が育まれ、村や町、ひいては国が成り立っているわけです。


ここの文章はうまく表現している,観光が目的化するとこうしたものが無視され外国人のためにばかり配慮してそもそも長年生活していた土地の人のことは無視される
それが国の政策として奨励されると余計にそうなる
京都などは何か和服の人がもともと静かに歩み通るのに向いていた,それがすでに現代化したとき失われていたのである。
さらに外人が増えるともう京都の情緒もさらに失われる,だから宿もとれないとかなるともう行きたくないとなる,自分は十年間旅行していないししたくなくなったからいい。
自分が旅行したときは恵まれていたなとなる,むしろ閑散としていた方が情緒が味わえる
これも不思議なんだけどこの辺では原発事故で一時原町と相馬市の駅の間しか電車が通らなかった,それが何か人間的なのである。今までは6両くらいのときそう感じなかったのである。

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今日も行く二両の電車や秋の虹
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冬の雨(二両の電車の不思議は以前としてつづく(4)
枯野(人間的な二両の電車)

二両の電車は今でも二回くらい行き来している,乗る人が少ない昼間である。
なぜでは六両の電車と二両の電車が違って見えるのか?
それは一つの謎である。六両だと人間的ではない,二両だと時雨たりしても何か電車が人間のように見えるのである。
車だと時雨とか風でも感じない,外から見ても感じない,電車は風景と溶け込むことがあるので人間的なのである。それが二両になったとき余計に感じたのである。
この感覚は不思議だなと思う

だからこういうことは観光にも影響しているのである。京都などは人が多すぎたらもう本来の京都の情緒はないのである。
そして最近観光に来る外国人は別にそんなふうに見る人達でもない,ただラーメンを食べたいとか庶民が来ているのである。それでやはり観光により俗化が起きてくる
夜も楽しみたいというときそこに若者も来ているから見せ物を作り出す,それは日本文化とは違う,テレビのような見せ物になる

ただそうはいっても人間はつくづく背に腹はかえられないのである。
みんな金になるならやるとなる,地方では余計に衰退しているからそうなる
ただそこで失うものもまた生まれる,マイナスの面が生まれる
原発でもとにかく金になればいいと地元の人達が誘致したのである。
今になると後悔しても時遅しだったのである。
だから観光も極端化してゆくと遂には日本文化の破壊までになる

ただ日本はそれだけ落ちぶれたから贅沢は言っていられないとなる
要するに金のために日本の魂まで売るとまで大げさに言えばなる
それは原発でそこに住めなくなったこの辺とも共通しているのである
何か当たり前にあったものが喪失した,「生業を返せ」と補償金を要求しても
金をもらってももう生業は返ってこのないのである。

だから観光立国がすべていいように政府が奨励してもその弊害もある
ただ人間は背に腹はかえられぬとなる,別に自分は海外旅行したから外人と交わるのが楽しいということがある,外人と交流したいということもある
一人一人が外交官になる必要があるというのも面白い指摘である。
外人と交流を深めれば日本を理解されるからである。
それでもこれだけ数が多くなると問題が生じてくる
やはり限度があるが日本は何で稼ぐとなると観光で稼ぐほかないとなりそれをとめることもできないだろう。それで失うものより金が欲しいというときそれは原発と同じなのである。そして後で後悔したりするのである。


タグ:観光立国
posted by 老鶯 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

便利な自分のプログの検索方法 (キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)


便利な自分のプログの検索方法

(キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)

キーワードを入れてタイトル(題名)を押すと全文が表示されます

これはわからなかったけど便利である

自分のプログは膨大なので自分さえ何を書いたかもわからなくなった
だからこの検索方法は便利である。

二両の電車と入れたら一つの連作として作品化できる
他にもそうして分けてまとめることができるのが便利である


検索窓でキーワード→タイトル(題名)を押す→全文表示
タグ:検索

冬来る(今年は急激に季節が変化する)


冬来る(今年は急激に季節が変化する)


木の葉散る眠るは誰や墓地のぞく

故郷に見送る人や柿なりぬ

晩菊や孫連れ歩く小径かな

晩菊に午後の日ざしや裏の路次

舞い上がる下より木の葉風鳴りぬ

冬日さし全集のページめくるかな

我が椅子のここに動かじ冬の雲

昼時に二両の電車や冬の山


今年は季節の変化が激しい,ここ何日かは晩菊とかを見ていた
しかし今日は二階にいたら木枯らしであり風が朝から唸っていた
そして下から木の葉が風で吹き上げられた

自分はただそこで座る椅子があり休んでいる
外を見ると冬の雲であり何かこうして動かないことが安らぐようになった
だから老後は住む家と住む場所とか誰と住むとかが大事になる

全集のページを読み直しめくるとそこに冬の日がさしてくる,こういうことは電子本ではできない,そうして読んだものはなぜか記憶されやすいのである。
電子本とインターネットは検索するのには便利なのだがなかなか記憶しにくいのである。なんでもいい面と悪い面が人間には生まれる,だから自分は電子本にはなじめない,本のが読むのにいいのである。

ゆったりと定席の椅子にすわり本を読む,それが幸せな時である。
外を見ると冬の雲が動かない,何か動かないことが落ち着くとなる
結局年取ると何か動き回ることは苦手になる,じっとしていることがいいのである。
だから家でゆったりする場がないと落ち着かないとなる
家事を一人でしているからその家事が手間になるときがある
でも機械化しているからコツを覚えればなんとかできる

one cloud in winter
the still one
on my sitting chiar
in stability

とかなる

自分のプログの検索は

検索窓でキーワード→タイトル(題名)を押す→全文表示

これだった,なかなかプログでもインターネットは操作がわかりにくいのだ
だから検索するのがむずかしい,ここで季語を入れれば関連したものが出てくる
そしてタイトルを押すと全文表示できるから便利である。
季語をキーワードとして入れると検索できるのである。
これは自分にとっても便利だった,何を書いていたのかもわからなくなったからである。

「二両の電車」と入れると一連のものとして読める





タグ:冬来る

木枯らしに時雨(川子の御堂)


木枯らしに時雨(川子の御堂)

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ジャンパーにぽつぽつ音して時雨かな

柿なりて御堂一つや旧き家

冬の蝶隠れて見えず飛び去りぬ

明和の碑川子の御堂や銀杏散る


風樹々をゆすり吹き鳴り時雨ふる木の葉も舞いて飛び散りにけり

風鳴りて木の葉吹きちり時雨ふる山頭火の影遠く消えさる


最初ぽつぽつとジャンパーに時雨の音がした,それから木枯らしが吹いて木の葉が吹き上がり舞い散った,川子に御堂があった,何の御堂かわからない,でもその脇の碑には明和とあった,戒名だから死んだ僧侶なのだろう
あそこが意外と古かったのである。なぜなら天明より前だからである。

その前に家があり柿がなっていて落ち着いた風景になる
ただあの辺は家が少ない,だから一部落があったのかとなる

とにかく今年の天気は本当に変わりやすい,急激に冬が来たのである。
時雨というとぽつぽつと降るのが時雨と思っていたが一雨降った
でも明らかに時雨の雨だったのである。

時雨というとき山頭火が時雨を俳句にしていた

後ろ姿のしぐれてゆくか

音はしぐれか

大樟も私も犬もしぐれつゝ 山頭火

犬もしぐれつというとき山頭火らしいとなる,野良犬のように旅したからそうなった
ただ時雨というとき静寂の中にぽつりと音がして時雨をイメージする
ところが今日のように時雨のときは雲がかたまり流れて嵐のようになるときもある
木枯らしと時を同じくして時雨になる,だから今日の時雨は一所雨になったのである。
雨が風とともにふり樹々をゆすり風が唸り木の葉が舞い上がったのである。
だから急激に冬が来たのを肌で感じた,家では二階にいたら下から木の葉が吹き上げられた

今日一日の変化は激しかった,電車も一時遅れたらしい,それで二両の電車の写真を撮ろうとしたがとれなかった,代わりに時雨と木枯らしの写真をとったのである。
これは動画ではないから良くわからないが時雨の雨が筋になって写っている
ともかく冬が急激に襲うように来たのである。

山頭火の時雨の句の意味 (旅人になれない現代)

2017年11月12日

コンピュターが抽象画を作っても鑑賞できない (川の抽象画)


コンピュターが抽象画を作っても鑑賞できない

(川の抽象画)

Even if the computer creates an abstract picture it can not be appreciated

(Abstract picture of river)

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shadow of forest
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snowy forest
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snowy river
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flowing image

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hot and cool


川の流れというときすべての川は違っているかもしれない,川にも個性があるのだ
それは山でも同じだけど実際の山を見てもわからない場合がある
それで不思議なのは川でも山でも抽象画にしたときこんな山も川もありだなと思った
それが抽象画の不思議だった,それはコンピュターが生まれてできた芸術だったのであるコンピュターが見る眼を与えたのも不思議である。
機械が創造しているというのも不思議なのである。

でもコンピュターは川とか山とか認識しても芸術的に鑑賞はできない
川とか山を様々な観点から認識できないのである。
だからコンピュターが川とか山を作り出してもそれを認識できないのである。
認識できるのは人間だとなる
ただ川というのが現実の世界,自然にあってそれが基となって抽象画も見ているのであるだから抽象画でも具象画と通じているのである。
それで全く具象画と自然と通じないのはなんだろうとなり鑑賞できなくなることが抽象画にある,でもそれもやはり色の組み合わせであり一つの芸術なのである。


Every river may be different when it is a stream of rivers, the river also has personality
It is the same in the mountains, but there are cases in which you do not know even if you look at the actual mountain
That's why I thought that there were such mountains and rivers when I made abstract paintings in rivers and mountains
It was a wonder of abstract paintings, it is strange that the computer was born and the computer was given the eye to see.
It is strange that machines are creating.


But even if the computer recognizes rivers and mountains, it can not be appreciated artistically
We can not recognize river and mountain from various viewpoints.
So even if the computer creates a river or mountain it can not be recognized.
It is human beings that can recognize
Just a river is a real world, in nature and it is based on the abstract painting as well, so even abstract paintings are familiar with concrete paintings.
That is why it will be impossible to appreciate what is totally unrelated to a concrete picture and nature, but it is also a combination of colors and it is one art.

南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎 (明和だから天明の飢饉の前のものだった)


南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎

(明和だから天明の飢饉の前のものだった)

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荒井山広徳院宝持寺 北森山にあり,天明の頃,寺廃す
故に塩崎村田中山慈伝院に合す:文政六年慈伝院を江垂村普陀落山観音寺に合す
(鹿島町誌)

元禄宝永中戸数四十,三十八戸 天明三二十二戸 同年 戸数十六戸


慶長けいちょう1596.10.27〜1615.7.12 
元和げんな1615.7.13〜1624.2.29 元和偃武
寛永かんえい1624.2.30〜1644.12.15 寛永寺 寛永通宝
正保しょうほう1644.12.16〜1648.2.14 
慶安けいあん1648.2.15〜1652.9.17 慶安の変
承応じょうおう1652.9.18〜1655.4.12 
明暦めいれき1655.4.13〜1658.7.22 明暦の大火
万治まんじ1658.7.23〜1661.4.24 
寛文かんぶん1661.4.25〜1673.9.20 
延宝えんぽう1673.9.21〜1681.9.28 
天和てんな1681.9.29〜1684.2.20  ※辛酉革命
貞享じょうきょう1684.2.21〜1688.9.29. 
元禄げんろく1688.9.30〜1704.3.12 
宝永ほうえい1704.3.13〜1711.4.24 
正徳しょうとく1711.4.25〜1716.6.21 
享保きょうほう1716.6.22〜1736.4.27 享保の改革
元文げんぶん1736.4.28〜1741.2.26 
寛保かんぽう1741.2.27〜1744.2.20 
延享えんきょう1744.2.21〜1748.7.11 
寛延かんえん1748.7.12〜1751.10.26 
宝暦ほうれき1751.10.27〜1764.6.1 宝暦事件
明和めいわ1764.6.2〜1772.11.15 
安永あんえい1772.11.16〜1781.4.1 
天明てんめい1781.4.2〜1789.1.24 天明の大飢饉
寛政かんせい1789.1.25〜1801.2.4 寛政の改革
享和きょうわ1801.2.5〜1804.2.10 
文化ぶんか1804.2.11〜1818.4.21 
文政ぶんせい1818.4.22〜1830.12.9 
天保てんぽう1830.12.10〜1844.12.1 天保の改革

川子の御堂の由来は何なのか?あの御堂には何を祭っているのかもわからない
鹿島町誌にある寺があったところなのか?
その僧侶の戒名が記されていてそれが明和となっている
明和というと天明より前である。天明の飢饉より前に寺があったのか?
天明の頃に廃したとあるのは飢饉で寺が成り立たなくなったのか?
そういうことはありうる

天明になり戸数が半分以下になっている,それは相馬藩では共通している,だいたい半分に戸数は減ったのである。そうなると寺を維持できなくなり廃した
そして塩崎村の田中山慈伝院に合したとなる,その後は江垂の寺に合した
ということはこれは天明の飢饉が関係してこうなったのか?
ただここには寺があり僧侶の戒名が記されているが天明の飢饉の前に死んだのである。
ただその後にその寺はなくなり墓だけが残ったともなる

川子というとき何か村としては小さいし由緒がはっきりしない,大内村には館という地名があり中世からあった,真野の江垂は中館がありここはこの辺では南北朝の争いで霊山が炎上して逃れた武士が住み着いたことで知られている
塩崎村とか川子村はその中館から分村したものとなるだろう。

地形的にもおそらく前は丘陵になっている前は湿地帯であり津浪で塩水に浸り塩崎まで船着まで津浪が来たことには驚いたのである。この辺では低い場所だったのである。
塩崎と船着とかいうことが津浪で現実にそこまで海だったことが証明されたのである。
八龍神社は高い所にある,烏崎でも高いところにあり津浪でぎりぎりで社が残ったのである。あれも本当に不思議だった,八龍神社があれば相当に古いのだと思う
鎌倉時代に普及した水を司る神だからである。

川子には五賀とかの姓の人がいる,右田にもいた,それは古閑(こが)であり越中の人である,人か住んでないな荒地の意味である。
越中とかからは天明の飢饉で移住した人が相当数いる,墓地を見れば本当に多い,真宗だから南無阿弥陀佛となるからである。三分の一くらいがその墓になっているとき江戸時代からその子孫が相馬藩内に住んだのである。

そういう移民は相馬藩内でも悪い土地を与えられた,だから開墾するのに苦労したのである。ただどこにでも真宗系統の移民がいるから川子が多いというわけではない,散らばって相馬藩内に入った,ただそこは土地としてはいい場所ではなかったのである。

ただあそこに明和の碑が墓があったことは意外だった,まず天明より前だとこの辺では相当に古いとなるからだ,他の碑もみてみたが字がわからない,不明になった碑も墓も多いのである。
タグ:川子
posted by 老鶯 at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2017年11月13日

東京から地方へユーターンする老人 (東京の高齢化が深刻になってくるから)


東京から地方へユーターンする老人

(東京の高齢化が深刻になってくるから)


地方へ住みたいという人が増えてくる,それがNPOで東京で募集しているが最近は二十代と三十代が増えているという,そしてみんな真剣だというから退職して田舎でのんびりしようとする人達だけではない,地方で仕事をもって定着したいという人が若い世代でも増えているのである。
これは意外でありそういう傾向が生まれてきたのも現代である。
なぜならみんな地方には仕事がないとかなんとか地方を離れたい田舎を嫌だというのが言われてきたからである。

ただ退職した人かが移住する場合はまた違っている,松山市が一番人気があるということでもわかる,松山市は三十まんととかの都会である。仙台並である。
そういう地方の都会に移住するのは東京からでも抵抗感かないのである。
まず辺鄙な田舎など今はとても住めない,医療でも福祉でも買い物でも東京と比べたら差が大きすぎるからである。そうした生活した人が辺鄙な田舎で生活することは無理であるそれも体力も弱る老人になれば余計にそうなる
松山市などは市電も走っているしそこに花曇りの日に三日遊んだがいい場所だった
だから人気があるのがわかる

でもそうした地方の都会だけではない最近この辺でもユーターンする六十代以降の人が増えているかもしれない,この前合ったのは集団就職した人であり東京弁をしゃっべっていたからわかった,土地のなまりがなくなるのでこの人は東京に長くいたのだとわかる
なまりはやはり国の手形だともなる,標準語化しても地方ではやはりなまりが出るからである。

最近聞いた話ではその人は東京の土地を売って帰ってきた,ここに住んでいた人であり事情があり夫婦で帰ってきた,妻の方がここに住んでいて兄弟も住んでいるからここに帰ってきて住むことになったのである。
一人は東京生まれだからこうした地方の田舎都市に住むのは違和感があるかもしれない
その人は介護とか家の事情があり帰ってきたからまた違っているがそういう人も増えるかもしれない,つまりここではすでに原発事故で若い人が流出して65才以上が齢化率が35パーセントとか他より高い,そしてこうして東京から地方へ60代以降の人が移住する人が増えるとなるとますます高齢化率が高くなるのである。
その人も70に近いからである。

これも地方都市で問題になる,つまり老人ばかり増えることは自治体の負担が福祉とかの関係で増えるかもしれないからだ,福祉関係では人手不足である,特に小高などでは介護士などが集まらなくても施設を再開できないのである。
それは全国的にそうなのだがこの辺はさらに65才以上がさらに増えてくるのである。
ただ人が増えれば金を落とすから経済的にはいいのかもしれない,しかしその反面福祉関係で金を使うこになるからいいことばかりではないだろう

都会から地方への高齢者の移住」へ向けて政府・自民党が本格的に取り組み始めた

東京の「待機児童」数は約1万人だが、東京の「待機老人」数は約12万人である*4。そして今後、東京の「待機老人」数は急増すると予想されている。なぜなら、東京は地価が高いから、東京にはもはや余っている土地がないからである。

団塊世代のなかで進学・就職期に3大都市圏に移動した者のうち、地方に戻った者は4人に1人の割合であり、その大半は20歳代後半から30歳代にかけて戻った者である。残る4人に3人は、3大都市圏にそのまま定住し、老後を迎えつつある。

こういうこともあるからやはり一旦都会に生活基盤があると元の田舎にもどることがむずかしいのも事実である。
何か移りやすい人のコネが家族でも親戚でもあればいいがそういうものも変わっているからむずかしくなる

地方に若者が移住しやすい所が人がよそ者を迎える体制ができている,世話する人が周りにいる所だというのもわかる,このことは田舎では不可欠である。
田舎の案内人になる人がいてその人を頼れば楽になるからだ
ただ老後になると精神的には田舎の方が環境的にはいいとなる
それは好みなのだけど騒々しい所が嫌になるからだ,だから東京とかの都会に介護のためでも子供に呼び寄せられたのは認知症になるとか悲劇になる

自分はもともと静かな所でないと住めない,老人になってますますその傾向が強くなってきた,老人は一般的にそうなりやすいだろう,騒々しい所が苦手になるのだ
だから今は旅行すらしない,介護で消耗したこともあるが原町辺りまでしか行っていないのである。
どうしたって老人は精神的には内省的になる,内面の充実に向かう,これまでの経験したことの意味を深めるということに向いているのである。
だから住んでる場所でも家でも定着する所が安定していることが必要になる
ある程度の金の余裕も必要になる,ただ老人は金を使わなくなる

自分が最近今までの延長で電気製品とかビデオカメラとか他にも買ったが使えないのである。要するに今までしていることはできるが新しいものを取り入れることができなくなったのである。だから老人は消費できないとなるのだ
ただ本など前よりアマゾンで安いの買っているのである。
それも全部詳しく読むのではなく拾い読みしているだけなのである。
いづれにしろ老人のライフスタイルは変わる,だからこれだけ高齢化社会になる老人のライフスタイルが一般的になることもありうる
高度成長時代は若者向きの消費とかなになっていたのはそれだけ若い世代が多かったからなのである。高齢化社会は何か落ち着いた生活とか成熟した社会に変化する
それは悪いことではないのである。

2017年11月14日

木の葉散る (俳句はまず写生でありそこから各自イメージする)

木の葉散る

(俳句はまず写生でありそこから各自イメージする)
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木の葉散るまた一枚や石の上

枯蔦の這いて庭にはねじれ石

イワヒバに石の静かに冬薔薇 


一枚また木の葉が庭の石に散る,その石はその木の葉を記憶する,その木の葉とは一人一人の人間をイメージする,写生とはあくまで写生でありそこから各自がイメージするのである。
この辺だとどうしても原発事故で避難区域になり人の住んでいない村や町をイメージするつまりそこには家があっても庭があっても人が住んでいない,でも庭には石があり同じように庭の木の木の葉が散っているのである。
でもそれを見ている人は誰もいないのである。
そこでは庭は死んでいる,石でも死んでいるというのも不思議だが人間化した石だからそうるのである。

枯蔦が這いねじれたような石がある,これも実は人間をイメージする,そんな人が自分の家に入り込んだとなる,他にもイメージすることはある,あくまでも写生はそうした説明をしない,詩だと長いから説明する

例えば

木の葉が散る
今日も一枚散る
庭の石に散る
石は記憶する
その一枚一枚の
木の葉を
ここに静かな
時は流れ
我が一人いる

こんなふうに詩とは説明になる,俳句はこうした説明がないからかえって鑑賞するのがむずかしい
俳句はだから最も鑑賞力が試されている芸術である。もちろん芸術は絵でも音楽でもそうだけど鑑賞力がないとわからないのである。
だから自分がしている抽象画でも自分で絵を作れればいいのである。
やはり俳句でも絵でも音楽すらそうなる,音楽でも演奏できる人とできない人ではその鑑賞力が違ってくる,芸術はそれだけ奥深いものだから鑑賞すること自体がむずかしいのである。

ともかく急に今年は冬になった,昨日は寒かった,季節の変化が今年は本当に激しいのだ何か天候であり津浪でもそうだが異常気象というかそういうものを感じる
これまではそんなに季節でも変化を感じていなかった
今や老年になると家族が死んだり病気になったりとかいろいろなものが変化しやすいのである。その変化に耐えられなくなるのだ

東京とか都会に出た息子や娘の所に介護のために引き取られる親がいる,逆に田舎に移り住む人もいる,そういう変化が意外と老人になるとあるのが現代なのである。

いづれにしろ狭い世界だと庭のようなものでもそこは一つの世界である。するとそこでは記憶しやすいということがある,田舎でもいくら狭くてもすべてを記憶することはできない,一部しかできない,全部を知ることもできなからだ
人間は記憶することが大事である。記憶されたものが最後は人生になるからだ
記憶は消えやすいのである。一方で人間は忘れるから生きていける
苦しいことも忘れてなつかしくさえなるのが人間なのである。
苦しいときはそんなことはありえない,ただただその苦しみを負い逃れられないのであるでもそれが終わるとそうした苦しみも忘れるのである。

今年は秋はたちまちすぎたから秋深しなど感じなかった,秋があっても短く冬になったのである。これまでは秋というのは長く感じていた,それは平和なときだった
その時は三食つきであり家事もなにもしなかったから長く感じたのかもしれない
今になると家事でもやることが多いから時間が早く過ぎるのである。
一般的に老人になると時間は早くすぎてゆく,何か追われるように過ぎてゆく
無常迅速になる,なぜなら知っている人でも死ぬ人も増えてくるからである。

えっあの人も死んだのと驚くことが多くなるのである。
そしてしばしその人のことを考える,あの人なんなのだったのか?
最後は会社も倒産してその土地は売られ家もなくなった
そして夫も死んで次にその妻も苦労の末に心筋梗塞で死んだという
ただ介護もしないから外から見ると楽だったなとみる
心筋梗塞で死ぬ人も結構多い,これは急に死ぬから驚くのである。
その人は20万で葬儀をしたという,前はおじいさんは町会議員とか地元の有力者だったが
今はおちぶれてしまった,そして金借りにきたのである。

ともかく金のない人が多すぎる,みんな金に困っている,というのは老後が長すぎるからそうなるのである。90とか100まで生きる金を用意できるのはごく一部だからである。
自分だって今は金はあってもそこまで用意できないのである。
人生百年を生きることは金銭的に容易ではないのである。
そこでもうどうにもなちなくなる人が増えてくる,それが高齢化社会だとなる

複雑化した無人駅の鹿島駅の問題 (NPOが駅で事業するために申請していた)


複雑化した無人駅の鹿島駅の問題

(NPOが駅で事業するために申請していた)

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NPOやNGOを名乗る団体が増え、石を投げれば当たるほど増えた観があります。
ところが仕事や普段の生活で関わっている人以外で、これらが何なのか詳しく知っている人は少ない。
何となくボランティアしてそうとか、社会に役立つことをしているという程度だと思います。

NPO法人に認定されると税制で優遇されるので、同じ事をやるならNPOにした方が儲かります。

こうして石を投げれば当たるほど、日本にNPOが増えました。

NPO法人が胡散臭いという空気が生まれる理由

全ては法律の不備が原因だし、簡単に設立できるハードルの低さが胡散臭い連中を呼び寄せてる原因とも言える。こうして考えるとそもそもNPOに法人格を与える必要などないのではないだろうかとすら思えてくる。

NPO法人は設立時に最低でも10名必要である事や、平均的にも6か月の設立にかかる期間がある事、また、審査の厳しさがまるで比較にならないなどの点から、同じ法人であっても、社会的信用度が圧倒的に違います。
NPO法人と名乗る事が出来るだけでも、それだけで最大のメリットと言えるのです。


鹿島駅の問題は複雑になっていた,駅はどこでも駅だけでは成り立っていない,街全体が関係している,その自治体と地区と商工会とJRが関係していた
駅前のトイレは福祉関係の人が毎日掃除してぴかぴかに磨いている
それは市で金を出していたのである。
前の花壇は地区の人が花を植えて手入れしていた,そして駅の掃除は商工会の女子部がしていた,それはJRから金をもらっていたが理由がわからないがやめるとなりもめている
JRで金を払っているということが意外だったのである。
鉄道はもうからないから維持するのが苦しいから自治体とか地域でかかわり維持するために努力してもらいたいということなど放送されていたからである。

今日前の自転車屋から聞いた話ではタバコ吸う駅の外の部分を利用して何かやりたいという人が新潟県の人でいたという,それも良くわからないがもともと鹿島駅はそれなりに人の出入りがあるから商工会で観光関係が入る予定だったがしなかった
そこで最近何かに利用しようということで動きはじめた
JRで金を払うこともあり市の方でも実際はそういうこは知っていたのである。
ただ個人的に自分が聞いてもわからなかった,その担当者を自転車屋の人は知っていた

そしてNPOがすでに鹿島駅で事業するために市に申請書を出していたのである。
するとNPOとは何なのかとなる,何か評判が悪いこともある
ただこの辺の特殊な事情でNPOの人達が相当数入っている
その人たちはやはり利益になるものを探している
だから駅でJRからも金をもらえるとなればとなり申請したのかもしれない

ただNPOとは何なのか?Nonprofit Organization(非営利組織)となっている
この名称がまぎらわしい誤解を生んでいるのである。
ボランティアでもそうだがもともとボランティアとも共通しているものがある
今回の震災や原発事故の被害地域にはボランティアが多数働いたからである。
でもNPOはボランティアの組織された団体であるが個々人のボランティアもいる

つまりNPOは誤解しやすいのはボランティアのように見ているからそうなる
でもその動機はボランティアに由来しているともなる
ボランティア精神とはその人の自主的な意志でしいてる,老人が増えると何か社会に役に立ち生きがいをもちたいということが動機になる

ボランティアとはまず利益を考えない 自由意志でする

ここが営利的に仕事している大方の会社とその設立動機も違っているのである。
自分が駅のボランティアをはじめたのは偶然だった
駅が無人化したので困っている人がいて案内はじめたのである。
別に利益を求めていない,それが何か自分には面白かったのである。

●鉄道が好きである
●地元に住んでいて地元を案内する
●生きがいを見いだす

自分のボランティアする動機である。こういうふうにボランティアとはその人が自主的に強制されないでやるものでありそれをすること自体に興味と生きがいを感じるからする
別に報酬もいらない,そういうことがNonprofitだからこそそうなる
つまりボランティアの原点はそこにあり利益を得るためではないのである。

だから今外から来る人が多いというとき例えばそういう人がボランティアするとなると収入が必要になる,みんな自腹でやっていけない,老人などはそういう人がいたが若い人もNPOにはいる,すると収入になるものを探すとなる,それは市から金が出たたり税金も払わないでいいものとなりそれでNPO法人になるのも増えてきた,それだけ数が多いのだから不正もでてくる,それでNPOは何かうさん臭いとなってしまったのである。

でも市とJRでもそうだが信用されるには団体でないと許可されにくいのである。
自分も失敗したのは家政婦とか雇う時,組織化して団体化している法人だったら信用できる,そこでは共同連帯責任になるが個人的に雇うとその人にはそうした責任が生じないのである,組織として団体としてもそうした個人契約は責任をとらない
だからそうして雇った人が犯罪を犯しても盗んでもその責任は雇った人にあり自分は大損になり何の補償もなかったのである。
現代は見知らぬ人と頻繁に交わる社会だからどこで信用を得るかが問題になる

するとどうしても組織化した団体化したものを信用するとなる,個人は信用されないし責任をもてないなからである。大会社であれ市の職員であれ不正があれば会社が市が自治体が負うようになるから責任をもたされるから信用するとなる
ただNPOでもNGOでも組織化団体化すると政治団体化して政党の運動のようになる弊害がある
現実になっている,そういう場にはなんといっても巨大な政党とか宗教団体でもかかわりやすくなるからだ
NPO法人でも10人も必要であるからだ,それは一つの小さな会社組織になっているのである。

だから鹿島駅でNPOで申請を出したことはその人たちが駅にかかわりすることになる
そして金は市とかJRから出るようになる,NPOの有利なのはそうした優遇があることなのである。
ただ動機としては自分のような本来のボランティアいいともなる
地元に住んでいれば地元を良くしようと無理しなくても働くからである。
つまり土着的精神が自ずと発揮されるからである。
ただ外から来た人達でもこの辺では多いが違った視点でみるからこういう事態では必要なのである。

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)


南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎

(南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)
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相馬氏の系譜

相馬師常(千葉常胤の子)
相馬義胤(相馬師常の子)
相馬胤綱(相馬義胤の子)
相馬胤村(相馬胤綱の子)
相馬胤継(相馬胤綱の子、廃嫡される)
相馬師胤(相馬胤村の子)
相馬胤氏(相馬胤村の子、下総相馬氏)
相馬重胤(相馬師胤の子、陸奥へ下向)
相馬師胤(相馬胤氏の子、下総相馬氏)
相馬親胤(相馬重胤の子)

相馬 重胤(そうま しげたね、 生年不詳 - 延元2年/建武4年(1337年))は、鎌倉時代から南北朝時代の人物。陸奥相馬氏第6代当主。相馬師胤の子。相馬親胤の父

1323年、一族郎党80余騎、寺社、同行を願う百姓らとともに陸奥に下向。太田川沿いに拠点を広げて小高城を築くなど勢力を拡大、陸奥相馬氏の祖となった。鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が成立するとそれに従ったが、のちに足利尊氏が台頭するとそれに味方し、南朝方の千葉氏、下総相馬氏と対立した。子の親胤を尊氏の上京に従わせる一方で、次子の光胤を陸奥の守りにつかせ、自身は斯波家長と共に鎌倉の守備にあたったが、北畠顕家の攻撃を受け戦死した。

●相馬胤村―+―相馬胤氏―――――――相馬師胤
      |(次郎左衛門尉)   (五郎左衛門尉)
      |
        相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏
           |
      +―相馬重胤―――――――相馬胤国―――相馬胤景―――高平胤直
      |(六郎左衛門尉)                 (九郎左衛門尉)
      |
      +―相馬有胤―――――――相馬胤平
      |(十郎)       (六郎左衛門尉)
      |
      +―相馬師胤――――――
      |(次郎左衛門尉)   
      |
奥州相馬氏内でも重胤の従兄・相馬胤平が、おそらく所領争いが原因で南朝方につき、北畠顕家に従って重胤流相馬氏と対立した。胤平は功績によって南朝から「左衛門尉」に任じられている。

@五輪塔は藪の中に埋まっており,由来を知るものがいなかったこと
A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと
B八竜寺の山門礎石といわれる大石があったこと
C八竜寺は有胤の菩提寺であったこと
D有胤の居館が西殿にあったこと
E八竜寺とその所蔵資料が約二百年前に焼失したことが伝わっている

この系譜を見れば次郎とか五郎とか六郎とか九朗とかあり兄弟である。
ここで明らかなことは

A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと

これは間違いなのである。そして高平胤直という人物はこの高平の地名を姓としたのである。重胤が陸奥に下向したからである。

地方の武人の通称に何々左衛門とか右衛門とかなるのは元は皆京に出て禁衛の兵士になったもののしるしで今なら下士官相当の役にすぎぬのだが田舎に帰ると社会上の地位であった(柳田国男全集16)

鎌倉幕府が成立するときにその前は平氏の勢力が強かった,だから胤平などはその平の一字をとったのかまたは高平胤直がいたからその高平の平をとって名前としたかもしれぬ
どちらかというと平氏の姓はとられていないから高平の平をとったのかもしれない。

八竜(龍)神社は多いし鎌倉時代に普及した,だから寺もあったとなる,相馬有胤の菩提寺であったことは高平という姓の人がいることでもわかる
ここに土着して住んだのである。

D有胤の居館が西殿にあったこと

なぜ西殿なのだろうか?

殿館(とのたてさま)の起源

殿は文字のごとく長者の建物に対する敬号である。家号の属する土地である。
建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接に呼ぶことを憚った意味である。
すなわち御屋敷ということであります
これが遂に移り変わって直接人の名を郡長殿とか局長殿とかいうように人の名を意味するようになったのは甚だしい変遷であります
南北朝頃の文書に諸国の侍に出した感状などを見ると人の通称に殿の字をつけたものがあらわれかかっている

一例を言えば河野武蔵殿とかなっている,これが奥羽の方へ行くと何の何某館と書いてある、武士の住宅を館というのは東北の方言で西国に行けば京都を私淑して武家も皆殿と呼んだのである。(柳田国男全集20)

高平に西殿とか御屋敷とか古館とかさらに海側に館前とかがある,ここには相馬氏関係の館があった

相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏

泉氏は相馬氏が来る前に存在した土着していた地元の豪族だった,だから西殿から海側の館前までなんらかのつながりがある。
この辺には確かに館がありその館に属して人々が住んでいたのである。

上高平字沢田の白山神社に1基、下高平字堂後の共同墓地内に1基、下高平字川原の氷川(ひかわ)神社南西側に並んで5基の計7基から構成されています。
 川原地内のものに嘉元二年(1304)、応安二年(1369)銘が各1基、堂後地内の1基に嘉元二年の銘が刻まれており、他の無紀年のものも含めていずれも地元産の自然石を利用し、種子(しゅじ)調法が薬研彫りであるという共通した特徴から、追善供養(ついぜんくよう)や逆修(ぎゃくしゅう)などのため、在地の武士や僧侶等の有産者階層により、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造立されたと考えられます。

鎌倉時代末期から南北朝時代とありちょうどここに相馬有胤-相馬胤平などがここに殿を館を構えた時期なのである。それは相馬氏がここに移住してその信仰ももたらされたとなる,この辺で鎌倉時代のものがあるのはまれだから貴重だとなる 
そしてなぜ西殿なのか?それは東から見て西にあるからとなる,すると西殿とは東から見てそう名付けられたのである。でも東には泉という地名と館前という地名がある。
そこにも人が住んでいたのである。西殿があれば東殿があっても不思議ではないのである

西殿とか御屋敷とか古館とか中世の石塔がある所までは津浪は来ていないのである。
相馬氏と対立勢力が地元にあり泉氏はその一族だった
それは海側の東にあり慶長の津浪で館も流されたのかともなる
慶長津浪は1611年に起きている,その前に泉氏は相馬氏に不満があり牛越城に火を放っているからだ

牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

泉氏は進出してきた相馬氏と対立関係にあったのである。西殿とか御屋敷とか古館とか地名が残っている一体,中世の石塔群がある一帯がそうである。
これはかなり後になってからの事件である。1611年に慶長津浪が来たからである。
もし津浪が来たとしたら泉氏の住んでいる場所は海側なのだから被害があった
西殿中心の相馬氏の住んでいる場所は津浪の被害がなかったともなる
何か西殿一帯には相馬氏が勢力をもち対立するものとして泉氏があってもめたとなる
牛越城5年ほどで終わり中村へ城を移したのである。

いづれにしろ高平の柳町の五輪の塔は実に立派であり貫祿がある,それがだから
相馬有胤―相馬胤平の墓だというのもそれなりにイメージできる
まずこんな立派な墓だったらそれだけの名のある人でないと遺せないからである。

ともかく時代がたつと全く忘れられてしまう無情である。

西殿と名のみ遺して忘らるや跡形もなく木枯らしの吹く

あの辺はしょっちゅう自転車で通るから気になる場になっていた,川子の御堂がある所もそうである。買い物に自転車で原町に行く自分のルートになっているからである。
やはりそういう身近な場所には興味をもつのである。
今回は何か遺された史書と辻褄が合う,千葉氏の研究とういサイトから引用した
ここでは著作権違反のことを指摘されたことがあった

そういうことがあるのでまたあるかもしれない,引用に問題がある,ここに書いてありますよというリンクだと問題がないのである。
だから指摘されたらリンク張るだけにすればいいとなる
リンクは許されているからである。
posted by 老鶯 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)