2017年11月06日

深野から石神の旧家に嫁いだ女性 (紙漉きをして古い鎧があった)


深野から石神の旧家に嫁いだ女性

(紙漉きをして古い鎧があった)


郷土史とかは家の歴史が基本にある,誰でも家のことに一番関心があるからだ:それでおじいちゃんとかおばあちゃんから聞いたか話が郷土史に興味をもつ
だから郷土史でも古い旧家に生まれると郷土史に興味をもつのである。
そうでなくても一軒一軒の家には二代くらいでもそれなりの歴史がある,謂われがある

深野(ふこうの)から石神の旧家に嫁いだ家は古い家だった,野馬追いにもでていて鎧が博物館に飾ってあるという。この辺では野馬追いがあるからそういうことがある

遠き粗(おや)の片身の鎧萬代にいかで我が名を伝えてしかな

これは柳田国男の家の歴史をたどり兄が残した短歌だった,野馬追いにでている家は相馬氏一族につながり相当に古い,戦国時代までさかのぼる,ただなぜか野馬追いの旗の由来はわからないのが多いのである。
なぜなら旗印は鎌倉時代からはじまるとしたらその源をたどると古いからわからなくなる紋を基にしてもそれが古代にもさかのぼる

例えば只野家の由来は郡山の多田野村に由来して南北朝時代に霊山が炎上したとき落ち延びてきた末裔なのである。その旗印は杉だった,その杉の旗印の源をたどると奈良の三輪山にいたる,奈良の三輪山は雄略天皇時代からの信仰の山である
杉が神聖化されていた,杉の旗印はそこから生まれていたのである。

味酒(うまさけ)三輪(みは)の祝(はふり)がいはふ杉手触(てふ)れし罪(つみ)か君に逢ひがたき

杉は神聖なものだった,三輪山は山自体が神になっているから祭るものがないのである。
古い家というとき深野から石神の旧家に嫁いだ女性は紙漉きをしていた家である。
紙漉きは相馬市の山上に紙漉き沢という地名が残っているからどこでも生業となっていたただその古い家を新しい家にした,それは原発の補償金が入ったからだとなる
その女性は深野出身であり実家の母親は臼作りをしていたという

臼作りというとき餅を作るには必ず必要だから各地で作られていた

船引のけやきの森で臼作りで

欅(けやき)は硬いから臼に向いていた,槐(えんじゅ)というのアイヌのお土産屋で聞いたら灰皿にも使えるという,それだけ硬いから火も消えるとなる
ただこの辺で杉は多いけど欅は少ないかもしれない,ただ材料があったから作られたのである。材料がなっかたら陶器でも作れない,相馬焼を庶民化した左馬という人か大堀で陶器になる土を見いだして左馬茶碗が大堀で普及したのである。

木はもともと器として作られていた,茶碗でもなんでも地元の木を利用して作られていたそれで木地師の伝説が生まれたのである。山の奥地に箸だけを作る村があるとか分業化もされていたらしい,船引では臼だけを作っていた
中山道の昔の街道ではおろく櫛というのが有名である。そこでは櫛だけを作っていたのである。
何かそうした生業というのものが今はほとんど忘れられている,生業とは生まれついてする職業のことである。だから自ずと地元に密着したものであった
原発事故で「生業を返せ」東電や政府に訴えた,その生業は農業なら今も通じるが何か工業化自体になると通じにくいのである。
戦後十年くらいは炭焼きもしていたから生業は地元にあるもので生活していたのである。
そしてともかく物は道具でもお碗一つでも貴重なものだった,そこからもったいなという言葉が生まれた,片身分けというのも衣服でも貴重だから片身分けになる
今は物を遺しても貴重なものとはならない,金の方が大事になる
「生業を返せ」というけども何か地元に密着した生活は喪失していたのである。

いづれにしろ郷土史は家の歴史をたどることからはじまる,一軒一軒の家から見えてくるものが郷土史なのである。
注意すべきは深野は大原より古いことである。館という地名が二つあるのはこれは中世のものだからである。大原は相馬氏が開墾に入った場所だったのである。
最近は畑が牧草地になったり小池の親戚が荒地になった所を耕しているというとき近いからそうなる,深野と小池は山があるにしても近いのである。

只野姓の由来
南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 
posted by 老鶯 at 11:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

JRでは掃除費用を商工会の女子部に払っていた (でも今は掃除しないともめている)


JRでは掃除費用を商工会の女子部に払っていた

(でも今は掃除しないともめている)

鹿島駅は商工会がJRに頼まれて掃除していた,女子部が掃除していた
無料でしていたのかと思っていた
掃除といってもごみ箱にたまるものをとりのぞくくらいである。
駅自体は汚れない,ただタバコ吸う場所に空き缶などがあるので自分がかたづけていた
駅構内にごみ箱があるのでわかりにくいのである。

地区では花壇などを手入れしていた,地区とか商工会が関係していた
それから前の自転車屋の人が言うには市の許可ないと掃除などして金をJRからもらえないという,それも団体などでないと許可しにくいという
老人会などである。でもわずかでも金が払われていたことが意外なのである。
ただなんらかで商工会の女子部は掃除したくないとなったのである。
この理由は良くわからない,金が入るにしても女子部に入れば飲み食いして終わりだろう
市の企画に電話したらJRからそういう相談したことは知らない,別な部署だったのか?
自転車屋の人は名前まで知っていたのである。その人が担当だったから直接話したから知っていたのである。
市が関係しているのはトイレである,毎日福祉関係の人があさがおが掃除している,だからぴかぴかなのである。

金が欲しいわけではないが掃除するだけで金をJRが金をはらっていることは意外だった
なぜなら無人化しているのは人を雇うことが金がかかるのでしているのかと思ったからである。鹿島駅は無人化する駅ではなかったが震災以後の事情でそうなった
ただ駅員でも相馬市でも制服着ていてもJRの正式の職員ではないのである。
委託された人である,何か委託する人が必要なのである。

だから切符を販売ずるとかも頼みたいとか言っていたがそうなるとめんどうになる
掃除だとあそこは楽である。それで金をもらいるとしたらボランティアとも違ってくる
委託されれば制服のようなものを着ることになる
ただ一時間くらいの掃除だとそういうものはいらない

自転車置き場を広げると水戸管理局の人が言ったが原ノ町の人は知らなかった
これもなぜだろうとなる,ただ今回は自転車置き場を見に来ただけだったのだろう。
駅は市も関係している,自治体も関係している,駅は街と直結していることと
駅が街のランドマーク,目印になっているからである。
ここでは道の駅がないからトイレも利用しているからである。

駅の機能は実際は電車を利用するだけではない,街の中心的なランドマーク目印とある,だから一応駅に来る人がいる,でも駅前は駐車場ではないのである。
一時的にしかとめられないからキクチスーパーにとめるとなる
それも駅の問題なのである。

ともかく駅からその街のことがいろいろ見えてくる,それは駅がその街の玄関口になっているからである。駅は本当に前は玄関だった,駅を利用する人が多いときは余計にそうなっていたのである。だから家でも玄関が大事だというとき人が出入りするところだから
玄関でその印象を決めることがあるからそうなる
玄関に花とか飾ればきれいになり入る人も気分良くなるからである。

タグ:駅の掃除

2017年11月07日

晩秋から冬(城の俳句十句) (城は季節でも周りの環境で印象が違ったものになる)


晩秋から冬(城の俳句十句)

(城は季節でも周りの環境で印象が違ったものになる)

wakayamaaa11.jpg

晩秋の熊本城や古木かな

和歌山城白壁に映ゆ朝の菊

晩秋にたずぬや大き彦根城

塩の道松本城や秋深む

足軽の長屋あわれや冬たずぬ

実りありここも一国秋田城

城外に虫の音あわれ会津かな

打ち曇り雪に暗しや鶴ヶ城

冬の日や老松残る盛岡城

二すじの冬の川流る盛岡城

弘前城雪に埋もれて門古りぬ

老梅の根を張り冬の弘前城

弘前の遠くや雪のしきり降る


長々と城の石段登りつつ白壁映ゆる秋の朝かな


標高約49mの虎伏山(とらふせやま)の上に建てられ白壁の天守閣の美しさから、別名「白亜(はくあ)城」、山の名前を取って「虎伏城」などとも呼ばれていました。

城は必ず旅したり観光すれば見る,その街の中心にある,城がわからないと歴史もわからないとなる,でも城がどういう印象が残るかというと城によって違う,それはその辺り景色とか季節によっても違う,今回は秋から冬の城である。

不思議なのはなぜ和歌山城が印象に一番残っていたのか?それは白亜の城というように白壁が映えることとその時季節が秋だったからである。秋に白壁が映えるからである。
それが鮮明な記憶となる,記憶として残っていた:それから石段が長く坂になっているのも記憶に残る,何か城というとき平城が多い,ここは平山城であり高い方の城だったからである。ただ城というのは全体を見るのがむずかしい,ここは天守閣が二つあったというのもわからなかった,事前にそうした知識がなかった
今はインターネットとかあるからそうした知識が得やすい

城といっても城だけではない周りの景色とか季節で印象が変わるのである。
熊本城をたずねたときは晩秋であり城の前の公園に太い古木があってそれが印象に残った彦根城はと大きな城だということが印象に残ったがここから琵琶湖が見えるのはわからなかった,ただここは関が原が近いから地理的に要衝だった

そんな松本城の特徴のひとつは、外壁に黒漆(くろうるし)を塗った「漆黒(しっこく)の城」であること。「これは、小笠原氏のあとに入城した石川数正・康長親子によるもので、豊臣秀吉の大阪城が黒で統一されていたことから、秀吉への忠誠のしるしと言われています」と林さん。それに対し、姫路城のように「白亜の城」は徳川家康の時代の城とされるそうです

そうなのか,秀吉時代の城だったのか?城というとたいがい白壁である。ここはだからめずらしい,松本は他に塩の道の終点として有名なのである。
相馬藩でも塩の道はあるがここは本当に日本海の糸魚川まで長いのであ。塩は牛で運ばれた,牛繋ぎ石などが市街に残っている,そういう観点からも松本を見ると違ってくる

新潟県の新発田城の足軽長屋は昔のままに残っている,これはまさに長屋である。長屋は庶民が暮らしていたのだからこれと同じだった,つまり長屋と武士の家の差が大きかったとなる,今はこの辺の市営住宅でも部屋数が三つとかあるがここでは一部屋くらいだったただこういうのは戦前でもあった。日本人はもともと狭い所で住んでいたのである。

会津の鶴が城は有名だが何か印象に残らない,平城だからかもしれない,何か特徴がない奇妙なのは城の外に田園風景が広がり晩秋に虫が鳴いていたことを記憶している
それは何を意味しているのか?会津だと白虎隊とかドラマ化されているけど庶民はそうした悲劇とは関係していないのである。かえって明治維新の時恨みをもっていた農民が一揆を起こしていたのである。会津の落城でも庶民には関係ないことでありそれで侍中心の
城があるところよりその北の喜多方が(きた)が商業で栄えたので蔵が多いのである。
どうしても旧来のものに縛られるから侍の街は新しい時代に適合できないからである。
ともかくただ冬になると毎日雪であり雪で暗かったという感じになる
雪国にはそういう暗さがどこにでもある

盛岡城は石垣だけであり中津川と北上川が流れて環境的にはいい,都会にしてはいい,
ただここの歴史は良くわからないが周りの環境がいいのである。
岩手山も見える,北上川がて流れているとか都会では景色に恵まれているのである。

建築年代を示す明確な資料はないが、いずれも江戸時代初期と考えられ、木部をあらわし古式を伝える遺構である。各門は、桝形ますがたを構成する土塁に囲まれ、雪を考慮してか下階の屋根をひときわ高く作るなど、配置や構造に工夫がなされている。

弘前城の城門は見るからに古い感じになる,雪を考慮していたというのも雪国らしい,弘前というとき青森は東北でもここからは東京より遠いという感覚になる
でも新幹線で近くなったこともある
青森は福島県からでも果ての国だという感覚になるのだ
弘前で見た雪は何か朝であり爽やかであり美しかった,雪の感覚は同じ雪でも相当に違っているのだ

心からしなのの雪に降られけり 一茶

この一句には一茶の深い思いがある,しなのの雪にふられるということはその土地に生まれて長く住んでその気候とともにあったからである。
そういう感想はその土地に住んだ人でないとわからないのである。気候の影響は人間には大きい,性格まで作る,雪国の人間が何か陰気になってしまうのもわかる
海に近いところは開放的になる,山国はどうしてもと閉ざされた感覚になるからだ
これは別に雪だけでなは,心からその土地になじめばそうなる,心(こころ)とはここのことでありここに長く住んだ人がもつのが心なのである。
それで原発事故で避難した人達はその心の場を失ったから悲劇だったのである。

しなのの雪に降られて一茶死ぬ

そこは終の住処でもあったからそうなる,人間は最後はみんなそうなってしまうのである。

青森の魅力は地の果てという感覚である。そこは冬には雪がしきりふり埋もれる,だから東北でも青森県は特殊の地理的環境にある,観光では魅力あるとなる
ともかく城というとき季節でも周りの環境でも違った印象をもつのである。
だから春とか秋とか二回くらい訪ねればいいとなる,たた全国になると城も多いからむずかしい,自分は恵まれたのでめぐり歩いていたのである。
今は何か旅行する気力がなくなったのである。

俳句という文芸は一句とかで鑑賞するのがむずかしい,短すぎるからだ,でもこうして城の俳句とかで十句とかを一つの作品として読むとそれなりに深い鑑賞ができる
これは一つのつながりがありそれで全国のつながりができるからである。
日本全国を一つのものとして見るのである。こういうことは現代はしやすいのである。
芭蕉の「奥の細道」が古典になったのはやはり一つのつながりとしたからでありその中に俳句があるからである。

今なら新幹線とかあれば何度も行けるということもある
だから季節ごとに行けばまた印象が変わるのである。
ただ問題は旅しても後で記憶に残るかが問題なのである。
自転車旅行を推奨したがこれもすべてだかいいとはならない,ともかく疲れるのでゆっくり鑑賞できないのである。電車で行けば体力的に余裕があるから見れるということもあるだから旅は電車でもいい,いろいろな手段ですればいい,でもそうなると自分のように一生が旅に費やされるとなってしまうのである。
それだけの時間が必要になるからである。そしてたちまちその旅も終わったとなる

城は何を意味していたのか? (城は建築は文明の象徴でありまた権力の象徴だった)


城は何を意味していたのか?

(城は建築は文明の象徴でありまた権力の象徴だった)


●建築は文明を象徴したもの

建築は文明を象徴したものとしてあった,城の美とかを自分も追及した,白壁であり簡素であり質実なものが城にはある,その建築には日本の精神と美がある,建築には必ず人間の精神が反映されている,建築物を見るとその国のまた一時代の文化が具体的にわかりやすいのである。
だからヨーロッパの建築は多様である。教会でもろいろいろに別れている,
ビザンチン建築ゴシック建築ロマネスク建築ルネサンス建築イスラム様式建築とかありその時代をみることができる,ローマ風というとき建築の歴史の基礎はローマにはじまっているからである

arch- の語源を辿れば、古代アテネ ancient Athens の第一執政官 archon に行き着く。archon は統治者 ruler であり、命令を下す始まりの者 begginer である。ここから、
arch-(pre-vowel), archi-(pre-consonant) : <接頭語>第一の、首位の、始まりの →昔のの意味が生ずる。

「首位の」
archangel [ɑ'ːrkèindʒəl] : n. 大天使 cf. Michael the archangel 大天使ミカエル
architect [ɑ'ːrkətèkt] : archi-(統治者) + -tect(造り手、大工 cf. tectonics, technology) → 大工の棟梁 → n. 建築家、設計者、発案者

Architecture

建築はこのように統治するということに結びついている,文明を見るときエジプトであれローマであれマヤであれキリスト教文明であれ建築を見てその文明を見る,建築が文明を象徴しているのである。
だから日本の文明というか文化というか最も象徴しているのが城だとなる
しかし現実に活きていたときの城は明治以降廃止された,その時城は邪魔者扱いされていたのである。あの姫路城が10万くらいで売りに出されていた,貴重なのは城ではなく燃料になる木の方だったというのも今になると信じられないとなる,なぜなら熊本城でも地震で壊れたら何百億円でも直そうとしているからだ,名古屋城で金がかかっても木で作ろうとしている,それだけ城の価値が見直されているのである。
その時時代の変化で城とか侍は一気に価値を失った,その変化があまりにも大きかったのである。だから今になって明治維新を見直す風潮になったのである。
つまり3百年つづいた侍の時代にもいいものがありそれを全否定したことで後悔しているのである。日本人は太平洋戦争でも負けたらころっとアメリカ追従になり文化まで否定する,全否定してしまう,そうなると文化の継続が消失してしまうのである。

城の美学

●城には桜も木も植えられていなかった

桜の名所に選ばれているお城は全国にたくさんありますが、実はお城に桜が植えられたのは明治以降のこと。1873(明治6)年の廃城令で大半のお城が取り壊され、廃城処分で民間などに払い下げられた際、市民に公園として開放されるようになって、桜が植えられたケースが多いのだそうです。

【そもそもお城に樹木はなかった!?】

では江戸時代まではどうだったかというと、そもそもお城に樹木は植えられていなかったそう。なぜならお城が攻められた際、樹木は視界をさえぎり、敵にとっては絶交の隠れ場所になってしまうから。江戸時代に幕府の指示で描かれた城の絵を見ても、樹木が確認されるお城はほとんどなく、あってもほんの数本。それも万が一のときに食糧や薬、燃料になる松、椎の木などだったそうなんです。

城は明治以降は無用のものとされた,でもその後城は公園とかなり庶民の憩いの場所となり鑑賞する場になったのである。
城は鑑賞としてだけ見るようになった,城についての詩歌でも俳句でも短歌でも城がなくなってあとに作られたのが多いのである。
今城には必ず桜が咲いて映えるが桜や木は城に植えられていなかったのである。
いろいろな城の詩でも城がなくなってから作られたのである。

春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い) でし 昔の光今いずこ

これもそうだし城がなくなってその城があったときの時代を偲んでいるのである。
明治となるとまだそういうふうに城があったときを記憶している人がいるからだ

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ 島崎藤村

これもそうだった,まさにそこはもう城があってもそこに寝ころび休む場所にすぎなくなっていたのである。そして雲がいづこともしらず流れてゆく,放浪の詩人がただ廃墟と化した城を偲んでいるのである。

「不来方(こずかた)の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし十五の心」石川啄木

これもやはり城はただ公園となり遊ぶ場所と化していたのである。

●城があった時城は近寄りがたい怖いものだった


人寄せぬ桜咲けり城の山 

鎌倉や今はかゞしの屋敷守 一茶

絶頂の城たのもしき若葉かな 蕪村

二本松城の跡かや蕎麦の花 子規

城というとき江戸時代に庶民からどう見られていたのか?一茶だとこんな感じになる
一方で蕪村は頼もしとあるから城がありそこで庶民を治めるものを賛美していることになる,これはただ美的にも見ているのである。
不思議なのは芭蕉には城の俳句がないのである。これはなぜなのか謎である。
城というのはともかく一番目立つものだったからである。
今では必ず城を見ることになる,でも城があったときはその城の中には入れないのである城に入れたのは侍でありそれもよその藩の者だったら招かれなければ入れない場所だったのである。

一茶のそこのけそこのけお馬が通るというとき何か侍に対していい感じをもっていなかった,それは侍は当時権力者だったからである。
おそらく庶民は侍に対してはそんな感じで見ているのが普通である。
その時の庶民の気持ちはなかなか今になると察することがむずかしくなる
普通の感覚では「人寄せぬ桜咲けり城の山」ここでは桜が咲いていたから不思議である。桜が咲いていたとしても人をよせつけないというより第一城には庶民など入れないのである。遠くから見ているだけである。居丈高に城が庶民を見ているだけだとなる

時代が変わると何が怖いものか変わってくる,侍の時代は侍が怖いものだった,それはやはり権力をもっていたからである。その前は僧侶や貴族なども怖い存在だった
なぜなら僧侶は教会とかを支配していた支配者であり日本でも僧侶は大寺院を有した権力者だったからである。宗教を恐れる前にその権力を恐れていたのである。
それは今のカルト教団にも通じている,その背後にある数の権力とか権力と通じていることで恐れているのである。
時代によって怖いものは変わる,今は医者などが怖い存在である。医者は今の権力者でもあるからだ,医者だけは尊敬されているからである。
あとは金持ちが今の一番の権力者になる,金さえあればその内容は問わない,一番の権力をもつことになる,昔もそういうことはあったがやはり時代によって怖いものは変わってくるのである。

鎌倉や今はかゞしの屋敷守 一茶

この屋敷も鎌倉に幕府があったときは権力をもった武士がいたから怖い場所でもあった,それが一時代すぎたとき案山子が守ってるだけの廃屋のようになり怖いものがなくなったのである。

牛砲打つ地城の上や雲の峰 漱石

二本松城の跡かや蕎麦の花 子規


1871年(明治4年)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射されていた。
牛砲による正午の通報は、現在の東京都区部の大部分で聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれ人々に親しまれていた。

江戸時代には、江戸市中に時刻を知らせるため「時の鐘」を鳴らしていたが、明治時代から牛砲となり、1929年(昭和4年)5月1日にサイレンに代わり、1938年(昭和13年)9月まで続いていた。

漱石の俳句は城が頼もしいものとしてまだ感じていたのか?明治になり時を知らせるのが牛砲になった,大砲を打つ音になった,ただこの俳句は城がまだ当時のように活きている感じになる
一方で二本松の城となるとそこはなにもない蕎麦の花になったのである。
明治維新で薩摩長州軍に荒らされてそうなったともなるのか?
ただ一般的に明治維新後姫城すら全く価値ないものとして売られようとしていたのだから明治の変化はあまりにも大きかったのである。
人間社会は時代によって怖いものが変わる,侍が戦争中は軍人が怖いものであり威張っていたのである。でも今自衛隊の人を怖がっているか?
警察は怖がっているが今庶民にとって自衛隊員は下位のものとなっている
こういう時代は平和でいい時代だとなる,警察が庶民にとって怖いのはやはり今では一番権力をもっているからだとなる,暴力装置でもあるからだ

侍と庶民がどういう関係にあったのかはわかりにくいがこの祭りは面白い

馬威し-武士と庶民の正月行事
80.pdf#search=%27%E5%BA%B6%E6%B0%91%E3%81%A8%E5%9F%8E%27

ここでは侍と庶民が交わり身分も関係なく庶民が馬の邪魔をしている,ここに身分の差別はなくなっている
ところが相馬野馬追いでは御行列とかといって二階から見るなとか何かとうるさいのである。野馬追いは侍時代の身分差別を意識するときでもあるのだ
馬上から野馬追いに出る侍となった人は威張れるのである。
だから野馬追いに出たいという人もいる,野馬追いに出るからといってその人は別に普通は庶民にすぎなくなっているからだ

馬に乗ることが許される者の身分を厳格に定めたことも、馬車がなかった背景の一つ。
馬にまたがって手綱を取って乗れるのは武士のみ。

馬に乗れるのは身分によって決められていたのである。侍しか乗れなかったのである。
そういう身分社会のことを今になると理解できなくなる

ただこういう祭りがあったということはやはり何か侍と庶民が交わるということもあったこういうのは実際は例外的でありなかなかなかったとも思う
とにかく今城を見ているのと江戸時代に城を見ているのとは全く違っていたのである。
歴史を見るとき今の時代から見るから必ず誤解して見ているのである。
つまりその当時を生きることはできないから必ずそうなってしまうのである。
今は城は怖くない,ただその美だけを鑑賞しているのである。


2017年11月08日

明治維新と庶民 (侍の支配に不満があった)


明治維新と庶民

(侍の支配に不満があった)

会津地方の旧武士階級の人々が薩長土肥に対して強い恨みを抱いたという話はよく知られている。だが農民、特に戦場にならなかった地域の人々にとっては、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、その経費を賄うために行われてきた増税に対する不満に一気に火をつけることになった。9月22日(1868年11月6日)、会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86

会津というと白虎隊だとかいろいろいその悲劇が語られる,一方で見逃されているのは会津だけではない,庶民が明治維新にどういうふうに見ていたのかである。
あの姫路城が10万で売りに出されるとか信じられないとなる
その時城に価値を認めていないのである。城に価値を認めていたのは侍だけだとなる
白虎隊が城が燃えているとこれまでだと自刀したのもそうである。
城に深い思いがあったのは侍であり庶民は城に対してはそんな感情をもっていない
だから会津で明治維新になり一気にその不満が爆発したのである。
そして侍の住む会津若松ではなくその北にある喜多方が商業が栄えた,それで多くの蔵が建ったのである。

そもそもいくらなんでも城が10万とかで売りに出されること自体城に価値を認めないからそうなった,城に価値を認めないということは侍に反発するものがあったからである。
城はやはり権力の象徴として当時威圧するものとしてあったのである。
今歴史的遺産となっている建築物でもそういうふうに権力的に威圧するものがある
建築は権力の象徴なのである。それは仏教でも同じである。
奈良の仏像とかでもそういう面はある,ただそういうものでも歴史的意義があり後で評価されている

ただ明治維新のときなぜそうしてこれまであったものが否定されたのか?
それも極端なのである。今になって薩摩長州のテロリストによって破壊されたというのも今だから言われる,では明治維新の時は庶民の感情は城に価値を認めない,侍にも価値を認めなくなった,その感情は急に起きたことではない,日頃から侍に不満がありそうなった,野馬追いでも野馬追いのときだけ馬上の人となり侍が復活する
その時侍の時代にもどり威張れるのである。そこに明かな身分の差が生まれる
野馬追いに出れる人は侍の出でないと出れないからだ
由緒ある家でないと出れないからである。もっと誰でも野馬追いに出て盛り上げたらいいとなるが野馬追いの場合できないのである。
だから祭りとしては侍の祭りであり庶民がかかわらないから地元でもつまらないともなる青森のネブタなどは外から来ても誰でもハネトになれるのである。
それは庶民の祭りだからである。

日本人は明治維新でわかるように極端に過去を否定して変化する,そういう民族的特質があるのかもしれない,ただ人間の歴史をみれば必ず権力をもつものる対する不満があるがそれができないからあるとき爆発する,それがフランス革命とかでもありどこの国でもあるのだ,人間は一旦権力をもつと傲慢るなるからだ
そして権力というのは常にもつものが変わっているのだ
現代ではマスコミが権力を持つものとして標的にされマスゴミだとか盛んにネットで言われる,それはマスゴミが正しいというより現代では権力を持つものだったからである。
第三の権力といわれたのもそのためである。
NHKでも強大な権力をもっていたし今ももっている,
NHKががこう言っているのだか反対するようなことを言うなと学校に抗議があったことでもわかる
それだけ現代ではマスコミの力が大きくなっていたからまた反発もあったのである。
マスコミは左寄りでありそこに中国韓国の工作員が入って支配されているというのもそうである。

いづれにしろ明治維新の時それほど権威があった侍が作ったものが根こそぎ喪失した
それに対して庶民は別に惜しいとか価値を認めていなかったのである。
城は庶民を威圧するものとして権力の象徴だからそうなった
今になって庶民は城をどうみているかというと城は街のシンボルだとういうがこれも明治維新のことを考えると庶民も勝手だなと思う
観光資源として城が必要だとなるのも勝手だとなる
庶民はそもそも功利的にしか動かないともなる,でも庶民の意向が全く政治に反映されないかとなるとしている,明治維新が成功したのは薩摩長州の勢力であり庶民がかかわらないとなっていたのか?

でも庶民でもやはり侍に反発するものがあり精神的に応援するものがあった
それで西南戦争では国民軍を形成して庶民が参加して武士に勝ったと言うことで大きな転機となったのである。そこで国民意識が生まれたのである。
太平洋戦争でも庶民はどう思っていたかと言うと上からあおられて戦争に無理やり参加したというのとも違う,その時鬼畜米英という感情が庶民にも異様な熱気としてあったという,つまり戦争を引き起こすものが庶民にもあったのである。
この辺の原発も積極的に金になるからと誘致されたのもそうである。
庶民には何の責任もないということはないのである。何か庶民は身勝手だということがある,その時々のことで時流にのる,利があればのってゆくともなる

ともかく人間の歴史を見れば同じようなことが繰り返されている,権力をもつものが権力を失うのである。栄枯盛衰がくりかかされる,だから一時代がすぎるとまるで変わったものとなってしまう。
城がそれを具体的に示している,今になってこれほど城に価値を認めているのはそれが観光の目玉になるとか庶民の身勝手なものから生まれている
城に本当に価値を認めるとしたら侍にも価値を認めることになる
それを根こそぎなくしたことでもわかるようにその時庶民は城にも侍にも価値を認めていなかったのである。むしろ排斥する方向に強く働いていたとなるのである。

posted by 老鶯 at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

名誉棄損だった職務質問 (公衆の面前でされたから)


名誉棄損だった職務質問

(公衆の面前でされたから)

今回野球の試合があるということでバスが野球場まで出ていた
そういう人が集まるとき警察官が二人来て自分も職務質問したのである。
それはあやしい人がいると通報があったからだとなる
そのことは書いた

これまで何回も職務質問されているが今回は事情がまるで違っていた
あやしいと通報されたことは与那国島で経験している
木蔭に休んでいるからととうい理由だったのである。
与那国島は閉鎖された島だからそうなったのだろう
その時公衆はいない,一対一である。
その時警察官は村の人が通報すれば来なくてはならないのですと
実際は来たくないようなことを言っていた
木蔭に休んでいるからあやしいとはならないからである。

今回がなぜ名誉毀損になるのかというと公衆の面前で職務質問に来たからである。
すると周りの人はどうみるのか?
この人の変な人なのかと見られてしまのうである。
自分は駅に一回限り来ているものとは違っている
実際は半年くらい駅に通いみていたのである。
無人駅になったので教えることもあり通っていたのである。

だから知っている人は知っていた,特に前の自転車屋の人は親しいから知っていて
弁護してくれた,他の人もあやしい人ではないですよ言ってくれたのである。
でも身体検査とかカメラの検査とか強引にしたのである。
だから今回は今までの職務質問とはかなり違ったものである。

つまり名誉棄損になることであった,公衆の面前でされたことそして公共のためにしていることが職務質問によって阻害されたことなのである。
これはかなり大きなことである
ボランティアには何も法的保護がないと嘆いているのもわかった
ボランティアは例え公共のために尽くしていても認められないことがある
ただあいつは何しているのだとあやしいと見られるだけのこともある

名誉棄損というときいくら盗まれてもその人のことを何人かに言うとかえって訴えられることもある
その人は別に法的に裁かれていないから何もしていないのに罪を犯していないのにと訴えられることがあるのだ:つまり名誉棄損になるのだ
これも変なのだけと犯罪者が守られているのである。
だからそうして法律を利用してつけいる人も多いとなる

なぜ自分がこのことにこだわるのかというと駅に自由に出入りできないようにもなったからである,誰かまたあやしいと通報して警官がくるのをおびえるようになる
これによって公共的活動が阻害されたのである。
そのことが一番怒りになったのである。

今も駅に行って道案内などはしているが長くいない,それは誰かが通報するということで不安になるからである。
大げさかもしれないが検察は権力をもっている,だからその権力の使いようが問題になる権力を持つということはそれだけ慎重になるべきことである。
その権力を行使することがどういう影響を与えるかわからない場合があるからだ
権力を行使するときは慎重になるべきなのである。

ただ現実は職務質問はただ強引にされているけど何もできなのが現状なのである。
それは相手が権力をもっているからである。
だから警官でも恐れさせるために名前を聞いたり不当な職務質問には訴えるとか抵抗しないと横暴な職務質問はとめられないのである。
ただそこまでやるとなるとかなりめんどうになるからみんなしていないのである。

だけど強制で見せろと言われた時にその理由を述べろと言って不審な物が入ってないか調べたいと言われたら、そこまで人を疑って何もありませんでしたで申し訳ありませんだけで済ましませんよ。名誉毀損で訴えますよ!なんていうのは有りですかね?しかも周りにたくさんの人がいて恥をかかされるわけですからなんらで訴える事ってできますか?

この人の答えは警察官が答えているのと同じである。警察官には職務質問する絶対的権利があるとなり訴えても無駄と言っている
本当にそうなのだろうか?

周りにこくさんの人がいて恥をかかせられたというのは自分と共通している
自分の場合はたいしたことがないにしろ公共のためにボランティアをしていたからであるそれが阻害されたことで怒っているのである。
ただもう職務質問は警察の絶対的権利であり逆うことはできないとここでは議論になったそれに答えているのは警官ではないかと思った

例えば公衆の面前ではない,あとでこっそり対面的に職務質問していれば良かったかもしれない,そうあれば公衆の面前ではないから被害がそれほどない
公衆の面前でしたことが問題だったからである。
いづれにしろ職務質問はもう警察の絶対的権利でありこれに逆らうことは不可能だとまでなっている,いくらそうなっていても納得できないのである。
それは権力の横暴にしか見えないのである。

2017年11月09日

白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ) 白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南街(福良)から会津へ)


白河街道の旅

(勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ)

SHIRAKAWAA1.JPG

SHIRAKAWAAA1.jpg

同年、会津6郡・仙道5郡を与えられた蒲生氏郷が会津に入部すると、白川の地も氏郷の支配下に入り、氏郷は小峰城に城代として4万8千石で関右衛門一政、次いで町野長門守吉高を置いた。

漆器に目をつけ,会津から職人をうつして藩の産物とした
紙も会津人牧本善右衛門をまねいて様々な紙をすかせ一産業とした.

白河に会津町があるのはこういう歴史があるためである。会津町が城の近くにあるのもそのためだろう。

地図を見ると丹羽長重の墓がある

長重は毎日2,000人を動員して約4年の年月を経て小峰城と城下町の大改築を施し、白河城と呼ばれるようになった。

白河城を築いた人だった,聞いた話だと白河城の石垣には十字が彫られているという,それは掘られているという蒲生氏郷がキリシタンだったからとなる
そうした隠れた歴史がある,それは地元の人しか知らないということもある

白河街道というとき白河を意識するが会津街道にもなる。今でも六号線は東京からだと水戸街道と言われている
ここで白河に馬町があるが馬市が行われていたのだ

三代村の川をだんだんに登れば勢至峠である,分外に広い山野があって木地屋などの小屋掛けしているのが見える
峠になった勢至堂は下りの中腹にあって荒れた宿場である。会津へ帰る武士はここで酒を飲んだ,ここはまだ会津領ではなかった
勢至堂は馬の守り神かと思われる,奥州では所々にその石塔がある
この山中の村でも家々に駒を育てている,昨日買われた二才駒が五六匹一繋ぎになって見知らぬ親父にひかれてゆく,いづれも小さな木札が下げられている
香川県綾歌郡などと書いてあった
左側が片岨(そば)になっていて江花の古駅は坂道の両側に村を成している
この辺はみな熱心な馬飼いで一等賞を得るために泥鰌を食わせたり卵を飲ませたりしているう(柳田国男全集-勢至峠)

白河では馬市が行われていた,これは戦前のことでありそれで香川県からも馬が売られたのか?ただ江戸時代からも馬市があったのだろう。馬町という名がつけばそうである。
その辺の由来はわかりにくい,ただ白河は十万石くらいあるとしてやはり大きな藩だったのである。相馬藩は六万石だからである。白河は白河の関で有名なように要所だったので明治維新の時はそこが争いの場となったのである。
東北の藩が集結したのである。相馬藩の武士も戦いに参加した

馬というときなぜこれほと馬頭観音が多いのかとなる,それは馬が死んだときその供養のためだった,すると馬は二〇才くらいで死ぬからその数も多いのである。
だからそれだけ馬頭観世音の碑が多いのである。

勢至峠は車の道からはずれた所に家並みもそのつまに残っている,それは旧道になっているのだ。
この峠を越えて福良にでる,今は湖南町である。ここは郡山市なのである。
勢至堂も会津領ではなく白河領になっていた,境目になる場だった

この街道は二回か三回通った,春とか夏とか秋である。
普通はみんな鉄道が通っている方を通るがこっちの方がものさびて歴史を偲ぶのにはいいのである。福良では湖南町では一回蔵の宿に泊まったのも趣があった
あの辺はかえって猪苗代湖でも景観的にいいのである。奥まった所にあるからだ
福良は自分が行った時でも街の通りに茅葺きの家が何軒かあった,今はないだろう。
焼き物でも有名だった,あそこは魅力ある場所である。

清水湧き野菊の咲くや旧街道

山間は芒に暮れぬ旧き道

会津へと街は遠きも山間は芒に暮れぬてかすか虫鳴く

会津というと萱が芒が茂る山が多い,昭和村の方に行ったときも山が萱に覆われていたのである。この辺ではこんなに萱が繁っている風景を見ない,それだけ大量の萱が産出する場だったとなる,それは大内宿のよ茅葺きの家のように萱が大量に必要としていたからその需要があった,会津から萱葺き職人が相馬藩辺りに来たとういのもそういう技術に優れていたためである。
ともかく白河街道は魅力ある街道である。

白河はまた南湖公園とか翠楽苑(すいらくえん)とかある,翠楽苑は十年くらいして整備された,借景として自然の松林を利用している,いい庭園である。



白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

白河の秋の翠楽苑

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)

福島県の旅の部に白河について連作として書いています
キーワードで白河と入れてあとはそのタイトルをグーグルで調べると全文読めます

タグ:白河街道

忘れられた昔の生活 (戦後十年は江戸時代のつづきだった)


忘れられた昔の生活

(戦後十年は江戸時代のつづきだった)

その家の近くだけど農家だった,だから庭が広い,農作業したからである。なぜか隣が神社でありそこに脱穀機が置いてあった,馬を飼う納屋があったのを知っている
その家に嫁いだ女性は八五才で死んだ,その人のことは子供の頃から知っていた
その夫は鉄道で工夫として働いていた,妻は農家で仕事していたがあとで菅野漬け物屋で働いていた,農家だから糞尿を汲みにきていたのである。
農薬を使わない時代は肥料は糞尿であった
便所は新聞紙を使っていた,トイレットペーパーがまだなかったのである。
何か汚いという感覚にはなるがそれが仕事だったのである。
もし糞尿を捨てる場所がなかったから困ったからである。

鉄道で働いていたというとき他にも国鉄の時代であり鉄道全盛の時代は鉄道はいい働き口だった,給料も良かった,民営化で騒いだがその時は高度成長時代であり退職しても金はもらえたのである。その時野党は社会党だったのである。
国鉄が衰退してなくなり民営化して社会党も消失したのである。
農業していたし国鉄で工夫で働いてもそれなりに収入は良かったかもしれない
ただ金に困った時はあったようだ,金に借りにきたこともあった
それでもそんなに生活に困るというのではなかったと思う
高度成長時代というのはみんなが豊かになった時代だったからである。

鉄道全盛の時代は鉄道関係の仕事が多かった,国鉄職員も多かった,今になると車関係の仕事が多いのと同じである。
鉄道の時代から自動車の時代になったからである。
ただ自分のように車をもっていないものは車がわからないのである。
だから現代では車をもっていない人は時代遅れであり仕事にもつけないのである。
たまたま自分は幸運で仕事しないですんだが車なしでは仕事にならないのが現代である。それで車もっている人は高速道路に入ると楽なんだと言うのは意外だった
車間距離をとれば自動運転するように行けるともなる,高速は自動運転化しやすいことがそのことを聞いてわかったのてある。
今は車のことがわからないのは社会もわからないとなるのである。
一方で旅するときは歩くことや自転車でする方が記憶に残る旅となる,車だったら昔の街道を行っても旅した気分になれないのである。

その近くに井戸があり自分の家では井戸がなくその水をもらっていた,水は水道がないのだから井戸がない家は水をもらっていたのである。
子供の時風呂に入るのには水くむから大仕事になる,バケツで水を運んだからである。
風呂は父が手作りで作った小屋のようなものだった,外風呂であり便所も外にあった
水道がない時代というのも相当に不便だったろう。
洗濯は近くの小川でしていたのである。
だから江戸時代のつづきを子供時代に経験しているのである。
燃料は炭であり炉端があったからである。

 朝顔につるべとられてもらい水 千代女

これは江戸時代だけと明治以降水道がないのだからもらい水だったのである。
街中では良く姉が言っていたけど「水ください」と井戸ある家に頼んだと言っていた。
それは子供の時であり井戸がない家はそうして頼むほかなかった。
でも水をもらっても金をとったりしないのが昔だった
第一払う金などない時代だからである。
その点農家の方が井戸はあるし自給自足で納豆を作っていたとか鶏がいて卵とかその肉も食べられたとなる,農家でもいろいろあり小作は貧しいが農家の方が豊かな面があった

橋は木の橋であり土橋だった,だからゆれるので怖かったのである。
自分はその橋を卵買いに行かされた,卵は農家から買っていたのである。一個か二個卵が割れるのである。そういう経験したことは今になると貴重である。
仕事はやはりわずかのものしか経験できない,仕事を経験するだけでも人生にとって貴重である。自分はその後仕事していないからそれを感じるのである。

昔をふりかえると不思議なのは江戸時代が理解できないことがある
江戸時代は靴下とかはいていない,女性でも素足なのである。冬でもそうである。
浮世絵の遊廓の女性も素足なのである。だから寒いと見るのである
そんな寒い所で良く暮らせたなと思う,それが時代が違うと理解できない
江戸時代で裸足で歩いていた人もいたという,なぜできたのか?
金属片とかガラスがないからできたと言うのも今から考えるとそうなのかとなる
道でも人と馬さえ通れればいいのだから広い道はいらなかった
第一広い道を作るのは簡単にできないからである。
子供の頃の道は舗装されていない,だから埃がたつ道だったのである。

外国ではネパールなどでは裸足で今も歩いていることに驚いた
インドでも街中で力車の人は裸足である。
裸足で生活することは何か原始的なことである。
現代人は相当に身体的にも弱くなっているのである。
ネパールとかインド農村に行けば昔の生活を体験できるのである。
そこに旅の面白さがあったが若いときならいいが良く見れなかったのが残念であった

街の中でも農家があるのが普通である。養蚕もしていたし田舎では街も農家の一部なのである。そもそも町というのは一区画のことであり今の町とは違った意味だったのである。だから村の中に町とつく地名がある,そこに町があるのではない,一区画の意味だったのである。墓町とあれば一区画が墓地になっている所なのである。
馬町とかあれば馬を売り買いする一区画だったとなる

家はトタン屋根であり雨漏りして洗面器を並べていた,それが伊勢湾台風で自分の家は低い場所にあったので一番被害が大きかった,その後に今の大きな家を建てた
煮炊きするのは竈であり炭や薪が燃料だった,だから台所がすすけて黒くなっていたのである。店をしたり食事の用意をした家事をすると忙しい,昔の人はまず家事に半分は費やされた,だから中流階級でも女中が二人いたとかなる,それだけ家事が一仕事だったからである。電気製品とかなければそうなる,オカズでも売っていない,作っていたから家事にさく時間が多かった,それで母と遊んだ覚えがないのである。

芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞く夜(よ)かな 

昔の家は雨漏りするのが普通だった,ヤハな家だったのである。

大正生まれの母は原紡(原町紡績)で働きあとは東京へ女中になった,まずその頃女性の職場は紡績工場とか女中くらいしかなかったのである。その時良く東京に行ったと思う
母はそうした冒険をしないおとなしい女性だったからである。それだけが最大の冒険だったのである。女中でも現金収入なるとなり喜ばれたのである。

何が一番変わったのかというと政治体制とかではない,基本的な暮らしが変わったことである。今までに高度成長時代のようにな成長もなかったし庶民まで豊かな暮らしはしていない,庶民はずっと貧乏だったからである。
歴史をふりかえれば今ほど人間が贅沢を覚えた時代はなかったということである。
そして莫大なエネルギーを費やしている時代もなかった
石油であり原子力発電であれ信じられない莫大なエネルギーを使っているのが現代なのである。こういう時代は世界的にもなかったのである。
その歪みが原発事故とかなり石油戦争とかも生み出したのである。

ともかく人間は最後は思い出だけになる,つまりこうして昔を語るとき思い出すとき老人は生きているのである。それで認知症になると千回も昔のことを同じことを話するのである。それが生きた証(あかし)だからそうなるのである。
インターネットはこういう昔のことを書いたりするのに向いているかもしれない
これが本とかなるとできないからだ,今は地域の人にも語れないし子供にも語れないからである。
そしてインターネットでもパソコンでもこれからしていた人も老人になってゆくからである。
すると何でも思い出話に花が咲くとなるからだ,ただまだ若い人中心だからそうなっていないだけである。
遂に2チャンネルでも老人が増えて昔を語るようになる
今は老人はのけものにされているがやがてそれも変わってしまうのである。

posted by 老鶯 at 17:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2017年11月10日

原発事故と神戸製鋼など大企業の不正の共通性 (日本の技術への奢りなのか)


原発事故と神戸製鋼など大企業の不正の共通性

(日本の技術への奢りなのか)

●技術の奢り

●コスト競争

●納期を守る

●縦割り組織

●安全の無視

何か最近起きている大企業の問題と原発事故も共通していた,それは日本自体の製造業の危機だとも言われる,東芝とかシャープとか神戸製鋼とか日産などは日本を代表する大企業だからである。
なぜこうした大企業が問題を起こしたのか?それは原発と共通性がある。
根本的にはモラルが喪失がある,企業経営にもモラルが必要なのである。そのモラルが喪失するとき問題が起きる

そして技術の奢りも日本にはあった,日本の製品は品質管理は優れているというのが世界で信頼を得ていたのである。それが壊れたのはなぜなのか?
日本が長年築いてきたそうした技術が奢りになっていたのである。
日本は技術が外国より優れているからロシアのチェルノブエリのような事故は起きないと自分も思っていたしみんな思っていた,それで「安全神話」が作られていたのである。
それは東電だけではない他の大企業でもそういうことがあったのである。

ただ内部事情ではコスト競争とか納期を守るとかそういうプレッシャーとか人手不足で品質管理を怠ったのである。納期を守るということでも急ぐから品質管理をおろそかにしてパスしていた,検査資格もない人にやらせていたのである。
縦割り組織というのも横の連携がなくなる,それも原発事故の原因にもなっていた
縦割り行政の弊害があった,セクショナリズムというのもそうである。
吉田所長が覆水器のことがわからなかったのである。専門分野が違うとなりわからなかった,様々な分野に別れているから全体を知る人がいなくなる
大きな組織はみんなそうなる,役所でも部署が違いますとか言われて何も聞くことすらできないことがある,それは責任逃れなのである。

そしてまたグローバル化するとコスト競争にさらされる,それてコストをおさえようとすると品質管理とかはいい加減になる,何かをコストを減らすことが要求される
それで東電の清水社長はコストカッターとしてのしあがったとういことでもわかる
そういうことが事故につながっていたのである。

東電では10メートル以上の津浪がくるということを試算していた,それがわかっていても対策をしなかったのは金がかかるからしなかったのである。コストの問題なのである。
企業でもやはり根本的な所でモラルがなくなるとそれが事故につながり安全は守れないのである。
ただこれは会社や大企業でも常時起きている問題である。
だからどこでもこういう問題は起きるのである。

奢りといえば別に個々人でも起きてくるし会社単位でも起きてくるし国単位でも起きてくる,奢りが個々人でも滅亡に導く,日本の戦争だって奢りからはじまった,アメリカの強大さを知らなかったからである。
そして日本の技術は特別優れているということをすりこまれてきたのもそうである。
技術のこと科学のことがわからないくてもそう思わされていたのである。
でも電器製品と原子力はまた別物だったのである。原子力の技術はアメリカとかフランスが優れていたのである。
そういう思い込みが一般人にもあり事故など起きないと思わされていたのである。

日本の技術は優れているというときそれがナショナリズムとなり日本礼賛となっていた
確かに優れていたものがあってもすべてではなかったのである。
原発に関しては後進国でありそういうことはなかったのである。
技術というのは安全性が生命線にもなる,鉄鋼でもそうである。
長く使っていると必ず磨耗してくるから強度が大事になる,技術の基礎としてある
ずいぶん長く使っても壊れない機械がある,そういうのには感心するのである。

いづれにしろ東芝であれ日産であれ神戸製鋼でありこうした日本を代表する大企業がこういう問題を起す時世界からの信頼も失われ日本の根幹がだめになってゆく兆候なのだろうか?
だから株価が上がっているけどこれは別に日本の産業が上向きになったからではなく金融の操作でなっているのであり日本の産業の価値があがっているわけでとないのである。
それもまた錯覚させられているのである。
賃金だってあがっているのは一部であり人手不足でもそれは少子高齢化が原因であり景気がいいからではないのである。
ともかく何かそういうふうに政府とかに思わされるのである。
それは原発事故で「安全神話」が作られたと同じなのである。
それは結局奢りであり奢りから事故が起きたり国自体の滅亡になってゆくのである。

日本の大手製造業では、長引く低成長のなかで、名誉職を含め、企業の上層部に団塊世代やバブル世代が長く居座り続け、製造ラインへの新増設投資は乏しく、若手社員の補充が乏しい傾向がある。要するに、活気がないのだ。

こういうことも影響しているのか?少子高齢化も社会を活力なくしている,やはり日本自体が老化しているのである。高度成長時代は若者の人口が多かった,今はその逆だからである。若者のエネルギーが社会にを動かさないのである。
そしてどこでも会社でも技術を受け継ぐ人が不足している,農業や漁業は顕著なのだが
企業でもそうだったのである。中小企業でも後継者がいなくなり倒産している,会社が継続できなくなっているのである。だから少子高齢化は本当は社会全体に影響する大きな問題なのである。
posted by 老鶯 at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

なぜ心の青雲の都築詠一氏は昭和天皇を批判したのか? (明治維新にその根があり光厳天皇を賛美することになった)


なぜ心の青雲の都築詠一氏は昭和天皇を批判したのか?

(明治維新にその根があり光厳天皇を賛美することになった)

「心に青雲」の著者の都築詠一氏は右である。でも昭和天皇を常にこきおろしていた。
それはなぜなのか?昭和天皇には何か蓄財だとか民を思う心がなっかた
ただ一身上の保身のみがあり戦争についても責任があるのに責任逃れした
それで光厳天皇を賛美していた,ただ光厳天皇という人は知らなかった
南北朝の争いで自ら反省して最後は乞食までして隠棲して死んだ
だから昭和天皇もそうあるべきだとして常に批判していたのである。
天皇は自分の保身しかなく蓄財にのみ関心があり民のことは思っていなかった
何かそれが極端だからこれも右にしてはどういうことなのか?
それは左の人が言うならわかるが右の人がそれほどまでに言うことが理解できなかった

その根はどこにあったのか?
それは明治維新にあったのだ,明治維新が過度に賛美されたことは天皇賛美と天皇礼拝に通じる,天皇が現人神(あらひとしみ)になることに通じていたのである。
それで最近明治維新が見直されるというとき天皇も見直されるのである。
それは中国の文化革命のようなことも起きていた
神道派が力を得て廃仏毀釈になった,これは中国の文化革命とにている,イデオロギー闘争であり思想闘争である,これもまた宗教の争いのように見えて権力闘争にもなっている江戸時代は寺が優遇され神社はないがしろにされたとかその不満が宗教の争いとして噴出したとなる

天皇とは何かというとき常に政権争いの神輿としてもちあげられることがあった
天皇は本当は中立であらねばならない地位にあった,それで姓がなかったのである。
姓があるというこは平家なら平家に属することになる,源氏なら源氏に属することになるからだ。
宗教は権力争いにからんでいた,そもそも宗教は本願寺であれ比叡山であれそこが僧兵もいて城と同じだったのである。
だから信長は宗教なら中立を保て浅井氏とか一方につくなと警告していた
でもそれを破ったから比叡山は焼き討ちされ信長の容赦のない殺りくになったのである。それで寺院というのは権力に敵対するものだからそうなった

寺院には信長の前は職人でも仕えているしそこは一つの国を形成していたのである。
治外法権のような領土をもっていたのである。それはカトリックでもあったし宗教が権力を持ち集団化するとそうなる,今でもカルト教団はそういうことがある
宗教の名のもとに団結して権力をもち世俗社会を支配するのである
だから信長がそれを許せなかったのである。

天皇というのも明治維新で近代化にはそぐわない存在だったけど尊皇攘夷派によって薩摩長州によってもちあげられすぎたのである。
それは神がかりになりその後太平洋戦争に結びついたのである。
つまり明治維新から太平洋戦争は一連のものとしてあった
明治維新に太平洋戦争の種はまかれていたのである。
それで明治維新の明治の元勲とが呼ばれた人が批判されるようにもなった

そして「心の青雲」の著者の都築詠一氏は幕臣だった,だから薩摩長州の勢力に不満だったのである。天皇でも薩摩長州にもちあげられたから不満だった
幕臣は薩摩長州に恨みをもっていたのである。武士の出だった内村鑑三も幕臣だったから終始薩摩長州が権力をにぎったことで腐敗したことを常に批判していたのである。
何かこういうところに歴史の継続がある
権力争いで必ず恨みが残るのである。

天皇というのは何なのか?それがなぜ明治維新の時持ち上げられたのか?
それは水戸学派の天狗党など過激な思想となりイデオロギー闘争となり廃仏毀釈となり天皇絶対制を作り出した,それは近代化すること民主主義とは相反したものであったが無理やりそうさせられたのである。
都築詠一氏が昭和天皇をあれほど批判したのは明治維新も評価しないことに通じていた
そして光厳天皇に光を当てた,だから光厳天皇論は都築詠一の思想の骨格にある。
歴代の天皇で自らの過ちを認めた天皇はいないだろう,なぜなら昭和天皇でも現人神とされたのだから神が過ちを犯すことがないしまた敗れることもないからである。
だから昭和天皇は謝罪はしていない,ただ神ではない人間天皇を宣言しただけなのである

この考えは会津とかに共通したものだし東北でも薩摩長州に踏みにじられたから不満が今でも残っている,いづれにしろ光厳天皇が一人間に立ち返りその過ちを認めて隠棲して死んだということそれは日本ではまれなことだったのである。
ありえないことでもあったから都築詠一氏は共感したのである。

日本ではこれから天皇自体が問われ天皇制は維持できなくなるかもしれない,天皇に対する崇拝とかはなくなっているだろう。天皇をyoutubeで悪人だとこきおろしているから驚く,明治だったら戦争中だったら不敬罪になり警察に逮捕されて刑務所にぶちこまれる
警察権力が天皇を警護するものとしてもあるだ,菊の紋が警察の紋であることでもわかる警察権力と天皇は密接に結びついているのである。
天皇は常に権力と関係して存在したのである,だから南北朝の争いでは天皇が二人になり日本が二つに分裂してしまったのである。
天皇がお墨付きを与えて薩摩長州が官軍になった,それで靖国神社は薩摩長州の神社となったが西南戦争で長州の神社にもなった,そして山口県から首相が出るし今も出ているのはそういう支配構造が明治維新にできたからだとも言う人がいる

いづれにしろ都築詠一氏の遺したものは何なのか?それは死によって永遠に中断してしまった,ただ昭和天皇批判とか明治維新の見直しはなされるようになった
つまり天皇の宗教的権威がそがれてただの象徴となったときそうなった
日本に天皇が必要なのか?そういう議論までになるのはやはりそれだけ天皇というものの権威が落ちた現れなのである。