2017年10月26日

秋薔薇-鮭上る(鵜の大群来る-原町へ行く)


秋薔薇-鮭上る(鵜の大群来る-原町へ行く)

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この樹は変わらずにある
他では樹が切られた家も多いからだ
ここでも近くの家の杉は切られたのである。
何かこの辺ではこうして変わらないものが貴重だともなる

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これはイオン近くの牛越の農家である



イワヒバに木の葉一枚秋薔薇

優雅かな紫式部に秋薔薇

散りゆかむなお光あれ秋薔薇

鮭上り鵜の大群や朝の川

蔵ありて農家二軒や柿たわわ


我が家の朝の静けし秋の蜂一羽飛びきて花にささやく

我が庭に静かに開く一輪の秋の薔薇隠れて咲くやあわれ深まる

我ありて一室静か夕べにそ月ののぞくも移りけるかな

俳句は写生である。イワヒバに木の葉一枚がついていることで秋を見る
写真からだけでは秋薔薇とわからない,紫式部も見えるからこの写真の中に語るものがすでに写っているのだ。だから写真と俳句は相性がいいのである。

朝に鮭が上流まで上ってきた,台風で水が出て上ってきたのである。浅瀬がありそこに卵を生んで親は死ぬ,その卵などを死体などをねらっているのが鷺であり鵜の大群だった
鮭は大きいからごちそうになる,鵜は鯉だって丸飲みする
これだけの鵜が来ることは鮭がそれだけ上ってくるということである。

今日は原町の歯医者に行きイオンの方によったら牛越であり農家が二軒あった
その辺は変わった,仮設がまだあり復興団地が7棟くらい建った
原町は大きいからその数も多いのである。
もともと牛越にあったのは写真でとった農家である。
でもこれもわからなくなる,原町では農家があっても市街化してわからなくなる
ただ農家があると蔵があり庭があるから落ち着くのである。
タグ: 秋薔薇

白鷺の詩(2) (自然から離れた文明の醜悪)


白鷺の詩(2)

(自然から離れた文明の醜悪)


天から優雅に舞いおり
地に汚れることなく
白い衣を着せられて
何ものもまとわない
ただ純白の白い衣の映える
光の中に、緑の森に,大空に
何かたりぬとそから聞こゆることなし
その水辺に,野に、大空に・・・・
ただ日々神にありて神に養われる
そにに付け加えるもの一つとてなし
神の造られしそのままに変わるらじ
人よ、そは何故に醜しや
美服を飾りしもそは醜し
汝より純粋な美は生まれじ
汝は営々と働き努力せしも
しかるに地は汚れゆくや
神の成す業は永遠に美し
天より白い衣着せられて
その身は軽やかに地におりて
また天に舞いたつや
地を汚すことなく神の園生にあり
その身は軽く浮上して飛翔する
そに誠の太陽は輝き映える
そは一枚の白い衣を残して
天使のようにかなたに去りぬ
人よ,何を遺さむ
財を遺せば争いの種
一編の詩を遺して去るべしかな

都会と田舎の問題は一つの歴史的にも人間のテーマである。文明とは田舎のことではなく都会のこと都のことだからである。
ただ逆に文明という大きなものではなく文化は田舎から生まれた、civilizationとcultureは別物だからである

栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と語られています

キリストがこう言ったとき一輪の花とは自然にあるものの全体である。だから一輪の花とは限らないのである。自然全体のことでありここで詩にした白鷺のことでもそうである。

常に疑問なのはなぜ東京のような所に人は住んでいられるのか?
それが田舎に住んでいるものには解せないとなる、満員電車に家畜のようにつめこまれてビルの谷間で混雑する人でひしめく都会に住めるのかとなる、しかし現実には東京に日本でも人口の一割は住んでいるし大阪でもあれだけの人間がひしめき住んでいるのである。
確かに都会には都会の良さがある、しかしその良さは自然からかけ離れた世界であり美はない
東京のようなところが文明の成果なのかとなる、文明というときエジプト文明とかローマ文明とかキリスト教文明とか仏教文明とかマヤ文明とかあるけどそれは明らかにやはり自然と融合した文明である,自然と調和した文明である。
エジプトのピラミッドでも砂漠という自然と調和して生まれた、そして動物を神としたアニミズム文明だったということは今の文明とは違う,動物が現代文明では排除してきたからである。
文明は自然の生態系と分離しているのが現代文明の特徴である。それを可能にしたのは石油とか原子力によるエネルギーの創造だったのである。そこから電気も造れたからである。
一面現代の文明は電気文明なのである。だからこそ電気がない社会は考えられないのである。そのために原発事故も起きたのである。

人間は営々と社会を良くするために働き努力してきたのである。その成果がなぜ東京のような大都会でありそれが労働の成果なのかとなるときまさに

栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

それは花というのではなく自然が映えない、自然はすでにもうそこにはないてのである。
でも文明の恩恵は田舎でも受けている、都会と同じような暮らしをしているしむしろ飯館村などは一軒が森につつまれていて暮らしていた、それは田舎から比べると贅沢である。でもそのほかは病院がないとか不便だったのである。
だから本当に住みやすいとなると中都市である、そこでは田舎的なものと都会的なものが融合するからである。
ヨーロッパでは中都市が多くそこから文化が栄えたのである。

美というとき何が美なのか?それが人間には見えていないのである。女性の美にしても性欲的美でありそれは美ではない,人間の美は虚飾の美なのである。それに比べて自然の美は神そのものが造った純粋な美なのである。
だから鷺など当たり前にいるものであり注意しないものもいる、田舎に住んでいて田舎の人自体が別にそうした美を見ているわけではない、そこに価値を認めていないのである。
要するに田舎の人でも都会的なものに憧れているともなる、なぜなら田舎の価値を知って住んでいる人とは限らないからである。
だからこ原発事故発は金になるとして受け入れたのである。

そうなると都会と田舎でも変わりないとなる、その価値観は変わりないとなれば都会に住もおうが田舎に住んでも同じだともなる
ただなぜ人間は美に関して鈍感になってしまったのかということである。まず景観などに注意する人は少ない
だからこそ東京のような都会に住んでいても平気なのである。そこで文明の贅沢を享受すればいいとなるからだ

過去の文明は仏教文明でも美を創造している、今の仏教文明はカルトであり宗教とは何の関係もないから美など創造しようがない、
物質的なものだけを追求しているから別にほかの人何の変りもないのである。むしろ宗教によって欲が刺激され深くなっているか異常なのである。それは都会から生まれた宗教だからそうなっている
宗教は砂漠から森の洞窟から山岳か生まれているからである。そういう宗教は健全だったのである。

人間は物質文明の奴隷になると公害が随所に発生する,足ることを忘れ欲望のままに動いていますと大気は汚染され太陽は見えなくなります
汚れた空気が私たちの肉体をおびやかすようになる
人の心もこれと同じです,生まれたときの美しい神の心のままに生きていれば問題ないのですが五官,煩悩にふりまわされ欲望のスモッグを心に作り出してしまう
(悪霊-高橋信次)

原発事故は必ずしも科学だけの問題ではない,人間の心からも生まれた問題なのである。農家の人が親から農業など金にならないからやるなと殴れたというのは極端にしろそういうことが田舎であった,その人は原発で働き工事現場を渡り歩いたのである。

いづれにしろ鷺が津浪や原発事故六年すぎてもどったのはには感激した,それはやはり田んぼが回復したからである。そこに餌があるからもどってきた,人間が避難区域になったところにもどらないのは餌がなくなったからだともなる
なぜなら田んぼがなければ畑がなければ食料もないしそこで暮らせないとなるからだ
そこでの暮らしは廃炉作業とかの街になる,それは故郷とか田舎とは言えないものとなるつまり田園あってこそ田舎だからである。
風力発電とか太陽光発電とかドローンとか何かそうた工業だけの世界になると都会と何ら変わりなくなるからだ。

田舎でも田舎の価値を求めて生きていたとは限らない,都会的価値を求めて生きていたともなる,田舎の良さを何か気づかないで生きていたともなる,だからこそ容易に自然でも破壊されたのである。ただ原発を廃止できないのはそれが労働組合でも一体となりものすごい利権となっていたからである。
官僚でも検察でも天下り先としての利権がありそこが利権の温床になっていたのである
だからこそ原発にかかわっんた官僚でも東電でも誰一人として罰せられないのである。
そもそも罰する人間が利益にあづかっているからできないのである。

タグ:都会と田舎