2017年10月22日

雨の中で投票してきた (田舎では車がないと投票もできない)


雨の中で投票してきた

(田舎では車がないと投票もできない)

街内であり投票所が近くにあるから行ってきた,田舎ではこの雨では街から離れたら車がないと投票もできない
街内でないと一人暮らしは不便であり車がないと現代の生活は不便になる
田舎では一人一台車をもっているのだ

別に自分は投票もしたない,棄権したいのである。特別入れたい人も党もないからであるでも棄権したことがないのは何か具体的に選挙のとき政治を考えるからである。
やはり一票をどこに入れるかは大勢には何の関係ないにしても政治を直接に具体的に考えるものとしてあるからだ

だからどうせ一票など何の影響もないともなるが選挙は具体的に政治を考える場として投票しているのである。
この辺ではどうしても原発は反対になる,それは理屈でもなんでもない,もうこれだけの被害にあったらこりごりだとなってしまったからである。
だから自民党には与党には入れにくいのである。

選挙も蓋をあけてみなんと結果はわからない,今回の天候の影響がどうでるか?
悪天候のありには前より投票率がいいみたいだ
やはり関心があったのか?投票率がいいことは浮動票が反自公の票になるのか?
希望の党はずいぶんたたかれたけどそれはマスコミの恣意的操作だという人もいるからわからない

自分は公明党には納得がいかない,創価をやめた人は普通は票は入れないたろう。
やめたら地獄に落ちるとなっているからだ,でも創価でも今回は票が割れるかもしれないそうなれば宗教で決めないから政教分離だとなる
ただ創価も高齢化している,勢いがなくなっている
それはすでにずいぶん前から頭打ちになっていたのである。
選挙と信仰を結びつけるのは限界になるだろう

ただ野党には政権担当能力がないのである。なぜなら政権担当を経験していないからである。だから民主党は失敗したのである。
政権担当にもノウハウがあり積み重ねがある,するとそういう経験がないのだから失敗に終わった,つまり自民党しか政権担当能力が日本にはないのである。
アメリカだったら民主党と共和党が交代してもどっちも政権担当能力がある
日本で野党にはないのである。
だから一党独裁のような政治が延々とつづいてそれに代わるものがないのである。

確かにアメリカでもこのように支持基盤があり二大政党が成り立っているというとき日本にはないから自民一強政治がつづいている
イギリスでも資産家とう富裕層と労働者層が分かれているから二大政党制が成り立つ
それはもともと貴族階級と庶民階級は言葉も違うほど分かれていたという歴史が反映されているのである。
アメリカの民主党でも共和党でも南北戦争がありその継続としてもある
日本にはそうした地域の対立とか階級の対立がないのである。
労働者でも組合となるとかえって資本家寄りだとかなる,組合にも入っていない人が多いからである。

もしこの悪天候で投票率があがったら現政権にやはり不満な人が多いことがわかる
どうしても一票を投じてその不満を現したいということで投票率があがる,浮動票が入るからそうなる
だから前の選挙より投票率があがったら確実にそうである
こんな悪天候でもこれだけの投票率だとなるとその評価は違う,今回は悪天候を考慮した評価が必要になる。
天候は政治にも歴史にも影響するのは現代でも同じだった
それも天の采配とかなる,この天候だけは人間の力ではどうにもならないからである。
posted by 老鶯 at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

世の中なんでもケースバイケース (介護もあらゆる問題がそうである)


世の中なんでもケースバイケース

(介護もあらゆる問題がそうである)


人間社会の問題は数学のようになっていない,数式で解くようになっていない,統計学があり平均的なものとして社会を見る,それも一つの手法である。
それでは万事をみることはできない,例外的なものは必ずあり無視することになるが
その例外のなかに重要なものがふくまれているかもしれない。

なぜ長生きするととしない人がいるのか?
この原因を探ってゆくと個々別々であり何が原因なのかわからなくなるだろう
肉を食べている人が多いというのは良く聞く統計的なものとしてあるからそうなのかともなる,でも必ず肉を食べない人も野菜中心の人でも長生きしているかもしれない。
そして人間の健康とか体はみんな同じではない,顔違うようにみんな違っているのだ
だからその人に合わない食べ物がある

自分はラーメンはほとんど食べない,それがスーパーで食べたらインスタントのレンジであたためるだけのラーメンを食べたらはいた,実際にそのラーメンはまずかったのであるそれはもしかしたら自分の体に合わないで吐いたのかもしれない,自分は吐いた経験が何十年とないからである。
人間は好き嫌いだけでなく食べられないものがある
自分の母親はサンマが嫌いであり食べない,でもイクラが好きであった
自分はイクラが食べられない,気持ち悪くなるのだ
最近スーパーの弁当をみると必ずイクラがのっているので困っている
人間には明らかに好き嫌いではなく生来体に合わないものを受け付けないことがあるのだ
人間の問題の複雑さはこのように健康で体でも個々に違ったものなのである。
その個々にあったように社会はしてくれない,みんな一様に平均的なものとして対処する教育でもそうだし個々人は相当に違ったものなのに平均的教育しかしない
それでその人の個性は埋もれてしまう
第一人間は自分の才能すらわからない,何に才能があるのかもわからないのである。
老人になってから自分の才能を発見することだってある
最近自分がインターネットではじめた抽象画がそうである。
絵を全く描けないのに絵を描いているという不思議があったからだ

社会のむずかしさは個々別々な問題として現れる,警察の職務質問のことで抗議したが
警察では「あやしい」と通報されれば何であれ理由も聞かずにかけつけて職務質問するという,それは個々別々の対応はしないのである。
ところがそれに自分が怒ったのはその時ちょうど駅に人が集まっている時であり職務質問されたら周りの人がどう思うかである。
なんだこいつあやしいいかがわしい人なのかと見られてしまうのである。
警察ではそのことを言ってもとりあわなかった
これも個々別々の問題として人間があるからそうなる
そして自分は駅に前のように自由に出入りすらできなくなったのである。
またあやしいと通報されたら来ると言ったからである。

あらゆる問題がケースバイケースなのである。介護にしても個々の事情が違っている
例えば延命治療などしない方かいいということもあるしないこともある
医者でその判断がむずかしいから延命治療している
それは個々の事情が家庭でも違ってくるからそうなっている
介護でもだから80才なったら安楽死させろとはならないのである。
別にピンピンしている人もいるし社会に貢献している人もいるからである。
逆に安楽死してもいい人はいるのも事実である。本人もそう了解している人もいる

現代社会は個々に対応する力が弱まっている,江戸時代の方が寺子屋で自由があり個々に対応していた教え方をしていた,学校になるとみんな一律なものとして平均を追及するようになる,平均点が大事になる,学校の目安も平均点なのである。
人間を統計として数字として見るのが現代なのである。
選挙でも数は力となる,それで権力を得るのだからただ数を集めることに奔走する
宗教でも数である,数が集まれば社会の影響力がまして権力を得るからである。

江戸時代あたりだと狭い範囲で生きていたから個々別々の対応ができたかもしれない,なぜならその人のことを知っていたからである。
て長屋でもみんな長く住んでいた人が多いのである。移動しないからその人のことを熟知するから個々別々に対応できたともなる
現代はケースバイケースに対応することが本当にむずかしい社会である。
ところが何でもそうしないとうまくいかない場合がある

家族でもみんな事情が違っている,これが家族なのかという家族もある,それは絶対に他から理解できないものなのである。
まず自分の家族を理解できる人はいないと思う,そういう家族もある
だから人間の不幸がみんな違っているというとき家族がみんな同じような家族ではないからそうなるのである。
その個々の違った家族の事情から問題が起きてくるから一様に対処できないのである。

認知症などもみんな同じ症状ではない,生い立ちとか性格とか環境とかでみんな違っているのである,だから同じように対処できないのである。
同じ薬をのませてもいいというわけではない,その家の事情を知ることが必要になる
しかしそれを知ることが容易ではないから問題が起きるのである。
かかりつけの医者だとそういう事情がわかることがあり対処しやすいということはある
大きな病院だとその人のこをここに理解することがむずかしくなる
つまり現代は大きな病院でみるようになっているから個々にケースバイケースとして対応できないのである。