2017年10月12日

 福島県会津昭和村の地名  (昭和村晩秋の詩)


 福島県会津昭和村の地名

 昭和村晩秋

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野尻村と大芦村過ぎて淋しき
はるか山の上に茫々と芒なびけり
矢の原湿原の沼のひそけし
その幽邃なる沼の水辺
しんとして千古の静謐
沼の精やここにひそむや
かそかに月こそ映し静まれ
晩秋の陽はここに薄れぬ
はるか旅人のここによりしを
その影の留めるなきや陽は没りぬ
誰か知る旅人遠く去りにき

会津藩士ここにも戦う沼ひそかはるか山の上秋の日没りぬ

誰かあれ秋の陽没りて日落沢



昭和村は会津でもかなり奥深い処だった。昭和村への道を入ると温泉が旅館がありそこで温泉にひたり疲れをいやした。それから村の食堂で食事をしてそれからかなりうねうねと山を上っていった。そこは一面の芒、萱原であった。その山の上に矢の原湿原があった。この湿原は日本でも二番目に古いとか道の脇にあるにしては古い沼だったのだ。ここで会津藩士が討ち死にししている。壮烈な戦いがこんな奥まで持ち込まれたのだ。こんな静謐な沼のそばにそんな案内板があるのもにあわない、反面そのことはあの会津の落城は壮烈なものだった。戦いは熾烈だったことを示している。なぜこんなところまで来て戦っているのかわからないからだ。確かにそこまでは覚えているのだがそこからはどこに出たのか覚えていない、自転車で行ってもこのように地理とかがわからなくなったり忘れるのだ。だから記録が大事になる。一面になびいていた萱原と沼とは覚えていたので思い出して詩も書けた。

それで昭和村の地図を見たら面白い地名を発見した。昭和村は大芦村と野尻村が昭和に合併してできたのだ。合併してできた名前はその村の歴史を消す場合がある。この合併地名はかなり多いのだ。大芦村の処は確かに芦が繁る処であり野尻というのも野の尻という意味でそれなりに地形として合っている。ここでは野は山間の平らな所でその尻となる。その他に日落沢とか転石峠とか木地小屋とかあった。これも山深い処の地名に合っている。日影山とか日落沢というのは山で日が落ちて陰るのが早いのだ。そういう地形が多い。転石峠というのは石が転げてくる危ない峠のことだしそういう処も多い。今でも落石注意とか案内板がある。それから駒止峠とは駒が止めるほどの峠道のことでこれは檜枝岐につづいていた。針生部落から檜枝岐は駒止峠でありこの峠は私は20年前くらいにバスで行ったがくねくねくねくねと曲がってやっと越えられる舗装もされていない、埃がたつ凄い峠だったのだ。ここを越えて檜枝岐まで行くのだから檜枝岐は秘境だった。今は観光化されて秘境というのはないのだ。

つまり秘境とは交通でも閉ざされていて外界との交流が少ない処である。交通が発達しない戦後まもなくや戦前はこうした地域は非常に多かった。そこでは自給自足の生活をしていたのだ。だから秘境は多かったのだ。まるでみんな仙人のような生活をしていたのだ。ソバが常食となるのは米がとれないためだし米を食えないという僻地でもあった。旅するならいくらでもその頃秘境があったのだ。今は秘境はない、自動車や交通の発達でどんな奥地にも気軽に行けるから秘境はないのだ。ただ昭和村というと今では観光化した檜枝岐より秘境の感じがある。あまりに観光化するとかえって魅力を失う、昭和村はその点まだそういう秘境的なものがある。インターネットで探したらそこにキャンプ場があり木のバンガロ−があり4000円で泊まれるとあった。ここに行きたいなと電話したら今年は終わったらしい。雪はふらないが紅葉も終わった。パスの便も終わり自動車がないと行きにくい、でもあんな所で3日くらいのんびりすごしたら気持ちいいだろう。この昭和村についてはからむし織りとかで良く宣伝しているがそれよりも何もなくてもわずかに残された秘境として価値あるんじゃないか、つまり秘境とはとにかく鉄道が通らず街からず−と離れた孤立したような山の中であればいいのだ。檜枝岐のように頻繁に人が入るようになると秘境ではもはやないのだ。伝説として次のようなものがあった。

治承四年、宇治川の戦に敗れ命からくも逃れた高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷・大内宿に入った。橘諸安公の娘・桜木姫と高野大納言俊成公の娘・紅梅御前は数少ない家来を共に京から王を迫ってこの地に辿りついたものの、恋しい人はすでに越後へと向かってしまったあとだった。身のおきどころなく畑小屋集落にしばし滞在したがどちらも間もなく亡くなり、御前は下郷町戸赤の渓流沿いにまつられ、桜木姫の墓は大内集落のはずれに今もひつそりと残っている。そこから畑小屋の山は御前ヶ岳と呼ばれるようになったが、畑小屋の鎮守は以仁王の父・後白河法王を祀ったものという。

大内部落には都落ちした高倉宮以仁王の一行に同行したある従者の君「桜木姫」長旅の疲れから18歳の若さで亡くなり、この地に眠っているといわれています。このお墓の周辺を御側原(おそばはら)といいます。源氏と平家の争いがこんな僻地まで尾をひいたのか祭りがあるからこれは本当なのだろう。ただ平家落人部落というのはかなり嘘が多い。義経伝説も北海道まであるのだからこれもどこまで本当なのかわからない、それでも奥地まで戦いがあり落人狩りなどが戦争では行われたのかもしれない、執拗な追手というものがあって身を隠さざるをえないこともあった。会津というと何回も行っているがやはりあそこが良かったなとかもう一回行く処はまた調べ直してその土地に詳しくなり今度は別な処を探査してしみようとかするのがいい、あそこはただ通りすぎただけだったから今度はまわりをよく見ようとなる。でも何日か滞在しないとやはり自然はわからない、だから滞在する旅にはそれにふさわしいもの、山小屋のパンガロ−見たいのがいいのだ。今年は自転車で行くのは無理だろう。でも今年の最後はどこかに出かける必要がある。

福島県会津昭和村の地名




これは前にホームページで書いた紀行文である。今回プログの方にも転載した,プログだとキーワードで検索しやすいことがある。
膨大な量だからそこから検索される必要がある,人間は本当に忘れやすい
こういうことを書いたの忘れていた,昭和村に行ったことは覚えている
その時は結構坂があって楽ではなかった,自転車は坂で疲れてしまう
この時は一面に萱に埋もれていた

それで思い出して一句作った

奥会津萱に埋もれて日の暮れむ

本当に日が暮れようとしていたのである。その時どこに泊まったのか覚えていない
なかなか旅をしても時間がたつと思い出せなくなる
特にこの辺は一身上でも回りでも変化が激しかったから旅したことが思い出せなくなった今のことに心も身を奪われてしまったのである。
過去が忘れやすいというとき今が常に変化しているからである。
それも激しい変化に見舞われると今にエネルギーが奪い取られることがわかった
だから自分は旅するエネルギーも消失してできないともなったのである



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権力が闇を作る-陰謀論になる (権力によって真実は隠蔽される)


権力が闇を作る-陰謀論になる

(権力によって真実は隠蔽される)

いん ぺい  【隠蔽・陰蔽】

ある物を他の物で覆い隠すこと。見られては都合の悪い物事を隠すこと。 「陣地を−する」 「事実を−する」 〔類義の語に「隠匿」があるが、「隠匿」は隠してはいけないものをひそかに隠す意を表す。それに対して「隠蔽」は都合の悪い物事故意に隠す意を表す〕


なぜ陰謀論になるのかというと権力のことがわからないからである。一体誰が権力をもってそれを実行できるのか?
これが庶民にはわからない,だから江戸時代の時代劇でも役人がいてその背後さらに大きな権力をもつ上役がいてその人は表に出てこない黒幕としてある
闇の中に本当の権力をもった人がいるとる

世界的になるとさらに一体この世界を動かしているのは誰なのか?
それはさらにわかりえようがないのある。
するとロックフェラーだとロスチャイルドとかユダヤ人だかといろいろ陰謀論になる
最後には遂に不可解になりそれはサタンであり悪魔がこの世を支配しているとなる
サタンに操られているのがこの世だとなる,陰謀論の帰結はそうなる
なぜならその闇の主とは誰なのか?それはサタンだとなるのだ

そもそもこの世で権力をもつ力を持つものはサタンに魂を売ったものだと言うときそうなる,キリストはそれでこの世のものをサタンから与えると言われたとき拒否した
でもたいがいはサタンの申し出を拒否したりしない
人間には欲望がありその欲望故にサタンに操られるのである。
もし人間に欲がなかったらサタンも無力になってしまうのである。
人間に欲望があるからサタンはこの世で王となっているのである。

カルト宗教団体などは宗教を装っているがサタンに魂を売った団体である。
悪魔に魂を売りそして自分達の欲望を達成するための団体である。
宗教というのはその仮面なのである。
創価などは目的は権力をとり自分たちの欲望を達成することを目的としている
もう毎日選挙のことしかない,拝むのもフレンド票を得るためである。
その票をもって権力にかかわり社会を動かすためにだけある
その数でもって権力をもち恐れさせるのである。

宗教だと罪の恐れだとか良心の呵責だとか関係しているがそういうものは一切ない
一票とることが至上命令でありそれで成仏するとまでなっているからカルトなのである。
他でも宗教団体はそうして悪魔に魂を売っている団体なのである。
宗教も悪魔にのっとられているのがこの世なのである。
第一そんなに大勢の人が入っていることはすでに俗化している
大衆化している,そこでは崇高なものを追及することなどありえないのである。
だから現代のカルト宗教団体から崇高なものは何も生まれない
ただ政治化経済化しているだけの宗教とは何の関係もない団体である。

平安仏教などは貴族の仏教として批判されるがやはりその時ですら何か世俗を離れたもの崇高なものを追及するものがあった,平安仏教という時代があったからだ
それはやはり一つの文化を形成したのである。鎌倉仏教でもそうである。
その後江戸時代になると仏教は武家の付属品となり役所と化して死んだ
江戸時代をみると平安仏教とか鎌倉の武士の仏教文化とか何か残したものがないからである。ただ死者の供養となり侍の菩提寺となっただけである。

なぜ権力が闇になるのか?
原発事故を追及してきたが政府と東電は10メートルもの津浪が来ることを科学者が予想していたのである。それで政府は対策をしなかったから事故になったと賠償請求の裁判で勝訴した。
そうして権力によって肝心なものが隠されているからこそこういう問題が起きた
もし10メートルもの津浪が来るということを公にして問題にしたらどうなったのか?

津浪でそのことを知っているからいち早く逃げて多くの命が助かった

なぜならこの辺では津浪が来ないというのが確信とまでなっていたからである。
だから何か隠すことが権力者にとっていいことのように見えるが実は違っていた
そのことを公にしていれば多くの人命を救ったとまでなったかもしれないのだ。
ところがそれを隠したのは津浪対策をしたくない,金がかかるからしたくないということで隠していたのである。
何か権力を持っていると不利なことは隠せる,ところがそれが甚大な被害になる

報道関係もそうした権力をもつものが隠したものを暴くのが仕事なのだけどしなかった
結局権力に従うだけの機関だった,福島民報でも50パーセントが県が出資する官報にすぎなかった,何の自主性もないのである。
聖教新聞を刷っているいるし東電から宣伝費ももらっていたから何も追及しない,ただ原発推進になるだけだったのである。

権力は闇になるというとき一党独裁になるともう権力の闇を追及することはできなくなる阿部首相がそうである。自分たちの仲間だけにその分け前を与える,国の財産を与える
そういうことができてしまうのが権力なのである。
警察も権力側につくからさらに権力は闇化する
警察も正義の味方などではない,その権力も闇なのである。
天皇の権力も闇でありそれを批判するものもいる
それは誰が本当に権力をもって動かしているのかわからないからである。
江戸時代の時代劇のように頭巾をかぶって黒幕は顔をださないからである。
だからこそいろいろと陰謀論になるのである。

そしてこの世からそうした闇が払われるのか?
それは永遠にない,それはこの世が滅びてからしかありえないのである。
人間は欲で滅びるというとき人間から欲がなくなることはないからである。
そこにサタンはつけいってくるからである。
金が欲しくない人間もいない,すると金に支配されるのである。
その金をもつものがロックフェラーだとかロスチャイルドとかユダヤ人だとかなる
今の世の中を支配するものは昔と違って武力ではない,金になっているからである。
だからドルが世界の通貨となっているとアメリカが世界を支配しているとなるからだ
ドルはアフリカの果てから砂漠の果てまで通用するからである
つまりアメリカの支配の力は軍事力だけではないドルが世界で通用するとういことにもある

世界中が何でも金で買えるとなる時代である。それで中国人で一人っ子政策で女性が少なくなり結婚できない男性が苦労していた,大金持ちだったら若い子でも寄ってくる結婚できるとなげていた,女性でも要求するのは金だけだとと言っていた
それは世界的にそうなってしまっているのである。
人間の関係が金しかなくなっている,男女の関係でもそうである。
別にその男性は金がないわけでもない,ある方である。でももっと金持ちの人がいるから大金持ちだったら若い子がよってくる結婚できると言っている
金だけではない別な基準があってもいいはずだが現実にはない
若い人はもう金だけの世界になると贅沢すると貧乏したくないとか遊びたいとなる

共産主義とか社会主義の価値観はもともとそういうものではなかったはずである。
結局資本主義的価値観の世界になっている,金があれば何でも買える,人の心も買えるとまでなっている,それはまたサタンに支配されているともなる
金を否定してみても現代を生きるのには否定できない
金があると実際に心にも余裕ができる,金がないと余裕ももていなのが資本主義社会なのである。
第一困ったとき金がないと助けるコミニュティも今はない,隣近所も助けるなどしない時代である。家族すら金の関係にもなる,そういう社会はまちがっている
金は否定できないにしても何か人間的価値観をとりもどし追及すべきだとなる
そういう変換点に来ているのが現代なのである。

ベーシックインカムなどは思想としては理想としてはいい,現実に自分は実行している
その人は家に来てすることはほとんど何もない,家事は全部自分がしているからである。皿洗うとしても二三枚であり一日おきなのである。
していることは小さな畑である。そこで毎日草むしりしている,なにやかにやとある。
そこにも金がかかり収穫はわずかだから他人に与えるものなどない,自分もキュウリ二三本しかもらっていないのである。
ただその人がしたいことは家事ではない,畑なのである。それで金をもらえるから自分の家に来ているだけである。
それは自分がベーシックインカムを実行しているとなるのだ
ベーシックインカムとはその人がしたいことがあればする,したくなければしないともなる,では誰も働かなくなるのかとなるとそうでもなき,その人は草むしりなど不満を言っても畑仕事が好きだしする,そしてその人の価値はまさにその畑仕事をすることにあった畑仕事しないとしたらその人の価値はないとなる

社会に余裕がでてくればベーシックインカムが具体性を帯びてくる,それも理想だけどみんな社蓄だとか奴隷だとか言って働きたくないのに働くのは健康的にも良くないし社会的にも暗くするのである。それは働きたくないのに働いているからである。
畑仕事している女性は文句は言っても農業が好きだからしているのである。
ただそれでは金にはならない,でもベーシックインカムだったらできるとなるからだ