2017年10月05日

十五夜の月(秋薔薇) (平凡な日常に深さを感じるのが写生俳句)


十五夜の月(秋薔薇)


(平凡な日常に深さを感じるのが写生俳句)

mooncircleend.jpg

月の輪は空が湿っているからでる,だから雨になる




静けさや石に日のさし秋薔薇

誰が見るやひそかに散りし秋薔薇

秋薔薇一輪のみや咲くを見る

老人に古き駅舎や秋薔薇

十五夜や里の実りを照らすかな



一枚の広葉散りにし玄関に秋をし思ふ誰かまた死ぬ

雲隠れ月に昨夜は憂いけり今日十五夜の月の明るし

雲隠る月やまたいで光るかな人の心の移り安しも

夜のふけて今日も聞き入る虫の音一匹のみそ我が一人かな

母はなき我が一人住み虫一匹その音を聞きつ夜もふけにけり

我が家に十五夜の月明るしも事なくあれと祈りけるかも


今も十五夜の月が明るい,昨夜は雲に隠れたりしていた,つくづくそしてこの月が雲に隠れたりまた出て光る,それが人間の変わりやすい心を象徴していたのである。
なんかまだ自分はそうして人間関係でもめている
何か金をせびられるている,それが憂いとなる
自分は確かに三十年間は金は決められた額しかもらえなかった

だから金持ちとはいえない,金には余裕がなかった,でも別に金に苦しむということもなかった,ただ余裕はなかったから金持ちとは違っていた
実際は金持ちの気分を味わったことがない,金持ちとは何かともかく余裕があることなのである。別に金をある程度使っても気にしないのが金持ちである。
その金持ちといってももともと金がない生活をしていたら百万あれば大金にもなる
一億円あっても金持ちの気分になれない人もいる,だから金に対する感覚はみんな同じではないのだ
ただ金というのは相手もあり人間関係のなかで金から離れられないのである。
でも人間が金だけの関係となると本当に悲しい,兄弟る金でもめる
また金ある人と金のない人は調和しないのである。平和がないのである。

十五夜の月は誰でも無料で見れるし世界中どこにでも輝いている
みんなその月を見てなごむのである。自然には金は関係ない,金がある人が特別きれいな月を見るということもないだろう。
みんな同じように美しい十五夜の月を見れるのである。
あばら家からもきれいな月はみれるし月は差別なく照らすのである。
金持ちの家だからと特別美しくみえるけでもないのである。
ただ都会だときれいに見れないからかえってそこに自然の格差がある。
あばら家からもきれいな月を見ることができる都会は金をもっている人が多くてもかえって自然はないしきれいな月と星とか見れないのである。

金によって憂いるというのが多いだろう。金から人間は生きている限り解放されないのだ別に金なくても美は鑑賞できる,今日の十五夜は美しい,それは金がなくても見れる
自然の美は別にフラワーアレンジメントなどしなくても花を買わなくても野の花を見るのは無料なのである。

今虫が一匹鳴いている,母も百才で死んだ,そしてなお今も鳴いているのか?
その一匹の虫の音に感じる

俳句などは鑑賞する方が優れていなと鑑賞できない
写生俳句は特にそうである。

静けさや石に日のさし秋薔薇

これはあまりにも平凡なのだけど深さがある
石に秋の日がさしている,そこに秋薔薇が咲いている
それがなんとも合っているのである。
つまり日常の中に深さがある,なんでもないことに深さがある
写生はまさにそのなんでもないことことなのなかに深さを感じることなのである。

安らかに死ぬためには・・・・ (若いときにすでに死の準備をするべき)


安らかに死ぬためには・・・・

(若いときにすでに死の準備をするべき)


人間の死に方はいろいろだしそもそも死と生を分けることはできない
生と死は連続している,だからどんな人でも死んだら神となり礼拝の対象になるとかはない,ただ死というのは生から死の変化があまりにも大きいからその死が何なのか理解できなくなるのだ
骨となり灰となり全く存在が消失することが生きているものにとって変化が大きすぎるのである。世の中でもなんでも変わるけどこれほどの変化はないのである。

前に書いたけどなぜ人間は死ぬと美化されやすいのか?
死ぬと現実にあったものがなくなる,すると死者はどうなるのか?
死者は何も語らない,語るのは今生きている人なのである。
それで明治維新の吉田松陰とか坂本竜馬は司馬遼太郎という小説家によって作り出された虚像だともなる
それはなぜそうなるのか?本人は死んで語ることもない,となるとどういうふうに後世の人が見るのかとなるとどいふうに見ても勝手だとなってしまうからである。
つまり死んだとたんにその人の存在のリアリティがなくなるからだ
そして歴史上の人物とは誰もその事実だって直接接してもいないのだから皆目わかちないのだから美化されやすいのである。

家族だとかはいつも身近に接していたから家族でもその欠点とかを知っている
自分もそういうことを嫌というほど知っているから美化しにくい
家族の場合はいい面でも悪い面でもリアリティあるものとして死んでも見ているから美化しにくい,それが全然知らないとなると小説家でもそれが作られたものでも信じるとなる歴史考証など普通簡単にできないからである。

ではなぜ人間は死ぬのか?
それは哲学でも学問でも解決できない,ただそれは納得させる方法ではある
死を解決する方法は宗教しかない,それもキリスト教しかないかもしれない
「永遠の命」を説いたのはキリストしかないからである
死んで蘇ったのもキリストしかない,それを信じない人もいるし信じる人もいる
それは自由だし無神論者もいるしそれも自由である。

ただ人間は結局今の社会は自由ではある,その自由の責任もとらされるのである。
別に無神論者でも立派な人はいるし宗教団体に入っているような人はかえって
自堕落な人も多い,だから無神論者だからといって人格的に悪いとはならない
むしろ宗教団体にいる人は人格的に相当に歪んでいる悪い人が多い

だから宗教からだけで今や人間は判断できない,もし人格が歪んでいて心も悪いとしたら何宗教でもその人が「心が清い」ものとして神の意にかなう人になるとは思えないのである。悪人は宗教で人はかえってさらに極悪な人間になるというのもそうである。
神の名を語り仏の名を語り悪いことをする人などいくらでもいる
そういう人がやっかいなのはこの世で善人と崇められるからである。
カルト宗教団体などがそうである。
それで宗教から人を判断するのも間違いだとなる

ともかく生と死が極端に断絶しているから問題なのである。死というのが例えば肉体がありその肉体のままにすーと消えてゆくような状態になると違っているかもしれない
骨となり灰となるから生と死が極端に断絶するから困惑する
肉体をもったまま消えるとなると死んで霊界に去ったのだとかなるかもしれない。
そして人間は肉体が消えたときすべてが消えてしまったのか?
そう思う人はいない,そうしたら死んだ人を供養したり墓参りしたりもしないだろう,
以前として何かあると思っているから墓参りをしている,死者が何もないものでもないから墓参りししているのである。

なんか不思議なのは死者に供え物するがそれが一旦供えるとそれを食べるとき何かそこに死者の霊がついたという感じになる
だから食べたくないというのもある,その供え物というとき意外と大事なのかもしれない自分の経験では父親が貧乏で死んでサシミを食べたいというとき病気になり食べたくないといって死んだ,そのことが頭に残っている,だからサシミを供える
何か供えものは死んだ人に捧げるものであり生きている人は食べてならないという感覚になる,それは理屈ではなく一種の直感である。
こういうことを感じるもの死者は完全になくなったものではなく何か存在するものとして感じるからそうなる

死について考えるとき老人になってから遅い,老後の暮らしとかいろいろ考えるがありううるが死については遅い,若いとき考えねばならないものである。
だから若いときの求道が大事になる,その時期を逃すともう求道もできない
すると死の準備とはすでにもっとも生命の盛んな若いときするものであり老人になってからの求道はありえない,つまりそれはまた別な問題である。
青春時代の大事さを自覚している人が本当に少ないのである。
老人の問題は老人になったから起きているのではない,若い時からすでに起きているのだ若者も急速に老いてくるからである。
死とはすでにもう子供の時からもはじまっているのである。
死の恐ろしさを子供のとき見た人はショックである,だから求道しやすいとなる
人間は生まれると共に死がはじまっているのである。
生まれることは死ぬことなのである。
そして死のない世界はある,永遠の生命はある,人間はこの世では死ぬが来世では死なないのである。

人間の矛盾は死ぬために生まれてきたともなる,生を受けたのに結局死ぬことは必定であり逃れられない,そういう生は矛盾なのである。そんなら生まれない方良かったとなる
死がすべて無に帰するとなれば生きてもしょうがないのいのである。
そこから信じられないニヒリズム思想が生まれて最後はやけくそになり銃乱射するような老人も生まれてくる
人間は死んで何もなくなるとなればいかなる希望ももてないではないか?
そうしたら生まれない方がいいし生きていてもしょうがないとなるからだ
進化論とか唯物論とか無神論では何の解決もないのである。
そんなことで人間が納得する人などいないのである。