2017年10月21日

駅から社会の動向を見る (原の町駅は大きいから違う)


駅から社会の動向を見る

(原の町駅は大きいから違う)


昨日は原の町の歯医者に行った,30分くらい駅にいた,そしたらお土産を探しいる人が売店にいた,鹿島駅でもお土産を探している人がいてわざわざ香の蔵まで買いに行った人がいる,ここでも香の蔵のお土産を買った人がいる
何か必ずお土産は必要になり駅では買いやすいのである。
お土産が売れるのは中味もあるが場所なのである。駅がお土産を買うのに一番適しているからだ

次に不動産を探しいる人がいた,いくつもの不動産会社をあたっていて土地が買いないんだよと言っていた,その不動産会社の電話番号に通じないから売店のおばさんにたずねていたのだ
駅はこのように何か聞かれる場所なのである。道案内とかも必要なる
それは自分が鹿島駅で経験したことである。
つまり駅は人が集まるというとき情報のセンターになりやすいのである。
インホメーションが必要になる場なのである。
ただ駅は鉄道だったら案内所があるがそこは鉄道の案内しかしていないのである。
そこに問題がある

何かそうしてコオディネイトするものが必要になる,AとBとC・・・などをしりつなぐ人である。情報関係などマスコミはそうした仕事でもある
いろんなことを報道するからそれを説明するにはいろんな分野の人が必要になるからである。司会者もそういう役目だけどなんでも詳しい人はいないからコオディネイトするのもむずかしいのである。

駅前では立憲民主党が演説していた,あと原発に反対の市民グループが運動していた
定期的に集まり運動しているという。
それから不思議だったのは駅で桜井市長とすれちがったことである。
最初わからなかったが確かにそうだった
原町にいればそういうことはある

鹿島駅だと社会の動きがあるとしてもそれは狭い範囲である。
原町だと社会の動きは大きくなる,だから原町のことはわかりにくくなる
どういう会社があるのかもわからないのである。

社会の動きは肌で感じることも大事である。それで直接演説を聞きにくるという人もテレビで写されていた,今回の選挙でも結局福島一区での候補者を見たこともないし演説も聞けなかったのである。雨のせいもあったかもしれない,昨日はどしゃぶりの雨だったから今年の選挙運動はしにくくかった

ともかく駅から社会を見ることがある,歴史的に見ると原の町は昔のいわきの平機関区と原の町機関区があり原の町機関区だから前は一杯車両が並んでいたのである
その時は蒸気機関車の時代でもあった,その時高校だったから自分は通っていた
それから自分の大正生まれの母親は原町紡績で働いていた,その原町紡績に引き込み線があった,直接鉄道で運んでいたのである。
そして自分の異父の兄は集団就職だったから原ノ町駅から行ったとなる
でも40才で交通事故で死んで実家の墓に埋まっている

原ノ町は自動ドワにもなっていない,大きな梁が天井にあり古い建物のままである。改築していないのである。
ただ原ノ町駅と鹿島駅ではずいぶん違うなと思った
原ノ町駅だと人事的なものだけになってしまう
鹿島駅だと自然が反映する
駅前には切られたけど八重桜が咲くの特徴だった,今でも一本は残っている
今は秋薔薇が咲いている,ホームの近くに合歓の花が咲いたり今は柿がなっている
虫の声も聞こえたりする

それで俳句を作ったりする

駅に会う地元の人や柿なりぬ

これが原ノ町駅だと自然が反映しなくなる,都会の駅になる,その相違は大きい
そこに風流がなくなってしまうのである。
ただ社会の動向を見るにはいい,鹿島駅では限られているからだ
それで渡り廊下で桜井市長とすれちがったのもそうである。
小高の方から来たらしい,どんな活動しているのか?
何かそうした活動を肌で感じられば社会の動きがわかるとなる
人間は今は何か情報社会でも肌で感じることが少なくなっているからだ

南相馬市と合併して歯医者に行ったら後期高齢者ではないがカードが配られていた,今までは3割負担だったが2割負担になるカードが市役所から配られていた
それがないとうけつけできないと言われたが市役所がすぐ近くなのでそこで事務手続してくれとなった,でもハンコとかないのでできなかったが市役所の人が連絡して了解してもらった,これは南相馬市に合併したからできたことだったのである。
事務手続きは南相馬市内ならどこでしても同じでありできるからである。
そういう点は便利になっていたのである。
合併していい面と悪い面が生まれたことは確かである。

明日は選挙だけど何か今度の選挙は何が争点なのかわかりにくい,野党が一本化しなかったのもわかりにくい,この辺は原発では反対である。でもその他はみんなまちまちである駅前で原発反対していた市民運動の人は鹿島が補償金のことで分断されたことを言っていた,それは深刻なものであり南相馬市の一体化が失われたのである。

タグ:原ノ町駅

ベーシックインカムに自分は賛成 (嫌々ながら仕事している人が多すぎる)


ベーシックインカムに自分は賛成

(嫌々ながら仕事している人が多すぎる)



ネットがざわついた「ベーシックインカム」に希望はあるのか?


希望の党がベーシックインカムを一応実施するのは別にして取り上げただけでもやはり先進的なことかもしれない,そんなもの空理空論であり馬鹿げているというので取り上げることもしなかったからである。
それは全くの理想論でありとるにたらない空想にすぎないとなっていたからである。

でも現代のゆきづまり社会の変化に対応できるものとして今とりあげられている
現実にスイスとか小国では実施されているのである。
これも賛否両論がある
例えば武田邦彦氏などは反対している,それは彼がエリートであり底辺層のことを知らないからである。底辺で働いたこともないからである。

自分は若い時は流れ作業とか底辺の仕事しかしていない,大学のアルバイトでも底辺の仕事,肉体労働しかしていない,武田氏くらいの東大卒のレベルだと家庭教師でかせげる
要するにこの世にそうしたエリートは少ない,みんな俺たちは社蓄なんだ奴隷なんだとなっているのが普通である。働くことでもそう感じているのである。
働くこと自体に生きがいを感じていないのである。

自分はそうした底辺労働,流れ作業などばかりしていて完全に労働意欲を失った
それはロボットと同じ仕事だからである。三流大学でも出ているのにそんな仕事しかしたことがない,だから社会からドロップアウトすることになった
その後はこれも実に不思議なのだけど仕事していない,それも老人になるまで仕事はしていない,稼いでもいない,旅ばかりしていたともなる
そういうことが許される環境にあったからそうなっていたのである。

それも自分には自分にあった仕事が与えられない得られないということにあった
そういう人の方が世の中の大半なのである。
だから奴隷なんだ,社蓄なんだと言うことになる

だからAIとかロボット化は人間にとって悪いものではない,誰も流れ作業などしたくないのである。一つのネジをボタンをひたすら組たてる仕事に生きがいを見いだせないのである。家だったら大工でも一人で家を請け負い作った人がいる
そうできる人はやはり大工として生きがいを感じるのである。
農業も金になちらないとかいうけど生きがいを感じる仕事なのである。

だから知っている人は趣味なのだが小さい畑で仕事していることに生きがいを感じているしそれがその人の価値になっている,何もしなければその人の価値がなくなるからだ
ただ金にならないというだけでその人に不本意な仕事をすると奴隷だ,社蓄だとなる
今そんなことができるのは家事自体仕事がなくなっている
機械化しているしもう買ってなんでもできる,この前けんちん汁の材料が売っていた,汁もついていた,肉を入れて簡単にできた,それがうまかったのである。
これには野菜が入っているから自分は好きだったが食べることができなかったができたのでうれしかった,家事は一人暮らしでも困らないのである。
だからその人はただ話し相手とかにきて畑のことを話すのが仕事だともなる
家事の仕事は皿に二三枚洗うだけだから必要ないからである。

これはAI化すればますますそうっなってくる,人間から仕事がなくなってくるのだ
すると人間が何をするのかということになる,知的な分野でもそうなる
ビッグデーターは素人でも学者になりうる,古代史関係で自分はそれを利用した
ビッグデーターになると膨大な地方史や古代の情報をキーワードから調べると見えてくるものがあったので書いた
ビッグデーターから自ずと見えてくるものがある
そういう利用の仕方は図書館でも何でもできなかった
今は本も古本だと安いからボタン一つ押して本を集めビッグデーターとのように活用しているのである。

そういうふうにAI化で社会も変わってくるのである,それに適応するには時間がかかるがベーシックインカムを将来の政策として検討したことには意味がある
そしてオリンピックなどは今の時代にもう何のためにしているかもわからないものとなった,今までは何か世界的に意味があるものとして行われていたが今はその必要性がなくなってきたのである。
だから時代と共に人間の社会は変わりそれに適応してゆく政策も必要になる

ベーシックインカムはいろいろ問題があるしそんなこと実現しえようがないというのもわかる,誰も働かなくなる怠け者になり遊ぶだけの人間になる
それもありうる,でも働く人は働く,なぜなら退職した人がいかに働きたいか?
それでボランティアを探してしていることでもわかる
ボランティアは金をもらうためではない,生きがいのためにしているからである。
まさにその時こそ人間は働いているのだ。自由意志でボランティアで働いているのであるそれはベーシックインカムを実現していると同じなのである。
退職して金に余裕があるから時間にも余裕があるからできるからである。

だから豊かになればベーシックインカムが架空のことではない,現実味を帯びてくるのである。全く荒唐無稽なことでもない,現実に退職した老人がそれを実行しているではないかともなるからだ。
自分のしていることもそうである。プログで書いていることはボランティアであり何の収入も得られないけど生きがいを感じるかからしているとなる
芸術的創造とか人間は創造的行為となると無料でも金をはらってでもしたいのである。
つまりそれが極めて人間的なことなのである。
画家でもなんでも芸術を追及するとき絵が売れないとか金にならないとかなる人が多いからである。そんなことを関係なく創造を追及できるのがベーシックインカムとなるからだこの理想もまた現実でくじけたりすることはある,でも現実的にそういう条件が調ってきたとき実行してもいいとなる。そういう環境がAI化などで調いつつあるからこそ今や空理空論でもなくなりつつあることは知るべきだろう。

posted by 老鶯 at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

斉藤茂吉の馬の短歌を読む (野馬追いに思う忘れられた馬のこと)


斉藤茂吉の馬の短歌を読む

(野馬追いに思う忘れられた馬のこと)

nomaoiii12.JPG

馬屋のべにをだまきの花ともしらにをりをり馬が尾をふりにけり

にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭馬頭(ごづめづ)どもの追い行くところ

馬車とどろ角(くだ)吹き塩はらのもみづる山に分け入りにけり

ほしくさの馬車なみ行きしかば馬はかくろふ乾くくさのかげ

しんしんと行きふるなかにたたずめる馬の眼(まなこ)はまたたきにけり

馬子ねむり馬はたたずむ六月の上富坂のをつかれてくだる

三宅坂をわれはくだりぬいななかぬ裸馬一つ淋しくくだる

馬一つ走りひびきて来るまの墓石店まえに泥はねかえる

あたらしき馬糞ありて朝けより日のくるるまで踏むものなし



おさなごの馬の貌(かお)なづなごむかな相馬の里の秋の日暮れぬ

野馬追いに馬いななきてよみがえる馬ありしとき糞もするかな

その旗のほこらしきかな同類の旗印の馬駆けてくるかな


人間は時代がすぎるとその時代のことがわからなくなる,相馬野馬追いというとき旗祭りとも言うがまた馬の祭りなのである。
ところが馬というものがわからなくなっている,でも戦前から戦後何年かは馬車屋とか馬を運搬のために使っていた,子供のとき馬車の後ろに乗って遊んでいたからである。
馬車はまもなくして消えた,でも馬との生活は人間には長い,それが馬はもはや生活の中にはない,だから野馬追いのときあれだけの馬が集まることで馬があった時代を思い出すのである。馬はあとは競馬馬の馬になってしまったからだ

斎藤茂吉の馬の短歌は集めたがこうして馬は活きていた,東京でも馬がいた,上富坂とか三宅坂がそうである。馬は運搬のために欠かせなかったのである。
野馬追いのとき馬糞が道に残る,これも馬とともに暮らしていたときは普通の光景であるそれで嫌がる人もいる,現代は馬のことがわからないから嫌悪感を感じる
でも牛舎では今でも汚いからにたところがある。

馬屋というものがあり曲がり屋として有名である。馬と一つ屋根の下で暮らしていたのである。曲屋は今でも会津辺りにまだ残っている,そこで生活している人もいる
牛はまだ肉にするにしろ牛乳にするにしろ生活の中で活きている,でも馬は野馬追いとかギャンブルのなかでしか活きていない,だから馬のことがわからなくなったのである。

この辺では馬を野馬追いのために飼っている,それで親しむことがある
子供が馬となじむこともある,だから他とはここは違っている
そうして馬でも牛でもいると情がはぐくまれる,相手が生き物だからそうなる
機械だと車などになると愛車となるが生き物のようにはならない,毎日のように交通事故がありぴりぴりしてぎすぎすしたものになる
そして切れる人間が生まれる,車は何か突然突っ走ってきて走りさるから切れるのであるそこに人間的情をはぐくむものがない

そうなると人間はどうなるのか?人間に情が失われて人間が残酷になってゆく,非情化してゆくのである。子供のときから動物と接していると情がはぐくまれることは確かである今はペットがその代わりをしているのである。

斎藤茂吉の歌は戦前のものが主でありそこに当時の生活が歌われている,それはあくまでも当時の生活の中で歌われたから今はそういう歌は作れないのである。
今の馬が野馬追いのときとか競馬でしか活きていないからそうなる

馬はそもそもモンゴルの草原のような場所にあっている,どこまでも疾走していける平原にあっている,だから馬の原産地は草原とか平原なのである。
とにかくこの辺は馬と縁ある場所である。馬を考える場所でもある
そこに野馬追いの祭りの意義がある

馬も津浪で流されたりして被害にあった,右田の牧場のあったところも流された
そこで見たのがおさなごと少女か馬の顔をなでていたの光景だった
他でも馬を津浪で流された家があった,この辺ならではの被害だったのである。
他に牛も流されたりしたのである。牛馬の被害もあったのである。
だから慶長津浪では馬も死んだと記してあるのである。

南部藩・津軽藩の海岸でも「人馬死んだもの3000余」という記録が残されている(『駿府記』

人馬というとき人間と馬が一体だったからこそ記されたのである。
posted by 老鶯 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2017年10月22日

世の中なんでもケースバイケース (介護もあらゆる問題がそうである)


世の中なんでもケースバイケース

(介護もあらゆる問題がそうである)


人間社会の問題は数学のようになっていない,数式で解くようになっていない,統計学があり平均的なものとして社会を見る,それも一つの手法である。
それでは万事をみることはできない,例外的なものは必ずあり無視することになるが
その例外のなかに重要なものがふくまれているかもしれない。

なぜ長生きするととしない人がいるのか?
この原因を探ってゆくと個々別々であり何が原因なのかわからなくなるだろう
肉を食べている人が多いというのは良く聞く統計的なものとしてあるからそうなのかともなる,でも必ず肉を食べない人も野菜中心の人でも長生きしているかもしれない。
そして人間の健康とか体はみんな同じではない,顔違うようにみんな違っているのだ
だからその人に合わない食べ物がある

自分はラーメンはほとんど食べない,それがスーパーで食べたらインスタントのレンジであたためるだけのラーメンを食べたらはいた,実際にそのラーメンはまずかったのであるそれはもしかしたら自分の体に合わないで吐いたのかもしれない,自分は吐いた経験が何十年とないからである。
人間は好き嫌いだけでなく食べられないものがある
自分の母親はサンマが嫌いであり食べない,でもイクラが好きであった
自分はイクラが食べられない,気持ち悪くなるのだ
最近スーパーの弁当をみると必ずイクラがのっているので困っている
人間には明らかに好き嫌いではなく生来体に合わないものを受け付けないことがあるのだ
人間の問題の複雑さはこのように健康で体でも個々に違ったものなのである。
その個々にあったように社会はしてくれない,みんな一様に平均的なものとして対処する教育でもそうだし個々人は相当に違ったものなのに平均的教育しかしない
それでその人の個性は埋もれてしまう
第一人間は自分の才能すらわからない,何に才能があるのかもわからないのである。
老人になってから自分の才能を発見することだってある
最近自分がインターネットではじめた抽象画がそうである。
絵を全く描けないのに絵を描いているという不思議があったからだ

社会のむずかしさは個々別々な問題として現れる,警察の職務質問のことで抗議したが
警察では「あやしい」と通報されれば何であれ理由も聞かずにかけつけて職務質問するという,それは個々別々の対応はしないのである。
ところがそれに自分が怒ったのはその時ちょうど駅に人が集まっている時であり職務質問されたら周りの人がどう思うかである。
なんだこいつあやしいいかがわしい人なのかと見られてしまうのである。
警察ではそのことを言ってもとりあわなかった
これも個々別々の問題として人間があるからそうなる
そして自分は駅に前のように自由に出入りすらできなくなったのである。
またあやしいと通報されたら来ると言ったからである。

あらゆる問題がケースバイケースなのである。介護にしても個々の事情が違っている
例えば延命治療などしない方かいいということもあるしないこともある
医者でその判断がむずかしいから延命治療している
それは個々の事情が家庭でも違ってくるからそうなっている
介護でもだから80才なったら安楽死させろとはならないのである。
別にピンピンしている人もいるし社会に貢献している人もいるからである。
逆に安楽死してもいい人はいるのも事実である。本人もそう了解している人もいる

現代社会は個々に対応する力が弱まっている,江戸時代の方が寺子屋で自由があり個々に対応していた教え方をしていた,学校になるとみんな一律なものとして平均を追及するようになる,平均点が大事になる,学校の目安も平均点なのである。
人間を統計として数字として見るのが現代なのである。
選挙でも数は力となる,それで権力を得るのだからただ数を集めることに奔走する
宗教でも数である,数が集まれば社会の影響力がまして権力を得るからである。

江戸時代あたりだと狭い範囲で生きていたから個々別々の対応ができたかもしれない,なぜならその人のことを知っていたからである。
て長屋でもみんな長く住んでいた人が多いのである。移動しないからその人のことを熟知するから個々別々に対応できたともなる
現代はケースバイケースに対応することが本当にむずかしい社会である。
ところが何でもそうしないとうまくいかない場合がある

家族でもみんな事情が違っている,これが家族なのかという家族もある,それは絶対に他から理解できないものなのである。
まず自分の家族を理解できる人はいないと思う,そういう家族もある
だから人間の不幸がみんな違っているというとき家族がみんな同じような家族ではないからそうなるのである。
その個々の違った家族の事情から問題が起きてくるから一様に対処できないのである。

認知症などもみんな同じ症状ではない,生い立ちとか性格とか環境とかでみんな違っているのである,だから同じように対処できないのである。
同じ薬をのませてもいいというわけではない,その家の事情を知ることが必要になる
しかしそれを知ることが容易ではないから問題が起きるのである。
かかりつけの医者だとそういう事情がわかることがあり対処しやすいということはある
大きな病院だとその人のこをここに理解することがむずかしくなる
つまり現代は大きな病院でみるようになっているから個々にケースバイケースとして対応できないのである。

雨の中で投票してきた (田舎では車がないと投票もできない)


雨の中で投票してきた

(田舎では車がないと投票もできない)

街内であり投票所が近くにあるから行ってきた,田舎ではこの雨では街から離れたら車がないと投票もできない
街内でないと一人暮らしは不便であり車がないと現代の生活は不便になる
田舎では一人一台車をもっているのだ

別に自分は投票もしたない,棄権したいのである。特別入れたい人も党もないからであるでも棄権したことがないのは何か具体的に選挙のとき政治を考えるからである。
やはり一票をどこに入れるかは大勢には何の関係ないにしても政治を直接に具体的に考えるものとしてあるからだ

だからどうせ一票など何の影響もないともなるが選挙は具体的に政治を考える場として投票しているのである。
この辺ではどうしても原発は反対になる,それは理屈でもなんでもない,もうこれだけの被害にあったらこりごりだとなってしまったからである。
だから自民党には与党には入れにくいのである。

選挙も蓋をあけてみなんと結果はわからない,今回の天候の影響がどうでるか?
悪天候のありには前より投票率がいいみたいだ
やはり関心があったのか?投票率がいいことは浮動票が反自公の票になるのか?
希望の党はずいぶんたたかれたけどそれはマスコミの恣意的操作だという人もいるからわからない

自分は公明党には納得がいかない,創価をやめた人は普通は票は入れないたろう。
やめたら地獄に落ちるとなっているからだ,でも創価でも今回は票が割れるかもしれないそうなれば宗教で決めないから政教分離だとなる
ただ創価も高齢化している,勢いがなくなっている
それはすでにずいぶん前から頭打ちになっていたのである。
選挙と信仰を結びつけるのは限界になるだろう

ただ野党には政権担当能力がないのである。なぜなら政権担当を経験していないからである。だから民主党は失敗したのである。
政権担当にもノウハウがあり積み重ねがある,するとそういう経験がないのだから失敗に終わった,つまり自民党しか政権担当能力が日本にはないのである。
アメリカだったら民主党と共和党が交代してもどっちも政権担当能力がある
日本で野党にはないのである。
だから一党独裁のような政治が延々とつづいてそれに代わるものがないのである。

確かにアメリカでもこのように支持基盤があり二大政党が成り立っているというとき日本にはないから自民一強政治がつづいている
イギリスでも資産家とう富裕層と労働者層が分かれているから二大政党制が成り立つ
それはもともと貴族階級と庶民階級は言葉も違うほど分かれていたという歴史が反映されているのである。
アメリカの民主党でも共和党でも南北戦争がありその継続としてもある
日本にはそうした地域の対立とか階級の対立がないのである。
労働者でも組合となるとかえって資本家寄りだとかなる,組合にも入っていない人が多いからである。

もしこの悪天候で投票率があがったら現政権にやはり不満な人が多いことがわかる
どうしても一票を投じてその不満を現したいということで投票率があがる,浮動票が入るからそうなる
だから前の選挙より投票率があがったら確実にそうである
こんな悪天候でもこれだけの投票率だとなるとその評価は違う,今回は悪天候を考慮した評価が必要になる。
天候は政治にも歴史にも影響するのは現代でも同じだった
それも天の采配とかなる,この天候だけは人間の力ではどうにもならないからである。
posted by 老鶯 at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年10月23日

急な解散で混乱して野党が負ける (急(せ)いては事をし損じる)


急な解散で混乱して野党が負ける

(急(せ)いては事をし損じる)


今回の選挙ではいろいろな見方がある。やはり希望の党が今回は中心になり小池百合子がクローズアップされた,台風の眼となった
それで小池百合子のことがいろいろと一番言われたのである。
その人格とか人となりも言われた,それが何か違っていた

小池百合子が東京都議選で大勝したことで奢りになったとか慢心したとか言うのは本当だろう。それが私が政治家として有能であり選ばれたと勘違いしたのである。
東京都議選では東京都議会の腐敗を一掃するということで選ばれたのであり小池百合子が優秀だからでもなかった,それを自分が政治家として優秀だから勘違いしたのである。
そして何か自分への人気投票のように錯覚したのかもしれない,私の人気は抜群なのね,これなら衆議院選挙でもやっていけると勘違いしたのである。
そこで自分には何の力もバックも組織もないのに東京都議選と同じ結果がでると思ったのである。

それで「排除」の論理も生まれた,私には力がある,私の力だけでもできると慢心した,政策を中心にして排除したのは理解できる,ただ私が中心なのよ,私の力で勝てると慢心したのである。
それから何か必ず諺というのが活きてくる「急(せ)いては事をし損じる」であった
あまりにも急な解散は急襲だったのである。それで野党陣営はまとめられなかった
それも小池百合子は最初は自分の人気で勝てると思ったのである。
小池百合子中心にすすみまるで小池百合子の人気投票のように自分自身が思ったのかもしれない,テレビのアナウンサー出身ということで芸能人だからそういう感覚があったのかもしれない,小池百合子にはそうした指導力はなかったのである。

選挙というとき何か一人物のことがまるで信長と秀吉とか家康とかのように影響することはないと思っていた
今回は小池百合子の動向で決まったということもある,それほど一人物が注目されたのである。だから小池百合子は都議選で大勝して慢心していた
私への人気投票のように選挙結果を見ていたのである。
人間は何でも奢るとかおかしくなってくる,それは国全体とか会社でも個々人でもそうである。

民主主義は一人の人間を偉大な物として祭りあげたりしない,一人一人の投票の結果として選ばれるのだから主権が国民にあって選ばれた人にはない制度なのである。
だから中国のように習金平のように自分の功績を延々と言って自分が王様のようになる共産主義とは違うのである。共産主義下でもまず政治は自分の力で何でもできるものではない,そういう奢りが必ず権力者にはもたらされるのである。

いづれにしろ「急(せ)いては事をし損じる」というとき最初から大勝して首相をねらうということではなく小さくても希望の党の基盤を作ってから首相になることをねらうべきだったというのもわかる
人間はまた何でも人はあせるのである,文学者でも何でも早く賞をもらって有名になりたいとか常にある,人間は待てないのである。

ただ小池百合子の場合年でありもう待てないとういことが急いだことにもなる
そして人生の中でチャンスは一回逃したらあとは来ない
それで小池百合子は東京との知事をやめて阿倍の対抗馬として希望の党の先頭に立ち国民に首相の選択させるべきだったというのもかる
おそらくもう首相になるチャンスは来ないと思って決断するべきだったともなる
人間はワンチャンスで未来が決まる,そのワンチャンスを逃すと二度とチャンスは来ないのである。もう小池百合子にはそれだけの時間が残されていなかったのである。

人間はここが勝負時だというとき賭けなければあとはチャンスがない,小池百合子にはそのチャンスがめぐり与えられたが逃したともなる
だから何か今回は小池百合子の人間的ドラマだったのかともなる
そしてそのドラマも終わったのかともなる
posted by 老鶯 at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

抽象画ができる過程 (The process of creating an abstract pictures) 抽象画ができる過程 (The process of creating an abstract pictures)


抽象画ができる過程
(The process of creating an abstract pictures)

それは決まったソフトの使用で作られる
(It is made with the use of fixed software)


MMMFORESTTT123.JPG
Forest of the morning light

flowforesttt11.jpg



moonshdowww111222.jpg
Moonlight Forest


Autumn forest

autumfff11.jpg

autummmmforest.jpg

autummmmforest222.jpg

waterfalllllllllll1.JPG

waterfallll123.jpg
Phantom waterfall

streamffff123.jpg


抽象画できるのはソフトの一部の使用で決まる
例えば

森を作る過程

A(オリジナル作品)→B(ソフト)→C

川作る過程

D→F(ソフト)→J

山を作る過程

H→H(ソフト)→I

この過程の操作は決まっている,ソフトでもある一つのソフトが有効になる
あとは使いないものが多いのである。

だから抽象画を作ることは創作とも違う,化学変化とにているのだ
だからこそ大量に生産できる,何かイメージが湧いてきて創作しているのではないからだそれでこんなことが芸術なのかという疑問がある

ただ材料はインターネット上で写真でも何でも豊富だから変化するものも無限だとなっている


The process of creating an abstract pictures

It is made with the use of fixed software


It is determined by the use of a part of software that can abstract
For example

The process of making forest

A (original work) → B (a part of software) → C

River making process

D → F (a part of software) → J

Process of making mountains

H → H (a part of software) → I

The operation of this process is fixed, one soft software is effective
Many things are not used afterwards.

So making an abstract picture is different from creation, and it is based on chemical change
That's why we can produce in large quantities, because some sort of image has not gotten up and created, so there is a doubt whether this is art or not

However, since materials are abundant in photographs on the Internet, things that change are becoming infinite

2017年10月24日

小池百合子の失敗 (臨機応変に対処できない)


小池百合子の失敗

(臨機応変に対処できない)

人間が生きることがむずかしいのは常に変化するからである。
小池百合子の失敗は都議選で大勝利したことである。
そのとき慢心した,自分の力を過信してしまったのである。
その人の政治の能力があり支持したのではせなかった
都議会議員に不満があったから支持したのである。

今度は国政選挙になり野党連合という新しい事態が生まれたときそれに対処できなかった
それは都議選とはまるで違った状況になっていたのである。
でも小池百合子は都議選と同じように自分の人気で風が吹くと思っていたのである。
そこちる慢心と誤算えあり対応できなくなった

この世とは絶えず変化している、その変化に対応できないのである。
信長が勝利したのは臨機応変だったからである。桶狭間の急襲で勝利したのもそうであり長篠の戦いで武田軍を鉄砲隊で勝ったのもそうである。
秀吉は明智光秀の謀反を知り四国から兵を引き上げて明智を撃った、その速さは奇跡的だったのである
つまり臨機応変に対処できたから勝利したとなる
つまりそのときどういう状況かのみこむだけでも大変である。
でもとっさに行動したからこそ天下をとったとなる
その変わり身の早さは信長と共通していたのである。

当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。
 次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。
 三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。
 
これは史実ではないにしても幕末にはそういう急激な時代の変化があったからこんな話が残されたのである。
何か時代の変化は急激に起きる,それに臨機応変に対処できないのが人間なのである。
今回の選挙でもそうである。急激な解散に野党は対処できなかった
でも小池百合子が臨機応変にく対処していたら首相にもなれたチャンスでもあった
そしてチャンスは何度も来ない、小池劇場は終わってしまったとなる

臨機応変ということは本当にむずかしい、だからこそ急襲が効果があるのである。
阿部首相の戦略が功を奏したというのは結果的にはなった
まず個人的に急激に起こることは対処しにくいのである。
民進党の希望の党への合流にしても簡単にできない、何になんだとすぐには理解できないのである。
だからそれに無理があった、でもチャンスでもあった
そのチャンスを小池百合子は逃したのである。

臨機応変とともに人間社会はケースバイケースなのである。同じケースがないということである。
怪しいと通報があり職務質問するのすべてしいいのかとなるといくら決まりになっていてもしてはならないケースがある、それで被害を受ける人もでてくる
でも警察の場合は権力があるからできる、そして市民はそのために被害者になり警察不信になる人もいる
そういうことはあらゆることで起きている、医者にしても本当は人間の体もみんな違っていてケースバイケースに対応が迫られる、認知症の人などは特にそうである。みんな症状が違うし家庭環境も違うからである。
そのために失敗するのが人間なのである。

政治のむずかしさは国際情勢が日々変わるから対応できなくなる
中国が遅れているとみていたらすでに日本より技術的に前に進んでいたとなる
すると前のような対応では失敗するのである。
ともかく今回の小池百合子劇場でもこういうことが起きた、都議選のときとは状況が違っていたことで対処誤ったのである。成功体験でかえって次に失敗するものそうである。
同じ状況ではないから同じように成功するだろうとはならなかったのである。
臨機応変,ケースバイケースに対応できない、それで失敗するのである。

洛陽城東桃李花  洛陽城東 桃李の花
  
      飛来飛去落誰家  飛び来たり飛び去って誰が家に落つる
  洛陽女児好顔色  洛陽の女児 顔色好し
  行逢落花長歎息  行くゆく落花に逢うて長歎息す
  今年花落顔色改  今年花落ちて顔色改まり
  明年花開復誰在  明年花開くも復た誰か在る
  已見松柏摧為薪  已に見る 松柏の摧けて薪となるを
  更聞桑田変成海  更に聞く 桑田(そうでん)の変じて海と成るを
  古人無復洛城東  古人無復洛城の東に無く
  今人還対落花風  今人還た対す 落花の風
  年々歳々花相似  年々歳々、花相い似たり
  歳々年々人不同  歳々年々人同じからず
  寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子
  応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁 
  
  
  桑田(そうでん)の変じて海と成るを
  
この辺が津波で本当に桑田が海になったのである。このように人間社会は変化が激しいのである。
だからこそ臨機応変に対処すること変化に対応することがむずかしいのである。
人は同じではない,常に変わっている、親戚もいつまでも親戚でとはない、結婚したりして音信も途絶える
近隣の人でも変わりやすいのである。いつのまにかに知らない人になっている
現代は特に人間関係は変わりやすいのである。
この辺は特に原発事故で故郷まで失ったからその代わりようは信じられないとなる
posted by 老鶯 at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

今なぜ本が問われるのか(2) (インタ-ネットにはない本の特徴)


今なぜ本が問われるのか(2)

(インタ-ネットにはない本の特徴)

pagesun111.jpg
冬日さしペ-ジをめくる厚き本


●本をテ-マにした短歌や詩


瓶にさす藤の花ぶさ一ふさは重ねし書の上に垂れたり 子規


売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木


本を読むならいまだ
新しいをきりはなつとき
紙の花粉は匂いよく立つ
外の賑やかな新緑まで
ペエジにとじこめられているようだ
本が美しい信愛をもって私を囲んでいる
室生犀星


タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ 明日はもう秋だ

ー西脇順三郎「秋」
lonecha11111.jpg

本に埋もれる老いの至福

寝ころびながら本をぱらぱらとめくる
自分が引用できそうな文をマ-クする
その詩に洞察に感嘆する
寝て座って立って所を変えて読む
時には廊下に冬の日がさして
分厚い本のペ-ジめくる
そのペ-ジに冬の日がさしている
随分この本も古くなったと
我が古い友のような本もある
我も古くなった本のよう老いる
何度も読んだ本は古酒のようになっている
夏の夕ぐれ日はまだ明るい
本は人類の知恵の宝庫
私は居並ぶ賢者と芸術家とともにいる
私は今やそうした歴史上の人物と対等
なぜなら即座に深く読める
その一文を自分の文のようにとりこめる
丁度オ-ケストラの指揮者のように
それぞれの楽器を深く理解できる
鑑賞力が増せば深まれば
その味わいはまるで違うものとなる
一なるものが十にもなる
くめど尽くせ知恵と美が本にあり
私の時間は至福に満たされる

lonecha11111.jpg
●物としての本と電子空間の本の相違


詩でとりあげたように本というのは電子本との相違はまだ良くわかっていない、本が何であったのかなどと問うこと自体それが電子の世界になったとき問われるようになる。本が最初は文字が作られたときからはじまったというときただ文字を印すものが煉瓦だったり粘土だったり竹だったりとしていただけであり紙に印されたとき今の本ににた形になってきた。本の前に文字が作られたことであり文字があって本がありえた。文字でも何か印されることによって残ることができる。すると木に印されるよりは石に記された方が後世に残りやすい、石に記されると何か文字に重みがでてくるというとき石の重みがそうさせているのだ。文字は別に何に記されても同じなはずだが石に記された文字は重みがでてくる。それは文字に重みがあるというより記された石に重みがあるからである。本でも装丁が美しく重い本だと中味もあるように思えるのと同じである。


鉛筆にバラモンのにおいがする・・・という詩でもこれは本にもあてはまる。紙の材質によっては紙の手触りから本を読むことはバラモンのような特権階級のように思えてくる。本は高いものがそういう感覚にもなる。文房具にこるのもわかる。筆がいろぽす発達したのはそのためである。本の世界はそれだけ特権階級的なところがあった。だから普通の人でも一生に一冊本を出したい、成功した人が大金を出して自費出版するというのが成功の証でもあった。それほど本というのは普通の人には高根の花だったのである。それを商売にしようとする出版社がふえた。今でも流通面では本は普通の人には書店に並べられない、でも本を作るのは今や素人でもパソコン上でもできる安上がりなものとなっている。本にもいろいろあり本の大きな価値は流通面にあった。本を作ることができても普通は流通はできない、大手出版社とかの許可がなければ近くの本屋でも置けない、そういう仕組みになっているのだ。だから情報が操作されるということがあった。原発の危険を指摘した本が隅に追いやられて何か特殊な奇人の空想的なものとして真面目にとりあげられていなかったのである。情報は権力あるものによって操作されている。それは本の世界でもそうである。

何故なら取次ぎなどは戦後アメリカが情報を検閲するために作られたのである。本と流通の問題は別なのである。グ-テンベルグ時代に本は簡易に作られ普及して流通したからこそ革命になったのである。その時代に流通した本は少ないにしても仏教寺院で修道院でしか仏典でも聖典でも読めない時代とはあまりにも違う社会となったのである。現代では逆に本は中世の写本のようにして残る。
装丁にこり一冊しかないような芸術品として残る。ただ中味は電子本で流通することになる。本とは普通の人には流通できないし本自体流通にはむかないので出版社も書店もなくなる。すると最後に残るのは本の芸術性を追求したものとなる。それは図書館に絵のように保存されたりする中味は電子本で読むのである。


●本と電子本との相違にまだ気づいていない


本とは何なのか?そう問うこと自体が電子の世界化、インタ-ネットで改めて問うようになった。だから本とは何かとなるとなかなかわかりにくいのだ。本は文字だけでなく物としてありだから材質にこだわったりする。物としてのフィテシズム、愛書家も生まれる。物だからそうなる。自分も本を読むというより本の蒐集家でもあった。20代から書斎をもっていたから恵まれていた。ただ若いときは本は集めても読んでも深く読めない理解できないのであるがでも相当集めた。郷土史関係の研究でもまず本を集めないとできないということがあったのだ。だからある程度手元に本がないと研究もできないし文章を書くこともできない。ものを書く人はどうしても書斎が必要だし思索の空間も必要である。それがわかったのは今まで狭い所で書き物して読書していたことでわかった。今は広い部屋で読書している。それで気づいたのが本というのは自然の外界の反映がある。インタ-ネットの空間にはそうした外界の自然の反映はない、分厚い本を開いたらそれで風がそよぎペ-ジがめくれたとか、冬の日がさしてきたとかない、ただ電子文字と写真やビデオの空間なのである。

このことは意外と大事だった。夏なので外がいつまでも明るいなと思って読書しているときその明るさは昔だったらその明るさが部屋の中に作り出されて書院作りができて障子ができて本も読めるようになった、書き物もできるようになった。襖とかでしきられていたら中は暗いからできなかったのである。電気がないのだから明るさは自然の光で自然の中でこそそうした本を読むとか書きものとかをすることができたのである。東雲(しののめ)はしのは竹であり昔の家は竹でできていてその篠の朝に上ってくる日がはじめにさすから東雲となったというのも家というのがやはり人間の中心にあった。知的作業にはこうして書斎とか家が必要なのである。そういうことは田舎ではしやすい。あとは庭があればいい、息抜きするためである。


平安中期から以降になるとさかんに書物を読むようになる。読むばかりではなくて昔のことですからそれを筆写しなければならない。そうするとこれはかなりの明るさをもたないとそれができません
しかも風が吹き込むような家では困ります。
そういう中から襖を薄い紙でもってはる、いわゆる明かり障子とういものが作られようになった
(宮本常一)


このように本というのは電子本とは相当に違ったものであり本とは何かというときそれが良く答えられないのはそのためなのである。その大きな特徴が本が物としてあるということなのだ。物としてあるから流通するには不便なのである。自分の家が本で傾いたというのはそのためである。本の不便さはいろいろある。本は手元に奥には限られたものである。すると知識も極限られたものとなってしまうのである。それは物だから置くには限度があるからだ。ところ電子空間では物ではないから無尽蔵に置ける、ゴミになっても一瞬にして消し去ることができる、それがかえって電子本は文字に重みを与えないものとなっている。電子の世界では書くということも違っている。書きながらキ-ワ-ドで書くことを追加したり書きながらアイデアが自然と生まれてくることがあるのだ。そういうふうに書き方も違ってきている。ともかくいくら書いても重さもないから誰の負担にもならない、誰の負担もかけていないということが不思議なのである。本一冊を流通させるには相当な負担がかかる、だからそれを商売にだけしにらうとするものは売れないものは扱いたくないとなる。こんな売れないものは置いてどうするんだとなる。でも知的なものの価値は誰かに何かを伝えるということでもあるから別な価値観を本の世界には知的情報の世界にはあるべきだったのである。それがインタ-ネットで開けたのである。


売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木


本はこうして誰かが読んでいるものをまた読む、この本は誰かが使ったのだなと思ってよむ。しかし電子空間にはインタ-ネットには物ではないからそうしたものがない、電子本の世界には古本になることはない、物ではないから古くならないのである。本だったら必ず40年くらいすると表紙がはがれたり紙が汚れてきたりする。いんづれは読めなくなったりする。電子本にはそういうことがない、劣化することがない、でもソフトで読み出せないという恐怖がつきまとっている。一瞬にして消えるということがある。現実にレンタルサ-パ-でそういう経験をしている。復旧したから良かったが他では消えたらしい,そういう怖さが電子のインタ-ネットの世界には常にあるのだ。

本のことを語ったらきりがないだろう。それだけの歴史が本にはあるからだ。インタ-ネットの世界はここ十年とかしかないのである。だからインタ-ネット自体何なのかということもわからないのだ。ただ本は一か月で書店から消えるけど次々に別なものが置かれるけどインタ-ネットの世界では発見されないにしろそのまま残っている。一見消えやすいのだが記録として残りやすいのも電子空間だという不思議がある。いくら貯蔵しても検索で邪魔になるにしても電子空間では無尽蔵の蓄積が可能なのである。ゴミになるといっても週刊誌、新聞などはずいぶん紙の無駄だなとインタ-ネットとと比べるとみてしまう。過去の検索ができないのも効率的情報処理ではない、過去の記録を知ることも大事だからである。そういうことが紙の情報分野ではしにくいのである。どこかの書庫に図書館に貯蔵されていても見れないのである。福島市に巨大な図書館があってもそこを利用できないのだからないのと同じなのである。


今日の一句一首にアップしていなかったのでここにアップして続きを書きます
タグ:本の価値

進む情報化社会の現実 (買い物から学習でも芸術でも情報化社会になっている)


進む情報化社会の現実

(買い物から学習でも芸術でも情報化社会になっている)

●家事は買い物が一番大事

もはや情報化社会は現実である。未来のことではない今進行している現実なのである。
それはインターネットも関係しているがあらゆるものが情報化してゆく
自分は介護をはじめてから十年間家事をしているがその最大の問題が買い物だったのである。
何を買っていいのかわからない,商品の数が多いからである。

何かを料理することではない,料理するもの買うのが仕事になる,それがわからないのである。最近けんちん汁が好きなので食べたいと思っていた,そしたらスーパーに売っていたのである。これがうまかったからうれしかった
それは意外とわかりにくい場所にあった,でも発見したのである。

それから昆布醤油がいいと言われ買った,味噌は地元で作ったものを売っている,近くに味噌屋があってもダシつきでないから買っていない,なにしろ時間を節約したいのである家事に追われたら何もできなくなるからだ
するといかに買い物上手になるである。
失敗したのはレンジで3万円の買ったがそれは一万のと何ら変わりないものだった
それは量販店で買って失敗したのである。
でもアマゾンのレビューを見て買うと意外と失敗が少ないのである。
電器店の人にすすめられるのはその店で売りたいものをすすめるから問題なのである。

●今までの十倍くらいの情報を摂取する時代

最近はDマガジンを読むようにした,これは便利だった,週刊誌でも雑誌が一月400円で読めるのは安い,一冊一冊買っていたら金がかかるからでいないがこれはできるのだ
そして自分の読みたいものを読めばいいとなる
だから効率的なのである。そしてパソコンだと本をめくって読むのとは違う,さーと眼を通すという読み方である。すると読むスピードが早くなる
つまりパソコンで本を読むのと普通に本を読むのとは同じ活字も読むのでも違うのである週刊誌とか雑誌はそうした早く読む必要がある,日々変わるものを話題にしているからである。

ともかく情報化社会は進んでいる,インターネットで国際化するというとき機械翻訳が前より相当精密になり使えるようになっている,これは明らかに機械翻訳から英語を学ぶ時代にもなっている,翻訳家も使っているからだ,かなり正確であり間違っていないから外国人にも通じるだろう。
これもやはり情報化社会の進展に役立つ,言語の壁がなくなってくる

そして自分のしている抽象画というのも我ながら不思議だと思う
インターネット上にある写真や絵をパソコンのソフトで変化させて作っている
ただ化学実験のように変化させるだけだから量産できるのである。
それは絵の才能があってしているのではない,自分は絵は何一つ描けないからである
ある程度絵の鑑賞はできても描く能力はゼロだからである。
だからこうして抽象画を作っているもパソコンがありインターネット社会になったときできたことなのである。
一定数のアメリカ人が見ていることはそれなりに注目されているのかともなる
インターネット上には膨大な写真があり絵画もあり抽象画もある
するとそれを変化させる芸術となると無限になるのである。

●情報のデジタル化でもアナログ的な旧来のものも必要

ではすべてが今までもデジタル化の情報がすべてになるかというとそうでもない
電子本は自分にあっていなかった,読みづらかった
今は古本の安いの一カ月に十冊は買っている,それも全部読むのではない眼を通すという読み方なのである。ここが重要でありそれを引用するのである。
本だったら最初から最期までさーと目を通して要点がわかる
電子本ではそれができなかったのである。

電子本はまた記憶に残りにくいのである。インターネットでもキーワードで調べるのはいいのだがどこにそれが書かれていたかわからなくなることが多い
すると記憶することでは本の方がいいと思った
ただ今までのような一冊を詳しく読むことはもうできない,年になり時間もないから読めない

でも記憶という観点からすると本の方がいいと気づいたのである。
記憶というときどうして人間が記憶するのかこれは本当に不思議である。
その場と関係しているというのも不思議である。
自分の家は部屋が多い,するとその部屋を変えて本を読むと記憶される
寝室で読んだものはそこでの記憶が残り廊下で読んだものはそこでの記憶が場と共に残っているのだ。
そこに記憶されるにはどうするのかというヒントがある

bookwwwww111.jpg

二階に広い廊下がある
そこに分厚いワーズワースの評論の本
ページをゆくりなくめくる
その一ページに冬の日がさす
そのページに書かれた詩が記憶に残る

ワーズワースの部厚い本のページを廊下でめぐる,そこには冬の日がさしている,するとそのページに書かれていたものを記憶するのである。
本は読んでも忘れるものがまた多いけどこうして不思議に場所と季節とか光とか関係して覚えているのである。記憶はこうしてその場とか季節とも関係しているのである。
これがインターネットとか電子空間ではできないことだった
本が物になんているからできたのである。

記憶するということでは本が優れている,インターネットではビッグデーターとして使うの優れいてる,つまり本は必要ないというが必要なのである。
ただ書店はどうしてもなくなる,とてもアマゾンのような本をそろえることができないからである。

いづれにしろ読むものも今までの十倍とかなりまた自分で書くものも膨大なものになる
今までなら本には出すことはできない,インターネットならいくらでも出せるのである。そしてプログでも他者が読むということもあるが自分で書いたものを記録してあとでふりかえりまたつづきを書くということができる
そういうことがインターネットではプログなどしやすいのである。
だから自分の図書館を形成できるのである。

今なぜ本が問われるのか(2) (インタ-ネットにはない本の特徴)
タグ:情報化社会