2017年10月16日

日本には二大政党制がなく政権交代ができない (民主主義が機能していないから選挙も無力になる)


日本には二大政党制がなく政権交代ができない

(民主主義が機能していないから選挙も無力になる)


今の政治状況はわかりにくい,小池旋風でわかりにくくなった,ではなぜ小池批判が起きてきたのか?
それは左からするとマスコミでも阿部政権打倒だから小池が民進党の一部を排除したことが面白くない,なぜならそうしたら政権打倒の勢いがそがれたからである。
すると小池が民進党の一部を排除して政権打倒できなくなったことが大きな不満となり
小池をバッシングすようになった

一方でその主義主張が根本的に違うものが一緒に活動できないというのも筋が通っているそれを批判するのはおかしいともなる,自分も別に主義主張が違うのだから排除したからとそれを批判するのはおかしい
結局希望の党は民進党になることを恐れたからそうしたのである。
自分たちの独自性を保つためにそうしだけである。
一方政権とるためにはそうした排除の論理ではできないという人がいる
排除した結果野党が一つにまとまらなくなり自公に有利になったというのが左とマスコミの主張である。

要するにマスコミは中立の報道ではなく左であり政権打倒したいとうことで一致しているだから御意見番にそのことを言わせるのだとなる
民主主義は政権交代が必要でありそれで小選挙区制になった
それで小池のような人か出るだけで政権交代にもなりうる
それがそがれたのは自らの主義主張に合わないものを排除したからだとなる

ただ政治の世界は主義主張だけで動かない,政権をとるということが大きな目的となる
政権が変われば政治の世界も社会も変わるからだ,それで失敗したのが民主党が政権をとったときでてある。民主党は「政権」をとるということで一致団結したのである。
だから政治は政権をとる権力闘争になる,それは歴史では戦争になり革命戦争となっていたのである。
共産主義ならその主義主張でイデオロギーで政権をとる,そのためには時の政権を暴力で武力でもとるということをしてきた
民主主義ではそれができないから選挙で政権をとるほかないのである。

日本は政権交代がない,自民一党独裁体制がつづいている,一回民主党になったが失敗した,政権担当能力がない,日本には二大政党が根付かないのである。
要するに日本の政治はアメリカとは違い,政権を維持する党と野党が極端なのである。
その原因は一方はアメリカよりであり一方は中国韓国寄りとなり相反する勢力となる
それは国際政治の力関係が日本にもちこまれているからそうなる
だからアメリカのような保守二大政党が根づかないから政権交代もないのである。
日本が未だアメリカの植民地でもあり自主性がもていなこともそうしている

アメリカだったら二大政党で政権交代してもそんなに政策が変わるわけでもない,国際政治でもそうである。日本だったら極端に変わってしまうからできない,それを証明したのが民主党が政権をとったときで証明されている
希望の党は保守なのである。だからかえって第二自民党だとの批判もある

ともかく日本は民主主義が機能していない,それで選挙に行っても無駄だとかなる
小選挙区制に反対の人もいる,憲法でも議員を選ぶのであって党を選ぶのではないとあるのもそうである。
小選挙区制は政権交代しやすいようにした制度だけでも機能していない
それはなぜなのか?日本は与党と野党が極端に違っているからなのだ
それは野党になれば革命にもなる,共産主義革命ともなる
だから簡単に政権交代できないのである。
政権交代ができるのはアメリカのような二大政党制なのである。
それで権力を交代して腐敗をなくしたり新たな政策を実行する
日本では今のままではこうした政権交代ができるものがないのだ
野党が一つになるといってもできない,それは極端に変わる革命になってしまうのである共産党が政権をとると同じなのである。

選挙民は何か変えたいとは思っているけどこういう状態だからできない,政権交代を望んでもできない,そして無力感になり投票しないともなる
自公政権を嫌っている人が多くても政権交代できない,公明党のようなカルト宗教団体が政権と一体とななっているのも嫌っている人はいる
でもそれもどうにもならない,小池もただ公明を利用しようとしただけであるのでもわかる,こうした団体に政治が牛耳られるのも政権交代できるように日本でなっていないからである。だから日本では民主主義は機能していないから選挙でも無力感があり投票率も上がらないのである。
自分も今回はどこに投票していいかわからない,小選挙区制でも元の民進党の人が無所属ででている,もう一人自民党である。
比例区は希望の党にしようかと思うが小選挙区がどうしていいかわからない
棄権になるかもしれない,今回は浮動票も分散されるから自民党に有利になってしまうのである。
posted by 老鶯 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

<衆院選福島>1区で原発事故からの復興巡り論戦白熱 (亀岡氏の五輪の成果は評価できない)


<衆院選福島>1区で原発事故からの復興巡り論戦白熱

(亀岡氏の五輪の成果は評価できない)



亀岡氏は「復興五輪の成功を」と訴える。2020年東京五輪の野球・ソフトボール競技の一部福島市開催決定に奔走したことを実績としてアピールする。

金子氏は亀岡氏をけん制する。伊達市内の10日の演説で「五輪で原発事故をなかったことにはできない」と声を張り上げた。

原発事故後の対応では一部野党も主張する東電福島第2原発(富岡町、楢葉町)の廃炉実現を叫ぶ。民進党が今年3月に国会提出した廃炉法案は廃案にされたとして「東電に決断させるのが国の責任だが、自民にはできない」と批判する

福島一区は自公政権と野党が一対一の激戦の選挙区になった,前の選挙でも小差であり今回は共産党が候補者を立てないから無所属から出た金子氏に票が流れる
票を読むと金子氏が有利になった,でも選挙は蓋をあけてみないとわからない
浮動票がどう動くかもある,そういう自分が浮動票なのである。
別に自民でもないし野党でもない,その時の風によって決まる浮動票なのである。

政策的には原発を廃止するとか五輪などしないでむしろ震災復興に力を入れてもらった方が良かったから評価はしない,そもそも今度の五輪する意義が前の東京オリンピックとはまるで違ったものである。国自体に盛り上がりがないのである。
あの時オリンピックによってインフラを整備するとか高度成長真っ盛りでありそういう目的もあった,今回はそうした国自体の盛り上がりもないしそんな運動会に巨費をつぎこむのは馬鹿げているという意見も多いのである。

だからどうしてそもそも五輪がこうして国民の盛り上がりもないのに実行されたのか?
そのことを疑問に思っている人も多い,なんでも賛否両論があるにしろ今回は否定する人が多かったのである。
もうオリンピック自体に疑問をもっている人が世界的にも多くなった
一体オリンピックが何のためにやっているのかせわからない,それでIOCで金が不正に使われたりオリンピックを誘致するために巨額の金が使われたりと批判がある
そしてオリンピックの競技場で過労のために若い人が死んだとかありそれにも批判がある死者の犠牲の上にオリンピックをやる意義があるのかと批判もある
それだたけオリンピックの意義は今回は国民的合意とはなっていないのである。

ではなぜ行われるのか?それは国民が望んでいるよりゼネコンとか他の動機があってオリンピックが行われる,景気を良くするためだとも言われるがオリンピックで景気が良くなるよりかえって金をかけた分がかえってこないこともあるだろう。
観光客誘致には確かに効果があってもオリンピックをしなくても外国からの観光客は増えているのである。オリンピック景気は一時的なものでありその後は日本の経済は凋落してゆくと指摘する人も多い,だからオリンピックに期待する時代は終わったのである。

それから原発廃止は自民ではできないというの確かである。
この辺ではどうしても原発廃止になる,これだけの被害があったらとても原発を認めることはできなくなったのである。

それから復興は進んでるという自公政権が主張するが避難区域などは全く進んでいない
若い人は帰らないし何も進んでいない,働く場所も避難区域ではないとか若い人は帰ってこない,だから復興は進んでいるとはならない

それから憲法問題になると憲法改正した方がいいというとき自衛隊を軍隊として認めるというときそれは別に今のままでも軍隊であり改正する必要もないという主張もある

自分は精神的には日本文化を尊ぶ右よりなのだけど政策的には左寄りだとなる
そもそも自民と公明党が一体になっていることを容認できないのである。
カルト宗教団体と一体になり政治がゆがめられているのである。
その点を批判しないのがおかしいのである。そして自民党と公明党の政策は違っているのに一緒になっている
むしろ希望の党とか維新の党が右寄りであり自民と一体化しやすいのである。
公明党は野党の方が政策的には共同できるのである。

結局は政策的には左寄りになるが希望の党に入れることは右よりだとなる,ただ希望の党は原発にも反対しているから政策的には支持できる,消費税反対も支持できる
こうしたことは他の人にも起きている,自民党支持者でも消費税反対の人はいる
ただ株をしている人などは経済的には阿部政権で恩恵を受けたのである。
だから利害から選ぶと左だと損するとなる
なんでも右だ左だとかで分けられないのが現実である。

いづれにしろ福島一区は注目の選挙区になった,予想では無所属の前の民進党候補が有利とある,ただ浮動票がどっちに流れるかで変わるが地方では浮動票はそれほどない
票が固定しているからあてにならないこともある
希望の党がマスコミからたたかれたのは政権打倒できたのに排除の論理で野党を分断したからである。
でも希望の党にすればそれが第二民進党になることを拒否したためだったのである。
だからそれが悪いとも言えないのである。
いづれにしろ今回は政策的に希望とか野党の方にこの辺ではなりやすいだろう。
福島一区は自公政権側は不利なのかもしれない,でも希望も全体では50議席くらいしかとれないというのもあたっているのかもしれない,一本化しないから野党が分散化した結果そうなった,希望には保守の票もかなり流れる,保守票もとりこむ,それが民進党とは違っていたのである。
posted by 老鶯 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年10月17日

原発事故の責任をとらない政府と東電 (自己責任を言うなら「危険」なことも知らせるべき)


原発事故の責任をとらない政府と東電

(自己責任を言うなら「危険」なことも知らせるべき)


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事故にあったらあなたの責任です!



まず東日本大震災で東電が刑事罰を受けないというのがあり得なかった 
日本人のために原発が必要なのではなく、利権で飯食ってる一握りの屑のための原発なんだと言うことがよくわかったわ

自民党は東電とお友達だし、事故の処理でお友達に税金をばらまけるからね 
40年も最終処分場も決められない自民党が原発を継続させるのは無責任だ

東電は人殺し。 
人殺しを裁く法律をつくることなしに原発再稼働なんてあり得ない

何年も原発ゼロでやれてたろ? 

もし原発50基が最初っから無ければ 
今の電気代はせいぜい15円/kWhだよ 
原発のせいで電気が高くなった 
それに合わせてガスや石油などもわざわざ高値で契約してきた

原発ゼロの判定以前に 安部を 
証人喚問だろ何で安全神話を作った!? 
おかげで今も事故は起こらないと 
火災訓練すらしない業界には 
不信感しかないわ 全部安部の事故は 
起こらない これで自民党が再選されれば 
原発は動くことに為る

小池百合子・希望の党は、企業献金を拒否 
原子力利権産業は、金で言うこと聞かせられない希望の党の 
公約である原発ゼロに恐れをなして、マスコミを使って叩かせ始めた


原発の問題を追及してきたけど何が最大の問題だったのか?

 必ず責任をとらせられる

このことを被害にあった地域と人達は痛切に身をもって感じている
外から見ると死んだ人もいないからたいしたことないとかいろいろ言うけど
そうなら政府が避難命令など出さなければ良かったのである。
政府が避難命令を出したから避難して町や村に人が住まなくなり荒廃したのである。

世の中はつくづく必ず責任をとらされる,責任はカルマでもある,そのカルマを自覚するのは責任をとらされるときなのである。
だから本当にその原発というカルマの重さ業の重さを事故で知らしめられたのである。
職業は職の業でもあった,人間はともかく責任から逃れられない
生きることは責任を課せられていることでもある

そしてその責任を最も負うのは誰なのか?

それは原発事故では政府と東電の幹部などであった

しかし原発事故では誰も罰せられないのである。清水社長も天下りしてのうのうと暮らしている,政府関係者でも誰も罰せられないのである。誰も責任をとらないのである。
でも必ず誰かが責任をとらされるのである。

この辺では地元の人達が責任をとらされた,外から見たら死んでもいないからたいしたことがないというけど故郷の自然の中に住んでいたものが水も飲めない,土も汚染されて食物も作れないとか木材も利用できない,空気も汚染されて安心して住めないとかなった
補償金もらって良かったじゃないかとも言われるがやはり代々その土地に住んでいた場を奪われることの精神的被害が大きいし実はそのことを住んでいる人が自覚されていなかったのである。
こういう被害は経験できないからである。

地元の人も原発を建てる前から補助金などで潤っていた,恩恵を受けていた
地元の人も責任があるとなった,それも自己責任だとされた
ところが自己責任というときどういうことで自己責任になるのか?

ここに立て札がある,「危険」「安全」とあるとき危険という立て札があるのにそこに侵入して危険な目にあっても怪我をしても自己責任だとなる
一方で「安全」とあればそこに侵入しても安全なのだからそこで自己責任は問われない
むしろ「安全」とあるのに危険な目に怪我などしたらその立て札をたてたもの,役所でもなんでも責任が問われる
「安全」とあるのに入ったら危険な目にあい怪我までしたとなる
それで裁判にもなるのか民主主義の社会である。

原発では「安全神話」となり原発は「安全」という立て札をたてていた,それは役所でたてたと同じである。だからそこに立ち入っても地元の人たちは安全だと思うのは当然である。
そこで危険な目にあったらその「安全」という立て札をたてた役所の責任が問われるのである。

原発はこれだけ危険なものでもその内部の情報は何も知らされていない,ただ「安全神話」が形成されて「安全」「安全」というだけである。
だから事故になったときの備えもしない,そこで事故になって指示もできない混乱状態になったのである。
「安全」はという]立て札をたてるとき安全についての説明も必要になる
「危険」という立て札についてもそうである。その説明が全然ないのである。

いづれにしろ自己責任というとき鉄道でも「あぶない,線路の立ち入りを禁止する」と看板がたててあった,そこに侵入した人がいて電車が20分以上停止したのである。
この責任は侵入した人にありJRにはないのである。
それと同じように「安全」と立て札があればその責任が問われるのは役所だったり会社だったりする
医者でも手術するとき危険性は言っている,一応それで納得させてから手術しているのである。

だから民主主義ではそうして情報の公開がないと成り立たないのである。

「安全」「危険」も知らされなかったらどうするのか?

どうして調べるのか?原発は秘密のベールの中にあり知り得ようがないからできない
それは国家機密でもあるからできないのである。
するとその国家機密をにぎるものこそ最大の責任があったともなる
なぜならいくら知ろうとしても知り得ないからただ「安全」とあればそれを信じるからである。

ただ実際はこの世で絶対的安全は保証されない,なぜなら必ず今回のような不測の事態が生まれるからだ,でも危険と安全についての説明が必要なのである。
でもそれは国家権力によって隠蔽されてきたのである。

だから責任をとるべきは政府であり東電でありそれに対して何の罰もないとしたら誰も納得しない,でも必ず誰かが責任をとらされるのである。
今回は地元の人達が責任をとらされたのである。
戦争でも戦争を遂行した政府の役人がいたが国民全体が責任をとらされた,それも3百万人の死をもって責任をとらされたのである。
人間は責任か逃れられないようにできているのである。

原発で事故起こしたら死刑にするぞ!腹を切らせるぞ!

もしこれだけの責任を課せなければやれないのが原発だったのである。
それだけの覚悟あるならやれともなるのが原発だったのである。
それが結果的には誰も上の人は責任をとらない
そして責任をとらされたのは地元の人達だったのである。
posted by 老鶯 at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

あなたの実体験から得た「宇宙論」聞かせてください (私の介護についての返答した人に問う-稲妻捕り様へ)


あなたの実体験から得た「宇宙論」聞かせてください

(私の介護についての返答した人に問う)

稲妻捕り様へ

介護では「早く死んでくれないかな」と誰でも思う
(それは非情ではない,それだけ辛いからである)



経験論から一歩も出ていませんね。これじゃ「早く死んでくれないかな」と思うはずです
寝たきりでただ食って寝て、そんな形で生きていたって何のねうちもないし可哀そうなだけ。

それだけの生ではないのかと、みつめつつやがて自分もおいつめられていく。

こういう自分が求めていたのは、決して介護論でも心理学でも福祉設備の充実だけではないのです。

なぜ生きているのか、それをつきつめればなぜ宇宙に生命があるのかという問いを問うところへゆくのです。

その問いの前で、介護していた自分はまさに宇宙論に直面していたのです。



この人にも言い分があるからその背景がどういうことで言っているのかわからない

経験論から一歩も出ていませんね

人間は実体験がなければその語ることが浅薄になる,人間の真実は実体験からはじまるのだ,介護だって何でもそうである,実体験なしで何も語られないのである。

私が岩手県の介護している60代の男性と90代の母親を介護して60代の息子が病気になり共倒れになったことを書いたのは自分もにた状況に陥ったからである。

あなたは何かそうした経験があるのですか?

あなかたにどんな深刻な経験をして「宇宙論」まで説くことができるのですか?

おそらく都築詠一氏の「弁証論」とか何かのことで言っているのだと予想します

私も彼には感銘して詩も書きました,ただそれは彼の実体験が訴えるものがあったからです,弁証論についてはわからないし「宇宙論」についてもわからない
ただ自分が感銘したのは彼の実体験なのです

空手に精進する姿だったのです,日々裸足で歩く,重い荷物をもって歩く訓練をしていた
そのことが訴えるものがあり詩にしたのです


寝たきりでただ食って寝て、そんな形で生きていたって何のねうちもないし可哀そうなだけ。
それだけの生ではないのかと、みつめつつやがて自分もおいつめられていく。

これは介護もしたことがない人が無関心に無責任に言っているのです
他人の苦しみなど関係ないからそう言えるのです
そんなのは税金の無駄使いだとなるが家族にとってはそれぞれ事情がありそうはならないのです

家族にもそれぞれの歴史があるのです,家族はみんな同じではないですよ
とても他者からは理解できない家族というのものがあるのです
歴史があるというとき家族はやはり長い時間で形成されてきたものだからです
家族の不幸はみんな違っているというときそれは家族がみんな違っていて歴史をもっているからです

つまりあなたはそれぞれの家族の事情を見ないで一般論で見ているだけなのです
介護したこともないだろうし老人はみんな邪魔だ,早く死んだ方がいいとかいつも言っている若者と同じである

でも家族にもそれぞれ事情がありみんながそうはならないのです
国には国の事情が歴史があるように家族にもそれぞれの事情がある
それは他者からわかりえようがないものがあるのです
家族というとき何か単純に考えるけど両親がいて子供いるとも限らないのです
家族の形態はいろいろであり複雑なのです

ではあなたは経験からどんな深遠な宇宙論を展開できるのですか?

それに答える義務があるでしょう

そのご高説をうかがいたいです

でも心の青雲の都築詠一氏とか弁証論とか受け売りではだめですよ
それはそれとして価値があります,でも自分の言葉で語ることが大事なのです
都築詠一氏は一貫して自分の言葉で語っていたしそれはそれで学ぶところがあったのです
あなたはあなたの言葉で語るべきなのです

あなたの体験からどういう深遠な「宇宙論」が生まれたのか?

それを是非知りたいですね

タグ:介護論

2017年10月18日

日立の風力発電会社の事務所にドイツ人三人が来る (駅からすぐ近くにその事務所がある)


日立の風力発電会社の事務所にドイツ人三人が来る

(駅からすぐ近くにその事務所がある)


まず一人はいわきからレンタカーを借りて駅に来た,その人は日本語をしゃべったしナビでも日本語のナビを車の中で聞いていた,日本に慣れた人なのだろう。

その後に土浦ナンバーの車がやってきた,ここで待ち合わせるするという人だった
その人たちはドイツ語で話しした,ドイツ人だった

なぜ三人も来たのかと思ったら車がすぐ近くの路次を曲がり入った,それで気づいた
「風力発電の事務所」が作られていたのだ
それで風力発電関係の技術者だということがわかった

ドイツの電力需要に占める風力発電の設備容量は2010年末時点で9.3%、2011年末時点で10.6%であった[2][3]。
国内に21,607機の風力発電機が設置されており、ドイツはさらに多くの発電機の設置を計画している[4][5]。2011年時点で、ドイツ連邦政府は特に洋上風力発電の利用に焦点を当てた再生可能エネルギーの商業化(英語版)を増大させる新しい計画に取り組んでいる

2011年の東日本大震災による福島第一原子力発電所事故の後、ドイツ政府は特に洋上風力発電に焦点を当てた再生可能エネルギーの商業化加速を見込む新しい計画に取り組んでいる[17]。計画では、大型の風力発電機が陸上よりもより恒常的に強い風が吹き、巨大な発電機でも住民を気にしないで済む海岸線から遠く離れた場所に建てられる。
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日立ソリーシュンというの名の事務所があるから茨城県にあり駅で待ち合わせした人は土浦ナンバーなことも辻褄が合う

ドイツでは風力発電が進んでいる,太陽光発電も進んでいる,なぜなら原発を廃止したからである。それで風力発電でも技術的に進んでいたのである。

風力発電と太陽光発電を一体化した技術の開発も進んでいる

何かこの辺はそういう点では国際化している,ドイツ人が三人も来るなど普通はないからだ,前は東北電力にドイツ人が一人来た,一人は日本人の通訳だった

駅は何かこうしていろいろな人が出会う場所なのである。
この辺は外部からの人が入るようになって国際化したということもある
全国からも人がまだ来ているから前とは違った駅となっていたのである。

駅近くの事務所

株式会社 日立パワーソリューションズ 電源インフラ事業統括本部 新エネルギー本部
風力システム部  茨城県日立市幸町三丁目2番2号

九州の熊襲は鹿文(かや-伽耶族) 景行天皇(ヤマトタケル)の時代の勢力


九州の熊襲は鹿文(かや-伽耶族)

景行天皇(ヤマトタケル)の時代の勢力


景行天皇は 熊襲八十梟帥くまそのやそたける、厚鹿文・迮鹿文を討伐する為、その娘の市乾鹿文・市鹿文を欺いて召した。
時に市乾鹿文が天皇に言うには「熊襲が服従しないことを憂えてはなりません。私に良い謀りごとがあるので、一人二人の兵を私にお付け下さい」と。
そして家に帰ると、沢山の酒を準備して父に飲ませた。すると酔って寝た。
市乾鹿文は密かに父の弓弦を断った。そして従ってきた一人の兵が熊襲梟帥を殺した。

厚鹿文

ヤマトヲシロワケ(12代景行天皇) が討ったクマソの頭のひとり。 
セカヤの兄。フカヤとヘカヤの父。 
娘フカヤの寝返りによって討たれる。

  

┌アツカヤ──┬フカヤ
│      │
│      └ヘカヤ
│        ┃
└セカヤ───トリイシカヤ

「鹿屋」はクマソ国の中の「投馬国」に属しており、「神武紀」に記されているように鹿屋を含む大隅半島は「神武東征」の出発地でもあった。


 鹿屋は半島南部の「伽耶」すなわち「弁韓狗邪国」「狗邪韓国」と直結する名称である。後者は3世紀には存在した国々であるが、3世紀の半ば(247,8年ごろ)に起きた大規模な「反魏闘争」により、敗れた弁韓・辰韓のそのような航海民が多数流れ込んだゆえ、「かや」という地名が生まれた可能性がある。

 しかし先に大隅半島側に「かや」なる名称があったとも考えられる。

 今のところ、どちらが先かの結論は出し得ないでいるが、「鹿児屋(かこや)」すなわち「鹿児(鹿児)の屋(や)=航海民の住みか」と言われていたのが、「児(こ)」の脱落で「鹿屋(かや)」になったのかもしれないとも思っている。

日本書紀の景行天皇に記された名前

厚鹿文、迮鹿文取石鹿文、弟鹿文、厚鹿文、迮鹿文、熊津彦

市乾鹿文、市鹿文   字也鹿文、市乾鹿文、市鹿文、難升米、掖邪狗

陸奥風土記に出てきた「神石萱」に関して、興味のある指摘をしてみたいと思います。即ち、景行12年紀に熊襲のある一族の名前として、「厚鹿文」、「末鹿文」、それに「市乾鹿文」と「市鹿文」の姉妹が出てきます。同27年紀には「取石鹿文」が出てきます。「鹿文」は「カヤ」と読みます。

景行天皇紀に現れる賊の名前を検討した一文がありますので、ご参照ください。景行紀の蝦夷
これらの名前の後半「鹿文」と、陸奥の「神石萱」の最後の「萱」、特に「市鹿文」と「石萱」の酷似は、九州の熊襲と陸奥の土蜘蛛の間で名付けの慣習に何らかの共通性があったことを推定させます。とりもなおさず、言語の共通性、と言いたいのです。

この名も同じく中国王朝一字名と考えるべきであろう。名は「取」、「字」が「石鹿文」である。いずれも始祖「忌」の栄光ある「字・鹿文」を受け継いでいる。

松野連姫氏系図

この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱(かむいしかや)、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、


カヤノヒメ(カヤヌヒメとも)は、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。

南相馬市鹿島区の真野明神は祭神は草野姫命(カヤノヒメ)ですがこの姫神は比売許曾神社(ヒコソ)の祭神と同一神 コソが朝鮮語の社である


草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ雄鹿鳴くも

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを (笠女郎)

日本の人種的国の成り立ちは原住民に蝦夷がいた,それはエミシであり蝦夷はあとに名付けられたものでありエミシという族がいた,それは縄文人の末裔ともなる
そのエミシと蝦夷(エゾーエソ)は違うものである。
だから蝦夷というとき今のアイヌとは全く別なのである。
つまり蝦夷の中にアイヌがいたかもしれないという説でありそれは証明されないのである蝦夷語があるとしてアイヌ語がそれなのかはわからないのである。

真野の草原(かやはら)の万葉集の歌は一体何を意味しているのか?
草原がただの萱の原なのか?それとも何か別なものに由来しているのか?
カヤを伽耶国に由来しているというときその背景をこうしてインターネットで調べると
それなりに信憑性が生まれてくる,情報が集積されて統計的にも信憑性が出てくるのである。
カヤは伽耶であり鹿文(かや)とあてられた,景行天皇(ヤマトタケル)の時代に神話となり日本が一つの国として意識される征服が行われた,その時必ず九州の熊襲でもその中味は中心的氏族は鹿文(かや)なのである。
そき鹿文(かや)は何者かというとき,韓国からわたったてき人達だとなる
それは大和の国造り神話ができるときすでに鹿文(かや)が日本列島の原住民化していたのである。混血していたのである。

なぜそうなったのかというとき伽耶から渡ってきた人達は鉄を作るとか農業でも焼き畑をするとか先進的技術をもっていたから有力な指導的立場になった
それは弥生式文化が根付いたのも稲作文化をもたらした人達でありそれで優位に立った
日本海から入ってきたツノガノアラシトの伝説もそうである。

だから蝦夷というときエミシとか日本古来の縄文人の末裔もいるけどそこに韓国から来た渡来人と混血したのである。それがあとで蝦夷となったのである。

「鹿文」と、陸奥の「神石萱」の最後の「萱」、特に「市鹿文」と「石萱」の酷似は、九州の熊襲と陸奥の土蜘蛛の間で名付けの慣習に何らかの共通性があった

それより混血した結果としてそうなった,鹿文(カヤ)いうとき女性のことでありそれはその当時女酋長がいたということであり最初の邪馬台国が卑弥呼で女王だったとういことと通じている,それは巫女とかシャーマンであり女性だったのである。
今でも女性の占い師とかいる,神がかりするのが女性だったとなる
鹿島区寺内にある「真野明神」に祭られているカヤノヒメとは女性の酋長に由来するのか?ここに検索した鹿文(かや)と関連してある


いづれにしろ真野の草原(かやはら)は謎でありかわらない,でもこうして情報を集積すると見えてくるものがある。
インターネットの検索で見えてくるものがある,それが歴史にも情報社会が影響しているとなるのだ
posted by 老鶯 at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2017年10月19日

秋薔薇(ありふれた日常にも意味と価値がある)


秋薔薇(ありふれた日常にも意味と価値がある)


石ありて今日もこの家に秋薔薇

秋薔薇ここに散りしを我は知る

駅に待つ年配の女(ひと)秋薔薇

秋薔薇時の移ろふ雨しとと

柿なりて地元の人や駅に待つ


人は生き人は死ににき今ここに誰を待つなれ冷たき雨ふる

駅に前一度会いにし年配の女(ひと)と語りぬ秋となるかな

しとしとと石をぬらせる雨にあれ茶の花庭に散りて静けし



常なる道

人は生く
その場その場に
石のごとく
住みて変わらじ
秋薔薇
今日もこの家に咲き
同じ道行き
日は暮れぬ
営みのかくもあれかし
ありふれて目立たず
騒ぎもなしも
実りは刈りとられぬ
その生活すら
奪われることあり
ふるさとを失い
慣れにし家に住めず
ふるさとは荒野と化しぬ
その道を行く人もなく
花は散りにき

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秋薔薇というとき自分のテーマでもある,俳句はあまりにも短いから読む人が相当にイメージできないと鑑賞もできない芸術である。
写生俳句にしてもただつまらないともなるからだ,だから俳句から詩にした方がわかりやすいとなる,今回は詩にした

駅で年配の女性が電車を待っている,何か落ち着いている,子供も大きくなり外国で働いている,このくらいの女性だと落ち着いているなと見る,隣に20代の若い女性がいるが何か待つにしても落ち着いた感じがない
秋薔薇というときこうした年配の女性にあっている

毎日同じ道を行く,変わり映えしない道である。自分は旅ばかりしたが介護とかでここ十年はほぼ同じ道を行ったり来たりしているだけである。
でも人間はこうしたいつも同じような生活していることに価値があり意味がある
それに気づかされたのが原発事故で避難して人が住まなくなった町とか村なのである。
そこでこうした日常が奪われたからである。
それで「生業を返せ」と政府や東電に裁判をした人達がいた

人間は当たり前にあることの意味や価値を感じないのである。
そういう価値とか意味に気づきにくいのである。
こんなして毎日同じ道を行くことでもそこに意味と価値が実際に見いだされるのである。だんだんと年取ると余計にそうなるのである。
遠くに行くのが億劫になるからである。

原発事故で失ったもの (日常の生業と暮らし-自作の詩より考える)


原発事故で失ったもの

(日常の生業と暮らし-自作の詩より考える)


 被害者は、原発事故までに形成してきた人間関係を失い、それまで自己の人格を育んできた自然環境・文化環境を失いました。「ふるさと」を失うことは回復不能な損害です。


普通人間は日々暮らしていることに特別なものを感じない,それは当たり前にあることだから感じない,家があり街があり営みがある,毎日どこでもそうして暮らしている
それは特別なことではない,ただ平凡な日常風景である。



常なる道

人は生く
その場その場に
石のごとく
住みて変わらじ
秋薔薇
今日もこの家に咲き
同じ道行き
日は暮れぬ
営みのかくもあれかし
ありふれて目立たず
騒ぎもなしも
実りは刈りとられぬ
その生活すら
奪われることあり
ふるさとを失い
慣れにし家に住めず
ふるさとは荒野と化しぬ
その道を行く人もなく
花は散りにき


石のごとくにというとき石は定着を現している,一軒一軒家があるということは定着を示している,田舎だと持ち家に住んでいる人が多い,田舎は都会のように借りて住むことが少ない,だからその家を維持するのに金がかかる
それである程度の資産がないと田舎ではかえって住みにくい,家があり庭があることでその石は定着をしめしているのである。

原発事故で避難区域になったところはそういうありふれた日々の暮らしが生業が奪われたのである。空家と化した家の庭に石があっても肝心の人が住んでいないのである
庭に石を見ればその石から人を思うのである。
やはり家があればそれなりに長く住んでいると感じるからである。

浪江町に言った時,誰も住んでない家の間の道を行く,崩れたままの家もあった
小学校の校庭にあった時計は地震の時に止まったままだった
その時から6年も過ぎてしまったのである。

ある町の住宅に子供用の二段ベッドが窓から見える,しかしそこには子供いないのである学校には校庭には子供の声がした,ひびいていた,子供が路次で遊んでいた
人影はない,廃墟の街と化してしまった

今なら実りの季節であり街からちょっと離れれば稲穂があり稲が刈られたりしている
そんなこと当たり前であり誰も今までは注意しない,特別なこととは見ないのである。
そもそも何でもそうである。普通の暮らしは特別なことではない,平凡であり家事でもそうである。ただそういう暮らしが消えたときどうなったのか?

そこはゴーストタウンとなり廃墟の街と化したのである。
そうなるとその何気ないありふれかた平凡な生活は何なのだったとかふりかえる
何でもないことが実は貴重なこと価値ある意味あることに見えてくる

まず街に人が住まなくなるということそれをイメージした人はいないだろ
廃墟趣味とか確かにあった,でもこれだけの人口の街が廃墟のようになることは考えられなかったのである。

確かに庭には石があるし変わっていない,でもその石も実は人間化した石となっていた
だから人間がいなくなったとき余計に淋しいものとなったのである。
自然の石だったらまた違っていた,一旦人間が住むと石まで人間化していたのである。

一旦家に住むとやはりそこに定着する,長く住むことになる,老後もそこに住む
それが住めなくなるということはどういう心境になるのか?
そこで失われものは何なのか?
それは何の意識もしない何気ない暮らしであり生業である。

農家の人は畑仕事とか家のこととか庭の手入れとか普通にしている,それは日々していることである。
街でも商いをしていたり建築関係なら家を建てたりいろいろしている
そういう生活はどこでも日々しているありやれたことであり特別なことではない
でもその暮らしすら奪われた時,人間はどうなるのか?

そうした日々の暮らしの価値は意味は意識されなかった
それを失ってみて意識させられたのである。
何気なく日々してしいることの価値と意味を失ってみて自覚したのである。

もちろんそこに住まなくても他でも暮らしはあるがやはりそこに長く住んでいたから違っていた,そういう生活が根こそぎ奪われたとき人間はどう思うのか?
それは補償金で補えるものではないだろう。
そこで暮らし記憶がありそれを他でやり直すことはなかなか年取ればできない
若い人ならそこで新たな記憶を作ることもできるが老人はできないから
その記憶を刻んだ場所に帰りたいとなるのである。

老人は最期は記憶だけになる,生きた記憶が生きた証となっている
それで過去のことを認知症になると千回も話すのである。
若い人にとって聞く人にとってはうんざりするがそれが生きた証だから話すのである。
その記憶したことが生きた証になっているからである。

いづれにしろこんな経験はなかなかできないだろう。もちろん自分は避難してはいないからわからないことはある,でも身近だから察することができるのである。
それだから補償金どうのこうのは別にして何を失ったのか?
そのことが察することがある程度はできるのである。

原発事故の裁判で「生業を返せ」と訴えていたのが印象に残った,生業(なりわい)を失った時どうなったのか?
毎日パチンコだとかギャンブルに興じるだけだった
それは回りの人にとっても迷惑だったのである。
そんなことに価値や意味はない,でも生業(なりわい)には価値と意味があった
それが原発事故で意識させられたのである。

ただこれは金では補償はできないものである。補償金ではいろいろもめたしそれはまた別問題である。
ここではどういうことが失われたのかそれを再考したのである。
posted by 老鶯 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年10月20日

今度はかぶせた歯がぬけた (今日の内に歯医者に行く)


今度はかぶせた歯がぬけた

(今日の内に歯医者に行く)

人間はつくづくこの辺の原発事故でもそうだが日常の何気ないことが貴重なことを知ったそういうものは意識できない,無意識的になっていた,空気のようになっていた
それは家族でもそうである,親でも妻ても何でもしてくれるときそれが当たり前と化してありがいともなんとも思わなくなっている
それが一旦死んだりしていなくなるとその存在の大きさと貴重さを自覚する
親に死なれる妻に死なれると家事でも自分でやらざるをえなくなり大変なことになる

今度は歯が奥の方にかぶせたのがぬけた,不思議なのはこの歯もかぶせたものだと思っていなかった,長い間意識していなかったのである。
この歯は自分の歯だとてっきり思っていた,何の不都合もなくなっていたからである。
だから意識しない,前も前の三本の歯が欠けて入れ歯にしていたのも忘れていた
それは自転車で転倒して前の歯が三本折れたのだ
この時は打ちどころが悪いと死んでいた
危険な事故だった,それはすぐ近くのいつも通っている道で起きたのである。
自転車も結構危ないのである。

ともかく人間は体でもどこかが悪くないかぎり意識しない,意識するときは病気なのである。歯が痛いとなればやはり歯が悪いと意識するし体のどこが悪ければ意識する
でも健康であれば意識しないのだ
体の一部が悪くなればそこを常に意識していなければならなくる
歯などは何も意識しないときが一番いいわけである。

人間はこうして日常生活でもそれを意識しない,価値あるとか意味あるとかそんなことを考えないのである。ただ当たり前として日々暮らしているのである。
でもこの辺のように家にも住めなくなり故郷にも住めなくなるとき意識せざるをえない
今まであった平凡な日常の価値や意味を意識する
まず故郷自体に住めなくなるなどありえないことだったからである。
故郷がなくなるなどありえないことだったからである。
でもそれが現実この辺では起きたのである。

例えば医者でも歯医者でも病気にならなければ歯が悪くならなければ別に必要ないとなるでも一旦こうして歯が悪くなると歯医者のことをあれこれと意識する
初診でもみてもらうのに予約して一カ月もかかるのとか驚く,もうこの歯医者にはどんなに優秀でもかかれないのである。
それで今日の内に初診でもみてもらう医者に行くことにした
インプラントできるとなるとそれなりの設備があると思い行くことにした
この辺では歯医者も多いが選べるとまでならない,いい歯医者はすでに予約で一杯とか行けないのである
その医者がうまい下手は関係なくなる,なるべく早めにしてもらいたいのである。
ごっそり奥の歯がなくなったから苦しいからである。
今日は雨ふっているけど予約がとれたので行くことにした




posted by 老鶯 at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

歯でまともに食べられない影響は大きい


歯でまともに食べられない影響は大きい

つくづく歯は大事である。ご飯がまともに食べられない,触るといたい,右はかむことができないようになっていた,でも左でかんでいたから不自由は感じなかった
食べるのに一苦労なのである。
まともに食べられない影響は大きい,まずご飯をまともに食べられないことは精神力も低下する
人間は食べることが生きることの基本だからである。

ただ自分の母親は60代で自分の歯がなくなって入れ歯になっていた,でも百才まで生きたから不思議である。歯が悪い人が長生きしないとか趣味がない人が認知症になるとかもすべての人にあてはまらない,自分の母親は何の趣味もない,ただは働くことだけだったからである。そうして90数才るで働いていて認知症にならずにすんだ
でも94才ころから寝たきりになり認知症になった
これはやむをえないことだろう。

人間は食べる楽しみがなくなったら終わりなのかもしれない,胃ろうなどで生かされていても何の楽しみもなくなる,食べるということは人間の場合,動物と違って腹を満たすだけのものではない,何か食べることは人間の場合,さまざまな役割があり腹を満たすということだけではないのである。

だから人間が食べることができなくなる,味覚もなくなるとかなると悲劇である。
人間として生きる力もなくなってくる
それは食べることがただ腹を満たすだけではない,何か精神的活力をもたらすものとしてもある。
お茶は食事して飲んでいたがそこから茶の湯が生まれたように人間は必ずしも腹をみたすだけのものとして食事があるのではない,人間は何でも動物とは違いがつがつ食べるだけではない,精神的なものを付加され追及されてゆく

ともかく歯はすぐに直せない,保険の関係で医者は何回も通わせるという
アメリカの歯医者は長い時間治療して一気に直してしまうという
この相違も大きい,医者が今でもめんどうなのは何回も通うようになるからである。
今回も一週間に一回行って一カ月くらいかかるという
そうなると今でも食べるとあたり痛みを感じるから食べづらいのである。
一カ月こうして不自由な生活を強いられるのである。

まあ,こうした歯医者であれ医者は重要なものになる,だから飯館村のような医者も歯医者もない村に住みたくないということがある
別に川俣でも通えるからいいが車がないと不便だとなる
原町だと駅から歩いて行ける範囲にだいたいある,だから不便を感じない
ある程度選ぶこともできる,今回は早く治療してもらいたくてそこにした
一カ月待って初診をうけつけるその後も一カ月くらい置きに予約制となっていたら長すぎる
それだけこむということはやはり他と違ったものがあるのだろう。そこに患者が集中しているからである。

今日は原町駅ではお土産を駅の売店で見ている人があった,その人はこの土地の出身者だった,やはりお土産が必要になる,駅では買いやすいのである。
それから駅前で「原発反対」の抗議をしている人達がいた,どこかの党派とかと思ったがそうではない,みんなで集まり定期的にしているという。
そして駅で桜井市長にあった,最初わからなかった,でも確かに桜井市長だったのであるなんかそれも不思議だった,なかなか市長には会わないだろう。
別にすれちがっただけだったけど原町だとこういうことがある

今日は雨でびしょぬれになった,でも原町でも歩くと違って見える
路地裏の方でもここにこんな店があるとか認識するのである。
歩いて見るものは何か違ったもの死とて見えるのである。
今は歩かないから余計にそうなる,だから本当は街は歩くべきなのである。
すると街に発見するものが生まれまた町の魅力が作られるともなる
原町は大きいけどまだ歩ける範囲内にある
ただ歩けるように街が作られていないのである。
そうなったのは街を人が歩かなくなったからなのである。
posted by 老鶯 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記