2017年09月28日

龍安寺石庭,鎌倉五山を語る (心に青雲の都築氏の見方から詩を作る)


龍安寺石庭,鎌倉五山を語る

(心に青雲の都築氏の見方から詩を作る)

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白砂の庭を美しく見せようとしたのではなくて、その欲を棄てきったところに現れる「美」を、私たちは500年の時を経て、発見しているのである。だから最初に述べたように、創建者の禅僧が、今に生き返って庭を見たら、驚嘆するはずなのである。

だが石庭の白砂を掃除してならして何になる? 今なら観光客に見せて拝観料がもらえるとかだろうが、昔はまさに愚にもつかぬ作業である。誰が見て褒めてくれるわけではなかった。
 その場合に、嫌々やるとか、適当でいいやと思いながらやると、その感情で自分を創ってしまうことになる。

 ここがおそらくは修行の根幹である。愚にもつかぬ行動だからこそ、立派な感情を創るにふさわしいのだ。これは否定の否定である。
 弁証法を知らなくても、龍安寺の往時の僧らはこれを見抜いたのだから、すごいことだった。
 自分の感情でものごとを為そうとしてはダメで、禅の感情なり、その寺の開山の感情にならないといけない。

 五山文学を読んでみると、禅僧たちが「個人」になっていることが見てとれる。それ以前の平安時代の宗教は鎮護国家としての宗教である。天台宗、真言宗などはその典型である。

龍安寺石庭の謎を解く


枯山水の庭

白砂に石
方丈の庭
単純明快な配置
清純と質素
静粛な美
石は黙して
石は喝!
誠の石
ひびきあう
雑音なき楽のように・・・



三門譜

建長寺訪
三門威風
落葉踏想
五山禅僧



都築氏の見方は日本文化に対しても深い,なかなかこれほど語れる人はいなかった
その時代と社会から個々の文化をみるべきだと主張していた
その時代と社会の全体の像を見ないと個々の文化も理解できない。
鎌倉時代は平安時代と違い宮中の貴族文化から武士の文化,質実剛健な文化に移行したのだ,鎌倉時代は日本の武士の時代を築いたのである。
何か鎌倉時代というとき今は鎌倉という狭い領域でみる
でも鎌倉時代は東北まで広がった時代なのである。

平泉政権が滅びたとき鎌倉の武士,関東の武士が東北に移住した
相馬氏などせそうであり野馬追いの旗は鎌倉時代の武士に由来してはじまっている
宗教でも鎌倉時代に平安仏教とか国家鎮護の仏教から日蓮宗や念仏宗や禅宗と変化した大きな変革の時代だった
その大きな変革の原動力は何であったのか?
それは馬を駆使した関東武者の台頭だったのである。その流れとして相馬氏があり相馬野馬追いが生まれた,これは平将門からはじまってるのである。

他で平泉政権が滅ぼされたとき関東武者が東北に移住して先祖になっているのである。
そういう大きな広域的な変革の時代だった,その時代と社会の中で個々の文化が興隆したのである。
個々の文化でもそうした大きな時代と社会を見ないと理解できないというのがわかる
だから都築氏の視野は広いし深いのである。
そのログが消えたことは詳しく検討できないから残念になる
誰かが残しているのもあるが普通だったら全文でも検索することができたからである。

自分は都築氏が生きている時は自分はこのように答えて書いていない
都築氏は独断で書いて終わった

そもそもインターネットはパソコン通信からはじまっていた
その時から自分はワープロでしていた,それか何なのかわからなかった
それは若い人たちがパソコンの技術開発,ソフト的開発に貢献していたのである。
なぜならその時まずパソコンは高価なものであり誰も使えるものでも買えるものでもなかったからである。30万とか何か非常に高いものだったのである。
自分は理系ではないしそういう技術的なことは知らなかった
でも富士通のワープロで通信ができたのでたまたましていたのである。
それは訓練に終わったのである。

そしてインターネット時代になったときようやく社会に普及した
でもこのインターネットというメデアをどう利用するかはまだわからない人がいる
プログになると独断で延々と書くようになった,そこには対話がなくなった
パソコン通信の時代は必ず誰かが書いたらレス(レスポンス)が必要でありそれがないものは有効にならない,なぜなのか?
それは技術的にまだ未熟であり書いたものが通信されて到達したがどうかもわからない
だから確かめるために必ずレスが必要だったのである。
そういう形式で発達してやがて今のようにインターネットで一般化したのである。

ネットではレスすることが不可欠だった,そういうメデアだったのである。
テレビなどでも新聞でも今までのメデアはマスコミが発言していたのであり一般の人は埒外だったのである。
ただその内容は稚拙なものが多かったし今でも稚拙なものが多い
文学関係とかなると他でも膨大なゴミになっている
俳句でも短歌でも詩でもそうした高等なものより世間話が中心だったし今でもそういうことがある。

だから都築氏はそういうレベルとはまるで違っていたから驚いたのである。
でも都築氏はネットがどういうメデアなのかわからなかった
だから延々と独断でネットにプログに書き続けたのである。
第一とても彼の評論に答えられる人はいなかったと思う
空手関係では武の世界ではスポーツ関係ではいたが文学とかなるといない
そして自分は今こうして答えている,レスを残した文につけている
こういうことが本当はネットの醍醐味だったのである。
それができずに都築氏は死んだのである。
彼は何かそういうレスポンスするメデアの特徴を無視して独断で書き続けたのである。
それは自分もそうだがやはり高等になるとレスするにしてもできない
自分はだから短歌とか俳句とか詩で答える
そこに対話が成り立っているのだ

常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏 (常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏 (常照寺(光厳天皇),鞍馬山(義経),大原の幽居)


常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏

(常照寺(光厳天皇),鞍馬山(義経),大原の幽居)


「心の青雲」の著者が求めるものは何なのか (鞍馬山に上り義経と一体化する)

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遠きかな都を離れわびずまい庭の桜に夕日さしあわれ

戦乱を逃れて住みぬ山の寺花そここに散りしあわれも

天皇の悔いてここにそ死ににけりその跡あわれ夕桜かな

(大原)

大原の闇の深きに花そ散るここに逃れてはかなき夢かな

都より遠く離れて春の星きらめき清し流れひびきぬ


志高くもありて果てにけれ正しく清く秋の星光る



なぜあれほど都築氏は光厳天皇にひかれたのか?
南北朝の争いでは北朝に義があるとしていた
後醍醐天皇を批判していた,ただ南北朝は本当にわかりにくい。
ここで考察するのはそのことではない

京都の地理的位置なのである。自分は大原には行っているけど鞍馬山とか常照寺には行っていないけど大原に行った経験からすると京都の街からずいぶん遠かったなという記憶がある。京都でも街を離れて山の方に入ると奥深い,バスで二時間くらいかかったような気がする,それだけ離れているということである。

地理的感覚は何度も言っているが実際にその場に行かないと身につかない,遠いという感覚でも一回でもその場を踏めばわかる,自分は全国を隈なく旅しているからでは常照寺がどういう場所なのか?大原を想像してわかるとなる
常照寺はやはり大原のように京都の街から相当に離れた山奥である
そこに光厳天皇が隠棲した
ただ自分が行ったのは30年前とかそれより前であり記憶がおぼろになる
ただ一回行ったということで地理感覚が残っているのだ。
京都にはもうそれだけの間行っていないのである。
ただ歴史はやはり地理でありその場を踏むことで実感することがある
それで実際に都築氏は鞍馬山と常照寺に行って光厳天皇と義経を語ったのである。

京都の魅力は様々な歴史的なことがありそれが魅力になるがいろいろありすぎてわかりにくいのである。京都から離れたそうした山奥も歴史的人物が関係している
そういうことは地方ではあまりない,そういう歴史的人物を彼は語ることができる人物だった,自らもその時義経やアレキサンダーとか一体化していたのである。
もともと体力的に弱かったからその憧れが強かったともなる

まず京都を知ることは容易ではない,これだけもう京都に行っていないのだからイメージもできなくなる,最近は外人が多いから行きたくないこともある
自分が行ったときも修学旅行生が騒いで情緒を壊された,今はもっとひどい,日本は貧乏になり観光でもうけるというとき一方で必ずマイナスの面もでてくる
京都は古都らしくしんみりと歴史の場などを散策したいとかある
そういうこともうかなわない,だから自分は人のいない阿武隈高原の道を自転車で行った方がいいとなる

いづれにしろ京都にはいろいろな古跡がある,その魅力は歴史で作られたものであり
他では作れないのである。まさに千年の都だからである。
ただ光厳天皇に都築氏があれほど注目していた,そして昭和天皇のふがいなさ,節制のなさを辛辣に批判していたのである。
そういうふうな見方もあるのか教えられたのである。
やはり人間はそれぞれが独自の見方をするとき教えられる,刺激を受ける
何かパターン化した見方では真実は見えない
天皇が被災地にきてありがたいなとかテレビに写されてみる,でも帰ったら贅沢な暮らしにもどるだけだと批判していた
一方で光厳天皇は乞食までして己をふりかえり反省していたとほめていたのである。
ともかくいろいろな分野に独自の見解をもっていたのである。

それにしても介護で十年間ほとんど旅行をしていない,でも一回でも行ったところは記憶に残っているからこうしてふりかえりイメージできるのである。
問題はいかに旅の場合に五感で感じて記憶に残すかが大事になる
ただ大原は何かバスで行って遠いなというのが実感としてあった
やはりそうした実感が記憶として残される,ただあいまいでぼんやりな記憶になっているのである。
インターネットの便利なのはインターネット上で旅をたどることができることである。
常照寺の写真もでていてイメージできた,質素な寺だったのである。
なるほど光厳天皇にふさわしい寺だとインターネットからイメージできる
ただ地理的感覚は一回その場を踏むのと踏まないのでは相当に違う
大原に二時間くらいバスで行った記憶が残っているから常照寺もそういう奥深い場所だなとイメージしたのである。
でも本当に実感したいならそこまで行く必要があるのだ。
何かもう最近そうして旅する気がしないのである。