2017年09月25日

なぜ人は利を越えられないのか? (人間は何も変わっていない-犠牲が強いられるから)


なぜ人は利を越えられないのか?

(人間は何も変わっていない-犠牲が強いられるから)


この世の中すべて利の活動であり利を求めて日々仕事している,会社でも利を求めて共同している,人間の関係も利なしではありえない,金が第一だというときもそうである。
人間の関係は金だとなる,それが資本主義社会になり極端になったのである。
そもそも資本主義が利他的行動として宗教に由来してはじまった
勤勉に働き他者のためになるためになるとして生まれたというとき今ではそんなことをイメージすらできない,利を求めて弱肉強食の世界になっている
だから利のためには相手のことなどかまわないのである。
自分が苦しんでいたときもそんなことより相手から金をとる借金するチャンスだとなる
その人たちもまた金で追い詰められていたからである。
金で追い詰められていた人は例えばわずかの金で人を殺すのである。
明日食べるものがないとしたら殺すこともするのが人間である。
それは追い詰められているからそうなる
それが人間社会だとなる
だから結局人間社会は金の切れ目が縁の切れ目となる,こいつとつきあって何になるんだなんの得もない,金にならないとしたら付き合いも切れる
それが資本主義社会では極端化したのである。

座頭市でも親分が訳ありで役所からおたずねものになる,子分が一人ついてきたが賞金かせぎにねらわれるとか疲れ果ててしまった,それで親分を殺すことを一宿一飯の他の親分と相談して殺すことにした,そうすると役所からもほめられるし賞金ももらえるとか得になるからである。
ではなぜそうなったかというとその子分は逃避行に疲れ果てていた,そういう生活が嫌になったのである。
そういう生活に耐えるには相当な動機がないとできないともなる
その親分が義賊みたいなところがあり貧民を助けたということがあったとか言っていた
するとそういう親分のために尽くしたいとなるとかある
でもそこまで尽くすとなるとやはり相当な動機がないとできない
介護でも苦しいとなると肉親でも殺すことが普通に起きてくる
自分の場合は一番良くされたということで動機があり介護していたのである。

人間はともかく生きることは利の追及である。利しかないともなる
利とはそれぞれのエゴから発する,エゴというとき人間の欲望は限りなくある
男女の関係でも利がからんでくるし欲望がからんでいるから利と離れられない
家族関係にも利がからんでくるし夫婦でも利がからんでくる
だから遺産相続となると骨肉の争いになる
人間が利を求めるのは恐ろしいことになる
動物でも腹が減れば他の動物を襲い食べる,それと同じことが人間もしているのである。ただそれが他の動物を殺して食べるということではなく何か人間の場合はあからさまに残酷ではないように隠されているだけである。

利を越えるというとき例えば親分-子分というの関係はなくなる,同じ目的をもち思想をもつ同士となる,そういうことはカルト宗教団体とか共産主義団体とかでも同士となり
表向きは利を越えた団体のように装う,では内実はどうか?
創価で共産党でも他の様々な右翼団体でもなんでも利がかかわる,革命というのでも利がかかっている,もっと俺たちにも富を分けろとか地位をよこせとかが目的となる
そのために毎日祈っているのだからまさにご利益を求めることしかなくなっている
共産党でも幹部は贅沢して豪邸に住んでいるとかなるし何かそういう美名のもとに贅沢している人も相当いる,アグネスとか世界の貧民に援助をと言っているが実際は豪邸に住んでいるのである。寄付金で自分は贅沢な生活をしているとか普通にある

明治維新でも一体何を求めて行動したのかを見るとわかりやすくなるかもしれない,下級武士とかなると今の低い地位から脱して上に上りたいとか何かそうした利を求めた野心がある人もかなりいた,下賤の身から成り上がった人達はそういう人達であったともなる
今そういうことが指摘されるのは革命といってもいろいろな人間の欲望が渦巻き複雑になっていたからである。ただ人間は美名を装うのである。
戦争でもそれは様々な欲望が渦巻いていたかもしれない,戦争でもうけた人もいるし地位を得た人もいるしその当時軍人は一番威張っていたというのも真実である。
一方で戦争というのは生きるか死ぬかであり死ぬことを強いられる
死ぬことを強いられるということは犠牲を強いられることなのである。
それは利を越えないとできない,日本のためにと最後に死んだ特攻隊などはそうである。これから生きる命を日本のために犠牲にされたのである。
それは日本を守るためという大きな使命をになっていて死んだのである。
戦争は死ぬから利を越えたものを要求されるのである。
戦争で日本の悠久の大義とかいうのもそのためである。
義があり義のために死ぬというとき利を越えたものとして義があるとなる

宗教というときキリスト教でも仏教でもやはりいかにしてこの人間の利から離れるか克服するかということが課題だったのである。
その利を越えるには離れるために出家するというのもそのためである。
恋愛であれ家族であれ否定するのはそれが利であり人間の欲望から結ばれるからである。家族もエゴなのである。なぜなら自分の家族意外は人間は虫けらのようにも考える
自分達の家族さえよければあとは関係ない,金だけとれば他人は関係ないともなる
それで肉の家族は否定されたのである。

宗教はエゴ,自我とか欲望の否定で共通しているのである。なぜそうなるかというと俗世間では利しか求めることがないからである。利のために相手も殺すとかしかないからである。そういう弱肉強食の世界に生きているからである。
利を越えるためにはそういう自我の欲望を否定しないとできない
現実にカルト宗教団体でも左翼の団体でもそうした自我の欲望など否定していない
革命でも自分たちの自我,欲望が満たされない不満から起きているからだ
だから組織団体とか多数の団体は宗教を装っても中味は普通の利を求めて活動しているものと同じなのである。ただ宗教とか思想とか主義とかで装うのが人間なのである。

要するに人間は犠牲になることが一番本能的にむずかしいのである。
人間はそもそも生物は自己保存を求める,それは本能であり否定できない,
長生きするなとか言っても無駄である。人間は生物だから自己保存をもつ,すると死にたくないとなる,お前ら老人は若い者のために早く死ねといってもできない
それは自己保存が本能的にあるから死にたくないからそうなる
だから宗教はそうした本能の否定からはじまった
自我とかエゴとか欲望がある限り利他的行動は無理だとなりそうなったのである。
人間はだから犠牲になることは一番むずかしい
それは利を自我を越えるものだからむずかしいのである。
その利を自我を越えるものがないと本当は利他的行動はできない
するとしても装った偽善になっている
宗教団体などがなぜ全く利他的行動にならないのか?それは個々人がやはり自我や欲望から逃れられないからである。
ただ集団化組織化して自分たちのエゴを利を実現するためにそうしているのである。
そこでは絶対に犠牲になるようなことはしないのである。

人間は利を越えるのがむずかしいというとき自我が自己保存が自らの利から離れることができないからである。愛もむずかしいのはそもそも自我や欲望から離れられない限り否定しない限り本質的にはありえないからである。
愛にしても恋愛もあり夫婦愛もあり家族愛もあり実際はいろいろある,ただ本当に利他的愛があるとしたらまず自らの欲望とかを否定しないとできない
それが人間には本能があり自己保存を求めるし欲望があるのだからできないのである。
要するに人間の本能がどれだけ強いかとなると老人になったからといって人間は枯れる訳でもない,ますます欲望が強くなるということもある:残り火でも最後に燃え上がる
人間の本能的欲望は死ぬまで消えることがないとまでなる
人間はそれだけではない,様々な欲望がありそのために人間社会は本質的には何千年前と何ら変わりないともなる,いろいろな面で変わったとしても人間の本質は変わらない
だから「金の切れ目が縁の切れ目」とか庶民が残した諺が今も生きていることでもわかるそれはどんなに社会が変わっても人間の本質は本能は変わったりしないからである。